いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

何をしてもいいし、何もしなくてもいい。

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海外旅行中の日本人男性三人から声がかかり、クアラルンプールからランカウイ島に飛ぶ。カフェで合流をして、食事と飲み物をご馳走してもらう。海岸線を歩く。水着を買う。海にはいる。不思議な感覚を覚える。カフェで(言葉だけを使って)話をしている時よりも、同じ海の中で身体を動かしながら話している方が、深いコミュニケーションをとれている感覚を覚える。数年前、初対面のひとと真夜中の山を一緒に登る体験を通じて、物凄い速度で親睦が深まった記憶がある。夜光虫が輝く夜の海を一緒に裸で泳ぎ、すぐに仲良くなれたひともいる。「綺麗だね」と言えば「綺麗だね」と返ってくる、その思いの深さが、お互いの心を結びつけるのかもしれない。

 

ランカウイ島を離れてペナン島に飛び、翌日、シンガポールに飛ぶ。空港で日本人女性と落ち合う。タクシーに乗ってチャイナタウンに移動をして、チキンライスとアロエジュースをご馳走していただく。シンガポール最古の寺にあるカフェでお茶をしながら、様々な話をする。カフェを離れ、市街地周辺を一時間ほど歩き、フラトンホテルで解散をする。私は、フラトンホテルで次に約束をしていた方と会う。フラトンホテルのハイティーをご馳走していただき、様々な話をする。その後、チャイナタウンに再度戻って最後の予定の方々と合流をして、高級中華料理屋で蟹のビーフンなどをご馳走していただく。昨夜は蟹座の満月で、蟹をご馳走してくれた方は蟹座生まれだと話してくれた。顔を出したばかりの月が、紅く、大きく輝いている。その後、タクシーで空港に移動をして、いま、私はバンコクの空港近くにあるホテルの部屋から、この記事を書いている。

 

最大の観光名所は「人間」だ。 

呼ばれた場所に移動を続ける生活をしている。基本的な交通費や滞在費は、声をかけてくださった方々が手配をしてくださることもあれば、自腹で向かうこともある。予定が合う限り、何処にでも行くようにしている。いつからだろうか、自分で何かを決めるということが極端に少なくなった。それよりも「声がかかる場所に、声がかかるままに身を委ねて、丸腰で向かう」ことで、自分でも想像することのできなかった出来事に遭遇することをおもしろがりはじめるようになった。シンガポールに行くことが決まったのは36時間前、その数時間後に各種SNSから「シンガポールに行くのでお時間のある方はお会いしましょう」と告知(?)をした結果、4名の方々とお会いすることができた。すべてが初対面の方々ばっかりだけれど、同じ時間を過ごすことを通じて、私は勝手に仲良くなれたと思っている。シンガポールを再訪したいと思う理由が、私の中で4個増えた。最大の観光名所は、遺跡でもなければ南国の島々でもない、HUMAN【人間】だと思っている。

 

私は、私に会いたいと思ってくださる方々によって生かされている。なぜ、私に会いたいと思ってくださるのだろうか。理由は、ひとの数だけあるのだと思う。そのため、一概にこれだと言えることは少ない。ただ、私と同じ時間を過ごすことで『自分の中心に戻る』ことはできるのではないだろうか、と、思うことがある。私には、金もなければ仕事もない、世間的に見ればその日暮らしの放浪者のような生き方をしている。私には「私という肉体と精神」しかない。そのため、私は、私の存在だけを頼りに生きる。私には何もない。何もない自然の中で自分のこころをチューニングすることがあるように、何もない私の前で自分のこころをチューニングすることがある、などと思うことがある。そのためには、私自身が透明なものでなくてはならない。自分自身が濁っている時、鏡としての自分は、調律師としての自分は、機能を失う。

 

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情緒の扉【心】

岡潔の本を読む。そこには「如来はいつもましますけれど衆生は知らない。それを知らせにきたのが弁栄である」と書いてある。如来は目には見えないが、いつも人々に寄り添うように存在している。私たちはそのことを知らないで生きている。如来は、人間がどんな困難にあるときも人間の傍らから離れることがない。自分はそれを世に教えにきたのであるというのである。如来の働きをありありと感じるためにも人は情緒の扉を開かなくてはならない。その先にある悲願をめぐって岡はこう書いている。

 

真我の心は同体大悲である。これはひとの心の悲しみを自分の心の痛みのごとく感じる心という意味である。心とはここでは、情的に言えば、という意味である。 

 

情緒が開くとき、人は、他者の悲しみを自らの悲痛として経験する。世に悲しみを経験していない人などいない。悲しみは単なる嘆きの出来事ではなく、容易に分かり合えなかった者たちの間をつなぐ懸け橋になる。【解説・若松英輔

 

『一葉舟』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岡潔著作『一葉舟』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、シンガポールにわたりました ※※※

 

「人が現実に住んでいるのは情緒としての自然、情緒としての時の中である」西洋的な物質主義ではない、日本的情緒の大事さを説き続けた岡潔。その思想の根底には常に仏教の叡智があった。釈尊の再来と仰いだ山崎弁栄の言葉を辿り、芭蕉の句に日本古来の情を見、時に脳の働きにも注目しながら、情緒の多様な在り方を探る。数学研究での実体験や教育についての対話、仏洋行記も交え仏教への思索を深めた書。ー 岡潔『一葉舟』【角川ソフィア文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

変わるものと、変わらないもの。

何処の国に行っても、空には同じ月が輝いている。日本にはない景色に触れた時、その、変わる景色を前に「自分がいる場所だけが世界ではないのだ」と心が楽になることもあれば、変わらない景色を前に「遠く離れても、同じ世界を生きているのだ」と心が慰められることもある。小さなこどもたちは生命力を外側に放出するように明るく元気に飛びまわり、沈む夕日の周りにはひとびとが集まり、友愛の証としての微笑みがある。同じものを同じように美しいと感じ、同じものを同じように親愛の証としている「人間」がいる。国は違えど、文化は違えど、普遍的な部分は何処の国に行っても同じなのだということを思う時、私は、安心感にも似た気持ちを覚える。

 

ペナン島の屋台で、ミャンマー人の男性と出会った。彼は、日本語で私に「日本人ですか?」と尋ねた。その時の彼の笑顔が、ああ、人間はこんなにも穏やかな笑顔をすることができるのかというほどに、柔和で、温かく、まるで菩薩のような慈愛に満ちている笑顔で、私は、身動きができなくなってしまった。彼との短い対話を終え、私は、しばらく何もすることができなくなった。そして「ああ、今日はほんとうに素晴らしいものを見ることができた」という気持ちになり、やがて、ペナン島を離れてシンガポールに向かった。いま、私はバンコクにいる。今後の予定は何もない。しばらくはバンコクに滞在をしようか、日本に戻るか、それとも、ミャンマーなどの周辺国に足を運ぼうか。まだ、何も決めることができないでいる。

 

何をしてもいいし、何もしなくてもいい、何処に行ってもいいし、何処にも行かなくてもいい、しなければいけないことなんて本当はひとつもなくて、唯、自分で自分を縛ってしまうだけのことなのだろう。何かをしなければいけないだなんてことは、多分、ない。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。その中で、自分のこころが「いいな」と思う方向に、身軽に、軽やかに、タンポポの綿毛のようなフットワークで生きていくことができたなら、私のこころは「いいな」と思う。

 

 

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人生は続く。

 

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