いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

無駄に慰め合うよりも、一回死ね。

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広島県尾道市を経由して東京に入り、昨夜は、日本橋で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。私の場合、あらかじめ話すことを用意して何かを話すというよりも「簡単な自己紹介をしたあとは、質疑応答のような形で参加者のみなさまと対話を重ねるソクラテススタイル」で呼ばれることが多いのだけれど、イベント参加者や空間の雰囲気、その日の自分の体調次第で会場の空気感はものすごい変わる。
 
尾道のイベントは非常に素晴らしいものになり、私も、まるで菩薩のような気持ちで愉悦の時を過ごすことができた。しかし、場合によっては阿修羅【鬼】のような存在になってしまうこともあり、山口県光市や、昨夜日本橋で開催されたトークイベントでは、自分のお話会であるにも関わらず「黙秘権を行使する」という結果になった。私は、多分、「楽しかったね!」で終わることだけを良しとしている訳ではないのだと思う。偽りの言葉を口にして、自分を殺して愛想笑いを浮かべながら参加者のみなさまのご機嫌を伺い、表面的で当たり障りのない会話に終始して時間を過ごす位なら、お互いに多少傷つくことがあったとしても、地獄のような沈黙を経由した後に沸き立つ「自身の生き方や在り方に伴う根本的な問い」のようなものを共有したいと思っている。
 

自分の役割を認識する「校長先生、話が長いです」

最近、自分の役割とは何だろうかと思うことがある。私の場合、多分、それは「本音を伝える」ことだと思うことがある。例えるならば、小学校などの全校集会の際に、話の長い校長先生の話に誰もがうんざりしている中で、ある種の特攻隊長のようなものになって「校長先生、話が長いです」と実際に口に出して伝えてしまうことが、自分の役割なのではないだろうかと思うことがある。
 
多くの場合、校長先生の話が長くても「ちょっと我慢すればいい」とか「適当に聞き流す」などの形で、その場をやり過ごすのが賢明なのだと思う。話が長い人に「話が長いです」なんて言ってしまったら、人間関係に角が立つ。人間関係に角が立つくらいなら、ちょっと我慢をすればいいのだと考えるのは非常に賢明な処世術だと思う。しかし、私は、どうしてなのだろうか、言いたいことを言わないでいると精神的におかしくなる。精神的におかしくなることは嫌だから、思っていることは実際に口に出して伝えてしまう。すると、空間にある種の歪みが生じる。予定調和的なサムシングが破壊されて「おっ!」と会場全体に緊張感が宿り、これは、言い方を変えるならば「つまらないと思っていた空間が、瞬時に、ある種のエンターテイメントに変わる」のではないだろうか、みたいなことも思っている。
 
誰もが思っているけれど、言わないでいること(言わないほうがいいと思っていること)を、実際に口に出して伝えること。誰もが辟易している「話の長いひとの話を聞く」拷問的な時空間に、戦闘開始のゴングが鳴り響き、その場にいた人々も「あいつ、言いやがった!」と内面密かに盛り上がる。誤解を恐れずに言うと、自分が実際に口に出すことは憚られるけれど、誰かに代弁してもらうことでスッキリするということは、往々にしてあるものだと思う。私の役割は、多分、これだ。この瞬間の『言ったった!感』が私は好きで、だからなのだろうか、ある種のサービス精神やいたずら好きの小学生にも似た精神から「本音を口にする(積極的に予定調和を乱そうとする)」傾向が、私の中には確実にある。
 

本音はエンタメ【戦闘開始のゴング】になる。

昨夜、イベントの最中にちょっとだけ話の長い女性がいた。彼女は、最近、彼女自身が抱えている悩みや苦しみについてウジウジと愚痴のようなものを吐き続けていたので、私は「話が長いです」と実際に言葉にして伝えた。続けざまに「いまのあなたの姿は、私から見ると、非常に格好悪いものに見えます。初対面の人間が言うのは変なことかもしれませんが、あなたの底力は、そんなもんじゃないような気がします。多分、もう、悩むということは充分にやり切った感があると思うので、そろそろ腹を括ってみたらいかがですか?」みたいなことを伝えた。
 
誤解をされると困るが、私は、この女性(瞳の綺麗な美しい女性だった)を責めたい訳ではない。ただ、私には「無駄に慰め合うよりも、一回殺す」みたいなコミュニケーションを好む傾向があって、いつまでも親身に寄り添い悩みや苦しみを聞いていられるほど広いこころは持ち合わせていない。もっと言えば、悩みや苦しみの大半は『甘え』であり、本当は「誰かに頼ったり甘えたりしなくても、自分の中には、既に自分の力で道を切り開く能力が備わっている」ものだと思っている。だからなのだろうか、いつまでもウジウジと悩み続けるひとを見ると「お前はそんなもんじゃないだろう!」という愛の手裏剣をかましたくなる。
 
文章だけで伝えることは非常に難しいのだけれど、私は、根底に愛が流れている限り「何をしてもいい」と思っている節のある人間で、自分を過少評価している人間を見ると「生命を見くびるような真似はするな!」と、怒りにも似た感情が湧く。同じように、上から目線で物事を話すひとをみると「お前は誰だ!」と腹が立ち、人間関係には上も下もなく、あくまでもフェア、あくまでも対等、上から目線で物事を話す人や、あまりにも卑屈になっているひとを見ると「傲慢な人間だな」と思ってしまう。
 

被害者意識を喝破して、自分を生きる。

トークイベントなどに登壇する際、最も多く受ける質問は「不安になることはないのですか」というものになる。私は「ええっと、ありません」と答えているのだけれど、多分、定職も金も社会的な肩書きも何もない私は、不安になろうと思えばいくらでも不安になり得るのだと思う。ただ、不安にフォーカスをしていない(不安や恐怖心を抱えたまま生きていけるほど強い人間ではない)だけで、生きていれば様々なことがあるけれど、とりあえず、いま、無事に生きているのだから「何か問題が起こった時は、問題が起こった時に考えればいい」と思っている。
 
次に多い質問は「親はなんて言っているのですか」というもので、この質問を多く受けることにびっくりしている。これは私の憶測に過ぎないけれど、自分に何かやりたいことがあったとしても、親や周囲の人々が反対するからできないみたいなことが、現代社会にはたくさんあるのかもしれない。私の場合、非常にのんびりとした親に育てられたために「とやかく言われることは微塵もない」のだけれど、これは、非常に恵まれていることなのかもしれない。親や周囲の人間の過干渉に悩まされているひとは意外と多いみたいで、私は、率直に「(いろいろな人間の顔色を伺わなければいけないだなんて)気苦労の絶えない人生だな!」と思う。
 
他人との比較において苦しめられることもあるかもしれないが、自分は自分であり、他人は他人である。他人の幸福が自分の幸福と重なる時もあれば、他人の幸福が自分にとっては幸福でもなんでもなく、逆に足枷にさえなることもある。大切なことは「どれだけ足掻いても自分は自分でしかないのだから、無駄な比較や競争をやめて、自分は自分を生きる」と腹を括ることではないのだろうか。自分以外の何者かになろうとするのではなく、自分を自分以上に見せようとするのでもなく、ただ、自分は自分であると腹を括って生きている人間から漂う清々しさのような空気感に、私は魅力を覚えるし、そういう人間と同じ時間を過ごしていきたいと思う。
 

『ハンパな人生論より極道に学べ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮崎学著作『ハンパな人生論より極道に学べ』です。私が二十歳そこそこの頃、就職活動に専念をしている友人が「いまはいろいろなひとと会って話を聞きたいんだ」みたいなことを話していた。しかし、彼が話を聞いていたのは「いろいろな会社に勤めるひとびと」であり、つむじまがりの私は「本当にいろいろなひとの話が聞きたいのであれば、極道とか牧師さんとか少年兵の話を聞かなきゃ!」みたいなことを思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※
 
この時代、日常性のなかで高じるばかりのストレスの捌け口を、ひそかな不倫や浮気に求めるといったことは多々ある。しかし、一方ではその発覚を恐れ、ちゃちな罪悪感にとらわれて、あらたなストレスを抱え込むという悪循環にはまていく。その挙げ句の「失楽園」じゃあ、シャレにもならない。たかが「女を抱くこと」にさえ市民はタガをはめずにはいられないのである。
アウトローの発想、思考、行動様式はわけもなく、そうした情況を突破する。いともたやすく閉塞感に風穴を穿つ。私にはむろんのこと、アウトローを賛美するつもりもないし、「極道はおいしいぜ!」という気もない。が、日々「おもしろくねぇな」「なんとかならねぇかな」という思いを引きずりながら生きている〝いま〟の突破口は、アウトロー的世界にあるとだけはいえる。まずは本書でそれを覗き、あとは読者が判断すればいい。ー 宮崎学『ハンパな人生論より極道に学べ』【青春出版社
 
 

ダメじゃない!からのハグ。

本音で生きることにはある種の清々しさが伴うが、やはり、それに伴う反動も大きいためにすべてのひとに勧めることはできない。ただ、このような生き方しかできなかったからこそ「このような生き方をしていたからこそ、出逢えた素晴らしい瞬間がある」ことも確かだと思う。昨夜、イベントに参加してくれた女性が「私は自分に自信がない」みたいなことを比較的乱暴な口調で話していたので、私は「そんなことはないと思います」と伝えた。「自分はダメだと思うことはよくないし、厳しい言い方をすれば、それは傲慢な態度だと思う。私には、あなたがダメだとは思えない。あなたはあなたであり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。ただ、絶対に、ダメではないと思います」と伝えた。
 

私が「ダメじゃないです」と伝えると、女性は「もう一回言ってください!」と言って会場全体は笑いに包まれた。私は、もう一度「ダメじゃないです!」と伝えると、女性は「ありがとうございます!なんだろう、胸にじんわりとくるものがあります。あの、帰り際にハグをしてもいいですか?」と言うものだから再び会場全体は笑いに包まれた。私達は、約束通り(?)帰り際にハグを交わし、なんだかよくわからないけれどある種の清々しさに包まれて「ああ、今日も素晴らしい一日だったなあ」みたいな感覚を覚えた。
 

尾道で出会った女性は「さかつめさんは、この前のブログで『温泉になりたい』みたいなことを言っていましたが、私には、さかつめさんは『すべてのひとの中にある温泉を、掘り出してくれる存在』なのだと思いました」という言葉を与えてくれた。私は、ああ、なんて嬉しい言葉を言ってくれるのだろうかと感動をした。私の役割は、多分「本音を言うこと」であり、それが、結果として「すべてのひとの中にある温泉を掘り出す【自分には力があるのだということを思い出す】」ことになれば、これほど嬉しいことはない。ひとびとのこころの中にある温泉を掘り出すボーリング人間として、これからも、自身の生き様と言葉を武器(?)に、ああでもない、こうでもないとわちゃわちゃ騒いで行きたいと思う。
 

 
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人生は続く。
 
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