いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ひとは、今を生きる限り幸せになれる。

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Mr.Childrenの口笛を聴きながら歩く。空には三日月が輝いている。三日月の横には、口元のほくろのように小さな星が明滅をしている。家のない生活をしていた頃、生きる気力をなくした時は「好きな歌を歌う、好きな道を歩く、好きな人を想う」ことが効果的だということを実感した。いまでも、その習慣は私の中に生きている。自分のこころが「いいな」と思う瞬間の中には、自分をチューニングできている時のような嬉しさがある。幸せと呼ばれるものは自分の中心に常にあって、忙しない日々の中で気付けば自分の中心から遠く離れてしまうこともあるけれど、そこに戻ることができる限り、ひとはいつでも幸せになれるのだということを思う。私は、そこ【自分の中心】を「居場所」と呼びたいと思う。

 

熱海の家に年賀状が届く。手書きの文字には人柄が宿り、まだお会いしたことのない人でさえも、文字の先にあるその人自身の息遣いを感じることができる。最初は「とてもじゃないけれどすべてに返事を出すことは難しいだろう」と思っていたけれど、思いを改めて、すべての年賀状に返事を出すことに決めた。葉書を贈るだけでは物足りないような気がして、家にあるほしいもなどの食材やお菓子を添えて、ひとりひとりに返事を出す。郵送料金だけでもバカにならないというのに俺は今月の光熱費を無事に払うことができるのだろうかなどというつまらないことを考えてしまったけれど、返事を書き続ける内に、邪念は消え去った。邪念の代わりに「自分はいま、正しい金と時間の使い方をできている」というような静かな感覚が湧き出してきて、私は、新年のはじまりに最適な時間を与えてくれた諸々のつながりに感謝をしたくなった。

 

花鳥風月、そしてヒト。 

大晦日の夜には、長い付き合いになる友達夫婦が熱海に泊まりに来てくれた。江ノ島からはちあきさんも駆けつけてくれることになり、普段は貧しい生活をしているからなのだろうか、大晦日だけは「あれも買おう!これも買おう!」と浮き足だってしまい、寿司やカレーや高価な漬物や大量のお菓子などを買い込んでしまい、普段は乗らないタクシーにまで乗ってしまった。大量の食材を買い物カゴの中に放り込みながら、私は、なぜか涙が流れそうになった瞬間があった。涙の理由はわからない。惨めさに泣けた訳でもなく、嬉しさに泣けたという訳でもない。ただ、昔、私の母方の祖母が非常に貧しい生活の中から「はい、これ」と私にお年玉をくれた場面が思い出された。毎年、お年玉袋の中には一万円がはいっていた。祖母は今年で90歳になる。山形県の小国町で暮らす小さな祖母の腰は、連日の農作業で完全に曲がっている。

  

12月31日の23時半を過ぎた頃、家の外から除夜の鐘の音が聞こえる。私達は「どこから聞こえるんだろう」と家の外に出る。鐘はすぐ近くで鳴っているような気がする。音の鳴る方向まで歩いてみようかということになり、私たちは着の身着のまま夜の道を歩く。何もない。誰もいない。空には星が輝いている。気がつけば、家の近くにある伊豆山神社まで足を運んでいた。時計を見ると、時刻はまさに12時を迎えていた。「まさかこんな形で初詣をすることになるとはね」と笑い合いながら、参拝に向かう。財布も何も持っていなかったので、神様に空手で挨拶を済ませる。境内では町内会の方々が、参拝客に無料でぜんざいを配布していた。東京の三軒茶屋から来てくれた友達夫婦の奥様は「いい地域だね」と話した。私は、それを聞いて嬉しさを覚えた。

 

家に戻り、布団を敷いて、目覚まし時計をセットして眠る。翌日、早朝に目覚めて家の外に飛び出し、海から昇る朝日を拝む。ちょっとだけ近所を散歩することになり、坂道の登り下りを繰り返しながら、道端の花を摘み取ったり、洞窟の中から湧き出す走り湯の源泉に立ち寄る。雲ひとつない空から、生きとし生けるものの生命を祝福するかのように、太陽が燦々と照りつけている。オノヨーコさんの「空があるから、どんな時も私は大丈夫だと信じられる」という言葉を思い出す。私の全身が、言葉にならないうれしさやよろこびに包まれる。何もかも失うことがあったとしても、まだ空はある、まだ太陽はある、花鳥風月があり、新年の朝を共に歩ける友達がいる、俺達はきっと大丈夫だという気持ちになる。

 

好きなように生きていいのだ。

1月3日(火)の14時位から数時間だけ、江ノ島近くの喫茶店ラムピリカの営業を軽く手伝うことになった。私は、この喫茶店の店主・ちあきさんを勝手に生かしたいと思う。ちあきさんの淹れる珈琲は自分史上最高に美味しく、ちあきさんの作るパンケーキは自分史上最高に美味しい逸品になる。私は「こんなにも美味しい珈琲を淹れる【こんなにも美味しいパンケーキを作る】ちあきさんを死なせてはいけない」と勝手に思う。そして「生かしたいひとを生かす会」を自主的に勝手に開催していきたいと思う。現在のラムピリカは、固定的な営業日や固定的な料金や固定的なメニューはなく「店主のちあきさんが開きたいと思った時に開き、作りたいと思ったものを作る」ようになっている。飲食代金もドネーション制になっている、料金も「食べたひとが払いたいと思った金額だけ、ドネーションボックスに入れて帰る」というものになる。

 

私がちあきさんを好きな理由は108個位あるのだけれど、そのうちのひとつに「私は、誰が何を食べたかとかお会計はいくらとかおつりを用意しておくとかそういうことを覚えておくことが苦手で、だから、ドネーション制にするとそういうものから解放されるので助かっています」という緩さがある。ちあきさんを見ていると、端的に「俺たちはもっと、好きなように生きてもいいのだ」という許しを見る。もちろん、好きなように生きた結果、生き続けることが困難になることは頻繁にあると思う。そのような時に「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と差し伸べられる幾つもの手があれば、世界はより一層の豊かさを帯びるような気がしている。ちあきさんのあり方には、このひとを生かしたいと思わせてくれる美しさがある。

 

生かしたいひとを生かすために生きたいと思う。一月の予定は何も決まっていないために、江ノ島のラムピリカをお手伝いするような形で「二、三時間でも構わないから、お店の仕事や家事のあれこれを手伝ってほしい」と思ってくださる方がいれば、いつでもお気軽にご連絡ください。報酬などはもちろん不要で、交通費なども自力が続く限り自腹で向かいたいと思います(ただし、戦力としては著しく低いために「それでも構わない」という方のみお声かけいただければ幸いです)。また、熱海の家も基本的に開放をしているために、もしも「熱海の家を使いたい」と思ってくださる方は、いつでも気軽にご連絡ください。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

『求めない』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、加島祥造著作『求めない』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性から「私の大好きな一冊です」とわざわざ熱海に贈っていただいた一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

「求めないー すると…」という言葉が繰り返される本『求めない』。けれど、著者・加島祥造氏は、何度となく「人間は求める存在だ」とも言います。求めることを否定せず、なぜ私たちは、もう足りているのに求めてしまうのだろうかと優しく問いかけるのです。そして、求めることをほんのちょっとやめてみたら、生きることが楽になり、日々が楽しくなり、思いがけない可能性が開けるかもしれないよ、と笑顔で誘います。誰もがもっているはずの柔らかい心、人生の本当の豊かさに気づかせてくれます。信州伊那谷老子が伝え続ける魂の言葉が心に響く大ベストセラー詩集。ー 加島祥造『求めない』【小学館文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

美しい時の重なりの中を。 

ブログをひとつ更新した時、わたり文庫の郵送を終えた時、心のある言葉のやり取りを交わせた時や、年賀状の返信を書き上げた時やひとまえで話をする機会に恵まれた後に、私は「いい仕事をしたな」という充実感を覚える。この充実感は、もちろん長続きをする類のものではないけれど、しかし、いい仕事をしたなと思えたあとに流れる時間の中には清々しい風が吹く。自分にどれだけのことができるかはわからない、ただ、私は「いい仕事をしたな」と思って毎晩眠りにつきたいと思っている。大袈裟な言葉で言えば、自分が生きていることで少しでも誰かを前向きな気持ちにさせることができたならば、これほど嬉しいことはないように思う。

 

数年前にブログをはじめて、同時期に家のない生活もはじまり、いま、こうして家が与えられた中でも文章を書くことだけは続けている。非常に幸運なことに、そして、非常にありがたいことにブログを目にしてくださる方々も増えていて、私自身、世間的で言うところの「(吹けば飛ぶようなものではあるけれど)ちょっとだけ有名な存在」になった。有名になるということはどういうことなのか、自分自身の体を通じて、実感をさせてもらっている日々を過ごしている。大勢の人の目に触れることで見知らぬひとからの誹謗中傷や罵詈雑言を浴びる機会も増えたけれど、そのような憂鬱な出来事を吹き飛ばすほどに、素晴らしい出会いにも恵まれるようになった。

 

ひとに知られていくということの中には、ある種の「責任」があるように思う。それは「自分が何気なく使うひとつひとつの言葉が、自分でも知らないところで波及して影響を与えていく」のだという自覚に伴う責任だと思う。言葉は時に薬にもなり、言葉は時に毒にもなる。私は、私に与えられた「言葉」という道具を、できることならば自分を含めた人間全体にとって『薬』となるように使って生きたい。その『薬』は、時にひとや世界を信じることが難しく思えるような時にでも、もう少しだけひとを信じてみたいと思えるような、もう少しだけ世界を信じてみたいと思えるような、そういう効果を及ぼすものになればいい。それは、何よりも自分自身のために、「世界を敵と見るためのものではなく、世界を味方と見るための薬」として効果を発揮するものになればいいと思う。

 

 

人生は続く。

 

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