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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

人生とは、自分を楽しませることである。

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神奈川県秦野市で開催されたトークイベントに登壇をした。会場になりました「手打そば くりはら」さんの雰囲気とお蕎麦が最高で、半人前【私】が一人前を三人前も食べてしまった。誰かに無理やりでも食べさせたい蕎麦屋さんを尋ねられた時は「くりはら!」と叫びたいと思った。もしも「行ってみたい!」と思われた方がいらっしゃいましたら、わたしが同行をいたしますので遠慮なくお声かけください。明日17日(金)は、東京都国立市で開催されるトークイベントに登壇をします。昨日確信したのですが、わたしは(偉そうに話をすることではなく)みなさまと対等に話をすることが大好きみたいなので、是非、お時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークイベント

 

最近のマイブームは土下座をすることで、暇さえあれば土下座をしています。おはなを配り続けるという自主企画を敢行中の身ではあるのですが、本来であれば「与える側」であるはずの自分が、いく先々でほんとうに様々なものをいただいております。昨日も、参加者の方々から両手に抱えきれないほどの手土産をいただいてしまって、わたしは「いまだ!」と思って土下座をしました。イベント最中にどのような話をしたのかがまるで思い出せないのですが、会場のみなさまが笑ってくれたときはうれしかった。多分、わたしはある種のコメディアンになりたいのだと思う。自分のような人間が生きているということを「笑ってもらえたらうれしい【一緒に面白がってもらえたらうれしい】」と思っている。 

 

人生とは、自分を楽しませることである。

わたしの信条のひとつに「人生とは、自分を楽しませることである」というものがある。自分の人生に行き詰まりを感じた時に、最も有効な解決策のひとつに「誰かをよろこばせること」があると思う。自分のことばかりを考えていると、逆説的になるけれど「自分自身さえも見失ってしまう」ことは多い。仏教的に言えば、わたしたちは無限の網の目の中で生きているのだから、究極的には「誰かに善を為す時、それは自分に最善を為している【自分と他人の間に境界はない】」のだと言える。自分を楽しませることができない時は、多分、誰かをよろこばせることに集中をする(自分を消し去る)のが良いのだと思う。

 

マザーテレサさんが「遠くの誰かを愛することは簡単です。大事なことは、家族、同僚、あなたがいまいる場所のひとたちを愛することです」と言っていた。わたしは「まさに!全然できていない俺!」と思ったので、ホワイトデーに熱海の家の近所の方々(主に高齢のおばあちゃま方)におはなを配った。すると、なんということでしょう!自分が想像をしていた以上にみなさまものすごいよろこんでくださり、隣にお住いのU様(86歳の麗しいおばあちゃま。趣味はジャズピアノで、ピアノの横には「なるようになる」という張り紙をしている)は「あらまー!孫が増えたみたいでうれしいわあ!」と、なんと、わたしの頭を撫でてくれた。わたしはとてもうれしかった。熱海の家の周辺は過疎化が進んでいて、大きな家にひとりで暮らしているおばあちゃんがたくさんいる。いっそのこと、わたしは「これからは、ぼくを孫だと思って思う存分可愛がってください」とお願いをしたくなった。

 

調子に乗ったわたしは、その後、お世話になっている郵便局員のお姉さんや饅頭屋さんの看板娘におはなをあげた。こうして、改めて自分が暮らしている地域を眺めて見ると「誰かをよろこばせるチャンスは無数に転がっている!」ということを思う。そんな時に、おはなの存在は大活躍を果たす。アメリカでは、花屋さんには男性ばかりが集まるのだと聞く。花は「男性が女性に贈るもの」なのだ。これは素晴らしい習慣だと思う。日本人のみなさまもどんどんおはなを配ってみてほしいと思う。おはなは、一輪数百円程度で小さな楽園を与えてくれる。多分、おはなをもらって嬉しくないひとはいない(いたとしたらそれは贈り方のセンスがなかったからか、あるいはその人自身が自分のことを嫌いだからなのだと思う)。

 

言葉の奥に「音楽」がある。

過去記事で、わたしは「風になりたい」と書いた。その後、日本の妖怪に『かまいたち』というものがあることを思い出した。Wikipediaによると「鎌鼬かまいたち)は、日本に伝えられる妖怪、もしくはそれが起こすとされた怪異である。つむじ風に乗って現われて人を切りつける。これに出遭った人は刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みはなく、傷からは血も出ないともされる」とある。わたしは、これを読んで「格好いい!(特に『つむじ風に乗って現われて人を切りつける』という部分!)」と思った。辻斬りである。しかし、痛みはない。血も出ない。切られた側も、切られたことに気がつかない。ああ、なんて素晴らしい存在なのだろうかと思った。

 

【過去記事】自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとに嫌われるほうがずっといい。 - いばや通信

 

誤解を恐れずにいうと、わたしは、ひととひととが本当の意味で語り合うということは「お互いに斬り合う」ことと似ていると思う。井上雄彦著作『バガボンド』の中に、斬り合いを交わす二人の剣士が「俺たちは、抱き締める代わりに斬るんだな」と述懐をする場面がある。殺し合うために切るのではなく、お互いを生かし合うために斬る。そういうやりとりを交わせたあとには、相手がどのようなものであれ、勝敗がどのようなものであれ、空間全体に清々しい風が吹く。私は、ひとと話す時に「斬りたい(そして斬られたい)」と思う。斬られてパカっと割れた相手【自分】から、新しい自分が出てくる瞬間に触れたいと思う。

 

斬り合いを必要としない会話もある。それは音楽に似ている。わたしは、そのひとが何を話しているかよりも「どのような気持ちで話しているか」に注意をしながら聞く。言葉そのものではなく、言葉の裏にあるそのひと自身の本音を聞きたいと思う。言葉と本音が一致したとき、多分、言葉は音楽になる。素晴らしい音楽を聴いているときのようなある種の恍惚感、正直なひとが話す正直な言葉には「素晴らしい音楽を聴いているときのような気持ち」にさせる力がある。斬り合いを終えて、たどり着きたいと思う境地はここにある。ほんとうは、多分、言葉はいらないのだと思う。余計な言葉を削ぎ落とすため【お互いの中に眠る音楽に触れるため】に、時には斬り合うことも必要になるのだと思う。

 

『東京百景』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、又吉直樹著作『東京百景』です。こちらの本は、昨夜の神奈川県秦野市で開催されたイベントに遊びに来てくれた女性が「先入観を持たずに読んでいただければ、きっとお楽しみいただけるのではないかなと思います」というお言葉と共に、わたしに託してくださった一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

※※※ こちらの本は、岩手県にわたりました ※※※

 

井之頭公園を歩くことが日課のようになっていた。「お前どこにいんだよ!」と携帯電話で喧嘩をしている男性がいた。待ち合わせ場所が解らずに激昂しているようだった。男性は鬼のような表情で「だから俺は池のほとりにいるって言ってんだろ!」と叫んだ。しかし、井之頭公園は池を中心として周囲に公園が広がっているので、どこもかしこも『池のほとり』なのだ。二人は永遠に会えないと思った。ー 又吉直樹『東京百景』【ヨシモトブックス

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

神は「どれだけ愛したか」を問う。

様々な方々とお話をさせていただく機会を通じて、もしかしたら、この世の中には「このままのあなたじゃダメだ!」という情報があまりにも氾濫しているのかもしれないと思った。あなたには足りないところがある、だからこれをしなければいけない。いまのままのあなたには価値【愛される資格】がない、だからこれをすることによって自分に価値を与えましょう、など。そういう情報や世間の声を耳にする機会は多い。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。わたしは「価値」と「功績」は別物だと思う。価値は存在に宿り、功績は行動に宿るものだと思う。何もしていないからといって、そのひとから価値が消える訳ではない【人間の価値は不増不減である】と思う。

 

 

自分に価値を与える(何かを埋め合わせる)ために必死になることは、現時点の自分には価値がないのだと認めることになってしまう。わたしは、そんなことはないんじゃないのかなと思う。いまのままでも充分に魅力的な存在であり、ただ、外野の声に惑わされて自分を見失ってしまっているだけなんじゃないのかなと思う。これがあるから自分には愛される資格があるだなんて、愛は、そんなに狭量でケチ臭い概念ではないと思う。だからこそ、なにかをしなければいけないという強迫的な考え方によって、自分のこころの底から湧き上がる「なにかをしたくなる」その気持ちを殺さないでほしいなと、わたしは、自分自身に対しても言い聞かせるように願う。

 


大袈裟な言葉になるけれど、多分、神様と呼ばれるものがいたとしたら、それは「どれだけたくさんのものを集めたか」とか「どれだけたくさんの金を稼いだか」とか「どれだけたくさんの本を読んだか」とか「どれだけたくさんの社会的な名声を獲得したか」なんてことは問わないと思う。死ぬ間際、わたしたちが問われることは「どれだけたくさんのものを愛したか」という、ただ、それだけのことだと思う。言い方を変えるならば「どれだけたくさんのことをやれたかではなく、どれだけ自分の気持ちを込めることができたのか」だと思う。それならば、と思う。何かを否定することにエネルギーを使うのではなく、自分を含めた世界全体を肯定する方向に、生きる方向に、遊ぶ方向に、よろこびに触れる方向に、難しい場合もあるけれど「自分を楽しませる方向に」舵を切っていきたいのだと、わたしは思う。

 

 

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人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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