いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

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小倉港から松山港にはいり、いま、道後温泉駅前の喫茶店にいる。来週の18日以降は再び福岡に戻り、対談形式のトークイベントに出演をさせていただくことになった。稀に、出会う方々から「坂爪さんは講演活動で飯を食べているのですか?」と尋ねられることもあるけれど、講演と呼ばれるようなものは過去に一度もしたことはない。一方的に話すことがあまり好きではないので、教える・教えられるという関係性よりも「互いに引き出し合う」的な、あくまでもフェアな状態で「講演というよりは会話」をしたいと思っている。

 

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最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・「家のない生活」のはじまり。

2013年のバレンタインデー、東京で記録的な豪雪を記録した日に私は能動的にホームをレスした(当時、同棲をしていた彼女と別れたことがきっかけ)。あの頃は、林修先生の「いつやるの?いまでしょ!」という言葉が流行っていて、別れることが決まった私たちは「一緒に住むのも変だよね」ということになり、荷物の少ない私が家を出ることになった。当時の彼女は、私に「いつ出るの?」と尋ねた。私は、ああ、これはなんか聞いたことがある流れだなと思って「いまでしょ!」と答えた。別れても一緒に暮らすというのは個人的になんかこういろいろとアレだなと思ったので、一時間程度で荷物をまとめて「元気でね」と言って家を出た。

 

これが、わたしの「家のない生活」のはじまりになる。

 

2・家のない生活は「おいしい生活」だと勘違いをする。

ホームをレスした私は、まず、最寄りの喫茶店にはいって彼女と過ごした日々を思い出しながら感傷に浸っていた。が、20分くらい感傷に浸ったのちに「そんなことよりも今夜の家はどうするのだろうか」という現実的な問題にぶち当たった。私は、私の数少ない友達A君に連絡をした。事情を伝えると、友達は「それは大変だったな。今夜はうちに泊まるといい。肉でも食うか?」ということになって、焼肉をご馳走してくれた。翌日、さすがに連泊をするのも迷惑だと思い「まじでありがとう。すごい助かったよ」と感謝を伝えて家を出た。私は、もうひとりの数少ない友達B君に連絡をした。すると、B君は「それは大変だったな。今夜はうちに泊まるといい。肉でも食うか?」ということを言ってくれて、私は二日連続で焼肉を食べた。

 

この時、愚かな私の頭の中で「家がないと焼肉が食える!」という方程式が成立をした。

 

3・家がなくなると、家がある時よりもいいものが食える。

基本的に貧乏生活が長かった私は、ひとりでご飯を食べる時は納豆ご飯(山盛り)とかで済ませることが多い。家を失った当時、私を哀れんでくれる様々な方々から様々な物資を受けた。心根が腐っている私は「これはいろいろなものが食えるから美味しい!」みたいなことを思うようになり、よし、ここはいっちょ家のない生活がどこまで通用するのかを自分を使って試してみようと思うようになった。もともと、東京の家賃は高すぎるとも思っていた(家賃のために働く必要があるなんてちょっと自分にはかなりしんどいぞ、的なことを感じていた)ので「仮に家がなくても生きていけるようであれば、生きるハードルも下がるからハッピー!」みたいな軽めのノリで、ダメならダメでダメになった時に考えればいい、あとは野となれ山となれであれ的な感覚で「家のない生活」をはじめた。

 

結果的に、この生活は2年間続くことになる。

 

4・坂爪圭吾を泊めるための予約待ち状態が発生をする。

もともと友達が少ない私は「友達の家を渡り歩くにも限界がある。さて、どうしよう」ということを考えた後に「徹底的に自分を出せ」という言葉【神のお告げ】が脳裏をよぎるのを感じた。自分を出せば絶対にうまくいくとは限らない、でも、自分を出したらもしかしたらうまくいくかもしれないという非常に抽象的な予感を感じて、よし、それならば自分の置かれている現状なり己の人間性や所持金や各種連絡先などもすべてオープンにして「これが私です。こんな私を面白がってくれる人はお気軽に連絡をください」的なことをした。ら、非常に驚いたことに(多分、私は猛烈に幸運な星のもとに生まれているのだと思う)まだ出会ったこともない様々な方々から「渋谷に来たらラーメンをおごるよ」とか「川崎に家があるから自由に使っていいよ」などといった連絡が届いた。

 

そして、いつの間にか「坂爪圭吾を泊めるための予約待ち状態」が発生をすることになる。

 

5・バイトリーダーがシフトを組む。

私は「なんだこれは!」と思った。己の電話番号なども公開をしていたので、いろいろな人から連絡が来る。あるひとは「もしもし、坂爪さんですか?おうちがないんですよね?今夜、うちに泊まりますか?」と電話をくれる。私は「非常に申し訳ないことに今夜は他の方の家に泊まる予定になっているのです。が、明後日の22時以降ならお伺いできるのですがご都合はいかがでしょうか??」みたいな感じで、さながら『バイトリーダーがシフトを組む』的な感覚で己の宿泊先が埋まっていった。私は、家がなければ人間は生きていけないものだと思っていた。が、家がなくなると「家が増える(いつでも泊まりに来てくださいと言ってくれる人が増える)」という謎の逆転現象に、生きていることの奥深さを見た。

 

「この生活には、なにかヒントがありそうだ」と思って、私はこの生活を続けた。

 

 6・人間はいつも成長している。

家なし生活の醍醐味は「普段は出会わないひとに出会いまくる」ことにあると思う。私の敬愛するブルース・リー氏も「人間はいつも成長している。しかし、人間はパターン化された思考や行動によって行動を制限されると、成長を止めるものだ」的なことを言う。型にはまると、小さな世界でしか物事を考えられないようになり、生命全体の広がりを感じることがなかなかどうして難しくなる。家がないということは非常に心もとないことでもあるけれど、自分の人生から「帰宅をする」という動詞が消え失せるために、普通の人が帰る分だけ「前に進む」ことができる。これがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、当時、28歳の若造だった私には「その日の朝には想像もしていない夜を過ごす」ことができているという事実に、何かこう静かな興奮を覚えていた。

 

やがて、全国各地からも声がかかるようになる。

 

7・人生は何が起こるかわからない。

「君の生き方は面白いね。よかったら、交通費を出すから○○までおいでよ」的な連絡が届くようになる。最初に呼ばれたのは佐賀県武雄市で、以来、結果的に家のない生活をはじめてから日本全国47都道府県全てに足を運ぶことになり、2年目にいたっては海外からも声がかかるようになって20カ国近くに足を運んだ。誤解をされると困るが、私は「どうだ!俺の生き方はすごいだろう!わっはっは!」みたいなことが言いたい訳ではない。自慢をしたい訳ではなくて、自分の身に起きている謎の現象をみなさまと一緒に考えることができたら嬉しいと思っている。これがなければ生きていけないと思っていたものを手放した先に、それがあった時にはとてもじゃないけれど想像もすることができなかった世界が展開されることが(人生には時折)ある。

 

ー 生きるために必要なものは、多分、それほど多くはない

 

8・増やすな。捨てろ。

「最近思うことあれこれ」とか言っておきながら、過去の話ばかりをしてしまった。結局何が言いたかったのかというと「増やすな。捨てろ。」ということを最近は強く感じているということで、自分の生き方なり日々の生活の中に閉塞感や停滞感を覚える時は、何かを得ること【増やすこと】よりも『捨てること』とか『手放すこと』とか『終わりにすること』に焦点を絞った方が結果的にうまくいくことは多いのではないだろうか、と、そういうことを思っている。それは「執着を捨てる」ということで、多分、最大の執着とは「己の命に対する執着」なのだと思っている。

 

ー 軽い荷物で、遠くに行こう。 

 

9・柔らかに、たおやかに、自分自身であれ。

何か新しいことに挑戦をしようと思う時、新しい世界に飛び込みたいと思う時、希望や期待と同じくらい「恐れ」にも似た感覚を抱くことがある。自分が変わってしまうのではないだろうかという恐れ、もとには戻ることができないのだという恐れ、ひとからおかしく思われてしまうのではないだろうかという恐れや、自分が壊れてしまうのではないだろうかという恐れなど、恐れには様々なものがある。しかし、私は思う。命は、多分、壊れてしまうようには作られていない。命はもっと柔らかく、命はもっとたおやかで、それは「固定されること」や「限定づけられること」を好まない。

 

ー 命は雲のように、命は水のように、命は風のように流れている。

 

10・それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

先日、18日&19日に博多で開催されるイベント主催者の方から「なにぶんはじめたばかりの活動で、集客力などといった面でも力になれることがあまりないので、坂爪さんからも告知をしてもらえたら助かります」という連絡をもらった。両日ともに残席はあるとのことなので、興味のある方はお気軽に遊びにいらしていただければ幸いです。主催者側からすると「ちゃんと人は来てくれるだろうか」とか「みんなに楽しんでもらえるだろうか」などといったことを考える気持ちはわかる。でも、一番大切なことは「主催者自身がその日が来ることを楽しみにできているか」だと思う。多分、楽しさは伝染する。しっかりとやろうとすること以上に、誰よりも自分が一番楽しんでやるんだくらいの気持ちがあれば、たとえ人が集まることはなくても「いい時間になる」のだと思う。

 

 

その営みの素晴らしさは、どれだけ沢山の人が集まったかとか、どれだけ多くのお金を動かしたかとか、どれだけ社会的に認知される活動になったかとか、多分、そういう相対的なもので決まるものではないと思う。規模が膨らむほどに、人間を人間として見ることができなくなっている環境や活動を、過去にたくさん見た。大事なことは「人間が人間として扱われること」だと私は思うし、社会システムの犠牲になって「自分が自分を人間として扱うことができなくなる」なんてことになってしまったら、それこそ生きていることが苦しいことになってしまう。

 

 

常に自分自身であるということ。ひとに合わせようとするばかりに、自分を殺すような真似だけはしないこと。たとえ嫌われるようなことがあったとしても、笑われても、馬鹿にされても、周囲と同じでいることができない自分を駄目だと思うことがあったとしても、それでも「自分は自分である」ことの品格と尊厳を護ること。自分は自分でしかないのだから、自分は自分でいいのだと、自分はこれで生きるのだと、完璧な人間になることのできない自分を責めることよりも、完璧な自分であることを願うように。何者かになりたいとは思わない。ただ、自分でありたいと思う。

 

 

 

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それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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