生きろより「生きたい」
熱海の空は晴れ渡っている。大晦日だ。私の故郷は新潟県で、新潟の冬はひたすらに曇天が続き、太陽が顔を出す日は一ヶ月に一日分程度しかない。新潟では、雨や雪が止んだ状態を「晴れた」と言う。どれだけ頭上に曇天が厚く低く広がっていようが、雨や雪さえ降っていなければ「晴れた」と言う。新潟の冬は厳しい。だからこそ、実家の母親は「冬が厳しいから春を喜ぶことができる」と言う。美しい言葉だと思う。美しい言葉だとは思うけれど、この時期に、こんなにも晴れ渡る熱海の空を見せてやりたい気持ちにもなる。
最近思うことあれこれをまとめます。
1・『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』
大切なのは『GIVE&TAKE』ではなく『GIVE&GIVE&FORGET』だと聞いた。与えて、与えて、忘れてしまう。そうしたら、いつか忘れたころに何かの形で返ってくる。これが宇宙の法則だと言う。ひとつの大きな輪の中で循環を続けている、その流れを堰き止めてはいけないのだなと思う。 pic.twitter.com/kmSRCyO5cq
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月21日
熱海の家に暮らし始めて一年の月日が流れた。家も、家具も、調理器具も、服も、食材も、日用雑貨も、そのほとんどが貰い物で成立をしている。私には、自分がしてあげたことはいつまでも覚えているくせに、自分がしてもらったことはすぐに忘れてしまう傾向がある。この一年間の中で、何度、このことを思い出しては反省をしただろうか。自分がいま生きているということは、同時に、数え切れないほどの恩恵によって「生かされている」ことでもあるのだということを、私は、簡単に忘れてしまう。『GIVE&GIVE&FORGET』の精神は、必ずしも『与える側』に限った話をしている訳ではない、自分はすでに『与えられてきた側』であることを思い出させてくれる、非常に重要なあり方を教えてくれた。
【過去記事】『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』 - いばや通信
2・罪悪感や強迫観念を動機にしない。
何かをしなきゃいけないとか、何もしていない自分には価値がないという考え方からは、距離を置きたいと思う。罪悪感や強迫観念を動機にすると、自分の言葉、自分の作品、自分の佇まいに否定的な力が宿る。大事なことは、多分、肩の力を抜くことだ。落ち着いた後は「自然と何かをやりたくなる」ものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月8日
今年も様々なひとに出会った。私の生き方を見て「面白いですね」とか「変わっているね」とか「ぶっ飛んでいるね」などと言ってくれるひとがいるけれど、いまでは、私は『(別に変わったことをやりたい訳ではなくて)自分にとって自然なことをやりたい』のだと思うようになった。自分にとって自然なこと、それは他人との比較ではない自分の内側から湧いてきた思いに無目的に従っている時、ひとの目線からは「変だ」とか「間違っている」と言われることもあるけれど、私は、それを続けていきたいと思う。
3・チャーミングであること。
どれだけ知識が豊富でも、どれだけ大量のお金を集めても、どれだけ凄い武勇伝を持っていたとしても、多分、可愛げのある人間には敵わない。頑張るとか頑張らないとか、勝ち組だとか負け組だとかそんなことよりも「チャーミングであること」の方が、より一層のハッピーな日々を運んでくれるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月3日
深刻に考えすぎると、可愛げを失ってしまう。笑え。
4・こころを込める。
大切なことは「気持ちを込める」ことなのだと思う。日常的な家事とか会話とか何気ないメールのやりとりとか、いま、目の前にあることにこの日限りの気持ちを込めるということが、多分、いまを生きるということなのだと思う。今日の命は今日でおしまい、出し惜しみをしている場合ではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月12日
いまを生きるということは「いまが楽しければそれでいい」という投げやりで刹那的なものではなく、いまという瞬間に最大限の思いを込めるということなのだと私は思う。自分が込めた思いが種となり、時に、自分でも想像することのできなかった素晴らしい未来を運んでくれることがある。言いたいことを言う、やりたいことをやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。自分を出し惜しみしないこと、できる限りのこころを込めて、空間と瞬間に責任を持つこと。
5・自分との関係も人間関係。
自分はダメな人間だと思うことは、誰かの悪口を言うことと同じくらい、否定的な力を生み出してしまう。多分、自分との関係も人間関係であり、自分を悪く言うことは「自分が自分自身と戦ってしまっている」ことなのだと思う。まずは、自分との戦争を終わらせること、平和な関係を結ぶことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月13日
自分との戦争を終わらせることなのだと思う。
6・あなたは素晴らしい存在だ。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。 pic.twitter.com/o9cTxM0V1Q
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月19日
「愛」は使うほどに増えると聞いた。
【過去記事】あなたは素晴らしい存在だ。 - いばや通信
7・潔い我儘は最高の美徳。
好きなように生きても周囲に迷惑をかけることは意外と少なく、逆に、自分の感覚を押し殺してまで自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。帰りたい時は帰る、嫌なものは嫌だと言う、自分の欲求は勇気を出してはっきりと口にするなど、潔い我儘は最高の美徳だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月27日
好きなように生きているひとからは寛容的で前向きな力が、嫌いなことをして生きているひとからは懲罰的で後ろ向きな力を見る。私は、非常に甘っちょろい考え方になるのかもしれないが、すべてのひとが好きなことをやって生きていて欲しいと思う。「すべてのひと」だなんて大きな主語を使うのは、良くないことなのかもしれない。私は、いつか自分にもこどもができる時が来たならば、そのこどもには「好きなように生きなさい」と伝えたい。そして、私は、言葉というものを『自分のこどもに伝える時のように』使っていきたいと思っている。
8・いかに諦めてもらうか。
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じて好かれ続けるよりも「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれるひとと相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。自分のダメな部分を見せる瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月18日
まずは、自分が自分を許すことだ。
9・自分から先にこころを開く。
自分を必要以上に大きく見せようとしたり、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。自分から先に心を開き、静かに、ゆっくりと、落ち着いて話をすれば、多くのひとはしっかりと話を聞いてくれるものだと思う。言葉のひとつひとつに気持ちを込めれば、多分、何かを伝えることは難しくない。 pic.twitter.com/FJ0QYIANja
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月29日
自分は自分でしかないのだということを、いよいよ強く実感する一年になった。ひとと比べれば劣っている部分ばかりが目につくことが多いけれど、これが俺であり、俺はこれでしかない。自分にはこの身体しかなく、自分にはこの頭と、この声と、この足と、この精神しかないのだから、これで生きる。それを過剰に大きく見せようとする必要も、過剰に小さく見せようとする必要もない、ただ、俺は俺なのだと腹を据えて生きていればいい。それだけのことなのだと思う。自分は、不完全な人間かもしれないけれど、完全な自分だ。
『人間の土地』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグジュペリ著作『人間の土地』です。こちらの本は、昨日、神奈川県からお越しいただいた女性が「これは私の大好きな本です」とお持ちくださった一冊になります(その場にいた別の女性も「これは本当に素晴らしい本ですよね…私も、何回も泣きました」と話しておりました)。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※
゛我慢しろ…ぼくらが駆けつけてやる!…ぼくらのほうから駆けつけてやる!ぼくらこそは救援隊だ!〟サハラ砂漠の真っ只中に不時着遭難し、渇きと疲労に打克って三日後奇蹟的な生還を遂げたサン・テグジュペリの勇気の源泉とは…。職業飛行家としての劇的な体験をふまえながら、人間本然の姿を星々や地球のあいだに探し、現代人に生活と行動の指針を与える世紀の名著。ー サン・テグジュペリ『人間の土地』【新潮文庫】
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
10・好きなひとに好きだと言う。
生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。平易な言葉になるけれど、でも、これしかないんじゃないだろうかとさえ思う。ひとを好きになるということは、本当に素晴らしいことだ。
天地との繋がりが縦、ひととの繋がりが横、十字架は必ずしも人間の原罪を意味するだけではなく、縦と横に交差する『人間の繋がり』を表現していると感じた。ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。その結び付きが縦ならば、「よろこびを分かち合う」ことが横の結びつきを深める。自然の美しい風景の中から安らぎを得て、気づきを得て、落ち着きを得て、何かしらの教訓を得ることも素晴らしいことかもしれない。しかし、その素晴らしさは『分かち合うひと』がいてはじめて、何倍にも膨れ上がるよろこびを隠し持っているものなのではないだろうか。
論語に「朋あり遠方より来る」という言葉がある。今夜、私は、古くからの友人と一緒に年を越す。友人が熱海に来ると決まった瞬間、まさか、こんなにも自分のこころが喜ぶとは思わずに驚いた。ああ、俺はひとが好きなのだ(俺には好きなひとがいるのだ)と思った。好きなひとがいるということ、好きなひとに出会えるということ、好きなひとに好きだと言えることの中には、大袈裟な言葉で言えば「世界を明るく照らす力」を見る。好きなひとには好きだと言う。それだけで、充分、この世に生まれてきた甲斐があったのだと思う。
生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。平易な言葉になるけれど、でも、これしかないんじゃないだろうかとさえ思う。何かを好きになるということは、本当に素晴らしいことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月30日
人生は続く。
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