まずは自分を許せ。
生姜と大根をすりおろし、蜂蜜を加え、お湯を注ぐ。カラダ全体が温まり、なにかこう「俺はいま、カラダにとって『よいこと』ができている」という気持ちになる。弱気な時、不安な時、心許ない時、自分がやっていることが(どれだけささやかなものだとしても)なにかしらに対して『よいこと』であると思えることは、精神的な安定を生む。逆に言えば、自分の存在が誰の役にも立っていない、自分は無価値である、誰かに迷惑をかけているという感覚は自尊心を奪い、精神的な安定を削る。
ー 孤独に捕まってしまった。
最近は孤独に捕まっていた。この記事をご覧のあなたは、孤独を覚えることはあるだろうか。ああ、やばい、このままだと鬱病になりそうだと感じる程度の孤独、そんな孤独を覚える時は、どのように対処をしているのだろうか。寝れば忘れる程度の孤独であれば問題はない。が、今回の孤独は厄介だった。なにをしていても気分が晴れることはない。逃げても逃げても追われるし、どれだけ振り払ってもまとわりつく。自分が好きだったはずのことをしても、自分の内部に届かない。孤独は常に隣にいて、そいつは「俺はお前を見ている」と囁く。どうすればいい、どうすればいいとどれだけ考えてみたところで妙案は浮かばない。頭の中では「このままではいけない、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、」ということばかりを感じていた。
孤独に捕まったことを認めた。
ここ数週間、孤独に捕まっていた。なにをしている時も孤独は常に隣にいて、俺はお前を見ていると囁く。逃げても逃げても追われるし、どれだけ振り払ってもまとわりつく。どうすればいいんだと気持ちは焦り、ダメだ、ダメだと胸が痛む。が、それが消えた。孤独に捕まったことを認めたら、何かが消えた。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月10日
が、不思議なことに孤独は消えた。なぜだ。昨日、東京駅で待ち合わせていた方と合流をするために、東京駅のホームを花を片手に「さみしいなあ。さみしいなあ」などと思いながら腐ったトドみたいな表情で歩いていた。自分がこのように孤独マックスの状態でまともに会話ができるかどうかまるで自信がなかったから、そのひとにあったら「ここ最近は孤独に捕まってしまっているために、まともに話ができないかもしれないけれど許してください」的なことを言えばいいかな、なんて思っていた。ら、孤独が消えた。孤独に捕まってしまったと言葉にしたら、孤独が消えた。これはなぜだ。
孤独は「ごまかすな」と言っている。
愛そうとしなくてもいい。元気になろうとしなくてもいい。強くなろうとしなくてもいい。弱さを克服しようとしなくてもいい。自分を変えようとしなくてもいい。肯定的に考える必要も、否定的に考える必要もない。多分、全部、そのままでいい。あらゆる思いを手放した時、心の重荷は軽くなるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月10日
多分、自分は「どうすれば孤独を忘れることができるか」とか「どうすれば孤独を消し去ることができるか」とか「どうすれば孤独を乗り越えることができるか」とか、そんなことばかりを考えていたのだと思う。目の前にある孤独を直視することなく、その先のことばかりを考えていた。が、これから人と会うということで「自分の現状をしっかりと言葉にしよう」と思ったわたしは、なりたい自分像ではなく「ごめんなさい、いまの自分はこんな感じです」的な意味合いを込めて、孤独に捕まってしまっていますと言葉を与えた。ら、孤独が消えた。あれだけしんどさを覚えていたはずの感情が、不思議な話だ、音速で消えた。心は軽くなり、あれ、おれ、孤独だったはずだよなあとどれだけ考えてみても既に実感がない。合流後、わたしは非常に爽快な気持ちでうどんの大盛りとカツ丼を食べた。
孤独が教えてくれたこと。
孤独を打ち消すために様々なことをやった。8時間くらい自転車を漕ぎ続けたり、精神が安寧を取り戻すまで歩き続けることを試みたり、マインドフルネスがどうのこうの的な感じで瞑想の真似事をしてみたり、野性味が足りないのかもしれないと思って野宿をしてみたり、全身をタワシでこすってみたり、道端の草を食って見たり、ひとの相談事に乗ってみたり、いろいろやったけど全然ダメだった(ただ、ひたすら体を動かした後の空腹感は半端ないから、その後の食事は最高だった。食事の瞬間は最高だったのだけれど、食後の満腹感から「ああ、おれはクソだ」的な思考に逆戻りをするまでは早かった)。
自分は必要のない人間だと感じた時、同時に、そんな自分でも「誰かの幸せを願うことはできる」と思った。愛するひとの幸せを願う時、心の空白は埋まる。さみしいとか、悲しいとか、しんどいとか、苦しいとか、「自分の」感覚が消える。愛とは、自分の命を、自分以外のものに注ぐ行為なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月8日
自分にとらわれるから苦しくなる。ただ、自分を超えて「誰かの幸せをいい感じに願えている時」だけは、自分の苦しみを忘れることができた。が、二十四時間誰かのことを考えていられる程度にはまだまだ全然成熟をしていないために、自分に立ち返ると「ああ!ダメだダメだダメだ!」みたいな感じになる。このあたりはまだまだ全然修行が足りない。もっとひとを愛せたらとか、もっと自分を消し去ることができたらとは思うものの、結局「俺の孤独が」とか「俺の弱さが」とか、俺の、俺が、俺は、そういうことばかりを考えてしまう。
一輪の花の静けさに、心が慰められることがある。人のやさしさや、愛と呼ばれるもの、温もりと呼ばれるものに慰められることもある。ただ、それだけじゃない。ひとりの人間が抱える弱さに、孤独に慰められることもある。願わくば、自分のなかにある弱さや孤独が、誰かを照らす光になりますように。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月9日
ひとはみんな弱いのだとか、ひとはみんな孤独なのだとか、そういうことを考えれば少しだけでも自分の孤独が和らぐような気がした。別に孤独が消えた訳じゃない。ただ、つらいのは自分だけではないのだよなと思うことで少しだけこころは軽くなるような気がした。が、正直に言えば気休め程度に過ぎなかった。この違いはなんだろうか。東京駅で「孤独に捕まってしまった」と認めたあとの開放感、すべてから解き放たれたあの感覚は、一体なんだったのだろうか。まるでうまく説明をすることはできないけれど、もしかすると「孤独という言葉があるから孤独にはまってしまうだけで、極論、孤独もさみしさもあらゆる感情も幻に過ぎないのではないだろうか」ということを思った。
テントの明かりは温かい。
ごちゃまぜの家でおまちしております。
謎にスッキリしている。何も解決した訳じゃないのに、現状は何も変わっていないというのに、まったく問題はないではないかという気持ちである。自分の気分屋っぷりには愛想が尽きそうになる。結局、すべては「心の状態」なのかもしれない。難しいことはわからない。が、もしかすると「難しいことなんてなにもない」のかもしれない。今日から一週間、横浜にあるごちゃまぜの家の管理人として、新潟から『伝説のあきとさん』が滞在をする。坂爪圭吾も(少なくとも今日と明日は)ごちゃまぜの家にいると思いますので、興味のある方といいますか、誰かと話がしたい方は坂爪圭吾かあきとまでご連絡ください。
[メール]akito.inamura@gmail.com
[LINE ID]0reaki10
(その他、Facebookで「稲村彰人」と検索して友達申請していただいた後、Messengerでやり取りするという形でもOKです)
まずは自分を許せ。
葛藤と苦悶の日々を過ごし、最終的に「ジタバタするなよ」という思いに着地をした。無理をしてまでなにかを愛そうとしなくてもいい。明るく元気になろうとしなくてもいい。強くなろうとしなくてもいい。弱さを克服しようとしなくてもいい。自分を変えようとしなくてもいい。目の前にある物事を、肯定的に考える必要も、否定的に考える必要もない。多分、全部、そのままでいい。どんな思いも重荷になる。あらゆる思いを手放した時、心の重荷は軽くなる。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月6日
なにかをしなくちゃいけないという思いで、自分を責め立ててしまってはいけないし、自分を絞り出してしまってはいけない。なにかをしたくなる瞬間は、誰の元にも必ず訪れる。そうしなければいけないという思いではない、そうしたくなったその瞬間の「あふれだした」気持ち【通称・あふれちゃん】を信じたいと思う。誰の中にも『泉』のようなものは確実にあって、それは、時が来れば勝手に噴出をして、自分を内側から突き動かす。外側からの刺激に反応をするような形ではなく、自分自身の内なる要求として、勝手に『命』は動き出すようにできている。
神が人間に与えた最終奥義は『許す』だと思う。どれだけ嫌いな相手でも、俺はお前を許すと決めれば以外と許せる。逆に『許せない』という感情を抱えて生きるのは半端なく重い。多分、一番最初に許すべきは他の誰でもない自分自身だ。俺は俺を許す。実際に口にするだけでも、心は軽くなるから不思議だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月9日
繰り返しになるけれど、なにかをしなくちゃいけないという思いで自分を駆り立ててはいけない。そのままでは、必ず何処かで無理が出る。無理が出ることは悪いことではないし、そのことで学習をできることも確実にあるとは思う。が、自分に無理を要求するほどに他人にも無理を要求するようになり、結果、世の中がギスギスしてしまっては元も子もない。気分が晴れない時は、単純に「なにもしない」を選べばいい。なにもしないと決めた中で、ふと、散歩をするとか料理をするとか、そういうことをやりはじめる瞬間がある。その中で、時折、たとえば綺麗な空を目撃したりすることがある。この世界を「捨てたもんじゃないな」と思わせてくれる瞬間は、多分、あちらこちらに転がっているのだと思う。
感情は、絞り出すものではなく「溢れ出すもの」だと思う。頑張らなきゃとか、やりたいことを見つけなきゃとか、自分を好きにならなくちゃとか、常に自分を絞り出していたらボロボロになってちぎれてしまう。何かをやりたくなる瞬間は誰の元にも必ずあるから、大事なことは「命を信じる」ことだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月25日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu