いばや通信

ibaya.ex《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「何もしないで死ぬ」ことも偉業。

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体調不良の恩恵を受けて、おじいちゃんのような日々を過ごしている。寝起きに珈琲を挽き、敬愛する藤岡弘さんに倣い「ありがとう」と囁きながらお湯を注ぐ。縁側で日光浴をする。庭を行き交う蝶々を眺める。午前中は軽い運動か創作か読書の時間に充てる。午後以降は、来客があれば対応をして、一緒に飯を食べたりお茶を飲んだりする。夜、月のあかりを眺めながら「月があるなあ」とか思ったりする。もう、30歳で定年でいいと思う。30歳以降は余生【ボーナスタイム】である。

 

人生はボーナスタイムである。これはわたしの好きな言葉【考え方】である。これまで、好きな言葉とか座右の銘を尋ねられてもまったく上手に答えられない自分がいた。これからは「人生はボーナスタイムである」と返したいと思う。生まれて来ただけで全員勝ち組、生きているだけでいい、それ以外はまったくのおまけみたいなものである。金持ちになるとか有名になるとかある種の功績を残すとか、全部、おまけ。今夜眠る場所があり、明日食うに困らない金があるならば万々歳であるとわたしは思う(12月3日に広島県金輪島に伺います。お時間のあるかたはお会いいたしましょう!!)。

 

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「何もしないで死ぬ」ことも偉業。

「何もしないで死ぬ」ことも偉業だと思う。生まれたからにはなにかをしなければいけないという考え方にとっ捕まると、なにもしていない自分【他人】を許せなくなる。中庸という言葉がある。個人的に「どちらでもいい」という状態が理想だと思う。なにかをしたければなにかをすればいいし、なにもしたくなければなにもしなければいい。多分、それだけでいいのだと思う。「そんなんじゃ生きていけないだろ!」と怒られてしまいそうだけど、わたしは思う。生きていけなくなった時は、潔く、死ねばいいのだと思う。

 

自殺を勧めている訳ではない。ただ「死を否定的に捉える必要はない」ということを思う。誰だって、当たり前のことだけれど「死にたくない」的なことを思う。だから、いやなことをやってでも生きようとする。生にしがみつき、死を忌避する。結果、それによって自由になれるのであればいいのだけれど「なんだか生きていることそのものがつらいものになっちゃった!」みたいになることは多い。『死ぬ』ことは自然の一部である。生にしがみつく【死ぬことが許されなくなる】ことの方がよっぽど不自然で、不自然な状態では「(流れに逆らう形になるから)生きていることが苦行になる」ことが多い。

 

「死ぬな!」と言われると(生きなくちゃいけない!となって)カラダがこわばる。「死んでもいいよ」と言われると謎の安寧を見る。繰り返しになるけれど、わたしは自殺を勧めている訳ではない。ただ、延命措置に未来はないということを感じていて、死んだように生きるなら、一回死んじゃえばいいんじゃないのかなと思う。死ぬとはつまり「社会的に死ぬ」ということで、普通を降りる【人並みをやめる】ということでもある。いま、ここまで書いて『死に損ないはゾンビになる』という言葉が脳裏をよぎってドキッとした。ゾンビにはなりたくないなあと思う。多分、そのための新陳代謝なのだと思う。

 

自分にとらわれると不幸になる。

ごちゃまぜの家でいろいろなひとと話す。楽しそうに生きているひともいれば、あんまり楽しくなさそうに生きているひともいる。人生を最高のテーマパークのようなものだと捉えるひともいれば、人生を修行の場所だと捉えるひともいる。生きていることを軽やかに【柔らかく】とらえるひともいれば、生きていることを重く【固く】とらえるひともいる。同じ現実を生きているといえども、その捉え方は百花繚乱、誰もが「自分の見たいように世界を見ている」のだと思う。

 

ごちゃまぜの家の管理人のあきとさんが「自分のことばかり考えているひとは、自由を行使できない気がする」的なことを言っていた。わたしは、理由はわからないけれど「なんだかそんな気がする!」と思った。自分のことばかり考えているひとは、自由を行使することはできない。ううむ、ううむ、自分でもどういうことなのかあまりよくわかっていないけれど、非常に含蓄のある言葉だなと思う(未だに自分の中で咀嚼は続いている)。

 

自分にとらわれると不幸になる。そういうことを思う。このさみしさをどうにかしたいとか、この欠落をどうにかしたいとか、そんな感覚に包まれているときは自由から遠い。自由とは「自分が消えている状態」だと思う。多分、創造性の中に自由はある。稀に、文章を書きながら「これは俺が書いているようで『何者かによって書かされている』のだ」と思うことがある。大袈裟な言葉で言えば、自分はただの触媒であり、神的なサムシングを「(自分を通じて)おろしている」状態。この瞬間、自分はただの道具になる。それは神を表現する道具であり、逆説的だけれど、自分が道具になることで「自分を最高レベルで満たすことができる」ある種の没我感を覚えることがある。

 

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わたり文庫『借りの哲学』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ナタリー・サルトゥー=ラジュ著作『借りの哲学』です。本の帯に書いてある「私たちの持っているもので、人から借りていないものがあるだろうか?」という言葉にビビッと惹かれまして、先日購買をしたのですがまだすべてを読みきれていません。こちらの本で登場するシェイクスピアヴェニスの商人のある箇所が非常に印象に残っているので、そちらを紹介をさせてください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※

 

ヴェニスの商人』のなかでは、一箇所だけ、《本当の贈与》、すなわち《返礼を求めない贈与》について言及がされる。それは、美しく裕福なポーシャにバッサーニオが求婚したとき、自らの愛を示すために「箱」を選ぶ場面にあらわれている。ポーシャと結婚するために、求婚者たちは金と銀と鉛の箱の三つからひとつを選ぶという試練を受けなくてはならないのだ。

 

金の箱には以下のような文面が彫られている。

 

「我を選ぶものは、誰もが欲しがるものを得られる」

 

銀の箱にはこう彫られている。

 

「我を選ぶものは、自分にふさわしいものを手にいれることができる」

 

そして、鉛の箱にはこう彫られていた。

 

「我を選ぶものは、自分の持っているすべてのものを差し出さなければならない」

 

バッサーニオは鉛の箱を選んだのだが、そこに彫られた言葉は、《返礼を求めない贈与》 - つまり、「愛」の本質を語っている。愛することとは、「自分の持っているすべてのものを差し出す」ことにほかならないからだ。「愛」は見返りを期待しない。すべての打算や利益を超えたところに生まれるのである。これによって、バッサーニオはポーシャを得るが、それは《交換》を意味しない。問われているのは、自分が与えるかどうかだけだからである。

 

ナタリー・サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』【太田出版

 

人生はボーナスタイムである。

ここまで書いて書き忘れに気づいた。わたしはいま、神奈川県横浜市にある菊名という場所で「ごちゃまぜの家」という営み(?)をしている。なぜこれをやりたいと思ったのか、多分、理由は500個くらいある。そのうちのひとつに「なぜ分ける?」というものがあり、こどもは保育園や学校に、障害者は障害者施設に、老人は老人ホームにぶち込まれる。だから「ごちゃまぜの家」という名前をつけた。全部ごちゃまぜでいいんじゃないだろうか。お前たちの問題はお前たちだけで解決をしろという風潮の世の中では、関係者にかかる負担が増える【社会的な分断が進む】。それならば「関係者の枠をふわっと増やせないものだろうか」と思うようになり、実験的にごちゃまぜの家を試している。

 

家とはなにか。家族とはなにか。ウルトラ引き伸ばして考えて見ると、生きとし生けるものは全員家族【地球が家】であるように思う。誰から生まれたとか、誰に育てられたとか、それらは些少な問題に過ぎない。たとえば誰かが犯罪を起こす。それをテレビとかで見たひとは「物騒な世の中ね!」とか「あんなひとになったらおしまいね!」とか言う。が、ウルトラ引き伸ばして考えて見ると、悪いのは犯罪者そのひとではなく「犯罪者を生み出すような世の中の土壌」であり、この土壌を構成しているのはわたしたちひとりひとりである(という点において、私は勝手に責任を感じている。いい人ぶりたいとかそういうことではなくて、なんとなく「他人事とは思えない」ことがある)。

 

人生はボーナスタイムである。そういうことが書きたかったはずなのに、話が広がり過ぎて着地点が見つからない。追い詰められた人間はおかしなことをするようになる。自分を見ていても思う。抑圧された魂は、必ずどこかで暴動を起こす。わたしには「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」くらいの考え方がちょうど良い。今夜眠る場所があり、明日食うに困らな金があるのであれば万々歳である。残された日々をどのように過ごすのか、それはひとりひとりの自由である。人生を苦行ととらえて修行を続けるもよし、今いる場所を天国ととらえて創造性の扉を全開にするもよし、好きなように生きたらいいのだと思う。恨みっこなしの一蓮托生である。わたしの場合は、自分のこころが「いいな」と感じる時間や空間や人間の記憶を、脳髄に焼き付けて散りたいと思う。

 

 

 

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生きているかぎり、何かを学びつづけている。

  

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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