いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。

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シンガポールとタイの御礼参りを終え、マレーシアのクアラルンプールに到着をした。出会う方々がみなさま優しい方々ばかり過ぎて、まるで自分は(サムシングビッグ的なサムシングに)祝福をされているのではないだろうかと勘違いをしそうになる。しかし、経験則的に「調子に乗ったら即死する」ということはなんとなくわかってきたので、調子に乗ってしまわないように、冷静に、呼吸はゆっくりと、丹田に力を込めつつ、話すこと以上に「訊く」ことに意識を置いていけたらと思う。真の自由とは、自分の好きなことができるとか自分の好きな場所に行けるとか自分の好きなひとに会えるとかいうことではなく、どちらかというと「自分が消えている【自我が消えている】」トランスペアレントな状態を指すのだと思う。

 

 

昨夜、マレーシアの宿で音声配信を行なった。最近のテーマは「家族」で、日本国内や日本国外で出会う方々と「家族とはなんぞ?」みたいな話を重ねている。表面的には仲良さそうに見える家庭でも、その内実は意外とグチャグチャしていて「え、あんなに優しそうなお父さんが家では暴力を!?」みたいな話を耳にする機会は頻繁にある。家族とは最小単位の『社会』でありながら、同時に『異様なほどに密室である』空間でもある。平気でパワハラが行われているし、誤解を恐れずに言えば「親の悲しみをこどもが引き継いでいる」空間でもある。多分、これから家族という概念は古いものになるだろう、音楽のプレイリストをつくるみたいに家族も目には見えない流動的なものに変わるだろう、みたいなことを話した。

 

【音声配信】Recoded Radio ごちゃまぜ家族計画 - いばや #374924691 - TwitCasting

 

男の役割は女の本音を翻訳すること。女性の役割は「男性を転がす」こと。

過去記事で「父親の不在と女の沼」にまつわる内容を書いた。こんなことを書くとジェンダー界隈のひとに怒らちゃうかもしれないけれど、男性には男性の特性が、女性には女性の特性があると思う。わたし的には「父親の役割は導くこと【ビシッと芯を通すこと】であり、母親の役割は慈しむこと【受け入れて許すこと】にある」ように思う(ことがある)。わたしは男性だから女性の気持ちは想像をすることしかできないけれど、感覚的に「男性は考える生き物で、女性は感じる生き物」だと思う。多分、男性は100考えるけれど10程度しか感じていない。女性は100感じているけれど10程度しか考えていない。 女性陣が「きゃー!なにこれ!かわいい!」などと盛り上がっている場面でも、正直に言えば男性陣は「なんのこっちゃ」と思っている場面は多い。しかし、なぜこれがかわいいとされているのかを論理的に説明されると、男性陣にも「ほほー!なるほど!」みたいな感じで感覚は共有をされていく。

 

わたしは「男性の役割は女性の本音を翻訳すること」にあると思う。別に綺麗事を言いたい訳ではなく、女性の方が感覚的に豊かな世界を生きているように思うことが多い(生活にかわいさを取り入れることがうまい!)ので、それを翻訳することに成功すれば「男性も、女性と同じように感覚的に豊かな世界を生きることができる」ような気がしている。うまく説明をできる自信はまったくないけれど、いまの世界は「明らかに男性によってつくられている」ように感じる(ことがある)。乗り物や道路を作ったのは男性で(だから女性は地図に弱い)、巨大なビルディングを建てたがるのも男性で、法律をつくったのも多分男性で、戦争をしたがるのも多分男性だと思う。男性脳が行き過ぎると「暴力的でなんだか殺伐とした世の中になる」気がする。いま、必要なのは「女性の感覚をうまいこと翻訳をして、それを世界に織り交ぜていく」感性なのではないだろうか、なんてことを思ったり(思わなかったり)する。

 

女性の社会進出、みたいな言葉を耳にすると「それってほんとうに必要か?」などと疑問に思うことがある。バリバリのキャリアウーマンは格好良い!的な風潮もあるけれど、なんだか、これは女性が社会に進出をしているというよりも「男性の土俵で戦う女性が増えている」だけなんじゃないかしら、なんて思うことがある。女性は女性の土俵で戦えばいいのだと思う(戦う、という表現もどうかとは思う)。女性が男性の土俵にあがってしまうと、極論、ゴリラみたいになっちゃうのではないだろうか。誤解を恐れずに書き連ねると、女性の役割は「男性をいかに転がすか」にあると思う。自分でなにもかもやろうとしてしまう(いろいろなものを背負ってしまう)と、肉体的・精神的な部分が枯渇をしてしまい、結果的にゴリラ【男】みたいになってしまうのではないだろうか(などと余計なお世話を働かせちゃうことがある)。

 

【過去記事】生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。 - いばや通信

 

最強の武器は「死ぬ覚悟」である。

二ヶ月前、大阪の天王寺周辺でお会いした女性R様から一通のメールが届いた。その内容があまりにも素晴らしすぎたために、下記でご紹介をさせていただきます。R様は四人の子供をひとりで育てていらっしゃるシングルマザーの方で、昔から、父親との仲があまりうまくいっていないのだと話してくれた。わたしは、話を聞きながら「面と向かって話をすると感情的になりやすいから、たとえば、たとえばの話ですけれども『手紙を書いてみる』なんてどうでしょう??」的な提言をした。言いたいことを言わないでいると、最悪の場合は病気になる。ここはひとつ、勇気を出して「なんらかのかたちで自分の気持ちを相手にぶつけてみる」なんてことはいかがなものでしょうか、的なことを思いながら提言をした。

 

圭吾さんお久しぶりです。


今はクアラルンプールですか?


圭吾さんとお話させて頂いてから2カ月が過ぎようとしています。


以前、天王寺でお昼を食べながら父親との確執を話させて頂きました。圭吾さんから「手紙を書いたらどうですか?」と言われ…


2カ月かかり昨日書き上げ、今日渡し、話をしました❗


圭吾さんから「お互い愛し合っているのに」と言われ…


大阪弁で「お父さんが私の事を愛してる?私がお父さんを愛してる?ほんまかいな」と思いながら…

 

私は罵倒される事覚悟で勘当するならしろ❗私は私として生きていく、そうでなけれは死ぬ覚悟で対決だと思っていました。


しかし、父から出た言葉は…


「お前の気持ちは分かった。生きててくれてよかった。一人で4人の子供を育てているお前をずっと不憫に思っていた。男を見る眼の無いおまえだ。しかし、子供を育ててくれているから□□家の跡取りも出来た(実家は私と妹との姉妹なのです。)お前には感謝している。


でも、お前が私の存在をプレッシャーに感じ、私を恐れ言いたい事を言えずに生きてきたのは私が間違っていたんだろう。私はお前たち家族の成長が楽しみの一つ。


〇〇、苦しみは皆で分けあったら何分の一になる。喜びは何十倍、何百倍にもなる。そうやって生きていこう」

 

まだまだ言葉はありましたが、一部です。

 

私は、拍子抜けしてしまいました。45年間ずっと心にあった重りは何だったのだろう。私は全く父を理解していなかった。


この人は受け止めれる人なのだ。まだ父が帰り1時間程しかたっていません。話をしている間、私は泣き続けていました。何の涙なのか…


これから、じっくり自分と向き合い父の言葉を書き留めようと思います。

 

圭吾さんが、きっかけをくれました。お互い不器用な親子ですから、これからも衝突はあるでしょう。でもちょっとずつでも本音を言える私になれそうな気がします。

 

圭吾さん、貴方は風です。


私と父の間をサァ~と吹いて、漆黒だった親子の色を水色にしてくれました。あとは私が緑かピンクにしてみます。

 

圭吾さん、私は私でよかったんです❗

 

長々とすいません。


お礼が言いたかっただけなんです。


ありがとうございました❗

 

また会いたいです❗

 

素晴らしい文章だと思った。なかでも「私は罵倒される事覚悟で勘当するならしろ❗私は私として生きていく、そうでなけれは死ぬ覚悟で対決だと思っていました」 の部分を読んで、ああ、最高だなあと思った。生きるためではなく、死を厭わない覚悟【裸でぶつかっていく】ということは、多分、最強の武器になるのだと思う。武器があるから強いのではなく、自分のまま、裸のままでぶつかってくる人間にだけ宿る気迫がある。そして、裸の人間を前にした時、武器を持っている自分がダサい【卑怯な】人間に思えてくる。こちらも裸になる(裸にならざるを得なくなる)。自分の外側に張り付いているものをすべて取り払った後に、残るものは「生身の人間」その部分だけになる。フェアな状態で生身の人間がぶつかり合う時、必ず、何かしらの手応えが発生する(ものだとわたしは思う)。その摩擦熱が、冷え切った両者の関係性に温もりを与える(ことがある)。素晴らしい体験を共有していただけたことに、改めて、この場を借りて感謝をさせていただきます(R様、ほんとうにありがとうございます!!)。

 

真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。

様々な方々と話す機会を通じて「真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ」ということを思った。多分、日本人は優しいひとが多いのだと思う。自分が我慢をすることでその場が丸く収まるのであれば、自分が我慢をすればいいのだと何かを耐えてやり過ごしてしまうひとは結構多い(ような気がする)。しかし、その優しさは「ほんとうの優しさ」と言えるだろうか。誰かの犠牲の上に成り立っている平和を、果たして、真の意味で平和と言うことはできるのだろうか。あなたの優しさは、誤解を恐れずに言えば、他の誰でもない「あなた自身を傷つけている」とは言えないだろうか。真の平和を望むなら、まず、偽りの平和を終えることではないのだろうか。

 

 

『戦う』という言葉には暴力的で野蛮的な響きがあるために、どうしたって避けられがちになる(ことは多い)。しかし、わたし自身、最近になって「戦うことは悪いことではない」のだと感じるようになった。その戦いとは、戦争的なものを指すのではなく「偽りの平和【ありがちな予定調和】に対して『こんなものは嘘っぱちだ!』と声高らかに叫ぶこと、理解者はいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでもなお『自分にとっての平和はこれである!』と叫び続けること、誰かの犠牲の上に成り立つ予定調和的な平和ではなく、犠牲になるものを極力減らしてしていくための営み、それこそが『真の意味での戦い』なのではないだろうか」と思うようになった。

 

 

自分が我慢をすればするほどに、広い意味での世界平和は遠く離れていく(のだと思う)。自分が我慢をすればそれで済む話だ、的なロジックは21世紀以降は終わりにした方がいい(のだと思う)。世界平和の中に、自分の平和が含まれていないのであれば、そこにはなんの意味もなんの価値もない(のだと思う)。だからこそ、まずは「自分の平和を実現すること【自分の中にある戦争を終わらせること】」であり、そのために必要な一時的なバトル(上記でご紹介をしたR様と父親のやりとり的なバトル)は、避けては通れないものだとわたしは思う。バトルをする前の瞬間は怖い。もしかしたらいろいろダメになってしまうのかもしれないという感情も湧く。しかし、R様が無事に父親との確執に風穴をあけることができたように、そのことによって「人生全般の風通しが良くなりまくる」こともあるのだと思う。真の平和を望むなら、偽りの平和を終えることだ。それは、ほかの誰でもない『自分の中にある戦争を終わらせること』なのだとわたしは思う。

 

 

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真夜中の肉骨茶。。。

 

人生は続く。

 

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