寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。
玄米を炊いて、味噌汁をつくる。基本的な食事は毎日これになる。数日前、横浜在住の方からラゴスティーナの圧力鍋を頂戴した。玄米を圧力鍋で炊けたらどれだけ素晴らしいだろうかと前から思っていたので、温かな心遣いがほんとうに嬉しかった。圧力鍋で炊き上げた玄米を炊飯器に移して、酵素玄米を作る。私は、多分、健康志向なタイプの人間ではないと思う。ただ、家のない生活をはじめた頃から、自身の所有物を最低限度に抑えるようにしていた。服は基本的に三日分に絞ったために、今日、何を着るのか悩むことはない。同じような理由で、料理も「玄米と味噌汁に絞る」ことで、選択肢が多すぎることのストレスから自由になれた。家にある食材は、芋も大根も木耳も胡麻も納豆もかつお節もブロッコリーも生姜もにんにくもすべて、味噌汁の中にぶち込む。食材が何もない時は、具のない味噌汁を啜る。
味噌汁をつくっている時間は、軽い瞑想状態にはいる。私は、この時間が好きだ。過去に統合失調症と躁鬱病と椎間板ヘルニアを同時に患った際に、落ち込んだ精神を向上させるためには「ものをつくること、身体を動かすこと、自然に触れること」が効果的だと実感をした。いま、私は、この記事を熱海のデニーズから更新している。自宅からデニーズまでの移動時間は、徒歩で片道50分程度になる。家を出るまでは非常に面倒臭い気持ちにもなるが、歩き始めると途端に気持ちは清々しいものになり、軽い瞑想状態にはいることができる。昼には太陽が輝き、夜には月や星が輝く。この時期は道端に水仙の花が咲き乱れているために、空や、海や、星や、花に、歩き出すたびに心が慰められることもある。
【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信
空に、月があってよかった。
療養生活を送っていた頃、夜、ひとりで夜道を徘徊することが頻繁にあった。夜道を歩くことが好きだった訳ではなく、ただ、家にいることが辛すぎて「ここではないどこかに逃げ出したい」という気持ちが強まったからなのだと思う。何処かに行きたいという前向きな思いからではなく「ここにいたくない」という後ろ向きな思いから、私は家を飛び出し、目的もなく夜道を歩いた。家々の電気は消え、ただ、静寂だけが広がっている。私は、ふらふらとあてもなく歩き続ける。心の中では「さみしいなあ」と何度も何度もつぶやいている。買いたいものなど何もない癖に、ひとの気配に触れたくてコンビニにはいる。適当な品物を選び、レジに向かう。店員さんが「ありがとうございます」というのに対して、私も、自分なりに精一杯の気持ちを込めて「ありがとうございます」と返す。
夜道を歩きながら、月を見上げる。ああ、という心許ない声と一緒に涙が流れた。そんなこともあった。涙の理由は忘れてしまった。多分、どうすることもできない自分自身に対する不甲斐なさや情けなさが溢れて、涙になってこぼれたのだと思う。あれから数年間の月日が流れ、いま、私は同じように夜空の月を見上げている。あの頃に抱えていた不甲斐なさや情けなさは、少しは軽くなっているのかもしれない。ただ、自分の中に「寂しさ」があることは隠しきれない。家にいて、自分ひとりではどうすることもできない寂しさに包まれた時、私は夜道を歩く。夜空を見上げながら、私は「空に、月があってよかった」と思う。うつむきがちになっていた自分のこころに、月は、顔をあげる機会を与えてくれる。
寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。寂しさは、身体を動かすといいのだということを教えてくれる。寂しさは、ものをつくるといいのだということを教えてくれる。寂しさは、自然に触れるといいのだということを教えてくれる。寂しさは、紙とペンを用意して自分の気持ちを吐き出すといいのだということを教えてくれる。いま、私がこうして懲りずに文章を書き続けているのは、誰かのためとか、何かのためとか、もっともらしい理由がある訳ではなく、ただ、寂しいからなのかもしれない。寂しさとは、多分、幸せの対極にあるようなものではない。幸せと呼ばれるものがあるならば、その中に「寂しさ」は含まれていて、寂しさの中にも幸せはある【幸せの中には寂しさもある】のだということを思う。
逢初庵【あいぞめあん】
数日間、熱海の自宅【逢初庵】を開放する。クリスマスの時期と重なり、熱海の家には様々な贈り物が届く。新潟県村上市からは鮭の切り身と大量のいくら、大阪からは大量の小豆と無添加の味噌6袋と新潟産の餅、横浜からはラゴスティーナの圧力鍋や新潟産の玄米を過去に30キロ、茨城からは大量のほしいもが届いた。自分ひとりではとてもじゃないけれど食べきることはできないために、イベント開催などの機会を通じて、熱海に来てくれたひとと一緒に食べたり必要であればそのまま持ち帰ってもらったりしている。
【イベント詳細】わたり文庫@熱海
熱海に来てくれたひとは、みんな、口を揃えて「もっと大勢のひとが来ているのかと思いました」と驚く。 定期的にイベントを開催してはいるものの、それほど多くのひとが遊びに来ることは滅多にない。私自身も静かな環境を好むタイプの人間で、大勢のひとと一緒にいるよりは「少人数でじっくりと話す(あるいは、何もしない空間を共にする)」ことの方が好きだ。営利活動をしている訳でもないために、無理をしてまで集客や宣伝活動をする必要もない。ただ、何かしらタイミングのあったひとが、いつでも気軽に来ることができる機会や空間として、熱海の家をこれからも開いていけたらいいと思っている。
この前は、千葉県柏市から三森正道さんが遊びに来てくれた。三森さんと同じ空間を共にしていると、どうしてなのだろうか、自分のこころが浄化されていくような感覚を覚える。この時に感じている感覚は「自由」に似ている。自由とは、多分、どれだけ自我【エゴ】と呼ばれるものから自由になれているのかということなのだと、私は思う。「俺が、俺が」と肩に力がはいっている間はまだまだ(こうして懲りずにブログ記事を更新している自分の姿も、弱さの現れなのだと思う)で、自分が自然の中に溶け出している状態、大袈裟な言葉で言えば自分を殺している状態【自我を超えて大きな何かに身を委ねている状態】が「自由」になるのではないだろうかと思う。
【参考記事】驚愕の三万円!! - みっつ通信
『ロックンロールバイブル』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アーサー・ホーランド著作『ロックンロールバイブル』【著者サイン付き】です。こちらの本は、実際にアーサー・ホーランドさんの支援者となって活動をされていらっしゃる方から「わたり文庫に是非」と温かな眼差しと共に託された、記念碑的な一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、岡山県にわたりました ※※※
追い掛けることはない、自分に自信を持つことだ。
人はどうでもいい、あなたがどうあるかだ。
比較して己を蔑むことはない。人が何をしているのかはどうでもいい。
自分が何をすべきなのかを落ち着いて考えてみることである。
人を気にすることよりも、もっと自分を大切にすることだ。
人があなたの人生を生きてくれるわけではない。
あなただけがあなたの人生を生きるのである。
人に裏切られることはある。されど憎しみを耕さないことだ。
「この野郎…」と頭に来ることだってある。しかし恨みを育てないことだ。
「やられたら、やり返してやる」と向きにならないことである。
何もよいことは生まれて来ない。
「復讐してやる…」と無駄なエネルギーを使わないことだ。
誰にも会いたくない気持ちはわかるが、
孤立して己の殻に閉じこもってしまうのは健康的ではない。
ちょっと静まってみれば、話せる人がいることに気付けるものだ。
片寄った自己解釈だけの世界に閉じこもることのないように…。
自分だけが問題を抱えているのではなく、
誰であれ大小を問わず、何らかの課題を背負いながら生きている。
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。
自分の中にある寂しさを振り払おうとするのではなく、ただ、自分の中には寂しさがあるのだと認めること、自分の中にあるものを否定するのではなく肯定をする姿勢が、揺れ動くこころを落ち着かせるのかもしれない。寂しさを失くすことはできないけれど、寂しさと友達になることはできるような気がする。「俺が、俺が」となるほどに孤立した寂しさの溝に嵌ってしまうが、もしかすると、自分と同じ寂しさを同じように抱えているひとが、世界の何処かにいるのかもしれないと思いを巡らせることは、微かでも、目には見えない繋がりを生む。寂しさは、同じような寂しさを抱えるひとと出会う時、温もりに変わり得る。
雲ひとつない、黄金色の朝日だ。 pic.twitter.com/ixiT3vCwGb
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月27日
大切なことは、周囲の人間に理解を求めることよりも、天に恥じない生き方をすることなのではないだろうか。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が見る誠実さのど真ん中を生きることではないだろうか。難しい場合もあるけれど、他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になることではないだろうか。自分の外側に変化を求める【口先を変える】ことよりも、自分自身が変化になる【行動を変える】ことではないだろうか。寂しさは、自分自身と対話をする機会を与えてくれる。そして、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。寂しさは「静けさ」を運ぶ。そして、静けさの中で「自分はひとりではない」のだということを学ぶ。寂しさは、足りないものばかりに目を向けていた自分に、もう一度、足りているものに目を向ける時間を与えてくれる。
朝の森を散歩することや植物の世話をすること、音楽を奏でることや静かな環境で文章を綴ること、珈琲を飲みながら読書をすることや沈む夕日を眺めること、ひとと話をすることや虫の声を聞きながら夜の空を眺めること、静かな充足感を与えてくれる者達は、どれもお金のかからないものだった。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月23日
寂しさや悲しみと呼ばれる感情は、幸福の対極にあるものではなく「幸福の中にあるもの」ではないだろうか。寂しさや悲しみを通じて、自分がどれだけの恩恵の中で生きているのかということ【生きてきたのかということ】を思い出す。そして、何か大きなものに感謝をしたくなるような、何か大きなものに祈りたくなるような気持ちになる。夜道を歩く【夜道を歩くことができる】ということ。ものをつくる【ものをつくることができる】ということ。自然に触れる【自然に触れることができる】ということ。感謝と幸福は、多分、切り離すことはできない。私は、感動やよろこびを通じてだけではない、寂しさや悲しみの中からも『何か』を掬い出そうとしているのかもしれない。自分が消えてしまいそうな寂しさも、胸を切り裂くほどの悲しみも、すべては幸福の中にあるものだということを、掬い出そうとしているのかもしれない。
自分の中にある寂しさを振り払おうとするのではなく、ただ、自分の中には寂しさがあるのだと認めること、自分の中にあるものを否定するのではなく肯定をする姿勢が、揺れ動くこころを落ち着かせるのかもしれない。寂しさを失くすことはできないけれど、寂しさと友達になることはできるような気がする。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月27日
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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