13日(木)に菊名駅の物件を10名の同行者と共に、14日(金)に大阪府豊能郡能勢町の物件を20名の同行者と共に内覧をした。どちらもロケーション的には最高の環境だったけれど、確定するまでははっきりとしたことは何も言えない。平日の昼間にこれだけの参加者が集まるとはすごいな!(みんなヒマなんだな!←失礼!)ということを思った。わたしは、時間とエネルギーのあるひとが大好きです。物件の素晴らしさもさることながら、一緒に同行をした方々の人柄が素晴らしくて「これは既に家族なんじゃないだろうか」ということを思った。そして、昔、クリスチャンの方が言っていた印象的な言葉を思い出した。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
クリスチャンの方曰く「教会っていうのは建物のことじゃなくて、そもそもが『教え合う会』って意味だから、キリストの名のもとに集まりひとたちがいる限り、建物じゃなくて、その『ひとの集まり』を教会っていうんだよ」とのこと。それを聞いたわたしは「なるほどー!」なんて唸ってしまった。家族というものも似たようなもので、家【建物】がベースにあるように見えて、実は『目には見えないもの【ひとの集まり】』がベースになっているのではないだろうか、なんてことをおぼろげに感じていた。今月30日(日)には、毎月最終日曜日に恒例となりました「わたり食堂【0円食堂】」を開催する。わたり食堂の雰囲気を言葉で説明することは非常に難しいけれど、空間全体にある種の『家族感』を感じることは頻繁にある(どなたでもお気軽に遊びにいらしてください!)。
【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】
嫌々生きると「魂が腐る」
菊名の物件は非常に素晴らしくてすべてがスムーズに進んだものの、能勢町の物件ではひと悶着あった。最初は「家賃も光熱費も無料でOK!自由に使ってください!」という話だったのだけれど、蓋をあけたらあらビックリ、やっぱり家賃も払え、光熱費も払え、トイレや風呂や壁や床の修繕費なども自腹でやれ(10年程度空き家だったので、多分、相当な金額がかかる)ということになって我々一同は「あれ?」となった。諸々の事情は割愛するけれど、多分、こういうことは往々にしてあることなのだと思う。理由を尋ねると、わたしに声をかけてくれたひと的には無料で使ってほしい気持ちに変わりはないのだけれど、実の父親でもある家の持ち主が「やっぱり得体の知れない奴らに使わせるのはダメだ。何をやるのか、金はあるのか、信用できるやつなのか、その辺のことを試したい」と心境が変わったのだと言う。
その後、わたしとお父様による地獄の直接対決(?)の時間が設けられた。なんだかお父様はずっとお怒りの様子だったので、ああ、これはコミュニケーションをとることは難しいだろうなと思った。わたしは「自分の話を理解してもらうことよりも、お父様の話を聞くことに徹底しよう」と丹田に力を込めた。お父様が9割話し、わたしは1割の相槌を打つ。滝行僧の如く忍耐強く話を聞いていたのだけれど、途中、お父様がわたしのことを何度も何度も「あんた」と呼ぶことに軽い違和感を覚えたので、わたしは、はっきりとした口調で「あんたと呼ばないでください」と伝えた。この瞬間、この言葉が、空間にガラガラガッシャーン!と亀裂を生んだ。いままではお父様が『上』でわたしが『下』の立場みたいななことになっていたけれど、多分、この瞬間に我々の立場は『圧倒的フェア』になることができた(気がする)。
わたしは「ごちゃまぜの家」に使わせていただける家を求めている。ただ、家が手に入ればなんでもいいとは全然思わない。お前に使わせてやるという感じではなく、あなたに使っていただけることがうれしいと言ってくださる方々と出会いたいと思う。何よりも大切にしたいと思うことは「ひととの結びつき」であり、根本的に「あなたと一緒にやれることがうれしい」という感覚をお互いに持てないひとと付き合うこと(損得勘定だけの繋がり)は、長期的に見て莫大な精神的・肉体的なロスを招く結果になると思っている。何をやるのか、そんなこと以上に「誰とやるのか」は、わたしの場合は死活問題になる。乱暴にまとめるならば「自分のこころが『いいな』と感じるひと』と付き合うこと。自分のこころが「いやだな」と感じることを受け入れてしまうと魂が腐る。この点だけは絶対に妥協をしてはいけないのだということを改めて思った。
悪態日記【いい子ぶってんじゃないよ】
能勢町の物件を内覧した後、箕面市に住む方から「わたしもこの辺でごちゃまぜの家みたいなことをやっているので是非遊びに来てください!」という連絡をいただき、その方のご自宅にお邪魔をした。時間的に厳しかったのだけれど「坂爪さんに会いたいってひともいるので、30分だけでも!是非!カレーもあります!」と言われたので、おお、カレーはわたしの大好物だということでお邪魔をした。が、実際にご自宅にお伺いすると「あれ、別に誰にも歓迎をされている雰囲気はないぞ」ということを咄嗟に嗅ぎ取り、カレーもこれからつくるということで出来上がるまでに1時間はかかるだろうと睨んだわたしは、あまりにも空腹だったために、誠に申し訳ありませんが我々【坂爪圭吾&レンタカーを用意してくれた23歳のたくちゃん】は先に帰ります(レンタカーの返却の時間もありますので)と家主の方に伝えた。
すると「えー!帰るのですか!では、帰る前にみんなで写真を撮りましょう!」ということになった。わたしは「時間がかかるから嫌だな(こころの底から写真を撮りたいと思っているのならば超絶大歓迎なのだけれど、なにかこう『SNSにあげるため』程度のミーハーな理由ならお断りだな)」と感じたので、わたしは「時間がないので、写真はなしで!」と逃げた。が、なかなか自分の意向がうまく伝わらなかったみたいで、その方は「写真を撮りたいひとは家の外に出てください!」と周囲の方々にアナウンスをした。ああ、これはやばい流れだなと思いながら、私たちは何も聞かなかったことにして一足先に外に出た。が、その一足先が遅かった。私たちが外に出るのに合わせて、その場にいた何名もの方々も同時に外に出てしまった。
家主の方が「ほらほら坂爪さん、みんなもこうして外に出ていることですし、写真の一枚だけでも是非!」みたいなことを言う。が、ここはこころを鬼にする最高のタイミングだと思って「(再び丹田に力を込めながら)写真はなしで!」と繰り返し伝えた。俺の中の俺が俺に「いい子ぶってんじゃねえよ!」と耳元で囁くので、この瞬間ばかりは気持ちをギュッと引き締めて、そそくさと車に乗り込み早々とその場を離れた。車を出す直前、後方から「写真はいやなんだってぇ〜」と漏らす家主の声が聞こえてきた。写真を撮らなかったことは悪いことをしたなと思うと同時に、普段だったら流れに任せて写真を撮っちゃっていた自分をぶち壊すことができた爽快感に、わたしは軽い「いい仕事をしたな」感を覚えた。そして、ああ、悪態をつくということは(世間的にはあまりよいこととはされていないみたいだけれど)ほんとうに素晴らしいことだな、なんていうことを思った(過去の「悪態日記」は下記リンクよりご覧ください!)。
【過去記事】誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。 - いばや通信
『日々のことば』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、マザーテレサ著作『日々のことば』です。過去にも紹介したことのある一冊になるのですが、その時の応募総数が半端ないことになったので、よし、これからは手に入る限りこの本を無限に手に入れまくり、手に入った瞬間に無料でばら撒き続けよう!!ということを思い立ちました。わたしも大好きな、マザーテレサ入門にも最高の一冊【日めくりの名言集みたいな感じ】になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※
4月7日【筆者註・坂爪圭吾の誕生日!】
どんな国であれ、信仰のあるところでは、
わたしたちが働くのに困ったことは、まったくありません。
わたしたちは、すべての人を神の子どもと考えています。
みんな、わたしたちの兄弟、姉妹です。
わたしたちは深い尊敬をもって接します。
わたしたちの仕事は、
クリスチャンも、ノンクリスチャンも同じに、
彼らをいっそう勇気づけます。
心からあふれる愛の働きはどんなものであっても、
人々を神に近づけるものなのです。
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。
クラウドファンディングの企画をはじめてから、支援者の数々が増えると同時に、言われなき誹謗中傷を受ける機会も増えた。ひとの目に触れるということは、多分、そういうことなのだと思う。たとえ99人から称賛の声を受けたとしても、たった1人からでも罵詈雑言の類を浴びた瞬間は、99人の声も吹き飛んでしまうほどの精神的ダメージを受けてしまうこともある。でも、そういう声に惑わされてはいけないのだと思う。自分の意識をどこに向けるのかということは、多分、自分の意思で選択できることなのだと思う。
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。傷つくこと嫌われることを恐れる自分を投げ出して、すべてを受け入れる覚悟で開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年3月31日
ひとにためにできることは何もないな、ひとのために言えることは何もないな、自分を生きることが何よりも雄弁だな。そういうことを思う時がある。誰かのニーズを満たすために生きるのではなく、自分のニーズを満たすために生きること。言葉ではない、その姿に、その佇まいに、その生き様に説得力を宿らせる人間は最高に格好いいとわたしは思う。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きること。自分のために生きることが、結果として誰かの力にもなっているような、そういう生き方をできる人間になりたいと思うし、そういう生き方をできる人間でありたいと思う。
嫌われたくないとか、うまくやらなければいけないなどと思う頭意識ほど邪魔なものはない。嫌われてもいい、うまくやらなくてもいいのだと自分を認めて突撃すれば、意外とうまくいくことは多い。思いやりのカケラもない、誰かの無慈悲な言葉を受け入れる素直さは捨てて、自分のままでぶつかって行こう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月5日
菊名の物件や大阪の物件、大袈裟な言葉で言えば「自分の人生」を通じてわたしは様々な人々と出会った。大変な時期もあったけれど、振り返って見ればすべてが美しい時の重なりによって形成をされているような、そういう気持ちになることがある。そして、わたしは思う。罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。自分の人生を支えるものは、他人の評価でもなければ世間的な肩書きでもない、自分のこころの中にある「美しい記憶」なのだと思う。自分は面白い人生を生きることができている、少なくとも「あの瞬間は最高だった」と思えるものが胸の中にある限り、きっと、何度でも人生に立ち向かう勇気のようなものは内面から湧きあがる。自分の正当性を主張するでもなく、良い格好をしたい訳でもない、ただ、これまでの人生を振り返ってみた時に「いい人生だったな」と静かに深く思える自分がいる。そのように思えるハートがあるのならば、きっと、俺たちは大丈夫なのだということを思う。
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたいひとに会う、これ以上に優先するべき事柄はあるだろうか。理想の日々は「今日も生きた」と思いながら毎晩眠りにつくことであり、死ぬ間際、「おれは生きた」と思いながら、遊び疲れた子供が眠りに落ちるように、自分の人生に静かに幕を降ろすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月13日
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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