いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

なんとなく生きるなんてクソだ。

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「死ぬまでに何度も読み直すことになりそうな本は?」という問いに対して、ある女性は「よしもとばななの『デッドエンドの思い出』と、村上春樹の『風の歌を聴け』です」と答えた。ある男性は「南直哉の『老師と少年』と、あとは『星の王子さま』とかになるのかなあ」と答えた。自分だったら何を答えるだろうかなと考えて、ふと、漫画バガボンドの37巻が頭に浮かんだ(あとは日本橋ヨヲコの『G戦場ヘブンズドア』)。このブログ記事をご覧のあなたにとって、この本は、死ぬまでに何度も読み直すことになるだろうなと思える本はありますでしょうか(もしもあったら教えてください。11月は時間があるので読みまくります!!)。

 

【ANN】ごちゃまぜの家&シェアハウス案内ツアー

 

沖縄で体調を崩し、台風の直撃で飛行機も飛ばず、結構ギリギリな日々を過ごしていた。JALが臨時便を飛ばすことになり、50000円近い正規料金を出して羽田に戻り(死んだ)、現在は横浜にあるごちゃまぜの家にいる。明日からパリ界隈に行く予定だったのだけれど、諸々の費用を臨時便に充ててしまったので身動きの取れない肉の塊になった。体調不良はいまだ治らず、しかし「体調不良でもビリーズブートキャンプはできる!」ということがわかったので、これから数日間はごちゃまぜの家で合宿をすることになりました。

 

【GSK】ごちゃまぜの家改め、ビリーズブートハウス!

 

ロックンロールとキリスト教

沖縄でぶっ倒れながら「俺はロックンロールとキリスト教に影響を受けたんだな」なんてことを考えていた。冬の新潟の曇天のように灰色の学生時代を過ごしていたとき、学校は退屈で、友達も少なく、生きていても何もいいことはないと思っていた。が、自分が好きな音楽を聴いている時間だけは『自由』のようなものを感じることができた。音楽のジャンルで言えば、多分、ロックンロールとことになるのだと思う。当時の私は、吉井和哉浅井健一甲本ヒロト田中和将坂本龍一などの音楽を好んで聴いていた。

 

どうしてロックンロールが好きなのだろう。多分、最大の理由は「やさしいから」なのだと思う。周囲にうまく馴染めない自分、ひとと同じであることがなかなかできない自分に、ロックンロールは「それでいいよ」と言ってくれているように感じていた。きっと、それがたまらなくうれしかったのだと思う。親、教師、周囲の人間、学校、社会などから「お前はお前のままでは通用しない」と言われているように感じている日々の中で、ただ、ロックンロールだけはやさしかった。そのままでいいよという言葉は、大袈裟な言葉で言えば『生きててもいいよ』という言葉になり、乾きかけていた自分のこころに最後の潤いを与えてくれた(ように思う)。

 

現在の私は32歳で、世間的には立派な大人の年齢だ。しかし、この歳になってもまだ、自分の中にある『反骨精神』のようなものがあることを感じる。世の中の多くの人が「これが本当だ」と信じているものに対して、どうしてなのだろうか、素直に受け入れることができずに「それは本当か?」と感じることは多い。良い大学にはいること、良い企業にはいること、それが人間としての幸せです的な教育を受けて我々は育った。多分、私はそういう画一的な考え方に中指を立てているのだと思う。これがよしとされている道ではない、なんなら「こうなったら人間の終わりです」とさえされている道を選び、かつ、その道の上で幸せそうにしている。幸せそうにしながら「ざまあみろ」って何かに対して言ってやりたいと思っている、そういう幼稚な自分がいる(ことを感じている)。

 

ibaya.hatenablog.com

 

なんとなく生きるなんてクソだ。

キリスト教の影響とはなんだろうか。10代の頃は、三浦綾子の小説を好んで読んでいた。多分、当時の私はキリスト教の思想の中に、なにかしら『美しいもの』を感じたのだと思う。何を美しいと思ったのかはわからない。その後、20代前半の頃、ひょっとした縁でイラン人の牧師さんと知り合い、教会にも足を運ぶ(というよりは遊びに行く)ようになった。私はクリスチャンという訳ではなかったけれど、金持ちも貧乏人も様々な職種の人間が「神の名の下に」同じ場所に集って祈りを捧げている姿は印象的だった。美しいなと思うこともあったけれど、初対面の人間に「おお、兄弟!」と言うテンションにはついていけなくて疲れた(その後、自然消滅的に教会には足を運ばなくなった)。

 

誰かの生き方をああだこうだと言うつもりはない。ひとのことを言えるほど、自分は正しい人間ではない。俺は俺の生き方を見て思う。なんとなく生きるなんてクソだ。生活のために生きるのは虚しい。生きるために必要なことではなく、生きていることを実感するために必要なこと。「命の燃焼」の不足。そのことが、悔しいのだと思う。

 

自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死ぬほうがいい。自分を殺してひとから好かれるくらいなら、自分を出してひとから嫌われるほうがずっといい。そんなことを思いながら数十年間生きてきたが、自分に対して腹立たしくなる瞬間は頻繁にある。体調不良の時などは、特にそうだ。なんとなく過ごしてしまっている怠惰な自分に、手元にあるものをまるで活かせていないばかりか無駄にしてしまっているのではないだろうかと思う時、私は「生きている実感」から遠く離れた場所にいる。そんな時、私は「畜生、畜生、」みたいなことを思いながら悶える。あたえられた命を使いきれていない自分に、大袈裟な言葉で言えば『生命に対する冒涜』とも思えるような腹立たしさを感じる(ことがある)。

 

わたり文庫『デッドエンドの思い出』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、よしもとばなな著作『デッドエンドの思い出』です。冒頭でも書いたけれど「死ぬまでに何度も読み直したいと思う本」というものを、誰でも一冊くらいは持っているものなのだろうか。もしも「自分にとってはこれがそれです」的なものをお持ちの方は、暇な時にでも教えていただけたらうれしいです。ごちゃまぜの家に直接郵送をしてくれてもうれしいし、その場合は、ごちゃまぜの家からも「誰かが置いて言った『死ぬまでの何度も読み直したいと思う本』を御礼(?)に郵送します。ごちゃまぜの家にある本棚が、誰かにとっての「死ぬまでに何度も読み直したい本」ばかりで構成される日がきたら、それはなんだか素敵なことだなと思いました。デッドエンドの思い出をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

今、この別々の空の下で、お互いが痛いくらいに切ないのがわかって、私の心にはまたあの店の二階の窓から見る光景と、果てしなくいちょうの葉が降り積もる静かな金色の世界が浮かんできた。

 

きっとそれは私の心の中の宝箱のようなものにおさめられ、どういう設定で見たのか、どんな気持ちだったのかすっかり忘れ去られても、私が死ぬときに幸福の象徴としてきっときらきらと私を迎えに来る輝かしい光景のひとつになるだろう、と思った。

 

よしもとばなな『デッドエンドの思い出』【文春文庫】

 

仕事とは、祈りの具現化である。

ロックンロールとキリスト教について書きたかったが、まるでうまくまとめることができなかった。私は思う。この世でいちばん美しい営みは「祈り」なんじゃないのかと思う。そして、世で言う仕事とは『(生活に必要なお金を得るというだけではなく)祈りを具現化すること』ではないのだろうかと思う。私はこうしてWEB上に文章を書く。文章は読める。読めるけれど触れない。冊子なら読める。活字になれば触ることができる。編集者の方が「本は出さないのか」と問う。わたしは「わからない」と答える。が、本にすれば触ることができる。目に見えないもの【祈り】を形にすることができる。

 

 

私は、私の好きなひとには「幸せであれ」と願う。楽しそうに生きていてほしいと思うし、幸せそうに生きていてほしいと願う。願うだけでもいいのだろうけど、願うだけでは足りないとも思う。私は花が好きだ。だから、私は「幸せであれ」という願いをのせて、好きなひとには花を贈る。この瞬間、花は祈りを具現化したもの(祈りの器)になる。これは料理も同じだと思う。料理そのものではなく、多分、私たちは「作り手が込めた思い」を食べている。料理もまた、祈りを具現化したものだと思う。仕事とは、なにも職業のことばかりを指すのではない。自分はどのような祈りを抱いていて、それをどのようなものに注いでいるのか、なにによって『自分の祈りを具現化しているのか』が、そのひとにとっての仕事になるのではないだろうか(そして、私の場合は『言葉』がそれにあたるのだと思う)。

 

 

私の場合は『言葉』がそれにあたる、と書いて軽い違和感を覚えた。もちろんわたしは言葉を綴る。しかし、言葉以上に「祈りを具現化しているもの」が自分にはあるような気がした。それはなにかと考えて、ああ、それは『自分自身』だと思った。変な言い方になるけれど、わたしは花を贈るような感覚で、目の前にいるひとに『自分自身を贈っている』ように思う(ことがある)。きっと、今世のわたしは「(何かをするということではなく、何者でもなく強烈にそこにあるということ、つまり)存在に賭けたい」と思っている。言葉だけではない、自分は「自分と言う存在【肉体と精神】」に瞬間最大燃焼的な祈りを込める。何を語るでもなく、何をやるでもなく、ただそこにあるという存在を通じて「生きていたい」とか「生きててもいい」とか「生きてやるぜ」とか、それを見たひとの内部になにかしらあたたかなものを生み出すことができたのであれば、それは最高だなと思う。

 

 

 

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ガラクタだって構わないのだ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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