いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

執着を捨てると、ジュテームが残る。

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わたしの信条のひとつに「1日1F」というものがあり、ここで言うFとは『FEAR(恐怖)』を指す。1日1回は自分のコンフォートゾーンを超えて積極的に自分のこころをざわつかせていきたい(自分が恐れていることをやりたい)と思っているのだけれど、ざわついたらざわついたなりにそれなりのダメージをくらい続ける日々を過ごしている。数日前、女性K様から「わたしは坂爪さんのことが好きで、でも、それは恋愛的な『わたしのものだけになって!』的な好きではなく、坂爪さんと会えたひとは幸せになると思うからどんどんいろんな女性に会って欲しいなって思うし、極論、誰と寝てもいいって思っているんです」的な言葉をいただき、わたしは非常にざわついた。非常にざわついた旨を直接お伝えすると、K様も「わたしも、まさかこんな心境に自分がなるとは思わなかったので感動をしています」と話してくれた。このあたりのことは、まだ、うまく言葉にできないために時間を置いてから(機会があったら!)まとめます。

 

 

わたしの友達M様(女性)には、現在、自分の家がない。いま、M様は友人カップル【どちらも20代】の家に居候をしている。居候をしながら、M様は友人カップルの男性と意気投合をしてなんだかいい感じになった。その後、非常に驚いたことに、いまでは友人カップルの女性側も公認で「三人で付き合っている(?)」という稀有な状態が生まれている。わたしは、この話を聞いた時に「拡張している…(友人カップルの女性側は偉大だな!)」と思った。恋愛も結婚も職業も家族も住居も、これまでは「ひとり【ひとつ】に集中するもの」というスタイルが王道だったけれど、それによって生まれる『窮屈さ』に押し潰されそうになっているひとは大量にいる。わたしはこれからごちゃまぜの家なるものをやろうとしているけれど、ごちゃまぜ(ある種のカオス)という言葉の響きの中に、何かしら『未来の在り方【可能性】』なるものを勝手に感じている。

 

【過去記事】家族は音楽になる。プレイリストを作るように家族を作ろう! - いばや通信

 

南国の島では「こどもを共有」する。 

ニュージーランドの北にあるフィジーという南の島は、過去に世界幸福度調査で一位になったことがある。フィジーの国民性は「とにかくテキトー」で、北欧のように社会福祉が充実している訳でもなければ、ブータンのように国策として幸せを追求する訳でもない。とにもかくにもなんでもかんでも共有をするために、モノやお金に困ることはない(と聞いた)。共有をするものはモノやお金に限らず、自分のこどもでさえも「(こどもができなくて困っている夫婦から)こどもをください」と頼まれた時など、即決であげちゃうということもあるのだと聞いた。日本の常識に照らし合わせて考えると「なんだか非常にざわついてしまう」ようなことを、海の向こう側では日常的にやっているひとたちがいる。そのような現実に触れた時、ああ、人間の可能性ってすごいんだな(なんでもありなんだな)ということを思う。

 

ただそこに揺るぎなく在ること。

前回の記事で「父親の不在と女の沼」にまつわる内容を書いた。それを読んでくれた方から、昨日、一通のメールが届いた。その内容があまりにも素晴らしいと思われたために、長くなりますが引用をさせていただきます。わたしは、なんだか重苦しい表現になるけれど「現代社会は父親が不在である」と感じることがある。肩書き的な意味での父親は各家庭にひとりはいるのだろうけど、真の意味で『父親役を務めている』ひとは、もしかしたら極端に少ないのかもしれないと思うことは多い。そして、父親の役割を父親以外の母親やこどもたちが必死で埋め合わせようとはしてみるものの、どこかしらに無理が生じて「結果的に集合体全体が磨耗をしてしまう」ことは結構多いんじゃないのかなと思うことは多い。

 

坂爪さん、こんにちは!

 

更新されていたブログを読んで沢山思うことがあったので、長くなってしまうかも知れませんが、書かせて頂きたいなぁと思い、メールを送らせて頂きます。

 

今月の12日(金)、岡山市でお話をさせて頂いた、◯◯◯◯です。

 

坂爪さんとお会いした日、沢山泣いて、凄く安心した後に、「今の自分の中で、坂爪さんってどういう人なんだろう?」ということを考えていました。

 

沢山言葉は出てくるのですが、「サッと吹いてサッと去っていく、けど強烈な問いの竜巻みたいな人」、そして「お父さんみたいな人」という言葉が、一番しっくりくるなぁと思いました。

 

私は自分の育った家庭に、ずっと「お父さんが居ない」と思ってきました。
肩書き的なお父さんは居るけれど、いわゆる大黒柱と呼ばれるお父さんは、居ない。
だから、母や兄弟、私が頑張って、柱抜きのこの家を支えなければならない。
父も、自分に果たせない役割を背負って毎日家に居て苦しかったと思うので、父を責めるつもりは微塵もないのですが、私も家に居るのがとっても苦しかったです。

 

今は、兄弟も私も家を出て、両親は数年前から別居をしていて、今、実家で暮らしているのは母だけで、実家に帰っても、父と暮らしていた頃の重苦しさやプレッシャーは無くなって、ある意味ラクにはなりました。

 

でもその代わり、「父親が居なかった、父親が居ない」という寂しさだけは、私の中に強く残っていました。

 

そういう寂しさを抱えていたから、きっと坂爪さんにお会いしたとき、話したくない言葉以外、きっと話されていない、口にしたい言葉、必要な言葉(だと私は感じました)だけをキチンと、ストレートに言葉にしてくれる、ただそこに揺るぎなく在ってくれる、そんな坂爪さんに対する『柱(お父さん)』のような感覚に、心底安心したのだと思います。

 

◯◯さん(その時一緒にお茶をしていた女性)は、泣いている子ども(私)をあやしているお母さんみたいで、「ああ、私は本当に子どもだったし、今本当にMAXで子ども(赤子)なんだなぁ」ということを、坂爪さんと◯◯さんとお茶をしているときは思って、あの場所にただ居ました。

 

心境を言葉にすると

「沢山、沢山、苦しかったけれど、私にお父さんは居るよ、お母さんも居るよ、ちゃんと全部在るよ、大丈夫だよ」

という言葉になるのではないかと思います。

凄く凄く救われました、ありがとうございます。


あと、吉備団子、喜んでもらえたみたいで嬉しいです。


「もしよろしければ津山の支援者の方に」とお話をさせて頂いたとき、「押し付けがましいかなぁ」「迷惑かなぁ」と思っていのですが、お子さんにとても気に入ってもらえたとのことで、本当に嬉しいです。

 

苦しい思いをしながら育った場所が私にとっての津山だったので、私は、津山が嫌いでした。
でも、きっと多分、ずっと許したかった場所でもあったのだと思います。


ブログに引用されていた津山市の支援者の方からのメールを読んで、何だか津山に恩返しができたような気持ちになって、許せた気がして、そして『幸せの置き土産』という支援者の方の言葉に許された気持ちになって、また涙が出てきました。嗚呼、私にも繋ぐことの出来る幸せがあったのか、って思って、安心しました。

 

渡して頂けて、そして津山の方に受け取って頂けて、喜んで頂けて、本当に嬉しいです。ありがとうございます。

 

坂爪さんにお会いしてから、道端に咲いている花や、建っているビルや、道行く人々や、空、今私の周りにあるものをただ眺めているだけで、じんわり嬉しくなって、何故だか泣けてくる日々を過ごしています。


とっても幸せです。


私は、もっと人を、そして自分を大切にしても良いのだ、大丈夫なんだと思えています。

 

頂いたお花も、『◯◯は黄色がよく似合うね、可愛い!』と、黄色の髪留めを使って髪を結ってくれたときの母の言葉と、そのときの嬉しい気持ち、お気に入りだった黄色の髪留めを思い出しながら、毎日愛しくお世話させて頂いています。

 

何度も言いますが、ありがとうございます。

 

菊名のお家も、こうして幸せが繋がっていく、凝り固まっていたものが、どんどん溶けて、溶け合って、まざりあって、新しい色が生まれていく、そんなお家になれば、訪れる人の幸福がどんどん増えるお家になればと、心よりお祈りしています。頑張って下さい!

 

(もしご迷惑でなければ、私で何か出来ることがあれば、お手伝いさせて下さい)

 

とりとめのない長文になってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

坂爪さんに幸福あれ。

 

今日がステキな一日となりますように。

 

いま、改めて読み直して「素晴らしい文章だな!」と感動をした。大黒柱という言葉に、わたしは「ああ、必要なものはこれなのかもしれない」と思った。これまで、家庭の大黒柱になるということは「家の外で必要なお金を稼いで家庭を支えること」を意味していたのだと思う。要するに『経済的な大黒柱』になることを指すのだと思うのだけれど、多分、これから必要になるものは『精神的な大黒柱』なのだと思う。これは、特別な男性が特別的に担うものではなく、ひとりひとりが、ひとりひとりの中に「精神的な大黒柱を築くこと」が大切であるということだと思う。うまく言葉にすることができないけれど、そのためのヒントが「ただそこに揺るぎなく在ること」という言葉に凝縮をされているような気がする。

 

 【過去記事】生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。 - いばや通信

 

『世界でいちばん非常識な幸福論』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、永崎裕麻著作『世界でいちばん非常識な幸福論』です。こちらの本は、昨夜代々木上原でお蕎麦をご一緒させていただいた方から譲り受けた一冊になるのですが、フィジーの話を聞いていたら「フィジーツアーなるものを企画したら、自分ひとり分の渡航費くらいはどうにかなるものなのかなあ」などとふざけたことを考えはじめるようになってしまいました。フィジーに行きたい!!(坂爪圭吾は、6月以降の予定はほぼほぼFREE!です!)。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

ある時、私もフィジー人と出会い、彼らが「世界でもっとも幸せを感じている民族」であることを知りました。そして共に暮らすことで、日本人の私たちからすればあまりにも非常識だけれど、着実に幸せを引き寄せる習慣をフィジー人は持っていることも知りました。

 

1・モノもお金も子どもでさえも「共有」すること

2・「テキトー」に生き「テキトー」を許すこと

3・過去と未来のために生きることをやめて「現在に集中」すること

4・他者との「つながり」に価値を置くこと

 

フィジー人に教えてもらった「幸福の習慣」を彼らに代わってお伝えをしたいと思い、書いたのがこの本です。フィジー人の幸福の習慣は一見すると、非常識なものばかりです。たとえば、財布から勝手にお金を抜かれることがあります。しかし、借金したお金さえ物乞いに渡してしまう親切な一面もあります。多くのお店の店員がマニュアルを守らずテキトーです。その代わり、お客さんもテキトーなのでモンスタークレーマーも存在しません。過去と未来をあまりにも気にしないので同じ失敗ばかり繰り返します。けれども、そのおかげで小さなことにクヨクヨすることがありません。

 

永崎裕麻『世界でいちばん非常識な幸福論』【いろは出版

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

執着を捨てると、ジュテームが残る。 

誤解を恐れずに言うと、愛と呼ばれているものは「自分を使ってそのひとを幸せを願うもの」ならば、執着とは「そのひとを使って自分の幸せを願うもの【要するに自己愛】」なんじゃないのかな、歌謡曲とかメロドラマで語られる愛の9割は「ただの執着【要するに自己愛】」なんじゃないのかな、と思うことがある。いや、愛情のすべては自己愛に過ぎないのだと言ってしまえばそれでおしまいになるのだけれど、乱暴にまとめると「ひとに自由を与えるものが愛ならば、結果的になんだかいろいろ面倒くさいことになるものが執着」だと思う。執着や束縛や依存の度合いでお互いの愛情を測るのは、なんだかとっても不健全だ(それで一番つらくなるのは当事者だ)と思う。

 

冒頭で「(女性K様から)誰と寝てもいい」という言葉をいただいた、という旨の出来事を書いた。わたしは、この言葉に触れた瞬間に「ああ、このひとには敵わないな」というある種の敗北感を覚えた。この敗北感には、説明することの難しい『ひれ伏すことの嬉しさ』がある。うまく言葉にすることはできない。ただ、敗北することは悔しいけれど、完敗することは嬉しいのだ。まるで途方もなく大きな愛に触れたような、そういう気持ちになって逆に『K様は偉大すぎてやばい!』みたいな気持ちになって震えた。なぜに自分は震えたのだろうかと考えてみた時に、多分、K様には「一切の執着がない」からなのだと思った。執着がまるでないひとを目の前にした時、自分の中にある「自分でも意識することのなかった執着や固定観念」が浮き彫りになって、ああ、おれは、ああ、おれは、みたいなことになるのだと思う。

 

自分がやりたいと思うこと、自分のこころが「こっちに行きたい」と思う時、それでも『一般的な常識が邪魔をしてなかなかうまく進めない』と感じることは往々にしてある。ただ、自分のこころが「いろいろあるけどこっちでしょ!」と思うのであれば、ひとと同じであることよりも「自分のハートがいいなと思う方向」に、舵取りをしていきたいとわたしは思う。いまはまだ理解者は少ない道だとしても、数十年後の未来には、ね、やっぱりこっちだったでしょ的な感覚で一緒に笑うことができたなら、それは素晴らしいことだなと思う。少しだけ未来を先取りするということ、そして、数十年後の未来に「ね、やっぱりこっちだったでしょ」とみんなで一緒に笑うこと。理想の未来が訪れることを願うのではなく、未来を先取りして「勝手に早速生き始める」日々を過ごして生きたいと思う(これから東南アジア諸国に向かいますので、現地のみなさまはよろしくお願いいたします!!)。

 

 

https://www.instagram.com/p/BUN3rghjsHN/

完敗だよ。。。

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。

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クラウドファンディング支援者の方におはなを届けるために、これから、羽田空港を経由して大館能代空港秋田県北秋田市】に飛ぶ。早朝便に乗るために、昨日は横浜の漫画喫茶に宿泊をした。てっきり「羽田空港と言えば品川駅!」なんて思い込んでいたけれど、横浜から羽田空港までは、電車でもバスでも30分程度と非常に近いことに今更気付いた。ごちゃまぜの家が菊名横浜市港北区】に実現をしたあかつきには、もう、野宿をする必要もなければ漫画喫茶に宿泊をする必要もない。予定通りに行けば、5月29日(月)から菊名の家の活動(?)ははじまる。部屋の掃除をして、軽く空間を整えて、近隣の方々に挨拶回り(これ大事!これすごい大事!)をした後には、家の鍵などもかけることなく「どなたでもお気軽にお越しください」ということになる。

 

 

と、ここまで書いたところで放置をしてしまい、いまは5月16日。現在は東京の大田区にいる。明日5月17日(水)のお昼過ぎから、東京都国立市で開催されるトークイベントに登壇(?)をする。どうしてもイベント開催は夜の時間帯になることが多く、それでは家庭の主婦の方など来れないじゃないか!ということで、主催者の方が「そのような方々もお越しいただきやすいように」と、素晴らしいご配慮をしてくれた。先日、兵庫県宝塚市でお会いした方から「オープンなひとって胸の窓が開いているイメージがあるのですが、坂爪さんは背中にも窓があって、風吹き抜けまくっている感じですね!」みたいなことを言ってもらえて面白かった。そういえば、昔、あるひとから「ちくわみたいなひとですね」なんて言われた記憶がある。ちくわってどうなんだろう・・・とも思ったけれど、悪気はなかったと思うので「ありがとうございます!!!」と笑顔で応えた。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークライブ!!!

 

最高を求めないと、普通がはいってくる。

自分のiPhoneのメモ帳に「見極めろ、そのひとは最高か?その家は最高か?」と書いてある。わたしは極端な人間なので、何をやるかよりも「誰とやるか」を徹底的に重視したいと思っている。家のない生活を終えて熱海の家で暮らすことになったのも、家が欲しかったからではなく「ムラキさんという人物の人柄が最高だったから」という理由になる。このひとでもいいかなという人付き合いではなく、このひとがいい!と自分から前のめりになって愛して行けるひとを中心に付き合っていきたい。そのためには「最高を求めるマインド」が必要であるような気がしていて、そうでなければ「普通【これでいいや】」的なものに生活全般が侵食をされてしまって、結果的に中途半端な人生で終わってしまうような気がしている。先日、ごちゃまぜの家の支援者の方からメールをいただいた。その内容があまりにも的を得ていると思われたので、ご紹介をさせていただきます。

 

坂爪様


こんにちわ!

 

日々いばや通信拝見しております。

 

改めてクラウドファンディング達成、誠におめでとうございます!

 

最終日クラウドファンディングに投資しようか迷ってましたが、充分に達成している中、自分が投資した所でたかがしれてるし、それなら坂爪さんにお金を渡した方が価値的だよなと思っていたら、口座を公開されたので、本当に些細な金額ですが、お振込させて頂きました。

 

ごちゃまぜの家の成功の可否はやはり坂爪さんが関わっているかどうかがキーになってくると思います。

 

坂爪さんが中心にいる事で集まってくる人の純度に影響があるからかなと思います。


ただフリーの家があるだけでは恐らく駄目で、どういう人が集り、利用するかがきっと大切なのだと私は勝手に思っています。


以前ウーバーの話をされてたと思いますが、常々坂爪さんが言っていた自動車の有効活用の理想系に近いサービスだなと思ってました。


色々と問題も出てきてる様ですが、是非ウーバーについての感想記事も期待してます!


シンガポールは建国以来、本当に何も資源が無い中、未来を担保にしてここまで発展してきた都市だと聞いています。


水さえも他国に頼らなければならない状況の中、未来の可能性にBETし続けて今の繁栄があると聞いて、とてもシンガポールには興味があります。
何も無かったからこそ、どんどん新しい事に寛容な空気がある都市と言うのはきっと活気もあるでしょう!

 

チームラボの常設展もあるので、機会があれば是非ご覧になってこちらも感想を期待してます!

 

長文になりましたが、怪我や事故なく帰国される事を心より願っております!

 

良い旅路と良い週末をお過ごしください!

 

テレビ出演や本の出版や各種メディアの取材を断っている理由も、多分、ここにあるのだと思う。現在の自分のレベルでは、不特定多数のひとに広く知られることのメリットよりもデメリットのことが多いような気がしている。もともと宣伝や広告という行為があまり好きではなく、何かしらの経緯で奇跡的にこのブログを発見してくれたひと、何かしらの経緯で奇跡的に坂爪圭吾という人間の存在を知って「このひとは面白いな」と思ってくれたひととだけ、いまは付き合っていきたいと思う。有名になりたいとか金持ちになりたいとか、そういう欲求を自分の中に感じることはない。あるものと言えば「深いコミュニケーションを達成したい」という欲求程度で、そのためには余計なノイズを取り払う必要がある。そして、常に冷静でいる必要がある(ように感じている)。

 

【ごちゃまぜの家@東南アジアスケジュール】ごちゃまぜの家族に乾杯!@東南アジア【ホーチミン&シンガポール&バンコク&クアラルンプール&ハノイ編】

 

父親の不在」と「女の沼」 

数日前の投稿で「最大のタブーとは『家族』である」という旨の記事を書いた。様々なひとの悩み相談的な話に耳を傾けていると、その根本的な原因みたいなものは「生まれ育った環境」にありそうな気がしたから、そのような記事を書いた。誤解を恐れずに言うと、いま、日本社会に欠落しているものは『父親』だと思う(なんて書き方をすると硬くなるけど、でも書く!)。わたしは女性と会うことが多いためにどうしても女性目線の話題になることが多いのだけれど、乱暴にまとめると「父親の代わりを探している」女性は多いのだと思う。父親に愛されたように(愛されなかった部分を埋めてくれるように)、自分のことを愛してくれる男性を求めているとでも言えばいいのだろうか。また、既婚者の女性からも、旦那さんが家庭で父親役をしっかりと務めてくれないために、母親が父親役まで兼任をしていて結果的にひどく疲れている、みたいな印象を受けることも多い。

 

教育関連や子育て関連のイベントなどに呼ばれても、参加者が圧倒的に女性ばかりで「まじか!」と思う。お父さんはいったいどこで何をやっているのだろうかと思う。何か新しいことをはじめる時、みんなで協力しあって何かを試してみようと思う時、女性ばかりが集まってしまうと「(陰湿な)女の沼」みたいなものが生まれる。こんなことを言うと怒られてしまうかもしれないけれど、女性陣の会話を耳にしていると「たしかにみんなおしゃべりを楽しんでいるようにも見えるけれど、どれだけのひとが『ほんとうに話したいこと』を話せているのだろうかと思うと疑問だ」と感じることは多い。男性的な要素、それは「会話全体【活動全体】にビシっ!と一本の芯を通す」ことにあると思うのだけれど、女性だけの集まりでは、なかなか難しいのかもしれない。男性的な役割を女性が背負いすぎると、ひどすぎる言い方になるけれど「ゴリラみたいな女性になってしまう」と感じることもある。

 

人類全体の末っ子として生きてきたのが20代、そして32歳を迎えたいま、わたしは「人類全体の父親」になりたいと思っている(半分は冗談で、半分は本気といった感じです)。母親の役割が「受け入れて許すこと【慈悲深さ】」にあるならば、では、父親の役割は何になるのだろう。最近のわたしは、超絶乱暴にまとめると「ビシッと言うこと!」にあると思っている。時には説教をすることも厭わない覚悟で、その後のフォローは母親にお委ねをして、嫌われたとしても構わないから渾身の愛をもって説教をぶちかますこと。「お前はそんなもんじゃないだろう!」という思いが根底にあれば、多分、何を言っても大丈夫なのだと思う(ような気がする)。また、完全に余談になるけれど「ごちゃまぜの家があれば、今世は結婚は無理だろうと思っていた自分でさえもこどもを育てることができるじゃないか!(みんなに育ててもらえばいいじゃないか!)」ということを思った。結婚相手は皆無だ(結婚をしたいと思っているのかどうかさえ謎だ)けれど、これからの展開が楽しみだなあ、と思う。

 

【参考イベント】坂爪圭吾さんトークライブ「新しい教育方針?〝10歳成人説〟を語ろう」

 

『人はなんで生きるか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、トルストイ著作『人はなんで生きるか』です。こちらの作品に登場をするミハイルという男性は、物語の中でたったの3回しか笑顔を見せることはありません。しかし、その笑顔がたまらなく最高の笑顔で、わたしは「おれの生き方は間違ってはいないよな」などと誰かに訊いてみたくなった時、ミハイルのことを思い出すことで自分のセンターに戻ることができるような感覚になります。トルストイの作品の中でも、とびきり大好きな物語のひとつです。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、サモア諸島にわたりました ※※※

 

ここに収められた五つの短編はトルストイ(1828-1910)晩年の執筆になるもの。作者はこの時期いちじるしく宗教的・道徳的傾向を深めていた。そして苦悩に満ちた実生活を代価としてあがなあったかけがえのない真実が、幾多の民話となって結晶していったのである。これらの作品には、素朴な人間の善意にたいする確かな信頼が息づいている。

 

トルストイ『人はなんで生きるか』【岩波文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。

引き続きクラウドファンディングのお礼の電話をかけ続けている(もしもまだ「あれ、おれには電話来てないよ!」的な方がいらっしゃいましたらご連絡ください!管理能力が圧倒的に足りていなくてごめんなさい!!!)。電話をすると、電話をしているこちらの方が支援者の方々から元気をいただくことがあまりにも多く、電話をするたびに励まされている。批判の言葉を耳にすることはあっても、応援の言葉を耳にする機会は意外と少ない。改めて「ああ、自分はこのような方々から支援をしていただいているのか」と思える感覚の中には、目に見えるひと【耳に聞こえるひと】の存在がある。昨日の夜、こんなメールをもらった。わたしは「ああ、人間が生きているということは素晴らしいことだなあ」と思った。

 

坂爪さん、初めまして!


◯◯◯◯◯在住の◯◯歳の◯◯です。

 

ブログ、1ヶ月前位から読み始めました。

 

過去の記事も遡り、ようやく読み終わりました。
坂爪さんの気づきや想いに毎日ワクワクしながら読みました。

 

昨日は母の日でしたね。

 

三年前までは、母の日には実家の母にカーネーションを送っていましたが、私の再婚をきっかけに「もうこれからはプレゼント類は何もいらないよ」と言われたので、今年こそは手紙を書こうと思いました。


でも…母の日が迫ってきても、手紙を書く気力がありませんでした。


言いたい事はたくさんあるのに、言葉にまとまらないのです。

 

私には3歳下の妹がいるのですが、私だけ虐待されて育ちました。


ケンカしたら、私だけ腕を捕まれ罵声を浴びせられながら母に何時間も往復ビンタされたり外に裸足で出されたり。


父が転勤族で、2、3年おきに転校していたのもあり、私は家にも学校にも身の置き場が無いと感じて育ちました。

 

坂爪さんのように、荒れて過ごすことは無かったのですが、自分の存在意義が全くわからず自傷行為を繰り返していました。


今年で精神科への通院が10年目になりました。

 

最初の結婚がうまくいかず、2人の子供を連れて離婚。
理解のある男性と出会い、再婚して現在にいたります。
家族仲も順調、子育ても楽しい。
それでも、今でも時々鬼のような母を思い出して辛くなる時がありました。

 

でも、坂爪さんのブログと出会い、「私は私!」と胸を張れるようになりたいと心から思いました。


自分のために、母を許したいと思いました。

 

母の日、思い切って母に電話しました。

 

「今日は母の日だね、私を産んでくれてありがとう。
私は子供たちを産んで育てて本当に良かったと思うんだ。
私は手のかかる子供だったね、お母さん子供育てるの大変だった?」

 

母は涙声で、

「お母さんも◯◯たち産んで良かったと思ってるよ。
みんな元気で何よりだよ」
と答えてくれました。

 

白髪で真っ白な頭。
遠くなってしまった耳。
もう、私が長い間怯えてきた鬼のような母ではありませんでした。

 

生まれて初めて、母に「産んでくれてありがとう」と言えました!

 

坂爪さんのおかげです!

 

もう大丈夫です。

 

私は私に生まれてきて良かったなぁと、じわじわ感じてきています。


「ありがとう」という言葉、本当に素敵ですね!
「ありがとう」の想いも、循環していくんでしょうか。

 

ほんの些細な人の優しさにも、たくさん「ありがとう」と伝えていける人になりたいです。

 

「ありがとう」と相手に伝えられるということは、受け取り上手って事ですよね。

 

長々書いてしまい、すみません。

 

坂爪さんに読んでいただけるだけでも、本当に嬉しいです。

 

どうか、元気でお過ごしください。

 

昨日は秋田県北秋田市在住の支援者の方に(日帰りの飛行機で)おはなを届け、この前の12日金曜日には、岡山県津山市在住の支援者の方におはなを届けた。電話をすることが最高ならば、実際にお会いできることは「最高よりももっと最高!」だと思った。岡山県では支援者の方のご自宅(お母様と息子様の二人暮らし)にお邪魔をさせていただき、手料理をご馳走になったり、息子様と相撲をとったりした。手料理があまりにも美味しく、ああ、おれたちは料理ではなく『作り手の気持ち』を食べているのだなと思った。大切なことは「なにをやるか」ではなく「どのような気持ちを込めたか」なのだと思う。帰り際、息子様から「人生で一番楽しかった」と言われた時にはなんだか泣きそうになってしまった。家の空間も周囲の自然も最高で、ああ、ここは「人の中にある優しい部分」が引き出される素晴らしい場所だなと思った。そのことをお母様にお伝えさせていただいたところ、後日、お母様から返信が届いた。

 

坂爪さん


「人の中にある優しい部分」が出てくるようなそんな雰囲気だと言っていただいて、こころから感動しています!

 

わたし、思うんですけど、人はみんな細胞レベルの頃から優しさや強さを繋ぎ、育み、既に備わって生まれてくるような気がするんです。


自我が芽生えるその時までは、赤ちゃんは自分も人も疑うことなく(完全なる信頼のもと)全身全霊で泣き、笑い、怒り、ありとあらゆるありのままの自分を表現します。転ぶことを怖れて歩むことを止めたりはしません。それは既に優しさや強さを持っていて、尚且つ信じきっているからだと思うんです。


生まれてからの環境や成長の過程で優しさや強さを忘れてしまったり、無かったように勘違いしてしまうだけだと思います。


昨日、坂爪さんと共有させていただいた温か~い空間の中で、「色んな人がいるけれど、みんな、最終的な目的(たどり着きたい場所)は自分が持って生まれた優しさに還りたいだけなんじゃないかな~?」なんて思いました。

 

なので、そんなふうに同じ想いが重なったような気がして、とっても嬉しいです✨

 

ありがとうございます💕

 

追伸。お土産にいただいた廣榮堂さんのきびだんご、◯◯さん(息子様のお名前)は初めて口にしたのですが、どうやら美味しすぎたようです。


一つは母を家来にするために分け与えてくださいました。残りは一人で完食されました✨
幸せの置き土産💕ありがとうございました😊

 

自分を信じるということ。それは「自分の中にある美しい部分の存在を信じること」なのだと思う。自分にはなにもないとか、自分は無価値な人間だとか、自分には生きている意味はなにもないだとか、そんなことはある訳がないのだと思う。生きている限り、誰だって不安になることもあればさみしさを覚えることもある。悩みを抱くこともあれば道を間違えることもある。でも、生き方を間違うことはあったとしても、生まれてきたことに間違いはない。ひとの優しさに触れた時、こころの奥底からじんわりと込み上げてくるうれしさを覚える自分は、確実にいる。世界はもっと信じるに値するものなのだということを、衒うことなく真っ直ぐに思える自分がいる。生きている限り、いいことばかりではないけれど、悪いことばかりでもない。大袈裟な言葉になるけれど、世界全体の、そして人間全体の「捨てたものではない部分」を、しっかりと捉えて生きたいと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BUFldBcjUwW/

あたやけ。。。(熱海の朝焼け)

 

人生は続く。

 

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嫌われないためにはどうすればいいかではなく、潔く、嫌われましょう。

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古着屋でポーターのデイパックが定価の70%オフで売られていたので「これなら買える!」と購買をした。移動中の重量を減らすために断捨離を続けている。最高の断捨離は「小さなカバンを買うこと」だと思ったので、ある種強制断捨離的な感覚で荷物の削減を敢行した。PCやiPadは嵩張るから友達にあげた。代わりにiPhone7plusとBluetoothキーボードを携帯する。財布や小銭入れや革製のカードケースも友達にあげて、マネークリップを使う(ポイントカード類は一切持たない。小銭はポケットにそのまま入れる)。タオル類は手拭いで代用をして、シャンプー類は「宿や銭湯にある時に使う」ことにした(基本は湯シャンでOK!)。圧縮袋に3日分の着替えを詰めて、歯ブラシなどの簡単な洗顔道具と一緒に荷物をまとめたら「海外旅行中だろうが総量2キロ以内にまとめることは可能だ」ということが判明してテンションがあがる。

 

 

家のない生活をしていた頃、一般家庭に宿泊をさせていただく機会が頻繁にあった。ひとのプライベート空間を覗き見る機会は(これまでの人生では)あまりないことだったので、幾つかの新鮮な発見があった。そのひとつが「いい感じのひとの家には花や植物が置かれている場合が多く【空間全体に「愛されている」という雰囲気がある】、停滞している感じのひとの家には造花を含めた大量のプラスチック製品が置かれていることが多い【空間全体に「愛情不足感」を覚える】」ということで、それから、わたしは(贖罪の意味も込めて)おはなを配るようになった。こんなことを書くと嫌な感じのやつだなお前はと思われちゃうかもしれないけれど(でも書く!)、スタイリッシュなひとの家はスタイリッシュな部屋づくりがされている場合が多く、肥満傾向にあるひとの家には大量の荷物が置かれている場合が多い。自分自身、過食により1ヶ月で20キロ程度太ったころの室内環境は劣悪極まりなかったことを思い出した。ダイエットを願う場合、運動や食事制限をするよりも「まずは自分の荷物を減らす」方が効果的なのかもしれない(と思うことがある)。 

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

空間には、主催者の人柄がダイレクトに反映する。

シュタイナー教育をベースとした保育園で働き始めた女性が、先日、実際に働き始めたら理想と現実のギャップに唖然としていますみたいな話をしてくれた。シュタイナー教育がどれだけ素晴らしいものであろうとも、それを実際に運営する当事者のこころが自由でなければ、結局、こうしなければいけないという「正しさ【シュタイナー教育というものの絶対性】」にガチガチに縛られてしまって、空間全体はある種の緊張感を帯びる。緊張感のある場所でこどもがのびのびと育つことができるわけはない(萎縮した状態で本領を発揮することはできない)から、結局、当事者たちの「こころの不自由さ」みたいなものをこどもたちは受け継ぐのだと思う。似た感じの不自然さを、わたしは、マクロビだとかオーガニックだとかいうものにも感じる(ことがある)。どれだけ素晴らしいものであろうとも、それを扱っている当事者が「あまり幸せそうには見えない」場合、その営みを自分の生活に取り入れたいとは思わない。

 

わたしは、幸せそうなひとが言うことの意見には150億%耳を傾けるけれど、あまり幸せそうには見えないひとの意見は完全にスルーをする。と、ここまで書きながら「ああ、俺は最悪のクソガキなのかもしれない」と思った。だって、あなたの意見を取り入れたらあなたみたいになっちゃうってことでしょ!ということを思うのだけれど、多分、自分がやっていることに最高の説得力を持たせるためには「まずは、そのひと自身が幸せそうに生きていること【まずは自分を楽しませること】」だと思う。正しさよりも楽しさであり、そのひと自身が誰よりも目の前にあることを楽しんでいれば、それを見たひとも「なんであなたはそんなに楽しそうなのよ!」みたいな感じで、いつの間にか仲間や理解者が増えているものだと思う。逆に言えば、正しさを主張するひとたちには、どこかしら「いまの世の中のあり方を憎んでいる」印象を覚える。お前は間違っている!正解はこっちだ!だからこっちをやれ!みたいな話を、わたしはあまり好きになることはできない。

 

空間には、主催者の人格【人柄】がダイレクトに反映をする。レストランや喫茶店やイベントなどの催事も同じことで、主催者の人格の程度が、空間全体の自由度や雰囲気を決める。今月には「ごちゃまぜの家」の活動がはじまる。ごちゃまぜの家の居心地の良さは、多分、わたしのこころの自由さに比例をするのだと思う。わたしのこころが自由であれば、多分、そこにいるひとたちも同じように快適な雰囲気の中で寛ぐことができるのだと思う。逆に言えば、わたしが細かいことをあれこれ口出しするようになり、これをしなければいけないだとか、これをしてはいけないだとか、規制や規則を設ければ設けるほどに、空間全体が「退屈なもの」に成り下がる(のだと思う)。わたしの最大の役割は、おしゃれな家具を揃えるとかおしゃれな食器を揃えるとか、そういうことではなく「自分の内面を磨くこと【より器の大きな自分になり、よりハピネスな自分になること】」なのだと思う。

 

最高の教育とは、感化された記憶である。

昨日、大阪で開催されたイベントに参加をしてくれた赤ちゃん連れの女性から連絡が届いた(すごい嬉しかった!)。稀に、子育て中のおかあさんから「どうすれば坂爪さんみたいなこどもになりますか?」と問われることがある。非常にありがたいとは思うのだけれど、でも、そんなことは考えなくてもいいと思う。また、本当は(不登校だとかニートだとか引き篭もり中だとかの)こどもを連れてきたかったのですがイヤがるので今度は息子【娘】に会ってくださいと話すお母さんと出会うこともある。でも、そんなことはやめておけ【自分に集中しろ】と思う。教育関係者の方からも「こどもたちにとって、理想の教育とはどのようなものだと思いますか?」と問われることも多い。でも、正直に言えば「学びたければ勝手に学ぶものだと思うから、教えるとか、学ぶとか、そんなことはどうでもいいんじゃないのかな【まずは自分が幸せそうに生きている背中を見せること】」だと思う。極論、あらゆることに対して「ひとのことはどうでもいいから、まずは自分を救え!【背中で語れ!】」ということを思う。

 

お疲れ様でした!


お花ありがとうございます🌼


トークショーの坂爪さんが新鮮でした。
途中なんだかエネルギー吸われているみたいでしんどそうで胸が痛みました(笑)


なんだか今日ふと思ったんですが、孤独とかの話になった時に『でもわたしには坂爪さんがいるから大丈夫』って思ったんですよね。
坂爪さんっていうフリーな存在がいることによって、わたしの『ひとりぼっち感』が無くなるというか。
まぁ、なんかあったら坂爪さんのとこ行けば大丈夫か。みたいな。


坂爪さんの存在自体がごちゃまぜの家だなと思いました!
うまく言えませんが!

 

〇〇(赤ちゃんの名前)は今日も、いつも通りずっと皆さんに遊んでもらって(笑)、たくちゃんなんてずっと◯◯に構ってくれて。
坂爪さんの居るところが、『ごちゃまぜの家』になるんですよ。
だから子育てに疲れてるママさんは、積極的に坂爪さんのイベントに来て参加者の人に子どもを丸投げしたらいいねん。と思いました。笑

 

また関西にいらした際には是非遊びましょう!

 

最高の教育とは「感化された記憶」だと思う。自分自身のこれまでを振り返った時、わたしを最高に育ててくれたものは「こうなりたい!」と思わせてくれた人々の存在だと思う。わたしという人間は「わたしを感化してくれたもの【自分自身の感動】」によって構成されている。過去の偉人でも世界的な文豪でも歌手でも陶芸家でもお笑い芸人でもスーパーのレジのおばちゃんでもいい、様々なひとと触れ合うなかで「ああ、このひとのこういうところはいいな」と思えたものの結晶体、それがある種の羅針盤になって「こういう人間になりたい!」と思わせてくれる道を示す。わたしは、ただ、羅針盤が示すその道を歩いていきたいと思う。間違っても「本当はそんなことをまったくしたいとは思っていないけれど、そうしなければいけないから」みたいな謎の被害者意識を抱えて生きるような真似だけはしたくない。自分が歩きたいと思う道を、たとえダメになることがあるとしても(要するに「死」!キャー!)、自分のままでどこまで行けるのかを試す的な感覚で進みたいと思う。 

 

【過去記事】誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。 - いばや通信

 

『芸術実行犯』

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、チムポム著作『芸術実行犯』です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、香川県にわたりました ※※※

 

美術館で拝むだけがアートではない。アートは社会のリアルに切り込むために「武器」である。原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ」の文字を描き、事故直後の福島第一原発敷地内に放射能マークの国旗を掲げ、岡本太郎の巨大壁画に原発の絵を付け足す。現代日本のアートシーンで最も物議をかもしてきたアーティスト集団チムポムが自由を新たに塗りかえる。世界のアートの動向と共におくる生き方としての美術入門。「これからのアイデア」をコンパクトに提供するブックシリーズ第3弾。

 

チムポム『芸術実行犯』【朝日出版社】 

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

人間関係とは、どすこい相撲である。

人間関係とは、多分、どすこい相撲のようなものだと思う。場合によっては「傷つくことも厭わない」両者のカラダを張った営みであり、ハートが傷つく瞬間はなかなかしんどいものがあるけれど、衝突を乗り超えた先の世界には(古い関係性が死んで新しい結びつきが開かれた的な)言葉にならない醍醐味がある。最近、悩み相談という類には「傷つかないためにはどうすればいいか?」とか「嫌われないためにはどうすればいいか?」などというものが多いということを発見した。しかし、わたしの信条は「傷つく前に傷つくな」であり、傷つくことを恐れるあまりに自分の言いたいことを言わないでいるとか、何かしらの我慢をしながら常に相手の顔色を伺い続けるということは、その行為によって「すでに自分を傷つけてしまっている【自分の精神を磨耗しまくっている】」のだと思う。 

 

 

嫌われないためにはどうすればいいかではなく、潔く、嫌われてしまいましょう。傷つかないためにどうすればいいかではなく、潔く、傷ついてしまいましょう。死なないためにどうすればいいかではなく、潔く、古い自分を一回殺して【ダサい自分を一回殺して】新しい自分になって生まれ変わってしまいましょう。悩み相談などを聞いていると、そういうことを思う。嫌われたのなら、嫌われてしまったでいいじゃないか。傷ついたのなら、傷ついてしまったでいいじゃないか。死んだなら、死んでしまったでいいじゃないか。それが「生きる」ということじゃないか。我慢を重ねて生きるより、自分を殺して生きるより、少なくとも「自分はこういう人間だ」と真っ直ぐに表明した瞬間の清々しさ、潔さ、明朗な態度を通じて、自分に対する信用を何度でも取り戻していけたらそれでいいじゃないか、と、わたしは思う(ことがある)。

 

 

昨日もちょっとしたことで大阪で揉めた。その直後、兵庫県宝塚市でもちょっとしたことで揉めた。満月だったからなのだろうか、「今日は揉めるなあ!」と思いながら眠りについた。あまりにも揉めた1日の終わりには「おれの生き方は間違ってはいないだろうか」などと思ってしまうこともあるけれど、そんな時に生きてくるもの【自分を根底から支えるもののひとつ】が「感化された記憶」なのだと思う。わたしは、自分のこころに嘘をつきたくない。しかし、自分を真っ直ぐに表明することで何かしらダメージを負うことも(頻繁に)ある。そんな時【自分が自分の生き方を疑ってしまいそうになった時】、自分を中心に戻してくれるもの、それは「こうなりたいと思える人間の存在」なのだとわたしは思う。先日お会いした女性から、ひどく印象的なお言葉をいただいた。嫌われないためにはどうすればいいかではなく、潔く、我先に嫌われてしまうことは悪いことではないと思う。嫌われた先に、傷ついた先に、古い自分を一回殺した先に、新しい世界が開くことだってあるのだから…(とは思います!!)。

 

 

坂爪さん、こんにちは。

 

先日は、お時間を、作っていただき、ありがとうございました。

にもかかわらず、
坂爪さんの気分を、害してしまい、ごめんなさい。【筆者註・別に気分は害していませんのでご安心ください!】


坂爪さんに会わなきゃと思ったのは、私の直感です。

 

正直、私には特に誰かのハナシを、聞きに行きたいとか、有名だからあわなきゃとか、そんなことが過去にないので、何故坂爪さんにあわなきゃいけないと感じたかは、あのあとにわかりました。

 

あのあとから身体的にも、精神的にも強烈な毒出しが起こり、悲しみやら、偽りの自分、過去の自分のままの私と向き合う時間になりました。

最近感じていたことをまじまじとみせつけられました。

結局、本当の自分をだせず、いつも偽りの自分でいたことで、もう死んでるような何もそこにはないエネルギーで死んでいるようにイキテいたんだなと。


お花を見るたびに、死んでこいと言われているような感覚になります。

もうこんな自分はいやだ、と心底感じ、
また再びいきてみたい、と今感じています。

坂爪さんの、愛って、腐った人間を殺す、強烈なものなんだなと感じています。


だから、私は坂爪さんにあわなきゃと思ったんだなと。


その意味がよくわかりました。

あの時に、出会ってくださり、ありがとうございました。


感謝しています。

 

https://www.instagram.com/p/BT6AccZjmID/

嵐山。。。

 

人生は続く。

 

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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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花を愛するように、ひとを愛したい。

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5月18日から27日までの10日間、クラウドファンディングの御礼参りも兼ねて東南アジア諸国ホーチミンシンガポールバンコク&クアラルンプール&ハノイ】を周遊することになりました。航空券以外は宿も何も決まっていないので、現地でお時間のある方は、どなたでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです。日本国内に限らず、海外でも「(誰でも無料で利用&宿泊をすることのできる)ごちゃまぜの家」があれば生きる自由度も高まるのかな、海外でそんな場所を見つけることってできるのかな、日本でちょっと疲れたひとにとっての避難場所にもなればいいな、無理かもしれないけれどやってみないとわからないよな、奇跡的なことが起きたらいいなあ、単純に「東南アジアのうまい飯を食べることができるだけでも行く価値はあるな!」などという思いと一緒に向かいます【真の意味でヒマです!!】。

 

 

最近は「真のコミュニケーションとは何か」ということを(暇な時に)考えています。わたしは、昔から「ひとと話をしたい」という思いを抱えて生きていました。しかし、ひとと話していても「ひとと話している」とは思えない瞬間が、とりわけ10代の頃は頻繁にありました。何かこう、世間的・一般的・表面的なやり取りを交わしているだけに過ぎず、そのひと自身に触れることができない(ひとと話をしてはいるのだけれど、ほんとうに話したいと思っていることは何も話せていない)という感覚は、わたしにさみしさ【ひととひととの分離感】を与えました。多分、その頃からなのだと思います。自分の気持ちを(話し言葉ではなく)文章として書き綴るようになり、少なくとも「自分自身だけは自分のよき話し相手でありたい」ということを思うようになりました。自分の気持ちを伝えることが得意だからではなく、自分の気持ちを伝えることが苦手だったから(ひととうまくコミュニケーションをとることができなかったから)文章を書くようになったということが、多分、わたしの正直な動機になるのだと思います。

 

【イベント詳細】ごちゃまぜの家族に乾杯!@東南アジア【ホーチミン&シンガポール&バンコク&クアラルンプール&ハノイ編】

 

真のコミュニケーションとは何か。

クラウドファンディングの御礼の電話をかけ続けている。相手の方から「こんなに電話をしていたら大変じゃないですか」という気遣いのお言葉をいただく。結論から言うと、なにひとつ大変なことはない(毎回、想像を超えて楽しくてうれしくて素晴らしいです!!)。多分、200件を超える電話を「ある種のタスク的な業務【やらなければいけないこと】」としてやっていたとしたら、わたしは即座につらくなっていたと思う。しかし、わたしは同じ電話を200回重ねているのではなく「ひとりひとりとの会話を200回重ねている」のだと思えば、ひとつひとつにオリジナルな張り合いが生まれる。決してコピー&ペーストのようなやり取りではない、話し相手によって出てくる自分自身の変化を楽しみながら、その時、その瞬間に感じた思いを丁寧に言葉にしながら伝えるための営みは、大袈裟な言葉で言えば「最高のコミュニケーションの機会【自分を知り、相手を知り、人間を知る最高の機会】」になる。

 

真のコミュニケーションとは、誤解を恐れずに言えば「セックスみたいなものだ」と思う。肉体を重ね合わせることだけをセックスと呼ぶのではなく、言葉のセックスもあれば音楽のセックスもあるし、別々のひとが同じものを見るというセックスもあれば、なにもしない【なにもしないということを共有する】というセックスもある。ここで言うセックスとは、多分「ひとつになること」の総称であり、それは「別々の人間が同じ気持ちになること」と言い換えることもできる。わたしたちはそれぞれ個別の肉体を持って生まれてきて、相手がどのようなことを感じているのかを想像することはできてもリアルを知ることはできない。それでも、この瞬間だけは「同じ気持ちになることができているのかもれない」と思える瞬間の中には、いま、自分たちは深い部分でコミュニケーションを交わすことができているのだという安らぎ【生きていることのよろこび】がある。

 

稀に、読者の方から「素晴らしいメッセージをありがとうございます!」とお褒めの言葉をいただけることがある。そう言っていただけることは非常にありがたいのだけれど、わたしの中には「メッセージを発しているつもりはない」という思いがある。わたしは、ただ、自分はこのような人間であるとか、このようなことがあってこのようなことを感じたとか、日々の感想【生きた記録】を残しているだけに過ぎない。それではなぜ、わたしはブログ【ひとの目に触れる場所】を選ぶのだろうか。自分の気持ちをまとめるだけならば、日記に書けばいいだけの話じゃないかとも思う。しかし、ブログにはあって日記にはないものがある。それが「自分以外の読み手の存在」であり、わたしは、どうしても伝えたいメッセージがあるから文章を綴る訳ではなく、ただ「ひととコミュニケーションを取りたいと願うから」こうして文章を書き続けている【毎日、呼ばれた場所に移動を続けている】のだと思う。

 

成功も失敗も一緒に笑いたい。

昨日、御礼の電話をさせていただいた方から「わたしも昔からごちゃまぜの家のような存在があればいいなと思っていたので、今回は、ご支援というよりも『一緒に勉強をさせていただきたい。そして、成功も失敗も一緒に笑いたい』という思いから支援をさせていただきました。だから、坂爪さんにはどんどん好きなようにやっていただけたら嬉しいですし、このような機会をつくっていただいてほんとうにありがとうございます」という言葉をいただいた。ああ、なんて素晴らしい言葉を伝えてくださる神様なのだろうかと思ったわたしは、その方に「ちょっと今から電話の録音ボタンを押すので、同じ言葉をもう一回言ってください!毎日それを聞いては元気になりますからーーー!!!」と答えた。成功も失敗も一緒に笑いたい。最高の言葉だと思う。成功しなければいけない、うまくやらなければいけないという強迫的な思いからひとを自由にする、最高の言葉だと思う。

 

自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしない」というものがある。正義感は、他人に押しつけた瞬間に暴力に変わる。わたしは、自分と同じであることを誰かに強制したいとは思わない。ただ、こういう生き方をしている人間がいるのだということを、一緒に笑ってもらえたらうれしいとは思う。わたしのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。褒められるために生きている訳でもなければ、誰かに認められるために生きている訳でもない。成功することだけではなく、失敗することさえも一緒に笑ってくれるひとがいるということは、なんと心強いことだろうか。生きる理由、それは「楽しむため」だ。それだけで充分なのだとわたしは思う。それを「誰かのため」とか「何かのため」とか言いはじめた瞬間から、ゆっくりと濁りはじめていくのだろう。何か新しいことをはじめる時に、多分、もっともらしい理由なんていらないんだ。そんなものは「やりたいと思ったから」だけで充分であり、それだけでいいし、それだけがいいのだと思う。

 

まだ確定をしている訳ではないのだけれど、東京の文京区でもごちゃまぜの家を実現できることになるかもしれない(関係者のみなさま、本当にありがとうございます!!)。自分の期待を裏切って生きたいと思う。一年前の自分は、いまの自分の姿をまったく想像することはできなかった。自分の頭が想像できることなんてほんとうにちっぽけなことで、予測不可能な出来事が頻発すること、まさか「自分の人生がこうなるとは!」と驚かされるような出来事に遭遇できるということは、生きていることの最高の醍醐味になる。こうなればいいなと思う自分の期待を、はるかに上回る人生を生きていきたいと思う。ごちゃまぜの家に関してもまったく同じで、自分のこころが「こうなればいいな」と思う理想をはるかに上回る形で、予測不可能な「最高よりももっと最高!」な未来になれば素晴らしいなと、わたしは思う。

 

【過去記事】人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。 - いばや通信

 

 『SUPERな写真家』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、シンガポール生まれの写真家・レスリーキー著作『SUPERな写真家』です。こちらの本は、わたしの愛するMAYUCHAPAWONICAさんから譲り受けた一冊になるのですが(まだ最後まで読めていません!)、読み進めるたびに「このひとは最高だな!」という思いが湧きあがります。元気になります。これは余談になりますが、元気という言葉は「元からある気持ち」と書く通り、誰にでもあらかじめ備わっているもの【外付けではなく内蔵されているもの】なのだなあということを思いました。元気になるということは、ただ、自分のこころをチューニングをするだけのことなのかもしれません。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、シンガポールにわたりました ※※※

 

レスリーは神様かもしれない。

 

レスリーが「撮らせて!」と言った瞬間から、

 

そのひとはレスリーと友達になっている。

 

そして安心してレンズの前に立つ。

 

レスリーは悪魔かもしれない。

 

後で、3日間くらいは筋肉痛になるポーズを延々とさせておきながら、

 

こちらを、そうしなければ満足できなくさせてしまう。

 

〝人間〟を逃さない、炎のようなものを持っている。

 

レスリーのあまりのフットワークの軽さとマメっぷりは、

 

何人ものレスリーが同時に存在しているかの様で、まさに神出鬼没。

 

世界のあちこちから、いろんな人にコンタクトし、

 

そして、すぐに目の前にいたりもする。

 

こんなに数多くのパフォーマーが、一つに納められた写真集だったら、

 

ほんの僅かでも、どこかしらに、何らかの思惑や惰性が感じられて不思議はないのに…。ただ、ただ、それぞれの自分をひたすらパフォームしている被写体の姿が洪水のように溢れ出し、胸を打つ。

 

これを見た人はたくさんの勇気を与えられると思う。

 

レスリーに作為は全くない。人間が好きなだけ。

こんな写真集を実現させた

 

レスリーこそスーパースターかもしれない。

 

松任谷由実レスリー・キー写真集『SUPER STARS』序文より

 

レスリー・キー『SUPERな写真家』【朝日出版社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

花を愛するように、ひとを愛したい。

御礼の電話をさせていただいた方から「この前のお休みの日に、簡単なサンドウィッチをつくって、自然のある場所で小さなピクニックをしたんです。その時に感じた気持ちがなんだかとっても良くって、そして、この感覚は何かに似ているなあって思ったんです。それで、何をしていた時の感覚だろうかって考えていたら、あ、これは坂爪さんのブログを読んでいる時に感じている気持ちと同じだって思ったんです」という言葉を与えてくれた。わたしは、ああ、なんだこれは、最高の褒め言葉じゃないか!と感動に打ち震えた。その方は言う。自分は自分のままではダメだって思うこともあるけれど、でも、自分は自分のままでもいいんだって、自然なままでも幸せになることは簡単にできるんだって、自然に言ってもらえたような気持ちになりました。




数日前にお会いした女性は「最近は、可愛い花を見かけると、話しかけてしまったり頭(?)を撫でちゃうようになってて、それから『花を愛するように、ひとを愛せたらいいな』って思うようになりました」と話してくれた。わたしは、ああ、なんて素晴らしい言葉を使うひとなのだろうかと感動した。花を愛するように、ひとを愛したい。なんて素晴らしい思いなのだろうか。花は、言葉も使わなければ表情の変化などで気持ちを伝えることもしないし、花以外の何かになろうともしない。ただ、花は花としてそこに咲いているだけだ。その姿が、その無理のない自然な姿【ただ、自分は自分であるということ】が、見るひとのこころを大きく慰めることがある。何かがある自分を誇るのではなく、何もかもを取り去った後に残る自分を誇りにするということ。真のコミュニケーション【人間と人間が付き合うということ】も、多分、そういうことなのだと思う。

 

 

先日、おはなをお届けさせていただいた方からあまりにも嬉しすぎるメールをいただいた。ひととコミュニケーションを取れたという実感、ああ、今日はこのひとと会えただけでも最高だったと思える1日は、多分、誰にでもあると思う。本質的にひとはコミュニケーションを求めている生き物で、ひととこころを通わせることができたという実感は、それだけで「今日という日を素晴らしい一日にする」力がある。日常の中に適当な機会やタイミングを見つけることができないだけ(あるいは遠慮をしてしまっているだけ)で、ひとと話をしたいと思っているのは、自分だけではなかったのだということを知る。コミュニケーションとは、何も言葉に限られた話ではない。言葉はなくても、何も話さないとしても、ただ、同じ空間を共有するだけでもいい。こころを通わせるということ、それは、言いたいことを言うというよりも、ただ、わたしはここにいる【あなたはここにいる】ということを、お互いに確認し合う行為なのだと思う。こんなにも生きているのだということを、静かに実感することができた瞬間に「生きていることのよろこび」は生まれるのだと思う。

 

 

坂爪さま


おはようございます。

先日は◯◯までいらして下さり、
お花とランチもご馳走になり
本当にありがとうございました。


とりとめもない会話になってしまいましたが
それでいいというか、それがよかったように思います。
坂爪さんを目の前にして、
何故かうるうる涙腺がゆるんでしまいました。
心地よい時間でした(*^o^*)

 

人と会話をすると
○○は××だよね!ね!みたいな、
共感する結論にもっていってお互い満足する
(したように思い込む)流れみたいのがありますが、
坂爪さんとお話していてそういった圧力がぜんぜんないのが
心地よく、許されてる感じがしました。

何かよい質問をして会話を広げなきゃとか
盛り上がらなきゃとか
アドバイスめいたものをしたりされたりしなきゃとか
そういった会話の満足達成感圧力みたいのって
なくていいんだよな~本来はな~と新たなる発見でした。


今、お仕事机の横にお花があります。
原稿描いてて、ふと見上げるとお花がある、そういう感じいいなあと。
お花の写真撮ってみたので送ってみます。
メッセージカードもありがとうございます!嬉しいです!

 

似顔絵をお渡しした後、
もうちょっとバージョンアップさせたいなとも思いましたので、
お仕事落ち着いたあたりにちょっと描き直してみます。
実際お会いして、目が優しくて澄んでらしてるので
そういう感じが欲しいな~と、個人的なこだわりですが^^;
いい感じに描けたらまた送ります。描けなかったらそのままです。。。


ごちゃまぜの家楽しみです。
何かしてもいいし
しなくてもいいみたいな心地よい場所になるといいなあ。
ただうたたねしに行くだけとか^^
庭のグリーンを眺めるだけとか。たまに手入れしてみるとか。
まずはの菊名のおうち、ぜひぜひ行きますね♪


今日は確か京都でしたね。
すてきな一日を♪

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

渡る世間は神ばかり。

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ゆうちょ銀行の通帳記帳に行き、膝から崩れ落ちた。小生、数日前の記事で「(非常にお恥ずかしい話ではありますが)お金がやばいです!」という投稿をさせていただきましたところ、それを見てくれた方々から「生きろ!」と言わんばかりに励ましのご連絡をいただいた。それだけでもありがたすぎることなのに、先ほど、通帳記帳をいたしましたところ「連絡をくれていないひとたちからもこんなにお振込をいただいていた…!!!」と脳天が爆揺れした。しばらくの間、わたしは、銀行ATMの前で動けなくなってしまった。そして、ゆっくりと正気を取り戻すと同時に「しっかりと生きよう」とこころに誓った。しっかりと生きることでしか恩返しをすることができない我が身であります故、わたし、しっかりと生きます。お振込いただきましたみなさま、こころの底からありがとうございます!!【ご迷惑でなければ電話や手紙で御礼をお伝えさせていただけましたら非常にうれしいです。可能な方はLINE「07055527106」などからご連絡をいただけましたら猛烈に幸いです!!本当にありがとうございます!!】

 

 

ブログ読者の方から「ごちゃまぜの家のイメージです!」とお手紙をいただいた。それがあまりにも素晴らしすぎて、わたしは「あまりにも素晴らしすぎます!」と慟哭した。 わたしは、自分ひとりの力ではなにもすることのできない人間でありますゆえに、こうした助力(?)をいただけることがほんとうにありがたく、ああ、自分はみなさまの力によって生かされているのだということを猛烈に思った。11日(木)の13時からは、大阪の十三駅近くの会場で開催をされるトークイベントに急遽登壇をすることになった。主催される方は、なんと「46歳にして風俗嬢デビューを飾る」というカラフルな経歴の持ち主で、実際にお会いできることを楽しみにしている【どなたでも参加できる内容になりますので、お時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください!!】。

 

【イベント詳細】5月11日 坂爪圭吾トークショー「タブーを生きて見えた世界」@大阪

 

GOCHAMAZE no IE

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先ほど、菊名の家で最終的な打ち合わせをした。問題がなければ来週中には「ごちゃまぜの家」を菊名を起点にはじまることになる。参考までに、家の見取り図を掲載させていただきます(住所などは後ほど公開をする予定です!)。家の鍵を預かった瞬間から「ごちゃまぜの家のスタートです!」ということになるのだけれど、ごちゃまぜの家の鍵は24時間あけっぱなしにする予定になるので、最初の一週間は「一緒に掃除や空間装飾などを手伝ってくださる方!」と共に、部屋づくりをする段階からみんなでやれたらいいのかな、ということを思っている(その際のお声かけなどは、また、改めてブログ記事を通じてお伝えさせていただきます!!)。

 

最近『思いが実現する速度があがっている』ということを頻繁に思う。わたしが「ごちゃまぜの家」のアイデアを閃いたのが4月3日の朝8時、クラウドファンディングに企画を掲載したのが同日4月4日の夜8時(音速でプロジェクト本文を書き上げて、音速で公開にこぎつけることができた)、菊名の家のお話が舞い込んできたのが4月6日【プロジェクト掲載3日後】、実際に家を下見させていただいたのが4月13日【プロジェクト掲載10日後】、そこから「あれよあれよー!」という間にことは進んで、5月8日の現在【プロジェクト掲載1ヶ月後】、菊名で「ごちゃまぜの家」をはじめさせていただける流れになっているこの現実がある。なんだか、自分のことなのに「すごいなあ」と、まるでひとごとのように感じてしまう瞬間がある。思いが実現する速度があがっていると感じるのは、多分、わたしだけではないと思う。2017年は「破壊と創造が繰り返される一年になる」と前に聞いた。恋愛なども別れるカップルが続出することになるらしいけれど、これは、言い方を変えると「再スタートを切るのにもってこいの一年になる」とも言うことが出来る。

 

わたしは、できることならば「毎日死にたい」と思っている。毎日死んで、毎日生まれ変わることができているような『鮮度』を自分の中に保っていたいということを思う。昨日、夜道を歩きながら「百万回の愛しているなんかよりも、一回死ね」ということを思った。新しい自分になるためには、多分、古い自分を一回殺す必要がある。「延命措置に未来はない」というのはよく言う話で、わたしは、無駄に自分を慰め続けることよりも、毎日死んで、毎日生まれ変わる、そういう日々の中に「ある種の潔さ、清々しさ」のようなものを覚えるタイプの人間だ(と思う)。

 

【過去記事】好きなように生きなさい。 - いばや通信

 

殺される場所。

「死ぬ」とか「殺す」とか、不謹慎な言葉を連呼するのもどうなのかなとは思うけれど、熱海の家は「死ぬのにもってこいの場所」として機能をしているように感じる。いま、わたしには熱海に家がある(この家は敬愛するムラキテルミさんに整えていただきました。ムラキさんは「品があって、かわいいひと」の代表格で、ムラキさんを通じて「ああ、自分は、(前回の記事で紹介をしたターシャ・テゥーダーさんがそうであるように)品があってかわいい人が大好きなんだな」ということを確信しました!!)。熱海の家もごちゃまぜの家のような感じで完全に開放をしているので、全国各地から様々な方々が足を運んでくれている。昨日、岡山在住の25歳女性M様がヒッチハイクで熱海まで来た。その根性は素晴らしいなと思う。素晴らしいなとは思うのだけれど、そのあと、わたしたちの間に僅かばかりの火花が飛び散ることになった。

 

M様が「わぁ〜!坂爪さんだぁ〜!なんだかウケるぅ〜!坂爪さんは、わたしの中の『会いたいひとリスト』の中のひとりなんですよぉ〜!」的なことを言った。わたしは、即座に「そんなリストが目の前にあったら、いますぐ引きちぎりたいくらいですよ」と思った。そして、そのことを伝えた。この辺から、なんかこう、二人の間に「あ、これはもしかしたらやばい流れかもしれない」的な雰囲気が流れた。これはどうでもいい話だけれど、わたしの信条のひとつに「言いたいことは言う。その時は、こころを込めて言う」というものがある。理由は単純で、言いたいことを言わないでいると『病気になる』からだ。だから、この日も、勇気を出して「えーい、言っちゃえ!【このひとには一回死んでもらいましょう!】」的な勢いに任せて、言いたいことを即座に言っちゃう実験場として熱海の空間を利用した。

 

結論から言うと、いろいろあった末に両者は無事に意気投合を果たした(ということにする)。わたしは思う。巷では「自分と向き合う」なんて言葉を頻繁に耳にするけれど、自分と向き合うことを意識しすぎるあまりに、他人と向き合うことがおざなりになっているひとは多い(ように思う)。自分と向き合うということは、部屋に閉じこもってひとりきりになることではないと思う。逆だ。自分と向き合うということは「ひととしっかりと向き合う」ということであり、ひととの付き合いの中で出てくる自分の本音をはっきりと掴み、ごまかさないで、誠意を込めて相手に伝えること。仲良しごっこをしろとかそういうことではなく「ひとを大切に扱えないひとが、自分を大切に扱える訳がなかろう【自分を大切に扱えないひとが、ひとを大切に扱える訳がなかろう】」ということを思う。本音をかち割って面と向かって話をする、その中から出てくる自分自身【相手自身】をはっきりと掴むことが、自分【大袈裟な言葉で言えば人間全体】と向き合うということなのだとわたしは思う。

 

【過去記事】人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。 - いばや通信

 

『ぼくの小鳥ちゃん』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、江國香織(作)・荒井良二(絵)『ぼくの小鳥ちゃん』です。わたしは荒井良二さんの作品が大好きで隙を見ては「こんなのもあったのか!」としらみつぶしに読破をしている最中になるのですが、こちらの本も、江國香織さんの世界観(?)とあいまって非常に素晴らしい一冊に仕上がっておりました。誰かにプレゼントをする際にも適しているような(適していないのかもしれない)、とても可愛らしい一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

➖一羽の小鳥として、私ががまんならないとおもうあなたの欠点を教えてあげましょうか。

 

いつだったか、そう言われたことがある。昔ここにいた ー ある日いきなりやってきて、やがていきなりいなくなってしまった ー こげ茶色の小鳥ちゃんにだ。

 

➖欠点?

 

ぼくは訊き返した。夏で、ぼくたちは窓をあけた部屋のなかにいた。

 

➖あなたはうけいれすぎるのよ。

 

小鳥ちゃんはぼくの目をみずにそう言った。

 

➖いけないことかな。

➖ときどきとても淋しくなるの。

 

小鳥ちゃんは顔をあげてぼくをみた。切るようにかなしい目をしていた。

 

江國香織『ぼくの小鳥ちゃん』【新潮文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

渡る世間は神ばかり。

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引き続き御礼の電話をかけ続けているのですが、時折、小さなこどもたちと会話をできるのがものすごい楽しい。今日は、7歳の女の子から「さかつめさんはどんな家をつくりたいの?」と問われた。わたしは「そうだね、言うなれば『いい感じの家』だね!」と答えた。女の子は、続けて「カメムシはいない?」と問う。わたしは「まだ出てない!いまのところはまだ出てない!」と答える。「じゃあ、アリは?」「アリはいるよ、だって家の裏には林があるんだもん!」「アリいるんだあ」「アリはどこにでもいるでしょ!アリぐらいがんばろうよ!」的な会話をする。電話をかわったお母様が「すいません、どうでもいい話ばかりをしてしまって…」と謝罪をする。わたしは「いえいえ、まったくそんなことはありません!非常に有意義な対話をさせていただきました!」と答える。こどもの声は、聞いているだけでも元気になる。こういう時間を過ごさせてもらえることが、最近は、なんだかものすごい楽しい。 

 

 

御礼の電話を重ねながら、そして、銀行ATMの前で膝から崩れ落ちながら、わたしは「渡る世間は神ばかりだ…」と思った。うまく言葉にすることができないのだけれど、この国にはいいひとがたくさんいる。ほんとうに、心の底から、最高の国だなと思う。もちろん、時には「これでもか!」と罵倒をされることもあるけれど、根本的には優しいひとばかりなのだと思う。人に優しくできない時は、ただ、いまちょっとだけ心に余裕がないだけで、ひとに優しくできないひとは、ひとに優しくできないというまさにその態度を通じて「どうしようもなくやさしさに焦がれている」だけなのではないだろうか、ということを思う。そういう部分を、汲み取ることができるような人間でありたいと思う。できることならば、他人を疑い争いながら生きることよりも、よろこびを分かち合うように生きることができたらと思う。

 

 

これがなければ生きていけないとか、あなたがいなければ生きていけないとか、そういうことではなく「これがなくても生きていけるようになる」とか「あなたがいなくても生きていけるようになる」ということを、多分、『自立』と呼ぶのだと思う。そのひとがひとりでも生きていけるようになること、依存させるものではなく、ひとを自由にするもの、それを『愛』と呼ぶのだと思う。どうしてなのだろうか、様々なひとたちからの様々な思いに触れながら、最近ではそういうことを考える機会が増えている。ひとりでも生きることができる人間はいないということ、生きとし生けるものは無限の網の目の中で生きている【生かされている】ということを思う時、わたしは「自分は自分の命をしっかりと生きていこう」という思いになる。静かで、おだやかで、あたたかななにかとの結びつきを覚えることができるこの感覚を、わたしはとても気に入っている。

 

 

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人生は続く。

 

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人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。

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眠気が凄すぎて代々木公園で眠る。人混みは苦手だから代々木八幡側から公園にはいると、代々木公園の中に森があることを発見する。緑が綺麗で、適当な場所でダイレクトに横になると「自然に包まれている…」的な多幸感が湧き上がる。森で暮らそう。東京でごちゃまぜの家をやる時は、代々木公園の近くなんて最高だなとか妄想をする。前は「品川界隈が理想です!」とか「谷根千って最高ですね!」とか思っていたけれど、いま、あらゆる場所がごちゃまぜの家の候補地であるような気がしていて、街中を散歩しているだけでも「ここでごちゃまぜの家をやるとしたら、どのようなスタイルが面白いだろうか」などと妄想を広げている。

 

 

最近、いろいろなことがありすぎて「これは自分のためだけに生きていたら死ぬ!」という結論に至りまして、希望者の方に無料でおはなを配る「おはなをあげに、いかんばなんね」という企画を急遽立ち上げました。これはもう完全に『自分の中でバランスを取っている系』の営みになるのですが、呼ばれた場所には何処にでも行くというスタンスでやっておりまして、来週からは大阪府岡山県秋田県などに足を運ぶ予定になっております。近隣の方でおはなをご希望される方は、是非、どなたでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです【メールの返信が苦手すぎるために、可能でありましたら『LINE』からご連絡をいただけると助かります!!】。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

『血が通っている』感覚。

クラウドファンディングの御返しを「誠心誠意を込めて御礼のお電話をさせていただきます!」と設定をした過去の自分の頭を撫でまくりたいほどに、「御礼の電話が楽しすぎる!」というよろこびに満ち溢れている。先日、シンガポール在住の女性M様とLINEで通話をした。現地の暮らしの話などを伺いながら「おすすめスポットを連れ回したいので、いつでも遊びに来てくださいね!」なんて言っていただけた日には、即座に航空券の手配をして出国をしたい気持ちに駆られた。海外の話を聞くのは楽しいし、新鮮な刺激をもらえる。なかでも、最近「タクシーの代わりに台頭して来ている『UBER【ウーバー】』というシステム」の話が面白かった。

 

シンガポールタクシードライバーは運転が荒く、日本と比べれば料金は格段に安いけれど「できることなら使いたくないな」という気持ちが現地のひとにはある。そこで、いま、代わりに活躍をしているものが『UBER』と呼ばれているサービスで、乱暴にまとめると「一般のひとでも自家用車をタクシーみたいにすることができる」というシステムになる。M様曰く「シンガポールではシェアエコノミーが発達していて、たとえばUBERなども『(一般のひとの車に乗る訳だから)まるでプライベートを覗き見させてもらっている』ような感覚がなんだか楽しかったりもします。相手がプロだとこっちもかしこまっちゃうけれど、相手も同じ一般人だからこそ会話も砕けて盛り上がる時もあって、もしかしたら、これからは『プロフェッショナルではないひとに仕事をお願いする』ことが面白いとされる時代になるのかな、なんて思いました」とのこと。この洞察を聞いた時、わたしは「鋭い!!!!!!」と勝手に感動をしてしまいました。

 

日本でも、多分、これから『シェアエコノミー』と呼ばれているものは急速に発達をしていくのだと思う。時代的な背景もあるとは思うけれど、いま、多くの人は「これ以上別に物が欲しい的な欲求はない」と思う。いままでは「ものがあれば幸せになれる」的な価値観の中で生きて来たけれど、これだけものが揃っている現代社会(それでいてあまり幸せを感じることができていないひとが多いように見受けられる中)、次の『しあわせの物差し』になるものは、多分、コミュニケーションと呼ばれているものだと思う。自分は周囲のひととコミュニケーションを取れているという感覚【ひととの繋がり】がある限り、多分、ひとは死なない。逆に言えば「ひととコミュニケーションを取れているという実感がない」という感覚【ひととの繋がりの欠如】は、さみしさを生み、孤独を生み、世界から切り離されているかのような痛みを生み、最悪の場合は精神的な疾患をもたらせることになったりもする。

 

お金よりもコミュニケーション!

最近のテーマは「お金よりもコミュニケーション!」であり、お金で解決できないこともコミュニケーションを重ねることで解決できることはたくさんあるような気がしている【過去に、賃貸物件の大家さんに直接連絡をして(土下座をして)敷金と礼金を無料にしてもらったことがある】。トークイベントなどに出演をした時、稀に「坂爪さんにとってお金とはどのようなものですか」と聞いてくださる方と出会う。わたしは、開口一番「あったら便利なものだと思います!」的な返事をする。そして、もう少し時間に余裕があった時などは「ちょっと小難しい言い方になるけれど、お金って『コミュニケーションコストを0にしたもの』なんじゃないのかなと思います」などと答えることもある。

 

誤解を恐れずに言うと、いま、多くのひとが抱いている欲求とは「コミュニケーション欲求【ひととコミュニケーションをとりたいと思う気持ち】」なのではないだろうか、と思うことがある。金がないとか仕事がないとかやりたいことが見つからないとか、家族関係がうまくいっていないとか恋人とセックスレスだとか、多分、あらゆる問題の根底には「ひととコミュニケーションが取れていない(そして、その話をできる相手がなかなか見つからない)」からなのではないだろうか、と思うことがある。自分の悩みを解決するために、お金は一見すると非常に便利だ。金があれば、誰にも頼ることなく、自分の力だけで生きていくことができる。好きなホテルに泊まれるし、いくらでもうまい飯は食える。しかし、ひととの繋がりを金で買うことはできない。ひととコミュニケーションをとりたいという欲求は、金では解決できないばかりか【金とはコミュニケーションコストを0にしたものであるものだとすれば】金を求めれば求めるほどに、ひととの繋がりは薄れていくものでもある(ような気がしている)。

 

そこで!わたしが提案したいと思うことは「ちょっとだけお金を払うことをやめて、お金を使わずに目の前の問題を解決するにはどうすればいいか」を考えてみるのはどうだろうか、ということです。わたしは、このアイデア菊名横浜市港北区】の家で試してみたいと思います。普通、新しい何かをはじめるときは「ある程度設備が整ってから開始をする」ものだと思うけれど、菊名の家は、何も準備が整っていない状態から「ごちゃまぜの家のはじまりです!【あとは『やりながら考える』のスタンスで行きます!】」という感じで、いきなりはじめてしまいたいと思う。多分、何も問題がなければあと10日後位には、実際に菊名の家で『ごちゃまぜの家』の家の活動ははじまる。時が来たら住所なども公開をするので、どなたでも、興味のある方はお気軽に遊びにいらしてください【あわよくば、空間づくりなども一緒にやっていけたら幸いです!!】。

 

【過去記事】好きなように生きなさい。 - いばや通信

 

『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、二村ヒトシ著作『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」【文庫ぎんが堂】です。こちらの本は、ブログ読者の方から「わたしは、この本をバイブルがわりにパニック障害寛解後から1年半掛かって、自分の問題と父親との問題を解決しました。それ以来、数十年見続けていた悪夢(病気の最中がいちばん酷かった)からも解放されたんです。・・・わたしのやり方が万人に通じるかはわかりませんが、もしかしたら、親子関係に苦しむ人の助けになる可能性があるのかも。その本とわたしの経験を坂爪さんに授けさせていただけたらと思っています」というお言葉と共に、わたり文庫に託された一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。  

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「このやさしさ!男なのにどうしてここまで知ってるんだっ!」上野千鶴子氏。「読んでびっくり!直球で家族をえぐる本当に怖い本です」信田さよ子氏。「恋愛じゃなくて条件、それが婚活だと思ってない?惚れなきゃ結婚もできないよ」白河桃子氏。《女性の生き方》問題の第一人者たちも絶賛した元本を大幅増補・改題し文庫化!「心の穴」と「自己受容」をキーワードに、なぜ楽しいはずの恋愛が苦しくなるのか、の秘密に迫ります。

 

二村ヒトシ著作『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』【文庫ぎんが堂】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。

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眠気が凄すぎて「映画館で寝よう…」と思って有楽町の角川シネマに立ち寄る。ターシャ・テゥーダーさんという素晴らしすぎる90歳のおばあちゃんの映画『静かな水の物語』をやっていたので、それを見ながらうたた寝をする。中盤、わたしが眠りから覚めた瞬間にスクリーンの中で「人生は短いから、不幸でいる暇なんてないのよ」的な発言をターシャおばあちゃんがしていた。わたしは、ああ、この言葉が聞けただけでもこの映画を選んだ甲斐はあったなあなどと感慨に耽りながら、もう一回寝た。ターシャおばあちゃんの顔が、90歳を超えたおばあちゃんなのに、まるで5歳の少女のように可憐だった。人間はこんな風に年齢を重ねることができるのだと思わせてくれるひとの存在は、端的に、宝だ。わたしは「いいものを見たなあ」と思いながらガラガラの映画館で干し芋を食べては眠る行為を繰り返していた。

 

わたしは花が好きだ。花が好きだから「おはなをあげに、いかんばなんね」という企画を自主的に開催したりする。そこに深い意味はない。わたしが好きだと思う花を、同じように好きだと思ってくれるひとと「好きだと思う気持ち」を共有することができたなら、それだけでもう「最高だな!」と思っている。人生は短い。自分が嫌だなと思うものにエネルギーを削がれながら生きることよりも、わたしは、自分のこころが「いいな!」「好きだな!」「最高だな!」と思えるものに、生命を注ぎ込んでいきたいと思う。ターシャおばあちゃんは「わたしは生まれてからこの日まで、ずっと幸せだった。まるで天国を生きているみたいにね」的な発言をしている。ターシャおばあちゃんの瞳の輝きが半端なくて、わたしは「最高だな!」と思う。

 

天国を求めることよりも、いま、自分がいる場所のど真ん中に「天国を見出すことができる」自分でありたいと思う。新緑の季節を迎え、木々がこれでもかと言うほどに青々と輝いている。太陽は昇り、砂浜を、海面を、ひとびとの笑顔を宝石のように照らしている。 公園の中ではこどもたちが走り回り、大人たちも一緒になって、ごはんを食べたりボールを投げたり大きなシャボン玉を飛ばしている。爽やかな風が吹き抜けている。噴水から水が流れている。軽快な音楽が流れている。穏やかな時間が流れている。身体の中には、いま、この瞬間もあたたかな血が流れている。生きているというただそれだけのこと、ただそれだけのことをはっきりと実感することができた時に、ああ、他には何も要らないのだなという気持ちになる。自分が自分であるということは、自分は自分のままで「流れていくこと」ということなのだと思う。

 

 

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代々木公園の森。。。

 

人生は続く。

 

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家族は音楽になる。プレイリストを作るように家族を作ろう!

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家族とは『人類』である。昨日、家族をテーマ(?)に開催されたトークイベントに登壇した後に、そんなことを思った。わたしは『いばや』という流動的な団体を主宰している。いばやのコンセプトは20個くらいあって、その内のひとつに「2個先の未来から逆算をして考える!」というものがある。多分、未来への行き方は2通りある。ひとつは「現在の延長として未来を考える」という行き方。ひとつは「未来の未来【2個先の未来】から逆算をして未来【1個先の未来】を考える」という行き方。いばやは、後者の考え方を採用する。その理由は「現在の延長として未来を考えると、現在の常識が邪魔をするから【引き戻す力が働くから】」になる。キーワードは「2個先の未来」であり、何百年も先の世界では「いまの常識とはまったく違う前提の上で世の中は成り立っている」であろうし、その中で『家族』というスタイルも随分と違ったものになっていると想像する。

 

 

昨日のトークイベントで、家族というものは「音楽のように変化をする」という話をした。これまで、音楽を楽しむためにはレコードを購買する必要があった。それがCDとなり、MDとなり、MP3となり、いまでは「好きな音楽を聴くためにアルバム【目に見えるもの】を買う必要はなく、一曲単位のデータ【目に見えないもの】で購買をできるようになっ」ている。多分、いま、アルバムを購買するひとは極端に少ない。数十曲をまとめて購買するよりも「アルバムの中にある好きな曲を一曲単位で、自分のプレイリストに加えて行く」ことの方が主流だと思う。多分、家族というものも、これから似たような変化をする。その点について、拙いながら、現時点で思うことを今回の記事でまとめてみたいと思う。

 

家族は音楽になる【プレイリストを作るように家族を作ろう】

結論から言うと「プレイリストを作るように家族を作ろう!」ということを思う。いま、多くの人が自分のスマホなりウォークマンの中に「自分なりのお気に入りのプレイリスト」を持っていると思う。こんな気分の時はこの音楽を、こんな気分の時はこの音楽を、みたいな感じで「その時々の気分に合わせて、流れるものも変わっていく」ものが音楽だと思う。家族も、きっとこのような変化をするだろう。現在の常識では、家族とはひどく固定をされたものになる。血の繋がりがあるとか、法律で定められているとか、そういう「固い縛り」の中で結成されているユニットが家族になる。しかし、これからの時代の中で「家族はゆるやかに溶け出していく」と想像をする。それはレコードやCDなどの目に見える形で存在をしていた音楽が、やがてMP3という目には見えないものに変化をして、アルバムという枠の中を飛び出して「それを聴くひとのプレイリストの中に、それぞれの形で、流動的に加えられていくもの」になった。

 

これから、家族は音楽になると思う。その時々の気分に合わせて、こんな気分の時はこの家族を、こんな気分の時はこの家族を、みたいな感じで「ひとりが複数個のプレイリスト【家族】を持つ」ことが当たり前の世の中になると思う。いままで、家族と言えば(音楽で言えばアルバムのように)ひとつの固定的なまとまりとして語られることが多かった。しかし、これからは『個』が強く浮き出る【これまでにあった境界線のようなものが溶け出していく】時代になる。ひとりがひとつの音楽になり、その音楽が加えられているプレイリストが『家族』というものになる。そのため、ひとつの曲が様々なプレイリストに加えられていくというのは当然の現象となり、結果として「誰もが複数個の家族を持つ」流れになるだろう【この『ひとりがひとつの音楽になる』という考え方は、なんだか素敵な考え方に思えて、個人的に気に入っている】。

 

いばやでは「数百年の後の未来では、家族という概念そのものがなくなっている」のではないだろうかと想像をする。そう遠くない未来のひとが、いまの時代のひとを見たときに「(現代のひとびとが蓄音機を見て驚くように)まだ家族なんてやってたんだ!」とビックリをするような時代が来る。当たり前の話になるけれど、レコードが主流だった時代に「これから音楽はすべてMP3というデータになります」という話をしても、一笑に付されて終わるだけだと思う。多分、いま、家族と呼ばれているものは「(音楽で言えば)レコードのようなもの」なのだと思う。レコードを悪いとは言わない。古き良きものとして、楽しみたいひとは永遠に楽しみ続けるものだと思う。しかし、これから『新しい在り方』が台頭をして来るものだと思うし、わたしの関心は「未来の家族とは何か?」というものに向かっている。

 

【過去記事】実際問題、最大のタブーとは『家族』である。 - いばや通信

 

いや、全然大丈夫だから!感【あら、全然大丈夫だった!感】

世の中の常識が大きく変わる瞬間、それをひとは「転換期【パラダイムシフト】」と呼ぶ。振り返って見た時に、ああ、あの瞬間に歴史は大きく動いたのだなと思える瞬間の中には、言葉にできないある種のダイナミズムを覚える。わたしは、今回の『ごちゃまぜの家』を何かしらの記録に残したいと思っている。その理由は20個くらいあるのだけれど、時代が大きく変わる時、その瞬間のひとびとのリアルな意識や感情を残しておけば、数年後の未来のひとびとがそれを見た時に「昔のひとはこんな考え方をしていたのか!」という感動を覚えるのではないだろうかと思うからだ。大袈裟な話になるけれど、天動説が常識とされていた時代では「どこまでも船を漕ぎ続けていると地球から落ちてしまう!」と本気で怯えていたひとびとが大量にいた(のだと思う)。天動説を前提に生きるひとびとの『世界の見え方』は、端的に、いまの時代を生きる私たちから見ると「(古臭い考え方だと一蹴することもできるけれど)非常にクリエイティブで斬新!」であるとも言える。

 

世界の見え方が変わる瞬間、世界の見え方が増える瞬間のなかには『自由』がある。未来の人から見たら、多分、現在のわたしたちの考え方も「そんな考え方をしていたんだ!」と驚いてもらえることが大量にあるのだろうと思う。多分、家族関係における悩みも同じことだ。いまのわたしたちから見ると、船を漕ぎ続けていると地球から落ちちゃうと本気で怯えるひとに対して「地球はまるいから大丈夫だよ!安心して!落ちることは絶対にないから不安になる必要はまったくないよ!」と100%の自信を持って伝えることができる。同じように、未来のひとびとから見ると、家族関係などで悩むひとびとに対して「家族は好きなだけ作ることができるから大丈夫だよ!安心して!ひとつがダメだからって全部がダメになることなんてないよ!」みたいな感じに思われるのかもしれない。

 

何が言いたいのかというと、いまを生きるひとりひとりが抱えている悩みと呼ばれているものも「未来から見るとまじでどうでもいい話」になるのかもしれないということです。現代社会において、船を漕ぎ続けると地球から落ちちゃうという悩みに対して、わたしたちは「いや、全然大丈夫だから!」と思うことができる。そして、実際に船を漕ぎ続けて無事を確認したそのひと自身も「あら、全然大丈夫だった!」と思うことになる。わたしは、この「いや、全然大丈夫だから!【あら、全然大丈夫だった!】」という感覚が大好きで、これまで常識とされていたものがゆっくりと溶け出していくその様に、ある種の『自由』を見る。ごちゃまぜの家の活動を通じて「家族を溶かしたい」などと思っているわたしの本音は、多分、そこにあるのだと思う。わたしは「自由を感じたくて」この活動をはじめているのだと思う(ように最近は思うようになっている)。

 

『ウルトラライトハイキング』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、土屋智哉著作『ウルトラライトハイキング』です。前から気になっておりましたこちらの本、昨日、ふらふらぁっと立ち寄った御徒町駅前のアウトドアショップに置かれていたのを見て「いまだ!」と思って即買いしました。これからの時代「軽やかさ」はある種のキーワードになるような気がしていて、わたしも「何かあった時のために…」と身軽に生きるすべを身につけていきたいなあと常々思っている次第でございます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

1泊2日5キロ以下!ローカットシューズでOK!マットは切って活用!アメリカのハイキングカルチャーのなかで生まれた「ウルトラライトハイキング」は、軽さを味方につける革新的なハイキング技術のみならず、なにが必要でなにが不必要かを考え実践する、シンプルライフの思想そのものでもあった。2011年に刊行された日本初のウルトラライトハイキング解説書、待望の文庫化。

 

土屋智哉『ウルトラライトハイキング』【ヤマケイ文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

家族とは『人類』である。

前回の記事で「実はお金がやばいです!」という投稿をしたら、なんということでしょう!即座にお振込をいただいた女神様や、イベント会場まで自転車をかっ飛ばして手渡しに来てくださった女神様まで現れてくださり、わたしは感動に打ち震えていました(こころの底からありがとうございます!!)。もちろんみなさま初対面の方々で、なかには生活保護を受けながら小さなこどもを育てていらっしゃるシングルマザーの女性【素晴らしい声の潤いの持ち主でした!】から「わたしも、みなさまに生かされている身になりますので」という(まるで言葉にし切れないのですが本当に本当に本当に本当に本当にありがたい)お言葉もいただき、ああ、これはもう全員家族だ。会ったことがあるひとも会ったことがないひとも、自分が「これは家族だ」と思えばそれはもうすでに家族なのだと、そういうことを思いました。

 

クラウドファンディング支援者の方々に、引き続き電話をかけ続ける日々を過ごしている【昨夜は日暮里の漫画喫茶に宿泊をした】。みなさま、これは異常事態なのではないのだろうかと思えるほどに優しい方々ばかりで、わたしは「ほんとうにありがとうございます!!」を連呼する。すると、相手の方も「ありがとうございますはこちらの方です!!」と言う。わたしは「いやいや、それは完全にこちらのセリフですから!!」と言う。そんな感じで『ありがとうございますの謎の応酬』がはじまる。わたしが「がが、がが、がんばります!!」と言うと、相手の方は「がんばらなくていいから、坂爪さんのやりたいようにやってください!!」と言う。わたしは「ガガーン!!なんていいひとたちなのだ…!!」と感動をする。別に綺麗事を言いたい訳ではない。綺麗事を言いたい訳ではないのだけれど、みんないいひとばかりで感動をする(10万円支援者の方も、御返しは不要になりますので他の方に時間を使ってくださいと辞退をされる男性もいらっしゃいました!!なんとーーー!!)。

 

岐阜在住の女性からも、御礼の電話のあとに「直接おはなを渡したいけど渡せないので、実家が梨農家なので梨の花の写真をお送りします!」と、花の画像を送ってくれた(オカメインコの飼い主の方からは、オカメインコの写真を送っていただきました!!)。こういうのが、なんだか、とってもうれしくてこころが温まる。巷には「人類みな兄弟!」という言葉もあるけれど、わたしたちが向かうべき境地は、多分、そこ【人類みな家族!の境地】なんじゃないのかなということを思う。単なる綺麗事としてのスローガンではなく、ひとりひとりの人間の切なる実感として、生きとし生けるものは、みな、自分の家族【家族になり得るもの】なのだという認識は、大袈裟な言葉になるけれど「平和」に貢献をするものだということを思う。ひとりがひとつの音楽になり、ひとつのプレイリストを作るように、いくつもの家族が作られていく。これまで以上に『個』が重要視される時代において、まず、何よりも「(誰かに合わせるのではなく)自分を出す」ということが、とても大切なことになるような気がしている。

 

 

https://www.instagram.com/p/BTptSyrjTVW/

梨の花。。。

 

人生は続く。

 

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実際問題、最大のタブーとは『家族』である。

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10万円支援者の方に「おはなを届ける」という任務を遂行した。大きな花束をひとにあげる経験は生まれてはじめてのことだったので、果たしてどのような顔をしてお渡しすればいいのだろうかと小一時間程度悩んだ。 支援者の方と、事前にメールでやりとりを交わした時の印象では「言葉遣いも非常に丁寧で落ち着いているし、きっと年齢は40代程度なのかな」なーーーんて勝手にタカを括っていたら、実際に面会させていただいた女性は26歳のうら若き乙女様【都内でOLのお仕事をされていらっしゃるとのこと!】で、驚愕の事実にわたしのアゴはごちゃまぜになった。この若さで、この大胆さとは!素晴らしい!奇跡だ!奇跡を見た!日本の未来は明るい!これで安心をして死ねる!などと思うと同時に、わたしは「俺もしっかりと生きよう…」と、精神の帯を締め直した。

 

 

完全なるわたしの確認ミスで、クラウドファンディングの支援金が振り込まれるのは6月末だということが判明をした。決済手数料も5%だと思っていたのだけれど、いろいろと含めると10%になるみたい【総額430万円程度になります!】で、ああ、こういう初歩的なミスを犯しまくるから自分は社会生活には不適合なのだということを思って落ちた(というのは嘘で、20秒くらいで復活をした)。非常にありがたいことに、実際に手渡しで支援金をダンクしてくださった神様のおかげで、いま、どうにかこうにか移動を続けることができています【こころの底からありがとうございます!!最高に助けられています!!】。もしも、これはもしもの話です、もしも「クラウドファンディングで支援をやり損なったから、いまからするよー!」という神様予備軍の方が奇跡的にいらっしゃいましたら、下記の口座番号まで直接お振込いただけましたら寿命が延びます!!【もちろん、従来通り(クラウドファンディングの記事にある通り)の御返しを誠心誠意を込めてさせていただきます!!】

 

ゆうちょ銀行 10120 54031201 サカツメケイゴ

 

 【ゆうちょ銀行以外からお振込の場合】

銀行名 ゆうちょ銀行
金融機関コード 9900
店番 018
預金種目 普通
店名 〇一八店(ゼロイチハチ店)〇一八店(ゼロイチハチ店)〇一八店(ゼロイチハチ店)
口座番号 5403120

 

自分で書いておきながら「なんだか心臓がキリキリしてきました…」という心情になっているのがいまです!!実際にお振込いただいた神様は、お手間をかけてしまって非常に心苦しいことこの上ない話になるのですが「振り込んだよー!」的なご連絡をいただけますと非常に幸いです!!折り返し、早急に、御礼の気持ちを全力で込めさせていただいた返信なりお電話なり花束なりをご用意させていただきます!!【こんな感じの愚かもの具合で本当に申し訳ありません!!菊名の家だけは、どのようなことがあっても死守をするのでその点はご安心ください!!】

 

ひとは優しい。

ここ数日、睡眠欲と食欲がもの凄い。どれだけ食べてもお腹は減るし、どれだけ眠っても常に眠気がある(この瞬間もとっても眠いです!!)。どうしてなのだろうかと友達の徹君に相談をしたら、徹君曰く「いま、圭吾さんのことを思っているひとがたくさんいるからじゃないですか?誰かに『生きろ!』って思われているその力が、睡眠欲とか食欲にあらわれているのではないでしょうか!」とのこと。わたしは、ああ、なるほど、そういうこともあるのかもしれないと思った。変な言い方になるのだけれど、1日の密度が通常の3倍程度になっている感覚がある。考え事をしているだけでも猛烈にカロリーを消費している感覚があって、特段カラダを動かしている訳でもないのに体重は減らない代わりに肉体が引き締まっている。この現象はなんなのだろうか。肉体全体がそこはかとない野性味を帯びはじめているような気もしていて、「人間のカラダって面白いな!」と思う。

 

隙間時間を見つけては、支援者の方々に御礼の電話をする日々を過ごしている。みなさまほんとうに優しい方々ばかりで、こんなに電話をしていたら疲れちゃいませんかなんて気遣ってくれる(本当にありがとうございます!!)。事実、電話をする前は「疲れちゃうのかな??やっぱりこういうのって疲れちゃうものなのかな??」と思っていたけれど、実際は真逆だった。電話をする度に元気になる。みなさまが優しい方々ばかりだからというのが多分最大の理由になると思うのだけれど、電話をさせていただけることのメリットは「一気にふたりの距離が近づく」「次に連絡を取るためのハードルが下がる」「メールにはない温度感を感じることができる」「お互いの存在【生きているということ】を確認することができる」「なんだかこころに新鮮な風が吹いたような気持ちになる」などがある。声のことを『肉声』とも言う。肉声には、温度がある。

 

先ほど、お話をさせていただいた女性は鳥取県に在住とのこと。わたしが「どうしてご支援をしてみたいと思っていただけたのですか?」とお尋ねすると、その方は「坂爪さんの存在を知るようになってから、なんだか自分の悩みとか不安なんてどうでもいいことのような気がしてきて、その御礼をさせていただきたいと思ったからです」なんて言葉を与えてくれて、ああ、もう、ひとってなんでこんなに優しいのでしょう!んもう!目の前にいたら抱きしめていたところですよ!!!と感動をした。わたしは「御礼を言いたいのは僕の方です!【それがそもそもの目的なのに、自分が御礼を言われちゃっているこの現象はなんぞ!】」と電話越しに絶叫をしながら、ああ、世界は素晴らしい…こんな僕でも生かしてくださるのだ…なんてことを思いました(なんだか文章が雑でごめんなさい!いま、眠気がピークに来ています!でも、どうしても書きたいことがあるから続けます!!!)。

 

家族をアップデートする。

ごちゃまぜの家の活動をはじめてから、わたし自身の内部で「もしかしたらこの活動は時代の大きな転換期を象徴するものになるのかもしれない」という感覚を覚えるようになった。何かが大きく変わるとき、その時の状態を、映像でもなんでもドキュメンタリーのようなもので残せないだろうかと思っていた。まさにそのタイミングで、映像製作会社の方から「一度取材に行かせていただけないでしょうか?」というご連絡をいただいた。まだ、これからどのような流れになるのかは何も決まっていないけれど、ごちゃまぜの家という活動が「家族をアップデートする」ものになりそうな予感がしている。そして、この予感は決して生易しいものではなく「もしかしたら、実はとんでもないことをやろうとしているのではないだろうか」というある種の恐怖感さえも抱かせる感覚になる。

 

世の中には『タブー』と呼ばれているものがある。以前のわたしは「セックスと、死と、金。これらの3つの話をすることが、世間的にはタブーと言われている」ような感覚を覚えていた。しかし、最近では「実際問題、最大のタブーとは『家族』なんじゃないだろうか」と思うようになった。これは極論になるかもしれないけれど、様々な人々と出会う日々を送りながら、あらゆる問題の根源は「家族関係にある」のではないだろうかと感じることは多い。家族関係(多くの場合は両親との関係)の中に未解決事項がある限り、その問題は、他のあらゆる人間関係(友達とか恋人とか職場の同僚など)に反映をされる。父親【母親】に愛されなかったという思いが強いひとは、父親【母親】の代わりを求めて死ぬまで彷徨う。が、実際の父親【母親】は世界にひとりしかいないために、代わりを見つけることはできない。最高の解決策は「許すこと」だと思うのだけれど、しかし、口にするのは簡単だとしても実際に「許す」ことは難しい。これまでの人生において「どうしても許せないひと」がいる限り、その感情はあらゆる人間関係にも影響【不信感】を与える。

 

家族という集合体は、当たり前に存在をしているようで「その内部では、とんでもない独裁政治が行われている閉鎖的な空間」でもある(と思う)。自分の家庭では普通だと思っていたことが、一歩外に出てみると、実は異常なことだったのだと気付いたという話を耳にすることは多い。あるひとは言う。我が家には、親の言うことは絶対に従わなければいけないという教育方針がありました。そのため、何をするにしても「親の許可」が必要になるために、いつの間にか他人の顔色ばかりを気にする性格になっていました。わたしが何かをするためには、自分以外の誰かの許可が必要になるために、許可がおりない限り「わたしには何もすることはできない」という思いが無意識のうちに内側に蓄積をしていきました。

 

『日々のことば』

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突然ではありますが、このタイミングでわたり文庫無料郵送のご案内をいたします。今回の一冊は、マザーテレサ著作『日々のことば』です。こちらの本、過去にも何度か紹介をさせていただいた度に物凄い応募数をいただいていた【ほんとうに素晴らしい本だと思います!】のですが、先日、こちらの本をお渡しさせていただいた方が「他にも読まれたい方がたくさんいらっしゃると思うので、是非、この本を使ってください」とわざわざ熱海まで返却をするために足を運んでくれました(しかも!!「これは本の郵送代に使ってください」というお言葉と共に貴重なお金も添えて!!C様、ほんとうにありがとうございます!!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※

 

4月7日【註・坂爪圭吾の誕生日です!】

 

どんな国であれ、信仰のあるところでは、

わたしたちが働くのに困ったことは、まったくありません。

わたしたちは、すべての人を神の子どもと考えています。

みんな、わたしたちの兄弟、姉妹です。

わたしたちは深い尊敬をもって接します。

わたしたちの仕事は、

クリスチャンも、ノンクリスチャンも同じに、

彼らをいっそう勇気づけます。

心からあふれる愛の働きはどんなものであっても、

人々を神に近づけるものなのです。

 

マザーテレサ『日々のことば』【女子パウロ会】 

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

実際問題、最大のタブーとは『家族』である。

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5月6日(土)まで、東京都文京区の根津という場所にある「ヒタキバ(旧・宮の湯)」で、わたしの友達のMAYUCHAPAWONICAさんが展示をしています。彼女の作品が非常に最&高で(これは無理矢理にでも体験をさせたい!!と強く思う)、且つ、彼女の存在自体がわたしの琴線に触れまくっているのですが、5月3日(水)14時からMAYUCHAPAWONICAによるアーティストツアー【作品解説】なるものが開催されます。わたしも足を運ぶ予定になっているので、もしも、お時間のあります方は現地でお会いできたら(そして諸々のお話を一緒にできたらいいなあ)と思っています。

 

【イベント情報】4/22〜5/6夜の浴場とヒタキバを巡る 小さな冒険 - CHAPAWONICA BLOG ~らぶ&ぱぽぷ~

 

この会場では、すべての服を取っ払って真っ裸になっているMAYUCHAPAWONICAさんの写真も展示をされています。昨日も、根津の会場でMAYUCHAPAWONICAさんと話をしていたのですが「多分、自分自身をどれだけ殺せるかなんだと思う。自分が誰よりも早く自分自身に飽きて、古い自分を一回殺して、新しい自分になって生まれ変わる。どれだけ生きたかっていうのは『どれだけ死ねたか』ということで、ほかの誰でもない、自分が自分自身から『いまの自分、ダサーー!!!』ってなった瞬間から、きっと、何かを変えていかなくちゃいけないのだと思う」という話をしていました(ほんとうはもっといい感じの話だったはずなのだけれど、極上の眠気が記憶のすべてを吹き飛ばしています!!)。

 

シークレットステイトメント3《未来》 - CHAPAWONICA BLOG ~らぶ&ぱぽぷ~

 

いばや的には「答えよりも問いになりたい」という思いがあり、問われているものは「未来を見抜くセンス」なのだと思います。いま、目の前にあるものは答えではなく「問い」があるだけ。MAYUCHAPAWONICAさんは「私は考え続ける。それが生きるってことだから」と言います【これは最高に格好いい言葉だと思うのですが、説明不足で申し訳ありません!!】。昨日、ブログ読者の方から一通のメールをいただきました。そこで引用をされていた言葉が素敵だったので、ちょっとだけ長くなりますが最後に引用をさせていただきます。眠気を言い訳に非常にまとまりのない文章になりましたが、いま、坂爪圭吾は「家族というタブー」に興味があるということだけでも伝わったらうれしいなあという思いから、この記事を更新しました。 それでは、当日、現地でみなさまとお会いできますことを楽しみにしております!!

 

 

坂爪さん、ありがとうございます。

お返事いただいて、驚きました。
食事をしていた手が、漫画みたいに止まりました。
もちろん、嬉しかったです!

名字ではなく名前で、
それも10人中7人は呼び間違える名前を間違えずに呼びかけて下さって、
これが坂爪さんの、一人一人との関わり方なんだなあと思いました。

それは、たくさんの方が贈り物を何か返したくなるなぁと思いました。


私も、今日ちょうど大事な会のお知らせに載せようと思っていた、
瞑想の先生の言葉を、坂爪さんにお送りしてみたくなりました。

なんだか坂爪さんと響き合うような気が、勝手にしまして。

お時間ある時、ちょっと読んでみていただけたら嬉しいです。

あ、無限にお忙しい中、お返事はいただかずとも、大丈夫です。
たくさん、お気持ち、いただきました。


坂爪さんみたいな方が、元気でこの世界にいて下さることへの感謝をこめて


◯◯◯◯◯


***


あなたのからだはダイナモ〈発電機〉だ。

 

使えば使うほど

無限なる源泉からのエネルギーの供給は、

ますます大きくなる。

 

活動を通して、あなたはエネルギーを新たにする。

 

使えば使うほど

源泉からのエネルギーはいっそう得やすくなる。

 

 

あなたもまた、永遠の中に根を下ろしている。

 

エネルギーを使うときには、

あなたはこの〈無限〉からエネルギーを吸っている。

 

あなたの根が、働き始める―

 

 

どの次元のことであっても、

同じ法則があてはまる。

もっとほしいと思うものがあれば、

何であれ、同じようにやってみなさい。

 

もしあなたが愛の無限の源泉となりたいのなら、

できるかぎり多くの愛を分かち合いなさい。

 

けちんぼにはなりなさんな!

 

もしただ流れ続けていられたなら、

もっともっと多くが、あなたの手に入るようになる。

 

 

イエスがどこかで言っている。

 

「もし生命に執着したら、あなたはそれを失うだろう。

 

もしそれを失くす用意ができていたら、あなたはそれを溢れんばかりに得るだろうー」

 

 

いつでも、あなたが何かを与えるなら、根からもっともっと入ってくる、

もっとが与えられる。

 

〈神〉は与える者、無条件に与える者だ。

 

 

もしあなたもまた与える者なら、両手を空っぽにしておくことだ、

そうすれば、〈神〉はあなたにもっと多くを与えられる。

 

もしあなたがけちけちする人なら、

神性なるものとあなたとの関係は断ち切られることになる。

 

その時、あなたはただの小さな一つの波、

いつもいつも失うことを恐れている、小さな波になっている。

 

 

大海のように生きるがいい。

大海原になりなさい。

失うことなど決して考えずに・・

失われるものなど何ひとつない。

 

あなたはただ〈全体〉の一つの顔、

〈全体〉がたまたまそのように起こった在りようだ。

 

 

それについて何も心配することはない。

それには決して終わりが来ない、

この〈実在〉には始まりもないし、終わりもないー

 

 

楽しむといい

祝うといい―

活動的になるといい。

 

 

そして、いつもいつも、与える者になりなさい。

 

トータルに与える者になることで、

何かをとっておく、しまっておくなどということは

決して考えないようになりなさい。

 

それが唯一の祈りとなるようにー

 

与えることは祈ること

与えることは愛することー

 

 

そして与えることができる者は

必ずもっと多くを与えられる。

 

***

 

https://www.instagram.com/p/BTkj17eD7Rl/

ざわざわ。。。

 

人生は続く。

 

413-0002

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

photographed by 一ノ瀬健太

日本って素晴らしい国だぜ。

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クラウドファンディングの企画は無事に終焉を迎えまして、なんと、総額4,873,568円もの支援金額が集まりましてアゴが外れました。 ご支援いただいたみなさま(ご支援をしてみたいと思ってくれたみなさま)、こころの底からありがとうございます!!小生、GWを含めた五月の予定はガラガラになりますので、時間の許す限り御礼の電話をしまくったりおはなを届けまくったりしていきたいと思っております。そして、御礼の電話をしたから「はい、おしまい!」なんてことになるのはなんだか嫌で、このような機会を通じて出会えたみなさまとのご縁が「続いていくものであればいいなあ」ということを、如実に感じております。

 

 

今回のブログ記事では、ごちゃまぜの家でやりたいと思っていること【支援金の使われ方】について、現状思っていることを書き綴りたいと思います。前回の記事で書き忘れたことがあるのですが、五月中にははじまるであろう「GOCHAMAZE@菊名」の古民家には、古いピアノと車一台分の駐車場のスペースがあります。そのため、久しぶりにピアノを弾きたいなあって思われた方が気軽に足を運べるようになったらいいなとか、小さな定期演奏会とかもやれたらいいな(音楽が好きだけど音楽から離れていたひとがもう一度音楽に戻れる機会になればいいな)とか、駐車スペースには「誰でも自由に使えるみんなの車(ガソリン代だけは負担を願うかもしれません!)」なんてものがあったら素敵だなとか、そういうことを感じております【数年前、福島県在住の方から「ポルシェを使いませんか?」というご連絡をいただいた記憶が蘇りました。ごちゃまぜの家で「ポルシェアリング!」とか言えたら楽しくなりそうだとか思っちゃったのですが、こんなことを言っていると罰が当たってしまいそうですね!!】。

 

【過去記事】【いばや会議】「センスのある損」の尋常ならざる実例。ー 死ぬまで騙されていたい嘘をつくこと。 - いばや通信

 

わんにゃんランドの建国。

いまから数週間前、20名程度の団体で「大阪の家にあるごちゃまぜの家の候補物件を見に行く」という出来事がありました。結果的に、いますぐにこちらの家を使わせていただけるという流れにはならなかったのですが、この物件を一緒に内覧に行った30代の女性の方が、こんな素敵なことを言っていました【これからは、出会う方々に「お金が無限にあったらやってみたいことってありますか??」と尋ねていきたいなあって思いました!!】。

 

もしも自由に使えるお金が無限にあるとしたら、わたしだったら、いつか『わんにゃんランドをやりたい』なあって思います。ペットショップとかで動物が売られているっていうこととか、保健所とかで殺処分をされている動物がたくさんいるっていうのはやっぱりちょっとおかしい気がする(実際にペットショップがない国もある)と思うので、保健所やペットショップの犬や猫を全部わたしが引き取っちゃって、里親が見つかるまで自分が面倒を見るなんてことができたらいいなあって思っています!!

 

わたしは、これを聞いた時に「ブラボー!あなたは天才だ!なんて素晴らしい夢なんでしょう!」みたいな気持ちになりました。また、その時同席をしていた別の女性は「わたしは多肉植物が大好きなので、いつの日かビニールハウスの中で大量の多肉植物を育てて見たりしたいです」ということをおっしゃっていたので、あれ、これはもしかしたら『ごちゃまぜの家』で一緒にやったら面白くなるんじゃないだろうか、そこに行けば「たくさんの動植物と戯れることができる」というのはそれだけで最高の家になり得るのではないだろうか、などとわたしは安易に感じてしまいました。家も、動物も、植物も、たったひとりで世話をしようとするといろいろと大変なこともあるとは思うけれど、ごちゃまぜの家のように「ひとの出入りがある場所」ならば、そこにいるひとたちが代わる代わる面倒を見ることができたらいけるかもしれない、なんていうことを感じました【これから増殖をしていくであろうごちゃまぜの家は、まったく同じものが各地にできるのではなくて「(その場所に適した)いろいろな在り方」があってもいいのだろうなと思いました】。

 

【過去記事】罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。 - いばや通信

 

鉄砲玉48の結成。

鉄砲玉48【てっぽうだまふぉーてぃーえいと】とは、非常に乱暴にまとめると「お金はないけど時間と体力はある若い男女をかき集めて、もろもろのご依頼に『無償で奉仕をし続けまくる(カラダを張ってお応えしていく)』広い意味での便利屋集団」みたいなイメージです。たとえば、子育て中のお母さんなど、誰かの力を借りたい場面などは頻繁にあるように思います。そんな時に、あ、そうだわ、鉄砲玉48のひとたちにこどもの世話とか家の手伝いを依頼しちゃえばいいんだ!みたいな感じで、誰にでも自由に気軽に使ってもらえたらいいのかななんていうことを思います【そうすることで、鉄砲玉48の若手メンバーも『普段だったら出会わないひとたち』との広範囲なつながりが生まれ、結果的に生きるネットワークが広がるのではないだろうかと睨んでいます!!】。

 

家のない生活をしていた頃、ああ、金も家も仕事もなくても「ひととのつながり【そして、少しばかりの勇気!】」があればひとは死なないのだなあということを実感しました。逆に言えば、ひととのつながりが断たれてしまうと、途端に、死の淵に立たされてしまったかのような不安や恐怖心は芽生えてしまうものだと思います。先日、ごちゃまぜの家の企画を支援してくださった方が、「最悪、ごちゃまぜの家に行けばなんとかなるのだという安心感があれば、もうちょっと大胆に生きられそうな気がします」という言葉を与えてくれました。ああ、ほんとうにそうだなあと感じたわたしは、「最悪、ここに行けばなんとかなる」と思える場所や空間や謎の団体(?)を、少しずつ増やすことに貢献をできたらいいなあ(何よりも自分自身が楽しい!)と思いました。

 

わたしは『たけし軍団』のコンセプト(?)が大好きなのですが、その中でも、とりわけ「たけし軍団には野球に強いひとが多く、毎日のように草野球をやっていたら、結果的に阪神タイガースの二軍選手たちに勝つレベルにまで上達をした」というエピソードが大好きです。もちろん、阪神の選手も手加減をしていた試合だとは思うのですが、なんというか「遊びながらやっていたことが、いつの間にかプロレベルにまで上達をしてしまった!」というのは最高の流れだなと思います。かの有名な映画監督・宮崎駿さんは「若いこと、貧乏であること、無名であることは、創造的な仕事をする三つの条件だ、と言ったのは毛沢東です」と頻繁に口にしていたのだそうです。鉄砲玉48には、そういう「【どのような展開を見せるかわからない】エンターテイメント性」のようなものも同時に帯びているような気がしていて、やっているほうも楽しいし、見ているほうも楽しい、そういう謎の団体(?)を結成できたらいいなあなんていうことを思っています。

 

家をもらうまで帰れま10。

わたしの友達に、嘉向徹さん(26歳)と保科亮太さん(28歳)という男性がいます。彼らは「チームゼロ」というユニットを結成していて、基本的にあらゆる依頼に無料で奉仕をし続けるという活動を数年間行なっていました【結果的に、その活動を見ていたひとが「君たちは素晴らしい!」ということになり、新潟県佐渡島に誰でも自由に使える家を与えてくれました】。ふと、わたしは「たとえば彼らに100万円を渡して、このお金で『タイのバンコクに誰でも自由に使える家をつくってきてください』みたいな感じで丸投げをしたらどうなるのだろう(且つ、その模様をテレビ番組みたいに配信をしたらどうなるのだろう)」と思いました。タイトルは『家をもらうまで帰れま10(仮)』みたいなイメージで、チームゼロのふたりにはとにかくカラダを張りまくっていただく。視聴者の方々には、その姿を見て楽しんでいただき、結果的に家が手に入ったあかつきにはみんなで一緒に遊びに行く。このような考え方は、みなさまの目にはどのように映るでしょうか??

 

2017年4月7日に32歳を迎えたわたしは、すでに老害であると言っても過言ではありません(過言か!)。これからは「自分を生かそうとするのではなく、若い世代を生かすために生きなければならない!」という思いに(ほんのちょっと【ティースプーン一杯程度】だけ)駆られています。というのはライトなジョークで、単純に「若い衆が死に物狂いで何かを手に入れようと悪戦苦闘をしている姿を見ていることは、見ているこちらにも『生きていればどうにかなるのだな!』という生きる勇気と笑いを与えてくれるものになるのではないだろうか」という温かな予感があります。彼らが頑張ってくれることで、それを見ているひとにも「いつでも自由に使える場所が世界各地に増えていく」というのは、たん面白いんじゃないのかなあなんて思うのですがどうなのでしょうか。

 

ここまで書きながら「ああ、俺は、家を増やしたいのではなくて『ひととのつながり』を増やしたいと思っているのだな。自分だけが自由に使える『所有』を増やしたいのではなく、誰もが自由に使える『共有』を増やしたいと思っているのだな。真面目に生きることだけではなく、『笑い』や『魔法みたいな奇跡』や『大胆な生き方』という要素のなかにも、同じくらい生きていることの輝きを覚えるタイプの人間なんだな」ということを思いました。過去記事で「人生とは、自分を楽しませることである」というものを書きました、自分が楽しませたいと思っているのは、他の誰でもない『自分自身である』ということ。そして、自分を楽しませることによって、その楽しさが周囲にも伝染をしていくような、そういう生き方をしていきたいと思っているのだなと、そういうことを思いました。

 

【過去記事】人生とは、自分を楽しませることである。 - いばや通信

 

日本って素晴らしい国だぜ。

わたしはお風呂が大好きで、隙があれば温泉や銭湯に突撃をするのですが、稀にサウナなどにテレビが置いてある場所があります。普段、まったくテレビを見ない(家にテレビがない)ために、久しぶりにニュース番組とかを見ると「不幸のオンパレードじゃないか!」という気持ちになって気分が滅入ります。朝から事件の話ばかり聞かされたら、最高の一日をスタートできる訳がないじゃないか!ごるぁ!みたいな気持ちになることもあるのですが、実は、テレビや新聞が「問題だ!問題だ!」と騒いでいるほど、日本という国は物騒なものではないと思います。事実、わたしのような「ごちゃまぜの家をつくりたい!」という抽象的極まりない思いにでさえ、これだけの方々が支援をしてくださるという現実があります。いま、わたしは、声高に「日本って素晴らしい国だぜ(優しいひとはたくさんいる!)」ということを、 主張してみたい気持ちになりました。

 

 

数年前から「いばや」という団体をやっているのですが、わたしは、いばやのメンバーを愛しています。彼らは一様に(お金はないけど謎に)元気で、生命力にあふれ、無理のない自然的な明るさがあり(テンションが高すぎるひとは実はあまり得意じゃないのだけど、テンションは普通だけど健やかに明るいひとは大好きです)、単純に「一緒にいるだけで元気になる」ところが大好きです。人生を楽しむコツは「何をやるのかということの100倍以上、誰とやるかに集中砲火をすること」だと思っているのですが、一緒にやる相手さえ間違えなければ、何をやっても「どうしたって面白いものになる」ような気がしています。

 

 

先日、菊名の家の大家さんとお話をさせていただいた際に、大家さんが「あなたたちの活動を通じて、それに触れた方々が『世界って捨てたもんじゃないんだな』って、そういう気持ちになることのできるような活動になってくれたら嬉しいです」という言葉を投げかけてくれました。わたしは、そういった部分は得意分野であるような気がするので「任せてください!」と、調子に乗りそうになる自分を抑えながら静かに答えました。その後、クラウドファンディングは無事に終焉を迎え、支援者の方から一通の素敵なメールが届きました。そのメールがあまりにも素敵な内容だったので、最後に共有をさせていただきます。みなさまにとって、今日という日が素敵な一日になりますように!!はぶあぐっどでい!!

 

 

坂爪さん、ハワイからお帰りなさい。


坂爪さんのブログを読んでいたりして、好きな詩が思い浮かんだので、プレゼントさせてください♪


ドイツ人アーティストのヨーゼフ・ボイスって人の詩で、私は彼には詳しくなく、詩心もありませんが、この詩をある時偶然見て、わ、いいな、と思いました。


和訳があるのかわからないので自分で訳してみましたので、稚拙な文体になってるかもですが(笑)

 

「身を任せよう」

 

蛇を観察しよう、とんでもない庭を作ろう
危険な人をお茶に招こう
「yes」を意味する小さな印を作って
家中に置こう
自由と不安定の友達になろう
夢を持つことを喜ぼう
映画を見て泣こう、月夜の下でブランコに乗って
思いっきり高く漕ごう
いろいろな気分に寄り添ってみよう
責任を持つことを拒否し、
愛情からそれをしよう
魔法を信じよう、たくさん笑おう
月光の下で泳ごう
ワイルドな、想像力豊かな夢をみよう
壁に絵を描こう
毎日読書しよう
魔法をかけられていると想像してみよう
子供たちとくすくす笑おう、老人の話に耳を傾けよう
全ての物で遊ぼう、自分の中に子供を持ち続けよう
君は無邪気だ、毛布でお城を作ろう
びしょぬれになろう、木に抱きつこう
ラブレターを書こう

 

https://www.instagram.com/p/BTe0qrOjCVv/

あたやけ。。。(熱海の朝焼け)

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

好きなように生きなさい。

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ごちゃまぜの家の第一号として、神奈川県横浜市港北区にある築60年の古民家を(おそらく五月中には)使わせていただけることになりました。最寄駅はJR&東横線菊名駅から徒歩10分程度、閑静な高級住宅街のど真ん中にあります(それなのに家の裏には雑木林!)。横浜や自由が丘まで電車で10分、渋谷まで20分、新横浜駅も徒歩圏内になるので、新幹線を使えば品川まで10分、熱海まで20分、京都まで120分といった場所にあります。クラウドファンディングの募集期間も、残り12時間程度となりました。何かしらの「えこひいきグッズ」なるものを支援者の方々に追加でご用意をしたいと思っているのですが、まだ、何をご用意すればいいのかが何も決まっておりません!!

 

 

不動産業者Y様のご好意で、家賃は無料(!)で使わせていただけることになりました。使える部分は二階建ての古民家の一階部分(広さは5DKほど!)になるのですが、なぜ、無料でも大丈夫なのかというと「家の二階部分が(二世帯住宅みたいな感じで)完全に分離をしているために、家の二階部分【個室三部屋】と、家の真横にある離れの部分【個室二部屋】を賃貸物件として希望者の方に居住をしていただくことで、母屋の一階部分の家賃をまかまうことができるから」ということになります。言葉だけで説明をするとちんぷんかんぷんに響きかねないのですが、要するに「ごちゃまぜの家の真横に住めますよ!そこに行けば誰かと気軽に話すことができる(話せないかもしれない)し、ごはんが用意されているかもしれない(用意されていないかもしれない)し、ひとりになりたい時は自室にこもることもできます(これは絶対にできる!)よーー!!」ということになります。 

 

GOCHAMAZE@菊名 

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菊名の家の正面写真です。つい最近まで暮らしていた方々が、庭の手入れを丁寧に続けてくださっていたおかげで、非常に状態のよいまま維持をされています。ここで花を育てながらみなさまにお配りできたら素敵だなあ…そんな妄想をしてしまいます。築60年の古民家になるので、みんなで暮らしながら洒落乙に修繕をしていく形になるとは思うのですが、東日本大震災を無傷で乗り越えた実績はあります【家のリフォームなどは自由にやってもいいそうです!!】

 

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家の裏には雑木林があり(個人的にツボです!)、

 

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巨木も!(父ちゃん!)

 

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こちらが家のリビングで、

 

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縁側の日当たりは最高です。 

 

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今回、なぜ、こちらの家を使わせていただけることになったのかという物語の背景には、ひとりの不動産業者の男性Y様との出会いがあります。Y様曰く「これまでにない新しい不動産のあり方を探していて、ごちゃまぜの家のような居住者の方もそうではない方もみんなで使える空間があれば、たとえ血の繋がりはなくても、ある種の家族みたいになれるような、寝るだけに帰る場所ではなく「(家を通じて)共に暮らす」ことができる場所になったらいいなあと思って、今回、坂爪さんにお声をかけさせていただきました(註・ほんとうはもっと素晴らしいことを言っていました!が、うろ覚え&かなり言葉を変えてしまっていてごめんなさい!)」とのこと。 わたしは、不動産のことはあまりよくわからないのですが、単純にY様とY様の奥様のお人柄が素敵だったので「一緒にやりましょう!【わたしはごちゃまぜの家に集中をします!不動産関係のもろもろはよろしくお願いいたします!】」ということになりました。

 

優しい世界になればいい。

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昨日、菊名の家の大家さんと面会をしました。非常に柔和でやさしい雰囲気の大家さんは、小さな頃からこの家で暮らしていたこと、祖父様が丁寧に増築を繰り返していたこと、花を愛していた祖父様は、晩年、毎年「今年はこの花にしよう」とテーマを決めて庭を育てていたこと、どのような形でもいいからこの家を守っていきたいのだということを、静かに、穏やかな口調で聞かせてくれました。最後の方で、大家さんは「正直に言うと、若い人たちがどのようなことを考えているのかはあまりよくわかっていないのですが、これだけ多くの賛同者の方がいらっしゃるということは、これからの時代にきっと必要なものになるのでしょう。ひとのため、地域のために、この家を使っていただけることはとてもうれしいことです。あなた(註・坂爪のこと)を見ていると、昔、ミャンマーで出会ったお坊さんのことを思い出します。優しい世界になるための一助を、この家から、どうぞよろしくお願いいたします」という、身に余るお言葉をいただきました(本当にありがとうございます!!)。

 

クラウドファンディングの企画記事にも書いたのですが、わたしは、過去に二年間ほど「家のない生活」をしていました。この日々の中で得た教訓は108個くらいあるのですが、なかでも、最大の学びは「自分が想像をしている以上に、ひとは優しい存在なのだ」という一言に集約をすることができます。家のない生活をする前のわたしは、非常に傲慢で(今もですが!)、自分ひとりの力で生きることができて一人前、誰かに頼るのは半人前のやることだという認識で生きていました。そのため、自分にとって他人とは「張り合う対象」のようなものであり、大袈裟な言葉で言えば『他人とは敵である』という認識のもとで生きていたのだと思います。しかし、家も金も仕事もない状態に置かれ、ひとに頼らざるを得ない状態に置かれた時、自分が思っている以上にひとは優しいのだという体験を雪崩のように連続して体験をしました。何もないわたしに、寝る場所を与えてくれるひと、食べるものを与えてくれるひと、時には金銭的なサムシングを与えてくれるひとは、それこそ日本には無数にいました。

 

そして、わたしはわたしを恥じました。自分ひとりの力で生きていけるなどと思い上がっていたことを、他人を敵であるとみなしていた自分の度量の狭さを、思い切り恥じるような体験を連続的に重ねることができました(もちろんいいことばかりではなかったけれども!)。この生活を通じて起きた変化は大きく、他人は敵であると思っていたはずのわたしの認識は、いつの間にか「他人とは味方(になり得る存在)である」という方向にシフトをしていきました。この変化は、大袈裟な言葉になりますが『世界に立ち向かう勇気』を自分の内側に与えてくれました。自分の気持ちを丁寧に精一杯こころを込めて話せば、多くの場合、ひとは耳を傾けてくれるのだということを、そして、自分ひとりの力で生きることだけではなく「お互いに助け合うことができる」ということの中にも、ひとは、生きていることのよろこびや嬉しさを感じることができるのだということを学びました。なにもかもを自分ひとりの力で成し遂げる必要はない、なんのための他人なのか、それは「お互いに補い合っていくためのもの」なのではないのかと、そういうことを考え始めるようになりました。

 

敵が味方になる。

いま、わたしの目の前に30人のひとがいるとします。家があった頃のわたしは、表面的にはどれだけ愛想の良い表情を浮かべていたとしても、頭の片隅では「自分は付き合う価値のある人間だということを必死にアピールせねば!」とか「ひと並み以上に幸せな日々を過ごしている風に見られるように意識しなくちゃ!」などと、無駄に余計な思考を働かせていました。要するに『他人と張り合ってしまっていた』のですが、家がなくなってからというものの、なんと言えばいいのでしょうか『張り合っている場合ではない!そんなことよりも、今日の家だ!今日のメシだ!』という感じに変わっていきました。

 

それからというもの、わたしは「ここにいるひとりひとりに土下座をしてまわれば、ひとりくらいは『しょうがないから今日は我が家においでよ』的な感じで泊めてくれるのではないだろうか!」などと、非常に安易かつ不届きな思いを抱くようになりました。そして、わたしは「ハッ!」と気がついたのです。他人とは敵であると思っていたはずのわたしの思考は、いつの間にか、『他人とは味方(になり得る存在)である』に変わっていたのです!!わーお!!なんということでしょう!!謎に他人と張り合っていたわたしは、いつの間にか、自分の味方を探しはじめる青年に変化をしていたのです。そして、事実、ひとと肯定的に(もしかしたらいいひとかもしれない!的なスタンスで)向き合えるようになってから、ひとの優しさに触れる機会は圧倒的に増えてきたような、そういう感覚を覚えることがあります。

 

この体験は、わたしの中にあった「生きることに対する恐怖」を取り除き、代わりに「生きたいと思うことの希望」を与えてくれました。誰かのやさしさに触れると、単純に、自分もひとに優しくなれる人間になりたいという思いが芽生えます。対価としての優しさではなく、巡り巡っていくもの、過去に自分が優しくしてもらえたように、自分も、これから出会うひとびとに優しさを与えることができたなら、という思いに包まれます。その発露としての表現(?)のひとつが、この、ごちゃまぜの家ということになります。この家がどういう展開をしていくのかは、正直、まだまだわからないことばかりになります。が、大家さんが話してくれたように「優しい世界になればいい」という思いが、静かに、穏やかに伝播をしていくような、そういう空間になればいいなと思っています。

 

バガボンド(37巻)』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、井上雄彦著作『バガボンド(37巻)』です。バガボンドは大好きすぎる漫画で、37巻だけは過去に30回以上読みました。読むたびに「うぎゃー!」と励まされているのですが、この巻だけでも、全人類に読んでもらえたら最高に嬉しいと願う最高の一冊です。これは余談になるのですが、最後のほうに、秀作という米作りの天才のおじいさんが「(米作りのことは)俺に訊くな。土に、水に、草に訊け」的なことを言います。わたしはこの言葉が大好きなので、菊名の家も「おれに菊名【土に、水に、草に訊け】」とか言えたら最高だなあって思っています。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

さびしいのか

伊織?

 

さびしくなったら

木を見ろ

 

父ちゃん

きっと

そこにいる

 

死んだら

きっと

そこにいる

 

だってな

伊織 

 

木は

人よりも

長く

 

ゆったりした

時間を

生きてるから

 

もし木が

枯れて

倒れたら

 

川の石を

見に行くといい

 

父ちゃん

きっと

そこにいる

 

死んだら

きっと

そこにいる

 

石は木よりも

もっと

 

ゆったりした

時間を

生きてるから

 

何も心配しなくていい

 

木も石も

本当のお前を

知ってる

 

好きなように生きなさい

 

井上雄彦バガボンド(37巻)』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

好きなように生きなさい。

出会う人々から「いつまでこのような生活を続けるつもりですか?不安や恐れとかはないのですか?」などと尋ねていただけることは多い。結論から言うと、不安や恐怖は皆無に近い。別に強がりたい訳ではない。ただ、ない。それに近い感情を抱くことはもちろんあるけれど、ずっとそこにいない。不安や悲しみや苦しみにつかまってしまっている時間が、昔より、随分と短くなったような気がしている。そして、わたしは、逆に問いたいと思う。このような生き方をしていたら不安になるとしたら、このような生き方をしていないあたなには不安や恐怖はないのですかと問いたくなる。別に責めたい訳じゃない。不安や恐怖はないのかと問うということは、そのことを問うひと自身が、不安や恐怖と共にあるからなのではないだろうかと感じるだけだ。

 


どのような生き方をしていても、何が起こるかわからないというこの一点においてはすべてはフェアで、先のことは誰にもわからない。いまうまくいっていることのすべてがこの先もうまくいっている保証はどこにもないし、いまがダメだからといって、これから先もずっとダメであるとも限らない。永遠に変わらないものはない、すべては流れていく、この感覚を昔のひとは「無常」と呼んだ。万物は流転する。変わらないものは何もない、ただ、変わらないものは何もないということだけが「変わらないこと」であり、生き方には間違いもないのだから正解もない、ただ、答えなんてないということだけが「答え」であるような、そういう気持ちになることがある。過去や未来に現在を汚されてしまうことは頻繁にあるけれど、実際、わたしたちが生きることができるのは「この瞬間だけ」であり、逆に言えば、いま、この瞬間を生きることさえできれば「誰もが生きていることのよろこびを感じることができる」のではないだろうかと感じることもある。

 

 

生きるために必要なもの、それは安心感だと思う。それでは、どこに安心感を見出せばいいのだろうか。わたしの場合、それは「手に入れたもの」ではなく「あらかじめ備わっていたもの【奪うことのできないもの】」だと思う。最後に残るもの、それは『生命【躍動】』と呼ばれているものではないだろうか。家も金も仕事も失った時、わたしは、不思議な感覚になるけれど「俺にはまだ体温がある」と思った。俺には目と耳と鼻があって、何かを抱き締める腕があり、大地を踏みしめる足がある。好きだと思える自然があって、好きだと思える音楽がある。これ以上、何を求めることがあるだろうか。こうした感覚に立ち戻ることができた時、わたしは『安堵感』にも似た感覚を取り戻す。そして、バガボンドの中にも出てくる「好きなように生きなさい」という言葉を思い出す。不安にとらわれる必要はない、憎しみの感情に縛られる必要もない、何かを心配する必要もない。きっと、誰もが「好きなように生きる」ための準備は、すでに整っているのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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居場所とは、自分自身である。

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マウイ島のハナという地域まで車を飛ばす。適当なベンチの側に、電源もあればシャワーもついている公園を見つける。「ここで暮らそう」と思い立ち、波音を肴に果物を貪る。不思議な感覚になるけれど、コンクリートに包まれた豪華な客室で眠るよりも、海や森に囲まれて眠った時の方が抜群に睡眠が深い。何かしら、根源的な「安堵感」にアクセスできているからなのかもしれない。仮に、今後、何かしらの理由(たとえば「ごちゃまぜの家の破綻」など!)で何もかもを失うことになった時、そんな時は、「なんどでも自然に還ろう。野宿でもなんでも繰り返しながら、ロビンソンクルーソーのように逞しく生きよう」という生きる活力を得た【ごちゃまぜの家の実現に向けて、もちろん、自分史上最高の最善を尽くします!!】。

 


ハワイの日々を終えて羽田空港に到着をする。久しぶりの日本に、少しだけ胸が踊る。日本語が通じるという、ただ、それだけのことで「最高の国だな!」という気持ちになる。飛行機の中でディズニー映画『モアナと伝説の海』を鑑賞した。映画のテーマは「自分自身に還ろう!」というもので(違うかもしれない)、監督自身も「この映画で伝えたいことは、傷つき悩み迷った時にも、自分の心の声に従って生きて欲しいということです」と述べている。4月30日(日)には熱海の家でわたり食堂【0円食堂】を開催する。わたり食堂でも、ごちゃまぜの家でも、大切にしたいものは「そこにいるひとたちから自然とはな歌がこぼれ出すような、そういう空間になればいい」というビギナーズマインドになる。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

真の充足感は「他人の承認」を必要としない。

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マウイ島のハイクという地域にある「Maui Kombucha【マウイ・コンブチャ】」というカフェに立ち寄る。当初は、コンブチャと聞いても「昆布のお茶なのかな?」程度の発想しか湧かなかったものの、詳しく聞いたら「コンブチャとは紅茶キノコのことで、茶葉を発酵させるのではなく『お茶そのものを発酵させた』栄養素たっぷりの飲み物で、アメリカのセレブも御用達!」ということが判明をした。実際に飲んでみると、美味しいというよりも「これはカラダに効きそうだぜ!」感がすごい。これは日本でも作れるのだろうか。それとも難しいものになるのだろうか。詳しいひとに教えていただきたいです!!

 

※※※ What a wonderful world…ブログ読者の方から種【スコービー】をいただけることになりました!!地球のみなさま、いつもほんとうにありがとうございます!! ※※※

 

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アサイーボウルを一緒に注文する(なんだかもうナニジンかわからないくらい焦げ上がりました!!)。どちらかと言えばアサイーボウルにはまったわたしは、結果的に三日連続ここのアサイーボウルを食べた。ハワイの食生活は健康そのものなのだろうか、体調がすこぶる良い。島国に足を運ぶと体調がよくなる、これは潮風の影響なのだろうか、一説によると「海に入らなくても、潮風にあたるだけで人間の免疫力は高まる」などと耳にしたこともある。非常にお手軽である。うまい飯を食べる、美しい風景を眺める、温泉があれば温泉にはいり、寝る。たったそれだけのことで、ああ、俺の人生は完成をしているという気持ちになる。

 

【過去記事】カラフルでご機嫌な世界を生きるために。 - いばや通信

 

今回の旅の教訓はふたつある。ひとつは「食費をケチってはいけない」ということで、食べるものを食べていないと、根源的な『生きる気力』のようなものが衰退していく。わたしの場合、宿はボロくてもいい。海や森や車の中での野営でもいい。しかし、食べるものを食べていないと「なんだかもういろいろなことがどうでもよくなってきちゃった」みたいなことになる。逆に言えば、食べるものを食べると「うおりゃー!生きるぜ!」みたいな感じになる。そしてもうひとつ、それは『真の充足感は他人の承認を必要としない』ということ。自分が幸せになることと、ひとから幸せだと思われることとは、似ているけれどもものすごい違う。ひとがどう思うかということはかなーりどうでもいいことだから、まずは自分を満たすこと。自分を満たすことに成功をすれば、それを見たひとも「あれ、なんだかこっちも楽しそう!」みたいな感じで、ハッピーな雰囲気は伝染をする。うまい飯を食えば、多幸感が自分の内側に漲る。繰り返しになるけれど、まずは(誰かに幸せにしてもらおうとするのではなく)徹底的に自分を満たすことなのだと思う。

 

【過去記事】誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。 - いばや通信

 

自分自身に還る。

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自然に触れていると、当たり前のことだけれど「人間も自然の一部なんだよな」という気持ちになる。自然に触れてこころが慰められるのは、ただ、自然は「自然のままで」そこにあるからだ。自分を主張することもしなければ、自分以外の何物かになるために悪あがきをするようなこともない。花は鳥になろうとはしないし、鳥は花になろうとはしない。花は花のままで咲き誇り、鳥は鳥のままで飛び回る。その姿に触れた時に、わたしのこころは「ああ、いいな」なんて思ったりする。そして、自然を愛するように自分を愛していきたいという気持ちになる。なにかができるからとか、ここまで来ることができたからなどという理由からではなく、ただ、自分が自分であることをそのまま誇りにすることができたならいいな、ということを思う。

 

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最寄りのカフェでコーヒーを買い、ギターを弾きながら波音を聞く。別に気取った真似をしたい訳ではないのだけれど、ああ、最高だな【他にはなにもいらない】という思いになる。大袈裟な言葉で言えば「ここが自分の居場所だ」という気持ちになる。居場所とは、多分、場所ではなくて人間だ。海のことではない、美味しいコーヒーのことでもない、愛する誰かのことでもなければ、自然のど真ん中を意味する訳でもない、それは、なにかを愛する『自分自身のこころ』なのだと思う。数ヶ月前、ふと、こんな言葉が頭に浮かんだ。それは「行き場所をなくした迷い子よ、自分自身に還れ」という言葉だった。わたしには、定期的に、ああ、どこかに行かなくちゃいけない、行くあてはなにもないけれど、なにかをしなくちゃいけない、ここではないどこかに行かなくちゃいけないというある種の焦燥感に駆られることがある。なにかをしなくちゃいけない、どこかにいかなくちゃいけない、など、このような状態に置かれている時の自分を観察すると、多くの場合「自分自身を見失っている」だけなのだということがわかる。

 

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おとなになるということはどういうことなのだろうか。それは「誰かに認めらえるような生き方をすること」でもなければ「自分を犠牲にしてまでひとと合わせること」でもない、きっと、おとなになるということは「自分からひとを愛していけるようになること」なのだと思う。わたしが向かうべき場所は、自分の外側にある得体の知れないどこかではない、ただ、ずっと昔からすぐ側にあった『自分自身という自然』なのだと思う。自分が自分であるということに、健やかな自己肯定感を育むことができた時、おのずから、周囲のひとたちにも『健やかな優しさ』を差し出すことができるようになるのだと思う。居場所と呼ばれるものを外側に求めるのではなく、自分の内側に築き上げることができた時、同じように「ひとをひととして認めることができる【自分からひとを愛していけるようになる】」のだと思う。

 

居場所とは、自分自身である。

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日本に戻り、4月28日(金)には菊名【神奈川県横浜市港北区】の家の大家さんと面会をさせていただくことになった。わたしが大家さんに嫌われてしまわない限り、ごちゃまぜの家の記念すべき第1号が横浜からはじまる(受け入れていただけることを祈ります!)。これからどのような展開を見せることになるのかは自分自身もまるでわかっていないけれど、こころを込めるということ【目の前にある瞬間瞬間を、家にあるひとつひとつを大切に扱っていくということ】、その思いだけはなくしたくないと思う。菊名の家は、新横浜駅も徒歩圏内になる。当初は「ごちゃまぜの家を東京に!」というところからはじまっているこの企画になるため、品川駅もギリギリ徒歩圏内の家と出逢えることができたらと思う【そうすれば「熱海・新横浜・品川」の東海道ゴールデンロードがつながる!けど!まだなにもあてはありません!】。

 

 

ごちゃまぜの家をやりたいと思う気持ちは、数年前からずっと自分の中にあった。しかし、なかなか自分の気持ちをうまく言葉にすることができず、出会うひとたちに話してもなかなかうまく伝わることは少なかった。しかし、そのようななかでも「自分だけは、自分の思いを見捨てないでいてよかった」とこころから思う。どこかのタイミングで、自分が自分を見限ってしまうようなことがあったとしたら、このような形でごちゃまぜの家を実現することはできなかった。これだけ多くのひとの支援に触れることもできなければ、いま、自分が自分に対して抱くことのできている健やかな自己肯定感【自分で言っちゃうのもアレだけど!でも、言っちゃう!】を、変わらずに抱き続けていられたのかどうかもわからない。支援者の方々に対する感謝と同じくらい、過去の自分に「お前は偉い!よくぞ諦めることなく自分を続けてくれたものだ!」と拍手を贈りたくなる。

 


自分だけは、自分を受容してあげるということ。「自分は自分でいいのだ」と認めること、他者の承認や評価を通してではなく、ただ、自分だけは自分の中にある純粋性を守り抜くということ。モアナと伝説の海の映画において、モアナは他の誰でもない自分のこころの声に従うことを決める。誰かの指令によってではなく、誰かの命令によってではなく、ただ、自分の意思で、ひとりきりの意思で生きる道を選ぶ。モアナとは、遠い映画の中にだけ生きているものではない。それは、きっと、わたしたちひとりひとりの中にこの瞬間も生きている「こころの住人【小さな主人公】」なのだとわたしは思う。居場所とは、自分の外側にあるものではない、それは、「あらかじめ自分の内側に備わっていたもの【自分のこころの声が湧き上がる場所、自分のこころの声が湧き上がる瞬間】」の中に、昔からずっとあるものなのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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仕事は好きだけど労働は嫌い。

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マウイの朝は早く、早朝5時から営業をしているカフェも多い。夜の8時には営業を終了してみなさま眠りにつかれるみたいで、日の出と同時に活動をはじめ、日没と同時に活動を終えるライフスタイルは素敵だな(ひととして自然だな)と思う。今回のマウイ滞在の裏目的のひとつに「極上の珈琲を探す!」というものがあり、マウイ島で栽培されている珈琲を提供してくださるお店を転々とする「コーヒー・ビーンズ・ホッピング」なるものを敢行している。ごちゃまぜの家が実現をしたあかつきには、世界各国の「これは美味しい!」と感動したもののレシピをかき集めて再現をする時間があっても、賑やかになりそうだなと思う【マウイ島アサイーボウルは最高でした!!】。

 

 

暇さえあれば海に向かっている。海にはいると体調も好調になるばかりか、傷や湿疹や精神的な疾患さえも治癒が早まるような感覚を覚える。数年前の夏、新潟の海に一ヶ月で50回くらい突撃していた時期があった。あの頃は「海に入らない日は調子が悪い!」みたいなことになって、どうしても海にはいれない日は水筒に海水を詰めて普通に飲用水として常用していた。昔、どこかの国のひとが飼い犬の血液を全部抜いて海水に入れ替えた(!)ところ、それ以降も、普通に庭を元気にピンピンと走り回っていたというマッドなエピソードを耳にしたことがあるけれど、海水にはおそるべき効果があるのかもしれない。人間の免疫力を高めるのは「日光浴・月光浴・海水浴・温泉浴・森林浴」の五つだと聞く。自然から遠く離れた生活を送るのではなく、できることならば、自然に近い生活を送りたいものだと思う。

 

LOVE&CHAOS!【ごちゃまぜの愛】

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マウイ島のハイクという街にある小学校で「フラワーフェスティバル」なるものが開催されていた。マウイ島の小学校は半端なくおしゃれで、遊具の種類も豊富でカラフルで、土地にも余裕があり、ああ、こんな場所で育ったらそれはもう健やかにお育ちになられるに決まっているではないですかという気持ちになった。庭の花壇には、多分、生徒が手作りをしたのであろう手書きの文字で「ALOHA」と書かれている。他にも、周囲には「LOVE LOVE LOVE」とか「WE ARE MADE FROM LOVE!」とか、見るもののこころを活気づける言葉の数々が並んでいた。

 

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顔面ペイントにこどもが群がる。

 

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尋常ではないかわいさに悶える。

 

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天使過ぎて「降参です…」みたいな気持ちになる。 

 

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悔しくなったためにわたしもココナッツミルクで対抗をしてみたものの、所詮、一匹のイエローモンキーに過ぎない坂爪圭吾が醸し出すことのできるカラフル感には限界があった。もうちょっと髪の毛が伸びたら、限りなく真っ白に近い金髪に染めてやりたい気持ちになる。前回の記事でも書いたけれど、わたしは根本的に「カラフルであること【ごちゃまぜであること・ある種のカオスであること】」が好きなのだと改めて思う。どうしたって画一的なものになりがちな日本社会(こんな書き方をすると固くなる!けど!書いちゃう!)において、つむじまがりな異端児の存在、周囲に溶け込むことのない独特の色あじの持ち主の存在、個性的でカラフルな個体の存在は、うまく言葉にすることができないけれど「人類全体の生き方に幅を生み出す」役割があるように思う。逆に言えば、みながみな同じ色であることを強制される(それが普通とされる)世の中になってしまったら、それを全体主義とまでは言わないにせよ、単純に「そんな世の中はつまらないよなあ」と思う。

 

【過去記事】カラフルでご機嫌な世界を生きるために。 - いばや通信

 

エコでもいいし、エコじゃなくてもいい。

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マウイ島の街並みは本当にカラフルだなと思う。わたしの大好きな小沢健二さんの曲の中に「僕のアーバンブルーズへの貢献」という歌詞があるのだけれど、それに対抗をしない形で「僕のアーバンカラフルへの貢献」というものをやっていきたいという気持ちになる。アーバンカラフルとは何か。それは「どうしたって画一的なものになってしまいがちな都市(とりわけガストとかマクドナルドばかりが立ち並ぶ日本都市!) の中に、忽然と【神出鬼没的に】、ある種の異物感を醸し出すもろもろの営み」を指す(ことにします。正直に言うと、ただ、アーバンカラフルって言いたかっただけです!!)

 

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エコとか持続可能性とかアーバン・パーマ・カルチャーとか、新しい言葉はどんどんと生み出され続けていくけれど、わたしは「アーバン・パーマ・カルチャーに対抗をしない形で、『アーバン・パーマ・カラフル【URBAN PERMA COLORFUL】』という概念なんてどうでしょう!!」ということを思った。「地産地消」とか「持続可能な社会」とか「地球にやさしい生き方」など、こういう言葉はちょっと真面目に過ぎる(自分の場合、真面目スタートで何かをはじめたり、ある種の正義感を掲げてしまった瞬間に押しつぶされる傾向があります!)ので、なんだろう、もうちょっと軽いスタンスでいろいろなことに取り組めたらいいなあということを思った。エコでもいいし、エコじゃなくてもいい。カラダにやさしくてもいいし、カラダにやさしくなくてもいい。合理的(効率的)であってもいいし、合理的(効率的)じゃなくてもいい。正義をひとつに固定するのではなく、カラフルであることをお互いに楽しむことができたら、精神的な余裕も生まれる(結果的にいい感じの世の中に収まっていく)のではないだろうかと思う。

 

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頭が小難しいことを…

 

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考え始めた時は海へ…

 

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正しさよりも「わがまま」を掲げよう。正しさを掲げてしまうと、あとから苦しくなってしまう。わたしは思う。ひとの心を動かすものは正しさよりも「楽しさ」だ。自分の場合、正しさを掲げた(掲げられた)途端に息苦しくなってしまう。正義感は、それを他人に押し付けた瞬間に「暴力」になる。わたしは、だからこそ「正しさではなく、わがままを掲げたい」と思う。正しいから何かをやるのではなく、ただ、自分がそれをやりたいと思ったから(自分史上最高に「これが最高だ!」と思ったから)という究極的にエゴイスティックな理由から、すべての物事に手を出していきたいと思う。わがままと呼ばれても結構。自分勝手と呼ばれても結構。わがままであること、自分勝手であることが、結果的に「僕の【そして、私たちの】アーバンカラフルへの貢献」に繋がるのだと思っている。

 

仕事は好きだけど労働は嫌い。

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「仕事と労働は別物だよな」と思う。仕事は好きだけど労働は嫌いだと思う。わたしの場合、世間的な意味での仕事と呼べるもの(これで定期的な収入を得ています!と誇れるもの)は何もないために、社会的には「完膚なきまでの無職」ということになる。しかし、たとえばブログ記事を更新したあと(他には「おはなをあげたあと」とか「誰かとこころを通わせることができた瞬間」など)には、「今日もいい仕事をしたなあ」という非常に爽快な気持ちを覚える。逆に言えば、どれだけ大量のお金をもらったとしても、自分が好きでもなんでもないことをやっている時は、「ああ、いまの自分はクソだ!」みたいな気持ちになる。過去記事で「仕事なんてしている場合じゃない、遊べ!」などと豪語をしておきながら早速矛盾をするのだけれど、多分、わたしは(労働が嫌いなだけで)仕事は好きなのだと思う。

 

【過去記事】仕事なんてしている場合じゃない、遊べ! - いばや通信

 

ちょっと前から、いばや界隈で「レインボーアンサー【たとえるならば『問題を問題視しない生き方』】」という言葉が飛び交っている。この世の中にあるあらゆる問題は、それを問題と思うから問題になるのであり、逆に言えば「問題だと思わなければ問題にならない!」ということを思う。たとえば、わたしの場合、自分の家がなくなるという体験を通じて「いろんな場所に泊まれる場所が増える」とか「海外に呼ばれる機会が増える」とか「結果的に熱海に家を用意していただく」とか、問題を問題視しないでそのまま問題のど真ん中を生き続けることによって、白でもない、黒でもない、まったく新しい「レインボーアンサー」を手に入れることができた(なんて書くと偉そうで恥ずかしいけれど、ニュアンスだけでも伝わってくれることを祈ります!!)。世の中的に正しいかどうか、白か黒か、善か悪か、正解か不正解か、そういう一般的な尺度を飛び越える「レインボーアンサー」を叩き出すこと。それが、多分、最近のいばや界隈のひとたちの興味になるのだと思う(ような気がしている。少なくとも、わたしは、いまのところそんな感じです!!)。

 

フィリピンのマニラから一通のメールが届いた。繰り返しになるけれど、わたしは「先に行きたい」と思っている。現在の常識にはあまり興味がなく、これから常識になっていくもの【言うなれば未来!】に興味がある。時代が大きく変わろうとしているとき、多分、激しく拮抗をする『ふたつの大きな力』が働くものだと思う。ひとつの力は「変わることを拒む力【いまいる場所に引き戻そうとするもの・押しとどめるもの】」であり、もうひとつの力は「変わることを推し進める力【自分が行きたいと思う場所まで高めてくれるもの・引き上げてくれるもの】になる。ひとびとが口にしている言葉を注意深く観察してみると、多くの場合、このどちらかに分けることができる。いま、目の前にいるひとは「わたしが変わることを拒んでいる」ものなのか、それとも「わたしが変わることを推し進めてくれる」ものなのか 、これらを注意深く観察すること。(限られた範囲内ではあるけれど)自分の意識は自分で選べる(ものだと思う)。自分を過去に引きずり戻すような考え方ではなく、未来に推し進めてくれる考え方を、自分が行きたいと思う場所まで高めてくれる考え方を、引き戻すような考え方ではなく『引き上げてくれる考え方』を、採用していきたいと思う。

 

 

さかつめ けいごさん

 

こんにちは!先月のわたり食堂に参加しなかった、◯◯◯◯◯◯◯です!


ハワイからの投稿、お疲れさまです!
美しい自然に囲まれて、素敵な滞在をされているようで羨ましい限りです!


実は僕もいま、海外、それもフィリピンのマニラにいるのですが、海外に滞在しているから余計そう感じるのでしょうか、自分の好き、嫌いを明確に表明する勇気は、本当に本当に大切だなあと共感し、思わずけいごさんにメールを送信する心境に至りました。


マニラで現地の方々といろいろ話してみてわかったのですが、彼ら彼女らは陽気で素直な人たちが多くて、うまく言葉に出来ないのですが、ああ、日本人もこういう風に自然な感情を表に出せたら、もう少し生きやすくなるのかなあと、けいごさんの仰っていることを当地で反芻しています。


「旅は人に希望を与える」という言葉が僕は好きで、知らない土地に赴いて、知らない人と出会い、そこに身を置く、それらすべての瞬間が、生きることに勇気を与えてくれる、そんな意味あいの言葉ですが、僕自身、この言葉通り、希望を見いだして生きれたらなあと、午後のスコールに打たれながらぼんやり思っております。


個人的なお話、失礼しました。

ハワイでの滞在、ぜひこころゆくまで楽しんでくださいね!

僕もマニラ周辺で(暴漢に怯えながら)来月半ばごろまでステキな日々を送ります!

 

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人生は続く。

 

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カラフルでご機嫌な世界を生きるために。

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「ここは楽園か!」と叫び出したくなるほどの絶景が広がっていた。標高3,000メートルに位置する、マウイ島ハレアカラ火山のキャンプサイトにテント道具を借りて向かう。結論から言うと最高で、静かな森の中にテントを張って横になるだけで「包まれている…」という多幸感を覚える。ごちゃまぜの家が実現をした暁には、希望者の方々にテント道具を無料で(願わくば車もセットで!)貸し出すことができたらいいなと思う。自分のこころが「いいな」と感じるひとやものやことを、自分ひとりだけで所有をするのではなくみんなで共有していけたらいいなと感じる気持ちは、多分、自分だけではないように思う。

 

 

わたしは『SAMO【サモ】』という素人集団を主宰している。SAMO【サモ】とは「まったくの初心者であるにも関わらず、さも、その道の達人のように振る舞う」ひとたちのことを意味する。今回、わたしはマウイ島で車を借りて運転をしまくっているのだけれど、実は、海外で車を運転するのは生まれてはじめての体験になる。しかし、ここでビビってしまっては男が廃るということで、さも、海外の運転は過去に何度もやり慣れていますよという体(てい)で、左ハンドルを陽気にぶいぶい言わせていた。ら、レンタル2日目にしてタイヤが派手にパンクをした。これには困った、が、トラブルは男を鍛える。近隣住民の助けを徹底的に借りまくりながら、どうにかこうにか、無料で代車を手配していただける形になってホッと胸をなでおろしている【おかげさまで異国における緊急事態対処法にも強くなりました!!】。

 

野営@Hosmer Glove

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テント道具を車に積んで、数百回のカーブを曲がってキャンプサイトに突撃する。標高3,000メートルともなると、南国ではなかなか見ることのできない植物が群生をしている。「ここはマウイ島の北軽井沢か!」みたいな感じで、非常に心地よい風が吹く空きスペースにテントを張る。テントを張る時間、バーナーでお湯を沸かす時間、簡単な料理を作る時間は、なぜ、こんなにも素晴らしい充実感を与えてくれるのだろうか。日本に戻ったらキャンプをしまくりたいと思う。そして、キャンプの素晴らしさを勝手に普及させるために「坂爪圭吾が持ち得る限りのキャンプ道具をオールセットで無料で貸し出す」的なサービス(?)を開始したいなあと思う【あと、熱海の家に誰も使っていないロードバイク(なんとツールドフランスの優勝者が使っていたもの!)が置かれているので、こちらの自転車もシェアをしていきたいと思います!!】。

 

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木陰にテントを張る。

 

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いい感じの木が密集している。

 

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木漏れ日が素晴らしい。

 

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眺めは爽快で、非常に静かである。

 

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昔、まだ新潟市内の海沿いの街で暮らしていた頃、日本海沿いの松林(防砂林)にテントを張って数日間暮らしていたことがある。森の中で眠ると、森林浴の効果があるのだろうか、寝て起きた時のスッキリ具合が半端ない。これは素晴らしい効果だと機嫌をよくしたわたしは、実家には食事をとるためだけに戻り、食べ終わると同時に「おやすみ!」と言って自宅の玄関を飛び出し、バイクで松林に向かう生活を続けていた。当時のわたしにとって、家とは「ごはんを食べるためだけの場所」に過ぎなかった。もっと言えば、「地球全体が自分の家である【今夜、テントを張る場所が自分の家になるのだ!】」と思っていた。キャンプ生活の日々を過ごすと、当時の感覚が鮮明に蘇る。家とはなんだろうか。それは、個別の建物を指すのではなく『地球全体』を指すのではないだろうか。普段、自分たちが「家」と呼んでいるものは、実は『寝床【あるいは、ただ、ごはんを食べるためだけの場所】』に過ぎないのかもしれない、なんていうことを思う。

 

【過去記事】 仕事なんてしている場合じゃない、遊べ! - いばや通信

 

朝日@Haleakala Summit

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早朝5時にテントを飛び出し、ハレアカラ火山の山頂を目指す。闇夜を突き抜け雲海を超えて山頂間際に辿り着く頃、明るみはじめた空から黄金色の光が差し込んでくる。本当に美しいものを目の前にした時、ああ、写真でも、言葉でも、いま目の前に広がっている素晴らしさを説明することはできないのだというある種の無力感にとらわれれる。それでも「これでもか!これでもか!」とシャッターを切り続けようとする手をどうにか止めて、ただ、自分の眼球に目の前の広大な風景を焼き付けようとする。

  

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朝がはじまる。

 

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光が差し込む。

 

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世界が目覚める。

 

カラフルでご機嫌な世界を生きるために。

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マウイ島は自然も街並みも非常にカラフルで、散歩をするだけで楽しくなる。建物の屋根もトタン一枚だけだったりするのに、カラフルな色々で彩られている。日本の場合、ペンキの色もそのままではダサいものが多い。自分好みの色を出すために、複数色を混ぜ合わせる必要があるのに対して、マウイ島などの海外諸国では「あらかじめお洒落な色が何種類も用意されている」ことが多い(気がする)。オーガニック専門のスーパーマーケットに陳列されている商品群のデザインセンスも抜群で、どれをとっても「おみやげに最高!」だと思えてテンションがあがる。カラフルであること、同時にセンスがあること【見るもののテンションをあげること】、これはとても大事なことであるような気がしていて、自分の正直な気持ちを恐れずに言うと「俺は、簡素【スタイリッシュ】は好きだけど、ダサいもの【アンスタイリッシュ】は嫌いだ!」ということを思う。

 

 

マウイ島では「オーガズミックバース【自然分娩】」というものがある。乱暴にまとめると「海の中で出産をする【痛みや苦しみを通して出産をするのではなく、歓びのエネルギーを通して出産をする】」というものになる。わたしは男性だから詳しいことはわからないけれど、病院の分娩台は「(医者にとっては都合がいいけれど)妊婦的には一番しんどいポジショニングを余儀なくされる」ものになるのだと聞いたことがある。これが絶対だというものはわからないけれど、出産方法ひとつとっても、これからは「多種多様!カラフルな時代!」になるのだと思う。様々な選択肢がある中で、自分好みの生き方をカスタマイズしていく。このような生き方が主流になる世の中では、他のひとがどのように思うかではなく「自分自身がどのように思うか」が、非常に重要になるのだということを思う【逆に言えば、自分の好みがいままで以上にすんなりと(それはもうビックリしちゃうくらいにすんなりと!)実現できちゃう時代にあるのだと思う】。

 

 

すべてのひとを好きになれなくてもいい。すべてのやり方を受け入れることはできなくてもいい。すべてのひとを肯定することはできなくてもいいし、すべてのひとに好かれる必要もない。いろいろなひとがいろいろなことを言うけれど、究極、まずは自分なのだと思う。カラフルな世の中をご機嫌に渡っていくためには、他人の好みを満たすように生きることよりも、自分自身の好みを明確にしていくこと、好きなものには好きだということと同じくらい、嫌いなものには「嫌いだ!」って言えちゃう勇気も、とっても大切なことになるのだと思う。自分の意思を明確にすることによって、世界の彩度もより鮮明なものになる(逆に言えば、自分のこころが「イヤだな」と思うものを受け入れてしまうと、精神が濁る)。みんなが同じ色になることで半ば強制的に調和が保たれる予定調和的な世界よりも、わたしは、それぞれの色をそれぞれのスタイルで生きながら、それでいて「空間全体の調和が保たれている」ような、そういうカラフルでご機嫌な世界を生きていきたいと思う。

 

 

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its a good day to die...

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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仕事なんてしている場合じゃない、遊べ!

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ホノルルを経由してマウイ島にはいる。奇跡的に、知り合いの知り合いの知り合いの旦那さんのお母さん【要するに他人さま!きゃー!】がマウイにご在住で、得体の知れないわたしのような人間の寝床は確保をされた。マウイ島のホテル代は高い。どうしたって一泊1万円はかかってしまうような中で、ご自宅に泊めていただけることはこんなにも有難いことなのかとうれし過ぎて涙が出る(本当にありがとうございます!)。ごちゃまぜの家が実現をした暁には、是非、外国人旅行者の方々にも気軽に無料で使ってもらえたらうれしいなあと思う(謎に国際的な空間になったらいいですね!)。

 


お世話になっている方のご自宅が物凄くて、マウイ島という自然豊かでネイチャー感溢れる土壌にありながら、家には3Dプリンターやドローンのような最先端のマシーンがゴロゴロ転がっている。屋根には当たり前のようにソーラーパネルが取り付けられていて、これらの景色を見た瞬間に「これが未来か!」と思った。ハイテクとローテクの共存、これこそ未来だと思って勝手にテンションがあがり、ああ、なんというか「里山とか地域おこしとか言っている場合じゃねえな!」ということを思った。昔はよかったとか、いまは大事なものが廃れてしまっているとか、そういう文脈で語られるものには「昔に戻ろう」的な雰囲気が漂いがちになるけれど、わたしは、昔に戻りたいのではなく「先に行きたい」のだと思う。

 

ハイテクとローテクの共存。

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マウイ島は日本の大阪府ほどの大きさで、歩くにはちょっと広すぎるためにレンタカーを借りた(9日間で250ドル程度だった)。車を借りる際に、受付の男性が「Welcome To Paradice!【楽園へようこそ!】」と満面の笑顔で言う。自国をこのように誇れる姿は最高だな!と思う。ナンバープレートには虹がかかっている。かわいい。これで最悪の場合は車中泊をできるという安堵感を胸に、あてもなくマウイ島を周遊する。すると、海辺に『COFFEE HERE!』と書かれた看板を発見する。ゆっくりと近づくと、大きな車に小さなログハウスが牽引をされているような形で、小屋の中からサングラスをかけた極めて健康そうな女性が「Hi!」と声をかけてくる。

 

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今回、わたしは「ごちゃまぜの家に使えるような土地はないかな」なんて思いでハワイに来た。小さな土地さえあれば「そこに誰でも自由に使えるタイニーハウスを作ったら面白そうだ」なんて思っていたのだけれど、こちらの女性は、自家用車で珈琲小屋を運びながら(多分)自分の好きな場所で自分の好きな時間に自分の好きなだけ珈琲を振る舞いながら生計を立てている(のだと思う)。わたしは、ああ、なんてフリーダムな発想なのだろうと嬉しくなってしまって、別に固有の土地はなくても「車内で寝泊まりできる(場合によっては何かしらの仕事をすることもできる)車さえあれば、世界の何処にいても意外とどうにかなるのかもしれない」ということを思った。 

 

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店主の女性の笑顔がとにかくよくて、その雰囲気に触れているだけで元気になる。ハワイに来てから、まだ、一回も日本円をドルに両替をしていない。多分、両替をする必要のない土台がすでにマウイ島には出来上がっている。このような小屋の珈琲店でさえも、アイパッドに特別な器具を取り付けて、カード払いも自由自在にできるようになっている。この便利さこそが「未来だ!」なんて感じてしまって、改めて「地域おこしとか言っている場合じゃねえな!」と思ってしまった。うまく言葉にすることができないのだけれど、昔に戻るだけでは肝心な何かが抜け落ちていて、おしゃれであることとか、最先端の要素が取り入れられていることとか、乱暴な言葉でまとめると「若いひとのテンションをあげる要素」が必要になるのだと思う(だからこそ、多分、いまの日本社会で一番求められていることは『世代交代【新陳代謝】』なのだと思う)。

 

最先端とは「好きなように生きること」 

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ハワイ名物の『POKE(ポケ)』を食べながら話をする。いまはまだ、移住とか定住とか多拠点生活などという言葉が持て囃されているけれど、数年後の未来では「まだそんなことを言っているの??」なんて思われる時代が、実は、すぐそこまで来ているような気がする。これは極論かもしれないけれど、移住とか定住という言葉にはある種の「重み」を感じる。これは結婚や離婚や転職や独立という言葉にも感じるけれど、生き方を大きく変えようとする時に使われる言葉には、何かこう「重っ!」と思わせる力がある。

 

もっと軽やかに生きることができたなら、と思う。いまはまだひとりひとりが特定の家を持つことが一般的だけれど、もしかしたら、これから先は「誰もが移動を続けながら暮らす時代」が来るかもしれない。あるいは、誰もが「家を持ち運ぶ時代」が来るかもしれない。定住という概念【土地に固定されるライフスタイル】そのものが吹き飛んで、誰もがその時々に自分の気分にあった場所に移動をしながら暮らすというスタイルが、メジャーになる時代が来るのかもしれない。そのため、自分がいまやっている仕事や、自分がいま住んでいる場所も「たまたま、いま、それをやっているだけ(そこに暮らしているだけ)」のものに過ぎず、すべては流動的なものになり、その時々の気分に合わせて変わっていく。いまはまだメジャーではないこのような考え方も、そう遠くない未来には「当たり前のこと」になっているのかもしれないと思う。

 

最先端とはなんだろうか。それは「好きなように生きること」ではないだろうか。世の中の常識と呼ばれているようなものを一旦無視して、とりあえず「自分の好きなように生きてみる!」ことを通じて、いまはまだ誰も試したことのない諸々のアクションを実際に行う。やがて、そのうちの何かが「これは新しい!」みたいな形で周囲のひとにも認められて、市民権を獲得しながらゆっくりと世界全体に広がっていく。あらゆる「新しいとされていること」も、最初は、名も知れない誰かの戯言【遊びごころ】からはじまっているものだと思う。生きるということが、もっと軽やかなものであればいいと思う。軽やかに生きるということは、多分、遊ぶように生きるということだ。遊ぶように生きるということは、成功だけではなく失敗も同時に楽しむ精神的な余裕を持つこと(ダメならダメで、その時はやり直せばいいいだけ!くらいのゆとりを持つこと)であり、あんまり深刻に考え過ぎないということ【流動的であること、あんまり重くならないこと!】だと思う。

 

閑話休題

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素晴らしかったので、是非!

 

仕事なんてしている場合じゃない、遊べ!

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最近、仕事をしている場合ではない【仕事と遊びを分けて考える必要はない】と思うことが多い。逆に言えば、仕事が遊びを内包していない限り、真の意味で「良い仕事」をすることは不可能であるような気がしている。いろいろなものが行き詰まりを見せているこの現代社会において、真の意味で突破口を与えるものは「(広い意味で)遊ぶこと」であるような気がしていて、これから様々な仕事を機械が代わりにやってくれることになるであろう世の中では、人間に残された最大の役割は「遊ぶこと」なのではないだろうかとさえ思う(遊びに遊んで遊び尽くした先に、いままでにはない『新しい仕事【いまはまだ名前の与えられていないこと】』が生まれるのではないだろうかと睨む)。

 

この前の4月7日でわたしは32歳を迎えた。32歳と言えば立派な『老害』である。わたしはすでに古い人間になったので、多分、これからは「自分を生かそうとすることよりも、若いひとを生かそうとすること」に注力をしたほうがいいのだと思う。必要とされていることは『世代交代【新陳代謝】』であり、年寄りがいつまでも自分の利権をがっちりつかんで離さないような真似をしてしまっては、育つものも育たない。わたしを含めた年寄りの役割は、自分を生かそうとすることではなく「若い人に、ごはんを出すかお金を出すこと」なのだと思う。飯を食わせること、お金をあげることは、端的に「もっと生きろ!」と伝える最高のツールになる(これは余談になるけれど、『金は出すけど口は出さない』ひとを粋と呼び、『口は出すけど金は出さない』ひとを無粋と呼ぶのだと思う)。

 

年寄りとしてのわたしは、「こいつだ!」と思ったひとを見つけては飯を食わせるかお金を出すかをすること。同じように、かろうじて若者としていられる間のわたしは「上の世代のひとから『お前に任せた!』と言ってもらえるような生き方をすること」こそが重要になるのだと思う。上の世代が何もしてくれない(がっちり掴んで離さない)などと嘆いたところで何もはじまらない、大事なことは「お前に任せた!」とすべてを委ねてもらえるような生き方を、いま、この瞬間において自分自身ができているかどうかなのだと思う。金も名誉も社会的な肩書きも何もないわたしには、カラダを張るしか道はない。それならば、張れるところまで張ってみたいとハワイで思う。海に沈む夕日が綺麗だった。見るひとのこころをときめかせながら沈む太陽のように、わたしも(できることならば)紅く美しく沈みたいと思う。 

 

 

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はわひ。。。(ハワイの夕日)

 

人生は続く。

 

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何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。

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暇だからブログを書いちゃう。昨日、東京で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。ごちゃまぜの家を企画しているからなのだろうか、坂爪さんはどんな家庭で育ったのですかとか、両親や兄弟とは良好ですかとか、家族にまつわる質問を頻繁に受ける。こちらをご覧のみなさまは、さぁ、家族仲は良好でしょうか?お母様やお父様とはうまくいっているでしょうか??それとも、言いたいことをなかなか言えずに腹の内に抱えてお暮らしになられていらっしゃいますでしょうか???あらゆる問題の根源を遡ると「家庭環境」にたどり着くような気がする、稀に、そんな風に感じることがある。

 

 

昨日、イベント参加者の女性が「わたしは実家で両親と暮らしているのですが、家族仲があまりよくなくて家を出たい気持ちがあるのですが、家を出たら出たで罪悪感を感じてしまうし、どうすればいいのでしょうか」という話をしてくれた。わたしは、おお、これはなかなか難しい問題だなあと思いながら返答を濁した。家族や恋人は距離感が近すぎるために、自分の問題が相手の問題になったり、相手の問題が自分の問題になったりする。一度離れて見るのもいいことだとは思うけれど、なかなかそういうことができない場合、わたしたちはどうすればいいのだろうか。

 

正解は「(越後製菓!からの)ごちゃまぜの家」

極論、親子関係が問題になる最大の原因は「言いたいことがあるけれど言わずに我慢をしてきてしまった結果、溜め込んだ感情が自分のなかで腐り始めてあんまり良くない腐敗臭を発してしまうこと」にあるような気がする。 理想的な解決策は、実の両親に向かって「実はこれこれこういうことをずっと思っていた(自分はずっと寂しかったんだよとか、ちゃんと目を見て愛していると言って欲しかったなど)」と伝えることで、両者の間に長年蓄積されてきた氷の壁を溶かす作業に励むことだと思う。しかし、それができれば最初から悩まないよという話でもあると思いますので、そういう時に「ごちゃまぜの家」が前向きな効果を与える場所になったらうれしいなあなどということを思った。

 

基本的に、家族とは「血の繋がりのあるひとたち」とされているのが現代社会での常識になる。でも、たとえばシェアハウスの住人同士も家族のようなものであり、友達同士も職場も同僚も、見方によっては「すでに家族である」と言えるのではないだろうかとわたしは思う。家族という言葉には、表面的には「お互いに助け合える・支え合える・笑い合える最高の共同体」みたいなイメージがあるけれど、その裏側には「家族間の問題は家族間だけで解決をしなければいけない」という非常に閉鎖的、執着的、束縛的、密室的なイメージもつきまとっている(気がする)。わたしは、この、固定的で閉鎖的な関係性のなかに「ある種の風穴を開けたい!」みたいなことを思う。そこで、実験をしてみることにしたのが『ごちゃまぜの家』というアイデアであり、これをやったらどうなるのかということはまるでわかっていないけれど、これをやったらもしかしたらちょっとだけ面白い現象が起こるかもしれないという非常に曖昧な動機から、今回のプロジェクトは幕を開けた。

 

家族にまつわる問題を耳にする機会は多い。なぜ、家族にまつわる問題は後を絶たないのだろうか。わたしは、極論にも程があることは百も承知でそれは「シチューのCM」に原因があると思っている。シチューのCMに登場をする家族は、とにもかくにも常に笑顔で、美男美女の夫婦は仲良く、こどもも可愛い、なにかこう「家庭って最高だよね!」という雰囲気をこれでもかと醸し出している。別にそれはそれで構わないのだけれど、なにかこう、視聴者のみなさまに「家族とはこうでなければいけない」という幸福の圧力をかけている(気がする)。この『幸福の圧力【理想的な家族像の強制】』みたいなものは実は意外と厄介で、家庭を築くからには「常に笑顔にあふれた状態で食卓を囲まなければいけない(それができていない家族は家族失格である!)」みたいなことになるのではないだろうかと思うことがある。

 

家族を溶かす。

でも、別に、そんなことはないんじゃないのかなと思う。常に笑顔にあふれている必要はないし、常に食卓を共に囲む必要もないし(インドネシアのバリではそれが日常で、でも、家族仲は良好である)、なんなら「必ずしも同じ家に暮らす必要はない」とさえも思う。問題なのは、親子が一緒に暮らしていないことではなく「親子が一緒に暮らしていないことを問題だと思う」その意識であり、別に、それで誰も問題だと感じていないのであればそれで全然構わないのだと思う。逆に言えば、周囲の余計なお世話が爆発をして、普通に快適にやっていたはずの当事者が得体の知れない不安や恐怖心を埋め込まれてしまって、結果的に「こうでなくちゃいけない!」という強迫的な感覚にとらわれてしまう、そういう『同調圧力』が発生することの方が、わたしには怖いことに思える。

 

家族とは言え相手は他人で、血の繋がりがあるとは言え「(自分と同じ)ひとりの人間」であることに変わりはない。こんな風にいうとなんだか冷たく響くかもしれないけれど、でも、その通りなんじゃないのかなと思う。親は親。こどもはこども。親の考えは親の考えであり、それは決して『こどもの考え』にはならない。そこをしっかりと「分けて考える」ことが非常に大切であるような気がしていて、そこが訳のわからないことになってしまうと、いつの間にか「親【自分以外の誰か】の操り人形」みたいなことになってしまう。親は親であり、自分は自分である。以上!【それ以上でもなければ、それ以下でもありません!ありがとうございます!】という感じで、スパッと切り分けて考えることが大切であるように感じることは多い(ここを分けて考えることができないと、相手の問題を自分の問題として背負ってしまうことになる気がする)。

 

下手くそな話が長くなってしまった。その辺の詳細は過去記事にも書いたのだけれど、わたしは「(家族をつくりたいのではなく)家族を溶かしたい」のだと思う。なんていうか、もう、ひとりひとりの人間が『みんなの父親であり、みんなの母親であり、みんなのこどもである』ということでいいんじゃないだろうかと思う。家族とは何か。それは、いま、あなたの目の前にいるひとのことである。なんだかもう、それだけでいいのではないだろうかと思う。血の繋がりというものは、実は、それほどたいした問題ではない(実際、母と父の間に血の繋がりはない)。家族だから無理をしてまで仲良くする必要もない、家族だからおもてなしを用意する必要もない、家族だから過剰に気を遣う必要もない(それは「お客さん」にすることだ)。愛想笑いの必要もない、自分を大きく見せる必要もない、そんなことよりも「自分の素の状態に一番近づける」空間、誰もが自然体で無理のない態勢でいながらも同時に全体の調和は謎にとれてしまっているような、ごちゃまぜの家がそのような場所として機能をすればいいと思う。

 

【過去記事】一夫多妻制を凌駕するネオ概念「一夫八百万妻制(通称『やおよろぷ』)とは何か。 - いばや通信

 

『奇跡の絶景』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、講談社刊行『奇跡の絶景』です。こちらの本は、ベリーズ中央アメリカ北東部、ユカタン半島の付け根に位置する国】で旅行会社を経営していらっしゃる日本人女性から「ベリーズの自然は素晴らしいので、是非!」ということで譲り受けた一冊になります。この広い世界にはまだまだ、見たこともない素晴らしい景色が無限に広がっているのだということを思い出させてくれる壮麗な風景の数々に、小生、圧倒されっぱなしでございました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、マウイ島にわたりました ※※※

 

なぜ、これほど完璧な円を描いているのか。なぜ、これほど濃い青色を湛えているのか。まるで隕石が落ちた穴のような巨大な青い正円を眼前にすると、この疑問が当たり前のように頭に浮かぶ。

 

世界有数の透明な海を穿ったように開いた巨大な「穴」。穴の直径はおよそ300m、深さ120mを超える大穴だ。その深さは太陽の光が届く水深100mをはるかに超えている。さらに外周に広がる浅瀬のサンゴ礁とのコントラストがあいまって、この穴はひときわ深い青色に輝いている。ライトブルーのカリブ海で群を抜いた存在感を放つ正円は、「カリブ海の宝石」と讃えられる一方で、土地の人からは「怪物の寝床」とも呼ばれており、得体の知れない恐ろしさをも感じさせている。真の美というものは、そんな両面を備えるものなのかもしれない。

 

『奇跡の絶景 Miracle Planet 7』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。

花を贈る。手料理をつくる。手紙を書く。わたしは、これらの営みを愛している。しかし、これらの行為は、効率至上主義的な現代社会においては、ともすると「やるだけ無駄【花を飾っても1円の得にもならないし、手料理は手間ひまがかかるし、手書きよりもタイピングの方が圧倒的に早い】」ということになるのかもしれない。ただ、ごちゃまぜの家が実現をした暁には、どうしてなのだろうか「このような非効率なものこそを取り入れて行きたい!」という思いがある。理由は単純で、多分、花をもらうと嬉しいからだ。手料理をつくってもらうと嬉しいからだ。手紙をもらうと嬉しいからだ。家に帰ってポストを開ける。ポストの中に手紙がある。宛名を見る。手書きの文字が書かれている。贈り主の名前が書かれている。手紙を抱えて家にはいる。椅子に座る。封筒を開ける。書かれている文章を読む。こころが温かな気持ちになる。こころが温かな気持ちになりながら「返事を書こう」という気持ちになる。こういうこころの働きを、こういう人間的なつながりを、わたしのこころは「いいな」と思う。

 


クラウドファンディングの御礼として、支援者の方々と電話で話をする。この前、ひとりの女性と話をした。その方は「これまでとは違うお金の使い方をしたいと思って、今回ご支援をさせていただきました。自分でもうまく言葉にできないのですが、消費ではないお金の使い方をしたいって思っていて、このプロジェクトを見たときに『これだ!』と思ったんです」と話してくれた。この言葉は、なんだかほんとうにうれしかった。この言葉を聞くために(そして『あなたに出会うため』に)この企画をやっているのだと言っても過言ではないのだという、そういう気持ちになった。今回のプロジェクトをはじめてほんとうによかったと思えることの理由のひとつに、支援者の方々が「正しさではなく『楽しさ』で反応をしてくれている」というものがある。それは、言い方を変えると「支援をする側と支援をされる側に分割されるものではなく、境界線を超えて『一緒に遊んでいる』だけなのだ」という感覚に近い。わたしたちは、何か社会的な問題を解決するために一致団結をしようとしているのではない、ただ、ごちゃまぜの家を通じて『一緒に遊ぼうとしている』だけなのだというこの感覚が、わたしには、とてもうれしいものとして響いてくる。

 

 

自分の中に「採算の取れないことをやろう!」という思いがある。わたしは、採算性のあることを考えることが非常に苦手なタイプの人間で、活動を維持するためには月額これくらいのお金が必要になるからそのためにはこれとこれとこれをやって、みたいなことを考えることができない。だからこそ「採算の取れないことをやろう!【その活動が必要とされるものであれば必ず誰かに生かされるだろうし、必要とされることがなければその時は潔く散ろう!】」という初期衝動から、今回の企画をはじめた。誰かに笑ってもらえたらそれだけでも嬉しいと思ってはじめたものの、蓋を開けたらこれほどまでの支援と恩恵を受けることができている。これはもう、支援者の方からも「どんどんやれ!」と言われているのだなと思うことにした。何か新しいことをやる時に、多分、もっともらしい理由なんていらなんだ。こころない人の声にダメージを受けまくることもあるけれど、他の誰でもない自分自身の直感が「これをやったら面白そうだ!」と感じる方向に、自分の内部に宿るナビゲーターが「こっちだ!」と導く方向に、思い切り舵を取っていきたいのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BS-GQxoDyEt/

何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。。。

 

人生は続く。

 

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