いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

家族は音楽になる。プレイリストを作るように家族を作ろう!

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家族とは『人類』である。昨日、家族をテーマ(?)に開催されたトークイベントに登壇した後に、そんなことを思った。わたしは『いばや』という流動的な団体を主宰している。いばやのコンセプトは20個くらいあって、その内のひとつに「2個先の未来から逆算をして考える!」というものがある。多分、未来への行き方は2通りある。ひとつは「現在の延長として未来を考える」という行き方。ひとつは「未来の未来【2個先の未来】から逆算をして未来【1個先の未来】を考える」という行き方。いばやは、後者の考え方を採用する。その理由は「現在の延長として未来を考えると、現在の常識が邪魔をするから【引き戻す力が働くから】」になる。キーワードは「2個先の未来」であり、何百年も先の世界では「いまの常識とはまったく違う前提の上で世の中は成り立っている」であろうし、その中で『家族』というスタイルも随分と違ったものになっていると想像する。

 

 

昨日のトークイベントで、家族というものは「音楽のように変化をする」という話をした。これまで、音楽を楽しむためにはレコードを購買する必要があった。それがCDとなり、MDとなり、MP3となり、いまでは「好きな音楽を聴くためにアルバム【目に見えるもの】を買う必要はなく、一曲単位のデータ【目に見えないもの】で購買をできるようになっ」ている。多分、いま、アルバムを購買するひとは極端に少ない。数十曲をまとめて購買するよりも「アルバムの中にある好きな曲を一曲単位で、自分のプレイリストに加えて行く」ことの方が主流だと思う。多分、家族というものも、これから似たような変化をする。その点について、拙いながら、現時点で思うことを今回の記事でまとめてみたいと思う。

 

家族は音楽になる【プレイリストを作るように家族を作ろう】

結論から言うと「プレイリストを作るように家族を作ろう!」ということを思う。いま、多くの人が自分のスマホなりウォークマンの中に「自分なりのお気に入りのプレイリスト」を持っていると思う。こんな気分の時はこの音楽を、こんな気分の時はこの音楽を、みたいな感じで「その時々の気分に合わせて、流れるものも変わっていく」ものが音楽だと思う。家族も、きっとこのような変化をするだろう。現在の常識では、家族とはひどく固定をされたものになる。血の繋がりがあるとか、法律で定められているとか、そういう「固い縛り」の中で結成されているユニットが家族になる。しかし、これからの時代の中で「家族はゆるやかに溶け出していく」と想像をする。それはレコードやCDなどの目に見える形で存在をしていた音楽が、やがてMP3という目には見えないものに変化をして、アルバムという枠の中を飛び出して「それを聴くひとのプレイリストの中に、それぞれの形で、流動的に加えられていくもの」になった。

 

これから、家族は音楽になると思う。その時々の気分に合わせて、こんな気分の時はこの家族を、こんな気分の時はこの家族を、みたいな感じで「ひとりが複数個のプレイリスト【家族】を持つ」ことが当たり前の世の中になると思う。いままで、家族と言えば(音楽で言えばアルバムのように)ひとつの固定的なまとまりとして語られることが多かった。しかし、これからは『個』が強く浮き出る【これまでにあった境界線のようなものが溶け出していく】時代になる。ひとりがひとつの音楽になり、その音楽が加えられているプレイリストが『家族』というものになる。そのため、ひとつの曲が様々なプレイリストに加えられていくというのは当然の現象となり、結果として「誰もが複数個の家族を持つ」流れになるだろう【この『ひとりがひとつの音楽になる』という考え方は、なんだか素敵な考え方に思えて、個人的に気に入っている】。

 

いばやでは「数百年の後の未来では、家族という概念そのものがなくなっている」のではないだろうかと想像をする。そう遠くない未来のひとが、いまの時代のひとを見たときに「(現代のひとびとが蓄音機を見て驚くように)まだ家族なんてやってたんだ!」とビックリをするような時代が来る。当たり前の話になるけれど、レコードが主流だった時代に「これから音楽はすべてMP3というデータになります」という話をしても、一笑に付されて終わるだけだと思う。多分、いま、家族と呼ばれているものは「(音楽で言えば)レコードのようなもの」なのだと思う。レコードを悪いとは言わない。古き良きものとして、楽しみたいひとは永遠に楽しみ続けるものだと思う。しかし、これから『新しい在り方』が台頭をして来るものだと思うし、わたしの関心は「未来の家族とは何か?」というものに向かっている。

 

【過去記事】実際問題、最大のタブーとは『家族』である。 - いばや通信

 

いや、全然大丈夫だから!感【あら、全然大丈夫だった!感】

世の中の常識が大きく変わる瞬間、それをひとは「転換期【パラダイムシフト】」と呼ぶ。振り返って見た時に、ああ、あの瞬間に歴史は大きく動いたのだなと思える瞬間の中には、言葉にできないある種のダイナミズムを覚える。わたしは、今回の『ごちゃまぜの家』を何かしらの記録に残したいと思っている。その理由は20個くらいあるのだけれど、時代が大きく変わる時、その瞬間のひとびとのリアルな意識や感情を残しておけば、数年後の未来のひとびとがそれを見た時に「昔のひとはこんな考え方をしていたのか!」という感動を覚えるのではないだろうかと思うからだ。大袈裟な話になるけれど、天動説が常識とされていた時代では「どこまでも船を漕ぎ続けていると地球から落ちてしまう!」と本気で怯えていたひとびとが大量にいた(のだと思う)。天動説を前提に生きるひとびとの『世界の見え方』は、端的に、いまの時代を生きる私たちから見ると「(古臭い考え方だと一蹴することもできるけれど)非常にクリエイティブで斬新!」であるとも言える。

 

世界の見え方が変わる瞬間、世界の見え方が増える瞬間のなかには『自由』がある。未来の人から見たら、多分、現在のわたしたちの考え方も「そんな考え方をしていたんだ!」と驚いてもらえることが大量にあるのだろうと思う。多分、家族関係における悩みも同じことだ。いまのわたしたちから見ると、船を漕ぎ続けていると地球から落ちちゃうと本気で怯えるひとに対して「地球はまるいから大丈夫だよ!安心して!落ちることは絶対にないから不安になる必要はまったくないよ!」と100%の自信を持って伝えることができる。同じように、未来のひとびとから見ると、家族関係などで悩むひとびとに対して「家族は好きなだけ作ることができるから大丈夫だよ!安心して!ひとつがダメだからって全部がダメになることなんてないよ!」みたいな感じに思われるのかもしれない。

 

何が言いたいのかというと、いまを生きるひとりひとりが抱えている悩みと呼ばれているものも「未来から見るとまじでどうでもいい話」になるのかもしれないということです。現代社会において、船を漕ぎ続けると地球から落ちちゃうという悩みに対して、わたしたちは「いや、全然大丈夫だから!」と思うことができる。そして、実際に船を漕ぎ続けて無事を確認したそのひと自身も「あら、全然大丈夫だった!」と思うことになる。わたしは、この「いや、全然大丈夫だから!【あら、全然大丈夫だった!】」という感覚が大好きで、これまで常識とされていたものがゆっくりと溶け出していくその様に、ある種の『自由』を見る。ごちゃまぜの家の活動を通じて「家族を溶かしたい」などと思っているわたしの本音は、多分、そこにあるのだと思う。わたしは「自由を感じたくて」この活動をはじめているのだと思う(ように最近は思うようになっている)。

 

『ウルトラライトハイキング』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、土屋智哉著作『ウルトラライトハイキング』です。前から気になっておりましたこちらの本、昨日、ふらふらぁっと立ち寄った御徒町駅前のアウトドアショップに置かれていたのを見て「いまだ!」と思って即買いしました。これからの時代「軽やかさ」はある種のキーワードになるような気がしていて、わたしも「何かあった時のために…」と身軽に生きるすべを身につけていきたいなあと常々思っている次第でございます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

1泊2日5キロ以下!ローカットシューズでOK!マットは切って活用!アメリカのハイキングカルチャーのなかで生まれた「ウルトラライトハイキング」は、軽さを味方につける革新的なハイキング技術のみならず、なにが必要でなにが不必要かを考え実践する、シンプルライフの思想そのものでもあった。2011年に刊行された日本初のウルトラライトハイキング解説書、待望の文庫化。

 

土屋智哉『ウルトラライトハイキング』【ヤマケイ文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

家族とは『人類』である。

前回の記事で「実はお金がやばいです!」という投稿をしたら、なんということでしょう!即座にお振込をいただいた女神様や、イベント会場まで自転車をかっ飛ばして手渡しに来てくださった女神様まで現れてくださり、わたしは感動に打ち震えていました(こころの底からありがとうございます!!)。もちろんみなさま初対面の方々で、なかには生活保護を受けながら小さなこどもを育てていらっしゃるシングルマザーの女性【素晴らしい声の潤いの持ち主でした!】から「わたしも、みなさまに生かされている身になりますので」という(まるで言葉にし切れないのですが本当に本当に本当に本当に本当にありがたい)お言葉もいただき、ああ、これはもう全員家族だ。会ったことがあるひとも会ったことがないひとも、自分が「これは家族だ」と思えばそれはもうすでに家族なのだと、そういうことを思いました。

 

クラウドファンディング支援者の方々に、引き続き電話をかけ続ける日々を過ごしている【昨夜は日暮里の漫画喫茶に宿泊をした】。みなさま、これは異常事態なのではないのだろうかと思えるほどに優しい方々ばかりで、わたしは「ほんとうにありがとうございます!!」を連呼する。すると、相手の方も「ありがとうございますはこちらの方です!!」と言う。わたしは「いやいや、それは完全にこちらのセリフですから!!」と言う。そんな感じで『ありがとうございますの謎の応酬』がはじまる。わたしが「がが、がが、がんばります!!」と言うと、相手の方は「がんばらなくていいから、坂爪さんのやりたいようにやってください!!」と言う。わたしは「ガガーン!!なんていいひとたちなのだ…!!」と感動をする。別に綺麗事を言いたい訳ではない。綺麗事を言いたい訳ではないのだけれど、みんないいひとばかりで感動をする(10万円支援者の方も、御返しは不要になりますので他の方に時間を使ってくださいと辞退をされる男性もいらっしゃいました!!なんとーーー!!)。

 

岐阜在住の女性からも、御礼の電話のあとに「直接おはなを渡したいけど渡せないので、実家が梨農家なので梨の花の写真をお送りします!」と、花の画像を送ってくれた(オカメインコの飼い主の方からは、オカメインコの写真を送っていただきました!!)。こういうのが、なんだか、とってもうれしくてこころが温まる。巷には「人類みな兄弟!」という言葉もあるけれど、わたしたちが向かうべき境地は、多分、そこ【人類みな家族!の境地】なんじゃないのかなということを思う。単なる綺麗事としてのスローガンではなく、ひとりひとりの人間の切なる実感として、生きとし生けるものは、みな、自分の家族【家族になり得るもの】なのだという認識は、大袈裟な言葉になるけれど「平和」に貢献をするものだということを思う。ひとりがひとつの音楽になり、ひとつのプレイリストを作るように、いくつもの家族が作られていく。これまで以上に『個』が重要視される時代において、まず、何よりも「(誰かに合わせるのではなく)自分を出す」ということが、とても大切なことになるような気がしている。

 

 

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梨の花。。。

 

人生は続く。

 

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