いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きていることを楽しんでいるか。

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2017年4月にクラウドファンディングでプロジェクトを企画し、多くの方々のご支援をもとに、翌月末には横浜市港北区菊名で産声をあげた「ごちゃまぜの家」。誰でも自由に使える空間があったらいろいろと良いんじゃないだろうかと思い、この活動(?)をはじめて五ヶ月の月日が流れた。良いことも悪いこと【やってみてはじめてわかったことなど】も大量にあり、尽きることのないお勉強の日々のど真ん中にいる。

 

 

ごちゃまぜの家についてまとめます。

 

ごちゃまぜの家とはなにか。

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図書館みたいな、無料の喫茶店&託児所&宿泊施設も兼ねる「ごちゃまぜの家」の第一弾を東京に!!基本的な使用料金は完全に無料で、珈琲もタダ、料理もタダ、欲しい本があればあげるし、なんなら泊まってくれたひとに100円あげちゃう(未定)くらいの場所を作りたいです。有志を集めたら、実現できちゃうものなのでしょうか!?【CAMPFIRE・プロジェクトページより引用】

 

「(自分の生き方はギャグみたいなものだから)この生き方を笑ってもらえたらうれしいなあ」くらいの気持ちで、プロジェクトページは「ごるぁ!」と1時間程度で書き上げた。翌日には早速CAMPFIREに掲載をされて、4月7日は私の誕生日でもありますので「こんなことをやるのでよかったら見てください!」的な感じでSNSでシェアをした。ら、非常に驚いたことにあれよあれよと(誕生日プレゼント的な意味合いも含めて)支援が集まり、三日間で目標金額は達成されてアゴが外れた。

 

これはもう「神に『やれ』と言われている…!!」とわたしは勘違いをいたしまして、神の粋なはからいによってベストな物件が現れることを祈るようになった。ら、支援者の方のひとりでありますY様から「私は不動産関係の仕事をしているのですが、ごちゃまぜの家に使えそうな家があります!」という連絡が届いた。私は「なんということでしょう!」と戦慄をして、後日、Y様と一緒に菊名駅から徒歩10分程度の場所にある築60年以上の古民家に足を運んだ。

 

結果的に、いま、この家が「記念すべきごちゃまぜの家の第一弾」として機能をしている。非常に閑静な住宅街の中にあるために「あまりにもひとが来すぎるとやばい」ということで、住所はまだ公開をしていない。利用希望者の方には、お手間ではありますが一旦坂爪圭吾にご連絡をしていただくようにお願いをしていて、折り返しごちゃまぜの家の所在地や簡単な利用法をお伝えしている。このブログでは、ごちゃまぜの家の雰囲気や使い方のイメージだけでもみなさまに伝わればうれしいと思い、いま、書いています。

 

ごちゃまぜの家の使い方。

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ごちゃまぜの家の使い方はシンプル。基本的に鍵は常に開けているので、誰でも来たいと思った時に来ればいい。私は過去に「家のない生活」を二年間程度していたのだけれど、その時期になにがいちばん辛かったって「横になれないこと」だった。喫茶店などでコーヒーを飲みながら椅子に座ることなどはできたが、横になることは憚られる。座ることで回復する体力が10なら、横になることで回復する体力は100くらいある(十倍くらい違う)。都会では横になれる場所が少ないなあと思っていたので、ここに行けばいつでも昼寝をできる場所があれば最高だ、なんてことは痛切に感じていた。

 

この家では、読書をするのも自由、料理をするのも自由、瞑想をするのも自由、ひとと話をするのも自由、手紙を書くのも自由、昼寝をするのも自由、なにかをするのに「別に誰の許可もいらない」空間になる。たまたま居合わせた人と同じ空間を共にすることになるので(一応、部屋は三つあるから個室がよければ個室に行けばいい)、初対面の誰かと一緒になることもあれば、広い家にポツンとひとりきりになることもある。すべてはタイミング次第で、流れ次第になる。

 

ごちゃまぜの家に来る人の共通点は皆無で、単純に興味本位で来る方や、誰か(坂爪圭吾)と話をしたいから来る人や、静かな環境に身を置きたいから来る人、ちょっと子育てに疲れたからこの場にいるひとにこどもの世話を任せて自分はちょっと昼寝でもしようと思うお母様方など、その内実は様々だ。が、常に誰かが必ずいるという訳でもなくて「意外と誰もいない時間は結構多い」のも特徴的で、なんといえばいいのだろうか、その時にふさわしいタイミングでふさわしい人々が集うようにできている(ように思う)。

 

みんなの財布。

この家の玄関には「みんなの財布(仮)」なるものが掲げられている。この財布の中にあるお金は出し入れ自由で、この家の存続を願ってくださる方々は自由にお金をいれることもできるし、経済的にちょっとアレで帰りの交通費がない方などは、このなかにあるお金を無許可で使っていいことになっている。基本的に、この家も坂爪圭吾という人間の一生も「みなさまの善意によってまわっている」節がありまくるので、さあ、財布をオープンにしたら一体なにが起こるのだろうかということをこの場を借りて実験している。

 

現状、財布の中のお金がゼロになったことはない。ゼロになりかけたことはあるが、神の粋な計らいがあるのだろうか、ゼロになりかけると必ず「ゼロにさせない力」みたいなものが働いて、財布の中に何かが舞い込む。それはお金であることもあるし、お金以外の何か(クオカードとかギフトカードとか美術館のチケットの類)だったりする。家のない生活をしていた時、わたしは、様々な教訓をその日々の中で得ることができた。そのうちのひとつは「自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない」ということで、逆にいえば「自分をクローズドなものにした瞬間、死は隣り合わせになる」みたいなことを感じた。

 

ごちゃまぜの家は営利目的でやっている訳ではないので「誰かに必要とされる限り続き、誰にも必要とされなくなった瞬間に散る」ものになる。自分的には「こんな空間があったほうがいいだろうなあ」的な思いでやっているものの、他の方々から見れば「あってもなくても別にいい」ものなのかもしれない。その時は、潔く散ろうと思う。現状、おかげさまで五ヶ月間は問題なく続けることができている。この先も続けることができるかどうかは、利用者のみなさま【そしてこの家が醸し出す雰囲気】にかかっている。

 

循環型の図書館。

先ほども紹介をしたように、この家には「わたり文庫」という無料の循環型図書館の棚がある。わたり文庫とは「誰かに無理やりでも読ませたいと思う本を様々な方々からかき集めて、それを無料で放出する」21世紀型の図書館になる。誰だって、誰かに無理やりにでも読ませたいお気に入りの本が一冊か二冊はあると思う。その本をこの家にもってきていただいて、その本を「あ、読みたい!」と思うひとにまわしていく。図書館とは名ばかりで、返却の義務は微塵もない。もしもその本を楽しんでもらえた場合は、返却をするのではなく「次のひとにまわしてください」とお願いをしている(わたり鳥のように一冊の本が世界をわたっていく、という意味合いから『わたり文庫』と名付けている)。

 

あらゆる物質は共有財産。

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この家にあるものはなんでも「共有財産」ということで、すべては自由に使えるものになる。冷蔵庫にあるものも、冷蔵庫にいれた瞬間に「みんなのもの」になる。だから、利用者の方々は遠慮なく料理をしてもらいたいと思う。家には結構な種類の調理器具や調味料がある(絶対に死守をしたいものには、自分の名前を書いておくなどする必要がある)。

 

この家を利用する際の注意点があるとすれば「次のひとのため」という視点の維持だと思う。あらゆるものは自由に使えるが、できることならば「次に使う人が気持ちよく使えるように」ささやかでもいいから心遣いをもって使っていただけたら嬉しい。稀に、好き勝手に散らかしまくって帰るひとがいるのだけれど、ああ、これはもう完全に俺の説明不足だなと反省をする。誰でも自由に使えるということ、この『自由』という言葉は使うひとによって感じる意味合いが全然違うから、どうしたってこういうことは起こる。

 

一応、誰でも泊まれることになっている。が、布団の数に限りがあるので、宿泊希望者の方は事前にご連絡をいただけると助かります。坂爪圭吾の連絡先は以下になります(交通費さえどうにかなれば、私から出張訪問をすることも可能です)。一時的な利用であれば、事前連絡の必要はありません。現在、稲村彰人という24歳の男性が管理人役をしてくれているけれど、この家には「誰かが住んでいる」ということはない。誰かが暮らし始めると、そのひとを中心に「常連」みたいなものが生まれる。常連ができると「常連と、そうじゃないひと」みたいなことになるのが嫌なので、できるだけ風通しの良い空間作りを意識している。仮に、あなたがこの家で「常連ぶっているひと」と遭遇することがあったら、そのひとのことは軽くあしらっちゃってくださいと思う。

 

連絡先・さかつめけいご

keigosakatsume@gmail.com

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コミュニティを溶かしたい。

こういうことをやっていると「坂爪さんはコミュニティをつくりたいんですね!」とか言われるが、違う。結構真逆で、私は「コミュニティを溶かしたい」と思っている。価値観を同じにする人々が集まる空間ではなく、価値観はまるで違うけれど、同じ人間であるというその一点において「共存することができる」空間になればいいなあと思っている。

 

旅人には無償で宿と食事を与えなさい。

昔、旅好きの女性(職業は学校の先生)が「いまは仕事が忙しいので旅をする時間がない。だから、自分の家を解放して(この女性はカウチサーフィンをやっている)旅人を迎え入れることで、旅の雰囲気を味わっている」と話してくれた。私は「素晴らしい感性だな」と思った。生きていると、どうしても「自分と似た環境の中で過ごしているひと」とばかり同じ時間を過ごすことになる。日々の生活も人間関係もパターン化をされてしまう【小さな世界に閉じこもりがちになる】けれど、旅(旅人を迎え入れること)は『日常的に触れ合うことの少ないひとと出会うことで、価値観を広げる』最良の機会になる。

 

イスラム教の聖典コーランには「旅人には無償で宿と食事を与えなさい」と書かれている。だからなのだろうか、イスラム圏では旅人に親切にするという考えが浸透をしている(ような気がする)。日本なら、四国のお遍路がそれにあたるのだと思う。この国に「いつでも無料で食事ができる場所」や「いつでも無料で泊まれる場所」が増えたとしたら、どのような世界になるだろうか。何もかも失ったとしても、食べる場所と寝る場所はどうにかなると思えることが、結構大きな安心感を生むのではないだろうか。それがあると思えるだけで(実際に使うかどうかはおいておいて)いまよりも少しだけ大胆に生きることができるのではないだろうか。

 

聖地サンティアゴを目指すスペイン巡礼の道がある。およそ800キロ(ルートによっては3000キロ)を徒歩で移動するのだけれど、その道中には、アルベルゲという巡礼者向けの安宿が大量にある。食事が無料で振る舞われる施設もあり、巡礼者は歩き疲れた果ての喜びとともにその食事をいただく。このようななことを、日本でもできないものだろうかと考えた。自分の家を開放して、巡礼者(旅行者でもいいし一般人でもいい)を迎え入れる。仮に、二つの旗を用意する。緑の側と、黄色の側。緑の側を掲げている家は「今夜はこの家に泊まれますよ!」というサインになり、黄色の旗を掲げている家は「(宿泊は無理だけど)食事程度なら振る舞えますよ!」的なサインになる。シンプルな仕組みだけど、なんだろう、こういう仕組みをWEBも交えてうまいこと配置をすれば「ひととひとが出会う機会」を増やせそうな気がした(まずはごちゃまぜの家を通じて、実験的に試している)。

 

わたり文庫『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、森知子著作『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』です。離婚の悲しみを払拭するために巡礼の旅に出た著者の思考が、長距離を歩き続けることでゆっくりと整理をされていく様(?)が素晴らしいです。この本を読むと、無性に歩きたくなり(巡礼の旅に出たくなり)ます。何処かにわたしをスペインまで吹き飛ばしてくださる神様はおられませんでしょうか。最近は海外旅行に行きたくてたまりません!!こちらの本をご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

9年連れ添った年下のイギリス夫から、突然離婚を迫られ、傷心と勢いで旅立ったスペイン。目指すは聖地・サンティアゴ。失業中のバックパッカーから巡礼オタク、果ては白馬連れ女子まで、国籍も目的も多種多様な旅人達と、ビール&トルティーリャをお供に歩いた44日間。男がなくても、旅がある!傷心を吹き飛ばす、スペイン横断巡礼エッセイ。

 

森知子『カミーノ!女ひとりでスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅』【幻冬舎文庫

 

稼働をさせることよりも、存在を続けること。 

ごちゃまぜの家をやっていると「せっかくこういう場所があるのだから、なにかをしなくちゃ!」みたいな思いになることは多い。場所を与えられたことにより、この場所を有効に生かさなければいけないという思いに駆られることがある。が、五ヶ月やってわかった。この家は「稼働をさせることよりも、ただ、そこに『在る』ということが大事なのだ」ということを思う。別に、常に大量のひとが出入りをする必要はない。この家があるということが、誰かにとって「この家があるおかげで(実際に使うかどうかはおいておいて)いまをもう少しだけ大胆に生きることができる」のであれば、それが最高なのだと思う。

 

この前、ごちゃまぜの家に来てくれた女性が「私はひとと話がしたいと思っています。でも、ひとと話していても『ひとと話している』って思えないことが多くて、でも、坂爪さんの存在をはじめて知った時には『ああ、ここにはひとがいる!』ってなんだかうれしくなったんです」と話してくれた。これを聞いた時はうれしかった。何かの役割を通じてではなく、同じ人間として、対等な立場で話ができる機会はそれほど多くはない。だからこそ、ごちゃまぜの家が「ひとと話せる空間」とか「静かになれる空間」とか「自分を思い出すことができる空間」とか、そんなふうに機能をすればいいなあと思う。

 

長々と書いてしまった。読みづらい文章だったと思う。ここまで読んでくれたあなた様に最大限の感謝を。最近は金欠で軽く死にかけていて、家では玄米ばかりをかじっていたのだけれども、今日のお昼は「読者【27歳女性】の方に雑司が谷で鰻をご馳走していただく(!)」という、非常に優雅な時間が訪れようとしている。人生、山あり谷ありである。しんどい時期があるからこそ、その先にあるよろこびは輝く。くだらないことで一喜一憂を繰り返し続ける日々だけれど、できることならば「生きていることを楽しんでいたい」のだと、俺は楽しみながら生きていたいのだと、そういうことを思っている。

 

 

 

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生きていることを楽しんでいるか。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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