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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

セフティネットとしての自己開示。

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数年前から自分をオープンにすることを趣旨に掲げて、基本的には「呼ばれる限り何処にでも行く」というスタンスで生きてきた。現在は新潟市内のガストにいて、12月の上旬は関西と関東に足を運ぶ。私は、まだ、自分のような生き方に名前を与えることができていない。ただ、私のような生き方を面白がってくださる方々の声に応える形で、日本各地から近年では東南アジアや欧州にいたるまで実際に訪れた。また、基本的には「現地までの交通費などは依頼主の方が負担をしてくれている」のが現状になる。
 
 
 
  
私は、自分のスケジュールをWEB上に公開している。それを見てくれた方が「あ、この日が空いているなら自分が住んでいる場所まで呼ぼうかな」とか「あ、近くにいるなら会いたいな」的な感じでお声をかけてくださり、個別での面会やトークイベントなどの登壇や海外旅行の護衛としてなど、依頼者の方の要望に応える形で生きている。特定の職業には就ておらず、安定した収入もないために、世間的に言えば「無職」であり「ニート」であり「ダメ人間」であるとも言える。このブログにも、広告などは一切貼り付けていないために一円にもなっていない。特別な信条があって広告を貼っていない訳ではなく、ただ、ほとんどのブロガーと呼ばれる類の人々は広告を貼り付けているために「自分は貼らなくてもいいだろう」程度に思っている。
 
【SCHEDULE】坂爪圭吾
 

自分をオープンにすることの実験。

2014年の冬から「家のない生活」をはじめ、私を泊めてくださる方々の家を転々とし、結果的に家のない生活は2年程度続いた。自分でもまるで想像をしていなかったが、最初は東京都内で呼ばれる限り何処にでも足を運んでいたが、やがて全国各地から「交通費を出すから泊まりにおいで」とか「話が聞きたいからトークイベントのゲストに来てくれ」などの声がかかるようになった。2年目は、海外からも声がかかるようになり「交通費は出すから◯◯に来てください」とか、時には「私は日本在住の人間ですが、ずっと昔からインドに行ってみたいと思っていて、だけど、ひとりで行くのはちょっと怖いので交通費や宿代はすべて負担をするので一緒に行ってくれませんか?」などの声もかかるようになった。最近では編集者や報道関係者からも声がかかるようになったけれど、まだ、本を出す予定はない。
 
結果として、呼ばれていった国は15カ国程度、護衛としての付き添い的な形で同行した国は5カ国程度になり、金のない私には到底いけないと思っていた国々に(言葉が悪いけれど「ひとさまのお金」で)行ける形になった。私は、決して海外旅行が好きなタイプの人間ではなかった。しかし、実際に「いったことのない場所にいくこと」や「やったことのないことをやること」の中には自身の想像を超えた面白みがあり、結果的に、私は「自分の頭で考えられることなんてタカが知れている(自分が「自分はこういう人間だ」と思っていることでさえ思い込みであることが多い)のだから、自分がやりたいと思うことをやるというよりも、誰かに『これを一緒にやってほしい』と言われたことを共に遂行するほうが、経験の幅も広がるし世界も増える」みたいなことを思うようになった。
 
私には、夢や目標がない。こうなりたいと思う自分もなければ、死ぬまでに成し遂げたいと思う何かがあるという訳でもない。こういう風に書くと「無気力な人間だな」と思われてしまうかもしれないが、事実、私は無気力な人間なのかもしれないと思うこともある。が、それでいて「何もやりたいことがないといっている割には、なかなか面白い人生を送っているなあ」などと自身を客観的に観察している自分もいる。思うに、私の日々を面白くしてくれたものは「自己開示【自分をオープンにすること】」に依る部分が多大にあり、言い方を変えれば、私は、自分の力【自力】で自分の日々を面白くした訳ではなく「自分の力で何かを成し遂げることを放棄して、ただ、みなさまに自分を自由に使ってもらうこと【他力】によって自分の経験の幅が広がった」ように感じている。稀に、このような私の生き方を「すごいですね!」と言ってくださる方ともお会いするけれど、すごいのは、坂爪圭吾ではなく「坂爪圭吾を面白い形で活用してくれたひとたち」だと思っている。
 

自分をオープンにすることの防犯性。

家のない生活を2年間続けた後に、ブログ読者の方に熱海に家を購買してもらうという形で、家のない生活は終了した。これだけでも、もう、ものすごい話だと思う。人生は何が起こるかわからない。ひとは優しいのだということを痛感すると同時に、その方の善意によって与えられた家でもあるために、私は、この家を自分のためだけに使いたいとは思えなかったために、現在も「全体的に無料で開放をして、使いたいひとがいれば自由に使ってもらう」という形で開放している。この瞬間も、私の体は新潟市内にあるけれど、熱海の家には(まだお会いしたことはないものの)女性の方が利用をしてくれている。一応、利用を希望される方には事前にメールか何かで連絡をくださいとお願いをしている。理由は、他の方が「イベント利用で使いたい」とか「大勢のひとと会うのがあまり得意ではなく、個人的な静けさを守りたい」などの理由で、不特定多数が突然押し寄せると困る場合があるからになる。
 
家の鍵はかけていない。玄関には「みんなの財布」といって、出し入れ自由の財布が掲げてある。住所もあらゆる連絡先も公開をしているが、それを見たひとから「そんなにオープンにしていると、危ない目にあうことはないのですか?」と尋ねられることは多い。結論から言うと、この数年間の日々で、物理的に危ない目に遭ったことは一度もない。誰かに襲われたこともなければ、何かを盗まれたこともなく、稀に、朝、目覚めてみると隣に知らないひとが座っていたということは数回あるけれど、また、ちょっとしたストーキングチックな行為に悩まされかけて「これは家をクローズドなものにしたほうがいいのかな」などと思いかけた瞬間もあるものの、ひとつのことに思い立ち、現在も「家も自分もオープンにし続ける日々」を過ごしている。
 
ひとつのこととは、要約すると「家も、オープンにしている方が防犯性が高い【風通しが良い】」ということになる。泥棒が来ても、ストーカーが来ても、この家は「いつ誰がやって来てもおかしくない家」でもあるために、ある種のやましさを抱えるひとは長居をすることができない(と思う)。逆に言えば、家を密室【クローズドなもの】にしてしまうと、泥棒もストーカーも、結果的にやりたい放題になる。これは、多分、家だけではなく人間の精神にも通じる話だと思う。自分をオープンにすれば、風通しが良くなり、ひとの助力や優しさ、自分でも思って見なかった素晴らしい瞬間に出会える。逆に、自分をクローズドなものにすれば、不安や恐怖心が自らの精神を蝕み、自分でも無意識の内に「深刻になりすぎてしまう」ことや「自身の恐怖心によって殺されてしまう」ことは多い。
 

閑話休題

小難しい話を長々と書き綴ってしまった。
 
ほんとうは、こう、笑ったりしながら話をしたい。
 
真面目に考え過ぎるのはよくないと思う。
 

自分をオープンにすることの可能性。

今回は「自己開示がセフティネットになる」みたいなことが書きたかった。おとといも、横浜から来てくれたご夫婦が30キロの玄米を届けてくれた。こういうことが日常的にあると、なんだろう、うまく言えないけれど「自分をオープンにしていれば死なないばかりか、自分ひとりの力では決して成し遂げられなかったであろう素晴らしい瞬間に立ち会える」のだということを思う。そういう話を、堅苦しい文面ではなく、イベントなどの際に実際にお会いした方々と面と向かって話をしたいと思っている。最近、ひとと話をするのが好きだ。一対一は緊張をする(緊張をするというか、相手のエネルギーをもろに受け取ってしまうために稀に苦しくなる)けれど、大勢のひとの前で話している時は、元気になる。
 
玄米30キロを届けてくれたご夫婦のご主人は、昔、整体師をやっていたそうで「全国どこでも整体します!みたいな形で、場所にとらわれない移動型の生き方ができたらいいなあとも思っていたのですが、整体という行為に限定してしまうことも何だかつまらなくて、どうしたものかと思っていました」的な話をしてくれた。この感覚が、私には、ものすごいわかる。私も、自分で自分の役割を限定したくない気持ちがあるからこそ、多分、現在も「社会的な肩書きを与えられることから逃げている」ような生き方をしているのだと思う。逆に言えば、自分に肩書きがないからこそ、自分の発想を超えた依頼が舞い込み、ある時は作家、ある時は講演会、ある時はコメディアン、ある時はツアーコンダクター、ある時は登山家、ある時は旅館の女将、ある時はギタリスト、ある時はホームレス、みたいなことになっている。変幻自在のアメーバ的な存在。そういうもので、私はありたいのかもしれないと思う。
 
これは完全なる余談になるけれど、私は、お米をつくること【農作業】も苦手な人間で、お米を買うこと【お金を稼ぐこと】も苦手な人間だけれど、お米を貰うことは得意な人間みたいだとこの前思った。これは、個人的に非常に興味のあるテーマで、つくることが得意なひとはつくり、お金を稼ぐことが得意なひとはお金を稼ぎ、ものをもらうことが得意なひとはものをもらう、これらがうまいこと共存関係を結ぶ(?)ことができれば、世の中はうまくまわるのではないだろうかということを思った。この辺のことは、また、まとまり次第イベントなどの機会にお話できたらいいなあと思っております。
 

悪童日記

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アゴタ・クリストフ著作悪童日記』です。こちらの作品は小説になるのですが、過去に何度も読み直したのですが、言葉では説明できない衝撃的な内容といいますか、衝撃的な文体といいますか、とにかく「読め!読めばわかる!」としか言えない、そんな私の大好きな作品です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※ 
 
「乞食の練習」

ぼくらは破れた汚い衣類を身に纏う。裸足になり、顔と手をわざと汚す。街中へ出かける。立ち止まり、待つ。

外国人の将校がぼくらの前を通るとき、ぼくらは右腕を挙げて敬礼し、左手を差し出す。たいてい、将校は立ち止まらず、ぼくらに気づきもせず、ぼくらを見もせず、通り過ぎる。

やっと、ひとりの将校が立ち止まった。彼は、ぼくらに理解できない言語で何事かと言う。ぼくらに、あれこれ問いかけているらしい。ぼくらは返事しない。一方の腕を挙げ、もう一方を差し出したまま、じっとしている。すると彼は、ポケットの中を探り、硬貨一枚とチョコレートのかけらをぼくらの汚れた掌の上に載せ、しきりに首を捻りながら立ち去る。

ぼくらは待ち続ける。

婦人が通りかかる。ぼくらは手を差し出す。彼女が言う。

「かわいそうにね・・・。私には、あげられるものが何ひとつないのよ」

彼女は、ぼくらの髪をやさしく撫でてくれる。

ぼくらは言う。

「ありがとう」

別の婦人が林檎を二個、もう一人がビスケットをくれる。

また別の婦人が通りがかる。ぼくらは手を差し出す。彼女は立ち止まり、言う。

「乞食なんかして、恥ずかしくないの?私の家にいらっしゃい。あなたたち向きの、ちょっとした仕事があるから。たとえば薪を割るとか、テラスを磨くとかね。あなたたちくらい大きくて強ければ充分できるわよ。ちゃんと働いてくれたらば、お仕事が終わってから、私がスープとパンをあげます」

ぼくらは答える。
 
「ぼくら、奥さんのご用を足すために働く気はありません。あなたのスープも、パンも、食べたくないです。腹は減っていませんから」

彼女が訊ねる。

「だったらどうして、乞食なんかしているの」

「乞食をするとどんな気がするのかを知るためと、人びとの反応を観察するためなんです」

婦人はカンカンに怒って、行ってしまう。

「ろくでもない不良の子たちだわ!おまけに、生意気なこと!」

帰路、ぼくらは道端に生い茂る草むらの中に、林檎とビスケットとチョコレートと硬貨を投げ捨てる。

髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない。

アゴタ・クリストフ悪童日記』【早川書房
 
 

セフティネットとしての自己開示。

いままでの自分の半生を振り返りながら、導き出せる教訓的なものはないだろうかと思い立って書き始めたこのブログ記事だけれど、ここまで書いて「ああ、俺の役割はとにかく自分を生きることだ。生き方に名前を与えることとか、ひとりの人間の生き方を具に観察して分析するとか、これからはこうなる的な時代予測とか、こうするとこうなる的なテクニック論とか、多様性だとか、贈与経済だとか、サステナブルな経済だとか、そういうことは、そういうことが得意なひとに任せて、自分は、ただ、自分を生きていればいいのだ」ということを思った。
 

 
私の場合は、自己開示をすることによって面白い目に遭えた。しかし、面白い目に遭うために自己開示をはじめた訳ではないのだ。順番が、逆だった。セフティネットとしての自己開示ではなく「自己開示をした結果、思いもよらない形でセフティネットが構築されていた」だけの話に過ぎないのだと思う。繰り返しになるけれど、人生は、何が起こるかわからない。自分が思ったようにいくことよりも、自分が思ってもみなかったことの方に日々は大きく揺さぶられるもので、だからこそ「何が起こるかわからない」これからの日々を、ひとつの映画以上に、ひとつの漫画以上に、面白がっていくことができる。
 

 
どのような生き方をするにせよ、私は「こころを込める」ということを大切にしたい。いまを生きるということは、決して「いまが良ければそれでいい」という刹那的なものではなく、いまという瞬間に自分の最大限の思いを込めることが、ひとつの小さな『種』となり、未来に花を咲かせることもあるのだと思う。いまを生きるということは、多分、自分の思いを出し惜しみしないということだ。こころを込めずに過ごした時間は虚しさを残すが、無様でも、不器用でも、自分なりにこころを尽くしたと思える瞬間のあとには清々しさが残る。そういった意味で、私は、悔いのない日々を過ごしていきたいと思う。
 

 
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人生は続く。
 
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