いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

居場所とは、自分自身である。

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マウイ島のハナという地域まで車を飛ばす。適当なベンチの側に、電源もあればシャワーもついている公園を見つける。「ここで暮らそう」と思い立ち、波音を肴に果物を貪る。不思議な感覚になるけれど、コンクリートに包まれた豪華な客室で眠るよりも、海や森に囲まれて眠った時の方が抜群に睡眠が深い。何かしら、根源的な「安堵感」にアクセスできているからなのかもしれない。仮に、今後、何かしらの理由(たとえば「ごちゃまぜの家の破綻」など!)で何もかもを失うことになった時、そんな時は、「なんどでも自然に還ろう。野宿でもなんでも繰り返しながら、ロビンソンクルーソーのように逞しく生きよう」という生きる活力を得た【ごちゃまぜの家の実現に向けて、もちろん、自分史上最高の最善を尽くします!!】。

 


ハワイの日々を終えて羽田空港に到着をする。久しぶりの日本に、少しだけ胸が踊る。日本語が通じるという、ただ、それだけのことで「最高の国だな!」という気持ちになる。飛行機の中でディズニー映画『モアナと伝説の海』を鑑賞した。映画のテーマは「自分自身に還ろう!」というもので(違うかもしれない)、監督自身も「この映画で伝えたいことは、傷つき悩み迷った時にも、自分の心の声に従って生きて欲しいということです」と述べている。4月30日(日)には熱海の家でわたり食堂【0円食堂】を開催する。わたり食堂でも、ごちゃまぜの家でも、大切にしたいものは「そこにいるひとたちから自然とはな歌がこぼれ出すような、そういう空間になればいい」というビギナーズマインドになる。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

真の充足感は「他人の承認」を必要としない。

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マウイ島のハイクという地域にある「Maui Kombucha【マウイ・コンブチャ】」というカフェに立ち寄る。当初は、コンブチャと聞いても「昆布のお茶なのかな?」程度の発想しか湧かなかったものの、詳しく聞いたら「コンブチャとは紅茶キノコのことで、茶葉を発酵させるのではなく『お茶そのものを発酵させた』栄養素たっぷりの飲み物で、アメリカのセレブも御用達!」ということが判明をした。実際に飲んでみると、美味しいというよりも「これはカラダに効きそうだぜ!」感がすごい。これは日本でも作れるのだろうか。それとも難しいものになるのだろうか。詳しいひとに教えていただきたいです!!

 

※※※ What a wonderful world…ブログ読者の方から種【スコービー】をいただけることになりました!!地球のみなさま、いつもほんとうにありがとうございます!! ※※※

 

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アサイーボウルを一緒に注文する(なんだかもうナニジンかわからないくらい焦げ上がりました!!)。どちらかと言えばアサイーボウルにはまったわたしは、結果的に三日連続ここのアサイーボウルを食べた。ハワイの食生活は健康そのものなのだろうか、体調がすこぶる良い。島国に足を運ぶと体調がよくなる、これは潮風の影響なのだろうか、一説によると「海に入らなくても、潮風にあたるだけで人間の免疫力は高まる」などと耳にしたこともある。非常にお手軽である。うまい飯を食べる、美しい風景を眺める、温泉があれば温泉にはいり、寝る。たったそれだけのことで、ああ、俺の人生は完成をしているという気持ちになる。

 

【過去記事】カラフルでご機嫌な世界を生きるために。 - いばや通信

 

今回の旅の教訓はふたつある。ひとつは「食費をケチってはいけない」ということで、食べるものを食べていないと、根源的な『生きる気力』のようなものが衰退していく。わたしの場合、宿はボロくてもいい。海や森や車の中での野営でもいい。しかし、食べるものを食べていないと「なんだかもういろいろなことがどうでもよくなってきちゃった」みたいなことになる。逆に言えば、食べるものを食べると「うおりゃー!生きるぜ!」みたいな感じになる。そしてもうひとつ、それは『真の充足感は他人の承認を必要としない』ということ。自分が幸せになることと、ひとから幸せだと思われることとは、似ているけれどもものすごい違う。ひとがどう思うかということはかなーりどうでもいいことだから、まずは自分を満たすこと。自分を満たすことに成功をすれば、それを見たひとも「あれ、なんだかこっちも楽しそう!」みたいな感じで、ハッピーな雰囲気は伝染をする。うまい飯を食えば、多幸感が自分の内側に漲る。繰り返しになるけれど、まずは(誰かに幸せにしてもらおうとするのではなく)徹底的に自分を満たすことなのだと思う。

 

【過去記事】誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。 - いばや通信

 

自分自身に還る。

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自然に触れていると、当たり前のことだけれど「人間も自然の一部なんだよな」という気持ちになる。自然に触れてこころが慰められるのは、ただ、自然は「自然のままで」そこにあるからだ。自分を主張することもしなければ、自分以外の何物かになるために悪あがきをするようなこともない。花は鳥になろうとはしないし、鳥は花になろうとはしない。花は花のままで咲き誇り、鳥は鳥のままで飛び回る。その姿に触れた時に、わたしのこころは「ああ、いいな」なんて思ったりする。そして、自然を愛するように自分を愛していきたいという気持ちになる。なにかができるからとか、ここまで来ることができたからなどという理由からではなく、ただ、自分が自分であることをそのまま誇りにすることができたならいいな、ということを思う。

 

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最寄りのカフェでコーヒーを買い、ギターを弾きながら波音を聞く。別に気取った真似をしたい訳ではないのだけれど、ああ、最高だな【他にはなにもいらない】という思いになる。大袈裟な言葉で言えば「ここが自分の居場所だ」という気持ちになる。居場所とは、多分、場所ではなくて人間だ。海のことではない、美味しいコーヒーのことでもない、愛する誰かのことでもなければ、自然のど真ん中を意味する訳でもない、それは、なにかを愛する『自分自身のこころ』なのだと思う。数ヶ月前、ふと、こんな言葉が頭に浮かんだ。それは「行き場所をなくした迷い子よ、自分自身に還れ」という言葉だった。わたしには、定期的に、ああ、どこかに行かなくちゃいけない、行くあてはなにもないけれど、なにかをしなくちゃいけない、ここではないどこかに行かなくちゃいけないというある種の焦燥感に駆られることがある。なにかをしなくちゃいけない、どこかにいかなくちゃいけない、など、このような状態に置かれている時の自分を観察すると、多くの場合「自分自身を見失っている」だけなのだということがわかる。

 

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おとなになるということはどういうことなのだろうか。それは「誰かに認めらえるような生き方をすること」でもなければ「自分を犠牲にしてまでひとと合わせること」でもない、きっと、おとなになるということは「自分からひとを愛していけるようになること」なのだと思う。わたしが向かうべき場所は、自分の外側にある得体の知れないどこかではない、ただ、ずっと昔からすぐ側にあった『自分自身という自然』なのだと思う。自分が自分であるということに、健やかな自己肯定感を育むことができた時、おのずから、周囲のひとたちにも『健やかな優しさ』を差し出すことができるようになるのだと思う。居場所と呼ばれるものを外側に求めるのではなく、自分の内側に築き上げることができた時、同じように「ひとをひととして認めることができる【自分からひとを愛していけるようになる】」のだと思う。

 

居場所とは、自分自身である。

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日本に戻り、4月28日(金)には菊名【神奈川県横浜市港北区】の家の大家さんと面会をさせていただくことになった。わたしが大家さんに嫌われてしまわない限り、ごちゃまぜの家の記念すべき第1号が横浜からはじまる(受け入れていただけることを祈ります!)。これからどのような展開を見せることになるのかは自分自身もまるでわかっていないけれど、こころを込めるということ【目の前にある瞬間瞬間を、家にあるひとつひとつを大切に扱っていくということ】、その思いだけはなくしたくないと思う。菊名の家は、新横浜駅も徒歩圏内になる。当初は「ごちゃまぜの家を東京に!」というところからはじまっているこの企画になるため、品川駅もギリギリ徒歩圏内の家と出逢えることができたらと思う【そうすれば「熱海・新横浜・品川」の東海道ゴールデンロードがつながる!けど!まだなにもあてはありません!】。

 

 

ごちゃまぜの家をやりたいと思う気持ちは、数年前からずっと自分の中にあった。しかし、なかなか自分の気持ちをうまく言葉にすることができず、出会うひとたちに話してもなかなかうまく伝わることは少なかった。しかし、そのようななかでも「自分だけは、自分の思いを見捨てないでいてよかった」とこころから思う。どこかのタイミングで、自分が自分を見限ってしまうようなことがあったとしたら、このような形でごちゃまぜの家を実現することはできなかった。これだけ多くのひとの支援に触れることもできなければ、いま、自分が自分に対して抱くことのできている健やかな自己肯定感【自分で言っちゃうのもアレだけど!でも、言っちゃう!】を、変わらずに抱き続けていられたのかどうかもわからない。支援者の方々に対する感謝と同じくらい、過去の自分に「お前は偉い!よくぞ諦めることなく自分を続けてくれたものだ!」と拍手を贈りたくなる。

 


自分だけは、自分を受容してあげるということ。「自分は自分でいいのだ」と認めること、他者の承認や評価を通してではなく、ただ、自分だけは自分の中にある純粋性を守り抜くということ。モアナと伝説の海の映画において、モアナは他の誰でもない自分のこころの声に従うことを決める。誰かの指令によってではなく、誰かの命令によってではなく、ただ、自分の意思で、ひとりきりの意思で生きる道を選ぶ。モアナとは、遠い映画の中にだけ生きているものではない。それは、きっと、わたしたちひとりひとりの中にこの瞬間も生きている「こころの住人【小さな主人公】」なのだとわたしは思う。居場所とは、自分の外側にあるものではない、それは、「あらかじめ自分の内側に備わっていたもの【自分のこころの声が湧き上がる場所、自分のこころの声が湧き上がる瞬間】」の中に、昔からずっとあるものなのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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