悲しみにケリをつけに行こう。
福島県会津若松市を経由して新潟県新潟市にはいる。新潟市は私の故郷で、良くも悪くも自分も一部なのだと思う。馴染みの道を歩くたびに、昔の傷が思い出されて精神がえぐられる(ような気持ちになる)。こちらのブログをご覧のみなさまは、ご自身の地元のことは好きだろうか。それともあまり好きではないだろうか。好きとか嫌いとかそんな言葉では表現しきれない複雑な感情をお持ちだろうか。新潟と私は因縁の関係にあり、最近の私のテーマは「新潟と仲直りをする」というものになっている。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
ごちゃまぜの家の第一号を横浜に置き、現在、二軒目を求めている。当初は「札幌や福岡は街並みも綺麗だし最高だなあ!」などと思っていたが、否、ここは自分の故郷でもある新潟につくるべきではないのだろうかと思うようになった。どれだけ外側に世界を広げてみたところで、自分のコア的な部分である故郷との和解ができていなければ、何かしらの空洞を抱えたままで生きることになる(ような予感がする)。あてがあるわけではないから、テント生活を続けながら(新潟県民の方々と交流をかわしつつ)地道な探索を続けたいと思う。尚、今週末は岩手県と宮城県に足を運ぶ予定で、『家族』をテーマにクロストークをする企画もある。お時間のある方は、是非、どなたでもお気軽に遊びに来てください。
【ごちゃまぜの寺?! feat. 坂爪圭吾さん!】〜かわいい自分に旅をさせよ!〜
最近思うことあれこれをまとめます。
1・悲しみにケリをつける。
悲しみの別名は『愛』だと思う。愛のない悲しみなんてひとつもない、ただ、受け取られることのなかった愛情が、行き場所を失くした愛情が、愛したいように愛せなかった記憶が、胸の奥に鉛の塊【悲しみ】を作る。前に進むためには、悲しみにケリをつけることだ。悲しみの奥にある愛に手を伸ばすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月24日
ひどく抽象的な話になるけれど、多分、私は新潟を愛していたのだと思う。愛していたけれど「自分が思うように愛する【愛される】ことができなかった」ことをこじらせてしまい、何かこう変な感じになってしまったのだと思う。稀に、冗談として「俺は新潟に虐待を受けて育った」みたいなことを思うこともあるけれど、被害妄想が膨張しまくっているだけなのだと思う。悲しみにケリをつけるということ、それは「自分のコアを織り成すもの、自分の存在価値とダイレクトに結びつくようなものと、ガッツシ和解をすること」なのかもしれないと思う。
2・誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。
誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。欲しいものは自分で獲りにいくこと。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、副産物として、自ずから周囲を照らす光を帯びるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月13日
「新潟の魅力を世界に発信!」みたいな言葉を頻繁に耳にするけれど、多分、私はそういったものにまったく興味がないのだと思う。仮に新潟でごちゃまぜの家をやることになったとしても、新潟の魅力を誰かに知ってほしいとかあまり思わない。誤解を恐れずに言えば、新潟にはなにもない。米があるとか、酒があるとか、それらのものはすべて北海道が勝っている。自分にあるものを必死にアピールする【絞り出す的な】生き方はつらい。なにかあるから一緒にいるのではなく「なにもないけど一緒にいる(なにもないことを一緒に楽しむ)」ことができるひとと同じ時間を過ごした方が、楽だ。疲れない。
3・地域おこしより「自分おこし」。
感情は、絞り出すものではなく「溢れ出すもの」だと思う。頑張らなきゃとか、やりたいことを見つけなきゃとか、自分を好きにならなくちゃとか、常に自分を絞り出していたらボロボロになってちぎれてしまう。何かをやりたくなる瞬間は誰の元にも必ずあるから、大事なことは「命を信じる」ことだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月25日
地域おこしよりも「自分おこし」だと思う。超絶自分勝手な営みかもしれないけれど、私は新潟のために何かをやりたいとはあまり思っていない。完全に自分のため、自分の中にある未消化のサムシングにケリをつけるために、何かをやりたいと思った場所がたまたま新潟だったというだけの話なのだと思う。弁解がましいことを言えば、きっと、ひとは「自分が自分を救う【癒す】ようにしか、他人を救う【癒す】ことはできない」のだと思う。坂爪圭吾という小っぽけな一個人が己自身を救済する姿勢を晒すことが、結果として「それを見た他の誰かの何かもゆっくりと溶け出しちゃう」的な結末を迎える営みにできたら、それは「最高だな!」と思う。
4・自分を生きろ。
自分が自分であること以上に、なにがあるだろうか。太陽が月に好かれたいからと月に媚びて光を消せば、月も輝くことはできなくなる。太陽ならば、太陽であれ。月光ならば、月光であれ。誰かに好かれようと思うのではなく、ただ、自分自身を貫くこと。「柔らかく、たおかやに、自分自身であれ」と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月14日
太陽みたいになりたいと思う。太陽というのは「あたたかい」とか「ひとを照らす」とか前向きな印象の強い言葉だけど、太陽としては別に何かを照らしているつもりもなければあたためているつもりもなく、ただ『強烈にそこにある』だけに過ぎない。近寄り過ぎれば火傷をするし、距離感を間違えるといろいろなものを死滅させる。自分が自分であるということの中で、いろいろと面倒なことが生じる場合もある。が、それはもう仕方のないことなのだと思う。自分は自分でしかないのだから、与えられたものを生かすということ、他人との軋轢の中で「自分を殺した方が楽になれるよ」なんて思うこともあるけれど、多分、そんなことはないのだ。自分が自分であることで(自分でも知らないところで)誰かの力になることがある。
5・ないものを嘆くのではなく、自分にあるものを思い出せ。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月6日
悩みを覚えるときは「一般的な誰かと自分を比べてしまっている時」だと思う。誰もが当たり前にできることを、自分だけはうまくやることができないと感じる瞬間はつらい。自分のことをダメな人間だと思ってしまうこともあるし、自分が無価値に思えることもある。が、ないものを嘆いていてもはじまらない。重要なことは『自分にあるものを思い出す』ことだと思う。与えられているものを生かすということ。大事なことだから(自分に言い聞かせる的な理由で)何回も書きたいと思う。与えられているものを生かすということ。誰の中にも力はある。ただ、それを出していないだけなのだと思う。
6・もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。
自分を殺してひとに好かれるよりも、自分を出してひとに嫌われる方がずっといい。誰かに合わせて生きるほど、自分自身【己】から遠く離れて行く。もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。格好をつけたがる自分を蹴飛ばしてやろう。格好悪いなら格好悪いまま、野暮な己を曝け出していこう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月10日
自分を守るために鎧を身にまとうことがある。親の機嫌を取るために自分を演じて見たり、周囲の評価を求めるあまりに自分を偽ることがある。それはいけないことではない。その時、その瞬間においては「生きていくためには必要なことだった」のだと思う。だが、時は流れてその時は過ぎた。生きるために必要としていたその鎧が、いま、この瞬間も必要なものとは限らない。否、むしろ「その鎧が重い足かせとなって、自分自身を生きる妨げになっている」ことは多いのだと思う。鎧を脱ぐ瞬間は怖い。自分のままで生きていくことなんてできないんじゃないだろうかという恐れも出る。が、冷静に考えてみよう。裸の自分で生きることと、重い鎧を纏って生きること。どちらの在り方を、どちらの生き方を、自身のハートは望んでいるのだろうか。
7・自分のこころに嘘はつけない。
何か新しい道を選ぶ時、過去の出来事や、過去に言われた言葉が顔を出して「お前には無理だよ」と、昔の自分に引き戻す力が働く。この力に負けてはいけないのだと思う。前に進むと決めたのならば、生きることを恐れちゃいけない。「それで生きていこうと思えば、生きていけない事はないんだよ」と思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月13日
死ぬほど月並みなことを言うけれど「自分のこころに嘘はつけない」のだと思う。それが一般的な常識とは異なるものであれ、自分の心が違うと思えばそれは違うのだし、自分の心がそれでいいと思うのならば、誰に何を言われたとしても「それでいい」のだと思う。胸の中にあるセンサーは非常に敏感に作られていて、何かが違うなと思う時は「それはほんとうにお前のやりたいことか??」という警告を毎度静かに発してくれる。その警告に耳をすませるもよし。その警告を無視して続けるもよし。別にどちらでもいいのだと思う。が、私は、もう、自分をごまかすような生き方を続けたくないと思う。
8・それはお前のやりたいことか?
やりたいことをやる、言いたいことを言う、会いたいひとに会う、これ以上に優先するべき事柄はあるだろうか。理想の日々は「今日も生きた」と思いながら毎晩眠りにつくことであり、死ぬ間際、「おれは生きた」と思いながら、遊び疲れた子供が眠りに落ちるように、自分の人生に静かに幕を降ろすことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月13日
自分がやっていることに、自分で飽きることがある。自分はいつまでこんな生活を続けるのだろうかと思う時、鈍い疲労感を覚えることがある。これは「いまの生き方を変える合図」なのだと思う。乱暴な言葉で言えば「手癖で生きるな」と告げる愛の鞭だと思う。これからやろうとしていること、それは「お前のほんとうにやりたいことか」と自分に問う。生きている限り、何かを間違えることはある。それは仕方のないことだ。問題なのは「間違っているとわかっていながら、間違いを重ねること」だと思う。ああ、間違った!いま、自分は間違っている!と感じた時に、できるだけ瞬時に『何か』を変えること。真の充足感は、多分、他者の承認を必要としない(己自身の承認「ああ、この瞬間に間違いはないな」的な感覚に満たされている)。
9・真面目なままでは踊れない。
ひとから嫌われないように生きるほど、自分自身に嫌われる。周囲に合わせて生きるほど、自分自身から離れていく。認められるためではない、馬鹿にされても構わないと思えるその中に、純然なその人自身の『美』は宿る。罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年5月21日
自分は、多分、踊りたいのだと思う。生命のダンス的なものを、生きていることを喜ぶ踊りを踊りたいのだと思う。それが、いろいろな自意識が邪魔をして踊ることを妨げているだけなのだと思う。直近のキーワードは「解き放つ」である。真面目なままでは踊れない。もっと、自分のこころを解き放ってやりたいと思う。もっと自由に、もっと軽やかに、もっとたおやかに、My Little Lover往年の名曲ハローアゲイン風に言えば「ぼくはこの手伸ばして空に進み風を受けて生きていきたい」と思っているのだ(と思う)。
10・俺は勝手に輝く。その光で、勝手に救われてくれ。
誰もが心の中にこどもを抱えている。俺ら【おとな】の仕事は、そいつを楽しませること。綺麗な景色を見せてやること。広い世界を見せてやること。泣きそうなときはしっかりと抱き締めてやること。生きる希望を与えること。世界は生きるに値する場所なのだということを、柔らかに示すことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月24日
日本海に沈む夕日が綺麗だった。夕日を眺めていると、ああ、今日も生きた、明日も生きようという気持ちになる。1日の終わりに、しっかりとピリオドを打てている感覚になる。そのとき、その瞬間、超絶傲慢な思いだけど「俺は勝手に輝く。俺は勝手に輝くから、その光で、あなたも勝手に救われてくれ」ということを思った。誰かのためにできることなんてないな。自分を生きることが何よりも雄弁だな。それならば、自分がイエスを出せることをやろう。自分がイエスを出せないものを、他人に差し出すなんてやっぱりおかしい。誰かのイエスに安心をする生き方ではなく「自分がイエスを出せる生き方をしよう」と思った。思う存分世界を照らして、海に還る夕日の赤は、別れ際の切なさと美しさにあふれていた。人生の終わりに、私は、しっかりとピリオドを打てる生き方をできているだろうか。わからない、わからないけれど「自分のイエスで自分を照らす、その光が、結果として誰かにとっての光にもなることができるような、そういう生き方をしていきたい」のだと思った。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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special thanks KIRINwOrld