いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

贈与の霊。

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広島駅に到着をする。りんごを届ける約束をしていた男性と合流をする。りんごを渡す。男性は喜ぶ。これは御礼ですと言って、iPhoneの自立型充電器【純正】と広島県までの交通費+αがはいっている封筒を取り出す。私は驚き、私は喜ぶ。なぜ、このような愚かな企画に、自腹を切ってまで参加(?)をしてみようと思ったのかと尋ねる。男性は答える。これは僕にとっての『遊び』みたいなものです。りんごを配るためだけに何処にでも行くひとが実際にいるということがなんだか愉快で、あとは、坂爪さんみたいな生き方をしているひとの存在はいまの世の中に『余裕』を生み出していると思うので、これからも生きていて欲しいと思ったからです。

 

【愚行】わたりサンタ 〜ペイフォワード的なサムシング〜

 

昨夜は、広島市内で開催されたお話会に出演(?)した。主催者の女性Y様は、この日のために豪華なホテルを二泊分予約をしてくれた。私は、数日前の記事に「ズボンに穴が開いてしまってこのままだと短パンになってしまいそうだ」的な内容を書いた。それを見てくれていたY様は、ホテルを予約してくれたばかりではなく「もしもよろしければ坂爪さんにズボンをプレゼントするサンタクロースになりたいのですが、ご迷惑ではないでしょうか?」という女神過ぎる慈愛を与えてくれた。私は、一応、みなさまにりんごをお配りするサンタクロース役として広島県に来た。それなのに、私は、与える以上に貰っている。この現象はなんなのだろうか。自分から先に無条件で与えていこうとする態度を示すと、結果的に『与える以上に与えられる』ことがある。この現象の名前はなんなのだろうか。

 

贈与の霊。

中沢新一著作『純粋な自然の贈与』【講談社学術文庫】という本の序曲に、印象的なエピソードが紹介されている。非常に長い文章になるけれど、示唆に富んでいるように見えるので、まるごと引用します。

 

アメリカ大陸に渡ったピューリタンたちは、そこで原住のインディアンと出会った。ピューリタンたちの目には、インディアンがひどく交際好きで浪費を好む人間のように見えた。インディアンは、たくさんの贈り物を交換しあい、もらったら必ずお返しをしなければ気のすまない人たちだ。倹約家で、こつこつとためるのが好きなピューリタンには、そういう「インディアン・ギフト」の習俗が、ひどく異様に見えたのである。

 

ところが、インディアンのほうでは、ピューリタンのその倹約家ぶりが、信じられないほど以上なことに、思えたのだ。たとえばこんなことがあった。白人の行政官がインディアンの村を訪れた。彼を歓待するために、インディアンは彼にみごとなパイプを渡して、煙草を吸うようにとすすめた。そして帰り際、友情の贈り物として、このパイプを行政官は受け取ったのである。その数カ月後、インディアンはこの人好きのする白人のオフィスを訪問した。そして、その居間の暖炉の上に、あのパイプが飾ってあるのを見て、はげしい衝撃を受けたのである。「白人はもらったもののお返しをしない。それどころか、もらったものを自分のものにして、飾っている。なんという不吉な人々だ」

 

インディアンの思考法では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡ししたりして、霊を動かさなければならないのである。「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから、贈り物は自分のものにしてはならず、蓄積してはならず、たえず動いていくものでなければならないのである。

 

ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾ったり、博物館に収めたり、貯めたりする。自分の身のまわりに集まってきた「贈与の霊」の力を、彼らは蓄積し、使わないままに所有してしまった。無駄遣いの嫌いなピューリタニズム(その経済学的な別名はキャピタリズムである)は、大地を循環する「贈与の霊」の動きをとめることによって、自分の富を増殖させようとしていたのである。インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。大地と人のあいだを動き、循環していたなにものかが、とどこおり、動きをとめていく。そのかわり、そこには個人的な蓄積が、将来の増殖を生むという、別種のデーモニックな力が、徘徊していくことになる。それは、人々の物質的な暮らしは豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら、人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。

 

私は「贈与の霊」という言葉を見た時に、ある種の電撃が走った。そして、先日の出来事を思い出した。京都府在住の男性から「いつもブログを楽しみに読んでいます。もしも大阪にあるアップルストアまで来ていただけるようでありましたら、iPhone7plusをプレゼントいたします」という連絡が届いた。しかし、その時点で既にiPhone7plusを手にしていた私は「誠に申し訳ないことに既に手に入れてしまいました!が、貴方様のお気持ちが非常に嬉し過ぎてたまらないので、大阪まで行って感謝の気持ちを実際にお会いして伝えたいと思っているのですが、ご都合はいかがでしょうか!」という返信をした。その後、男性から「いえいえ、わざわざそんなことをする必要はありませんよ。iPhone7plusくらいの値段のもので、もしもこれから何か必要になった時は、お力になれると思いますのでその時にまたご連絡をください」という神がかり的な返信が届いた。

 

【過去記事】みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。 - いばや通信

 

「与える喜び」を与える喜び。 

私は「なんてひとだ!」と感動をした。そして、いま、自分にとって必要なものはあるだろうかと考えた。先日、草履が大破した。これを機に(生きているだけでトレーニングにもなる)一本下駄が欲しいなあと思った。ちょっとお洒落で高級な眼鏡が欲しいとも思った。モチモチの玄米を家で炊くために圧力鍋が欲しいとも思ったのだけれど、同時に、何かが違うと思った。こんなもののためにひと様のお金を使うのは何かが違う(それほど優先順位の高いものではない)ように感じた。

 

が、発想を変えて「10万円分の花か本か何かを一気に購買して、それをクリスマスプレゼントとして欲しいと言ってくれるひとに対して無料で配りまくる」ということを閃いた。ら、テンションがあがった。私は、期間限定でサンタクロース役を務めるイベントを通じて「ひとに何かを与えるということは、これほど楽しいことなのか!」ということを思った。私が用意できるプレゼントは、りんごか花か小冊子程度の非常に安価なものばかりであるにも関わらず、時には涙を流して喜んでくれる方もいる。それが嬉しかった。この時、もしかしたら我々の間に「贈与の神」が降臨しているのかもしれないと思った。

 

私は、与えることは得意だけど受け取ることは苦手だ。しかし、受け取るひとがいなければ、与えるという行為【与える喜び】が成立しない。だからこそ「ひとの好意を断ることは、時に『喜びを奪う』ことにもなるのだ」ということを痛感した。受け取る側と与える側に上下関係はなく、受け取る喜びもあれば、与える喜びもある。中沢新一氏の言葉を借りれば「人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する『贈与の霊』とともにある」のかもしれないと思った。

 

サンタを待つな、サンタになれ。

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新潟県村上市出身の女性から「この時期は実家で大量の鮭が獲れるのですが、坂爪さんはいくらが好きだと聞いていたので、12月25日に熱海に届くように送りますね!」という連絡が届いた。私は感動をした。最高のクリスマスプレゼントだと思った。同時に、私の中にある何かのスイッチが押された。私は「12月25日は一旦熱海に戻り、大量のいくらを食べたいひとは熱海に集まり、何かを熱海に送ってくださる方々にはそれを『ありがとうございます!』と全力で受け取り(余った食材は三森さんの家に贈り)、熱海からも、何かしらのサムシングを希望される方々に贈りまくる(たとえば、大量の「星の王子さま」を購買して読みたいと言ってくれたひとたちに贈りまくる)なんてことをしたらどうなるのだろうか、ということを思った。

 

【三森さん】まずはやる、まずは出す。 - みっつ通信

 

まだ、自分の中で考えがまとまっていない(ここまでの文章を読んで何か思うところがあった方々は、是非、お気軽にご連絡ください!)。感じていることは「サンタを待つな、サンタになれ」というインナーマッスルからの骨密度であり、クリスマスという素晴らしいこの時期に合わせて、何かこう「粋なこと」をやりたいと思う。同時に、粋なひとからのクリスマスプレゼントを全力で受け取っていきたいと思う。この点については、引き続き考察を深めて行きたい。キーワードは『贈与の霊』であり、また、何かを与える側にまわるときに是非とも気をつけておきたいことのひとつを思い出した。

 

それは「無目的、無条件、無制限に、執着が生まれる余裕もないほどに、徹底的に与えまくること【種を蒔きまくること】」だと思う。一粒や二粒程度ではない、何十粒も何百粒もとにかく種を蒔き続けることにより、自分でも忘れていた頃に突如咲き出す花がある。前に「私は数ヶ月前にわたり文庫の本を贈ってもらったものなのですが、どうしてもその時の感謝を実際に会った時に伝えたかったので、いま、こうしてお伝えできることがとても嬉しいです」という言葉をもらった。私も、この瞬間は最高に嬉しかった。喜びの種を蒔きまくることは、誰かのためだけではない、自分にとっても最高のサプライズプレゼントになる場合があるのだということを思った。

 

『純粋な自然の贈与』  

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、中沢新一著作『純粋な自然の贈与』です。著者曰く「人間に対する不信や、支配欲や、そしてなによりも流動するものへの恐れの気持ちがあるところには、贈与の霊の動きはおこらない。一言で言えば『死への恐れ』があれば、たちどころにそれは、見えないものとなっていく」。贈与は結びつけるエロスを、貨幣は分離するロゴスを持つ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

あらゆる宗教が、この贈与の精神を語りだしている。(中略)イエスもまた、贈与のことしか語らなかった。彼によれば、存在とはおしみなく愛を放出し続ける父なる神そのものであり、その愛の力は「聖霊」となって、生きとし生けるものの上に、注がれ続けているのである。神とは、命令を下したり、罰を与えたりする存在ではなく、まずだいいちに、贈与するものに、ほかならない。だから、人間はその無償の贈与者の愛にこたえて、この神を愛さなければならないのだ。イエスが商売を憎んでいたことも、聖書には記録してある。商売は、神がエロスでありロゴスであるその力によって、この世界に贈与しておいてくれるものを、人の世界に分離をつくりだす、売買の論理によって、変質させてしまう。売買から愛が発生することはない。そこで、イエスは、神殿に店を出している商人たちに、襲いかかっていったのだ。ー 中沢新一『純粋な自然の贈与』【講談社学術文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何者でもないからこそ、何者にでもなれる。

広島市内で出会った女性から「坂爪さんはカガミみたいな存在ですね。みんなが、坂爪さんを通じて自分を確認しているように思えました」という言葉をいただく。カガミだなんて、非常にありがたいお言葉だと思った。私は、自分のことを「からっぽな人間だな」と思う。これは悲観をしている訳ではなく、大仰な例えになるかもしれないけれどそれは老子の言うところの『無用の用』的なサムシングであり、私自身に素晴らしい考え方があるからでもなく、私自身に特別な才能や能力が技術があるからでもなく、ただ、私自身がからっぽであるからこそ周囲に理解不能な現象【空間を埋め尽くす謎の高速回転】が起きているように感じた。

 

昨夜、広島のお話会に『わの舞』という踊りをやっている男性が来た。男性は「現在の踊りは、踊り手とそれを見る観客といった風に、直線的な関わりになっている。しかし、盆踊りなどに代表される日本の舞踊は、踊り手と観客の間に境界線はなく、全体でひとつの円になって(中心に大きな空洞をつくる形で)踊る」と話していた。私は『中心は空洞である』というワードに、謎に、直感的に真理を感じた。私には、夢や目標や10年後にはこうなっていたいと思う理想の自分像みたいなものがない。お話会などで「夢も目標も使命感もやりたいこともありません【あるのはこの瞬間だけ】」みたいなお話をすると、多くの場合、驚かれる。驚かれた後に、ああ、そうか、別に夢や目標はなくてもいいのだとちょっとだけ安心をしたような微笑を浮かべる方々を見ることは多い。

 

誤解されると困るが、私は、夢や目標を持つことを否定したい訳ではない。夢や目標があった方が頑張れるタイプの方々は、おおいに夢や目標を持った方がいいのだと思う。私の場合は、今日の夢が明日の義務感になってしまう【夢や目標が重荷になってしまう】ために、そういう類のものを持てないでいるだけに過ぎない。先日、一通のメールが届いた。メールの内容があまりにも嬉し過ぎたので、最後に、こちらを全文引用して終わります。私は、まだ、自分が何者なのかがまったくもってわからない。わからないけれど、わからないならわからないまま、この「わからない」状態を楽しんで行きたいと思っている。

 

 

坂爪さんはじめまして、こんにちは。
他人のブログを熱心に読むタイプではないのですが、坂爪さんの、どんな人間も否定せず受け入れ暖めてくれる、山奥にひっそりとたたずむ温泉のような言葉たちにいつも元気をもらっております。
坂爪さんの手にかかると、言葉という原石が生命を吹き込まれ、生き生きと輝き始めるのがわかります。魔術師のようです。たしかに、言葉のもつ輝きに魅了される瞬間があります。
宇宙から地球人の偵察に来ている人だったりして、、なんて想像したら楽しいです。こないだ見たインド映画PKの主人公を思い出します(笑)
なにやら坂爪さんは現代の老子みたいだな、と密かに思っております。
空のスペースに価値があるというフレーズなんかは坂爪さんを体現しているような。
いつも空にして、開いているから、そこに新しいものがどんどん入ってくるんですね。
現代人は詰めすぎ、閉じすぎなんですよね、きっと。
老子の小難しい言葉を、英語から日本詩のように綴っていた加島祥造さんという方が大好きなのです。もし、読んだことがなかったら、彼の「アーユーフリー?」や「タオ」なんかを読んでくれたら嬉しいな、なんて思います。
私は世間でいう普通に馴染めず学校も嫌い、お金のために働くのも嫌い、いかに働かないで生きていくか、ばかりを考えるような奴で、しかしヒシヒシと感じる世間からの同調圧力に負け、なんとか、普通を目指して、30代前半まで徹底的に自分を殺して生きてきました。ずいぶん長い間、私という存在は誰かや社会が望む、部品の一部であったようです。
が、最近はもうできないこと、いやなことを頑張ることをやめました。
なかなか都合がつかずお話会に伺う機会を逃してばかりなのですが、、、
いつか生身の坂爪さんにお会いできることを楽しみにしています!
という感じで、今回のわたり文庫の中村元さんの慈悲を読んでみたいなーと思いました。
よろしくお願いします!

◯◯◯◯◯

 

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人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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