10個の偽物より、ひとつの本物を。
東京から広島まで自転車で行く。静岡県の三島市まで来た。三日目の今日は静岡駅を目指す。宿はない。熱海から函南に抜ける峠が地獄で、汗が冷えて全身が凍えた。手先が痺れて、タイピングが器用にできない。道中、隙あらば出会う方々におはなを届けたい。予算は三万円。食費をけちるためにナッツ類をカバンに詰めて、ちょいちょいつまみながら走る。自転車旅のようなものは未経験なので、いろいろと新鮮で勉強になる。素足で出発をしたことと、手袋をしないで出発をしたことは失敗だった(あとで軍手を買う)。
【追記】今月の携帯データ残量がゼロになりました。ラインモバイルを使用しているため、LINEからのご連絡に限り24時間確認できます。何かありましたら、LINE(LINE ID ibaya)よりご連絡ください。
銀座で生かされる。
初対面のひとと話すとき、わたしが重要視をしているのは「(過去の業績とか、そのひとの人脈や肩書きや知識なんかより)謙虚か、傲慢か」なのだと思う。先日、銀座で食事会に招かれた。食事会の席には、大概よくわからなひとがいる。なんだかそんな感じのひととなんだかそんな感じになり、わたしはなにも話せなくなった。そのひとが「普段はなにをしているのですか?」とわたしに問う。その声は、腹から出ているものではなく、頭から出ているものだなと思った。わたしは「(このひとに説明をすることは多分無理だから)なにもしていません」と答える。途端に会話が詰まり、場の空気感は最悪になる。
稀に、高級な食事をご馳走していただくことがある。が、正直に言えば美味しいと思ったことはあまりない。この金があれば一輪挿しが50本買えるとか、そういうことを考えてしまうわたしは貧乏性だ。もう、今世はこういう場所に足を運んではいけないのだと思う。食事会の空気が耐えられなくて、わたしは(これでもくらえ!的な感覚で)一万円札を置いて店を出ようとした。すると、主催者の方が「坂爪さんはゲストなのでお金はいりません」と言う。わたしは「いえいえ、いろいろと食べたので」と答える。主催者の方は「大丈夫ですよ」と言う。わたしは「そうですか…それではお言葉に甘えます!」と答えて店を出る。
一万円札を格好つけて出したものの、所持金三万円で広島まで行こうとしている人間にとっての一万円はでかい。正直、出さずに済んだことがうれしかった。そして「おれはこの程度の人間なんだな」と思った。気の合わないひとともうまくやりとりすることがおとななら、自分は死ぬまでこどもなのだと思う。傲慢なひとを見るとひねり潰したくなる。その後、いつもお世話になっている方が「自転車で広島まで行くんですね!これ、緊急時に使ってください!」と、はるばる銀座まで救援物資を届けてくれた。最高に嬉しかった。そして、ひねり潰したいとか思ってしまっていたおのれの醜さを恥じた。
引き寄せよりも『押し寄せ』
引き寄せの法則というものがあるけれど、いばや界隈では「押し寄せの法則」を採用している。引き寄せるとか言う前に自らを積極的に押し寄せ、そこで起こる事象を楽しむ。別に頼まれてもいないのに広島まで低予算で自転車で向かうのは、多分、なにかをすればなにかが起こるという予測不可能性をくらいたいからなのだと思う。これから数日間、宿もなにもきまっていない。雨の日はどうすればいいのかという知恵もない。ただ、やったことのないことをやることを通じて「自分の限界の幅」をわずかでも拡張できたらいいなと思う。
こんなことを言うと「おまえはゲンキンなやつだな」と思われちゃうかもしれないけれど、わたしは『ものをくれるひと』が好きだ。ごちゃまぜの家をやっていてもそうだけど、差し入れを持って来てくれるひとの存在は爆裂的にありがたい。ものをもらえることも嬉しいけれど、そこに込められた気持ちがうれしいのだ。どうしたって、こういう生き方(?)をしていると「坂爪さん!なにか答えを教えてください!」みたいな感じで、くれくれモードのひとと出会う機会は多い。そんななか、なにかを与えようとしてくれるひとにある『自分から先になにかを与えようとする姿勢』が好きなのだと思う。
そして、安直かもしれないけれど「なにかをもらうと、こっちからもなにかをあげたくなっちゃう」的な気持ちになる。ものを贈ると言うことは、多分、人間関係のはじまりである。なにかを一方的に受けているばかりでは、そのサークルの中に加わることはできない。自分にできることを差し出すこと。その「贈り物」を通じて、自分が生きたいと思う世の中のサークルに加わること。私の場合、それが『おはな』であり『言葉』であり『自分自身』だったりするのだと思う。自分にできることを差し出すこと。そして、相手から差し出されたものをしっかりと受け取ること。それが『生きる』ということなのかもしれない(というのは言い過ぎかもしれない。もしかしたら全然違うかもしれない)。
わたり文庫『カラフル』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、森絵都著作『カラフル』です。こちらの本は、内容の素晴らしさもさることながら、わたしの手元に届くまでの流れも素晴らしいものでした(いただいた手紙をご紹介させていただきます!!)。どうしてなのでしょうか、いま、この記事を読んでいるあなた(そう、あなた!)に猛烈に感謝をしたくなりました。諸々の流れの中で、無限の網の目の中で、さかつめけいごは本日も生かされています。これもひとえに、あなたの存在があってこそ【「わたしはあなたの代わりに生きていて、あなたはわたしの代わりに生きている」的なこと】なのだと思います。こちらの本をご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※
坂爪さんへ
こんにちは、◯◯と申します。
いつも坂爪さんのブログを読んで、坂爪さんが紡ぐ言葉に癒されたり、気づかされたり勇気をもらったりしています。
今回は本を一冊同封させていただきました。11月1日の記事で「死ぬまでに何度も読み直したいと思う本」の話をされていて、私だったら何の本だろうと考えた時に、すぐに森絵都さんの「カラフル」が思いうかびました。この本を読んで心が少しかるくなったのと同時に、前向きになれて、まわりの人達に感謝したい気持ちになりました。
大人が読んでも楽しめますが、主人公と同年代の中高生に読んでほしい本です。黄色い表紙もとても好きです。誰かに読んでもらいたいと思い同封しました。それから、趣味で作っているしおりとブローチも同封させていただきました。もし、使ってくださる方がいましたら、その方にお譲りします。よろしくお願いいたします。体調不良が続いているそうでとても心配です。はやく治りますように。
これからも坂爪さんのブログや活動を楽しみにしています。
少しですが切手も同封させていただきました。使っていただけるとうれしいです。それでは失礼いたします。
2017・11・6 ◯◯より。
10個の偽物より、ひとつの本物を。
10個の偽物より、ひとつの本物を持ちたいと思う。どうでもいい10人の知り合いよりも、ひとりの友達を大事にしたいと思う。わたしがブログを書く理由、わたしがおはなを配る理由、わたしが予測不可能性に賭ける理由、多分、それは「そこから発生するコミュニケーションを楽しみたいから」なのだと思う。10個の偽物より、ひとつの本物を持ちたいと思う。高級料理についてあれこれウダウダ言ったのも、わたしにとって重要なのは人間のこころであり、話題のメインが料理のことばかりになってしまって「こころの部分」から離れて行くことが嫌なだけなのかもしれない。
前回の記事で「何もしないで死ぬことも偉業」ということを書いた。生きていることが自然であれば、死ぬこともまた同時に自然である、だから死ぬことを否定的に考える必要はないのではないだろうかということを書いた。あらゆる恐れがなくなったとき、ひとは愛することしかしなくなるという言葉を聞いた。最大の恐れは『死』だと思う。逆に言えば、死ぬことに対する恐怖が消えた時、生きることは結構気軽な旅路になる。生きろ【生きなければいけない】と言われると人生に対する緊張感が生まれる。生きてもいいし、死んでもいい【生きても死んでも大丈夫】と言われると、ふんわりと安らぐ。それなりに安らぐと「せっかく生まれて来たのだから(そして勝手に死ぬのだから)、生きている時間は、生きている時間を楽しもう」みたいな気持ちになる。
この記事を読んでくれた方からメールが届いた(最後に引用させていただきます)。私は、多分、一対一の関わりを大事にしたいのだと思う。誰かといる時のあなたではなく、誰ともいないときのあなた、常識とか世間体とか社会的な役割を全部取っ払った後に残る「あなた自身」に興味があり、その部分にこそコミュニケートをしたいのだと思う。裸の付き合いを望むなら、まずは、自分から裸になることだ。わたしは、このブログを通じて「わたしはこういう人間です」ということを綴る。そして、自分が自分であることを面白がってくれるひととの間に発生するコミュニケーションを糧に、やれ「峠の坂道が厳しい」だの「汗が冷えて凍える」だの「宿がなくて死んじゃう」だの「そろそろナッツ類がなくなりそう」だの時折グハグハ悶えながら、生きていく【押し寄せていく】のだろうなと思う。
清算してしまおう。過去を。少年時代が悪かったとか、家族とか、恋人とか、学校とか、そんなことは忘れてしまおう。過去や未来を気にすることより「この瞬間を遊べ」と言いたい。不幸も幸福も伝染をする。躍動的であることが、多分、最高の社会貢献になる。人生とは、すべてが自己責任の遊びだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年11月12日
圭吾さんこんばんは!濃いめの緑茶などすすりながら過ごすにはうってつけの夜ですね。のんびりと養生楽しんでいらっしゃるようで何よりです。改めまして…先日は曇天の体調のなかお時間をつくっていただいて本当にありがとうございました。同じ空間で同じ釜の飯を食べられたこともしみじみ嬉しかったです。今日のブログも。わたしにぴったりなタイミングで届きました。なんでだろう?すごくほっとしてしまって。そして圭吾さんにメールしたくなってこうして徒然と綴っております。圭吾さんがブログに書いてくれたこと(くれたというのも変な表現ですが…)いつもわたしの胸の真ん中にあることです。息子の出産。2011年の震災を挟むように両親の他界。いのちというものにこれまでにないくらい真剣に向き合った日々を経て、死というものは忌むものではないどころか祝福のようなものでさえあると。ごくごく自然な営みである、とすんなりと受け入れている自分がいます。死なないで、と相手に願うことはあくまでも自分の都合であるのだな、と。死んでしまいたいくらいキツくて重いものを抱えているひとにそれでも死なずにがんばれとは言えない自分がいます。あ、わたしも自殺斡旋とか尊厳死の是非とかを主張したいわけではなく、人生の終わり方についても本人が主役であって欲しいと思うだけなのです。産後まもなくの両親の他界や離婚。ひとから見れば決して幸せそうとは言えないわたしの人生だけど、涙することはあっても不思議と不運だと嘆くことはなかった気がします。うん。思うように生きてきた。幼い頃から漠然と、″何ものも妨げず、何ものにも妨げられず。すべてのものがのびやかであれ″という想いを抱いていて、それがわたしの世界観なのだと思うのですが、あきとさんの言葉の意味、わたしなりにわかる気がします。″何ものにも妨げられない″ こと多分これが多くの人が持つ自由のイメージかな?と感じているのですが、それだけじゃ足りない。″何ものも妨げない″相手への敬意と尊重がなければ自由は成り立たないのだと。そう思ってます。あきとさんにそう伝えたら「違う」って言われてしまうかもですが…笑本題のわたり文庫の件、「借りの哲学」ぜひぜひ読んでみたいです。わたしもこの世界に本当の意味で自分のものってひとつもない気がしているんです。手元にこの本がやってきてくれたら大切に読みます。ご縁があるといいな。風が冷たい夜です。あたたかくしてゆっくりとお過ごしてください。それでは、素敵な時間を♪◯◯◯◯
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
「何もしないで死ぬ」ことも偉業。
体調不良の恩恵を受けて、おじいちゃんのような日々を過ごしている。寝起きに珈琲を挽き、敬愛する藤岡弘さんに倣い「ありがとう」と囁きながらお湯を注ぐ。縁側で日光浴をする。庭を行き交う蝶々を眺める。午前中は軽い運動か創作か読書の時間に充てる。午後以降は、来客があれば対応をして、一緒に飯を食べたりお茶を飲んだりする。夜、月のあかりを眺めながら「月があるなあ」とか思ったりする。もう、30歳で定年でいいと思う。30歳以降は余生【ボーナスタイム】である。
人生はボーナスタイムである。これはわたしの好きな言葉【考え方】である。これまで、好きな言葉とか座右の銘を尋ねられてもまったく上手に答えられない自分がいた。これからは「人生はボーナスタイムである」と返したいと思う。生まれて来ただけで全員勝ち組、生きているだけでいい、それ以外はまったくのおまけみたいなものである。金持ちになるとか有名になるとかある種の功績を残すとか、全部、おまけ。今夜眠る場所があり、明日食うに困らない金があるならば万々歳であるとわたしは思う(12月3日に広島県の金輪島に伺います。お時間のあるかたはお会いいたしましょう!!)。
「何もしないで死ぬ」ことも偉業。
「何もしないで死ぬ」ことも偉業だと思う。生まれたからにはなにかをしなければいけないという考え方にとっ捕まると、なにもしていない自分【他人】を許せなくなる。中庸という言葉がある。個人的に「どちらでもいい」という状態が理想だと思う。なにかをしたければなにかをすればいいし、なにもしたくなければなにもしなければいい。多分、それだけでいいのだと思う。「そんなんじゃ生きていけないだろ!」と怒られてしまいそうだけど、わたしは思う。生きていけなくなった時は、潔く、死ねばいいのだと思う。
自殺を勧めている訳ではない。ただ「死を否定的に捉える必要はない」ということを思う。誰だって、当たり前のことだけれど「死にたくない」的なことを思う。だから、いやなことをやってでも生きようとする。生にしがみつき、死を忌避する。結果、それによって自由になれるのであればいいのだけれど「なんだか生きていることそのものがつらいものになっちゃった!」みたいになることは多い。『死ぬ』ことは自然の一部である。生にしがみつく【死ぬことが許されなくなる】ことの方がよっぽど不自然で、不自然な状態では「(流れに逆らう形になるから)生きていることが苦行になる」ことが多い。
「死ぬな!」と言われると(生きなくちゃいけない!となって)カラダがこわばる。「死んでもいいよ」と言われると謎の安寧を見る。繰り返しになるけれど、わたしは自殺を勧めている訳ではない。ただ、延命措置に未来はないということを感じていて、死んだように生きるなら、一回死んじゃえばいいんじゃないのかなと思う。死ぬとはつまり「社会的に死ぬ」ということで、普通を降りる【人並みをやめる】ということでもある。いま、ここまで書いて『死に損ないはゾンビになる』という言葉が脳裏をよぎってドキッとした。ゾンビにはなりたくないなあと思う。多分、そのための新陳代謝なのだと思う。
自分にとらわれると不幸になる。
ごちゃまぜの家でいろいろなひとと話す。楽しそうに生きているひともいれば、あんまり楽しくなさそうに生きているひともいる。人生を最高のテーマパークのようなものだと捉えるひともいれば、人生を修行の場所だと捉えるひともいる。生きていることを軽やかに【柔らかく】とらえるひともいれば、生きていることを重く【固く】とらえるひともいる。同じ現実を生きているといえども、その捉え方は百花繚乱、誰もが「自分の見たいように世界を見ている」のだと思う。
ごちゃまぜの家の管理人のあきとさんが「自分のことばかり考えているひとは、自由を行使できない気がする」的なことを言っていた。わたしは、理由はわからないけれど「なんだかそんな気がする!」と思った。自分のことばかり考えているひとは、自由を行使することはできない。ううむ、ううむ、自分でもどういうことなのかあまりよくわかっていないけれど、非常に含蓄のある言葉だなと思う(未だに自分の中で咀嚼は続いている)。
自分にとらわれると不幸になる。そういうことを思う。このさみしさをどうにかしたいとか、この欠落をどうにかしたいとか、そんな感覚に包まれているときは自由から遠い。自由とは「自分が消えている状態」だと思う。多分、創造性の中に自由はある。稀に、文章を書きながら「これは俺が書いているようで『何者かによって書かされている』のだ」と思うことがある。大袈裟な言葉で言えば、自分はただの触媒であり、神的なサムシングを「(自分を通じて)おろしている」状態。この瞬間、自分はただの道具になる。それは神を表現する道具であり、逆説的だけれど、自分が道具になることで「自分を最高レベルで満たすことができる」ある種の没我感を覚えることがある。
わたり文庫『借りの哲学』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ナタリー・サルトゥー=ラジュ著作『借りの哲学』です。本の帯に書いてある「私たちの持っているもので、人から借りていないものがあるだろうか?」という言葉にビビッと惹かれまして、先日購買をしたのですがまだすべてを読みきれていません。こちらの本で登場するシェイクスピアのヴェニスの商人のある箇所が非常に印象に残っているので、そちらを紹介をさせてください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※
『ヴェニスの商人』のなかでは、一箇所だけ、《本当の贈与》、すなわち《返礼を求めない贈与》について言及がされる。それは、美しく裕福なポーシャにバッサーニオが求婚したとき、自らの愛を示すために「箱」を選ぶ場面にあらわれている。ポーシャと結婚するために、求婚者たちは金と銀と鉛の箱の三つからひとつを選ぶという試練を受けなくてはならないのだ。
金の箱には以下のような文面が彫られている。
「我を選ぶものは、誰もが欲しがるものを得られる」
銀の箱にはこう彫られている。
「我を選ぶものは、自分にふさわしいものを手にいれることができる」
そして、鉛の箱にはこう彫られていた。
「我を選ぶものは、自分の持っているすべてのものを差し出さなければならない」
バッサーニオは鉛の箱を選んだのだが、そこに彫られた言葉は、《返礼を求めない贈与》 - つまり、「愛」の本質を語っている。愛することとは、「自分の持っているすべてのものを差し出す」ことにほかならないからだ。「愛」は見返りを期待しない。すべての打算や利益を超えたところに生まれるのである。これによって、バッサーニオはポーシャを得るが、それは《交換》を意味しない。問われているのは、自分が与えるかどうかだけだからである。
ナタリー・サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』【太田出版】
人生はボーナスタイムである。
ここまで書いて書き忘れに気づいた。わたしはいま、神奈川県横浜市にある菊名という場所で「ごちゃまぜの家」という営み(?)をしている。なぜこれをやりたいと思ったのか、多分、理由は500個くらいある。そのうちのひとつに「なぜ分ける?」というものがあり、こどもは保育園や学校に、障害者は障害者施設に、老人は老人ホームにぶち込まれる。だから「ごちゃまぜの家」という名前をつけた。全部ごちゃまぜでいいんじゃないだろうか。お前たちの問題はお前たちだけで解決をしろという風潮の世の中では、関係者にかかる負担が増える【社会的な分断が進む】。それならば「関係者の枠をふわっと増やせないものだろうか」と思うようになり、実験的にごちゃまぜの家を試している。
家とはなにか。家族とはなにか。ウルトラ引き伸ばして考えて見ると、生きとし生けるものは全員家族【地球が家】であるように思う。誰から生まれたとか、誰に育てられたとか、それらは些少な問題に過ぎない。たとえば誰かが犯罪を起こす。それをテレビとかで見たひとは「物騒な世の中ね!」とか「あんなひとになったらおしまいね!」とか言う。が、ウルトラ引き伸ばして考えて見ると、悪いのは犯罪者そのひとではなく「犯罪者を生み出すような世の中の土壌」であり、この土壌を構成しているのはわたしたちひとりひとりである(という点において、私は勝手に責任を感じている。いい人ぶりたいとかそういうことではなくて、なんとなく「他人事とは思えない」ことがある)。
人生はボーナスタイムである。そういうことが書きたかったはずなのに、話が広がり過ぎて着地点が見つからない。追い詰められた人間はおかしなことをするようになる。自分を見ていても思う。抑圧された魂は、必ずどこかで暴動を起こす。わたしには「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」くらいの考え方がちょうど良い。今夜眠る場所があり、明日食うに困らな金があるのであれば万々歳である。残された日々をどのように過ごすのか、それはひとりひとりの自由である。人生を苦行ととらえて修行を続けるもよし、今いる場所を天国ととらえて創造性の扉を全開にするもよし、好きなように生きたらいいのだと思う。恨みっこなしの一蓮托生である。わたしの場合は、自分のこころが「いいな」と感じる時間や空間や人間の記憶を、脳髄に焼き付けて散りたいと思う。
社会不適合者という言葉もあるけど、大量の鬱病患者や自殺者を生む社会に「適応する価値」はない。自分を責め、創造性に蓋をした瞬間に人生は詰む。駄目だ、駄目だとなっている人には「駄目じゃない!」と言いたい。己の感受性を貫くこと。自分を生きようとする人間を、多分、神様は困らせたりしない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年11月8日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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人生は、生き方ではなく「遊び方」の勝負である。
体調が激烈に悪化をして歩くのがやっと、昨日は喉がバキバキになってしゃべることもできなくなった。これは死ぬのかもしれないなあと思っていたら、ごちゃまぜの家に遊びにきたひとが「遺言を残すとしたら何をいいますか?」なんて不謹慎なことを尋ねてきたので、一瞬ピカッとしたあとに「恐れていることをやるんだよ」という言葉が脳天をかすめた。毎日ひとつ(できることならば瞬間瞬間)、自分が恐れていることをやるということ。それは好きな人に好きだと言うとか、抱きしめたい時に抱きしめたいと言うとか、そういうレベルで良いのだと思う。これは(それだけで人生は勝手に流動的でエキサイティングなものになっちゃう程度には)最高の教訓だなと思う。
明日5日(日)はごちゃまぜの家の見学ツアーがある。今後、ごちゃまぜの家の離れの部分が賃貸物件として貸し出される。この物件に住む最大の特徴は、多分、坂爪圭吾という人間が比較的近いところにいる(同時に、坂爪圭吾的な存在に興味を持ってくださる方々と広範囲で知り合うことができる)ことだと思う。これは、見る人にとってはメリットになると思うけど、見る人にとってはデメリットになると思う。残りの部屋数は三室。菊名駅から徒歩10分。死ぬほど閑静な住宅街のど真ん中にあり、広めの庭もあるから家庭菜園も超絶可能。ごちゃまぜの家はシェアスペースとして常時利用可能で、自由に使える車もあります。興味のある方は(明日は無理でもいつでも内覧可能なので)お気軽に遊びにいらしてください。
学校なんて行かなくてもどうにでもなる。
いま、高校二年生の女の子A様がごちゃまぜの家にいる。話を聞くと「学校では受験受験みたいなモードになっていて、大学に行かない人間はひとにあらず的な雰囲気もあるくらいで、わたしはそれにいい感じに洗脳されつつあると言うか周囲から刷り込みまくられているのだけれど、でも、冷静に考えると大学なんてまったく行きたいと思っていない自分がいるというかそもそもで勉強が全然好きじゃないということに最近気がついてしまったのですがどうすればいいでしょうか??」みたいな話をした。
A様は「(高校は)みんな同じ時間に来て、みんな同じようなことを考えている。そのことがなんだかものすごい狭くて、時折頭かおかしくなりそうになる」と話してくれた。私は「素晴らしい感受性だなあ!」と思ったので、あなたの感受性は最高に素晴らしいと思うからどうかその感受性だけは死守していただきたいとお祈りしていますと伝えた。「学校なんていかなくてもどうにでもなるよ」などと軽々しく言ってしまう私は、もしかしたら彼女に悪い影響を与えているのかもしれない。でも、実際どうにでもなるのだと思う。テレビやネットでは「どうにもならないかもしれない」不安や恐怖を煽る情報が大量にあふれているけれど、リアル社会に踏み出せば「意外とどうにかなっているばかりか、想像以上に楽しそうに生きている人種」は結構な数、いる。
その後、私たちは「どれだけ耳当たりの良い言葉でも、直感的に『なんだか嘘っぽいな』と感じる言葉は聞き流す」とか「やりたいことをやるのも大事だとは思うけど、やりたくないことをやらないことも同じくらい大事だと思う。笑いたくないのに笑っておくとか、沈黙が怖いから何かを話しちゃうみたいなこととか、そういうのは要らないと思う」とか「そういうのができるひとをいわゆる『社会性(社交性)のあるひと』とか言うのかもしれないけど、でも、無理をしすぎて潰れるひとたちを結構見て来た。笑いたいときだけ笑うひとの方が、俺の場合は信用できる。愛想笑いばっかりのひとよりも、笑いたいときだけ笑うひとの方が『いい笑顔をするひとだなあ』と感じることは多い」みたいな話をした。
やっててよかった「ごちゃまぜの家」
日常的に年齢の離れたひとと話せる機会があることは非常にうれしい。どんどん遊びに来て欲しいと思うし、一緒に過ごしているだけで勉強になる。小さなこども連れのお母さんが来てくれることも最高にうれしい(それにしても、なぜ、赤ちゃんと行動を共にしているのはお母さんだけなのだろうか。父親と赤ちゃんという構図を見る機会は少ない)。日本社会では、なかなか小さなこどもたちと一緒に遊べる機会は少ないけれど、ごちゃまぜの家の活動(?)をはじめてから「小さなこどもと戯れる機会」は結構増えた。これがうれしい。子育ての練習をしている気分にもなるし、ベイビーズたちから学ぶことも多い。稀に、大人たちに囲まれると「こいつらの精神は濁り過ぎていてやばい!」と感じることもあるけれど、目線を大人からこどもに移すだけで、呼吸が楽になる(ことがある)。
体調不良が続いているが、精神だけは死んでいないつもりだ。こどもを見ていると「こいつらは元気がありまくってていいな。おれにもちょっとわけてくれよ」と思う。どうしてこんなに元気があるのかを観察しまくった結果、ひとつだけわかった。こどもたちには「圧倒的に無駄が多い」ということ。いちいち飛んだり跳ねたりしなくてもいいところで、あいつらは飛ぶ。あいつらは跳ねる。あいつらは騒ぐ。カラダを動かしまくることで「おのずから発電しまくっている」状態に置いている気がする。私は安易な人間なので「そうか!こどものように無駄にカラダを動かしまくっていれば、常にターボ全開でおらおらおらっと生きていけるのかもしれない!」と思うようになった。
カラダを動かさないとアタマがおかしくなる。こどもたちが元気なのは、多分、カラダを動かしまくっているからだと思う。言い方を変えれば「無駄にあふれている」からなのだろう。やつらはいちいち意味など考えない。価値も考えない。考えていることは「面白いかどうか」くらいのもので、面白ければとどまるし、面白くなければ次に行く。それ【面白ければとどまるし、面白くなければ次に行く】が人間として自然なのかもしれないと思う。これは多分、おとなもこどもも同じだ。やれと言われるとやりたくなくなり、やるなと言われるとやりたくなる。やりたいことだけやりたいと思っているが、しかし、やりたいと思っていることでさえ「やれと言われるとやりたくなくなります!」と感じる心の動きは、誰の中にでもあるのではないだろうか。
わたり文庫『モモ』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ミヒャエル・エンデ著作『モモ』です。小生、現在32歳になるのですが生まれてはじめてこの本を読みました。そして「これはすげえ本だ!」と猛烈に感動をいたしました。このタイミングで読めてよかったなあと思える最高の一冊です。なんかもう、小難しい本を読むよりも子供向けの小説とか絵本ばっかり読んでいた方が、精神衛生上もすこぶるよろしいのではないだろうかと思うことの多い昨今です。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※
たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチなひとりで、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。
こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!
人生は、生き方ではなく「遊び方」の勝負である。
冒頭の写真は、高校生のA様が「私もなにかやらなきゃって思ってたときに、坂爪さんのブログを見たら『おはなをくばる』ってのをやってて、よし、わたしもそれをやろうとは思ったのですがおはなを買うお金がなかったので折り紙でおはなを作ってそれを配ることにしました!」と、ごちゃまぜの家で折ってくれた花束になります。写真だとなかなかうまく伝えることができないのですが、非常に完成度が高くて(そしてA様の人柄が伝わってくる素晴らしい温度感で)最高だなあと感じています。我々、なう、非常に牧歌的な時間を過ごしております。
真の感動はひとを溶かす。それに触れた人間を別人に変える。ひとと出逢うということは、人脈を増やすということではなく、「あたらしい目を開く」ことではないだろうか。感動のど真ん中には、すべてを許せてしまう瞬間がある。自分と他人の間にあるはずの境界線、それが溶けた瞬間のなかに感動はある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年11月1日
A様が「大学に行くか行かないかいまでも全然迷うのですが、どうしたらいいですかね〜」的なことを話す。その場にいた私(とロゼカンパニーの徹さん)は「大学に行かないならいますぐにでも一緒に遊べるし、大学に行くならしばらくしてから一緒に遊べるようになるわけだね」的なことを言った(このニュアンスが伝わるだろうか…)。このようなことを話しながら、ああ、自分は「どう生きるか」よりも「どう遊ぶか」を考えていた方が日々に充足感を覚えるタイプの人間なのだな、なにが正しいかなんてわからないけれど「なにが楽しいか」だったら少しくらいわかる。それならば、正しさよりも楽しさだ的な波乗りで、生き方ではなく「遊び方」に重点を置いた生き方を心がけた方が(とりわけ体調を崩したりメメントモリが行き過ぎたときは)有効なのだろうなあと思った。
君が大事にしているものは、もしかしたらガラクタかもしれない。君が信じているものは、もしかしたらデタラメかもしれない。でも、それでも君がそれを大事にするのなら、ガラクタだって宝物になる。それでも君がそれを信じるのなら、デタラメだって真実になる。そういうことなんじゃないのかなと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月29日
人生は、生き方ではなく「遊び方」の勝負である。わたしの場合、そんな感じで世界を捉えていた方が、のびのびと健やかに日々を楽しむことができる。大学に行かなければひとにあらず、正社員でなければひとにあらず、そういう価値観でひとを値踏みする部族もこの世の中にはいるのかもしれない。きっと、それはそれでありなのだと思う。そういう部族から見ると、我々のような生き方は「そんなんじゃ生きていけないよ」的なツッコミどころ満載の生き方になるのだろう。それに対して我々が言えることは「そんなんじゃ生きていけないとは言われますが、しかしながら、そんなんで生きてきてしまったのは事実なのです。もちろんこれからどうなるのかはわからないけれど、それはあなたもわたしも同じこと。それならば、できるだけ自分がハッピーになれる道を選びたいではありませんか」みたいなことを思っている。
誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。欲しいものは自分で獲りにいくこと。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、副産物として、自ずから周囲を照らす光を帯びるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月13日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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なんとなく生きるなんてクソだ。
「死ぬまでに何度も読み直すことになりそうな本は?」という問いに対して、ある女性は「よしもとばななの『デッドエンドの思い出』と、村上春樹の『風の歌を聴け』です」と答えた。ある男性は「南直哉の『老師と少年』と、あとは『星の王子さま』とかになるのかなあ」と答えた。自分だったら何を答えるだろうかなと考えて、ふと、漫画バガボンドの37巻が頭に浮かんだ(あとは日本橋ヨヲコの『G戦場ヘブンズドア』)。このブログ記事をご覧のあなたにとって、この本は、死ぬまでに何度も読み直すことになるだろうなと思える本はありますでしょうか(もしもあったら教えてください。11月は時間があるので読みまくります!!)。
【ANN】ごちゃまぜの家&シェアハウス案内ツアー
沖縄で体調を崩し、台風の直撃で飛行機も飛ばず、結構ギリギリな日々を過ごしていた。JALが臨時便を飛ばすことになり、50000円近い正規料金を出して羽田に戻り(死んだ)、現在は横浜にあるごちゃまぜの家にいる。明日からパリ界隈に行く予定だったのだけれど、諸々の費用を臨時便に充ててしまったので身動きの取れない肉の塊になった。体調不良はいまだ治らず、しかし「体調不良でもビリーズブートキャンプはできる!」ということがわかったので、これから数日間はごちゃまぜの家で合宿をすることになりました。
ロックンロールとキリスト教。
沖縄でぶっ倒れながら「俺はロックンロールとキリスト教に影響を受けたんだな」なんてことを考えていた。冬の新潟の曇天のように灰色の学生時代を過ごしていたとき、学校は退屈で、友達も少なく、生きていても何もいいことはないと思っていた。が、自分が好きな音楽を聴いている時間だけは『自由』のようなものを感じることができた。音楽のジャンルで言えば、多分、ロックンロールとことになるのだと思う。当時の私は、吉井和哉や浅井健一や甲本ヒロトや田中和将や坂本龍一などの音楽を好んで聴いていた。
どうしてロックンロールが好きなのだろう。多分、最大の理由は「やさしいから」なのだと思う。周囲にうまく馴染めない自分、ひとと同じであることがなかなかできない自分に、ロックンロールは「それでいいよ」と言ってくれているように感じていた。きっと、それがたまらなくうれしかったのだと思う。親、教師、周囲の人間、学校、社会などから「お前はお前のままでは通用しない」と言われているように感じている日々の中で、ただ、ロックンロールだけはやさしかった。そのままでいいよという言葉は、大袈裟な言葉で言えば『生きててもいいよ』という言葉になり、乾きかけていた自分のこころに最後の潤いを与えてくれた(ように思う)。
現在の私は32歳で、世間的には立派な大人の年齢だ。しかし、この歳になってもまだ、自分の中にある『反骨精神』のようなものがあることを感じる。世の中の多くの人が「これが本当だ」と信じているものに対して、どうしてなのだろうか、素直に受け入れることができずに「それは本当か?」と感じることは多い。良い大学にはいること、良い企業にはいること、それが人間としての幸せです的な教育を受けて我々は育った。多分、私はそういう画一的な考え方に中指を立てているのだと思う。これがよしとされている道ではない、なんなら「こうなったら人間の終わりです」とさえされている道を選び、かつ、その道の上で幸せそうにしている。幸せそうにしながら「ざまあみろ」って何かに対して言ってやりたいと思っている、そういう幼稚な自分がいる(ことを感じている)。
なんとなく生きるなんてクソだ。
キリスト教の影響とはなんだろうか。10代の頃は、三浦綾子の小説を好んで読んでいた。多分、当時の私はキリスト教の思想の中に、なにかしら『美しいもの』を感じたのだと思う。何を美しいと思ったのかはわからない。その後、20代前半の頃、ひょっとした縁でイラン人の牧師さんと知り合い、教会にも足を運ぶ(というよりは遊びに行く)ようになった。私はクリスチャンという訳ではなかったけれど、金持ちも貧乏人も様々な職種の人間が「神の名の下に」同じ場所に集って祈りを捧げている姿は印象的だった。美しいなと思うこともあったけれど、初対面の人間に「おお、兄弟!」と言うテンションにはついていけなくて疲れた(その後、自然消滅的に教会には足を運ばなくなった)。
誰かの生き方をああだこうだと言うつもりはない。ひとのことを言えるほど、自分は正しい人間ではない。俺は俺の生き方を見て思う。なんとなく生きるなんてクソだ。生活のために生きるのは虚しい。生きるために必要なことではなく、生きていることを実感するために必要なこと。「命の燃焼」の不足。そのことが、悔しいのだと思う。
自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死ぬほうがいい。自分を殺してひとから好かれるくらいなら、自分を出してひとから嫌われるほうがずっといい。そんなことを思いながら数十年間生きてきたが、自分に対して腹立たしくなる瞬間は頻繁にある。体調不良の時などは、特にそうだ。なんとなく過ごしてしまっている怠惰な自分に、手元にあるものをまるで活かせていないばかりか無駄にしてしまっているのではないだろうかと思う時、私は「生きている実感」から遠く離れた場所にいる。そんな時、私は「畜生、畜生、」みたいなことを思いながら悶える。あたえられた命を使いきれていない自分に、大袈裟な言葉で言えば『生命に対する冒涜』とも思えるような腹立たしさを感じる(ことがある)。
わたり文庫『デッドエンドの思い出』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、よしもとばなな著作『デッドエンドの思い出』です。冒頭でも書いたけれど「死ぬまでに何度も読み直したいと思う本」というものを、誰でも一冊くらいは持っているものなのだろうか。もしも「自分にとってはこれがそれです」的なものをお持ちの方は、暇な時にでも教えていただけたらうれしいです。ごちゃまぜの家に直接郵送をしてくれてもうれしいし、その場合は、ごちゃまぜの家からも「誰かが置いて言った『死ぬまでの何度も読み直したいと思う本』を御礼(?)に郵送します。ごちゃまぜの家にある本棚が、誰かにとっての「死ぬまでに何度も読み直したい本」ばかりで構成される日がきたら、それはなんだか素敵なことだなと思いました。デッドエンドの思い出をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
今、この別々の空の下で、お互いが痛いくらいに切ないのがわかって、私の心にはまたあの店の二階の窓から見る光景と、果てしなくいちょうの葉が降り積もる静かな金色の世界が浮かんできた。
きっとそれは私の心の中の宝箱のようなものにおさめられ、どういう設定で見たのか、どんな気持ちだったのかすっかり忘れ去られても、私が死ぬときに幸福の象徴としてきっときらきらと私を迎えに来る輝かしい光景のひとつになるだろう、と思った。
よしもとばなな『デッドエンドの思い出』【文春文庫】
仕事とは、祈りの具現化である。
ロックンロールとキリスト教について書きたかったが、まるでうまくまとめることができなかった。私は思う。この世でいちばん美しい営みは「祈り」なんじゃないのかと思う。そして、世で言う仕事とは『(生活に必要なお金を得るというだけではなく)祈りを具現化すること』ではないのだろうかと思う。私はこうしてWEB上に文章を書く。文章は読める。読めるけれど触れない。冊子なら読める。活字になれば触ることができる。編集者の方が「本は出さないのか」と問う。わたしは「わからない」と答える。が、本にすれば触ることができる。目に見えないもの【祈り】を形にすることができる。
君が大事にしているものは、もしかしたらガラクタかもしれない。君が信じているものは、もしかしたらデタラメかもしれない。でも、それでも君がそれを大事にするのなら、ガラクタだって宝物になる。それでも君がそれを信じるのなら、デタラメだって真実になる。そういうことなんじゃないのかなと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月29日
私は、私の好きなひとには「幸せであれ」と願う。楽しそうに生きていてほしいと思うし、幸せそうに生きていてほしいと願う。願うだけでもいいのだろうけど、願うだけでは足りないとも思う。私は花が好きだ。だから、私は「幸せであれ」という願いをのせて、好きなひとには花を贈る。この瞬間、花は祈りを具現化したもの(祈りの器)になる。これは料理も同じだと思う。料理そのものではなく、多分、私たちは「作り手が込めた思い」を食べている。料理もまた、祈りを具現化したものだと思う。仕事とは、なにも職業のことばかりを指すのではない。自分はどのような祈りを抱いていて、それをどのようなものに注いでいるのか、なにによって『自分の祈りを具現化しているのか』が、そのひとにとっての仕事になるのではないだろうか(そして、私の場合は『言葉』がそれにあたるのだと思う)。
なにもしないでいい。なにかをしなきゃなんて思わなくていい。なにもしていない自分には意味も価値もないなんて、そんなことは考えなくていい。なにかをしたくなるその時まで、なにもしないでいればいい。なにもしないということ、なにもしなくてもいいということは『なにをしてもいい』ということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月26日
私の場合は『言葉』がそれにあたる、と書いて軽い違和感を覚えた。もちろんわたしは言葉を綴る。しかし、言葉以上に「祈りを具現化しているもの」が自分にはあるような気がした。それはなにかと考えて、ああ、それは『自分自身』だと思った。変な言い方になるけれど、わたしは花を贈るような感覚で、目の前にいるひとに『自分自身を贈っている』ように思う(ことがある)。きっと、今世のわたしは「(何かをするということではなく、何者でもなく強烈にそこにあるということ、つまり)存在に賭けたい」と思っている。言葉だけではない、自分は「自分と言う存在【肉体と精神】」に瞬間最大燃焼的な祈りを込める。何を語るでもなく、何をやるでもなく、ただそこにあるという存在を通じて「生きていたい」とか「生きててもいい」とか「生きてやるぜ」とか、それを見たひとの内部になにかしらあたたかなものを生み出すことができたのであれば、それは最高だなと思う。
ここは天国にも、地獄にもなる。決めるのは自分。人生は苦行にも、責務にも、遊びにもできる。決めるのは自分。自由にも、不自由にも、幸せにも、不幸にもなれる。決めるのは自分。自分を狭い世界に閉じ込めることも、自分に広い世界を見せることもできる。決めるのは自分。決めているのは自分なんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月23日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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奇跡の中を生きている。
沖縄に来たものの、体調不良でぶっ倒れている。明日の便で成田に戻る予定だけれど、台風が来ている。飛行機は飛ぶのだろうか。明後日の日曜日には、横浜にあるごちゃまぜの家の見学ツアーがある。これに間に合うようには戻りたい。が、どうなるのかはわからない。この記事をご覧のみなさまは、健やかな日々を過ごしているだろうか。最近、自分が体調不良の時など「体調が悪いのは自分だけではないのかもしれない」などと思ったりする。自分と似た周波数(?)を生きているひとは、もしかすると、最近体調不良に悩まされたりしていたのではないだろうかと思ったりする。
頭の中で「これでいいのか」と「これでいいのだ」の声が、シーソーみたいに揺れている。いまの自分の生き方は間違っていないだろうかとか、このままじゃいけないような気がするとか、そういうことを思うことは多い。しかし、「こんな風にしか生きれなかったんだろ?」と言われたら、うん、その通りだなと思う。頭の声はいろいろなことを言う。別の生き方があったのではないだろうかとか、他にも良いやり方があるのではないだろうかとか、なぜ、自分はひとと同じように生きることができないのだろうかとか。ひとつの選択肢を選ぶということは、他の選択肢を捨てるということならば、この日々は取り返しのつかないことの連続だ。頭の声は「これでよかったのか」と言う。その声に悩み、その声に迷う。しかし、多分、腹の声は「これでいいのだ」と言っているのだと思う。
軽い気持ちで遠くに行こう。
沖縄の空は青い。
空の海を泳ぐ。
読谷村にあるビーチでは、五歳の女の子と仲良くなった。
写真を撮ってもらった(女の子の指がはいっている)。
綺麗な景色を眺めていると、ここに来て良かったなと思う。自分のこころが「いいな」と思う瞬間の中には、自分の選択を肯定する力がある。あんまり小難しいことは考えないで、実際にやってみることも悪いことではないのだなと思う。今、目の前にあるものを「まるで生まれてはじめてそれを目にしたかのように」新鮮な思いで眺めることができたなら、どれだけ世界は輝きを取り戻すのだろう。当たり前のことなんて、多分、ひとつもないのだと思う。そのことを、私はすぐに忘れる。忘れるたびに思い出して、ああ、とか、おお、とか、思ったりする。
わたり文庫『ムーミン谷の名言集』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、トーベ・ヤンソン(文・絵)『ムーミン谷の名言集』です。この話が本当かどうかはわからないけれど、ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソンさんは、ヘルシンキにある自宅を常に開放していて、来客があれば誰でも出迎えて話をしたり一緒にお茶を飲んだりしていたと聞く。それを聞いたときに「それは素晴らしい営みだな」と思い、わたしも、僭越(?)ながら自分の家【ごちゃまぜの家や熱海の家】を開放するようになった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
だれも心配しすぎないって、よいことでした。ムーミンたちは、ほかの人のために、やたらと心配しないでいようと、決めていました。つまり、そのほうが、心配をかけたと思って良心を痛めなくても、すみます。それに、ありったけの自由をあたえあっていることにもなるのです。
『ムーミン谷の仲間たち』
「なんだって、できるわ。だけど、なにもやらないでいましょ。あぁ、なんだってできるって、なんてステキなことなの!」
「死んだら、死んだのよ」
トゥーティッキが、やさしくさとしました。
「このリスは、そのうち、土にかえるでしょ。やがて、その土から木がのびて、その木の上で新しいリスたちがはねまわるわ。それが、そんなに、悲しいことだって思う?」
『ムーミン谷の冬』
「歌をうたい、りんごを食べ、朝寝坊を好きなだけできる自由!それこそが、人生の醍醐味というものなのさ。それと、『これは重要事項だから後回しにはできません。すぐにやるのですよ』なんて、せっつく人がいないこと。そんな人は、勝手に、好きなように、させておくのさ!」
ヨクサル『ムーミンパパの冒険』
「物は、自分の物にしたくなったとたんに、あらゆる面倒が、ふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり・・・。ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。そのほうが、かばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからねぇ・・・」
「ねえムーミン、友だちが、いちばん好きなことをしながら生きていけるようになるって、すてきなことじゃない?」
霧の夜明けでした。みんなは、庭へ駆け出していきました。八月の、ステキな一日を約束するように、東の空に、バラ色の光がさしはじめていました。
朝日がのぼるのです。新しい門が、開かれます。すばらしい可能性への、扉です。なんだって、やってのけられる新しい一日が、待ってくれています。そう、きみたち、ひとりひとりが、気づきさえしたら!
『ムーミンパパの冒険』
奇跡を生きている。
当たり前のことを当たり前だと思えなくなる時、ああ、俺たちは奇跡の中を生きているのだなということを思う。アインシュタインの有名な言葉に「人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ」というものがある。どう生きるかということを迷うとき、私は、大前提となるはずの『生きているとはどういうことか』をまだなにも知らない。わかっていることを前提に生きているのではなく、わからないことを前提に【わからないままで】生きているのだということを思う時、ああ、奇跡と呼ばれているものは『(わかることではなく)わからないこと』を意味しているのだなと思う。
なぜ太陽は輝く。なぜ雨は降る。なぜ虹はかかる。なぜ食物は実る。生きているとはどういうことなのか。死んでいるとはどういうことなのか。わからない。その実態をまだなにもわからないまま、同時に、私たちは「わからないままで、それを味わうことを許されている【わからない中を生きている】」のだということを思う。小さなこどもを見ていると思う。彼らにとって世界がこれだけ新鮮に見えるのは、彼らにとって「わからないこと」がこの世界には大量に転がっているからなのだろう。年齢を重ねるにつれ、なにかを知ったつもりになることは多い。なにかを知ったつもりになることは、世界に対する複眼的な思考や新鮮味を奪い、画一化された思い込みの世界【固定化された世界】を生きることにつながっていく。
小さな頃、わからないということはそのまま「世界に対する好奇心」につながっていた。おとなになると、わからないということは「将来に対する不安」や「コントロール不可能なもの」など、自分にとってネガティブなものに変化をする。だから、できるだけわからないものを排除して、あらゆるものを自分のコントロールの範囲内に置きたいと願う。要するに、わかることは『安心』になり、わからないことは『不安』になる。しかし、私は思う。わからないぜ、と思う。いままでこれがほんとうだと信じていたものも、もしかすると「全然そんなことはない」のかもしれない。この世の中にあるあらゆるものが「そうかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない」のだと思う時、私のこころは自由を見る。世の中の価値観がひっくり返る前のあの瞬間、天動説が地動説になる瞬間、もしかしたら、その時代の人々はこんな気持ちだったのかななんて思う。わかるから面白いんじゃなくて、わからないから面白いんじゃないか。奇跡と呼ばれているものが「わからない」とされているものならば、自由と呼ばれているものも「わからない」ことの中にあるのかもしれないと、それならば「わからないことを楽しめた方が、ずっと豊かな人生になるのではないだろうか」と、そういうことを考えている。
なにもしないでいい。なにかをしなきゃなんて思わなくていい。なにもしていない自分には意味も価値もないなんて、そんなことは考えなくていい。なにかをしたくなるその時まで、なにもしないでいればいい。なにもしないということ、なにもしなくてもいいということは『なにをしてもいい』ということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月26日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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好きなことを、好きなように、どんどんやりなさい。
ごちゃまぜの家の第二弾候補地をルキンフォーするために、明日から急遽沖縄県に飛ぶことになりました。10月24日(火)の21時頃に那覇空港に到着をして、28日(土)10時20分那覇空港発の便で成田空港に戻ります。が、沖縄での宿も予定も交通手段もすべてが(経済的な理由で)未定になりますので、もしも、もしも那覇界隈滞在の方で「ごちゃまぜの家に使えそうな場所があるよ!」とか「宿がなければ我が家においで!」とか「沖縄のここがいいから無理やりにでも連れていきたい!」などなどありましたら、是非、是非、是非、どなたさまでもお気軽にお声がけいただけましたら幸いです。
連絡先・坂爪圭吾
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ごちゃまぜの家より愛を込めて。
昨夜、菊名にあります『ごちゃまぜの家』からツイキャス音声配信を行いました。いろいろと程度の低いことをダラダラと話してしまったのですが、小生、32年間生きてきて「これだけは死ぬまで続けたい!」と思える所業がふたつほどあります。ひとつは「おはなをあげる」という行為です。これは声を大にして言いたい(「おはなはいいぞ」って言いたい)。誰かに会う時、特別な理由は別になくても全然構わないから、駅近くにあるおはなを一輪買って、出会い頭に「はい、これ」みたいな感じでさらっと差し出す。それだけでいい。それだけで「なんだかよくわからないけれど空間全体が華やいで、いまという瞬間の輝きが増すね!」的な気持ちになれます。
おはなだけを買って渡すのも最高だけど、個人的なおすすめは「小さなメッセージカードを用意して、一言だけでもいいから手書きのメッセージを添える」ことです。これがあるとないとでは、感覚的に八倍くらい気持ちの伝わり方が違う(ような気がする)。男性的にはこっぱずかしい行為に見えるかもしれないけれど、これ、やってみると「ああ、なんだかいまいいことができているなあ」みたいな気持ちになれるから騙されたと思ってやってみてください。ひとと話すことが苦手なひとも、花に思いをこめて届ければ、きっと何かしら相手に伝わるものがあると思います。コミュニケーションは何も「言葉」だけではないのだと、小生、そういうことを思うことは最近頻繁にあります(頭ばかりを使っていると、身の回りにある自然【すぐそこにある愛】を慈しむ余裕がなくなります!)。
そしてもうひとつが「手紙を贈る」的な営みです。非常にありがたいことに、ごちゃまぜの家などに食料品や日用雑貨などの救援物資を送ってくださる方々が日本にはたくさんいらっしゃいまして、この国は最高だなと思うことは頻繁にあります。小包に添えられている手紙などを読むと、ああ、なんだかやっぱり肉筆にはメールにはない「ひとの温度感」を感じることができて嬉しいなあとハートがほぐれます。返事を書いている時間も、なんだか非常に素敵な時間になるので、是非、みなさまも「久しぶりに誰かに手紙でも書いてみるか」と思ってくださった方から順番にやってみてください。多分、すごいいい時間になると思います。(ごちゃまぜの家は静かな環境なので、多分、手紙を書くのに適した空間だと思う。家の片隅に「手紙コーナー」と称して誰でも自由に使える便箋や葉書や切手などを大量に置いておくので、ご希望される方は無許可で使い倒してください。また、誰かに手紙を贈りたいけれど贈る相手がいないから泣いちゃうという方は、ごちゃまぜの家(坂爪&稲村)でもよろしければ『是非、受け皿役を担わせていただきたい!』と感じておりますので、ご希望される方は非常にお手間ではありますが一回ご連絡ください。折り返し、ごちゃまぜの家の住所をお伝えさせていただきます)。
録画ラジオ ごちゃまぜの家より愛を込めて。 - TwitCasting
わたり文庫『すみわたる夜空のような』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、銀色夏生著作『すみわたる夜空のような』です。この本の中に収録(?)されている「君へ」という詩が好きで、ああ、なんだかこれを他のひとにも読んでもらえたらうれしいなあと思ってこの本を選びました。私は現在横浜にいるのですが、昨日までの嵐は嘘のようで、ひっさしぶりの太陽が家の庭を照らしています。それだけでこんなにも幸せになれるのかと、天気がいいだけで人間はこれだけ幸せになれるのかと感じております。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※
「君へ」
君は好きなことを、
好きなふうにやるべきだ。
そのことが他人から見て、どんなに変でも、
損でも、バカだと言われても、
気にするな。
だって彼等は、君の願いを知らない。
君は彼等と違うものを見ているのだから。
あの、強い思いだけを、繰り返し思い出して。
そのことを忘れないで。
他人の説教やからかいなど気にせずに、どんどんやりなさい。
けして周りを見たらダメだ。
仲間はいないんだ。すくなくとも途中には。
君はやりたいように、どんどんやりなさい。
やりたいことを。
好きなやり方で。
その行為が同時に君を救うだろう。
その行為は同時に人をも救うだろう。
そのことを忘れないで。
銀色夏生『すみわたる夜空のような』【角川文庫】
愛することを恐れないで。
愛を表現することを禁止された時に、多分、人間は老いる【生きていることを楽しめなくなる】のだと思う。ひとが何か新しいことをやろうとする時、大概、その動機は『愛』か『恐れ』のどちらかになるのだと聞いた。多分、その通りなのだろうなと思う。不安や恐れを動機になにかをする(なにかをしない)のではなく、できることならば希望やよろこびをベースに生きていたいと私は思う。それが、時に周囲の人から「お前の生き方はありえない!」とか「クソだ!」とか「ウンコたれだな!」とか言われたとしても、自分の中に「これが私の愛情です」的な思いがあるのならば、ひるむことはない。周りはどうあれ自分だけは、どんどん、どんどん、どんどんやってしまえばいいのだと思う。
繰り返しになるけれど「愛を表現することを禁止された時に、ひとは老いる【生きていることを楽しめなくなる】」のだと思う。おはなをあげる行為や、手紙を贈ると言う行為は、大袈裟な言葉でいえば「愛することなんて実はまったく禁止なんてされてなかった」ということを思い出すための最適な機会になる。何かを愛すること、自分の中にある愛情を表現することは、実はまったく禁止なんてされていなかったのだと、仮に「愛を贈った相手から何かしらの見返りを得る」ことはできなかったとしても、自分自身が愛を表現することは誰にも奪うことはできないのだと、そういうことを思う時に(私の場合は)エネルギーが湧く。愛することは禁止されていない。禁止されているとしたら、それは「自分が自分に制限をかけて抑圧をしている」だけなのだと思う。このトリガーを外す。目の前には、いくらでも愛すべき対象が転がっている。別に無理をしてまで愛する方向に舵をとる必要はないけれど、なにかを愛しているときに「ああ、生まれてきてよかったな」的な気持ちになることはできる。
時間がなくって「ぐおらららららら!!!」と最高速度でこの記事を書き上げたからまたしても文章が雑になった。でも、30分程度の隙間時間さえあればこれだけの分量が書けるのだということがわかったので楽しい。私は思う。金を稼ぐとか、有名になるとか、世間的に認められるとか、夢や目標を達成するとか、愛されるために何かをするとか、多分、そんなことはどうでもいいのだと思う。自分以外の何者かになろうとすることは、極端な話、自殺行為と同じ(真の自己を否定する行為)だと思う。そんなことよりも、自分であることを楽しむこと、生きていることを楽しむこと、目の前にあることを楽しむこと。やりたいことを、やりたいときに、やりたいように、クソミソに言われたとしてもきっと全然大丈夫だから、どんどんどんどんやってしまうこと。自由になるために誰かの許可が必要なわけでもなければ、愛を表現することに誰かの許可が必要なわけでもないし、誰かの許可がなければ生きててはいけないなんてこともない。自由になるのはきっとおそろしく簡単なことで、いま、この瞬間に「おれは自由だ」と認めるだけでいいのだと思う。生きるとは無垢に無邪気に純粋に自分らしく楽しむことで、何かを成し遂げることではないのだと思う。
金を稼ぐとか、夢や目標を達成するとか、愛されるために何かをするとか、多分、そんなことはどうでもいいのだと思う。自分以外の何者かになることは、自殺と同じだ。そんなことよりも、自分であることを楽しむこと。生きるとは純粋に自分らしく楽しむことで、何かを成し遂げることではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月22日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
生きていることを楽しんでいるか。
2017年4月にクラウドファンディングでプロジェクトを企画し、多くの方々のご支援をもとに、翌月末には横浜市港北区菊名で産声をあげた「ごちゃまぜの家」。誰でも自由に使える空間があったらいろいろと良いんじゃないだろうかと思い、この活動(?)をはじめて五ヶ月の月日が流れた。良いことも悪いこと【やってみてはじめてわかったことなど】も大量にあり、尽きることのないお勉強の日々のど真ん中にいる。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
ごちゃまぜの家についてまとめます。
ごちゃまぜの家とはなにか。
図書館みたいな、無料の喫茶店&託児所&宿泊施設も兼ねる「ごちゃまぜの家」の第一弾を東京に!!基本的な使用料金は完全に無料で、珈琲もタダ、料理もタダ、欲しい本があればあげるし、なんなら泊まってくれたひとに100円あげちゃう(未定)くらいの場所を作りたいです。有志を集めたら、実現できちゃうものなのでしょうか!?【CAMPFIRE・プロジェクトページより引用】
「(自分の生き方はギャグみたいなものだから)この生き方を笑ってもらえたらうれしいなあ」くらいの気持ちで、プロジェクトページは「ごるぁ!」と1時間程度で書き上げた。翌日には早速CAMPFIREに掲載をされて、4月7日は私の誕生日でもありますので「こんなことをやるのでよかったら見てください!」的な感じでSNSでシェアをした。ら、非常に驚いたことにあれよあれよと(誕生日プレゼント的な意味合いも含めて)支援が集まり、三日間で目標金額は達成されてアゴが外れた。
これはもう「神に『やれ』と言われている…!!」とわたしは勘違いをいたしまして、神の粋なはからいによってベストな物件が現れることを祈るようになった。ら、支援者の方のひとりでありますY様から「私は不動産関係の仕事をしているのですが、ごちゃまぜの家に使えそうな家があります!」という連絡が届いた。私は「なんということでしょう!」と戦慄をして、後日、Y様と一緒に菊名駅から徒歩10分程度の場所にある築60年以上の古民家に足を運んだ。
結果的に、いま、この家が「記念すべきごちゃまぜの家の第一弾」として機能をしている。非常に閑静な住宅街の中にあるために「あまりにもひとが来すぎるとやばい」ということで、住所はまだ公開をしていない。利用希望者の方には、お手間ではありますが一旦坂爪圭吾にご連絡をしていただくようにお願いをしていて、折り返しごちゃまぜの家の所在地や簡単な利用法をお伝えしている。このブログでは、ごちゃまぜの家の雰囲気や使い方のイメージだけでもみなさまに伝わればうれしいと思い、いま、書いています。
ごちゃまぜの家の使い方。
ごちゃまぜの家の使い方はシンプル。基本的に鍵は常に開けているので、誰でも来たいと思った時に来ればいい。私は過去に「家のない生活」を二年間程度していたのだけれど、その時期になにがいちばん辛かったって「横になれないこと」だった。喫茶店などでコーヒーを飲みながら椅子に座ることなどはできたが、横になることは憚られる。座ることで回復する体力が10なら、横になることで回復する体力は100くらいある(十倍くらい違う)。都会では横になれる場所が少ないなあと思っていたので、ここに行けばいつでも昼寝をできる場所があれば最高だ、なんてことは痛切に感じていた。
この家では、読書をするのも自由、料理をするのも自由、瞑想をするのも自由、ひとと話をするのも自由、手紙を書くのも自由、昼寝をするのも自由、なにかをするのに「別に誰の許可もいらない」空間になる。たまたま居合わせた人と同じ空間を共にすることになるので(一応、部屋は三つあるから個室がよければ個室に行けばいい)、初対面の誰かと一緒になることもあれば、広い家にポツンとひとりきりになることもある。すべてはタイミング次第で、流れ次第になる。
ごちゃまぜの家に来る人の共通点は皆無で、単純に興味本位で来る方や、誰か(坂爪圭吾)と話をしたいから来る人や、静かな環境に身を置きたいから来る人、ちょっと子育てに疲れたからこの場にいるひとにこどもの世話を任せて自分はちょっと昼寝でもしようと思うお母様方など、その内実は様々だ。が、常に誰かが必ずいるという訳でもなくて「意外と誰もいない時間は結構多い」のも特徴的で、なんといえばいいのだろうか、その時にふさわしいタイミングでふさわしい人々が集うようにできている(ように思う)。
みんなの財布。
この家の玄関には「みんなの財布(仮)」なるものが掲げられている。この財布の中にあるお金は出し入れ自由で、この家の存続を願ってくださる方々は自由にお金をいれることもできるし、経済的にちょっとアレで帰りの交通費がない方などは、このなかにあるお金を無許可で使っていいことになっている。基本的に、この家も坂爪圭吾という人間の一生も「みなさまの善意によってまわっている」節がありまくるので、さあ、財布をオープンにしたら一体なにが起こるのだろうかということをこの場を借りて実験している。
現状、財布の中のお金がゼロになったことはない。ゼロになりかけたことはあるが、神の粋な計らいがあるのだろうか、ゼロになりかけると必ず「ゼロにさせない力」みたいなものが働いて、財布の中に何かが舞い込む。それはお金であることもあるし、お金以外の何か(クオカードとかギフトカードとか美術館のチケットの類)だったりする。家のない生活をしていた時、わたしは、様々な教訓をその日々の中で得ることができた。そのうちのひとつは「自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない」ということで、逆にいえば「自分をクローズドなものにした瞬間、死は隣り合わせになる」みたいなことを感じた。
ごちゃまぜの家は営利目的でやっている訳ではないので「誰かに必要とされる限り続き、誰にも必要とされなくなった瞬間に散る」ものになる。自分的には「こんな空間があったほうがいいだろうなあ」的な思いでやっているものの、他の方々から見れば「あってもなくても別にいい」ものなのかもしれない。その時は、潔く散ろうと思う。現状、おかげさまで五ヶ月間は問題なく続けることができている。この先も続けることができるかどうかは、利用者のみなさま【そしてこの家が醸し出す雰囲気】にかかっている。
循環型の図書館。
先ほども紹介をしたように、この家には「わたり文庫」という無料の循環型図書館の棚がある。わたり文庫とは「誰かに無理やりでも読ませたいと思う本を様々な方々からかき集めて、それを無料で放出する」21世紀型の図書館になる。誰だって、誰かに無理やりにでも読ませたいお気に入りの本が一冊か二冊はあると思う。その本をこの家にもってきていただいて、その本を「あ、読みたい!」と思うひとにまわしていく。図書館とは名ばかりで、返却の義務は微塵もない。もしもその本を楽しんでもらえた場合は、返却をするのではなく「次のひとにまわしてください」とお願いをしている(わたり鳥のように一冊の本が世界をわたっていく、という意味合いから『わたり文庫』と名付けている)。
あらゆる物質は共有財産。
この家にあるものはなんでも「共有財産」ということで、すべては自由に使えるものになる。冷蔵庫にあるものも、冷蔵庫にいれた瞬間に「みんなのもの」になる。だから、利用者の方々は遠慮なく料理をしてもらいたいと思う。家には結構な種類の調理器具や調味料がある(絶対に死守をしたいものには、自分の名前を書いておくなどする必要がある)。
この家を利用する際の注意点があるとすれば「次のひとのため」という視点の維持だと思う。あらゆるものは自由に使えるが、できることならば「次に使う人が気持ちよく使えるように」ささやかでもいいから心遣いをもって使っていただけたら嬉しい。稀に、好き勝手に散らかしまくって帰るひとがいるのだけれど、ああ、これはもう完全に俺の説明不足だなと反省をする。誰でも自由に使えるということ、この『自由』という言葉は使うひとによって感じる意味合いが全然違うから、どうしたってこういうことは起こる。
一応、誰でも泊まれることになっている。が、布団の数に限りがあるので、宿泊希望者の方は事前にご連絡をいただけると助かります。坂爪圭吾の連絡先は以下になります(交通費さえどうにかなれば、私から出張訪問をすることも可能です)。一時的な利用であれば、事前連絡の必要はありません。現在、稲村彰人という24歳の男性が管理人役をしてくれているけれど、この家には「誰かが住んでいる」ということはない。誰かが暮らし始めると、そのひとを中心に「常連」みたいなものが生まれる。常連ができると「常連と、そうじゃないひと」みたいなことになるのが嫌なので、できるだけ風通しの良い空間作りを意識している。仮に、あなたがこの家で「常連ぶっているひと」と遭遇することがあったら、そのひとのことは軽くあしらっちゃってくださいと思う。
連絡先・さかつめけいご
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コミュニティを溶かしたい。
こういうことをやっていると「坂爪さんはコミュニティをつくりたいんですね!」とか言われるが、違う。結構真逆で、私は「コミュニティを溶かしたい」と思っている。価値観を同じにする人々が集まる空間ではなく、価値観はまるで違うけれど、同じ人間であるというその一点において「共存することができる」空間になればいいなあと思っている。
旅人には無償で宿と食事を与えなさい。
昔、旅好きの女性(職業は学校の先生)が「いまは仕事が忙しいので旅をする時間がない。だから、自分の家を解放して(この女性はカウチサーフィンをやっている)旅人を迎え入れることで、旅の雰囲気を味わっている」と話してくれた。私は「素晴らしい感性だな」と思った。生きていると、どうしても「自分と似た環境の中で過ごしているひと」とばかり同じ時間を過ごすことになる。日々の生活も人間関係もパターン化をされてしまう【小さな世界に閉じこもりがちになる】けれど、旅(旅人を迎え入れること)は『日常的に触れ合うことの少ないひとと出会うことで、価値観を広げる』最良の機会になる。
イスラム教の聖典コーランには「旅人には無償で宿と食事を与えなさい」と書かれている。だからなのだろうか、イスラム圏では旅人に親切にするという考えが浸透をしている(ような気がする)。日本なら、四国のお遍路がそれにあたるのだと思う。この国に「いつでも無料で食事ができる場所」や「いつでも無料で泊まれる場所」が増えたとしたら、どのような世界になるだろうか。何もかも失ったとしても、食べる場所と寝る場所はどうにかなると思えることが、結構大きな安心感を生むのではないだろうか。それがあると思えるだけで(実際に使うかどうかはおいておいて)いまよりも少しだけ大胆に生きることができるのではないだろうか。
聖地サンティアゴを目指すスペイン巡礼の道がある。およそ800キロ(ルートによっては3000キロ)を徒歩で移動するのだけれど、その道中には、アルベルゲという巡礼者向けの安宿が大量にある。食事が無料で振る舞われる施設もあり、巡礼者は歩き疲れた果ての喜びとともにその食事をいただく。このようななことを、日本でもできないものだろうかと考えた。自分の家を開放して、巡礼者(旅行者でもいいし一般人でもいい)を迎え入れる。仮に、二つの旗を用意する。緑の側と、黄色の側。緑の側を掲げている家は「今夜はこの家に泊まれますよ!」というサインになり、黄色の旗を掲げている家は「(宿泊は無理だけど)食事程度なら振る舞えますよ!」的なサインになる。シンプルな仕組みだけど、なんだろう、こういう仕組みをWEBも交えてうまいこと配置をすれば「ひととひとが出会う機会」を増やせそうな気がした(まずはごちゃまぜの家を通じて、実験的に試している)。
わたり文庫『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、森知子著作『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』です。離婚の悲しみを払拭するために巡礼の旅に出た著者の思考が、長距離を歩き続けることでゆっくりと整理をされていく様(?)が素晴らしいです。この本を読むと、無性に歩きたくなり(巡礼の旅に出たくなり)ます。何処かにわたしをスペインまで吹き飛ばしてくださる神様はおられませんでしょうか。最近は海外旅行に行きたくてたまりません!!こちらの本をご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※
9年連れ添った年下のイギリス夫から、突然離婚を迫られ、傷心と勢いで旅立ったスペイン。目指すは聖地・サンティアゴ。失業中のバックパッカーから巡礼オタク、果ては白馬連れ女子まで、国籍も目的も多種多様な旅人達と、ビール&トルティーリャをお供に歩いた44日間。男がなくても、旅がある!傷心を吹き飛ばす、スペイン横断巡礼エッセイ。
稼働をさせることよりも、存在を続けること。
ごちゃまぜの家をやっていると「せっかくこういう場所があるのだから、なにかをしなくちゃ!」みたいな思いになることは多い。場所を与えられたことにより、この場所を有効に生かさなければいけないという思いに駆られることがある。が、五ヶ月やってわかった。この家は「稼働をさせることよりも、ただ、そこに『在る』ということが大事なのだ」ということを思う。別に、常に大量のひとが出入りをする必要はない。この家があるということが、誰かにとって「この家があるおかげで(実際に使うかどうかはおいておいて)いまをもう少しだけ大胆に生きることができる」のであれば、それが最高なのだと思う。
この前、ごちゃまぜの家に来てくれた女性が「私はひとと話がしたいと思っています。でも、ひとと話していても『ひとと話している』って思えないことが多くて、でも、坂爪さんの存在をはじめて知った時には『ああ、ここにはひとがいる!』ってなんだかうれしくなったんです」と話してくれた。これを聞いた時はうれしかった。何かの役割を通じてではなく、同じ人間として、対等な立場で話ができる機会はそれほど多くはない。だからこそ、ごちゃまぜの家が「ひとと話せる空間」とか「静かになれる空間」とか「自分を思い出すことができる空間」とか、そんなふうに機能をすればいいなあと思う。
長々と書いてしまった。読みづらい文章だったと思う。ここまで読んでくれたあなた様に最大限の感謝を。最近は金欠で軽く死にかけていて、家では玄米ばかりをかじっていたのだけれども、今日のお昼は「読者【27歳女性】の方に雑司が谷で鰻をご馳走していただく(!)」という、非常に優雅な時間が訪れようとしている。人生、山あり谷ありである。しんどい時期があるからこそ、その先にあるよろこびは輝く。くだらないことで一喜一憂を繰り返し続ける日々だけれど、できることならば「生きていることを楽しんでいたい」のだと、俺は楽しみながら生きていたいのだと、そういうことを思っている。
生きていることを楽しんでいるか。雨の音を聞いているか。空を見たか。風に立っているか。美味いメシを食えているか。静かに本を読めているか。質の高い音楽を聞けているか。本音を話せているか。生活の中に小さな変化を取り入れているか。魂について考えているか。目の前にあるものを味わえているか。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月19日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
生きる意味より死なない工夫だ。
世界一周9万5000キロを自転車で走った方が「最初の一週間は筋肉痛とかで死ぬけれど、それでも走り続ければ人間の肉体はアップデートされる」的なことを言っていた。70キロ超過の荷物を荷台に乗せて、1日平均(走るときは)100キロ程度は走ったという。これを聞いて「人間ってすごい!自転車素人の自分でも、1日かければ結構行けちゃうかも!」と感銘を受けて、折り畳み自転車で80キロくらい駆け抜けてみたら、なう、筋肉痛がものすごい(けど気持ちいい)。
最近思うことあれこれをまとめます。
1・鬱病患者にはビリーズブートキャンプを。
真の意味で腹が減っているからメシを食べているときは稀で、暇だからとか、食事の時間帯だからとか、さみしいからとか、空腹以外の理由でメシを食べていることは多い。これではいかんということで「滝汗を流さない限り飯は食わない」というルールを己に課した。基本的にはビリーズブートキャンプをやる日々を過ごしている。過去に重度の鬱病をビリーズブートキャンプで吹き飛ばした経験があるのですが、もしも、鬱病でお悩みの方がいたら「騙されたと思って、毎日ビリーズブートキャンプを続けてほしい」と思う。私の場合、二週間くらいで鬱病は消えた(気がする)。
2・腹筋運動をすると便通がよくなる。
現代は素晴らしい時代だ。(これは違法なのかもしれないけれど)ビリーズブートキャンプの動画はネット上で無料で閲覧できるようになっていて、やる気さえあれば何処でもエクササイズを行うことができる。ごちゃまぜの家でも、遊びにきた方々を道連れにして男女問わず(わいわい話しながら)苛烈なトレーニングを重ねている。運動はきついが、終了後の爽快感や達成感、苛烈な運動の後のキムチ鍋は最高だった。運動の後の食事は、通常の八倍くらい美味い。腹筋運動を続けていると、蠕動活動(?)が促進をされるからなのだろうか、便通がよくなる。冬は精神的に閉じこもりがちになるからこそ、ごちゃまぜの家では毎日鍋を囲みたいなと思った(鍋の前にはビリーズブートキャンプ!)。
3・運動によって得られる効能が違う。
ランニングはシャープな思考を、自転車ロングライドは自由を、ビリーズブートキャンプは爽快感を与えてくれる。なんて言えばいいのだろうか、同じ運動でもその後の効能(?)は結構違って、ランニングのあとは思考が整理をされてアイデアが閃いたりするのに対して、自転車や筋トレは脳みそをからっぽにする効果が(自分の場合は)高い。人間のカラダって面白いなあと思う。さみしいとき、わたしは「誰かに抱きしめられたい」みたいな気持ちになることがあるけれど、激しい運動をすると「自分で自分を抱きしめている【温もりを自家発電している】」的な気持ちになる。まるで欲望が整理(鎮魂?)されているみたいだ。
4・人生は自分の力で変えていくことができる。
ビリーズブートキャンプをやっていると「人生は自分の力で変えていくことができる」ことを実感する。寒い時期とかは特に「気候がこんなんだからやる気でないよね」みたいな怠慢な気持ちになりがちだけれど、運動をすると「うおらー!」という感じで、閉塞気味な空気感を盛り返すことができる。これは個人的にものすごい大発見で、何も『身を委ねる』とか『流れに任せる』だけが人生ではないのだと。受け入れるとか許すとか自分を愛するとか、言葉は綺麗だけれど、多分、それだけじゃない。気に入らない何かがあるのならば、自分の手で変えていくことができる、自分の手で変えようとしてもいいのだということを、ビリー隊長から学んだ(ビリー隊長、ありがとうございます!)。
5・発信より発熱。
稀に、出会うひとから「どうすれば坂爪さんのように『発信』が上手になりますか?」とか「ブログを書くときに気をつけていることはありますか?」とか「どうすればフェイスブックのいいね数は増えるのですか?」とか、こう、テクニック的なものを問われることがある。私は、謎に『発信』という言葉が大嫌いなので、そういうときは「発信をしているつもりはありません。強いて言えば、発信ではなく『発熱』をしています」と答える。発信という言葉には、なにかこう「世間的に価値があるとされている情報を世に出し、それが認められることで己の承認欲求を満たそうとする【外付けの存在価値を与える】」的な匂いを感じる。
6・愛はないけど熱はある。
稀に、出会うひとから「坂爪さんのブログには愛を感じるから好きです」なんて言ってもらえることがある。そんなふうに受け取っていただけることはとても嬉しい。しかし、昨夜のツイキャス音声配信でも話したように、私は、過去に「あなたはひとを愛せない人間だ」と言われて彼女に振られた経験があります。いまでは「ひととちょっと違うだけで、決して愛がない訳でない!」と思うことで精神の安定を保つことができているけれど、自分に愛があるのかどうかは未だに謎です。が、最近は『愛はない(かもしれない)けど熱はある』ということを己に感じる。
Recoded Radio ビリーズブートハウス - いばや #411626550 - TwitCasting
7・俺には『体温』が残されている。
家のない生活をしていた頃、金も仕事も家も社会的な信用も、俺にはなにもないじゃないかとへこみにへこみまくっていた夜に、ふと、ああ、それでも『こんな俺には体温はまだ残されている』と思ったことがある。なにもなくても体温はある。身体中には血が巡り、この瞬間も臓器は『生きるため』に活動をしている。うまく言葉にできないけれど、この時に『生命は生きようとしている【生命は生きたがっている】』ということを感じた。普段、日常的な生活の中で『カラダ』を意識することは少ない。言葉だけじゃない、頭意識だけじゃない、もっとこう『カラダを通じたよろこび【カラダを通じた生きている実感】』を感じてみたいのだと、わたしは、そういうことを思った。
8・心がある内に、命がある内に、身体を流れる熱量がある内に。
こころのないやりとりを重ねていると、いつの間にかこころは冷え切ってしまう。この瞬間も「自分は生きているのだ」ということを忘れてしまう。どうせならば、生きているのならば、温度感のあるやりとりを交わしたい。心がある内に、命がある内に、身体を流れる熱量がある内に、それを使いたいと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月13日
ツイキャス音声配信の中で「履歴書を書く【ハローワークに通う】くらいなら出家をする」みたいな話をした。履歴書を書くのが苦手なひとは、多分、自分だけじゃないと思う。社会不適合者なのかもしれない。表面的な会話をしていると死にたくなるし、愛想笑いをすると死にたくなる。思ってもいないことを口にしていると死にたくなるし、やりたくもないことをやっていると死にたくなる。裸のままで生きれたらと思う。できることならばウソのない日々を、(肝心なところだけは)ごまかす必要のない日々を送りたいと思う。こころのないやりとりを重ねていると、いつのまにかこころは冷え切ってしまう。温度感のあるやりとりを、お互いの「生きている熱」を感じる交わりを重ねて行きたいと思う。
9・生きててもいいよ。
金や名誉や才能があるから存在価値があるというのは、多分、全然違う。存在価値は全員にある。承認欲求は、誰かに「生きててもいいよ」って言ってもらいたい苦しみに見える。そんなことはないんじゃないのかな、と思う。金も名誉も才能も、何もなくても「生きててもいいに決まってるでしょ!」と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月15日
前は「どうすればフェイスブックのいいね数は増えますか?」とか聞かれた時など、いちいち苛立ってしまう自分がいた。が、いまでは「ああ、もしかしたらこのひとはつらいのかもしれない。いま、感じている苦しみや寂しさをフェイスブックのいいねを増やすこと【金を稼ぐこと】【有名になること】【ひとから認められること】で埋めたいだけなのかもしれない」と感じるようになった。なんだろう、これはよくない考え方かもしれないけれど「みんなさみしいんだな」的なことを思う。誰かに「生きててもいいよ」って言ってもらうために、存在意義や存在価値を追い求めたくなる気持ちはわかる。でも、そんなことはないんじゃないのかなと思う。他者からの承認があるから生きてていいということになると、他者からの承認がない限り「生きているだけではダメ」ということになる。それではあまりにも辛すぎるのではないだろうかと、なにかがあるから生きててもいいというのではなく、なにもなくても生きててもいいと思えることが大事なのではないだろうかと。
わたり文庫『老師と少年』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、南直哉著作『老師と少年』です。こちらの本は、現在、ごちゃまぜの家の管理人をしてくれているあきとさん絶賛の一冊になります。非常に読みやすい良書で、小生、久しぶりに読み返して「生きる意味より死なない工夫だ」というワードに胸がときめきました。あと、個人的に隠者の登場にテンションがあがりました。なんだろう、話の趣旨とは全然違うのだろうけれど、勝手にすごい元気になった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、鹿児島県にわたりました ※※※
生きる意味より死なない工夫だ。 - 南直哉『老師と少年』【新潮文庫】
生きる意味より死なない工夫だ。
生きたくなったり死にたくなったり忙しない日々だ。これから先、一切の予定がないので「死ぬまで暇です」という状態に置かれている。私はなにをすればいいのだろうか。本日はお昼に東京の神田駅でお寿司をご馳走していただくという幸せすぎるお誘いを受けたので、これから電車で神田駅に向かう。午後は池袋でお茶をする予定があるけれど、明日からは何も予定がない。スケジュール的にガラガラなので、もしも「坂爪圭吾とのタイマントークを希望する」的な方がいらっしゃいましたらば、お気軽にご連絡ください。交通手段さえどうにかなれば、よろこびとともに参上いたします(本当は南米やアフリカ大陸に行ってみたい。どうにかすれば行けるのだろうか)。
ごちゃまぜの家で生活をしていると、様々な人々と出会う。最近は、カフェインの錠剤を致死量飲んで自殺未遂をはかったけれど途中で吐き出してしまい数日前まで入院をしていた方や、事業の失敗で自己破産をしたひと、35年の住宅ローンを支払うことが難しくなって八方塞がりになった方や、血縁者が全員いなくなってしまってしまった方など、なんと言えばいいのだろうか「ほんとうにいろいろな方々」と出会う日々のど真ん中にいる。こんな書き方をすると、みんな深刻そうなひとをイメージするかもしれないけれど、表面的にはみなさん「非常にいい感じのひと」に見える。一見すると普通に生きているようなひとでも、人知れず、誰にも言えない問題を抱えているものなのかもしれない。
様々な話を聞きながら「物事に重いも軽いもないな。ただ、そうなだけなんだな。それを重くしているのは自分自身なんだな。重いと思えば重くなるし、軽いと思えば軽くなる。どのような状態に置かれたとしても、きっと、その中で自由を感じることもできるし、まるで一切の自由を失ったように感じることもできる。このご時世、飢えで死ぬことは絶対にないとは思うけれど、飢えへの恐怖心で死んでしまうことはあるのだろうな」と思った。生きとし生けるものの心の中を蝕む『恐怖心』と呼ばれているものが、少しでも軽くなればいいと思う。自分が生きているということが、誰かにとって「人生は意外とどうにかなるのかもしれない」なんて思えちゃう【こころが軽くなる】ようなものになればいいなななんて、そんなことを思いながら神田駅に向かいます。
重いも軽いもない。ただ、そうなだけだ。それを重くしているのは自分だ。過去とか未来とか、不安や恐怖【いま、ここにないもの】を抱えたまま生きるのは、あまりにも重い。人間は弱いが、生命は強い。簡単に死ぬようには作られていない。夢や妄想に押し潰されてしまう前に、落ち着きを取り戻すことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月15日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
正しさよりも「楽しさ」だ。
Mr.Childrenの「光の射す方へ」を聴きながら新横浜駅まで歩く。雨だ。天気予報はしばらく雨だ。天候と精神状態は比例をする。やばい。このままだと(最近調子に乗りはじめた自転車ロングライドやランニングの類もできなくなるし)絶対に滅入ると思って日本の天気をざっと調べたら、札幌と那覇だけは晴れるみたいだから飛行機で飛んでやろうかと思った。が、なんだかむなしくなってやめた。こんな時はどうすればいい。連日の雨の中どうやって精神状態を保てばいいのだと苦悶していたら「あっ!」と閃いた。そうだ。私には伝説のビリーズブートキャンプがあるじゃないかと閃いた。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
私は過去に半年間寝たきりで一ヶ月間で20キロ太り「俺の人生は終わった」と嘆きながらも徐々に体調は回復をして「伝説のビリーズブートキャンプ」を通じて三ヶ月で15キロ痩せる奇跡のJ字回復を果たしたことがある。そのことを思い出した。詳細はイベントページに譲るけれど、なにもやることがない時こそ「基礎体力の増強」に限る。これからしばらく菊名にいる。時間のあるひとはあったり話したりしましょう。カラダを動かさないとアタマがおかしくなる。私の場合は「(カラダを動かさないと)すぐに死にたくなる」衝動に駆られるから厄介だ【生きる意味より死なない工夫だ!】。
自由とは何か。
ごちゃまぜの家の活動をはじめて五ヶ月目になる。良いことも悪いことも五億個くらあったけれど、総じて「いい感じ」だと思う。ごちゃまぜの家は「みなさまの善意によってまわっている」基本的になにをしても自由な空間ということになっているのだけれど、自由の名のもとに「人間の品性は丸裸になるのだな」的なことを思う。様々な利用者が来る。家にあるものを大切に扱ってくれるひともいれば、なんというか下劣な人も来る。家にあるものを大切に扱ってくれるひとが来てくれた時は非常に嬉しいけれど、どうしようもないひとが来た時は「お前は誰だ!」と思うこともある(「帰ってくれ」と言うこともある)。
自由とはなんだろうか。わからない。私はなにがやりたいのだろうか。あまりよくわからない。誰でも自由に足を運べる空間があったらいいだろうなと思ってはじめたものの、よくわからない人が来ると「お前は帰れ」とか思う俺はいったいなんなのだろう。これじゃ罠を仕掛けているのと同じじゃないかと思う。表向きには「誰でも来てください!」とか行っておきながら、気に入らないひとが来ると不機嫌になる。ごちゃまぜの家とか言っておきながら、こころの何処かでは「ごちゃまぜにされてたまるか!」とか思っている自分もいる。
思うことはふたつある。私の役割は「本当のことを言うこと」だということ。そして「お前が自由であるように、俺も自由であることを忘れるな」ということ。この家は、あらゆるひとに対して門戸を開く。門戸は開かれているものの、この空間を甘えや依存を助長する場所にしたいとは思わないので、それなりの緊張感をもって臨んでいる。この家は、みんなの家でありながら、誰の家でもない。誰もが使える家でもあると同時に、誰もが『使わせていただいている家』でもある。なんと言えばいいのだろうか、感謝と緊張感を忘れたらアウト、(これはあくまで自分自身に対して感じているものだけれど)調子に乗ったらご臨終、傲慢になった瞬間に即死をしてしまうものだと思う。
お前はお前でかかって来い。
この家にいると「ああ、このひとに説教をしたいな」と思う瞬間がある。牡羊座生まれだからなのだろうか、私は、私の中に「静謐にして苛烈な炎【ファイアー】」的なものを感じることがある。なんだかだらけているだけに見えるひと、自分や他人をまったく大切に扱えていないように見受けられる人を見ると、「お前はそんなもんじゃないだろう!」みたいな感じでビシッと説教をしたくなる。多分、私は『なにかをごまかしている』と感じるものに対して過剰に鋭敏で、あれ、いま、お前はウソをついているだろうとか思ってもいないことを言っているだろうとかお前は何かを隠しているだろうと感じる時に、その点を突かずにはいられない傾向がある(のだと思う)。
この感覚は、多分、こどもが「王様は裸だ!」と叫ぶ時のアレと似ている。偉そうなひとを見ると「なんぼのもんじゃい!」と天狗の鼻を折りたくなるし、あまりにも長い間悲しみに浸っているひとを見ると「浸ってんじゃねえよ!」的なことを言いたくなる。いや、別に、自分といない間はいくらでも好きなようにしてもらっていて構わないのだけれど、この瞬間、坂爪圭吾と居合わせたことが運の尽き、私と言う人間といる間は「申し訳ないけれど、思ったことを言わせていただきます」ということを感じることは多い。
相手が誰であれ、良くも悪くもまっすぐに向き合ってしまう。瞬間瞬間に最大限のエネルギー【集中力的なサムシング】を注力してしまうし、相手が有名人であろうが無名人であろうが関係ない、『瞳』や『声』や『表情』や『仕草』や『言葉遣い』など、その人自身から(無意識のうちに放たれているであろう)情報のようなものを総動員して、さて、このひとのコア(それを抱えて生きることはとても苦しいことだからどうにかしたいとは思っているけれど、でも、それを手放すことも物凄い怖いと感じる矛盾的なもの)を織りなしているものはなんなのだろうかをできるだけ見極めて、最小限の言葉で其処を突く。9割聞いて、1割突く。それが私のやり方だ。だから、話している時に相手の涙を見ることは多い。なんて書くと「会いにくくてたまらないひと」みたいに思われちゃうかもしれないけれど、事実、その通りなのだからどうしようもない(のだと思う)。
わたり文庫『かもめ食堂』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は『かもめ食堂』です。映画も原作も素晴らしい最高の一冊になります。私はこの作品が大好きです。読書の秋ということで、雨の日は家でゆっくり本を読むのも素晴らしいかもしれません。この作品を読んでいたら無性にヘルシンキに行きたくなったのですが、誰か、坂爪圭吾を北欧界隈まで飛ばしてくださる神様はいらっしゃらないものでしょうか。こちらの本をご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。これは余談になりますが、ごちゃまぜの家には『わたり文庫の部屋』みたいなものがあって、そこに置いてある本は誰でも自由に持ち出しできる形になっています(返却不要!面白かったら次の誰かにまわしてください)。もしも「この本は素晴らしいから誰かに無理矢理でも読ませたい!」みたいな本をお持ちのかたは、是非、わたり文庫の部屋に勝手に置いて言っていただけましたら幸いです。
※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※
「で、これはひとこといってやらねばと思って、弟の家に行って、『あんたのおかげでくさくさするから、気晴らしに旅行に行ってくるわ。しばらく帰らないから放っておいてちょうだい』って怒鳴ったんです。ちょっとすっきりしました」
「それがフィンランドなんですね」
「父のオムツを換えているとき、テレビでフィンランドのニュースを何度も見たんですよ。『エアーギター選手権』『嫁背負い競争』『サウナ我慢大会』『携帯電話投げ競争』でしたね。いちばんすごかったのは、『嫁背負い競争』です。ふつうに考えると、おんぶすると思うでしょう。それが違うんです。奥さんの両膝を後ろから自分の両肩にひっかけて、ものすごい速さで走るんですよ」
「ということは奥さんは逆さ?」
「そうなんです。もう両腕なんかぶらぶらしちゃって。それを見て、こんなことを一生懸命にやる人たちって、いいなあって思ったんです。どこかすこーんと抜けてるっていうか。妙なしがらみなんかが全然なさそうで。人生がとても楽しそうだったんです。で、来ちゃったんですけど・・・」
マサコはすまなそうな顔になった。
正しさよりも「楽しさ」だ。
先日、食育をやりたいと語る女性と出会った。食事がカラダに与える影響はなんとかかんとかと語る女性自身がなんだかちょっと不健康そう(生きていることが苦しそう)に見えたので、正しい食事療法が云々よりも『自分の体がよろこびを感じる食事』の方が五億倍重要だと思った。なんだろう、自分に対する自信がない時とか、弱気な時は「正しいとされているもの」にすがりつきたくなる気持ちはめちゃめちゃわかる。だがしかし、私は「そこによろこびはあるのかい?」と問いたい。私は「人生を苦行にしてはいないかい?」と問いたい。そんなことよりも「感動を大事にしろ」と言いたい。
うまく言える自信はないが、自分に自信がないとき(自分の価値判断に信用を置けない時)、世の中でよいとされているものを通じて自分に自信や価値を持たせようとしてしまうことがある。だがしかし、それでは「他人がよいと言っていること」を間借りしているだけで、いつまでたっても「俺はこれが素晴らしいと思う」的な自分軸を築くことはできない。ここまで書きながら「私はなにが言いたいのだろうか」とか思ってしまった。どうしよう。どこに着地をすればいいのだろう。私は「感動を大事にしろ」という感じでこの件を書き始めている。そうだ。私は「他の誰かが言っていることではない、自分のカラダが感じるよろこびを基礎に人生を築いてもいいのだ」ということを思っていたのだ。
私は夕日が好きだ。夕日が好きだとか言っておきながら、ほとんど夕日を見ない日々が続いていた。久しぶりに夕日を見た時、ああ、やっぱり夕日は最高だなと思った。そして、夕日を見るという行為を非日常的な行為(自分から遠く離れたもの)にする意味も義務も必要もまったくないのだと、それが本当に大好きならば「毎日見てもいいのだ」「(非日常のままにするのではなく)自分の日常にしてもいいのだ」「自分の好きなもので日々を構成してもいいのだ」ということを思った。世間的な知名度とか見栄とかプライドとか親の期待とか世間体とか他人から幸せそうだと思われることだとか、そういうことはどうでもいい。誰がなんと言おうが、自分のこころが「これは最高だ!」と思えるもので己の日々を構成し尽くした者。私は、そういう人間こそを『勝ち組』と呼びたいのだと思う。
これからを生き抜くためには英語や学歴が必要だとかWebのスキルや各種資格のある方が有利だとか、こんなものは全部嘘だと思う。だから、惑わされちゃいけないのだと思う。自分が真に見たいと思う景色は、損得勘定の先ではなく「自分の体が感じるよろこび」の先にある。感動の先にあるものだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月12日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
まずは自分を許せ。
生姜と大根をすりおろし、蜂蜜を加え、お湯を注ぐ。カラダ全体が温まり、なにかこう「俺はいま、カラダにとって『よいこと』ができている」という気持ちになる。弱気な時、不安な時、心許ない時、自分がやっていることが(どれだけささやかなものだとしても)なにかしらに対して『よいこと』であると思えることは、精神的な安定を生む。逆に言えば、自分の存在が誰の役にも立っていない、自分は無価値である、誰かに迷惑をかけているという感覚は自尊心を奪い、精神的な安定を削る。
ー 孤独に捕まってしまった。
最近は孤独に捕まっていた。この記事をご覧のあなたは、孤独を覚えることはあるだろうか。ああ、やばい、このままだと鬱病になりそうだと感じる程度の孤独、そんな孤独を覚える時は、どのように対処をしているのだろうか。寝れば忘れる程度の孤独であれば問題はない。が、今回の孤独は厄介だった。なにをしていても気分が晴れることはない。逃げても逃げても追われるし、どれだけ振り払ってもまとわりつく。自分が好きだったはずのことをしても、自分の内部に届かない。孤独は常に隣にいて、そいつは「俺はお前を見ている」と囁く。どうすればいい、どうすればいいとどれだけ考えてみたところで妙案は浮かばない。頭の中では「このままではいけない、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、」ということばかりを感じていた。
孤独に捕まったことを認めた。
ここ数週間、孤独に捕まっていた。なにをしている時も孤独は常に隣にいて、俺はお前を見ていると囁く。逃げても逃げても追われるし、どれだけ振り払ってもまとわりつく。どうすればいいんだと気持ちは焦り、ダメだ、ダメだと胸が痛む。が、それが消えた。孤独に捕まったことを認めたら、何かが消えた。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月10日
が、不思議なことに孤独は消えた。なぜだ。昨日、東京駅で待ち合わせていた方と合流をするために、東京駅のホームを花を片手に「さみしいなあ。さみしいなあ」などと思いながら腐ったトドみたいな表情で歩いていた。自分がこのように孤独マックスの状態でまともに会話ができるかどうかまるで自信がなかったから、そのひとにあったら「ここ最近は孤独に捕まってしまっているために、まともに話ができないかもしれないけれど許してください」的なことを言えばいいかな、なんて思っていた。ら、孤独が消えた。孤独に捕まってしまったと言葉にしたら、孤独が消えた。これはなぜだ。
孤独は「ごまかすな」と言っている。
愛そうとしなくてもいい。元気になろうとしなくてもいい。強くなろうとしなくてもいい。弱さを克服しようとしなくてもいい。自分を変えようとしなくてもいい。肯定的に考える必要も、否定的に考える必要もない。多分、全部、そのままでいい。あらゆる思いを手放した時、心の重荷は軽くなるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月10日
多分、自分は「どうすれば孤独を忘れることができるか」とか「どうすれば孤独を消し去ることができるか」とか「どうすれば孤独を乗り越えることができるか」とか、そんなことばかりを考えていたのだと思う。目の前にある孤独を直視することなく、その先のことばかりを考えていた。が、これから人と会うということで「自分の現状をしっかりと言葉にしよう」と思ったわたしは、なりたい自分像ではなく「ごめんなさい、いまの自分はこんな感じです」的な意味合いを込めて、孤独に捕まってしまっていますと言葉を与えた。ら、孤独が消えた。あれだけしんどさを覚えていたはずの感情が、不思議な話だ、音速で消えた。心は軽くなり、あれ、おれ、孤独だったはずだよなあとどれだけ考えてみても既に実感がない。合流後、わたしは非常に爽快な気持ちでうどんの大盛りとカツ丼を食べた。
孤独が教えてくれたこと。
孤独を打ち消すために様々なことをやった。8時間くらい自転車を漕ぎ続けたり、精神が安寧を取り戻すまで歩き続けることを試みたり、マインドフルネスがどうのこうの的な感じで瞑想の真似事をしてみたり、野性味が足りないのかもしれないと思って野宿をしてみたり、全身をタワシでこすってみたり、道端の草を食って見たり、ひとの相談事に乗ってみたり、いろいろやったけど全然ダメだった(ただ、ひたすら体を動かした後の空腹感は半端ないから、その後の食事は最高だった。食事の瞬間は最高だったのだけれど、食後の満腹感から「ああ、おれはクソだ」的な思考に逆戻りをするまでは早かった)。
自分は必要のない人間だと感じた時、同時に、そんな自分でも「誰かの幸せを願うことはできる」と思った。愛するひとの幸せを願う時、心の空白は埋まる。さみしいとか、悲しいとか、しんどいとか、苦しいとか、「自分の」感覚が消える。愛とは、自分の命を、自分以外のものに注ぐ行為なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月8日
自分にとらわれるから苦しくなる。ただ、自分を超えて「誰かの幸せをいい感じに願えている時」だけは、自分の苦しみを忘れることができた。が、二十四時間誰かのことを考えていられる程度にはまだまだ全然成熟をしていないために、自分に立ち返ると「ああ!ダメだダメだダメだ!」みたいな感じになる。このあたりはまだまだ全然修行が足りない。もっとひとを愛せたらとか、もっと自分を消し去ることができたらとは思うものの、結局「俺の孤独が」とか「俺の弱さが」とか、俺の、俺が、俺は、そういうことばかりを考えてしまう。
一輪の花の静けさに、心が慰められることがある。人のやさしさや、愛と呼ばれるもの、温もりと呼ばれるものに慰められることもある。ただ、それだけじゃない。ひとりの人間が抱える弱さに、孤独に慰められることもある。願わくば、自分のなかにある弱さや孤独が、誰かを照らす光になりますように。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月9日
ひとはみんな弱いのだとか、ひとはみんな孤独なのだとか、そういうことを考えれば少しだけでも自分の孤独が和らぐような気がした。別に孤独が消えた訳じゃない。ただ、つらいのは自分だけではないのだよなと思うことで少しだけこころは軽くなるような気がした。が、正直に言えば気休め程度に過ぎなかった。この違いはなんだろうか。東京駅で「孤独に捕まってしまった」と認めたあとの開放感、すべてから解き放たれたあの感覚は、一体なんだったのだろうか。まるでうまく説明をすることはできないけれど、もしかすると「孤独という言葉があるから孤独にはまってしまうだけで、極論、孤独もさみしさもあらゆる感情も幻に過ぎないのではないだろうか」ということを思った。
テントの明かりは温かい。
ごちゃまぜの家でおまちしております。
謎にスッキリしている。何も解決した訳じゃないのに、現状は何も変わっていないというのに、まったく問題はないではないかという気持ちである。自分の気分屋っぷりには愛想が尽きそうになる。結局、すべては「心の状態」なのかもしれない。難しいことはわからない。が、もしかすると「難しいことなんてなにもない」のかもしれない。今日から一週間、横浜にあるごちゃまぜの家の管理人として、新潟から『伝説のあきとさん』が滞在をする。坂爪圭吾も(少なくとも今日と明日は)ごちゃまぜの家にいると思いますので、興味のある方といいますか、誰かと話がしたい方は坂爪圭吾かあきとまでご連絡ください。
[メール]akito.inamura@gmail.com
[LINE ID]0reaki10
(その他、Facebookで「稲村彰人」と検索して友達申請していただいた後、Messengerでやり取りするという形でもOKです)
まずは自分を許せ。
葛藤と苦悶の日々を過ごし、最終的に「ジタバタするなよ」という思いに着地をした。無理をしてまでなにかを愛そうとしなくてもいい。明るく元気になろうとしなくてもいい。強くなろうとしなくてもいい。弱さを克服しようとしなくてもいい。自分を変えようとしなくてもいい。目の前にある物事を、肯定的に考える必要も、否定的に考える必要もない。多分、全部、そのままでいい。どんな思いも重荷になる。あらゆる思いを手放した時、心の重荷は軽くなる。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月6日
なにかをしなくちゃいけないという思いで、自分を責め立ててしまってはいけないし、自分を絞り出してしまってはいけない。なにかをしたくなる瞬間は、誰の元にも必ず訪れる。そうしなければいけないという思いではない、そうしたくなったその瞬間の「あふれだした」気持ち【通称・あふれちゃん】を信じたいと思う。誰の中にも『泉』のようなものは確実にあって、それは、時が来れば勝手に噴出をして、自分を内側から突き動かす。外側からの刺激に反応をするような形ではなく、自分自身の内なる要求として、勝手に『命』は動き出すようにできている。
神が人間に与えた最終奥義は『許す』だと思う。どれだけ嫌いな相手でも、俺はお前を許すと決めれば以外と許せる。逆に『許せない』という感情を抱えて生きるのは半端なく重い。多分、一番最初に許すべきは他の誰でもない自分自身だ。俺は俺を許す。実際に口にするだけでも、心は軽くなるから不思議だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月9日
繰り返しになるけれど、なにかをしなくちゃいけないという思いで自分を駆り立ててはいけない。そのままでは、必ず何処かで無理が出る。無理が出ることは悪いことではないし、そのことで学習をできることも確実にあるとは思う。が、自分に無理を要求するほどに他人にも無理を要求するようになり、結果、世の中がギスギスしてしまっては元も子もない。気分が晴れない時は、単純に「なにもしない」を選べばいい。なにもしないと決めた中で、ふと、散歩をするとか料理をするとか、そういうことをやりはじめる瞬間がある。その中で、時折、たとえば綺麗な空を目撃したりすることがある。この世界を「捨てたもんじゃないな」と思わせてくれる瞬間は、多分、あちらこちらに転がっているのだと思う。
感情は、絞り出すものではなく「溢れ出すもの」だと思う。頑張らなきゃとか、やりたいことを見つけなきゃとか、自分を好きにならなくちゃとか、常に自分を絞り出していたらボロボロになってちぎれてしまう。何かをやりたくなる瞬間は誰の元にも必ずあるから、大事なことは「命を信じる」ことだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月25日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させるんだ。
東北から菊名に戻り、熱海の伊豆山神社と箱根の九頭竜神社を経由して、いまは東京の板橋周辺にいる。岩手県で開催された「ごちゃまぜの寺」のイベント時に、なにかこう神的なものから「自然に還れ」と言われたような気がした。自然に還るとはなんだろうか。森や山の中で小屋でも建てて自給自足の生活をすることだろうか。そういうこととはちょっと違う気がする。それは「思い出す」とか「取り戻す」という感覚に近い。自分の中にある自然を思い出す【取り戻す】こと、それが自然に還るということなのかもしれない。
最近思うことあれこれをまとめます。
1・ あとは全部こっちで用意するから、お前はお前の中にあるやつを全部出せ。
神と直接交信ができる訳ではないけれど、稀に、神的なものの声を聞くことがある。神という言葉に違和感を覚える場合は、それを「自然」とか「内なる声」などに置き換えてもいい。最近の私は、神的なものから「あとは全部こっちで用意するから、お前はお前の中にあるやつを全部出せ」と言われている気がする。生活のあらゆることは一切無視をしてもいい、これからどうなるかなどといったことは全部こっちで用意をするから、お前はお前のなかにあるやつを全部出せ。そんなことを言われているような気がする。
2・神の世界ではなんでも叶う。それじゃ愛を実感できないから、この世界に来た。
神的な世界では「思ったことが瞬時に実現する」世界であると聞いた。そんな世界では何かを成し遂げるよろこびであるとか、それを成し遂げるまでの心の葛藤や愛の喜びみたいなものを感じることができないからと、ある程度不完全な状態で放り込まれた世界が「地球【いまいる世界】」であるのだと、そういう話を聞いた。諸々の出来事で四苦八苦をすることは多いけれど、それもこれも「それらを経験するために生きている」のだと、そのような話を聞いた。
3・神であることを思い出したらゴール。
そんな世界では「自分は神である」ことを思い出したらゴールになる。多分、これは誰にでもある瞬間だと思うけれど、生きていると「あれ、いま、俺は何かを悟っちゃったかもしれない」とか「あれ、いま、俺は世界の秘密を知ってしまったかもしれない」なんて思う瞬間がある。多分、その瞬間、そのひとは神的なものに触れているのだと思う。だが、悲しいかな、24時間常に神的なものに触れ続けていることはできない(神であり続けることはできない)から、再び『ぶれ続ける人間』に戻る。
4・呼吸。
天から降り注ぐエネルギーを体内に取り込むイメージで、鼻から大きく息を吸う。その後、吸い込んだ息を(自分の中にある悪い気を放出するような感覚で)天に吐き還す。その後、大地から湧き上がるエネルギーを体内に取り込むイメージで、鼻から大きく息を吸う。その後、吸い込んだ息を(自分の中にある悪い気を放出するような感覚で)大地に吐き還す。ある程度繰り返すことで、自分の中に「スッ」とした(天地と繋がる的な)一本の芯を通す。
5・余剰物を削ぎ落とす。
コンクリートに囲まれた中でもこの呼吸法は有効なのかもしれないが、私のような弱者はある程度の自然に囲まれた中でやらないと、なかなか集中をする(効果を発揮する)ことができない。都会の生活が長く続くと、情報にまみれた日々を長く過ごすと、自分の中に『余剰物』がたまる。荷物みたいなもの、重荷になるもの、ゴミみたいなもの。自分の中にある余剰なものを削ぎ落とす、葬り去るための儀式的な時間が必要になる。
横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを。
6・横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを。
横【ひと】との繋がりだけを求めると、どうしたって辛くなる。さみしさなどの感情は、誰かに何かを埋めてもらいたい(誰かに何かを埋めてもらえない)と感じる時に生まれる感情なのかもしれない。ひとの感情は流れさるものであり、移りゆくものだ。横【ひと】との繋がりだけではない、縦【天と地】との繋がりを取り戻すことができる場所や時間や空間を持つこと。私の場合、それが熱海市にある神社であったり、新潟市にある海辺の空き地や夕日を眺めることができるスポットになるのかもしれない。この場所があれば何度でもやり直せると、自分にとっての「おっさん岩(井上雄彦『バガボンド』参照)」的な場所を持つということ。
7・月が太陽になり、太陽が月になる。
いままで通用していたものが、これから通用をしなくなるような時代が来る。そういう予感めいたものを感じる瞬間がある。それは世の中の常識とされているものがひっくり返るような瞬間の到来。月が太陽になり、太陽が月になるような瞬間の到来。強いものが弱いものになる瞬間の到来と、弱いものが強いものになるような瞬間の到来。表側が裏側になる瞬間の到来と、裏側が表側になる瞬間の到来。
8・水になれ。
無用の用という言葉がある。コップなどの器は、その空白【なにもない】部分があるからこそ、そこに水をいれることができる。部屋などの空間は、その空白【なにもない】部分があるからこそ、家具を置いたりひとが横になるスペースを生むことができる。なにかがあるからではない、なにもないことの中で真髄を発揮するもの。頭をからっぽにするということ。かたちを持たない水のように、何者でもないからこそ、何者にでもなることができる。
9・生きとし生けるものはすべてたおやかである。硬直したものは砕けやすく、力強いものは必ず転げ落ちる。
ブルースリーは恩師から「生きとし生けるものはすべてたおやかである。硬直したものは砕けやすく、力強いものは必ず転げ落ちる」という教えを繰り返し受ける。カンフーの目的は『欲望や執着から自分を解き放ち、心と体の調和を手にすること』にあると聞く。そしてまた「この道を志すものは己を慎まなければならない。地位や名声は武闘家にとって意味をもたない。地位を失う恐怖心を抱かざるをえなくなるからだ」とも言われている。これはなにも、カンフーに限った話ではないのだと思う。俺が俺がとなるほどに、自分自身にとらわれていく。とらわれた心は固くなり、とらわれた心は重くなる。「重い」部分を軽くするもの。自分の中にある「硬い」部分を柔らかくするもの。軽く、軽く、軽く、柔軟であるということ。
10・俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させるんだ。
岩手県で「けいご」という私と同じ名前の3歳の男子と出会った。名前が同じだからなのだろうか、強い共感を覚えて(非常に短い滞在時間だったけれど)仲良くなった。けいごにはお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんはけいごにやさしくもするけれど厳しい言葉もど直球に浴びせる。けいごが邪魔な時は「けいご邪魔、どっかいって!」と言い、場合によっては「けいごなんていらない!けいごなんていなくなればいいのに!」と声を荒げる。その度にけいごは泣き、そしてまた、時間が流れると再びおねえちゃんのもとに(何もかも忘れてしまったかのように満面の笑顔で)足を向ける。
お寺の境内をとぼとぼと1人で歩く小さなけいごを眺めながら、ふと、お前は愛されているという言葉が脳裏をよぎった。これは決して、私【坂爪圭吾】という人間個人が小さなけいごに対して抱いた感情なんかではない、なにかこう、天から降り注ぐ『親愛に滿ち溢れた声』とでも言えばいいのだろうか、神的なものはどのような時でもお前を見守っているのだと、周囲の人々はどうであれ、どのような時でもお前は愛されているのだと、お前は守られているのだと、だからなにも恐れることはないのだと、そういうことを(小さなけいごに対しても、自分自身に対しても)感じた瞬間があった。
生きているといろいろなことがある。いろいろな気持ちにもなるだろうし、自分が自分であるということに押し潰されそうになることもあるだろう。それでもなお、俺は俺という作品を完成させるから、お前はお前という作品を完成させろ。小さなけいごと過ごした時間に湧き出した感情は、そのまま、自分自身に向けられた光となってあたたかに包んだ。お前は愛されている。お前は守られている。その声を、神の御加護を胸に進め。この瞬間に湧き出した想いは、願いは、祈りは、多分、こんな簡単な言葉でまとめることができるのだと思う。
ー 自分であれ。
道に迷った時は、損得感情じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。自暴自棄にはならないこと。希望が消えてなくなる前に、残された時間に最善を尽くすこと。品位をもって、勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年7月13日
お前は愛されている。お前は守られている。その声を、神の御加護を胸に進め。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる。
新潟から熱海を経由して横浜に立ち寄り、東北新幹線で岩手県一ノ関駅に到着をする。宮城県気仙沼市と岩手県奥州市で開催されたイベントに登壇(?)したのちに、いま、仙台駅構内にあるカフェからこの記事を更新している。連日の移動で頭がイカれたのだろうか、季節の変わり目だからなのか、最近はさみしさを覚えることが多い。さみしさだけではない、自分の生き方に対する「このままでいいのか」感も強く覚えている。
私は有名になりつつある。街角で声をかけられる場面や、書籍出版や各種メディアへの出演依頼も増えた。有名になることと「幸せになること」はまったくの別物で、有名になればなるほどにイメージが一人歩きをするようになる。出会う人々の多くは「目の前にいる坂爪圭吾」ではなく「イメージとして先行をしている坂爪圭吾」と話をする。これも仕方のないことなのだなと思いながら、誰もおれのことを見てはくれないのだなと湿っぽい気持ちになることもある。しかし、冷静に考えて見ると「有名になる前から、お前は人と話をしていても『人と話している』と思えていないことが何回もあったじゃないか」ということを思い出す。
さみしさを溜め込み過ぎた。
最近はさみしさを覚えることが多く、瞬間瞬間に生まれては消えていくさみしさもあれば『ああ、このさみしさは昔から無意識に溜め込んできてしまったものだな』と感じるものもある。さみしさの正体はなんなのだろうかと思いながら、いまだに突き止めることはできていない。そして、おれはいつまでこのさみしさを抱えて生きるつもりなのだろうかと、死ぬまでこれを抱えて生きるつもりなのだろうかと、否、さみしさを抱えていることを悪いことだとは思わないけれど『そろそろこのさみしさにケリをつけにいこう』と思っている自分もいる。
己をぶちまけて輝け。
昨夜、こんなメモ書きをした。
もう、こんな生き方はやめよう。大衆に迎合するような生き方は終わりにしよう。必要としてくれる人に自分を合わせる生き方はやめよう。これで死んでしまうなら仕方がない、その時は死んでしまおう。媚びることはできない。愛想笑いも作れない。この先に見たいと思える景色があるとも思えない。ダメになるかもしれない。破滅するかもしれない。それでも、仕方ない。俺はどうしようもなく俺なのだと思う。それならば、己をぶちまけて輝け。祈るように、歩みを進めていこう。
生き方を変える時期が来ているのだと思う。他人の必要に応えるのではなく、自分の必要に応える時期が来ているのだと思う。様々な人々が、様々な形で自分のことを形容する。他人だけではない、自分自身も「自分はこういう人間だ」と、自分のことを決めつける。しかし、どれだけ多くの形容をされた(してみた)ところで、自分の中にある部分は「それだけじゃない」と叫んでいる。この「それだけじゃない」と叫んでいる部分を、自分さえも知らなかった自分の部分を、しっかりと外側に出してやるということ。
ー それが、表現をするということだと思う。
すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる。
自分を説明したりだとか、説得したりだとか、正当化してみたりだとか、多分、そういうものの一切は不要なのだと思う。自分でもまるでわかっていないほんとうの自分を、誰か【自分や他人】に説明なんてできるはずがない。説明をした瞬間に、自分の中にある部分が「それだけじゃない」と叫び出す。自分の中にある矛盾、自分の中にある弱さ、自分の中にあるグチャグチャな部分を、統合するでもないままにまるごと前面に打ち出すこと。醜いなら醜いまま、ダメならダメなまま、自分を外側に打ち出すということ。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。誰かといたいと願いながら、誰ともいたくないと思う自分がいる。何処かに行きたいと願いながら、何処にも行きたくないと思う自分がいる。自分の中にある矛盾が、鈍く胸を刺す。弱いことは悪いことじゃない。ただ、そうなだけなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月18日
溜め込み過ぎたかなしみを、溜め込み過ぎたさみしさを、外に出してやる時期が来ているのだと思う。自分のことなんてわかってもらえなくてもいいなどと突っ張りながら、実際は「わかってもらいたくてたまらなかった」のだと思う。愛しているとか愛していないとか、そういうものを飛び越えて、ただ、そのままであることを許して欲しかったのだと思う。期待されている枠の中に自分をあてはめることで「生きる許可」を得るのではない、ただ、自分はどうしようもなく自分であるということを、誰かに許して欲しかったのだと思う。
憂いに呑み込まれそうになる時でも、生きる方向に舵を取ること。さみしさと無価値感を結び付けないこと。自暴自棄にはならないこと。誰にもわかってもらえないからと人間を諦めるのではなく、一瞬でもわかりあえた記憶を思い出すこと。難しい場合もあるけれど、今、目の前にあるものに心を込めること。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月30日
岩手県奥州市で開催されたイベントの後に、参加者の方から「心の奥にある隠しても隠しきれないほんとうのことを言われると、涙が出る」と連絡が届いた。なぜ、涙は流れるのだろうか。すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなるという言葉を聞いた。愛することを恐れる時、愛されることを恐れる時、生きていくことを恐れる時、自分はなにを恐れているのだろうか。許せない何かを「許す」方向に舵をとる。そのための戦いを、いま、この瞬間も多くの人々が人知れずおこなっているのだということ。自分の歌を歌うということが、いつの日か「自分を許す」ことにつながればいいと思う。
「すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる」という言葉に、最近は一番グッと来た。瞬間瞬間に生まれる恐れや不安を乗り越えた時、自分はどのような在り方を見せるのだろうか。すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる。言葉の奥に宿る、深遠な輝きを感じている。 pic.twitter.com/Lnz9nMO17B
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月29日
坂爪さん
今日はリアルでお会い出来て嬉しかったです。ありがとうございます。
前ならえが得意です。
だけど生きづらいです。
わたしは人と繋がりたい
と、おはなしされていた女性のことばに泣きそうになりました。
今更ながら、ハグすりゃよかったと後悔してます。
自分の心の奥にあることをえぐられたと思いました。心の奥にある隠しても隠しきれないほんとうのことを言われると、涙が出ますね。帰りの車の中で、あたたかい涙が垂れました。
嫌っていいし、
お前くそだなって罵ってもいいし、
罵らなくてもいいし、
誰かに合わせなくてもいいし、
合わせてもいい、
好きなことしまくって、
罪悪感を抱いてもいいし、
いい子でいなくてもいいし、
いい子でいてもいい。
愛されなかった(と思ってる)自分、
我慢して好かれようとしてた自分、
もうどんな自分でも大丈夫だからね。と、自分を抱きしめております。
『すべての恐れがなくなったら、人は愛することしかしなくなる』
坂爪さんのツィッターを見て、心にずんずん響いてきました。
わたしが、分かち合うことができる得意分野は、風俗という世界なのですが、あぁこれでいいのだと、自分に対し頼もしい気持ちになりました。
目を通してくださって、ありがとうございます。
自分のことばかり書き連ねて、スッキリしました(笑)
今度は、熱海か菊名に馳せ参じたく存じます。
追記
お花を差し上げたときの坂爪さんのキラキラした眼差しに、やられました。すごく美しく、なんて可愛らしいのだろうと。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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悲しみにケリをつけに行こう。
福島県会津若松市を経由して新潟県新潟市にはいる。新潟市は私の故郷で、良くも悪くも自分も一部なのだと思う。馴染みの道を歩くたびに、昔の傷が思い出されて精神がえぐられる(ような気持ちになる)。こちらのブログをご覧のみなさまは、ご自身の地元のことは好きだろうか。それともあまり好きではないだろうか。好きとか嫌いとかそんな言葉では表現しきれない複雑な感情をお持ちだろうか。新潟と私は因縁の関係にあり、最近の私のテーマは「新潟と仲直りをする」というものになっている。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
ごちゃまぜの家の第一号を横浜に置き、現在、二軒目を求めている。当初は「札幌や福岡は街並みも綺麗だし最高だなあ!」などと思っていたが、否、ここは自分の故郷でもある新潟につくるべきではないのだろうかと思うようになった。どれだけ外側に世界を広げてみたところで、自分のコア的な部分である故郷との和解ができていなければ、何かしらの空洞を抱えたままで生きることになる(ような予感がする)。あてがあるわけではないから、テント生活を続けながら(新潟県民の方々と交流をかわしつつ)地道な探索を続けたいと思う。尚、今週末は岩手県と宮城県に足を運ぶ予定で、『家族』をテーマにクロストークをする企画もある。お時間のある方は、是非、どなたでもお気軽に遊びに来てください。
【ごちゃまぜの寺?! feat. 坂爪圭吾さん!】〜かわいい自分に旅をさせよ!〜
最近思うことあれこれをまとめます。
1・悲しみにケリをつける。
悲しみの別名は『愛』だと思う。愛のない悲しみなんてひとつもない、ただ、受け取られることのなかった愛情が、行き場所を失くした愛情が、愛したいように愛せなかった記憶が、胸の奥に鉛の塊【悲しみ】を作る。前に進むためには、悲しみにケリをつけることだ。悲しみの奥にある愛に手を伸ばすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月24日
ひどく抽象的な話になるけれど、多分、私は新潟を愛していたのだと思う。愛していたけれど「自分が思うように愛する【愛される】ことができなかった」ことをこじらせてしまい、何かこう変な感じになってしまったのだと思う。稀に、冗談として「俺は新潟に虐待を受けて育った」みたいなことを思うこともあるけれど、被害妄想が膨張しまくっているだけなのだと思う。悲しみにケリをつけるということ、それは「自分のコアを織り成すもの、自分の存在価値とダイレクトに結びつくようなものと、ガッツシ和解をすること」なのかもしれないと思う。
2・誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。
誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。欲しいものは自分で獲りにいくこと。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、副産物として、自ずから周囲を照らす光を帯びるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月13日
「新潟の魅力を世界に発信!」みたいな言葉を頻繁に耳にするけれど、多分、私はそういったものにまったく興味がないのだと思う。仮に新潟でごちゃまぜの家をやることになったとしても、新潟の魅力を誰かに知ってほしいとかあまり思わない。誤解を恐れずに言えば、新潟にはなにもない。米があるとか、酒があるとか、それらのものはすべて北海道が勝っている。自分にあるものを必死にアピールする【絞り出す的な】生き方はつらい。なにかあるから一緒にいるのではなく「なにもないけど一緒にいる(なにもないことを一緒に楽しむ)」ことができるひとと同じ時間を過ごした方が、楽だ。疲れない。
3・地域おこしより「自分おこし」。
感情は、絞り出すものではなく「溢れ出すもの」だと思う。頑張らなきゃとか、やりたいことを見つけなきゃとか、自分を好きにならなくちゃとか、常に自分を絞り出していたらボロボロになってちぎれてしまう。何かをやりたくなる瞬間は誰の元にも必ずあるから、大事なことは「命を信じる」ことだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月25日
地域おこしよりも「自分おこし」だと思う。超絶自分勝手な営みかもしれないけれど、私は新潟のために何かをやりたいとはあまり思っていない。完全に自分のため、自分の中にある未消化のサムシングにケリをつけるために、何かをやりたいと思った場所がたまたま新潟だったというだけの話なのだと思う。弁解がましいことを言えば、きっと、ひとは「自分が自分を救う【癒す】ようにしか、他人を救う【癒す】ことはできない」のだと思う。坂爪圭吾という小っぽけな一個人が己自身を救済する姿勢を晒すことが、結果として「それを見た他の誰かの何かもゆっくりと溶け出しちゃう」的な結末を迎える営みにできたら、それは「最高だな!」と思う。
4・自分を生きろ。
自分が自分であること以上に、なにがあるだろうか。太陽が月に好かれたいからと月に媚びて光を消せば、月も輝くことはできなくなる。太陽ならば、太陽であれ。月光ならば、月光であれ。誰かに好かれようと思うのではなく、ただ、自分自身を貫くこと。「柔らかく、たおかやに、自分自身であれ」と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月14日
太陽みたいになりたいと思う。太陽というのは「あたたかい」とか「ひとを照らす」とか前向きな印象の強い言葉だけど、太陽としては別に何かを照らしているつもりもなければあたためているつもりもなく、ただ『強烈にそこにある』だけに過ぎない。近寄り過ぎれば火傷をするし、距離感を間違えるといろいろなものを死滅させる。自分が自分であるということの中で、いろいろと面倒なことが生じる場合もある。が、それはもう仕方のないことなのだと思う。自分は自分でしかないのだから、与えられたものを生かすということ、他人との軋轢の中で「自分を殺した方が楽になれるよ」なんて思うこともあるけれど、多分、そんなことはないのだ。自分が自分であることで(自分でも知らないところで)誰かの力になることがある。
5・ないものを嘆くのではなく、自分にあるものを思い出せ。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月6日
悩みを覚えるときは「一般的な誰かと自分を比べてしまっている時」だと思う。誰もが当たり前にできることを、自分だけはうまくやることができないと感じる瞬間はつらい。自分のことをダメな人間だと思ってしまうこともあるし、自分が無価値に思えることもある。が、ないものを嘆いていてもはじまらない。重要なことは『自分にあるものを思い出す』ことだと思う。与えられているものを生かすということ。大事なことだから(自分に言い聞かせる的な理由で)何回も書きたいと思う。与えられているものを生かすということ。誰の中にも力はある。ただ、それを出していないだけなのだと思う。
6・もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。
自分を殺してひとに好かれるよりも、自分を出してひとに嫌われる方がずっといい。誰かに合わせて生きるほど、自分自身【己】から遠く離れて行く。もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。格好をつけたがる自分を蹴飛ばしてやろう。格好悪いなら格好悪いまま、野暮な己を曝け出していこう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月10日
自分を守るために鎧を身にまとうことがある。親の機嫌を取るために自分を演じて見たり、周囲の評価を求めるあまりに自分を偽ることがある。それはいけないことではない。その時、その瞬間においては「生きていくためには必要なことだった」のだと思う。だが、時は流れてその時は過ぎた。生きるために必要としていたその鎧が、いま、この瞬間も必要なものとは限らない。否、むしろ「その鎧が重い足かせとなって、自分自身を生きる妨げになっている」ことは多いのだと思う。鎧を脱ぐ瞬間は怖い。自分のままで生きていくことなんてできないんじゃないだろうかという恐れも出る。が、冷静に考えてみよう。裸の自分で生きることと、重い鎧を纏って生きること。どちらの在り方を、どちらの生き方を、自身のハートは望んでいるのだろうか。
7・自分のこころに嘘はつけない。
何か新しい道を選ぶ時、過去の出来事や、過去に言われた言葉が顔を出して「お前には無理だよ」と、昔の自分に引き戻す力が働く。この力に負けてはいけないのだと思う。前に進むと決めたのならば、生きることを恐れちゃいけない。「それで生きていこうと思えば、生きていけない事はないんだよ」と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月13日
死ぬほど月並みなことを言うけれど「自分のこころに嘘はつけない」のだと思う。それが一般的な常識とは異なるものであれ、自分の心が違うと思えばそれは違うのだし、自分の心がそれでいいと思うのならば、誰に何を言われたとしても「それでいい」のだと思う。胸の中にあるセンサーは非常に敏感に作られていて、何かが違うなと思う時は「それはほんとうにお前のやりたいことか??」という警告を毎度静かに発してくれる。その警告に耳をすませるもよし。その警告を無視して続けるもよし。別にどちらでもいいのだと思う。が、私は、もう、自分をごまかすような生き方を続けたくないと思う。
8・それはお前のやりたいことか?
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたいひとに会う、これ以上に優先するべき事柄はあるだろうか。理想の日々は「今日も生きた」と思いながら毎晩眠りにつくことであり、死ぬ間際、「おれは生きた」と思いながら、遊び疲れた子供が眠りに落ちるように、自分の人生に静かに幕を降ろすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月13日
自分がやっていることに、自分で飽きることがある。自分はいつまでこんな生活を続けるのだろうかと思う時、鈍い疲労感を覚えることがある。これは「いまの生き方を変える合図」なのだと思う。乱暴な言葉で言えば「手癖で生きるな」と告げる愛の鞭だと思う。これからやろうとしていること、それは「お前のほんとうにやりたいことか」と自分に問う。生きている限り、何かを間違えることはある。それは仕方のないことだ。問題なのは「間違っているとわかっていながら、間違いを重ねること」だと思う。ああ、間違った!いま、自分は間違っている!と感じた時に、できるだけ瞬時に『何か』を変えること。真の充足感は、多分、他者の承認を必要としない(己自身の承認「ああ、この瞬間に間違いはないな」的な感覚に満たされている)。
9・真面目なままでは踊れない。
ひとから嫌われないように生きるほど、自分自身に嫌われる。周囲に合わせて生きるほど、自分自身から離れていく。認められるためではない、馬鹿にされても構わないと思えるその中に、純然なその人自身の『美』は宿る。罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年5月21日
自分は、多分、踊りたいのだと思う。生命のダンス的なものを、生きていることを喜ぶ踊りを踊りたいのだと思う。それが、いろいろな自意識が邪魔をして踊ることを妨げているだけなのだと思う。直近のキーワードは「解き放つ」である。真面目なままでは踊れない。もっと、自分のこころを解き放ってやりたいと思う。もっと自由に、もっと軽やかに、もっとたおやかに、My Little Lover往年の名曲ハローアゲイン風に言えば「ぼくはこの手伸ばして空に進み風を受けて生きていきたい」と思っているのだ(と思う)。
10・俺は勝手に輝く。その光で、勝手に救われてくれ。
誰もが心の中にこどもを抱えている。俺ら【おとな】の仕事は、そいつを楽しませること。綺麗な景色を見せてやること。広い世界を見せてやること。泣きそうなときはしっかりと抱き締めてやること。生きる希望を与えること。世界は生きるに値する場所なのだということを、柔らかに示すことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月24日
日本海に沈む夕日が綺麗だった。夕日を眺めていると、ああ、今日も生きた、明日も生きようという気持ちになる。1日の終わりに、しっかりとピリオドを打てている感覚になる。そのとき、その瞬間、超絶傲慢な思いだけど「俺は勝手に輝く。俺は勝手に輝くから、その光で、あなたも勝手に救われてくれ」ということを思った。誰かのためにできることなんてないな。自分を生きることが何よりも雄弁だな。それならば、自分がイエスを出せることをやろう。自分がイエスを出せないものを、他人に差し出すなんてやっぱりおかしい。誰かのイエスに安心をする生き方ではなく「自分がイエスを出せる生き方をしよう」と思った。思う存分世界を照らして、海に還る夕日の赤は、別れ際の切なさと美しさにあふれていた。人生の終わりに、私は、しっかりとピリオドを打てる生き方をできているだろうか。わからない、わからないけれど「自分のイエスで自分を照らす、その光が、結果として誰かにとっての光にもなることができるような、そういう生き方をしていきたい」のだと思った。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。
福岡を経由して鹿児島にはいり、昨夜、成田空港から車を飛ばして福島県会津若松市に到着した。福岡と鹿児島ではトークイベントを開催していただき、様々な方々と話をした。その際に「昔から坂爪さんは文章を書くことが好きだったのか」と問われ、私は「昔から自分の気持ちを伝えることが下手くそで、口頭で話していても『また今日も伝えることができなかったな』と感じることが多かった。だから、自分の欠落を埋め合わせるように言葉を紡ぐようになったのだと思う」ということを話した。
私の中には「誰にもわかってもらえない」と感じている部分があった。死にたいなどと思っていた時期もあったが、正確に言えば「死にたいと思うこの気持ちについて、誰かと話がしたい」と思っていたのだと思う。そして、そういう相手を見つけることができなかった私は、言葉を綴ることで自分の『穴』を埋めようとしていた。不思議なことに、いまではその「誰にもわかってもらえない」部分こそが共感【つながり】を生み、ブログ読者の方々も増え、トークイベントなどで実際に知り合う方々も増えた。うまく言葉にすることはできないけれど、この「誰にもわかってもらえない部分」こそが、結果的に多くの人々と繋がる契機になっている現実を不思議に感じている。
生きたいと思うことは、何かを好きになるということ。
生きていてもロクなことはないと思っていた10代の頃、それでも、自分の好きな音楽を聴いている間だけは自由になることができた。生きていることは悪いことじゃないと思えたし、生きていればまた好きなアーティストの新譜を聞くことができるということが、大袈裟だけど「これからも生きたいと思う」希望になった。私にとって、大事なことは「生きることよりも生きたいと思うこと」であり、ただ、なんとなく生きているだけでは苦しかった。生きるだけでは足りなかった、生きたいと思うこころの躍動に焦がれていた。
多分、何かを好きになるということが「これからも生きたいと思う」希望を生み出していたのだと思う。私は、私が好きなものを通じて「生きててもいい」という許しを得ていたのだと思う。いろいろなことがうまくいかないこともあるけれど、自分なんてダメだと思ってしまうこともあるけれど、それでも「生きててもいいよ」と言ってくれるそれらは優しい温もりに溢れていて、これからも生きたいと思える力を与えてくれた。多分、その頃からなのだと思う。かつての自分自身が「自分の好きなものたち」によって何度も何度も助けられたように、自分自身も、自分自身の生き様を通じて「まだ見ぬ誰かに、温もりを伴った命の躍動を伝えることができたなら」ということを思うようになった。
生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。それは「何かを好きになるということ」であり、誰かに好かれることではなく、誰かに愛されることでもなく、誰かに認められることでもなく、自分から「何かを好きになった」時の心の働きが、生きたいと思う力を生むのだと思う。生きている限り、さみしさのような感情に襲われることもある。愛されたいなどと願ってしまうこともあるけれど、多分、愛されることよりも『自分から何かを愛することができた』瞬間に、愛情は自分の内側から溢れ出して、自分自身を包み込むのだと思う。愛情は外側から与えられるものではない、多分、自分の内側から『あふれ出す』ものなのだと思う。あふれ出すということは、最初から自分に備わっていたということなのだと思う。
野垂れ死ぬことになっても。
自分を生きると決めた時、自分なりに決めた二つの覚悟を思い出した。ひとつは「ひとりでもいい」と言う覚悟で、もうひとつは「死んでもいい」という覚悟。ひとりでもいいと言う覚悟、その中には「周囲に理解を求めてしまうこともあるけれど、誰かにわかってもらうためにやるのではなく、誰にもわかってもらえなくてもやるという自身の純粋性を護りたい」という思いがあるのだろう。死んでもいいと言う覚悟、その中には「生き延びるために何かをやるのではなく、たとえ、それが通用をしなくなって野垂れ死ぬことになったとしても、それでも構わないと思えることに命を使おう」という思いがある。
不思議な話になるけれど、ひとりでもいいという覚悟を決めてからの方が、自分はひとりではないのだと思うようになった。死んでもいいという覚悟を決めてからの方が、生きていることの実感は膨らんでいるように思う。自分を生きるとか、本音を生きるとか、そう言う言葉を耳にする機会は多い。自分なりに思うことは「自分を生きると言うことは、決して生易しいことではないのだと思う。それは『生身で生きる』ということだから、常にヒリヒリしているし、喜びや感動もダイレクトに受ける代わりに、悲しみも苦しみもダイレクトに受けることになる」のだと思う。それは苦しいことかもしれないけれど、でも、それが『生きているということ』なのだとも思う。
もっと、自分を生き続けようと思った。たとえ自分が自分のまま生きて、最後には野垂れ死ぬことになっても、それでも自分を生きよう。社会に必要とされなくなり、道端で死ぬかもしれない。それでも、いい。自分には価値があると思わせてくれる出来事が起こる。それだけで今まで生きてこれたことに感謝をしたくなる。
数年前に出会った三森正道さんが、上記のような言葉を自身のブログで綴っていた。三森正道さんとの出会いは、数年前に遡る(詳細は過去記事をご参照ください)。素晴らしい出会いには、人生を肯定する力があるということを頻繁に思う。人と同じ生き方をすることができない自分をダメだと思うこともあるけれど、でも、この生き方をしていなければ出会うことのできなかった喜びがある。それが、これまでのすべてを肯定する。自分が辛さを覚えるとき、たとえば「三森正道さんのような人間が同じ時代に生きている」と思うことが、勇気をあたえてくれたり、前を向く元気をあたえてくれることがある。
お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。
どのような人生を望むかを考えた時に、ある人は「楽しいことだけをやる!」と言い、ある人は「ワクワクできることをやる!」と言い、ある人は「好きなことだけをやる!」などと言う。好きなことをやることは大事だとは思う(嫌なことをやりながら生きるよりは百億倍はましだと思う)けれど、正直に言えば「それだけでは足りない」と思う自分がいる。では、何が足りないのだろうか。自分の感覚に最も近い言葉を探しながら、ああ、それは『美しさ』なのかもしれないと思った。どれだけ素晴らしいとされているひとであっても、どれだけ素晴らしいとされているものであっても、そのもののあり方に「美しさ」を見出すことができない限り、自分のこころは反応をすることはできない(場合によっては「下品だな」と感じることもある)。
他人に対してできることがあるとすれば、それは「自分を生きる」姿を示すことではないだろうか。そのひとがそのひとであり続けようとすることの純然な輝きが、それに触れたひとの心情を熱く湧き立たせることがある。ただ生きる、自分を生きようとする方向に舵を取ることが、誰かの力になることがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月3日
自分を生きると言うことの、静謐さと苛烈さを見る。ひとと同じであることは、とても楽なことなのかもしれない。ただ、ひとと同じであるということは、時に「自分は自分である」と言うことの誇りや尊厳を奪う。価値判断が外側に置かれ、ひとと同じである限りOK、しかし『ひとと異なる限りNG』ということになってしまう。花には花の美しさがあり、空には空の美しさがあり、海には海の美しさがある。同じように、ひとにはひとの美しさがある。大事なことはきっと同じ、それは「与えられた生命を活かし切る」ことではないだろうか。その『生命をまっとうしようとするものの姿』の中に、同じ生命を共にするものを、静かに、熱く、強く魅きつける光は宿るのではないだろうか。
道に迷った時は、損得感情じゃない、自分のこころが「美しい」と感じる道を選ぶこと。自暴自棄にはならないこと。希望が消えてなくなる前に、残された時間に最善を尽くすこと。品位をもって、勇気とユーモアと落ち着きを忘れないこと。どのような生き方だとしても構わないから、胸を張って生きること。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年7月13日
自分を出すと言うことは怖いことかもしれない。ただ、いつまでも自分を取り繕ったままで終わりを迎えることの方が、よっぽど怖いことだとも思う。自分のままでは愛されないと感じる不安や恐怖、日々はこれらの葛藤の連続だ。しかし、自分が好きなひとのことを思う時、ただただ『そのひとがそのひとでいてくれることのありがたさ』を思い出す。自分のままでは愛されないだなんて、多分、そんなことはないのだと思う。真逆で「自分のままでなければ愛されない。自分のままでなければ愛される意味がない」のだと思う。自分は自分でしかないのだから、これで生きる【自分を生かす】のだということ。自分が自分の生き方を見た時に「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と思えるような、私は、そんな生き方をできているだろうか。わからない、わからないけれど「美しくありたい」と思う。最後には野垂れ死ぬことになったとしても、自分の心が美しいと感じる生涯を過ごすことができたのならば、それを本望だなと思う。
本当の気持ちを話すことは、怖いことかもしれない。ただ、本当の気持ちを伝えることなく終わりを迎えることの方が、よっぽど怖いことだと思う。勇気と呼ばれるもの、自分の中にあるものを「出す」と決めた人を、多分、人生は裏切ったりしない。出すほどに何かを得るということは、多分、真実だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月20日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている。
俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている。ぶっ飛ばせとは、多分、物理的に何かをぶん殴るなどという意味ではなく「もっと自分を出してみろよ」とか「もっと自分を追い込んでみろよ」とか「いい子ぶってんじゃねえよ」とか「置きにいっているんじゃないよ」とか「(32歳の分際で)何かを知ったつもりになってんじゃねえよ」とか「もっとめちゃめちゃにやってしまえよ」的な意味合いの言葉で、なう、夏を勝手に終わらせてたまるか的な心境になっている。
女性に生理があるように、男性にも(周期的に訪れるある種のリズムがあるという点に置いて)生理はあるのだと思う。私はこれを『男の生理』と呼んでいる。魂に性差はないとは思うものの、肉体には性差がある。男にはないものが女にはあり、女にはないものが男にはある。もちろん、一人の人間の中には男性的な部分もあれば女性的な部分もある。が、今世の私は男性として生まれてきたので、非常に感覚的な話になるけれど「生まれてきたことが嬉しい」とは別次元の喜びとして「男として生まれてきたことが嬉しい」的な喜びを覚えることがある。
おまえと俺のキャッチボール。
愛媛で男性の友人3人と車で合流をして四国圏域をぶっ飛ばす。徳島の山奥にある祖谷温泉はイカれていて「世界にこんなヤバい場所があったのか!」と震える。道後温泉で購買をした郷土品のタワシで全身をこすると肌がトゥルトゥルになって「これはいいぞ!」と表皮の薄い顔面をこすり続けていたら肌が擦り剥けて痛い。松山市内にあるうどんダイニングばっちこいさんの釜玉うどん(特盛)が暫定一位のうどん屋さんだねなどと車内で話しながら迷い込んだ山道の川辺で男同士のキャッチボールをする。
友達「この前、彼女に『私と7億円とどっちが大事??』って聞かれたんですよ」(パシッ)←ボールをキャッチする音
私「うん」(パシッ)
友達「ロトシックスの話なんですけどね」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「で、マジで愚問だなと思いまして」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「どっちもに決まってんだろ!って答えました」(パシッ)
私「おお!」(パシッ)
友達「ははは」(パシッ)
私「どっちもに決まってんだろ、って、いいね」(パシッ)
友達「ははは」(パシッ)
ー 鈍川温泉を経由してライトアップされた夜の今治城でキャッチボールをする。
友達「圭吾さん聞いてください」(パシッ)
私「はい!」(パシッ)
友達「今、100のやりたくないことリストっていうのを書いているんですけれども」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「やりたいことリストよりも、やりたくないことリストを見せ合った方がですね」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「なんだかお互いのことがよくわかるような気がすると言いますか」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「書いていると楽しいんですよね」(パシッ)
私「それは楽しそうだね」(パシッ)
友達「圭吾さんは、やりたくないことってありますか?」(パシッ)
私「そうだねぇ、食べ過ぎちゃうことかなぁ」(パシッ)
友達「わかるぅ〜!」(パシッ)
ー 隙間時間を見つけてはキャッチボールをする。
私「ありのままでとかいう言葉あるじゃん」(パシッ)
友達「はい、ありますね」(パシッ)
私「明らかに覇気のない人が『ありのままで』とか言っているのを見るとさぁ」(パシッ)
友達「はい」(パシッ)
私「ありのままでいい訳ねーだろ!って、思っちゃうんだよねぇ」(パシッ)
友達「わかるぅ〜!」(パシッ)
ー キャッチボールをする。
友達「この前、新潟の焼肉屋で男友達四人で焼肉を食べながらセックスの話をしていたんですけどね」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「隣の席に男女のカップルが座っていて」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「彼氏がトイレで席を立った時に、これは多分僕がシックスナインとかそういう言葉を大きな声で話していたからだと思うのですが、隣の席の女性が突然声をかけてきて」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「ねえねえ、あなた、女をなめているの??って」(パシッ)
私「おお」(パシッ)
友達「いえいえ、全然なめていませんって僕は答えたんですけど」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「なんて聞いたんだっけなぁ、僕は、その女の人に『さみしくないですか?』ってことを聞いたんです」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「そうしたら、その女の人は『さみしくなんてないよ。今、幸せだよ』って言ったんです」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「で、そうですかって答えた後に」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「僕はもう一回『本当ですか?』って聞いたんです」(パシッ)
私「聞くねえ」(パシッ)
友達「多分それがよくなかったのかもしれないのですが」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「その後、レジで会計を済ませる時もセックスの話をしていたら、奥の方からもう一回その女の人が僕の方に向かってきて『お前、マジで女をなめるんじゃねえよゴルァ!!』って胸ぐら掴む感じで言ったんです」(パシッ)
私「おお、それはすごいね」(パシッ)
友達「なんだかすごいなあと思って」(パシッ)
私「うん」(パシッ)
友達「その後、帰りの車内で『この現状をどのように思うか』という話題で盛り上がったんです」(パシッ)
私「それは盛り上がりそうな時間だね」(パシッ)
「本当ですか?」という問いは最高だなと思った。
俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている。
男友達と過ごしていると「ああ、俺は男なんだな」ということを思う。女性と過ごしている時には味わえない感覚が、男友達と過ごしている時間の中にはある。逆に言えば、男友達と過ごしている時には感じることのできない感覚が、女性と過ごしている時間の中にはある(それは安らぎであったり抱擁されている感覚であったりする)。こんなことを言うとバカみたいだと思われてしまうかもしれないけれど、女が女でいてくれると、自分も安心をして男でいることができる的な感覚になることがある。男の子的な「かっこよさ」と、女の子的な「かわいさ」。私はわかりやすいものが好きだから、男の子として生まれてきたからには「うおー!これはかっこいい!」と思ったものなり道なり人なりを見つけた時は、やっぱり興奮をする(全然関係ないけれど、横浜のごちゃまぜの家でなう積極的ジェノサイドが行なわれようとしているので、お時間のある方はよろしくお願いいたします!!)。
と、ここまで書いたところで19日(火)の20時から鹿児島市内で開催されるイベントに招待をしていただけることになってとても嬉しい。今は福岡市内のタリーズの無料Wi-Fiを拾いながらこの記事を書いていて、実は(先日奇跡的な流れで購買をした)MacBook Proを使って書いているのだけれどタイピングが全然慣れなくて変な文章になる。鹿児島市内のイベントは誰でも参加できる内容になりますので、興味のある方は是非遊びにきてください(鹿児島在住の方で「いばや通信」などを読んでいてくださる方はいるのだろうか。いてくれたとしたらものすごい嬉しい。リアルでお会いできた際には、是非、握手をしていただけたら嬉しいです!)。
俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている(多分、これは『生き急げ』という言葉のニュアンスに近いのかもしれない。誰も生き急げなんて言ってくれない。が、個人的には「普通の人が10年かけてやるようなことを三日でやりたい」などと思うことがある…)。これはもう何かが溜まっているのかもしれない。溜まっているものは吐き出さないといけない。でも、どうやって・・・と。タイピングに慣れるために隙間時間を見つけてはメモ帳機能に思いの丈を綴っていた。昨日、あまりにも暇過ぎたので最寄りのカフェで自分の思いをパソコンに乱れ打ちしていた。ら、こんな言葉を書き殴っていて「ああ、俺はこんなことを思っているのか」と思った。
美しい文章を綴りたいものだ。
人の心の中にある美しい部分を引き出すことができるような、
美しい文章を綴りたいと思う。
弾丸も言葉も同じだ、俺たちは命のやり取りをしているのだ。剥き出しの人間でありたいと思う。多分、言葉と剣は似ている。人を殺す道具にもなれば、人を生かす道具にもなる。言葉という生身の剣を振るうのは、人間を殺すためではなく「人間を生かすため」でありたいと思う。時には誰かを斬り落とす(斬り落とされる)こともあるかもしれない。が、それは「お前はそんなもんじゃないだろう」という、相手【己】の生命を信頼する(根源的な力を導き出す)からこその行為であるということを、忘れずにいたいと思う。
人間関係の不幸の原因の9割は「過干渉(余計なお世話)」だと思う。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。他人の生き方にああだこうだと口を出すより、自分の日々に集中をすること。大切なことは、ひとを変えることではなく、『自分が変わっていくこと』なのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年5月4日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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photographed by Chiaki Toyozumi