前回の記事で「私は全国にりんごを配るサンタクロースになりたい」と書いた。すると、読者の方から「広島まで来て欲しい」という依頼が舞い込み、急遽、青春18切符【JRの鈍行乗り放題チケット】を購買した。熱海から名古屋までは五時間弱、名古屋から大阪まで三時間弱、大阪から岡山まで三時間弱かかった。あと少しで広島県に着く。途中、大阪の梅田でお会いした金髪の美女から、りんごを三個貰う。私は「逆じゃないか!」と思ったけれど、金髪の美女は「いいの、いいの」と譲らない。私は、ありがたくりんごを貰う。女性と別れた後に入ったタリーズの店員さんの接客が非常に素晴らしかったので、りんごをひとつあげる。珈琲を飲む。メールの返信をする。店を出る。りんごをかじりながら街を歩く。曇天の空から、ふと、太陽が顔を出す。いい風が吹く。りんごを食べながら人混みの中を歩いていると、どうしてなのだろうか、俺はまだ戦えるという感覚になる。
【過去記事】サンタクロース、現る。 - いばや通信
奈良在住の方と広島在住の方から「お話会をやりたいのですが大丈夫ですか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。山口在住の方から「母親の故郷のりんごが家にあるのですが、広島まで届けに行ってもいいですか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。車中泊をしながら全国各地を移動しているカメラマンの女性から「明日、ちょうど広島に行くので一緒にご飯を食べませんか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。台湾の高雄在中の男性から「交通費は負担をするので、台湾にも来ていただけますか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。イタリアのミラノ在住の女性から「いつかミラノにも来てください!」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。私は、りんごを配る以上に、りんごを貰っている。なんだかもう、誰がサンタクロースなのか、プレゼントの概念とは何か、訳がわからなくなる。訳がわからなくなることが、私は、嫌いではない。ああ、そうだ、自分は「訳がわからないこと」をやりたかったのだ。どのようになるのか予想がつくことではなく、どのようになるのかまるで予想がつかないことをやりたかったのだ。
【12月16日】坂爪圭吾サンタさんを囲んでお話会
【12月17日】「坂爪圭吾さんを囲んでクリスマス会に集まれっ」
【12月14日-25日】わたりサンタ 〜ペイフォワード的なサムシング〜
「訳がわからないこと」をやろう。
タリーズの無料Wi-Fiを拾い、ツイッターのアプリを開くと、私の友達の嘉向徹の身体ありがとう君が以下のようなツイートをしていた。彼は、友人の保科亮太さんと一緒に『チームゼロ』という活動をしている。彼らは、基本的に、慢性的な金欠のど真ん中にいる。しかし、慢性的な金欠のど真ん中にいることを言い訳に何かを諦めるということがないので、お金がないままでいろいろなことをやってしまう。その瞬間、彼は、文字通り無一文の状態で台湾の高雄に飛び込もうとしていた。
高雄へと出発する直前、財布の中身が91円になる。成田空港へ向かう道中、素寒貧になることがわかった時は変な頭痛もあったけれど、募金箱に残りのお金を入れ財布が空になった瞬間、周囲の空気感がガラっと変わった。#ゼロセミナーシネルテンクニ
— 嘉向徹の身体ありがとう (@toru_kamuki) 2016年12月14日
周囲の空気感がガラッと変わるあの瞬間、いよいよはじまるのだなと背筋が伸びるあの感覚、大袈裟な言葉で言えば「生きていることの実感」が伝わってきた。次に、私はフェイスブックのアプリを開く。嘉向徹の身体ありがとうさんの相棒でもある、保科亮太さんの投稿が目に入る。保科さんは、現在「一郎一作」というイベントを自主的に敢行している。自分を0円【無料】で放出し、みなさまを労りながら各地を巡るという内容の試みになる。
【イベント詳細】【team-0/一労一作 vol.1】
そこにはこのように書かれていた。
私は「このひとたちは最高だな」と思う。彼らは、基本的にあらゆる依頼を0円で受ける。そのため、金銭的なメリットを受けることは皆無に近い。その代わりに、カネ以外の何かを受けることが頻繁にある。嘉向徹の身体ありがとう君は、一年前、台湾の高雄に家が欲しいという願望だけを持って実際に高雄に行った。現地で「無料の家が欲しいのですがどうすればいいですか」と台湾の人々に聞きまくった結果、奇跡的に「うちのビルの三階がガラ空きだから、自由に使っていいよ」ということになり、台湾で自由に使える空間を獲得した。そんな彼らが、いま、一番アツいと認める男が、三重県の限界集落に暮らす柳林裕君だ。
私は、この文章を読んだだけで柳林君の虜になってしまった。その柳林君が、あろうことか12月24日に神奈川県江ノ島海岸で開催される「大相撲Xmas場所」に命の湯【五右衛門風呂】をつくりに来てくれるらしい噂を入手した。俄然、24日が楽しみになった。私は「パッと見、何がしたいのかわからないひとたち」の存在が好きだ。彼らの生き様に触れると、私は、もりもりっと元気になる。連日の移動で疲れた身体に、何度でも歩き出すための力が宿る。イヤホンを取り出して、BLANKEY JET CITYのSEA SIDE JET CITYを聴きながら、梅田駅の街中ですれ違う人々に怪訝な表情をされながらも、りんごを囓る。
【イベント詳細】大相撲Xmas場所 in 江ノ島海岸
『慈悲』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、中村元著作『慈悲』です。私にとって、わたり文庫当選者の方に本を送るための作業(宛名を書き、本を包み、軽い手紙を添えるなどの作業)は、ある種の贖罪みたいな感覚になることがある。うまく言葉にできないのだけれど、私は、発送の作業を通じて「簡単に調子に乗る自分の調律をしている」ような感覚を覚える。すべてのひとに返信をすることができていないことが非常に申し訳ないのですが、こうして「読みたいです!」と毎回連絡をくださる方々がいるということは、ほんとうにありがたいことだ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※
苦難多きこの世にあって人々が明るく楽しく生きてゆくためには、他人に対する暖かな思いやりと心からの同情心をもたなければならない。貧しい生活でも暖かな共感のただよっているところは、心ゆたかであり、楽しい。この心情を仏教では「慈悲」として説いている。この観念はかつては神道や一般文芸にもとり入れられ、日本人の心性に大きな影響を与えたものであった。それは単に過去のものではなくて、未来の人類のために指標としての意味をもつであろう。
慈悲の実践はひとが自他不二の方向に向かって行為的に動くことのうちに存する。それは個々の場合に自己をすてて他人を生かすことであるといってもよいであろう。もしも単に自己を否定するというだけであるならば、それは虚無主義とならざるを得ない。これは現代における有力な思想傾向となっているが、自他不二の倫理はそれの超克をめざすものである、と言ってよいであろう。それは個別的な場合に即して実現されるべきものであるが、しかも時間的・空間的限定を超えた永遠の意義をもって来る、それは宗教に基礎づけられた倫理的実践であるということができるであろう。
かかる実践は、けだし容易ならぬものであり、凡夫の望み得べくもないことであるかもしれない。しかしいかにたどたどしくとも、光りを求めて微々たる歩みを進めることは、人生に真のよろこびをもたらすものとなるであろう。ー 中村元『慈悲』【講談社学術文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
「温もりに触れたい」のだ。
私は、初対面の方々に「今世の調子はどうですか?」と尋ねることがある。今世の自分は、どうしてなのか意味不明な生き方をしているひとに強く惹かれる傾向があって、自分自身もあまりよくわかっていない生き方を現在もこうして続けているのですが、あなたの今世はどうですか?いい感じですか?いやな感じですか?ちょっとだけ停滞気味ですか?的な意味合いを含めている。私自身は、前世や来世というものの存在を絶対的に信じることができている訳ではないのだけれど、もしかしたら前世や来世があるかもしれない(現在とは、連綿と続く永遠の流れの中のほんの一瞬でしかない)という前提に立つと、今世の自分【現在の自分】を(ちょっとだけ余裕を持って)眺めることができる。
昨日、本屋に立ち寄ったら「ああ、楽しかったと思って死にたい」的なタイトルの本を目にした。このタイトルを見た瞬間、私は、非常に傲慢な感想になるかもしれないけれど「俺はすでにそう言えるな」と思った。自分から積極的に死にたい訳ではないけれど、既に、人間の一生分の密度を生きてきたような謎の感覚がある。それなのに「まだ生きてもいいのですか!」と、おまけのような日々に嬉しくなる。稀に、老後の心配をしている同世代の方々と出会うことがあるが、多分、私は既に老後に突入しているのだと思う。この瞬間は既に余生であり、言い換えるならばボーナスタイムのようなものである。既に人間の一生分を生きたというのに、まだ、これからも生き続けることが許されている(既に大量の素晴らしい出会いに恵まれてきたというのに、まだ、これからも素晴らしい出会いに恵まれ得る)ことの幸運を思う。
馬鹿にされてもいいし、理解されなくてもいい。失敗をしてもいいし、傷つけられてボロボロになってもいい。打率は1割程度でもいいし、24時間の間の23時間はクソだったとしてもいい、ただ、あの瞬間は最高だったなと思える瞬間の光を見たならば、紛れもない、そのひとは「今日の勝ち組」だと思う。これからを生きていくためには金銭や資格や世間的な肩書きなどが必要に思えることもあるだろうけれど、「生きたいと思う」ために必要なものは、多分、愛情とか慈悲とか温もりと呼ばれる類のものだと私は思う。嘉向徹の身体ありがとう君や、ほしなさんや、柳林君の生き様には、人間的な温もりを覚える。その温もりが、私の心を嬉しくさせるのだろう。今回の写真は、愛媛県在住の女性が送ってくれた虹の写真だ。虹は「夢が叶う前兆」を意味するらしい。すべてのひとにとっての夢が、今日、素晴らしい形で叶うような1日になればいいと思う。最後に、柳林君の詩を勝手に引用して終わりにします。大事なものは、多分、人間的な温もりだ。私達は生きていて、いま、この瞬間も、体の中に温かい血が流れている。生きているものには温もりがあって、同じように、誰かにとっての温もりになることができる。
自分はダメな人間だと思うことは、誰かの悪口を言うことと同じくらい、否定的な力を生み出してしまう。多分、自分との関係も人間関係であり、自分を悪く言うことは「自分が自分自身と戦ってしまっている」ことなのだと思う。まずは、自分との戦争を終わらせること、平和な関係を結ぶことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月13日
なあ、友よ、笑おうや。
おめえは今、しんどいのかもしんねえ。
でもとりあえず、笑おうや。
おれらに出来るのは、それぐらいのことだろう?
昔からそれしか、出来ねえだろう?
だから、なあ、笑おうや。
心がすさんでもええ。体がボロボロでもええ。
それでも笑うのはやめちゃいけねえ。
俺らの取り柄はそこしかねえ。
だろう?違うか?そうだろう?
泣く時だって、あるかもしんねえ。死にたい時も、あるかもしんねえ。
おれにはおめえの苦しみは、
全然さっぱりよくわかんねえ。
知りたいけれど、よくわかんねえ。
だって、それは、言っとくけどよお。
おめえさんだけのもんだから。
おめえが大切にしとかなきゃ、
なんねえもんだと思うんだ。
苦しい時も、泣きたい時も。死にたい時も、消えたい時も。
それは、おめえだけのもんなんだよ。
だから、大切にしなきゃなんねえんだよ。
それらを全部、ひっくるめてよお。大声出して、笑おうや。
おめえが笑えばおれも笑う。おれが笑えばおめえも笑え。
笑い、笑って、笑い合って、そのままぐっすり、眠ろうや。
なあ、友よ、だからよお。死ぬまで一緒に笑おうや。
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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