奇跡の中を生きている。
沖縄に来たものの、体調不良でぶっ倒れている。明日の便で成田に戻る予定だけれど、台風が来ている。飛行機は飛ぶのだろうか。明後日の日曜日には、横浜にあるごちゃまぜの家の見学ツアーがある。これに間に合うようには戻りたい。が、どうなるのかはわからない。この記事をご覧のみなさまは、健やかな日々を過ごしているだろうか。最近、自分が体調不良の時など「体調が悪いのは自分だけではないのかもしれない」などと思ったりする。自分と似た周波数(?)を生きているひとは、もしかすると、最近体調不良に悩まされたりしていたのではないだろうかと思ったりする。
頭の中で「これでいいのか」と「これでいいのだ」の声が、シーソーみたいに揺れている。いまの自分の生き方は間違っていないだろうかとか、このままじゃいけないような気がするとか、そういうことを思うことは多い。しかし、「こんな風にしか生きれなかったんだろ?」と言われたら、うん、その通りだなと思う。頭の声はいろいろなことを言う。別の生き方があったのではないだろうかとか、他にも良いやり方があるのではないだろうかとか、なぜ、自分はひとと同じように生きることができないのだろうかとか。ひとつの選択肢を選ぶということは、他の選択肢を捨てるということならば、この日々は取り返しのつかないことの連続だ。頭の声は「これでよかったのか」と言う。その声に悩み、その声に迷う。しかし、多分、腹の声は「これでいいのだ」と言っているのだと思う。
軽い気持ちで遠くに行こう。
沖縄の空は青い。
空の海を泳ぐ。
読谷村にあるビーチでは、五歳の女の子と仲良くなった。
写真を撮ってもらった(女の子の指がはいっている)。
綺麗な景色を眺めていると、ここに来て良かったなと思う。自分のこころが「いいな」と思う瞬間の中には、自分の選択を肯定する力がある。あんまり小難しいことは考えないで、実際にやってみることも悪いことではないのだなと思う。今、目の前にあるものを「まるで生まれてはじめてそれを目にしたかのように」新鮮な思いで眺めることができたなら、どれだけ世界は輝きを取り戻すのだろう。当たり前のことなんて、多分、ひとつもないのだと思う。そのことを、私はすぐに忘れる。忘れるたびに思い出して、ああ、とか、おお、とか、思ったりする。
わたり文庫『ムーミン谷の名言集』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、トーベ・ヤンソン(文・絵)『ムーミン谷の名言集』です。この話が本当かどうかはわからないけれど、ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソンさんは、ヘルシンキにある自宅を常に開放していて、来客があれば誰でも出迎えて話をしたり一緒にお茶を飲んだりしていたと聞く。それを聞いたときに「それは素晴らしい営みだな」と思い、わたしも、僭越(?)ながら自分の家【ごちゃまぜの家や熱海の家】を開放するようになった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
だれも心配しすぎないって、よいことでした。ムーミンたちは、ほかの人のために、やたらと心配しないでいようと、決めていました。つまり、そのほうが、心配をかけたと思って良心を痛めなくても、すみます。それに、ありったけの自由をあたえあっていることにもなるのです。
『ムーミン谷の仲間たち』
「なんだって、できるわ。だけど、なにもやらないでいましょ。あぁ、なんだってできるって、なんてステキなことなの!」
「死んだら、死んだのよ」
トゥーティッキが、やさしくさとしました。
「このリスは、そのうち、土にかえるでしょ。やがて、その土から木がのびて、その木の上で新しいリスたちがはねまわるわ。それが、そんなに、悲しいことだって思う?」
『ムーミン谷の冬』
「歌をうたい、りんごを食べ、朝寝坊を好きなだけできる自由!それこそが、人生の醍醐味というものなのさ。それと、『これは重要事項だから後回しにはできません。すぐにやるのですよ』なんて、せっつく人がいないこと。そんな人は、勝手に、好きなように、させておくのさ!」
ヨクサル『ムーミンパパの冒険』
「物は、自分の物にしたくなったとたんに、あらゆる面倒が、ふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり・・・。ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。そのほうが、かばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからねぇ・・・」
「ねえムーミン、友だちが、いちばん好きなことをしながら生きていけるようになるって、すてきなことじゃない?」
霧の夜明けでした。みんなは、庭へ駆け出していきました。八月の、ステキな一日を約束するように、東の空に、バラ色の光がさしはじめていました。
朝日がのぼるのです。新しい門が、開かれます。すばらしい可能性への、扉です。なんだって、やってのけられる新しい一日が、待ってくれています。そう、きみたち、ひとりひとりが、気づきさえしたら!
『ムーミンパパの冒険』
奇跡を生きている。
当たり前のことを当たり前だと思えなくなる時、ああ、俺たちは奇跡の中を生きているのだなということを思う。アインシュタインの有名な言葉に「人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ」というものがある。どう生きるかということを迷うとき、私は、大前提となるはずの『生きているとはどういうことか』をまだなにも知らない。わかっていることを前提に生きているのではなく、わからないことを前提に【わからないままで】生きているのだということを思う時、ああ、奇跡と呼ばれているものは『(わかることではなく)わからないこと』を意味しているのだなと思う。
なぜ太陽は輝く。なぜ雨は降る。なぜ虹はかかる。なぜ食物は実る。生きているとはどういうことなのか。死んでいるとはどういうことなのか。わからない。その実態をまだなにもわからないまま、同時に、私たちは「わからないままで、それを味わうことを許されている【わからない中を生きている】」のだということを思う。小さなこどもを見ていると思う。彼らにとって世界がこれだけ新鮮に見えるのは、彼らにとって「わからないこと」がこの世界には大量に転がっているからなのだろう。年齢を重ねるにつれ、なにかを知ったつもりになることは多い。なにかを知ったつもりになることは、世界に対する複眼的な思考や新鮮味を奪い、画一化された思い込みの世界【固定化された世界】を生きることにつながっていく。
小さな頃、わからないということはそのまま「世界に対する好奇心」につながっていた。おとなになると、わからないということは「将来に対する不安」や「コントロール不可能なもの」など、自分にとってネガティブなものに変化をする。だから、できるだけわからないものを排除して、あらゆるものを自分のコントロールの範囲内に置きたいと願う。要するに、わかることは『安心』になり、わからないことは『不安』になる。しかし、私は思う。わからないぜ、と思う。いままでこれがほんとうだと信じていたものも、もしかすると「全然そんなことはない」のかもしれない。この世の中にあるあらゆるものが「そうかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない」のだと思う時、私のこころは自由を見る。世の中の価値観がひっくり返る前のあの瞬間、天動説が地動説になる瞬間、もしかしたら、その時代の人々はこんな気持ちだったのかななんて思う。わかるから面白いんじゃなくて、わからないから面白いんじゃないか。奇跡と呼ばれているものが「わからない」とされているものならば、自由と呼ばれているものも「わからない」ことの中にあるのかもしれないと、それならば「わからないことを楽しめた方が、ずっと豊かな人生になるのではないだろうか」と、そういうことを考えている。
なにもしないでいい。なにかをしなきゃなんて思わなくていい。なにもしていない自分には意味も価値もないなんて、そんなことは考えなくていい。なにかをしたくなるその時まで、なにもしないでいればいい。なにもしないということ、なにもしなくてもいいということは『なにをしてもいい』ということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年10月26日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu