いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』

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素晴らしいメールが届いた。私は「わたり文庫」という名前で、循環型の図書館のようなものをやっている。基本的なコンセプトは「誰かに無理やりでも読ませたい本を、自分しか読むことのできない本棚に並べておく(所有する)のではなく、ひたすら次のひとに回していく(共有する)」というものになる。私は本が好きだ。自分の好きな本をコレクションすることも好きだけれど、しかし、自分が素晴らしいと思う本を自分の本棚に並べているだけでは、その素晴らしさが広がることはない。そこで「自分が素晴らしいと思うことこそ、独り占めをして所有をするのではなく、循環させていった方がいいのではないだろうか」と思い、わたり文庫を開設した。最初、自分にとって大切な本を手放すことはなんだか惜しいような気もしたけれど、繰り返し読み直していた訳でもなく、本当に必要なものであれば再び手元に戻ってくるだろうとも思ってはじめた。

 

私は、このいばや通信というブログを通じて、毎回「わたり文庫無料郵送の一冊」を紹介する。私か、あるいはブログ読者の方が「これは無理やりにでも誰かに読ませたい!」と思った本(実際に熱海の家に郵送をしてくださる方々もいる)を紹介し、そののちに「この本が読みたいです!」と声をあげてくれた方に無料で郵送をする。この活動は決してお金を生み出す訳ではないし、逆に、配れば配るほどに赤字はかさむ。それでも、私は、この活動を気に入っている。大袈裟な言葉になるけれど、私は、わたり文庫の活動を通じて「タネを蒔いている」ような感覚になることがある。先日、わたり文庫無料郵送の一冊をご希望された方に、一冊の本を届けた。本だけを封筒に入れて送るのも味気ないなあと思い、私は、封筒の中にささやかながら小さなプレゼントを同封した。

 

与えて、与えて、忘れてしまう。

わたり文庫を受け取ってくれた方から、一通のメールが届いた。その内容があまりにも素晴らしいもので、私は、わたり文庫をやっていてよかったと心から思った。このような活動をしていると、こころない言葉や誹謗中傷が届くこともあれば、こんなことをやっていて一体何になるのだろうかと、自分で自分を疑ってしまうこともある。まるでこれまでのすべてが無駄であったかのように感じてしまうこともあるけれど、こころが沈みかけている時に、このようなメールが届くと「自分は間違ってはいかなかったのだ」と、ある種の肯定をされるような嬉しさを覚える。

 

本が届きました、ありがとうございます。

そして一緒に入っていたプレゼントが、実は本よりも嬉しかったです!

 

人生で大切なのは[GIVE AND TAKE]ではなく、[GIVE GIVE AND FORGET]という言葉がよみがえりました。昔、ある方の講演で聞いたフレーズです。


与えて、与えて、忘れてしまう。そうしたら、いつか忘れたころに何かの形で返ってくるんだよ、これが宇宙の法則なんだ。
というようなことを聞いて、えらく感動したのでした。

 

ただひたすらに種を蒔き続けること、と根っこは似ているのかもしれません。そんな、ある意味宇宙の原理であり、言葉にすることが難しいような領域を、体現している人が今ここに存在している面白さ。

 

「何者でもない何もない自分を受けいれることから始まる」のと同時に「今とは違う何か別の素晴らしい(かもしれない)自分」という幻をようやく手放せたような気持ちでいます。

 

自分を貫くことと(硬さ)と、そのままを受け容れること(柔らかさ)は、ものすごく似ているようで実は違った!と、ようやく腑に落ちた次第です。ありがとうございます!

 

何物にもなれない人生には意味がない。
何も持っていない人間には価値がない。
ずっとそう思って、思わされてきました。

 

みんなが競って[何者かである自分]を目指す社会は、いつも時間に追われていて、比較しては優劣をつけて、人の心には怒りや嫉みが渦巻いていて、足りないものを埋めること、無いものを追いかけることに、必死なように見えます。

 

だからその逆を行く人が一定の割合で存在して、なおかつ可視化してくれる有難い人が居ないと、この社会から多様性という豊かさや面白さ、余白みたいなものが見えなくなって、無くなってしまうんだなーと。

 

その瑞々しい感性と、しなやかで柔らかい心を、いつまでも大切にしてほしいです。

 

独り言のような長い文章になってしまいましたが、このあたりで終わりにします。

 

Re:わたり文庫として、一度だけお礼を返させてくださいね。

 

それでは、素敵なクリスマスをお過ごしください!ありがとうございました!

 

坂爪さんは、そのままでサンタクロース!

 

◯◯◯◯

 

私は、ああ、ほんとうにそうだなあと思った。誰かに何かをした時、自分のこころのなかに「これだけのことをしてあげたのに」という恩着せがましさのようなものがあると、執着が生まれ、見返りを期待するこころが生まれ、結果的に「自分の想念によって、自分自身が苦しめられる」ことがある。だからこそ、私は、できることならば「(誰かに何かを)してあげた」とは思いたくない。何かをしてあげたのではなく「自分がそうしたいと思ったから、そうしたのだ」というものでありたい。結果に対するコントロールを捨てて、ただ、自分がそれをできているまさにそのことによって、清々しさを覚えることができる【目的と手段が一致している】ことをやりたいと思う。

 

愛情の本質は「投げっぱなしジャーマン」

わたり文庫では、返却の必要はない。通常の図書館であれば「期限内に返す」必要があるけれど、わたり文庫【循環型の図書館】の場合は「もしもあなたがこの本をいいなと思った場合は、是非、次のひとにまわしていってください」ということになる。もちろん、必ずしも次のひとに循環をさせる必要はないし、そのまま自分の部屋に保管をしていてもいい。どのように本を使うかはそのひとの自由で、ただ、もしよかったら次のひとにまわしていってもらえたら嬉しいなあという運営者側の淡い期待がそれとなく乗っかっているだけに過ぎない。ルールは、あまり厳しく設定すると自由度を失う。私自身も、非常に怠惰な人間なので「あとは好きにしてくれ!」という状態で図書館をはじめられたことを誇りに思う。

 

ここまでの文章を書きながら「返却の必要はない」という言葉はいいなと思った。たいがい、何かをする時には『それなりの見返り【金銭的な対価や労働力の提供など】を必要とされる』ことが多い。しかし、私は、自然の営みを愛している。太陽は見返りを求めて何かを照らすことはしないし、善人は照らすけれど悪人は照らさないみたいなことをしない。常に太陽は「照らしっぱなし」であり、花は「咲きっぱなし」であり、風は「吹きっぱなし」であり、小さなこどもたちは「(そんな言葉があるのかどうかはわからないけれど)生きっぱなし」である。

 

多分、恩は返すものではなくて「次のひとにまわしていくもの」だと思う。それを相手に返すものだと考えてしまうから(あるいは相手に返すことを強要される場合もあるから)受け取りづらくなるのだろう。しかし、太陽は常に照らしっぱなしであるように、恩や愛情の本質も「投げっぱなしジャーマン」だと思う。愛情に見返りを求めたら、それは、愛情ではなく取り引きになる(取り引き自体は悪いことではないと思うけれど、愛情とは異なると思う)。それを言い換えたものが『GIVE&GIVE』ではなく『GIVE&GIVE&FORGET』の精神であり、多分、自分がしたことはすぐに忘れてしまうくらいがちょうどいいのだと思う。

 

『幸福な王子』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、オスカー・ワイルド著作『幸福な王子』です。クリスマスのこの時期にぴったりな、素晴らしい作品だと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

かわいい小さなつばめさん、おまえはふしぎなものの話をしてくれるが、しかし男と女の悲しみこそ、何ものにもましてふしぎなものなのだ。悲惨(ミゼリー)にまさる神秘(ミステリー)はない。わたしの町の上を飛んで、小さなつばめさん、そこで目にうつるもののことを話しておくれ。ー オスカー・ワイルド『幸福な王子』【新潮文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』

前回の記事で「遺書を書く」などと書いてしまったものだから、ブログ記事更新のハードルを勝手に自分で高めてしまって「いけない!気軽にブログが書けなくなってしまった!」などと軽い自爆テロを起こしてしまった。が、毎日は破壊と創造の連続である。自分で決めたことを自分で破ることはお得意なので、これからも、書きたいと思ったことはなんだって書こう。堅苦しくなりすぎてはいけない。肩の力を抜こう。リラックス、リラックスである。人間は「自分以外の人間にはたいして興味がない」という話を聞いたこともあるし、この瑣末なブログ記事に何が書かれていようが人類の99,99999%にはどうでもいいことであり、且つ、人間の最大限のパフォーマンスが発揮される瞬間は「(堅苦しく構えている時ではなく)肩の力を抜いてリラックスをしている時」なのだ。さあ、リラックスをして、遺書を書こう。

 

【過去記事】遺書を書く。 - いばや通信

 

私は「気前の良いもの」が好きだ。その代表格が太陽であり、道端に咲く花であり、自然界の営みである。気前よく与えるものの姿に、私は、真の豊かさを見る。逆に言えば、どれだけ多くのものを持っていたとしても、失うことを恐れて必死に溜め込もうとしている状態(足りない!足りない!に取り憑かれている状態)は「貧しい」と言える。豊かであるということは、たくさんのものを持っていることではなく、多分、たくさんのものを与えることができることを言うのだろう。そして、いま、私たちが生きているということは「水や空気や食糧など、生きるために必要充分な恩恵をすでに自然が与えてくれているから」にほかならない。生きているということは、同時に、生かされているということでもあるのだ。

 

私には「してあげたことはいつまでも覚えているくせに、してもらったことはすぐに忘れる」という、非常に駄目な傾向がある。しかし、自分がこのようにブログ記事を書けていることも、日本語を開発したひと、パソコンを開発したひと、スマホを開発したひと、アプリを開発したひと、そして、何よりもこれを読んでくださるあなたの存在があってこそなのだということを、忘れたくないと思う。自分がしてきてもらったことを思い出すだけでも、傲慢さを取り除き、謙虚さを取り戻すことができる。調子に乗っていた自分を律することができる。そして、自分がこれまでに受けてきたとてもじゃないけれど返しきれないほどの量の恩恵を、わずかでも次のひとにまわしていけたらいいのだと、そういうことを思うことができる。

 

 

人生は続く。

 

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