何をしてもいいし、何もしなくてもいい。
海外旅行中の日本人男性三人から声がかかり、クアラルンプールからランカウイ島に飛ぶ。カフェで合流をして、食事と飲み物をご馳走してもらう。海岸線を歩く。水着を買う。海にはいる。不思議な感覚を覚える。カフェで(言葉だけを使って)話をしている時よりも、同じ海の中で身体を動かしながら話している方が、深いコミュニケーションをとれている感覚を覚える。数年前、初対面のひとと真夜中の山を一緒に登る体験を通じて、物凄い速度で親睦が深まった記憶がある。夜光虫が輝く夜の海を一緒に裸で泳ぎ、すぐに仲良くなれたひともいる。「綺麗だね」と言えば「綺麗だね」と返ってくる、その思いの深さが、お互いの心を結びつけるのかもしれない。
ランカウイ島を離れてペナン島に飛び、翌日、シンガポールに飛ぶ。空港で日本人女性と落ち合う。タクシーに乗ってチャイナタウンに移動をして、チキンライスとアロエジュースをご馳走していただく。シンガポール最古の寺にあるカフェでお茶をしながら、様々な話をする。カフェを離れ、市街地周辺を一時間ほど歩き、フラトンホテルで解散をする。私は、フラトンホテルで次に約束をしていた方と会う。フラトンホテルのハイティーをご馳走していただき、様々な話をする。その後、チャイナタウンに再度戻って最後の予定の方々と合流をして、高級中華料理屋で蟹のビーフンなどをご馳走していただく。昨夜は蟹座の満月で、蟹をご馳走してくれた方は蟹座生まれだと話してくれた。顔を出したばかりの月が、紅く、大きく輝いている。その後、タクシーで空港に移動をして、いま、私はバンコクの空港近くにあるホテルの部屋から、この記事を書いている。
最大の観光名所は「人間」だ。
呼ばれた場所に移動を続ける生活をしている。基本的な交通費や滞在費は、声をかけてくださった方々が手配をしてくださることもあれば、自腹で向かうこともある。予定が合う限り、何処にでも行くようにしている。いつからだろうか、自分で何かを決めるということが極端に少なくなった。それよりも「声がかかる場所に、声がかかるままに身を委ねて、丸腰で向かう」ことで、自分でも想像することのできなかった出来事に遭遇することをおもしろがりはじめるようになった。シンガポールに行くことが決まったのは36時間前、その数時間後に各種SNSから「シンガポールに行くのでお時間のある方はお会いしましょう」と告知(?)をした結果、4名の方々とお会いすることができた。すべてが初対面の方々ばっかりだけれど、同じ時間を過ごすことを通じて、私は勝手に仲良くなれたと思っている。シンガポールを再訪したいと思う理由が、私の中で4個増えた。最大の観光名所は、遺跡でもなければ南国の島々でもない、HUMAN【人間】だと思っている。
私は、私に会いたいと思ってくださる方々によって生かされている。なぜ、私に会いたいと思ってくださるのだろうか。理由は、ひとの数だけあるのだと思う。そのため、一概にこれだと言えることは少ない。ただ、私と同じ時間を過ごすことで『自分の中心に戻る』ことはできるのではないだろうか、と、思うことがある。私には、金もなければ仕事もない、世間的に見ればその日暮らしの放浪者のような生き方をしている。私には「私という肉体と精神」しかない。そのため、私は、私の存在だけを頼りに生きる。私には何もない。何もない自然の中で自分のこころをチューニングすることがあるように、何もない私の前で自分のこころをチューニングすることがある、などと思うことがある。そのためには、私自身が透明なものでなくてはならない。自分自身が濁っている時、鏡としての自分は、調律師としての自分は、機能を失う。
情緒の扉【心】
岡潔の本を読む。そこには「如来はいつもましますけれど衆生は知らない。それを知らせにきたのが弁栄である」と書いてある。如来は目には見えないが、いつも人々に寄り添うように存在している。私たちはそのことを知らないで生きている。如来は、人間がどんな困難にあるときも人間の傍らから離れることがない。自分はそれを世に教えにきたのであるというのである。如来の働きをありありと感じるためにも人は情緒の扉を開かなくてはならない。その先にある悲願をめぐって岡はこう書いている。
真我の心は同体大悲である。これはひとの心の悲しみを自分の心の痛みのごとく感じる心という意味である。心とはここでは、情的に言えば、という意味である。
情緒が開くとき、人は、他者の悲しみを自らの悲痛として経験する。世に悲しみを経験していない人などいない。悲しみは単なる嘆きの出来事ではなく、容易に分かり合えなかった者たちの間をつなぐ懸け橋になる。【解説・若松英輔】
『一葉舟』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岡潔著作『一葉舟』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、シンガポールにわたりました ※※※
「人が現実に住んでいるのは情緒としての自然、情緒としての時の中である」西洋的な物質主義ではない、日本的情緒の大事さを説き続けた岡潔。その思想の根底には常に仏教の叡智があった。釈尊の再来と仰いだ山崎弁栄の言葉を辿り、芭蕉の句に日本古来の情を見、時に脳の働きにも注目しながら、情緒の多様な在り方を探る。数学研究での実体験や教育についての対話、仏洋行記も交え仏教への思索を深めた書。ー 岡潔『一葉舟』【角川ソフィア文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
変わるものと、変わらないもの。
何処の国に行っても、空には同じ月が輝いている。日本にはない景色に触れた時、その、変わる景色を前に「自分がいる場所だけが世界ではないのだ」と心が楽になることもあれば、変わらない景色を前に「遠く離れても、同じ世界を生きているのだ」と心が慰められることもある。小さなこどもたちは生命力を外側に放出するように明るく元気に飛びまわり、沈む夕日の周りにはひとびとが集まり、友愛の証としての微笑みがある。同じものを同じように美しいと感じ、同じものを同じように親愛の証としている「人間」がいる。国は違えど、文化は違えど、普遍的な部分は何処の国に行っても同じなのだということを思う時、私は、安心感にも似た気持ちを覚える。
ペナン島の屋台で、ミャンマー人の男性と出会った。彼は、日本語で私に「日本人ですか?」と尋ねた。その時の彼の笑顔が、ああ、人間はこんなにも穏やかな笑顔をすることができるのかというほどに、柔和で、温かく、まるで菩薩のような慈愛に満ちている笑顔で、私は、身動きができなくなってしまった。彼との短い対話を終え、私は、しばらく何もすることができなくなった。そして「ああ、今日はほんとうに素晴らしいものを見ることができた」という気持ちになり、やがて、ペナン島を離れてシンガポールに向かった。いま、私はバンコクにいる。今後の予定は何もない。しばらくはバンコクに滞在をしようか、日本に戻るか、それとも、ミャンマーなどの周辺国に足を運ぼうか。まだ、何も決めることができないでいる。
何をしてもいいし、何もしなくてもいい、何処に行ってもいいし、何処にも行かなくてもいい、しなければいけないことなんて本当はひとつもなくて、唯、自分で自分を縛ってしまうだけのことなのだろう。何かをしなければいけないだなんてことは、多分、ない。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。その中で、自分のこころが「いいな」と思う方向に、身軽に、軽やかに、タンポポの綿毛のようなフットワークで生きていくことができたなら、私のこころは「いいな」と思う。
美味いものを食べた時に「あのひとにも食べさせてやりたい」と思うこと、美しい景色を見た時に「あのひとにも見せてやりたい」と思うこと、何かを分かち合いたいと願う感覚が『愛』だと思う。一緒にいない時間にも育まれているものは確実にある、どれだけ遠く離れても、ひとりきりではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年1月10日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
求道の道は道楽の道。
ドラゴンフルーツとパパイヤの反復横跳びを繰り返している。食べ過ぎを抑える(夕食以外はすべてフルーツで済ませる)ことで肉体も精神も軽い。昨日は、クアラルンプールで登山をした。海外で登山をするのは最高だと思った。軽い筋肉痛に苛まれているものの、汗を流した後の体調は好調だ。現地人さながらの気分で、さも、私は31年間パパイヤと一緒に大きくなりました的な表情を浮かべながら自然に囲まれた環境の中でフルーツを丸かじりしていると「世界が俺のホームだ」的な余生感が芽生える。これからマレーシアのランカウイ島に足を運び、その後はタイのバンコクに向かう。「お年玉をくださいツアー」なるものが、私をこんな場所にまで運んでくれた。関係者のみなさま、本当にありがとうございます!!
海外在住の方も「海外在住とか夢みたいなこと言ってんじゃねえよ」と言う方も、本日もお疲れ様でした!!みなさまはどのような1日をお過ごしになられましたでしょうか。私は、こんな1日を過ごしました!(本日のハイライトです!)
1・クアラルンプールに来るきっかけを与えてくれたK様と合流をする。K様は、クアラルンプール空港まで車でお迎えに来てくださり「車でお出迎えだなんてVIP対応じゃないか!」と興奮する。
2・そのまま、K様のご自宅にあるゲストルームに宿泊をさせていただく。あまりにも快適すぎるゲストルーム(個室にトイレもシャワーもついている!)に「こんな暮らしをほんの一瞬でも垣間見させていただいたことで、今世は『こんな世界もあるのだな』と知れたことを誇りに思おう」と思う。
3・翌朝、昇る朝日が綺麗で「今日は既にゴールをしたな…」と思う。
4・K様の案内で、車でしかなかなか行くことができないジャングル的な場所にお連れしていただく。本日のクアラルンプールの気候は34度と比較的暑そうな匂いが漂っているものの、樹木の中は死ぬほど涼しい。軽いと登山を終えた後に、K様が「これを持って来たので食べましょう」とかばんの中から袋を取り出す。
5・袋の中から、保冷剤でしっかりと冷やされているドラゴンフルーツとパパイヤの盛り合わせが飛び出す。私は「なんてわかっているひとなんだ!(東南アジアの醍醐味は、ドラゴンフルーツとパパイヤの反復横飛びにありますよね!)」と感動をする。静かな湖畔の森の陰にある巨石の上でフルーツを頬張りながら「本日二度目のゴールをしてしまった…」と思う。
6・静かな湖畔の森の陰にある巨石の上から「ごはんでも食べに行きますか!」と、クアラルンプール市街地を目指す。ブキビンタンという日本でいう銀座的な場所にある伊勢丹界隈でランチを済ませ、その後、本日三度目のゴールを迎えることになる。
7・あろうことか、食後にK様が「私はマッサージが大好きなので、もしもご迷惑でなければマッサージにお連れいたします!」という魅力的すぎる提案をしてくださる。私はマッサージをされることに慣れていないので「緊張しています!緊張していますが、よろしくお願いいたします!」と、足裏マッサージのお店に勇気を出してはいる。
8・想像を絶する気持ち良さに「本日三度目のゴールをしてしまった…」と、軽い眠りに落ちながら何か大きなものに感謝をする。と、ここまで書いて「ああ、もう8番まで来てしまった、、、」ということで本日のすべてを書き尽くすことができないことが情けないのですが、いま、私はホーチミンからはるばるクアラルンプールまで来てくださった方と一緒にカフェにいます。
9・私はこの記事を書き、ホーチミンから来てくださった方は私の目の前で忌野清志郎の「瀕死の双六問屋」を読んでおります。同じ空間にいながらそれぞれがそれぞれのことをしている時間っていいよね、などと思いながら、いま、トイレに行きたい気持ちを抑えながらこの文章を書いています!!
10・という訳で、明日からは非常にありがたいことにマレーシアのランカウイ島からお誘いを受けたのでランカウイ島に飛びます!その後は、バンコク在住の方からご連絡をいただきましたのでおそらくバンコクに向かうことになると思いますので、ランカウイ島の方も、バンコク近郊にお住いの方も、それ以外の方も、何かありましたらお気軽にご連絡ください!!
写真は、静かな湖畔の森の陰です!
【おまけ】湖畔で遊ぶこどもたちの無邪気な笑い声が聞こえた時は「なんて無垢な笑い声をするのだろう!聞いているこちら側まで楽しくなってしまうじゃないか!」などと思いながら近寄った所、なんと、湖畔で遊んでいたのはこどもたちではなくて立派なおとなたちでした。おとなにもこんなにも無垢で純粋な笑い方ができるのか(まるで小鳥のようでした!)と、非常に素晴らしいものを見させていただきました。
【イベント詳細】お年玉くださいツアー 〜僕も、大きくなりました〜
大阪のハイライト。
諸事情が爆発をいたしまして、あべのハルカスにありますマリオットホテル最上階付近の豪華ラウンジでケーキセットなるものをご馳走していただく流れになりました生きとし生けるもののみなさま本当にありがとうございます!!私は幸せ者でございます!!
前回の記事でも「ドトールにまつわるエトセトラ」を投稿したけれど、関西地方では人情に触れる機会が本当に多い。自分に余裕のない時は「お願いだからほっといてください」的な気持ちにもなるけれど、菩薩スイッチがはいっている時は「なんて可愛らしいひとたちなのだろう!」と感動をする。フライト当日も天王寺駅を中心に様々な恩恵を受けた。総勢5名の方々から、食事や飲み物をご馳走していただいたり大量の贈り物をいただいたり、とてもじゃないけれどここには書ききれないほどの恩恵【一度、アゴが外れかけた出来事が関西空港で起きた】を受けた。
【過去記事】真面目に考え過ぎないで、遊べ。 - いばや通信
何者かになろうとしていないひとは朗らかだ。
みなさまからの施しによって生きている私にできるものは、せめて、自分が受け取ってきたものを「次にまわすこと」だろうということで、1月29日(日)に熱海の家で『わたり食堂【0円食堂】』なるものを開催する。この日に海外のお土産的なサムシングも来場者の方々に無料で配れたらと思うので、時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください。内容としては「料理を作りたいひとが料理を作り、料理を食べたいひとは料理を食べる、基本的にすべては完全に無料で行われるために、すべては『人間の善意』によって開催されている1日限定の食堂」みたいなものになります。
【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】
現在も提供者側になってくださる方を絶賛募集中ではあるのですが、昨日、中学一年生の女の子の参加が決定しました。彼女は、最近、学校に行くことをやめて「世間の荒波に揉まれることを通じて学習する」という方式にギアをチェンジした。この前は江ノ島の喫茶店の営業を手伝ったりしていたのだけれど、そこで非常に美味しい珈琲の淹れ方を獲得した彼女は、その腕前を「わたり食堂」で振舞ってくださることになった。非常に素晴らしい展開だと思う。さらに、この話を聞いた小学六年生の女の子が「私はエスプレッソマシンでカプチーノを作ることができるよ(坂爪註・余談になりますが、こちらの女の子は佐渡ヶ島で魚の捌き方もマスターしています)」ということになり、もしかしたら中学生の女の子と小学生の女の子が共に珈琲を担当することになるかもしれない。
当日は、全国各地を車中泊で移動するアクティブホームレスのおじさまがコンビーフカレーを作ってくださり、静岡県在住のお坊さま【ガチ】が自家製のけんちん汁を作ってくださることになっている。その真横で、中学生と小学生の女の子がコーヒーを作っている図は「絵的にカオスだな」と思う。私は西洋的な合理主義よりもカオスティックなもの【東洋的混沌】が好きだ。理由は、多分、何だかもう訳がわからなくなることで「なんでもあり!(もう、好きなようにやっちゃってください!)」という肯定感を勝手に見出すからだと思う。そのひとをそのひとのままでまるごと肯定する【みんながバラバラなことをやっている中で不思議と全体的な調和が成立をしている】、私の敬愛する三森さんも言っているけれど、何者かになろうとしていないひとは朗らかだ。正しさを捨てているひとは軽やかだ。執着を手放しているひとは可愛い。(気がする)
【参考記事】1月の合言葉は「ピースフル」 - みっつ通信
『ノルウェイの森』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、村上春樹著作『ノルウェイの森(上下巻)』です。こちらの本は、クアラルンプールに飛ぶ直前に関西空港間近で「これは僕にとって本当に大切な本なのです」と、伊丹空港近辺に在住の方がはるばる届けてくれた本です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、クアラルンプールにわたりました ※※※
あなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的におもうのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。
孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの。
まず第一に相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事を取り繕ったり、都合のわるいことを胡麻化したりしないこと。それだけでいいのよ。ー 村上春樹『ノルウェイの森』【講談社文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
求道の道は道楽の道。
それにしてもですね、三森さんの「何者かになろうとしていないひとは朗らかだ。正しさを捨てているひとは軽やかだ。執着を手放しているひとは可愛い。(気がする)」という言葉は、本年度稀に見る名言だと思う。素晴らしい言葉だ。本当にその通りだと思う。このような気づきを与えてくれる三森さんは神がかり的な存在だと思う。私は三森さんの言葉も佇まいも大好きだ。あまりにも大好きなものだから29日のわたり食堂に三森さんも何かの形で参加をしてくれないかなと思う。肩叩き担当とかでもいいので、三森さんがこの記事を読んでいることを祈る。
自由を広げる考え方と、自由を制限する考え方がある気がする。道に迷う時、経験則的に後者の考え方を採用すると人生が閉じる。極論、自由を制限する考え方【内側の声】はガン無視をしてもいいような気がしていて、真理とは誰かに何かを強制するものではなく「ひとを自由にするもの」だと思う。宗教も同じ。これをしないと地獄に落ちますよ的な恐怖で信者を縛るものではなく、ただ、このような考え方をすると前よりもちょっとだけ楽になれるような気がしますよ的なアプローチが好きだ。どのような考え方を採用するのかは各人の自由、只、私は「自分のこころを軽くする」考え方や生き方を採用していきたいと思う。
前回の記事で「今世はもう充分に生きたから、あとはおまけみたいなものです」的なことを書いた。それならば、なぜ、生きるのか。死ぬまでに残されている時間を、どれだけ遊び尽くすことができるのか、どれだけ自分の精神を躍らせていくことができるのかということに、自分の主要な関心はある。これはある種の求道的なスタンスと似ているなあと思うこともあるけれど、多分、求道の道は道楽の道と同じだ。求道【言うなれば愚道】の果てに、まだ見たこともない素晴らしい風景が広がっているような気がしている。いまの自分に「これをやるまでは死んでも死に切れない」と思うものは何も思い浮かばないけれど、生きていれば「こんなにも素晴らしい風景を見ることができるのだ!【生まれてきてよかった】」と思う瞬間の中には、これまでの人生を大きく肯定する力がある。多分、私は「それを見たい」から生きているのだと思う。
クアラルンプールの猫。 pic.twitter.com/sPDjJhWq8g
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年1月9日
人生は続く。
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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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真面目に考え過ぎないで、遊べ。
昨日、あまりにも素晴らしい出来事が起きた。 私は、いま、お年玉を受け取りたい【お年玉を通して生まれる人間関係を構築したい】がために気持ち地球を一回転する覚悟で「お年玉をくださいツアー」を自主的に敢行している。日々の濃度が高く、非常にありがたいことに、瞬間瞬間に魂を震わせる感動的な出来事が頻発している。そのすべてを紹介することができないことが物凄い悔やまれるのですが、下記に「あまりにも素晴らしい出来事」の詳細を(facebookのEVENT内投稿より引用)誠に勝手ながら共有させていただきます。
天王寺駅からありがとうございます!!
2・ルンルン♫で近くのドトールにはいる。
3・買ったばかりのアイスコーヒーを速攻でこぼす。こぼしたアイスコーヒーが、あろうことか椅子にかけてあったお客さんのコート背面部に全面的にかかる。顔面は蒼白する。何か拭くものを手に入れるために、店員さんのもとにダッシュする。
4・店員さんが床を拭く。私は、お客さん(20歳前後の女性)に謝りまくる。周囲の人々の視線が刺さる。私は繰り返し謝る。20歳前後のお客さんは「全然気にしないでください」と言う。全然気にしている私は、平謝りを続ける。
5・店員さんが新しいアイスコーヒーを持ってきてくれる。私は「あの、これ、クリーニング代に使ってください」と、昨夜名古屋でお会いした方から譲り受けた奇跡の一万円札を差し出す。女性は「えっ、そんな…全然大丈夫なので気にしないでください」と言う。
6・私は「いえいえ、もう、本当に申し訳ありません」と言う。女性は「いえいえ、クリーニングとか全然大丈夫ですよ」と言う。私は「それでは、他の何かに使ってください。本当にごめんなさい!」と言って無事に手渡し、事故現場からちょっとだけ離れた席に落ち着く。
7・アイスコーヒーを飲みながら「クリーニング代にお金を渡すなんて人生初めての出来事だなあ」と遠い目をしていたら、20歳前後の女性が彼氏さまと一緒に私のもとに来る。
8・非常に柔和で温かな微笑みをたたえた彼氏さまが「やっぱり、ちょっと、一万円はさすがに多すぎる気がするのでお返しします。全然大丈夫なので気にしないでください!」と言う。私は「うわー!なんだか、変な気持ちにさせちゃっていたらごめんなさい!」と言う。
9・彼氏さんまは「いえいえ!一万円はさすがに多いと思っただけです」と物腰の低過ぎる笑顔で言う。私は「それでは、(これから会う予定の方のために用意をしていた花を取り出して)代わりにお花を受け取っていただけますか?」と言う。
10・彼氏さまは「お花をもらえるのは嬉しいです!」と言う。私は「それでは、是非、お花を受け取ってください!」と言う。彼氏さまは「ありがとうございます!」と言う。彼女さまも「ありがとうございます!」と言う。私は「ありがとうはこちらこそです!!!!!!!!」と言う。
大阪のみなさま、本当にありがとうございました!!!!!
※ 写真は、年末年始に開花を迎えた熱海の梅の花です!小生、花の存在に救われまくっております!!!!
【イベント詳細】お年玉くださいツアー 〜僕も、大きくなりました〜
当企画のハイライト。
facebookのイベントページ内において、時間の許す限り「本日のハイライト」を投稿するようにした。理由は三つあって、ひとつは「暇になる時間が多いから!」ひとつは「なかなか面白い目に遭えているような気がするから!」ひとつは「この投稿を目にしてくれたひとがちょっとだけでも笑顔になってくれたら嬉しいから!」です。笑ってもらえたら嬉しいという感覚は比較的本心で、いばやの活動も、個人的な自身の動きも、根本的には「こんな生き方もありなのか!と、一緒に面白がってもらえたら嬉しい」という思いがあります。
1月4日(水)のハイライト。
お仕事始めの方も、お仕事始めではなかった方も、本日もお疲れさまでした!!みなさまは、どのような1日をお過ごしになられましたでしょうか。私は、こんな1日を過ごしました!(本日のハイライトです!)
1・神奈川県藤沢市にあるデニーズを経由した後に、ほしなさんの車で三軒茶屋に向かう。
2・三軒茶屋駅界隈のお洒落なマンションの前で軽い悪態をつきながらあべさんを拉致し、駒沢公園近くにありますバッティングスタジアムにて(あべさんの奢りで)無制限打ち放題をご馳走していただく。
3・途中、世田谷区内在住の方が「さかつめさん、これ、お年玉!」と原動機付自転車で颯爽と駆けつけてくださり「おおおおおお!なんて粋なひとなのだろう!」と坂爪が感動をしている隣でほしなさんがお返しにシャンパンをササッと渡そうとする、ものの、お越しいただいた方が「わたしなんかには勿体無い!どなたか、別の方に渡してください」的なことを仰せられたので、
4・否、我々は「あなただからいいのです!!!!!」と声を大にしてその方の胸に押し付ける形で半ば強引にシャンパンをねじ込み、少しはよろこんでもらえたのかななんてほっと胸を撫で下ろしながら再び打ち放題に戻りまして、ああ、なんだかバッティングセンターって自分と向き合うのにはちょうどいい場所だねなどと話しながら車で五分程度の距離にある等々力渓谷まで足を運びました。
5・景観の良い等々力渓谷の散策を終えた時点で時刻は11時45分、私たちは「午前から活動をするとなんだか1日が長く感じるからいいよね」などと牧歌的な会話を交わしながら美味しいお昼ご飯でも食べようかという流れになり、
6・「しゃぶしゃぶ食べ放題にいけばサイドメニューとかでタンパク質を筋肉に変換できるね!」と一路しゃぶしゃぶ食べ放題屋さん探しを試みるものの、なかなか見つからないので「それならば木曽路に行こう!(昼ならそんなに高くはないよね)」と、いまだかつて行ったこともないお店の名前があがりまして、
7・結果的に三人分の会計がお正月特別価格で1万6000円とかになってしまって私は泣きそうになってしまったのですが、あべさんが「これは俺からのお年玉だよ」という非常にオツなセリフと共にまたしてもご馳走をしていただくという形で九死に一生を得まして、
8・あべさんに深く頭を垂れながら私たちは都立大学駅前で解散をし、その後、坂爪は14時に渋谷ハチ公前で待ち合わせていた女性と合流をしてコンシールカフェ桜ヶ丘店という数年前から個人的に愛用していたカフェにはいり、
9・なんやかんやあって非常に素晴らしい時間を過ごすことができて「生きているといいことがあるなあ」とうつつを抜かしながら歩いていたら、晴海から車で戻ってきたほしなさんが「けいごさん、熱海に戻るなら車で送っていきますよ」という慈愛に溢れた連絡をくださり、先ほど、ほしなさんと一緒に車で熱海に戻りました。ほしなさんはほしなさんで非常に素晴らしい時間を過ごしていたみたいで、我々は、熱海の温泉にはいりながら「今日はほんとうに1日だったね」とお互いを慰労し合いました。
10・明日は、大学院生のお友達が熱海にお年玉を届けに来てくれることになったので、小生、1日中熱海にいるので時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。そして、作り過ぎてしまった酵素玄米と自家製のほしいもを食べてもらえたら嬉しいです。明後日以降は青春18切符で岐阜に行くフラグ(通称・ギフラグ)が立っておりますので、まだどうなるのかははっきりとはわからないのですが東海・関西方面のみなさまはよろしくお願いいたします!!最後までご精読いただきありがとうございました!!
「ひとは優しい」ということ。
旅をしている訳でもない自分が言うのもおかしな話だけれど、旅に出ることで実感することが三つある。ひとつは「ひとは優しいということ!」ひとつは「不思議な出来事は起こるということ!」ひとつは「いま、生きている場所が世界のすべてではないのだということ!」だと思う。新しい一歩を踏み出す時、また、新しい一歩を踏み出し続ける時、ひとは「こんな世界もあったのか!」という自分の精神世界を拡張する斬新で新鮮な感動に包まれる(ことがある)。言うなれば、人生全般がある種の「旅」のようなものであり、我々は誰もが旅の途上にあるとも言える。
1月7日(土)のハイライト。
三連休だよという方も、三連休とか関係ないんだよという方も、本日もお疲れさまでした!!みなさまはどのような1日をお過ごしになられましたでしょうか。私は、こんな1日を過ごしました!(本日のハイライトです!)
1・三重県四日市市のユーユーカイカンで目を覚ました我々は、奈良県奈良市在住の方が「最近ちょっと元気をなくしている」という情報を聞きつけておりましたので、昨夜突発的に合流をしたほしなさんの車で一路奈良市内を目指す。
2・朝日が最高に綺麗で「俺たちは既にゴールをしているね」的な会話をする。
3・奈良市内で無事に合流を果たし、非常にお洒落なカフェで圧倒的に優雅なモーニングをたしなむ。お店の雰囲気は最高なんだけれど、規模がでかすぎるからなのか従業員さんの対応がマニュアルに過ぎる感じがして「どうしても規模が大きくなるとこうなるよね」的な会話をする。
4・奈良県明日香村で森の幼稚園をやっていらっしゃる方々からご連絡をいただき(本当は、我々が勝手に駆けつけたいが為に駆けつけた)、奈良市内で譲り受けた大量の玄米おにぎりfeat.自家製の沢庵と共に参上をする。みなさま非常に優しい方々ばかりで、謎に出現した私たちを温かく迎えてくださるばかりか豪華なお弁当を与えてくれる。「俺たちは生かされているね」的な会話をする。
5・「やり残したことは何もない!」ということで森の幼稚園を颯爽と離れ、坂爪圭吾は近鉄線で天王寺駅へ、ほしなさんは車で三重県の限界集落に向かう。ここでほしなさんとはお別れ。
6・私は、天王寺駅前のブックオフで岡潔の本をゲットして「ルンルンだぜ!」となるものの、その直後、史上稀に見る出来事に巻き込まれる(詳細は前回の投稿をご覧ください!)
7・最高のカップルに手渡したお花を再び買い足し、天王寺を離れて梅田駅に向かう。広島市内からわざわざ大阪市内まで駆けつけてくれた男性からお年玉とわたり文庫用の本を受け取る。タイトルは「人生生涯小僧のこころ 大峯千日回峰行者が超人的修行の末につかんだ世界」であり、ああ、これは死ねと言われているのだなと腹を括る。
8・20時、本日最後の予定となる女性と梅田駅のグランフロント前界隈で待ち合わせる。またしてもお年玉をいただいてしまったばかりか、大阪名物お好み焼きまでご馳走をしていただく(本当に美味しかったです!!)。そして、そして、いつものように今夜の宿が決まっていない私に「これもお年玉だから」と梅田駅近くの超絶高級ホテルを取っていただく(いま、そのホテルからこの文章を書いています!)。
9・と、ここまでかなりショートカットで書き連ねてきましたが「とてもじゃないけれどここには書ききれないこと」が上記の五億倍くらいありました!!が、はしょります!!
10・という訳で、明日の夕方関空発の便【片道切符】でクアラルンプールに飛びます!以降の予定は完全に未定で、マレーシアの島々を転々とするか、ベトナム経由でカンボジアを巡るか、セブ島かバンコクに飛ぶか(あるいは日本に強制送還になるのか)をまだ決めあぐねているのですが、もしも「ここに来たら会おう!」的な方がいらっしゃいましたらお気軽にお声かけください。最大の観光名所は、遺跡でもなければ南国の島々でもない、HUMAN【あなた】です!!
※ 写真は「俺の書き初め」です。凧にして打ち上げたらボロボロに破れました!!
連絡先・keigosakatsume@gmail.com
『人生生涯小僧のこころ』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、塩沼亮潤著作『人生生涯小僧のこころ 大峯千日回峰行者が超人的修行の末につかんだ世界』です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします【クアラルンプールに飛ぶ前に本の郵送を済ませる必要があるために、誠に恐れ入りますが本日の午前中を募集締め切りとさせていただきます!!】
※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※
この行には、たったひとつだけ掟があります。それは、いったん行に入ったなら、決して途中で行をやめることはできない、後戻りができないということです。万が一この行を途中でやめるときには、「神さま仏さま申しわけございませんでした。千日間歩き通しますと申しておりましたが、自分の不徳によって途中でやめざるを得ません」と神仏にお詫びをして、左腰に携えている短刀で自分自身の腹をかき切って自害するか、あるいは死出紐という紐を木に結び付けて首をくくって命を絶たなくてはならない、厳しい掟であります。文字どおり、命懸けの行です。ー 塩沼亮潤『人生生涯小僧のこころ』【到知出版】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
道楽としての修行。
私は「人生は余生」だと思っている。過去記事にも書いたけれど、31歳の私には「既に老後のど真ん中を生きている」風な感覚があり、おかしな言い方になるけれど「今世はもう充分に生きたので、あとはおまけみたいなものだ」と思っている節がある。晩年のど真ん中に位置している私の最大の関心は「いかにカラフルな老後を送るか」ということで、小さな頃から反骨精神だけは人一倍携えていたものだから「リラックスこそ最高の媚薬」などと嘯いている秘密裡で「誰よりも生きる!【5人分は生きる!】」などと鼻息を荒くしてみたりもする(けれど、長続きをすることはない)。
生きるために一番大切なもの、それは金でも勇気でも名誉でもなければ特別な才能でもない、安心感だと思う。失敗しても良いという安心感、自分は護られているのだという安心感、ダメな時は元気が出るまでゆっくりしていればいいのだという安心感があれば、多分、人間は何度でもやり直せる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月17日
私は、何処かで「死ぬことをホームにしている」節がある。いや、実際、最終的には誰もが死ぬのだから何も間違っていないと言えば何も間違っていないのだけれど、こういう考え方をしていると「極端だね」と言われる。現在も、稀に「修行僧みたいですね」と言ってもらえることもあるけれど、本人的にはあまりピンと来ていない。確かに修行をしていると言えば修行をしていると言えなくもないのだけれど、私は「遊んでいるだけ」のように感じている。その遊びが、時に「修行のような様相を帯びる」こともあるかもしれないけれど、トータルで言えば「やりたいからやっているだけの遊び」であり、私は、この「遊ぶ」という感覚を腹の内側から愛している。
ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だと思う。楽しそうに生きているひとの姿は、生き生きと健やかに生きているひとの姿は、見るひとのこころを自由にする。善悪を平気で飛び越えた、大きなイエスを感じたいのだと思う。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月11日
道楽としての修行。修行なんて言葉を使うから近寄りがたくなるのだ。修行と言えども形を変えた道楽であり、これもひとつの「遊び」である。私は、ほおっておくとすぐに物事を深刻に考え始めて修行僧のようなマインドになってしまうことがあるのだけれど(それが悪いとは言わないけれど、精神的に自滅することが多い)、その奥底には「(苦しむことも悲しむことも喜ぶことも楽しむことも)自分がやりたいからやっているだけの遊びである」のだということを思い出せた時、ふっと、こころが軽くなる感覚を覚える。私は、やっぱり、精神的にも肉体的にも身軽である時の自分が好きだ。 肩の力を抜いて生きていきたいと思う。東南アジア周辺にお住まいの方々、何かありましたらいつでもお気軽にご連絡ください!!
生きるために必要だと信じてきたことを手放す瞬間はとても怖い、だけど、それがなくても生きて行けるのだという安心感は、ああ、自分は大丈夫なんだという自信を生む。自分の外側に張り付けてきたものではない、自分の内側に最初から備わっていたものを思い出せた時、世界【自分】に対する信頼を生む。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年1月6日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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つながりを作るのが人生。
熱海から東静岡の温泉を経由して名古屋に向かう。先日から「お年玉くださいツアー」を敢行している。呼ばれた場所なら何処にでも足を運ぶというこの企画を通じて、明日は関西方面、明後日はクアラルンプールに飛ぶ。お年玉そのものが欲しいというよりも、お年玉を通じて生まれる「関係性」に最大の関心はある。自分から先に与えようとしてくれるひとと出会うと、その嬉しさから「こちらからも何かを与えたい!」という気持ちになる。商業的な取り引きとは異なるからなのだろうか、そこに「関係性の継続」を見る。逆に言えば、等価交換(何かしらの対価を支払う行為)は「関係性の清算」になるのかもしれない。
【イベント詳細】お年玉くださいツアー 〜僕も、大きくなりました〜
最近、シングルマザーの女性と出会うことが多い。私は、すべてのシングルマザーの子供たちの父親的存在である「マルチプルファーザー」になりたいと思う。離婚する代わりに慰謝料やこどもの養育費を元旦那から貰う。慰謝料には「手切れ金」的な要素が含まれている。金を払う代わりにいままでの(恩情的な)つながりの清算をする、的な意味合いがある。私は、お金とは「コミュニケーションコストをゼロにしたもの」だと思っている。たとえば、今夜、名古屋に向かっている私には泊まる場所がない。名古屋駅前でひとりひとりに土下座をすればお金をもらうか無料で家に泊めてもらえるかもしれないが、そのために支払うコミュニケーションコストは多大だ。金があれば、コミュニケーションコストを限りなくゼロにした状態【ストレスの少ない状態】で、ホテルや最寄りの漫画喫茶で眠ることが出来る。
金を払えば、人間的なつながりはいらない。
金がなくても、ひととのつながりがあればどうにかなる。逆に言えば「金を払えば、人間的なつながりはいらない」ということでもある。一人暮らしの気楽さは、誰にも気を遣わないでいられることだと思う。常に好きなものを食べることができ、常に好きな時に眠ることができ、常に好きな服装で時間を過ごすことができる。しかし、だからこそ「たまには誰かとコミュニケーションを交わしたい」と強く願ったりもする。金を払ってコミュニケーションコストを限りなくゼロにしておきながら、同時に、金を払ってでも誰かとコミュニケーションをとりたいと願う、私は、ここにある種の現代的な矛盾を見る。
先日、江ノ島にある喫茶店の手伝いをした。私は時給を貰いながら働くことが苦手だ。「金を払っているんだからしっかりと働け」的な、雇用側からの圧力に耐えることができない。しかし、無給ならば働くことができる。多分、働けと言われると「働きたくない!」という反骨精神が働いてしまうのだけれど、働いても働かなくてもどっちでもいいよ的な状態になると、それならば働いてみようかなという気持ちになる。不思議なものだ。やれと言われるとやりたくなくなり、やるなと言われるとやりたくなる。そのため、江ノ島の喫茶店も(サボっている時に「金を貰っている訳でもないのだから」という言い訳も成立するからこそ)無給で働くことにした。
【参考記事】初開店日 - On the way always
結果的に、この日の私は非常に良く働いたと思う。単純に店主さんのことが好きなので、私は、金の為ではなく「店主さんの負担が少しでも軽くなればいい」という慈愛の精神に殉ずることができた。仕事終わり後の気分も清々しく、いい仕事をしたな的な気持ちになった。店主さんは何かしらの形で私に御礼を与えてくれようとするが、私は「もしも私が死にかけた時は、その時は助けてくれたら嬉しいです」的な捨て台詞を吐いてその場を離れる。昔からお金を稼ぐことが苦手だった(雇われた瞬間にノイローゼになってしまう)私は、変な言い回しになるけれど、無給で働き続ける代わりに『生き延びる為のセフティネット』を築こうとしているのかもしれない。逆に言えば、自分の行為が時給や日給などに換算されてしまうと、私の場合は「俺の1日はこれなのか」と生きる気力は消沈する。
「交換感」より「循環感」
繰り返しになってしまうけれど、昔からお金を稼ぐことが苦手だった私は「売る・買う」の関係性よりも「あげる・もらう」の関係性を愛している。この前、熱海の家に茨城県からクリスマスプレゼントに84袋のほしいもが届いた。これは問われていると思った私は、ほしいもを希望する方に無料で手渡しをしたり、遠方にお住まいの方々には無料で郵送をした。すると、それを見た方から「これを使ってください」と、非常に驚いたことに50本ものさつまいも【紅はるか】が熱海に舞い降りた。ほしいもを配りまくっていたら、さつまいもになって帰ってきたのである。私は「最高のギャグだな」と思った。売る・買うの関係性ではなかなか起こらない予測不可能な出来事が、あげる・もらうの関係性においては頻繁に起こる。
私の敬愛する三森さんは言葉を綴る。三森さんの言葉に触れた人が「良かったらこれを使ってください」と、様々な食糧や日用雑貨や服飾の類を贈る。それを見て三森さんは喜ぶ。喜ぶ三森さんを見て贈り主も喜ぶ。そのやり取りを見ている第三者も喜ぶ。連鎖する喜びに触れて、私は「いい循環だな」と思う。与える側は、受け取る人がいてはじめて「与える喜び」を覚えることができる。受け取る側も「与える喜びを与えている」という点において、多分、与える側の人間でもある。堅苦しい表現になるけれど、人間が感じる普遍的な喜びのひとつに「よろこびを分かち合う」というものがあると思う。自分ひとりだけを幸せにしているだけでは足りない、誰かと何か素晴らしいと思えることを共有できたと思えた時、思い込みかもしれないけれど「いま、同じ気持ちになれているかもしれない」と思える瞬間の中には、瞬間を大きく肯定する嬉しさがある。
【参考記事】嬉しいことが何度でも起こる!! - みっつ通信
誤解されると困るが、私はお金を否定したい訳ではない。私にとって、お金とは「あると便利なもの」であり、お金があれば電車にも乗れるし飛行機にも乗れる、好きなひとにお花を買ったり食事をご馳走することができる。ただ、昔は「金がないと生きていけない」気がしていたけれど、最近では「金がなくてもどうにかなるものの、あると便利!超便利!」という立ち位置にいる。金も血液も循環をすることが大切だと言うけれど、多分、その通りなのだと思う。そこで、どのタイミングでこの話をすればいいのか分からないままでいたのですが、この【循環】をテーマに「わたり食堂」を(毎月最終日曜日)に開催することにしました。現状、料理を提供する側が見事に不足をしておりますので、興味のある方はどなたでもお気軽にご連絡いただけましたら幸甚です。
【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】
『種田山頭火の死生』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、渡辺利夫著作『種田山頭火の死生』です。種田山頭火の生き様は眼を見張るものがあり、見る時期によっては多大なるダメージを受けてしまいかねないのですが、この時期、日本海側の曇天の空のもとで過ごされていらっしゃる方には最適な内容になるかもしれません。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※
己れの精神の内界に黒々ととぐろを巻く苦悩の蛇をみつめ、暗鬱の人生を送ってきたこの男を救済に向かわしめたものは、死であった。現世において掌中にすることのかなわなかった自由を、山頭火は死を睫前にすることによって手にしたのである。
ー もりもりもりあがる雲へ歩む
この辞世の句は、山頭火の苦悩からの救済と解放の賛歌だったのではないか。ー 渡辺利夫『種田山頭火の死生 ほろほろほろびゆく』【文春新書】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
つながりを作るのが人生。
明後日からクアラルンプールに行けることが非常に嬉しい。新潟生まれの私は、冬になると鬱になる。鬱になると自室【偏った自己解釈の世界】に閉じこもりがちになる。が、東南アジアの温暖な気候は心を開く。なんだか、実は、いろいろなことがどうでもいいことだったんだよね的なオープンマインドを取り戻す(ことが多い)。三森さんは言う。人と会う最大のメリットは、「こんな自分もいるんだ」と気付けることではないだろうか、と。本当に、その通りだなと思う。話すは「離す」だと言う。ひとと出会うこと、ひとと話をすることの中には「風通しを良くする」力がある。ひとりで考え過ぎると深刻になりがちなことでも、誰かに話すこと【自分から飛び出すこと】で笑えることもある。
人と会う最大のメリットは、「こんな自分もいるんだ」と気付けることではないかと思う。毒を持った自分を本来の自分だと思ってしまうと、そこに意識が働いて、本当に毒を持った自分であり続けてしまうような気がする。塞ぎ込んでいるとき、人との出会いは、はじめての自分を教えてくれることがある。
— みっつ (@mitzparty) 2017年1月5日
この数年間の日々の中で、個人的に一番変わったなと思うことは「なんでも自分ひとりでやろうとしないこと」だと思う。私は、もう、自分ひとりだけの力で何かを成し遂げたいという夢や理想や野望の類を、胸に抱くことができなくなった。いまでも、過去の癖【名残】みたいなものがひょっこり顔を出すこともあるけれど、「違うぞ」と囁く心の声に比較的早い段階でリーチできるようになってから、鬱っぽい感覚を覚えることは減ったように思う。大切なことは、多分、自分ひとりだけで抱え込まないことだ。なんのために他人がいるのか、それは、お互いに支え合うため【自分ひとりではできないことを成し遂げるため】ではないのだろうか。
一人ですべてをなんとかしようとする強さは、もういらない。それは多分、強さじゃない。臆病なだけ。
— 千秋 (@Otwa_) 2016年12月20日
助けて欲しい時に、助けて、って言える強さを。人を、自分を、信頼する強さを。もっともっと、わたしの中に育てたい。
私は、「自分の凄さ」みたいなものを証明したいとは思わない。ただ、「人類【生命】の凄さ」のようなものならば、わずかでも証明できたらいいなあと思う。ひとは優しいのだということを、人生は生きるに値するのだということを、生きているということは素晴らしいことなのだと、不安や恐れではなく喜びや希望を生きるベースにしてもいいのだということを、私は、私の体験から紡ぎ出していきたいと思う。
居場所とは場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。この人でいいかなではない、この人といたいと思える人といること。中途半端な思いではない、自分から前のめりになって愛していける人や物を大切にすること。誰かに何かを言われても、自分には「これが最高だ」と思える瞬間を大切にすること。 pic.twitter.com/lUcbD9MrdT
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年1月6日
人生は続く。
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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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ひとは、今を生きる限り幸せになれる。
Mr.Childrenの口笛を聴きながら歩く。空には三日月が輝いている。三日月の横には、口元のほくろのように小さな星が明滅をしている。家のない生活をしていた頃、生きる気力をなくした時は「好きな歌を歌う、好きな道を歩く、好きな人を想う」ことが効果的だということを実感した。いまでも、その習慣は私の中に生きている。自分のこころが「いいな」と思う瞬間の中には、自分をチューニングできている時のような嬉しさがある。幸せと呼ばれるものは自分の中心に常にあって、忙しない日々の中で気付けば自分の中心から遠く離れてしまうこともあるけれど、そこに戻ることができる限り、ひとはいつでも幸せになれるのだということを思う。私は、そこ【自分の中心】を「居場所」と呼びたいと思う。
熱海の家に年賀状が届く。手書きの文字には人柄が宿り、まだお会いしたことのない人でさえも、文字の先にあるその人自身の息遣いを感じることができる。最初は「とてもじゃないけれどすべてに返事を出すことは難しいだろう」と思っていたけれど、思いを改めて、すべての年賀状に返事を出すことに決めた。葉書を贈るだけでは物足りないような気がして、家にあるほしいもなどの食材やお菓子を添えて、ひとりひとりに返事を出す。郵送料金だけでもバカにならないというのに俺は今月の光熱費を無事に払うことができるのだろうかなどというつまらないことを考えてしまったけれど、返事を書き続ける内に、邪念は消え去った。邪念の代わりに「自分はいま、正しい金と時間の使い方をできている」というような静かな感覚が湧き出してきて、私は、新年のはじまりに最適な時間を与えてくれた諸々のつながりに感謝をしたくなった。
花鳥風月、そしてヒト。
大晦日の夜には、長い付き合いになる友達夫婦が熱海に泊まりに来てくれた。江ノ島からはちあきさんも駆けつけてくれることになり、普段は貧しい生活をしているからなのだろうか、大晦日だけは「あれも買おう!これも買おう!」と浮き足だってしまい、寿司やカレーや高価な漬物や大量のお菓子などを買い込んでしまい、普段は乗らないタクシーにまで乗ってしまった。大量の食材を買い物カゴの中に放り込みながら、私は、なぜか涙が流れそうになった瞬間があった。涙の理由はわからない。惨めさに泣けた訳でもなく、嬉しさに泣けたという訳でもない。ただ、昔、私の母方の祖母が非常に貧しい生活の中から「はい、これ」と私にお年玉をくれた場面が思い出された。毎年、お年玉袋の中には一万円がはいっていた。祖母は今年で90歳になる。山形県の小国町で暮らす小さな祖母の腰は、連日の農作業で完全に曲がっている。
12月31日の23時半を過ぎた頃、家の外から除夜の鐘の音が聞こえる。私達は「どこから聞こえるんだろう」と家の外に出る。鐘はすぐ近くで鳴っているような気がする。音の鳴る方向まで歩いてみようかということになり、私たちは着の身着のまま夜の道を歩く。何もない。誰もいない。空には星が輝いている。気がつけば、家の近くにある伊豆山神社まで足を運んでいた。時計を見ると、時刻はまさに12時を迎えていた。「まさかこんな形で初詣をすることになるとはね」と笑い合いながら、参拝に向かう。財布も何も持っていなかったので、神様に空手で挨拶を済ませる。境内では町内会の方々が、参拝客に無料でぜんざいを配布していた。東京の三軒茶屋から来てくれた友達夫婦の奥様は「いい地域だね」と話した。私は、それを聞いて嬉しさを覚えた。
家に戻り、布団を敷いて、目覚まし時計をセットして眠る。翌日、早朝に目覚めて家の外に飛び出し、海から昇る朝日を拝む。ちょっとだけ近所を散歩することになり、坂道の登り下りを繰り返しながら、道端の花を摘み取ったり、洞窟の中から湧き出す走り湯の源泉に立ち寄る。雲ひとつない空から、生きとし生けるものの生命を祝福するかのように、太陽が燦々と照りつけている。オノヨーコさんの「空があるから、どんな時も私は大丈夫だと信じられる」という言葉を思い出す。私の全身が、言葉にならないうれしさやよろこびに包まれる。何もかも失うことがあったとしても、まだ空はある、まだ太陽はある、花鳥風月があり、新年の朝を共に歩ける友達がいる、俺達はきっと大丈夫だという気持ちになる。
好きなように生きていいのだ。
1月3日(火)の14時位から数時間だけ、江ノ島近くの喫茶店ラムピリカの営業を軽く手伝うことになった。私は、この喫茶店の店主・ちあきさんを勝手に生かしたいと思う。ちあきさんの淹れる珈琲は自分史上最高に美味しく、ちあきさんの作るパンケーキは自分史上最高に美味しい逸品になる。私は「こんなにも美味しい珈琲を淹れる【こんなにも美味しいパンケーキを作る】ちあきさんを死なせてはいけない」と勝手に思う。そして「生かしたいひとを生かす会」を自主的に勝手に開催していきたいと思う。現在のラムピリカは、固定的な営業日や固定的な料金や固定的なメニューはなく「店主のちあきさんが開きたいと思った時に開き、作りたいと思ったものを作る」ようになっている。飲食代金もドネーション制になっている、料金も「食べたひとが払いたいと思った金額だけ、ドネーションボックスに入れて帰る」というものになる。
私がちあきさんを好きな理由は108個位あるのだけれど、そのうちのひとつに「私は、誰が何を食べたかとかお会計はいくらとかおつりを用意しておくとかそういうことを覚えておくことが苦手で、だから、ドネーション制にするとそういうものから解放されるので助かっています」という緩さがある。ちあきさんを見ていると、端的に「俺たちはもっと、好きなように生きてもいいのだ」という許しを見る。もちろん、好きなように生きた結果、生き続けることが困難になることは頻繁にあると思う。そのような時に「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と差し伸べられる幾つもの手があれば、世界はより一層の豊かさを帯びるような気がしている。ちあきさんのあり方には、このひとを生かしたいと思わせてくれる美しさがある。
生かしたいひとを生かすために生きたいと思う。一月の予定は何も決まっていないために、江ノ島のラムピリカをお手伝いするような形で「二、三時間でも構わないから、お店の仕事や家事のあれこれを手伝ってほしい」と思ってくださる方がいれば、いつでもお気軽にご連絡ください。報酬などはもちろん不要で、交通費なども自力が続く限り自腹で向かいたいと思います(ただし、戦力としては著しく低いために「それでも構わない」という方のみお声かけいただければ幸いです)。また、熱海の家も基本的に開放をしているために、もしも「熱海の家を使いたい」と思ってくださる方は、いつでも気軽にご連絡ください。
連絡先・keigosakatsume@gmail.com
『求めない』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、加島祥造著作『求めない』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性から「私の大好きな一冊です」とわざわざ熱海に贈っていただいた一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※
「求めないー すると…」という言葉が繰り返される本『求めない』。けれど、著者・加島祥造氏は、何度となく「人間は求める存在だ」とも言います。求めることを否定せず、なぜ私たちは、もう足りているのに求めてしまうのだろうかと優しく問いかけるのです。そして、求めることをほんのちょっとやめてみたら、生きることが楽になり、日々が楽しくなり、思いがけない可能性が開けるかもしれないよ、と笑顔で誘います。誰もがもっているはずの柔らかい心、人生の本当の豊かさに気づかせてくれます。信州伊那谷の老子が伝え続ける魂の言葉が心に響く大ベストセラー詩集。ー 加島祥造『求めない』【小学館文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
美しい時の重なりの中を。
ブログをひとつ更新した時、わたり文庫の郵送を終えた時、心のある言葉のやり取りを交わせた時や、年賀状の返信を書き上げた時やひとまえで話をする機会に恵まれた後に、私は「いい仕事をしたな」という充実感を覚える。この充実感は、もちろん長続きをする類のものではないけれど、しかし、いい仕事をしたなと思えたあとに流れる時間の中には清々しい風が吹く。自分にどれだけのことができるかはわからない、ただ、私は「いい仕事をしたな」と思って毎晩眠りにつきたいと思っている。大袈裟な言葉で言えば、自分が生きていることで少しでも誰かを前向きな気持ちにさせることができたならば、これほど嬉しいことはないように思う。
数年前にブログをはじめて、同時期に家のない生活もはじまり、いま、こうして家が与えられた中でも文章を書くことだけは続けている。非常に幸運なことに、そして、非常にありがたいことにブログを目にしてくださる方々も増えていて、私自身、世間的で言うところの「(吹けば飛ぶようなものではあるけれど)ちょっとだけ有名な存在」になった。有名になるということはどういうことなのか、自分自身の体を通じて、実感をさせてもらっている日々を過ごしている。大勢の人の目に触れることで見知らぬひとからの誹謗中傷や罵詈雑言を浴びる機会も増えたけれど、そのような憂鬱な出来事を吹き飛ばすほどに、素晴らしい出会いにも恵まれるようになった。
ひとに知られていくということの中には、ある種の「責任」があるように思う。それは「自分が何気なく使うひとつひとつの言葉が、自分でも知らないところで波及して影響を与えていく」のだという自覚に伴う責任だと思う。言葉は時に薬にもなり、言葉は時に毒にもなる。私は、私に与えられた「言葉」という道具を、できることならば自分を含めた人間全体にとって『薬』となるように使って生きたい。その『薬』は、時にひとや世界を信じることが難しく思えるような時にでも、もう少しだけひとを信じてみたいと思えるような、もう少しだけ世界を信じてみたいと思えるような、そういう効果を及ぼすものになればいい。それは、何よりも自分自身のために、「世界を敵と見るためのものではなく、世界を味方と見るための薬」として効果を発揮するものになればいいと思う。
あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。あと何年も、あと何十年も生きることになるかもしれないけれど、どのような時も、私達が生きることのできる瞬間は『今』だけなんだ。自分のこころが「いいな」と感じる瞬間の先に、美しい時の重なりの果てに、素晴らしい人生は結実するのだと思う。 pic.twitter.com/vCV6oN2YC6
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年1月2日
人生は続く。
413-0002
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きろより「生きたい」
熱海の空は晴れ渡っている。大晦日だ。私の故郷は新潟県で、新潟の冬はひたすらに曇天が続き、太陽が顔を出す日は一ヶ月に一日分程度しかない。新潟では、雨や雪が止んだ状態を「晴れた」と言う。どれだけ頭上に曇天が厚く低く広がっていようが、雨や雪さえ降っていなければ「晴れた」と言う。新潟の冬は厳しい。だからこそ、実家の母親は「冬が厳しいから春を喜ぶことができる」と言う。美しい言葉だと思う。美しい言葉だとは思うけれど、この時期に、こんなにも晴れ渡る熱海の空を見せてやりたい気持ちにもなる。
最近思うことあれこれをまとめます。
1・『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』
大切なのは『GIVE&TAKE』ではなく『GIVE&GIVE&FORGET』だと聞いた。与えて、与えて、忘れてしまう。そうしたら、いつか忘れたころに何かの形で返ってくる。これが宇宙の法則だと言う。ひとつの大きな輪の中で循環を続けている、その流れを堰き止めてはいけないのだなと思う。 pic.twitter.com/kmSRCyO5cq
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月21日
熱海の家に暮らし始めて一年の月日が流れた。家も、家具も、調理器具も、服も、食材も、日用雑貨も、そのほとんどが貰い物で成立をしている。私には、自分がしてあげたことはいつまでも覚えているくせに、自分がしてもらったことはすぐに忘れてしまう傾向がある。この一年間の中で、何度、このことを思い出しては反省をしただろうか。自分がいま生きているということは、同時に、数え切れないほどの恩恵によって「生かされている」ことでもあるのだということを、私は、簡単に忘れてしまう。『GIVE&GIVE&FORGET』の精神は、必ずしも『与える側』に限った話をしている訳ではない、自分はすでに『与えられてきた側』であることを思い出させてくれる、非常に重要なあり方を教えてくれた。
【過去記事】『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』 - いばや通信
2・罪悪感や強迫観念を動機にしない。
何かをしなきゃいけないとか、何もしていない自分には価値がないという考え方からは、距離を置きたいと思う。罪悪感や強迫観念を動機にすると、自分の言葉、自分の作品、自分の佇まいに否定的な力が宿る。大事なことは、多分、肩の力を抜くことだ。落ち着いた後は「自然と何かをやりたくなる」ものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月8日
今年も様々なひとに出会った。私の生き方を見て「面白いですね」とか「変わっているね」とか「ぶっ飛んでいるね」などと言ってくれるひとがいるけれど、いまでは、私は『(別に変わったことをやりたい訳ではなくて)自分にとって自然なことをやりたい』のだと思うようになった。自分にとって自然なこと、それは他人との比較ではない自分の内側から湧いてきた思いに無目的に従っている時、ひとの目線からは「変だ」とか「間違っている」と言われることもあるけれど、私は、それを続けていきたいと思う。
3・チャーミングであること。
どれだけ知識が豊富でも、どれだけ大量のお金を集めても、どれだけ凄い武勇伝を持っていたとしても、多分、可愛げのある人間には敵わない。頑張るとか頑張らないとか、勝ち組だとか負け組だとかそんなことよりも「チャーミングであること」の方が、より一層のハッピーな日々を運んでくれるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月3日
深刻に考えすぎると、可愛げを失ってしまう。笑え。
4・こころを込める。
大切なことは「気持ちを込める」ことなのだと思う。日常的な家事とか会話とか何気ないメールのやりとりとか、いま、目の前にあることにこの日限りの気持ちを込めるということが、多分、いまを生きるということなのだと思う。今日の命は今日でおしまい、出し惜しみをしている場合ではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月12日
いまを生きるということは「いまが楽しければそれでいい」という投げやりで刹那的なものではなく、いまという瞬間に最大限の思いを込めるということなのだと私は思う。自分が込めた思いが種となり、時に、自分でも想像することのできなかった素晴らしい未来を運んでくれることがある。言いたいことを言う、やりたいことをやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。自分を出し惜しみしないこと、できる限りのこころを込めて、空間と瞬間に責任を持つこと。
5・自分との関係も人間関係。
自分はダメな人間だと思うことは、誰かの悪口を言うことと同じくらい、否定的な力を生み出してしまう。多分、自分との関係も人間関係であり、自分を悪く言うことは「自分が自分自身と戦ってしまっている」ことなのだと思う。まずは、自分との戦争を終わらせること、平和な関係を結ぶことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月13日
自分との戦争を終わらせることなのだと思う。
6・あなたは素晴らしい存在だ。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。 pic.twitter.com/o9cTxM0V1Q
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月19日
「愛」は使うほどに増えると聞いた。
【過去記事】あなたは素晴らしい存在だ。 - いばや通信
7・潔い我儘は最高の美徳。
好きなように生きても周囲に迷惑をかけることは意外と少なく、逆に、自分の感覚を押し殺してまで自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。帰りたい時は帰る、嫌なものは嫌だと言う、自分の欲求は勇気を出してはっきりと口にするなど、潔い我儘は最高の美徳だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月27日
好きなように生きているひとからは寛容的で前向きな力が、嫌いなことをして生きているひとからは懲罰的で後ろ向きな力を見る。私は、非常に甘っちょろい考え方になるのかもしれないが、すべてのひとが好きなことをやって生きていて欲しいと思う。「すべてのひと」だなんて大きな主語を使うのは、良くないことなのかもしれない。私は、いつか自分にもこどもができる時が来たならば、そのこどもには「好きなように生きなさい」と伝えたい。そして、私は、言葉というものを『自分のこどもに伝える時のように』使っていきたいと思っている。
8・いかに諦めてもらうか。
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じて好かれ続けるよりも「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれるひとと相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。自分のダメな部分を見せる瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月18日
まずは、自分が自分を許すことだ。
9・自分から先にこころを開く。
自分を必要以上に大きく見せようとしたり、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。自分から先に心を開き、静かに、ゆっくりと、落ち着いて話をすれば、多くのひとはしっかりと話を聞いてくれるものだと思う。言葉のひとつひとつに気持ちを込めれば、多分、何かを伝えることは難しくない。 pic.twitter.com/FJ0QYIANja
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月29日
自分は自分でしかないのだということを、いよいよ強く実感する一年になった。ひとと比べれば劣っている部分ばかりが目につくことが多いけれど、これが俺であり、俺はこれでしかない。自分にはこの身体しかなく、自分にはこの頭と、この声と、この足と、この精神しかないのだから、これで生きる。それを過剰に大きく見せようとする必要も、過剰に小さく見せようとする必要もない、ただ、俺は俺なのだと腹を据えて生きていればいい。それだけのことなのだと思う。自分は、不完全な人間かもしれないけれど、完全な自分だ。
『人間の土地』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグジュペリ著作『人間の土地』です。こちらの本は、昨日、神奈川県からお越しいただいた女性が「これは私の大好きな本です」とお持ちくださった一冊になります(その場にいた別の女性も「これは本当に素晴らしい本ですよね…私も、何回も泣きました」と話しておりました)。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※
゛我慢しろ…ぼくらが駆けつけてやる!…ぼくらのほうから駆けつけてやる!ぼくらこそは救援隊だ!〟サハラ砂漠の真っ只中に不時着遭難し、渇きと疲労に打克って三日後奇蹟的な生還を遂げたサン・テグジュペリの勇気の源泉とは…。職業飛行家としての劇的な体験をふまえながら、人間本然の姿を星々や地球のあいだに探し、現代人に生活と行動の指針を与える世紀の名著。ー サン・テグジュペリ『人間の土地』【新潮文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
10・好きなひとに好きだと言う。
生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。平易な言葉になるけれど、でも、これしかないんじゃないだろうかとさえ思う。ひとを好きになるということは、本当に素晴らしいことだ。
天地との繋がりが縦、ひととの繋がりが横、十字架は必ずしも人間の原罪を意味するだけではなく、縦と横に交差する『人間の繋がり』を表現していると感じた。ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。その結び付きが縦ならば、「よろこびを分かち合う」ことが横の結びつきを深める。自然の美しい風景の中から安らぎを得て、気づきを得て、落ち着きを得て、何かしらの教訓を得ることも素晴らしいことかもしれない。しかし、その素晴らしさは『分かち合うひと』がいてはじめて、何倍にも膨れ上がるよろこびを隠し持っているものなのではないだろうか。
論語に「朋あり遠方より来る」という言葉がある。今夜、私は、古くからの友人と一緒に年を越す。友人が熱海に来ると決まった瞬間、まさか、こんなにも自分のこころが喜ぶとは思わずに驚いた。ああ、俺はひとが好きなのだ(俺には好きなひとがいるのだ)と思った。好きなひとがいるということ、好きなひとに出会えるということ、好きなひとに好きだと言えることの中には、大袈裟な言葉で言えば「世界を明るく照らす力」を見る。好きなひとには好きだと言う。それだけで、充分、この世に生まれてきた甲斐があったのだと思う。
生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。平易な言葉になるけれど、でも、これしかないんじゃないだろうかとさえ思う。何かを好きになるということは、本当に素晴らしいことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月30日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。
玄米を炊いて、味噌汁をつくる。基本的な食事は毎日これになる。数日前、横浜在住の方からラゴスティーナの圧力鍋を頂戴した。玄米を圧力鍋で炊けたらどれだけ素晴らしいだろうかと前から思っていたので、温かな心遣いがほんとうに嬉しかった。圧力鍋で炊き上げた玄米を炊飯器に移して、酵素玄米を作る。私は、多分、健康志向なタイプの人間ではないと思う。ただ、家のない生活をはじめた頃から、自身の所有物を最低限度に抑えるようにしていた。服は基本的に三日分に絞ったために、今日、何を着るのか悩むことはない。同じような理由で、料理も「玄米と味噌汁に絞る」ことで、選択肢が多すぎることのストレスから自由になれた。家にある食材は、芋も大根も木耳も胡麻も納豆もかつお節もブロッコリーも生姜もにんにくもすべて、味噌汁の中にぶち込む。食材が何もない時は、具のない味噌汁を啜る。
味噌汁をつくっている時間は、軽い瞑想状態にはいる。私は、この時間が好きだ。過去に統合失調症と躁鬱病と椎間板ヘルニアを同時に患った際に、落ち込んだ精神を向上させるためには「ものをつくること、身体を動かすこと、自然に触れること」が効果的だと実感をした。いま、私は、この記事を熱海のデニーズから更新している。自宅からデニーズまでの移動時間は、徒歩で片道50分程度になる。家を出るまでは非常に面倒臭い気持ちにもなるが、歩き始めると途端に気持ちは清々しいものになり、軽い瞑想状態にはいることができる。昼には太陽が輝き、夜には月や星が輝く。この時期は道端に水仙の花が咲き乱れているために、空や、海や、星や、花に、歩き出すたびに心が慰められることもある。
【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信
空に、月があってよかった。
療養生活を送っていた頃、夜、ひとりで夜道を徘徊することが頻繁にあった。夜道を歩くことが好きだった訳ではなく、ただ、家にいることが辛すぎて「ここではないどこかに逃げ出したい」という気持ちが強まったからなのだと思う。何処かに行きたいという前向きな思いからではなく「ここにいたくない」という後ろ向きな思いから、私は家を飛び出し、目的もなく夜道を歩いた。家々の電気は消え、ただ、静寂だけが広がっている。私は、ふらふらとあてもなく歩き続ける。心の中では「さみしいなあ」と何度も何度もつぶやいている。買いたいものなど何もない癖に、ひとの気配に触れたくてコンビニにはいる。適当な品物を選び、レジに向かう。店員さんが「ありがとうございます」というのに対して、私も、自分なりに精一杯の気持ちを込めて「ありがとうございます」と返す。
夜道を歩きながら、月を見上げる。ああ、という心許ない声と一緒に涙が流れた。そんなこともあった。涙の理由は忘れてしまった。多分、どうすることもできない自分自身に対する不甲斐なさや情けなさが溢れて、涙になってこぼれたのだと思う。あれから数年間の月日が流れ、いま、私は同じように夜空の月を見上げている。あの頃に抱えていた不甲斐なさや情けなさは、少しは軽くなっているのかもしれない。ただ、自分の中に「寂しさ」があることは隠しきれない。家にいて、自分ひとりではどうすることもできない寂しさに包まれた時、私は夜道を歩く。夜空を見上げながら、私は「空に、月があってよかった」と思う。うつむきがちになっていた自分のこころに、月は、顔をあげる機会を与えてくれる。
寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。寂しさは、身体を動かすといいのだということを教えてくれる。寂しさは、ものをつくるといいのだということを教えてくれる。寂しさは、自然に触れるといいのだということを教えてくれる。寂しさは、紙とペンを用意して自分の気持ちを吐き出すといいのだということを教えてくれる。いま、私がこうして懲りずに文章を書き続けているのは、誰かのためとか、何かのためとか、もっともらしい理由がある訳ではなく、ただ、寂しいからなのかもしれない。寂しさとは、多分、幸せの対極にあるようなものではない。幸せと呼ばれるものがあるならば、その中に「寂しさ」は含まれていて、寂しさの中にも幸せはある【幸せの中には寂しさもある】のだということを思う。
逢初庵【あいぞめあん】
数日間、熱海の自宅【逢初庵】を開放する。クリスマスの時期と重なり、熱海の家には様々な贈り物が届く。新潟県村上市からは鮭の切り身と大量のいくら、大阪からは大量の小豆と無添加の味噌6袋と新潟産の餅、横浜からはラゴスティーナの圧力鍋や新潟産の玄米を過去に30キロ、茨城からは大量のほしいもが届いた。自分ひとりではとてもじゃないけれど食べきることはできないために、イベント開催などの機会を通じて、熱海に来てくれたひとと一緒に食べたり必要であればそのまま持ち帰ってもらったりしている。
【イベント詳細】わたり文庫@熱海
熱海に来てくれたひとは、みんな、口を揃えて「もっと大勢のひとが来ているのかと思いました」と驚く。 定期的にイベントを開催してはいるものの、それほど多くのひとが遊びに来ることは滅多にない。私自身も静かな環境を好むタイプの人間で、大勢のひとと一緒にいるよりは「少人数でじっくりと話す(あるいは、何もしない空間を共にする)」ことの方が好きだ。営利活動をしている訳でもないために、無理をしてまで集客や宣伝活動をする必要もない。ただ、何かしらタイミングのあったひとが、いつでも気軽に来ることができる機会や空間として、熱海の家をこれからも開いていけたらいいと思っている。
この前は、千葉県柏市から三森正道さんが遊びに来てくれた。三森さんと同じ空間を共にしていると、どうしてなのだろうか、自分のこころが浄化されていくような感覚を覚える。この時に感じている感覚は「自由」に似ている。自由とは、多分、どれだけ自我【エゴ】と呼ばれるものから自由になれているのかということなのだと、私は思う。「俺が、俺が」と肩に力がはいっている間はまだまだ(こうして懲りずにブログ記事を更新している自分の姿も、弱さの現れなのだと思う)で、自分が自然の中に溶け出している状態、大袈裟な言葉で言えば自分を殺している状態【自我を超えて大きな何かに身を委ねている状態】が「自由」になるのではないだろうかと思う。
【参考記事】驚愕の三万円!! - みっつ通信
『ロックンロールバイブル』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アーサー・ホーランド著作『ロックンロールバイブル』【著者サイン付き】です。こちらの本は、実際にアーサー・ホーランドさんの支援者となって活動をされていらっしゃる方から「わたり文庫に是非」と温かな眼差しと共に託された、記念碑的な一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、岡山県にわたりました ※※※
追い掛けることはない、自分に自信を持つことだ。
人はどうでもいい、あなたがどうあるかだ。
比較して己を蔑むことはない。人が何をしているのかはどうでもいい。
自分が何をすべきなのかを落ち着いて考えてみることである。
人を気にすることよりも、もっと自分を大切にすることだ。
人があなたの人生を生きてくれるわけではない。
あなただけがあなたの人生を生きるのである。
人に裏切られることはある。されど憎しみを耕さないことだ。
「この野郎…」と頭に来ることだってある。しかし恨みを育てないことだ。
「やられたら、やり返してやる」と向きにならないことである。
何もよいことは生まれて来ない。
「復讐してやる…」と無駄なエネルギーを使わないことだ。
誰にも会いたくない気持ちはわかるが、
孤立して己の殻に閉じこもってしまうのは健康的ではない。
ちょっと静まってみれば、話せる人がいることに気付けるものだ。
片寄った自己解釈だけの世界に閉じこもることのないように…。
自分だけが問題を抱えているのではなく、
誰であれ大小を問わず、何らかの課題を背負いながら生きている。
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。
自分の中にある寂しさを振り払おうとするのではなく、ただ、自分の中には寂しさがあるのだと認めること、自分の中にあるものを否定するのではなく肯定をする姿勢が、揺れ動くこころを落ち着かせるのかもしれない。寂しさを失くすことはできないけれど、寂しさと友達になることはできるような気がする。「俺が、俺が」となるほどに孤立した寂しさの溝に嵌ってしまうが、もしかすると、自分と同じ寂しさを同じように抱えているひとが、世界の何処かにいるのかもしれないと思いを巡らせることは、微かでも、目には見えない繋がりを生む。寂しさは、同じような寂しさを抱えるひとと出会う時、温もりに変わり得る。
雲ひとつない、黄金色の朝日だ。 pic.twitter.com/ixiT3vCwGb
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月27日
大切なことは、周囲の人間に理解を求めることよりも、天に恥じない生き方をすることなのではないだろうか。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が見る誠実さのど真ん中を生きることではないだろうか。難しい場合もあるけれど、他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になることではないだろうか。自分の外側に変化を求める【口先を変える】ことよりも、自分自身が変化になる【行動を変える】ことではないだろうか。寂しさは、自分自身と対話をする機会を与えてくれる。そして、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。寂しさは「静けさ」を運ぶ。そして、静けさの中で「自分はひとりではない」のだということを学ぶ。寂しさは、足りないものばかりに目を向けていた自分に、もう一度、足りているものに目を向ける時間を与えてくれる。
朝の森を散歩することや植物の世話をすること、音楽を奏でることや静かな環境で文章を綴ること、珈琲を飲みながら読書をすることや沈む夕日を眺めること、ひとと話をすることや虫の声を聞きながら夜の空を眺めること、静かな充足感を与えてくれる者達は、どれもお金のかからないものだった。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月23日
寂しさや悲しみと呼ばれる感情は、幸福の対極にあるものではなく「幸福の中にあるもの」ではないだろうか。寂しさや悲しみを通じて、自分がどれだけの恩恵の中で生きているのかということ【生きてきたのかということ】を思い出す。そして、何か大きなものに感謝をしたくなるような、何か大きなものに祈りたくなるような気持ちになる。夜道を歩く【夜道を歩くことができる】ということ。ものをつくる【ものをつくることができる】ということ。自然に触れる【自然に触れることができる】ということ。感謝と幸福は、多分、切り離すことはできない。私は、感動やよろこびを通じてだけではない、寂しさや悲しみの中からも『何か』を掬い出そうとしているのかもしれない。自分が消えてしまいそうな寂しさも、胸を切り裂くほどの悲しみも、すべては幸福の中にあるものだということを、掬い出そうとしているのかもしれない。
自分の中にある寂しさを振り払おうとするのではなく、ただ、自分の中には寂しさがあるのだと認めること、自分の中にあるものを否定するのではなく肯定をする姿勢が、揺れ動くこころを落ち着かせるのかもしれない。寂しさを失くすことはできないけれど、寂しさと友達になることはできるような気がする。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月27日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
精神性を磨く。
茨城県在住の男性から熱海の家にクリスマスプレゼントが届く。大きな段ボール箱を開けると、中には茨城県産のほしいもが84袋はいっている。わたしは「なんじゃこりゃ!」と驚き、そして、嬉しさを覚える。これは問われているなと思い、私とほしなさんで『【HIM84】わたりサンタ 〜今夜、あなたがほしいもの〜』というイベントを即興的に立ち上げる。内容はシンプルで、ほしなさんの車に大量のほしいも【HIM】を積み、それを欲しいと言ってくれるひとに実際に手渡しで配り続ける配達系サンタクロース型のものになる。
熱海の家を車で出発し、横浜駅で「会いましょう!」と約束をしていた女性と落ち合う。私は、ほしいもと花と簡単なプレゼントを片手に横浜駅の中央南改札口に向かう。女性に渡す。女性は「はい、これ」と言って何かを差し出す。その中には、花やわさびや鮫皮のすりおろし道具や佐賀県産の海苔や高級布巾や図書カードやQUOカードがはいっていた。私は、プレゼントを渡しにいったはずだった。それなのに、与える以上に与えられてしまった現実を前にひれ伏した。ここ最近、はな的なサムシングを配り続ける日々を送っていた。しかし、実際にはなを貰う側にまわるのは久しぶりのことだった。女性の思いやりに、ただ、言葉にならない思いがこみ上げてきた。
つまらないことを考えるのはやめよう、と。
ほしいもを配っている途中、ひとりの女性から連絡が届いた。私は、最近、ひとと会う前に時間があるときは近隣の花屋に立ち寄り、簡単な一輪挿しを購買してからひとと会う癖がある。先日、こちらの女性とお会いさせていただく前に、私は一輪のカーネーションを購買した。
坂爪さん
こんばんは!
今日は干し芋を配っているのですね!
私は今日、江ノ島にいたので、タイミングが合えば藤沢か横浜あたりで干し芋を頂きたかった~!
なんて思いつつ、昨日お花を頂いたばかりなので欲張る心を封印しました(笑)
ここ数日いろいろと考えることがあり、私は何かをするときにすぐ経済効率やコスパということを考えてしまうのですが、
坂爪さんからお花を頂いた瞬間、全ての迷いが吹き飛びました。
つまらないこと考えるのはやめよう、と。
そもそも経済効率を追求したら「生きてること自体が無駄」というところへ行きついてしまうわけだし(笑)
坂爪サンタさんが手渡してくれた可愛いお花が、ダイナマイトのように私の中のつまらなさを一瞬で吹き飛ばしてくれました。
サンタさんというより花テロリストです(笑)
この花の命は数日ですが、これから薄いピンクのカーネーションを見つけるたびに、この日のことを思い出し幸福な気分になれます。
ほんとうにありがとうございました。
今夜は雨が降るようですが、道中お気をつけて、色々なひとに幸福を届けてくださいね。
私は、ああ、素晴らしいなあと思った。決して経済効率やコスパ的な概念を否定したい訳ではないけれど、ああ、はなを配っていてよかったと思った。自分が何気なくやっていることが、ただ、そうしたいと思ったからやっていることが、受け取ってくれるひとにとって何かしらの効果を与えることがあるということは、何か、不思議なものを感じる。自分の思惑とはまったく違う所で、ひととひとは、常に影響を与えあっているのかもしれない。私は、前回の記事で「GIVE&GIVE&FORGET」という内容を書いた。忘れていた頃に、咲く、目には見えないはなを見たような気がした。
【過去記事】『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』 - いばや通信
受け取ることがプレゼントになる。
花やほしいもを配り続ける日々を通じて「受け取ることがプレゼントになる」ということを痛切に感じた。たとえ、自分が何かを与えたいと思っても、当たり前のことだけれど受け取ってくれるひとがいなければ成立をすることはない。プレゼントを貰うひとは「ありがとうございます!」と言ってくれるけれど、与える側としては「こちらこそありがとうございます!」という気持ちになる。これは、精神的なバトンリレーに似ているのかもしれない。自分が素晴らしいと思うものは、自分ひとりが抱えているだけでは決して広がることはない。誰かを通じて、自分が素晴らしいと思うことを同じように素晴らしいと感じてくれる誰かを通じて、思いは伝播していく。
茨城県から届いたほしいもの残りは、まだ、熱海の家にある。ここで、誠に突然ではありますが、このほしいもをブログ読者の方々に無料で郵送をいたします【先着10名様】。おひとりさま一袋程度になるのですが、また、応募締め切りはクリスマスである本日限りになる(数に限りがあるためにすべての方々に郵送できるかどうかはわからない!)のですが、もしも「自分もほしいもが食いたい!」と思ってくださった方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
また、ここ数日の間に、ここでは紹介しきれないほどの様々な贈り物が熱海の家に届きました。たくさんの贈り物を貰う、という話をすると「みんなお金持ちなんだねえ」みたいなことを言われることが稀にあるのですが、これだけは言いたい。贈り物をしてくださる方は、決して収入が多い方々ばかりではなく、たとえ収入は少ない中でも自分なりの最大限の思いを乗せて、形のあるものを通じて気持ちを届けてくださる方々はたくさんいます。そのような贈り物を、私は、とてもじゃないけれど無碍に扱うことはできない。贈り物をいただく度に「しっかりと生きよう」と、調子に乗りかけていた自分を調律することができます。そして、これらの品々を自分ひとりだけで占有するのは何かが間違っていると思い、12月25日から31日まで熱海の家を開放することにしました。主催者不在の時間帯も多分にあるとは思われますが、読みためていた本がある方や、都心の喧騒を離れて静かな時間を過ごされたい方など、どなたでもお気軽にお越しください。
【イベント詳細】わたり文庫@熱海
わたり文庫『母』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、三浦綾子著作『母』【角川文庫】です。クリスマスということでクリスチャンの方々の本を紹介することの多かったこの時期ではありますが、三浦綾子さんの本は私が中学校時代から愛読をしておりまして、なかでもこの本は塩狩峠に並んで『坂爪史上ベスト10には入る日本の小説』になります。まだお読みでない方は、是非、この機会に(年末年始のお供に)手にとってみてください。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※
少なくとも、人間たる者は、
医者になるとか、
政治家になるとかいう目標よりも、どんな生き方の医者になりたいとか、
どんな生きかたの政治家になりたいかを、
問題にすべきではないだろうか。
いてもいなくてもいい人間をこの世に作り出すほど、神様は暇人じゃないし、馬鹿じゃない、愚かじゃない。
日頃自分が恥ずかしいと思っていることが、本当に恥ずかしいことなのか、恥ずかしいと思うこと自体が恥ずかしいことなのか、よく見極めて生きたい。
包帯を巻いてあげられないのなら、むやみに傷口に触れてはならない。
ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることだ。
受けて立つより仕方のないのが、人生のような気がする。
長い間その人を慰め、励まし、
絶望から立ち上がらせる言葉を、
胸にたくさん蓄えておかねばならない。一生涯使っても、
使い切れぬほどたくさんに。
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
精神性を磨く。
昨日、湘南江ノ島の海岸で「大相撲Xmas場所」というイベントが開催された。五右衛門風呂【命の湯】を設置するためだけに三重県から下道18時間かけて軽トラで来てくれた20代の男性や、相撲部に所属していた男性が我々に稽古をつけてくださったり、小学生や中学生の女の子たちも遊びにきてくれた。なかでも、中学生の女の子が参加後に書いてくれたブログ記事が非常に素晴らしいもので、私は「怖いけどやる」者の勇気を前に感服をした。勇敢さは伝播する。ひとりの人間が勇気を振り絞って何かを行う時、そのひとのエネルギーに触れた周囲の人間にまで、前向きな力を与えることがある。
【参考記事】怖いけどやる - ★Erikaのブログ★
イベントなどに足を運ぶと、震えながら声をかけてくださる方々と出会う。私は思う。多分、いま、このひとはとんでもない勇気を振り絞って声をかけてきてくれているのだろう、と。家を出るまでの間に、この場所に実際に足を運ぶまでの間に、様々な葛藤や逡巡があったと思う。やる理由よりも、やらない理由を見つけることのほうが圧倒的にたやすかったはずだ。そうであるにも関わらず、いま、こうして実際に自分の目の前で自分の思いを真っ直ぐにぶつけようとしてくれるその態度が、その勇敢な思いが、胸を打つ。全力でぶつかってこようとしてくれるひとには、私も、全力で返したいと思う。リアルに会うに越したことはないけれど、多分、熱海の家に何かを届けてくださる方々や、私に連絡を送ってくださる方々も、普段はなかなか出すことのない類の勇気を振り絞って、連絡をしてくれているのだと思う。
そういうことに思いを馳せる時、私は「しっかりと生きよう」と思う。この人生の中で出会える人間の数には限りがある。その中で、目の前にいる人間とこころを交わせるということは、奇跡とも呼べる巡り合わせだと思う。しっかり生きるとはどういうことなのか、まだ、私にははっきりと掴むことはできていない。ただ、自分が素晴らしいと思うひとと実際に出会った時に、恥ずかしくない自分でありたいと思う。もっと、自分という存在を磨き上げてみたい。精神性の高みと呼ばれるものがあるならば、どこまで飛翔できるのかを見てみたい。その場所には、何があるのだろうか。何が見えるのだろうか。何が聞こえるのだろうか。何が感じられるのだろうか。自分自身の純度を高めて行くということ、私は、自分を透明なものにしていきたいと思う。
生あれば、またいつかは。 pic.twitter.com/OecnV1Np8W
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月23日
人生は続く。
413-0002
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』
素晴らしいメールが届いた。私は「わたり文庫」という名前で、循環型の図書館のようなものをやっている。基本的なコンセプトは「誰かに無理やりでも読ませたい本を、自分しか読むことのできない本棚に並べておく(所有する)のではなく、ひたすら次のひとに回していく(共有する)」というものになる。私は本が好きだ。自分の好きな本をコレクションすることも好きだけれど、しかし、自分が素晴らしいと思う本を自分の本棚に並べているだけでは、その素晴らしさが広がることはない。そこで「自分が素晴らしいと思うことこそ、独り占めをして所有をするのではなく、循環させていった方がいいのではないだろうか」と思い、わたり文庫を開設した。最初、自分にとって大切な本を手放すことはなんだか惜しいような気もしたけれど、繰り返し読み直していた訳でもなく、本当に必要なものであれば再び手元に戻ってくるだろうとも思ってはじめた。
私は、このいばや通信というブログを通じて、毎回「わたり文庫無料郵送の一冊」を紹介する。私か、あるいはブログ読者の方が「これは無理やりにでも誰かに読ませたい!」と思った本(実際に熱海の家に郵送をしてくださる方々もいる)を紹介し、そののちに「この本が読みたいです!」と声をあげてくれた方に無料で郵送をする。この活動は決してお金を生み出す訳ではないし、逆に、配れば配るほどに赤字はかさむ。それでも、私は、この活動を気に入っている。大袈裟な言葉になるけれど、私は、わたり文庫の活動を通じて「タネを蒔いている」ような感覚になることがある。先日、わたり文庫無料郵送の一冊をご希望された方に、一冊の本を届けた。本だけを封筒に入れて送るのも味気ないなあと思い、私は、封筒の中にささやかながら小さなプレゼントを同封した。
与えて、与えて、忘れてしまう。
わたり文庫を受け取ってくれた方から、一通のメールが届いた。その内容があまりにも素晴らしいもので、私は、わたり文庫をやっていてよかったと心から思った。このような活動をしていると、こころない言葉や誹謗中傷が届くこともあれば、こんなことをやっていて一体何になるのだろうかと、自分で自分を疑ってしまうこともある。まるでこれまでのすべてが無駄であったかのように感じてしまうこともあるけれど、こころが沈みかけている時に、このようなメールが届くと「自分は間違ってはいかなかったのだ」と、ある種の肯定をされるような嬉しさを覚える。
本が届きました、ありがとうございます。
そして一緒に入っていたプレゼントが、実は本よりも嬉しかったです!
人生で大切なのは[GIVE AND TAKE]ではなく、[GIVE GIVE AND FORGET]という言葉がよみがえりました。昔、ある方の講演で聞いたフレーズです。
与えて、与えて、忘れてしまう。そうしたら、いつか忘れたころに何かの形で返ってくるんだよ、これが宇宙の法則なんだ。
というようなことを聞いて、えらく感動したのでした。
ただひたすらに種を蒔き続けること、と根っこは似ているのかもしれません。そんな、ある意味宇宙の原理であり、言葉にすることが難しいような領域を、体現している人が今ここに存在している面白さ。
「何者でもない何もない自分を受けいれることから始まる」のと同時に「今とは違う何か別の素晴らしい(かもしれない)自分」という幻をようやく手放せたような気持ちでいます。
自分を貫くことと(硬さ)と、そのままを受け容れること(柔らかさ)は、ものすごく似ているようで実は違った!と、ようやく腑に落ちた次第です。ありがとうございます!
何物にもなれない人生には意味がない。
何も持っていない人間には価値がない。
ずっとそう思って、思わされてきました。
みんなが競って[何者かである自分]を目指す社会は、いつも時間に追われていて、比較しては優劣をつけて、人の心には怒りや嫉みが渦巻いていて、足りないものを埋めること、無いものを追いかけることに、必死なように見えます。
だからその逆を行く人が一定の割合で存在して、なおかつ可視化してくれる有難い人が居ないと、この社会から多様性という豊かさや面白さ、余白みたいなものが見えなくなって、無くなってしまうんだなーと。
その瑞々しい感性と、しなやかで柔らかい心を、いつまでも大切にしてほしいです。
独り言のような長い文章になってしまいましたが、このあたりで終わりにします。
Re:わたり文庫として、一度だけお礼を返させてくださいね。
それでは、素敵なクリスマスをお過ごしください!ありがとうございました!
坂爪さんは、そのままでサンタクロース!
◯◯◯◯
私は、ああ、ほんとうにそうだなあと思った。誰かに何かをした時、自分のこころのなかに「これだけのことをしてあげたのに」という恩着せがましさのようなものがあると、執着が生まれ、見返りを期待するこころが生まれ、結果的に「自分の想念によって、自分自身が苦しめられる」ことがある。だからこそ、私は、できることならば「(誰かに何かを)してあげた」とは思いたくない。何かをしてあげたのではなく「自分がそうしたいと思ったから、そうしたのだ」というものでありたい。結果に対するコントロールを捨てて、ただ、自分がそれをできているまさにそのことによって、清々しさを覚えることができる【目的と手段が一致している】ことをやりたいと思う。
愛情の本質は「投げっぱなしジャーマン」
わたり文庫では、返却の必要はない。通常の図書館であれば「期限内に返す」必要があるけれど、わたり文庫【循環型の図書館】の場合は「もしもあなたがこの本をいいなと思った場合は、是非、次のひとにまわしていってください」ということになる。もちろん、必ずしも次のひとに循環をさせる必要はないし、そのまま自分の部屋に保管をしていてもいい。どのように本を使うかはそのひとの自由で、ただ、もしよかったら次のひとにまわしていってもらえたら嬉しいなあという運営者側の淡い期待がそれとなく乗っかっているだけに過ぎない。ルールは、あまり厳しく設定すると自由度を失う。私自身も、非常に怠惰な人間なので「あとは好きにしてくれ!」という状態で図書館をはじめられたことを誇りに思う。
ここまでの文章を書きながら「返却の必要はない」という言葉はいいなと思った。たいがい、何かをする時には『それなりの見返り【金銭的な対価や労働力の提供など】を必要とされる』ことが多い。しかし、私は、自然の営みを愛している。太陽は見返りを求めて何かを照らすことはしないし、善人は照らすけれど悪人は照らさないみたいなことをしない。常に太陽は「照らしっぱなし」であり、花は「咲きっぱなし」であり、風は「吹きっぱなし」であり、小さなこどもたちは「(そんな言葉があるのかどうかはわからないけれど)生きっぱなし」である。
多分、恩は返すものではなくて「次のひとにまわしていくもの」だと思う。それを相手に返すものだと考えてしまうから(あるいは相手に返すことを強要される場合もあるから)受け取りづらくなるのだろう。しかし、太陽は常に照らしっぱなしであるように、恩や愛情の本質も「投げっぱなしジャーマン」だと思う。愛情に見返りを求めたら、それは、愛情ではなく取り引きになる(取り引き自体は悪いことではないと思うけれど、愛情とは異なると思う)。それを言い換えたものが『GIVE&GIVE』ではなく『GIVE&GIVE&FORGET』の精神であり、多分、自分がしたことはすぐに忘れてしまうくらいがちょうどいいのだと思う。
『幸福な王子』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、オスカー・ワイルド著作『幸福な王子』です。クリスマスのこの時期にぴったりな、素晴らしい作品だと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※
かわいい小さなつばめさん、おまえはふしぎなものの話をしてくれるが、しかし男と女の悲しみこそ、何ものにもましてふしぎなものなのだ。悲惨(ミゼリー)にまさる神秘(ミステリー)はない。わたしの町の上を飛んで、小さなつばめさん、そこで目にうつるもののことを話しておくれ。ー オスカー・ワイルド『幸福な王子』【新潮文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』
前回の記事で「遺書を書く」などと書いてしまったものだから、ブログ記事更新のハードルを勝手に自分で高めてしまって「いけない!気軽にブログが書けなくなってしまった!」などと軽い自爆テロを起こしてしまった。が、毎日は破壊と創造の連続である。自分で決めたことを自分で破ることはお得意なので、これからも、書きたいと思ったことはなんだって書こう。堅苦しくなりすぎてはいけない。肩の力を抜こう。リラックス、リラックスである。人間は「自分以外の人間にはたいして興味がない」という話を聞いたこともあるし、この瑣末なブログ記事に何が書かれていようが人類の99,99999%にはどうでもいいことであり、且つ、人間の最大限のパフォーマンスが発揮される瞬間は「(堅苦しく構えている時ではなく)肩の力を抜いてリラックスをしている時」なのだ。さあ、リラックスをして、遺書を書こう。
【過去記事】遺書を書く。 - いばや通信
私は「気前の良いもの」が好きだ。その代表格が太陽であり、道端に咲く花であり、自然界の営みである。気前よく与えるものの姿に、私は、真の豊かさを見る。逆に言えば、どれだけ多くのものを持っていたとしても、失うことを恐れて必死に溜め込もうとしている状態(足りない!足りない!に取り憑かれている状態)は「貧しい」と言える。豊かであるということは、たくさんのものを持っていることではなく、多分、たくさんのものを与えることができることを言うのだろう。そして、いま、私たちが生きているということは「水や空気や食糧など、生きるために必要充分な恩恵をすでに自然が与えてくれているから」にほかならない。生きているということは、同時に、生かされているということでもあるのだ。
私には「してあげたことはいつまでも覚えているくせに、してもらったことはすぐに忘れる」という、非常に駄目な傾向がある。しかし、自分がこのようにブログ記事を書けていることも、日本語を開発したひと、パソコンを開発したひと、スマホを開発したひと、アプリを開発したひと、そして、何よりもこれを読んでくださるあなたの存在があってこそなのだということを、忘れたくないと思う。自分がしてきてもらったことを思い出すだけでも、傲慢さを取り除き、謙虚さを取り戻すことができる。調子に乗っていた自分を律することができる。そして、自分がこれまでに受けてきたとてもじゃないけれど返しきれないほどの量の恩恵を、わずかでも次のひとにまわしていけたらいいのだと、そういうことを思うことができる。
大切なのは『GIVE&TAKE』ではなく『GIVE&GIVE&FORGET』だと聞いた。与えて、与えて、忘れてしまう。そうしたら、いつか忘れたころに何かの形で返ってくる。これが宇宙の法則だと言う。ひとつの大きな輪の中で循環を続けている、その流れを堰き止めてはいけないのだなと思う。 pic.twitter.com/kmSRCyO5cq
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月21日
人生は続く。
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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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遺書を書く。
もしも遺書を書くとしたら、どのような内容を書くだろうか。明日死ぬとしたら、最後に何を言い残すだろうか。あいつのこんなところが気に入らないだとか、何かを憎んでいるだとか、何かを許せないだとか、多分、そういうことは書かないのだと思う。ジェラール・シャンドリの言葉に「一生を終えてのちに残るものは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」というものがある。死を目前に感じる時、多分、その人からは誰かを憎んでいる時間はなくなる。そんなことよりも、自分にとって最も重要だと思うこと、大袈裟な言葉で言えば「愛し、愛された記憶」を強く刻もうとするものではないだろうか。私達は「裸で生まれてきて、そして、裸で死ぬ」ようにできている。どれだけ多くのものを集めたとしても、天国に持っていくことはできない。
奈良県を経由して東京にはいり、昨夜、熱海に戻った。奈良県では、お話会に呼ばれてみなさまの前で話をする機会に恵まれた。主催者の方が「さかつめさんは本を出す予定はないのですか?ブログ記事を読めることも嬉しいのですが、紙媒体という形で、実際に手にとって読めたらとても嬉しいです」と言ってくれた。私は、もしも本を出すことになるとしたら、遺書のようなものを書きたいと思った。私は、このブログを通じて「仮にこの記事が最後の記事になるとしたら、これが自分の遺言になっても構わないと思えるもの」を書きたいと思っている。文章だけではない、ひとと話をする時も同じだ。この会話がそのひととの最後の会話になるとしても、悔いのないように、血の通った言葉を使いたいと思っている。
遺書を書く。
毎年一回、遺書を書くように本を出すことができたらいいと思う。実際に出版をするかしないかはあまり重要ではない。自分の近くで同じ時代を生きることができたひとにとって、最後に言い残すことのないように「明日死ぬとしたら、これだけは言っておきたいこと」を、まとめるような形で本に残せたらいいと思う。その時、私は、どのようなことを書くのだろうか。自分のこれまでを振り返りながら、誰の顔を思い浮かべ、どのような場面を思い浮かべ、そして、どのような熱量を言葉の中に込めたいと強く思うのだろうか。
遺書を書くという行為を通じて、「自分の深いところから出てくる言葉」に出会うような気がする。奈良県のお話会を主催してくれた女性は、酒を飲みながら、こんなことを話してくれた。「そのひとはもう死んでしまったひとなのだけれど、生前、そのひとは『自分が死ぬ時は、これだけのことをしてもらったと思いながら死ぬのではなく、あのひとにはこれをしてあげることができたとか、このひとにはこれをしてあげることができたとか、自分は、これだけのことをしてあげることができたと思って死にたい』と言っていて、いまでも、その言葉が強く思い出されることがあります」と。
全国各地に呼ばれて、非常にありがたいことに様々な方々と出会う機会に恵まれている。私の文章を読んでくださる方々は、年齢層も様々で、置かれている境遇も本当に様々だ。普通にサラリーマンやOLをしているひともいれば、子育て中の主婦や定年退職後の男女、中には余命宣告を受けているひともいるし、何十年間も引きこもりの生活をしているひともいれば、社長業などで大金を稼ぎ出しているひともいる。表面的には様々な方々がこのブログを読んでくれていて、各地で開催されるイベントにも足を運んでくださるが、社会的な肩書きは違えど「同じ人間である」ことに変わりはない。私はひとりの人間で、私の目の前にいるひとも、同じように「ひとりの人間」である。だからこそ、対等な立場で話をすることができる。そして、こころを通わせることができる。
おはなをあげる。
東京では「おはなをあげる」というイベントを開催した。私は、花が好きだ。だから、無料で花を配る。特別な理由がある訳ではなく、ただ、私は花が好きだから「自分と同じように、花を愛でてくれるひとがいたら嬉しい」という気持ちで、隙間時間を見つけては周囲の人々に花を配っている。私にとって、花は「余裕」だ。花のある部屋には余裕を感じるし、花を選んでいる時の自分の気持ちにも「余裕」を感じる。逆に、部屋に花を生けていない時、花を愛せていない時、道端の花を眺める時間のない時、私は「自分の中から余裕がなくなっている」ように思う。
いまから一年ほど前、私は、熱海に拠点を構えた。この家を用意してくれたムラキテルミさんは、犬の散歩のついでに、この家に遊びに来てくれることが頻繁にあった。12月のこの時期から、伊豆山の道端には、水仙の白い花が綺麗に咲き乱れる。ムラキさんは、私に会う前に、道端の水仙の花を摘み取って手土産に持って来てくれた。私は、これまで、水仙の花がこんなにいい香りがするのだということを知らなかった。貰った花を部屋に生けると、少しだけ、空間が潤い明るいものになるような感覚を覚えた。それ以来、私は、この家を「花の絶えない家にしよう」と思うようになった。ムラキさんは、いま、熱海を離れて京都に拠点を構えている。ムラキさんのいない熱海は少しばかりさみしいが、いま、熱海の家のには水仙の花が飾ってある。水仙の花を見る度に、笑顔で「はい、これ」と花を差し出した時のムラキさんの、あの、非常に可愛らしい表情が思い出される。
昨日、東京で花を配りながら「遺書を書くことと、おはなをあげることの間にはズレがない」と思った。私は、自分で言うのもおかしな話だけれど、いま、自分がやっていることに間違いはないのだと静かに思いながら、出会うひとびとに花を配った。実際に花を手渡した方々は、女性が大半だった。別に綺麗事を言いたい訳ではないけれど、私は、女性の存在は花に似ていると思う。昨夜、花をあげた方から「おはなって、部屋を明るくしてくれるね」という連絡が来た。私は「あなた自身も一輪の花だと思います。素晴らしい夜を、そして、素晴らしい日々をお過ごしください」と返信をした。もしかすると、これは非常に恥ずかしい言葉だったのかもしれないけれど、この瞬間は、これが本当の音色だった。もしも明日死ぬことになったとしても、多分、私は花を配るだろう。そして「この花を見ながら、同時に何かを思い出してもらえたら嬉しい」という、淡い願いを込めたりするのだと思う。
『忘れられた日本人』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮本常一著作『忘れられた日本人』【岩波文庫】です。この本の中にある『土佐源氏』という30ページにも満たない物語が私は本当に大好きで、最初に読んだ時は、尋常ならざる衝撃を受けたことが思い出されます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、滋賀県にわたりました ※※※
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
あの頃の生き方を、あなたは忘れないで。
昨夜、おはなを配り終えた私といばやのほしなさんは、ほしなさんの運転する車で一緒に熱海に向かった。車内では、松任谷由実「卒業写真」が流れていた。この曲の歌詞の中に「あの頃の生き方を、あなたは忘れないで」というものがある。共にはなを配り終え、共に痛い目に遭いながらもそれらをはるかに凌駕するいい感じの風に吹かれたりもしていた私達は、流れるBGMと共にしばし何かしら感じるものの中にそれぞれの身を委ねていた。すると、ひと時の静寂を破るようにほしなさんの携帯が鳴った。電話は、ほしなさんの母親からだった。電話の内容は「身内のものがなくなったために、一度、実家の新潟に戻って来て欲しい」というものだった。
その日は、もうすでに夜も遅かったので私達は熱海に泊まり、翌日の早朝にほしなさんは新潟に向けて出発をした。これは、もう、今朝の話だ。「じゃあ、けいごさん、行ってきます」とほしなさんは言う。私は「おう、いってらっしゃい」と答える。最低限の挨拶を交わして、私達は別れる。昨夜、眠りにつく前、ほしなさんは「前に、けいごさんが『いまの日々は老後みたいなものだ』ってブログに書いていましたけど、あの感覚、僕もわかります」と話してくれた。常に明るく爽やかなほしなさんだが、人知れず、過去には本当にいろいろあった男だ。いろいろあった男であるにも関わらず、誰かといる時は微塵も悲壮感や被害者意識を漂わせないほしなさんのどっしりとした生き様に、私は男を見る。同じ男として、端的に「惚れる」要素を多大に感じる。私は、こういう男と同じ時代を生きることができていることを、幸福だと思う。
ほしなさんと別れた後、私は、熱海の山の中を歩く。道端に、水仙の花が咲いているのを見つける。一輪を摘み取り、花の香りを嗅ぐと、懐かしい香りがした。熱海に暮らし始めて、もうすぐ、一年の月日が流れる。いいことばかりではないけれど、悪いことばかりでもない、ただ、トータルでは「最高だ」と心の底から思える月日が流れた。生きている限りいろいろなことがあるけれど、生きているからこそ、触れることのできた温もりがある。よろこびがある。泣きそうになるほどの感動がある。水仙の花を眺めながら、私は「生きていれば、また、水仙の花を見ることができる」ということを思った。ムラキテルミさんの幸福を願った。ほしなさんの幸福を願った。これまで出会ってきた、様々なひとたちの表情が思い出された。今年もまた、熱海に冬が来た。散歩を終え、家に戻り、水仙を飾り、窓を開け、部屋の掃除をして、台所に向かう。縁側に干していた大根を手に取り、簡単な味噌汁を作りながら、私は「遺書を書こう」と思った。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。 pic.twitter.com/o9cTxM0V1Q
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月19日
人生は続く。
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贈与の霊。
広島駅に到着をする。りんごを届ける約束をしていた男性と合流をする。りんごを渡す。男性は喜ぶ。これは御礼ですと言って、iPhoneの自立型充電器【純正】と広島県までの交通費+αがはいっている封筒を取り出す。私は驚き、私は喜ぶ。なぜ、このような愚かな企画に、自腹を切ってまで参加(?)をしてみようと思ったのかと尋ねる。男性は答える。これは僕にとっての『遊び』みたいなものです。りんごを配るためだけに何処にでも行くひとが実際にいるということがなんだか愉快で、あとは、坂爪さんみたいな生き方をしているひとの存在はいまの世の中に『余裕』を生み出していると思うので、これからも生きていて欲しいと思ったからです。
昨夜は、広島市内で開催されたお話会に出演(?)した。主催者の女性Y様は、この日のために豪華なホテルを二泊分予約をしてくれた。私は、数日前の記事に「ズボンに穴が開いてしまってこのままだと短パンになってしまいそうだ」的な内容を書いた。それを見てくれていたY様は、ホテルを予約してくれたばかりではなく「もしもよろしければ坂爪さんにズボンをプレゼントするサンタクロースになりたいのですが、ご迷惑ではないでしょうか?」という女神過ぎる慈愛を与えてくれた。私は、一応、みなさまにりんごをお配りするサンタクロース役として広島県に来た。それなのに、私は、与える以上に貰っている。この現象はなんなのだろうか。自分から先に無条件で与えていこうとする態度を示すと、結果的に『与える以上に与えられる』ことがある。この現象の名前はなんなのだろうか。
贈与の霊。
中沢新一著作『純粋な自然の贈与』【講談社学術文庫】という本の序曲に、印象的なエピソードが紹介されている。非常に長い文章になるけれど、示唆に富んでいるように見えるので、まるごと引用します。
アメリカ大陸に渡ったピューリタンたちは、そこで原住のインディアンと出会った。ピューリタンたちの目には、インディアンがひどく交際好きで浪費を好む人間のように見えた。インディアンは、たくさんの贈り物を交換しあい、もらったら必ずお返しをしなければ気のすまない人たちだ。倹約家で、こつこつとためるのが好きなピューリタンには、そういう「インディアン・ギフト」の習俗が、ひどく異様に見えたのである。
ところが、インディアンのほうでは、ピューリタンのその倹約家ぶりが、信じられないほど以上なことに、思えたのだ。たとえばこんなことがあった。白人の行政官がインディアンの村を訪れた。彼を歓待するために、インディアンは彼にみごとなパイプを渡して、煙草を吸うようにとすすめた。そして帰り際、友情の贈り物として、このパイプを行政官は受け取ったのである。その数カ月後、インディアンはこの人好きのする白人のオフィスを訪問した。そして、その居間の暖炉の上に、あのパイプが飾ってあるのを見て、はげしい衝撃を受けたのである。「白人はもらったもののお返しをしない。それどころか、もらったものを自分のものにして、飾っている。なんという不吉な人々だ」
インディアンの思考法では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡ししたりして、霊を動かさなければならないのである。「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから、贈り物は自分のものにしてはならず、蓄積してはならず、たえず動いていくものでなければならないのである。
ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾ったり、博物館に収めたり、貯めたりする。自分の身のまわりに集まってきた「贈与の霊」の力を、彼らは蓄積し、使わないままに所有してしまった。無駄遣いの嫌いなピューリタニズム(その経済学的な別名はキャピタリズムである)は、大地を循環する「贈与の霊」の動きをとめることによって、自分の富を増殖させようとしていたのである。インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。大地と人のあいだを動き、循環していたなにものかが、とどこおり、動きをとめていく。そのかわり、そこには個人的な蓄積が、将来の増殖を生むという、別種のデーモニックな力が、徘徊していくことになる。それは、人々の物質的な暮らしは豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら、人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。
私は「贈与の霊」という言葉を見た時に、ある種の電撃が走った。そして、先日の出来事を思い出した。京都府在住の男性から「いつもブログを楽しみに読んでいます。もしも大阪にあるアップルストアまで来ていただけるようでありましたら、iPhone7plusをプレゼントいたします」という連絡が届いた。しかし、その時点で既にiPhone7plusを手にしていた私は「誠に申し訳ないことに既に手に入れてしまいました!が、貴方様のお気持ちが非常に嬉し過ぎてたまらないので、大阪まで行って感謝の気持ちを実際にお会いして伝えたいと思っているのですが、ご都合はいかがでしょうか!」という返信をした。その後、男性から「いえいえ、わざわざそんなことをする必要はありませんよ。iPhone7plusくらいの値段のもので、もしもこれから何か必要になった時は、お力になれると思いますのでその時にまたご連絡をください」という神がかり的な返信が届いた。
【過去記事】みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。 - いばや通信
「与える喜び」を与える喜び。
私は「なんてひとだ!」と感動をした。そして、いま、自分にとって必要なものはあるだろうかと考えた。先日、草履が大破した。これを機に(生きているだけでトレーニングにもなる)一本下駄が欲しいなあと思った。ちょっとお洒落で高級な眼鏡が欲しいとも思った。モチモチの玄米を家で炊くために圧力鍋が欲しいとも思ったのだけれど、同時に、何かが違うと思った。こんなもののためにひと様のお金を使うのは何かが違う(それほど優先順位の高いものではない)ように感じた。
が、発想を変えて「10万円分の花か本か何かを一気に購買して、それをクリスマスプレゼントとして欲しいと言ってくれるひとに対して無料で配りまくる」ということを閃いた。ら、テンションがあがった。私は、期間限定でサンタクロース役を務めるイベントを通じて「ひとに何かを与えるということは、これほど楽しいことなのか!」ということを思った。私が用意できるプレゼントは、りんごか花か小冊子程度の非常に安価なものばかりであるにも関わらず、時には涙を流して喜んでくれる方もいる。それが嬉しかった。この時、もしかしたら我々の間に「贈与の神」が降臨しているのかもしれないと思った。
私は、与えることは得意だけど受け取ることは苦手だ。しかし、受け取るひとがいなければ、与えるという行為【与える喜び】が成立しない。だからこそ「ひとの好意を断ることは、時に『喜びを奪う』ことにもなるのだ」ということを痛感した。受け取る側と与える側に上下関係はなく、受け取る喜びもあれば、与える喜びもある。中沢新一氏の言葉を借りれば「人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する『贈与の霊』とともにある」のかもしれないと思った。
サンタを待つな、サンタになれ。
新潟県村上市出身の女性から「この時期は実家で大量の鮭が獲れるのですが、坂爪さんはいくらが好きだと聞いていたので、12月25日に熱海に届くように送りますね!」という連絡が届いた。私は感動をした。最高のクリスマスプレゼントだと思った。同時に、私の中にある何かのスイッチが押された。私は「12月25日は一旦熱海に戻り、大量のいくらを食べたいひとは熱海に集まり、何かを熱海に送ってくださる方々にはそれを『ありがとうございます!』と全力で受け取り(余った食材は三森さんの家に贈り)、熱海からも、何かしらのサムシングを希望される方々に贈りまくる(たとえば、大量の「星の王子さま」を購買して読みたいと言ってくれたひとたちに贈りまくる)なんてことをしたらどうなるのだろうか、ということを思った。
【三森さん】まずはやる、まずは出す。 - みっつ通信
まだ、自分の中で考えがまとまっていない(ここまでの文章を読んで何か思うところがあった方々は、是非、お気軽にご連絡ください!)。感じていることは「サンタを待つな、サンタになれ」というインナーマッスルからの骨密度であり、クリスマスという素晴らしいこの時期に合わせて、何かこう「粋なこと」をやりたいと思う。同時に、粋なひとからのクリスマスプレゼントを全力で受け取っていきたいと思う。この点については、引き続き考察を深めて行きたい。キーワードは『贈与の霊』であり、また、何かを与える側にまわるときに是非とも気をつけておきたいことのひとつを思い出した。
それは「無目的、無条件、無制限に、執着が生まれる余裕もないほどに、徹底的に与えまくること【種を蒔きまくること】」だと思う。一粒や二粒程度ではない、何十粒も何百粒もとにかく種を蒔き続けることにより、自分でも忘れていた頃に突如咲き出す花がある。前に「私は数ヶ月前にわたり文庫の本を贈ってもらったものなのですが、どうしてもその時の感謝を実際に会った時に伝えたかったので、いま、こうしてお伝えできることがとても嬉しいです」という言葉をもらった。私も、この瞬間は最高に嬉しかった。喜びの種を蒔きまくることは、誰かのためだけではない、自分にとっても最高のサプライズプレゼントになる場合があるのだということを思った。
『純粋な自然の贈与』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、中沢新一著作『純粋な自然の贈与』です。著者曰く「人間に対する不信や、支配欲や、そしてなによりも流動するものへの恐れの気持ちがあるところには、贈与の霊の動きはおこらない。一言で言えば『死への恐れ』があれば、たちどころにそれは、見えないものとなっていく」。贈与は結びつけるエロスを、貨幣は分離するロゴスを持つ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
あらゆる宗教が、この贈与の精神を語りだしている。(中略)イエスもまた、贈与のことしか語らなかった。彼によれば、存在とはおしみなく愛を放出し続ける父なる神そのものであり、その愛の力は「聖霊」となって、生きとし生けるものの上に、注がれ続けているのである。神とは、命令を下したり、罰を与えたりする存在ではなく、まずだいいちに、贈与するものに、ほかならない。だから、人間はその無償の贈与者の愛にこたえて、この神を愛さなければならないのだ。イエスが商売を憎んでいたことも、聖書には記録してある。商売は、神がエロスでありロゴスであるその力によって、この世界に贈与しておいてくれるものを、人の世界に分離をつくりだす、売買の論理によって、変質させてしまう。売買から愛が発生することはない。そこで、イエスは、神殿に店を出している商人たちに、襲いかかっていったのだ。ー 中沢新一『純粋な自然の贈与』【講談社学術文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
何者でもないからこそ、何者にでもなれる。
広島市内で出会った女性から「坂爪さんはカガミみたいな存在ですね。みんなが、坂爪さんを通じて自分を確認しているように思えました」という言葉をいただく。カガミだなんて、非常にありがたいお言葉だと思った。私は、自分のことを「からっぽな人間だな」と思う。これは悲観をしている訳ではなく、大仰な例えになるかもしれないけれどそれは老子の言うところの『無用の用』的なサムシングであり、私自身に素晴らしい考え方があるからでもなく、私自身に特別な才能や能力が技術があるからでもなく、ただ、私自身がからっぽであるからこそ周囲に理解不能な現象【空間を埋め尽くす謎の高速回転】が起きているように感じた。
昨夜、広島のお話会に『わの舞』という踊りをやっている男性が来た。男性は「現在の踊りは、踊り手とそれを見る観客といった風に、直線的な関わりになっている。しかし、盆踊りなどに代表される日本の舞踊は、踊り手と観客の間に境界線はなく、全体でひとつの円になって(中心に大きな空洞をつくる形で)踊る」と話していた。私は『中心は空洞である』というワードに、謎に、直感的に真理を感じた。私には、夢や目標や10年後にはこうなっていたいと思う理想の自分像みたいなものがない。お話会などで「夢も目標も使命感もやりたいこともありません【あるのはこの瞬間だけ】」みたいなお話をすると、多くの場合、驚かれる。驚かれた後に、ああ、そうか、別に夢や目標はなくてもいいのだとちょっとだけ安心をしたような微笑を浮かべる方々を見ることは多い。
誤解されると困るが、私は、夢や目標を持つことを否定したい訳ではない。夢や目標があった方が頑張れるタイプの方々は、おおいに夢や目標を持った方がいいのだと思う。私の場合は、今日の夢が明日の義務感になってしまう【夢や目標が重荷になってしまう】ために、そういう類のものを持てないでいるだけに過ぎない。先日、一通のメールが届いた。メールの内容があまりにも嬉し過ぎたので、最後に、こちらを全文引用して終わります。私は、まだ、自分が何者なのかがまったくもってわからない。わからないけれど、わからないならわからないまま、この「わからない」状態を楽しんで行きたいと思っている。
自分を信じることができない代わりに、誰かの言葉を信じてみたり、金の力を信じてみたり、家族や仲間の存在を信じてみたりすることがある。だけど、まずは、自分なのだと思う。何かができる自分を信じるのではなく、何もない自分【何者でもない自分】を受け容れることから、すべては始まるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月16日
坂爪さんはじめまして、こんにちは。
他人のブログを熱心に読むタイプではないのですが、坂爪さんの、どんな人間も否定せず受け入れ暖めてくれる、山奥にひっそりとたたずむ温泉のような言葉たちにいつも元気をもらっております。
坂爪さんの手にかかると、言葉という原石が生命を吹き込まれ、生き生きと輝き始めるのがわかります。魔術師のようです。たしかに、言葉のもつ輝きに魅了される瞬間があります。
宇宙から地球人の偵察に来ている人だったりして、、なんて想像したら楽しいです。こないだ見たインド映画PKの主人公を思い出します(笑)
なにやら坂爪さんは現代の老子みたいだな、と密かに思っております。
空のスペースに価値があるというフレーズなんかは坂爪さんを体現しているような。
いつも空にして、開いているから、そこに新しいものがどんどん入ってくるんですね。
現代人は詰めすぎ、閉じすぎなんですよね、きっと。
老子の小難しい言葉を、英語から日本詩のように綴っていた加島祥造さんという方が大好きなのです。もし、読んだことがなかったら、彼の「アーユーフリー?」や「タオ」なんかを読んでくれたら嬉しいな、なんて思います。
私は世間でいう普通に馴染めず学校も嫌い、お金のために働くのも嫌い、いかに働かないで生きていくか、ばかりを考えるような奴で、しかしヒシヒシと感じる世間からの同調圧力に負け、なんとか、普通を目指して、30代前半まで徹底的に自分を殺して生きてきました。ずいぶん長い間、私という存在は誰かや社会が望む、部品の一部であったようです。
が、最近はもうできないこと、いやなことを頑張ることをやめました。
なかなか都合がつかずお話会に伺う機会を逃してばかりなのですが、、、
いつか生身の坂爪さんにお会いできることを楽しみにしています!
という感じで、今回のわたり文庫の中村元さんの慈悲を読んでみたいなーと思いました。
よろしくお願いします!◯◯◯◯◯
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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温もりに触れたい。
前回の記事で「私は全国にりんごを配るサンタクロースになりたい」と書いた。すると、読者の方から「広島まで来て欲しい」という依頼が舞い込み、急遽、青春18切符【JRの鈍行乗り放題チケット】を購買した。熱海から名古屋までは五時間弱、名古屋から大阪まで三時間弱、大阪から岡山まで三時間弱かかった。あと少しで広島県に着く。途中、大阪の梅田でお会いした金髪の美女から、りんごを三個貰う。私は「逆じゃないか!」と思ったけれど、金髪の美女は「いいの、いいの」と譲らない。私は、ありがたくりんごを貰う。女性と別れた後に入ったタリーズの店員さんの接客が非常に素晴らしかったので、りんごをひとつあげる。珈琲を飲む。メールの返信をする。店を出る。りんごをかじりながら街を歩く。曇天の空から、ふと、太陽が顔を出す。いい風が吹く。りんごを食べながら人混みの中を歩いていると、どうしてなのだろうか、俺はまだ戦えるという感覚になる。
【過去記事】サンタクロース、現る。 - いばや通信
奈良在住の方と広島在住の方から「お話会をやりたいのですが大丈夫ですか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。山口在住の方から「母親の故郷のりんごが家にあるのですが、広島まで届けに行ってもいいですか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。車中泊をしながら全国各地を移動しているカメラマンの女性から「明日、ちょうど広島に行くので一緒にご飯を食べませんか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。台湾の高雄在中の男性から「交通費は負担をするので、台湾にも来ていただけますか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。イタリアのミラノ在住の女性から「いつかミラノにも来てください!」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。私は、りんごを配る以上に、りんごを貰っている。なんだかもう、誰がサンタクロースなのか、プレゼントの概念とは何か、訳がわからなくなる。訳がわからなくなることが、私は、嫌いではない。ああ、そうだ、自分は「訳がわからないこと」をやりたかったのだ。どのようになるのか予想がつくことではなく、どのようになるのかまるで予想がつかないことをやりたかったのだ。
【12月16日】坂爪圭吾サンタさんを囲んでお話会
【12月17日】「坂爪圭吾さんを囲んでクリスマス会に集まれっ」
【12月14日-25日】わたりサンタ 〜ペイフォワード的なサムシング〜
「訳がわからないこと」をやろう。
タリーズの無料Wi-Fiを拾い、ツイッターのアプリを開くと、私の友達の嘉向徹の身体ありがとう君が以下のようなツイートをしていた。彼は、友人の保科亮太さんと一緒に『チームゼロ』という活動をしている。彼らは、基本的に、慢性的な金欠のど真ん中にいる。しかし、慢性的な金欠のど真ん中にいることを言い訳に何かを諦めるということがないので、お金がないままでいろいろなことをやってしまう。その瞬間、彼は、文字通り無一文の状態で台湾の高雄に飛び込もうとしていた。
高雄へと出発する直前、財布の中身が91円になる。成田空港へ向かう道中、素寒貧になることがわかった時は変な頭痛もあったけれど、募金箱に残りのお金を入れ財布が空になった瞬間、周囲の空気感がガラっと変わった。#ゼロセミナーシネルテンクニ
— 嘉向徹の身体ありがとう (@toru_kamuki) 2016年12月14日
周囲の空気感がガラッと変わるあの瞬間、いよいよはじまるのだなと背筋が伸びるあの感覚、大袈裟な言葉で言えば「生きていることの実感」が伝わってきた。次に、私はフェイスブックのアプリを開く。嘉向徹の身体ありがとうさんの相棒でもある、保科亮太さんの投稿が目に入る。保科さんは、現在「一郎一作」というイベントを自主的に敢行している。自分を0円【無料】で放出し、みなさまを労りながら各地を巡るという内容の試みになる。
【イベント詳細】【team-0/一労一作 vol.1】
そこにはこのように書かれていた。
私は「このひとたちは最高だな」と思う。彼らは、基本的にあらゆる依頼を0円で受ける。そのため、金銭的なメリットを受けることは皆無に近い。その代わりに、カネ以外の何かを受けることが頻繁にある。嘉向徹の身体ありがとう君は、一年前、台湾の高雄に家が欲しいという願望だけを持って実際に高雄に行った。現地で「無料の家が欲しいのですがどうすればいいですか」と台湾の人々に聞きまくった結果、奇跡的に「うちのビルの三階がガラ空きだから、自由に使っていいよ」ということになり、台湾で自由に使える空間を獲得した。そんな彼らが、いま、一番アツいと認める男が、三重県の限界集落に暮らす柳林裕君だ。
私は、この文章を読んだだけで柳林君の虜になってしまった。その柳林君が、あろうことか12月24日に神奈川県江ノ島海岸で開催される「大相撲Xmas場所」に命の湯【五右衛門風呂】をつくりに来てくれるらしい噂を入手した。俄然、24日が楽しみになった。私は「パッと見、何がしたいのかわからないひとたち」の存在が好きだ。彼らの生き様に触れると、私は、もりもりっと元気になる。連日の移動で疲れた身体に、何度でも歩き出すための力が宿る。イヤホンを取り出して、BLANKEY JET CITYのSEA SIDE JET CITYを聴きながら、梅田駅の街中ですれ違う人々に怪訝な表情をされながらも、りんごを囓る。
【イベント詳細】大相撲Xmas場所 in 江ノ島海岸
『慈悲』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、中村元著作『慈悲』です。私にとって、わたり文庫当選者の方に本を送るための作業(宛名を書き、本を包み、軽い手紙を添えるなどの作業)は、ある種の贖罪みたいな感覚になることがある。うまく言葉にできないのだけれど、私は、発送の作業を通じて「簡単に調子に乗る自分の調律をしている」ような感覚を覚える。すべてのひとに返信をすることができていないことが非常に申し訳ないのですが、こうして「読みたいです!」と毎回連絡をくださる方々がいるということは、ほんとうにありがたいことだ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※
苦難多きこの世にあって人々が明るく楽しく生きてゆくためには、他人に対する暖かな思いやりと心からの同情心をもたなければならない。貧しい生活でも暖かな共感のただよっているところは、心ゆたかであり、楽しい。この心情を仏教では「慈悲」として説いている。この観念はかつては神道や一般文芸にもとり入れられ、日本人の心性に大きな影響を与えたものであった。それは単に過去のものではなくて、未来の人類のために指標としての意味をもつであろう。
慈悲の実践はひとが自他不二の方向に向かって行為的に動くことのうちに存する。それは個々の場合に自己をすてて他人を生かすことであるといってもよいであろう。もしも単に自己を否定するというだけであるならば、それは虚無主義とならざるを得ない。これは現代における有力な思想傾向となっているが、自他不二の倫理はそれの超克をめざすものである、と言ってよいであろう。それは個別的な場合に即して実現されるべきものであるが、しかも時間的・空間的限定を超えた永遠の意義をもって来る、それは宗教に基礎づけられた倫理的実践であるということができるであろう。
かかる実践は、けだし容易ならぬものであり、凡夫の望み得べくもないことであるかもしれない。しかしいかにたどたどしくとも、光りを求めて微々たる歩みを進めることは、人生に真のよろこびをもたらすものとなるであろう。ー 中村元『慈悲』【講談社学術文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
「温もりに触れたい」のだ。
私は、初対面の方々に「今世の調子はどうですか?」と尋ねることがある。今世の自分は、どうしてなのか意味不明な生き方をしているひとに強く惹かれる傾向があって、自分自身もあまりよくわかっていない生き方を現在もこうして続けているのですが、あなたの今世はどうですか?いい感じですか?いやな感じですか?ちょっとだけ停滞気味ですか?的な意味合いを含めている。私自身は、前世や来世というものの存在を絶対的に信じることができている訳ではないのだけれど、もしかしたら前世や来世があるかもしれない(現在とは、連綿と続く永遠の流れの中のほんの一瞬でしかない)という前提に立つと、今世の自分【現在の自分】を(ちょっとだけ余裕を持って)眺めることができる。
昨日、本屋に立ち寄ったら「ああ、楽しかったと思って死にたい」的なタイトルの本を目にした。このタイトルを見た瞬間、私は、非常に傲慢な感想になるかもしれないけれど「俺はすでにそう言えるな」と思った。自分から積極的に死にたい訳ではないけれど、既に、人間の一生分の密度を生きてきたような謎の感覚がある。それなのに「まだ生きてもいいのですか!」と、おまけのような日々に嬉しくなる。稀に、老後の心配をしている同世代の方々と出会うことがあるが、多分、私は既に老後に突入しているのだと思う。この瞬間は既に余生であり、言い換えるならばボーナスタイムのようなものである。既に人間の一生分を生きたというのに、まだ、これからも生き続けることが許されている(既に大量の素晴らしい出会いに恵まれてきたというのに、まだ、これからも素晴らしい出会いに恵まれ得る)ことの幸運を思う。
馬鹿にされてもいいし、理解されなくてもいい。失敗をしてもいいし、傷つけられてボロボロになってもいい。打率は1割程度でもいいし、24時間の間の23時間はクソだったとしてもいい、ただ、あの瞬間は最高だったなと思える瞬間の光を見たならば、紛れもない、そのひとは「今日の勝ち組」だと思う。これからを生きていくためには金銭や資格や世間的な肩書きなどが必要に思えることもあるだろうけれど、「生きたいと思う」ために必要なものは、多分、愛情とか慈悲とか温もりと呼ばれる類のものだと私は思う。嘉向徹の身体ありがとう君や、ほしなさんや、柳林君の生き様には、人間的な温もりを覚える。その温もりが、私の心を嬉しくさせるのだろう。今回の写真は、愛媛県在住の女性が送ってくれた虹の写真だ。虹は「夢が叶う前兆」を意味するらしい。すべてのひとにとっての夢が、今日、素晴らしい形で叶うような1日になればいいと思う。最後に、柳林君の詩を勝手に引用して終わりにします。大事なものは、多分、人間的な温もりだ。私達は生きていて、いま、この瞬間も、体の中に温かい血が流れている。生きているものには温もりがあって、同じように、誰かにとっての温もりになることができる。
自分はダメな人間だと思うことは、誰かの悪口を言うことと同じくらい、否定的な力を生み出してしまう。多分、自分との関係も人間関係であり、自分を悪く言うことは「自分が自分自身と戦ってしまっている」ことなのだと思う。まずは、自分との戦争を終わらせること、平和な関係を結ぶことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月13日
なあ、友よ、笑おうや。
おめえは今、しんどいのかもしんねえ。
でもとりあえず、笑おうや。
おれらに出来るのは、それぐらいのことだろう?
昔からそれしか、出来ねえだろう?
だから、なあ、笑おうや。
心がすさんでもええ。体がボロボロでもええ。
それでも笑うのはやめちゃいけねえ。
俺らの取り柄はそこしかねえ。
だろう?違うか?そうだろう?
泣く時だって、あるかもしんねえ。死にたい時も、あるかもしんねえ。
おれにはおめえの苦しみは、
全然さっぱりよくわかんねえ。
知りたいけれど、よくわかんねえ。
だって、それは、言っとくけどよお。
おめえさんだけのもんだから。
おめえが大切にしとかなきゃ、
なんねえもんだと思うんだ。
苦しい時も、泣きたい時も。死にたい時も、消えたい時も。
それは、おめえだけのもんなんだよ。
だから、大切にしなきゃなんねえんだよ。
それらを全部、ひっくるめてよお。大声出して、笑おうや。
おめえが笑えばおれも笑う。おれが笑えばおめえも笑え。
笑い、笑って、笑い合って、そのままぐっすり、眠ろうや。
なあ、友よ、だからよお。死ぬまで一緒に笑おうや。
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
サンタクロース、現る。
iPhone7の大きい奴を買うために家を飛び出す。奇跡が起きた。サンタクロースは実在をした。前の記事で「iPhone7の大きい奴が欲しいけれど財布の中には550円しかない!」的な投稿をしたら、神は見ていた。粋なサンタクロース様の登場により、私にiPhone7の大きい奴が与えられた。あまりにも劇的過ぎる展開のために詳細を伝えることができない。あらゆる予定をキャンセルして、私は、渋谷のアップルストアに向かう。電車の中で走る。スクランブル交差点でスクランブる。道に迷う。無事に着く。店員さんに(冷静な振りを装いながら)話しかける。色を選ぶ。容量を選ぶ。定価107,800円のiPhone7plus256GBのブラックを購買する。顔で笑い、心で泣く。iPhone7の大きい奴が与えられたよろこびに慟哭をする。
【過去記事】みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。 - いばや通信
設定の問題でミスる。過去のデータの引き継ぎに失敗をする。「ええい、ままよ!」とすべてのデータを削除する。はじめからやり直しだ。連絡先もあらゆるアプリも写真も音楽も電子書籍も何もかも消え失せたが、そういうことには慣れている。逆に、清々しい。私のよろこびは続く。iPhoneを買った時にアップルの袋を貰う。この袋を有効活用したいと思う。私は、アップルの袋からアップル(りんご)が飛び出てきたら楽しいなと思う。私は八百屋に向かう。りんごを買う。アップルの袋にりんごを詰める。私はサンタクロースになる。あ、このひとはいいひとだなあと思ったひとにりんごを配りはじめる。初日でりんごは完売をする。アップルの袋を丁寧に折畳み、鞄の奥底に常備をする。八百屋を見つけ次第、私は、りんごを買うだろう。そして、こっそりとアップルの袋に詰めるだろう。クリスマスが終わるまで、私は、全国各地にりんごを配って回りたいと思う。もしも、私からりんごを手渡しで貰いたいという危篤な方がいた場合は、いつでもお気軽にご連絡くださいと思う。現地までの交通手段さえどうにかなれば、多分、私はどこにでも行くのだと思う。
連絡先・keigosakatsume@gmail.com
クリスマスプレゼントの連鎖。
iPhone7の大きい奴が手に入るまでの私は、読者の方から譲り受けたiPhone5s(本当にありがとうございます!)と義理の兄から譲り受けたiPad Air(本当にありがとうございます!)を使用していた。いばやのほしなさんが「僕もiPad Airが欲しいんですよ」と言っていたので、私は、私のiPad Airをあげる。ほしなさんは喜ぶ。それを見て、私も喜ぶ。よろこびは連鎖をする。iPhone5sは、三森正道【みっつ】さんにあげる。三森正道さんは「弟が、まだスマホを持っていないので嬉しいです!」と喜ぶ。それを見て、私も喜ぶ。よろこびは連鎖をする。ほしなさんは「クリスマスプレゼントだ!」と言い、三森さんは「クリスマスプレゼントだ!」と言い、坂爪圭吾は「クリスマスプレゼントだ!」と言い、私は、あ、こういうの、すごいいいなと思う。
三森正道さんについては、いばや通信の過去記事を無理矢理にでも読ませたいと思う。12月10日(土)に秋葉原で開催されたイベントには、結果的に、我々三人で登壇をした。いばや関係者には、常に金欠状態に置かれている(場合によっては借金を抱えている)人間が多い。私も、なう、未払いのサムシングをそれなりに抱えている。三森正道さんの一日の食費は150円で、常にロクなものを食べていない雰囲気が漂っている。私は、ここぞとばかりに「三森正道さんの一日の食費は150円です!」みたいなことを壇上(?)で囁き、みんな、俺が言っていることの意味がわかるかい???わかってくれるかい???というエクスペクテーションを抱く。
【過去記事】人生を変える出会いについて。ー 本物の美しさや、本物の純粋さに触れると、自分の中から失われていた何かが再び蘇るような歓びを覚える。 - いばや通信
思いは届く。イベント終了後、余った食材はすべて三森さんがお持ち帰りする流れになる。大量のお菓子や三キロのお米、玄米餅に大麦餅にきな粉や小豆や各種調味料、パンや梅干しや缶詰やバナナや柿など、三森さんは非常に嬉しそうな顔をしながら袋に詰める。全部で、総量15キロを優に越える食糧が与えられる。三森さんは「わーい!クリスマスプレゼントだ!これで弟にドヤ顔ができます!」と喜ぶ。それを見て、最後の後片付けをしていた主催者側や参加者の方々全体も喜ぶ。三森さんには、何か、そういう力がある。三森さんが喜ぶ姿を見ると、それだけで、見ているこちら側まで幸せにさせてしまう力がある。私とほしなさんは「これから定期的に『三森正道を生かす会』でもやりましょうか」と話す。三森正道の言葉、三森正道の佇まい、三森正道が喜びにあふれている姿を見ることの中には、謎の喜びがある。私は、彼ほど、言葉の中に自分の思いを込めることのできる人間を知らない。彼の話を聞いていると、私は、理由もわからない涙が流れそうになることがある。
EVENT@秋葉原のハイライト。
非常にお洒落な会場で開催された。
開催前には、いばやのMAYUCHAPAWONICAさんも遊びに来てくれた。MAYUCHAPAWONICAさんも、ほしなさんも、嘉向徹の身体ありがとうさんも、坂爪圭吾も、同じ新潟県の出身になる。私とMAYUCHAPAWONICAさんは新潟高校時代の同級生でもあるけれど、当時は(坂爪圭吾が根暗過ぎたために)ひと言も話したことがない。MAYUCHAPAWONICAさんは、昨夜、ツイッターで非常に良いことを言っていた。
自分の透明度が上がるほど
— まゆ@新潟 (@harapekoyama) 2016年12月11日
純度が高いものに出会っていく
自分の透明度が下がるほど
本来の輝きを失った濁ったものに出会っていく
美しい自分に厚い雲をかけて
綺麗な瞳を曇らせ
透明な世界を濁らせているのは
いつも自分
濁った世界があなたを苦しめる時に
濁っているのは自分自身
ほんとうにその通りだなと思う。
今回のイベントを主催してくださった愛媛県今治市在住のM様と一緒に、集合写真を撮ってもらったもののピントがずれる。左から、ほしなさん、M様、坂爪圭吾、三森さん。M様の献身的過ぎる奉仕スピリットにより、この日は史上稀に見る良い日になった。素晴らしい人と出会うと、素晴らしい一日になる。私は、最近、伸び過ぎた髪を後ろで結んでいる。参加者の方から「武士みたいで格好いいですね!」などと言ってもらえた瞬間は非常に気持ちが良いけれど、この前、小学四年生の女の子から「キモい」と言われた瞬間の傷は癒えない。Gパンに穴が空き、ズボンを履くときに誤って何度も穴に足を通してしまうために、日に日に穴は広がっている。
普段は軽めのほしなさんも、キメる時はキメます。と、ここまで書いたところで「お、三森正道さんがこの日の様子をブログに書いているじゃないか!」と発見をする。私が三森さんのことを書くとどうしても身内贔屓感があふれ出してしまうために、当日、イベントにお越しいただけなかったみなさまはこちらの記事をご覧いただけると嬉しいです。
【参考リンク】料理は愛情! - みっつ通信
『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アーサー・ホーランド著作『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方【著者サイン入り】』です。クリスマスのこの時期に、また、いつもとは違った視座でキリスト教に触れてみるには最高の一冊になると思います。私は、アーサー・ホーランドさんに代表される愚直な実践主義者の生き様が大好物です。私も、こちらの本を読みました。そして、こころ動かされました。実際にやるひとは強い。ひとりでもやる人間は一番強い。そして、男の中の男とは「異性にも、同性にも好かれるものだ」ということを思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、鹿児島県にわたりました ※※※
生きているものには必ず匂いがある。バイクで走っていると畑の匂い、家畜の匂い、暖かい太陽の匂い、大地の匂いなど、もろに感じる。俺と大自然はかけ離れていないということが分かる。…俺はバイクに乗り始めてから、大自然とバイブルの世界は一緒だなと思うようになった。…波の音、水平線の彼方に沈む太陽、潮風…。それを肌で感じたとき、不思議だけれど、背後にあるスピリチュアルな存在、つまり、背後にある神の存在に思いを巡らすことができるのだ。ー アーサー・ホーランド『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方』【徳間文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
サンタクロース、現る。
最近、目で見て食べる技術を覚えた。駅ナカの立ち食い蕎麦屋に掲げられている看板などにある料理の写真を見ながら「これを食べたらこんな味がするんだろうなあ。温泉卵の食感はこんな感じで、わかめはツルツルで、寒い冬に飲む温かいだし汁は五臓六腑に染み渡り、ああ、そうだ、トッピングにゲソの天ぷらなども乗せてしまおう!」などと考えているだけで、幸せになる。実際に食べなくても、料理の画像を眺めるだけ、脳内で軽い妄想を繰り広げるだけでもそれなりの満腹感を得られる。そういうボディになった。私は、昔から「自分のためだけに金を使うこと」が非常に苦手だ。自分のためだけなら、メニューの写真を眺めながら変質者扱いされているだけで済む。ただ、いばやの関係者などといる時は「今日は俺がお金を出す(このお金でさえも、ひとから貰ったものになる)から、さあ、好きなものを食え!」みたいになることが多い。
優しさには二種類あると思う。ひとつは「嫌われたくないと願う」優しさで、その背後には脆さがある。もうひとつは「人間の生命力を信じる」優しさで、その背後には逞さがある。前者は相手に媚びがちで、後者は相手を突き放すことがある。何かをすることだけではない、何もしない強さもあるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月9日
これは、自分の気前の良さを自慢したい訳ではなく「誰かが喜ぶ姿を見ることが、結果的に自分の喜びになる」ということだ。 別に大きなことをやる必要はない。自分が、ただ、自分のできる範囲内で誰かに何かをすることができた時、その瞬間に感じる手応えのようなものの中には「ハートの奥底があたたかくなるような実感」がある。私は思う。多分、自分と他人の間にある境界線のようなものは幻想で、他人に対してこころのない言葉を使うひとは「同時に、自分のこころを傷つけている」のであり、他人に対してこころの込もった言葉を使うひとは「同時に、自分のこころを豊かにしている」のだと思う。自分にしていることと、他人にしていることとの間に大差はなく、それが、真の意味で『善い』ことであれば「世のためにもなり、ひとのためにもなり、そしてもちろん自分のためにもなる」と思う。
大切なことは「気持ちを込める」ことなのだと思う。日常的な家事とか会話とか何気ないメールのやりとりとか、いま、目の前にあることにこの日限りの気持ちを込めるということが、多分、いまを生きるということなのだと思う。今日の命は今日でおしまい、出し惜しみをしている場合ではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月12日
iPhone7の大きい奴を抱えて熱海に戻る。玄関を開ける。家に入る。珈琲を飲む。風を浴びる。月を眺める。本を読む。布団を敷く。眠る。夢を見る。目が覚める。白湯を飲む。風呂に入る。家のすぐ目の前に広がる海から、朝日が昇る。空は赤く染まり、鳥たちは鳴き出し、1日のはじまりを告げる。自然の中に囲まれているとわかる。私達は、既にとんでもない量の恵みを自然から受けていて、いつでも、誰でも、分け隔てることなくその恩恵を楽しむことができる。自然界の素晴らし過ぎる度量を目の前に、私は「自分はなんてちっぽけで、なんてケチ臭い人間なのだろう」と思う。そして「自然の作り手【神】は、最高過ぎる度量でオールウェイズ私達に恵みを与えてくれている。それならば、私も、自分に与えられたこの命(と、iPhone7の大きい奴!)を精一杯に生かしていきたい」と思う。
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心と一緒に扉を開くのではなく、静かな勇気と共に開くこと。 pic.twitter.com/oXEVn3J7Nt
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月11日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
リラックスこそ最高の媚薬。
お前は誰だ。
そんなもんじゃないだろう。
『星の王子さま』
人間たちはもう時間がなくなりすぎて
ほんとうには、なにも知ることができないでいる。
なにもかもできあがった品を、店で買う。
でも友だちを売ってる店なんてないから
人間たちにはもう友だちがいない。
リラックスこそ最高の媚薬。
何かをしなきゃいけないとか、何もしていない自分には価値がないという考え方からは、距離を置きたいと思う。罪悪感や強迫観念を動機にすると、自分の言葉、自分の作品、自分の佇まいに否定的な力が宿る。大事なことは、多分、肩の力を抜くことだ。落ち着いた後は「自然と何かをやりたくなる」ものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月8日
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。
奈良のイベントに登壇をする。
昨夜は奈良のイベントに登壇する。参加者は45名。主催者の女性は「保守的だと言われている奈良のひとがこんなに集まることは珍しい。奈良で何かをやる時は、大抵、奈良以外の方が来ることが多い」と話す。昨夜は、徹君も一緒に壇上にあがる。徹君は、佐渡島に家がある。この家は、佐渡島に家をもつ非常に粋な男性から「君みたいな若者を待っていたんだ!この家を、この環境を、大いに使ってくれたまえ」とプレゼントをされた。この家で、徹君は「誰でも自由に無料で生きていけることをあれこれ」を実験的に試しているが、現金収入がないために、来客を無料でもてなす代わりに自身は「はじめてのアコ○」で借金生活を続けている。
押し寄せの法則。
『第三の嘘』
思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じて好かれ続けるよりも「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれるひとと相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。自分のダメな部分を見せる瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月18日
自分の人生に関係ない人達、自分の目で見ていないことや自分の耳で聞いていないこと、実際にはまだ会ったこともない人達の言葉を鵜呑みにすると、簡単に自分自身を見失って惑わされてしまう。見知らぬ他人の批判より、ただ、目の前の人の笑顔や自分の身体が感じる喜びを大切にしていきたいのだと思う。 pic.twitter.com/XMcRnNshNu
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月6日
才能があるとか、能力があるとか、そんなものはどうでもいいのだ。成功することだけが美徳ではなく、失敗することの中にも、痛い目を見ることの中にも尊さはある。ダメならダメでいいじゃないか。自信があるからやるのではなく、自信がなくてもやる、やりたいと思ったからやる、それでいいじゃないか。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月6日
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