いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

福岡を経由して鹿児島にはいり、昨夜、成田空港から車を飛ばして福島県会津若松市に到着した。福岡と鹿児島ではトークイベントを開催していただき、様々な方々と話をした。その際に「昔から坂爪さんは文章を書くことが好きだったのか」と問われ、私は「昔から自分の気持ちを伝えることが下手くそで、口頭で話していても『また今日も伝えることができなかったな』と感じることが多かった。だから、自分の欠落を埋め合わせるように言葉を紡ぐようになったのだと思う」ということを話した。

 

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私の中には「誰にもわかってもらえない」と感じている部分があった。死にたいなどと思っていた時期もあったが、正確に言えば「死にたいと思うこの気持ちについて、誰かと話がしたい」と思っていたのだと思う。そして、そういう相手を見つけることができなかった私は、言葉を綴ることで自分の『穴』を埋めようとしていた。不思議なことに、いまではその「誰にもわかってもらえない」部分こそが共感【つながり】を生み、ブログ読者の方々も増え、トークイベントなどで実際に知り合う方々も増えた。うまく言葉にすることはできないけれど、この「誰にもわかってもらえない部分」こそが、結果的に多くの人々と繋がる契機になっている現実を不思議に感じている。

 

生きたいと思うことは、何かを好きになるということ。

生きていてもロクなことはないと思っていた10代の頃、それでも、自分の好きな音楽を聴いている間だけは自由になることができた。生きていることは悪いことじゃないと思えたし、生きていればまた好きなアーティストの新譜を聞くことができるということが、大袈裟だけど「これからも生きたいと思う」希望になった。私にとって、大事なことは「生きることよりも生きたいと思うこと」であり、ただ、なんとなく生きているだけでは苦しかった。生きるだけでは足りなかった、生きたいと思うこころの躍動に焦がれていた。

 

多分、何かを好きになるということが「これからも生きたいと思う」希望を生み出していたのだと思う。私は、私が好きなものを通じて「生きててもいい」という許しを得ていたのだと思う。いろいろなことがうまくいかないこともあるけれど、自分なんてダメだと思ってしまうこともあるけれど、それでも「生きててもいいよ」と言ってくれるそれらは優しい温もりに溢れていて、これからも生きたいと思える力を与えてくれた。多分、その頃からなのだと思う。かつての自分自身が「自分の好きなものたち」によって何度も何度も助けられたように、自分自身も、自分自身の生き様を通じて「まだ見ぬ誰かに、温もりを伴った命の躍動を伝えることができたなら」ということを思うようになった。

 

生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。それは「何かを好きになるということ」であり、誰かに好かれることではなく、誰かに愛されることでもなく、誰かに認められることでもなく、自分から「何かを好きになった」時の心の働きが、生きたいと思う力を生むのだと思う。生きている限り、さみしさのような感情に襲われることもある。愛されたいなどと願ってしまうこともあるけれど、多分、愛されることよりも『自分から何かを愛することができた』瞬間に、愛情は自分の内側から溢れ出して、自分自身を包み込むのだと思う。愛情は外側から与えられるものではない、多分、自分の内側から『あふれ出す』ものなのだと思う。あふれ出すということは、最初から自分に備わっていたということなのだと思う。

 

野垂れ死ぬことになっても。

自分を生きると決めた時、自分なりに決めた二つの覚悟を思い出した。ひとつは「ひとりでもいい」と言う覚悟で、もうひとつは「死んでもいい」という覚悟。ひとりでもいいと言う覚悟、その中には「周囲に理解を求めてしまうこともあるけれど、誰かにわかってもらうためにやるのではなく、誰にもわかってもらえなくてもやるという自身の純粋性を護りたい」という思いがあるのだろう。死んでもいいと言う覚悟、その中には「生き延びるために何かをやるのではなく、たとえ、それが通用をしなくなって野垂れ死ぬことになったとしても、それでも構わないと思えることに命を使おう」という思いがある。

 

不思議な話になるけれど、ひとりでもいいという覚悟を決めてからの方が、自分はひとりではないのだと思うようになった。死んでもいいという覚悟を決めてからの方が、生きていることの実感は膨らんでいるように思う。自分を生きるとか、本音を生きるとか、そう言う言葉を耳にする機会は多い。自分なりに思うことは「自分を生きると言うことは、決して生易しいことではないのだと思う。それは『生身で生きる』ということだから、常にヒリヒリしているし、喜びや感動もダイレクトに受ける代わりに、悲しみも苦しみもダイレクトに受けることになる」のだと思う。それは苦しいことかもしれないけれど、でも、それが『生きているということ』なのだとも思う。

 

もっと、自分を生き続けようと思った。たとえ自分が自分のまま生きて、最後には野垂れ死ぬことになっても、それでも自分を生きよう。社会に必要とされなくなり、道端で死ぬかもしれない。それでも、いい。自分には価値があると思わせてくれる出来事が起こる。それだけで今まで生きてこれたことに感謝をしたくなる。

 

数年前に出会った三森正道さんが、上記のような言葉を自身のブログで綴っていた。三森正道さんとの出会いは、数年前に遡る(詳細は過去記事をご参照ください)。素晴らしい出会いには、人生を肯定する力があるということを頻繁に思う。人と同じ生き方をすることができない自分をダメだと思うこともあるけれど、でも、この生き方をしていなければ出会うことのできなかった喜びがある。それが、これまでのすべてを肯定する。自分が辛さを覚えるとき、たとえば「三森正道さんのような人間が同じ時代に生きている」と思うことが、勇気をあたえてくれたり、前を向く元気をあたえてくれることがある。

 

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お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

どのような人生を望むかを考えた時に、ある人は「楽しいことだけをやる!」と言い、ある人は「ワクワクできることをやる!」と言い、ある人は「好きなことだけをやる!」などと言う。好きなことをやることは大事だとは思う(嫌なことをやりながら生きるよりは百億倍はましだと思う)けれど、正直に言えば「それだけでは足りない」と思う自分がいる。では、何が足りないのだろうか。自分の感覚に最も近い言葉を探しながら、ああ、それは『美しさ』なのかもしれないと思った。どれだけ素晴らしいとされているひとであっても、どれだけ素晴らしいとされているものであっても、そのもののあり方に「美しさ」を見出すことができない限り、自分のこころは反応をすることはできない(場合によっては「下品だな」と感じることもある)。 

 

 

自分を生きると言うことの、静謐さと苛烈さを見る。ひとと同じであることは、とても楽なことなのかもしれない。ただ、ひとと同じであるということは、時に「自分は自分である」と言うことの誇りや尊厳を奪う。価値判断が外側に置かれ、ひとと同じである限りOK、しかし『ひとと異なる限りNG』ということになってしまう。花には花の美しさがあり、空には空の美しさがあり、海には海の美しさがある。同じように、ひとにはひとの美しさがある。大事なことはきっと同じ、それは「与えられた生命を活かし切る」ことではないだろうか。その『生命をまっとうしようとするものの姿』の中に、同じ生命を共にするものを、静かに、熱く、強く魅きつける光は宿るのではないだろうか。

 

 

自分を出すと言うことは怖いことかもしれない。ただ、いつまでも自分を取り繕ったままで終わりを迎えることの方が、よっぽど怖いことだとも思う。自分のままでは愛されないと感じる不安や恐怖、日々はこれらの葛藤の連続だ。しかし、自分が好きなひとのことを思う時、ただただ『そのひとがそのひとでいてくれることのありがたさ』を思い出す。自分のままでは愛されないだなんて、多分、そんなことはないのだと思う。真逆で「自分のままでなければ愛されない。自分のままでなければ愛される意味がない」のだと思う。自分は自分でしかないのだから、これで生きる【自分を生かす】のだということ。自分が自分の生き方を見た時に「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と思えるような、私は、そんな生き方をできているだろうか。わからない、わからないけれど「美しくありたい」と思う。最後には野垂れ死ぬことになったとしても、自分の心が美しいと感じる生涯を過ごすことができたのならば、それを本望だなと思う。 

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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