いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

正しさよりも「楽しさ」だ。

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Mr.Childrenの「光の射す方へ」を聴きながら新横浜駅まで歩く。雨だ。天気予報はしばらく雨だ。天候と精神状態は比例をする。やばい。このままだと(最近調子に乗りはじめた自転車ロングライドやランニングの類もできなくなるし)絶対に滅入ると思って日本の天気をざっと調べたら、札幌と那覇だけは晴れるみたいだから飛行機で飛んでやろうかと思った。が、なんだかむなしくなってやめた。こんな時はどうすればいい。連日の雨の中どうやって精神状態を保てばいいのだと苦悶していたら「あっ!」と閃いた。そうだ。私には伝説のビリーズブートキャンプがあるじゃないかと閃いた。

 


私は過去に半年間寝たきりで一ヶ月間で20キロ太り「俺の人生は終わった」と嘆きながらも徐々に体調は回復をして「伝説のビリーズブートキャンプ」を通じて三ヶ月で15キロ痩せる奇跡のJ字回復を果たしたことがある。そのことを思い出した。詳細はイベントページに譲るけれど、なにもやることがない時こそ「基礎体力の増強」に限る。これからしばらく菊名にいる。時間のあるひとはあったり話したりしましょう。カラダを動かさないとアタマがおかしくなる。私の場合は「(カラダを動かさないと)すぐに死にたくなる」衝動に駆られるから厄介だ【生きる意味より死なない工夫だ!】。

 

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自由とは何か。

ごちゃまぜの家の活動をはじめて五ヶ月目になる。良いことも悪いことも五億個くらあったけれど、総じて「いい感じ」だと思う。ごちゃまぜの家は「みなさまの善意によってまわっている」基本的になにをしても自由な空間ということになっているのだけれど、自由の名のもとに「人間の品性は丸裸になるのだな」的なことを思う。様々な利用者が来る。家にあるものを大切に扱ってくれるひともいれば、なんというか下劣な人も来る。家にあるものを大切に扱ってくれるひとが来てくれた時は非常に嬉しいけれど、どうしようもないひとが来た時は「お前は誰だ!」と思うこともある(「帰ってくれ」と言うこともある)。

 

自由とはなんだろうか。わからない。私はなにがやりたいのだろうか。あまりよくわからない。誰でも自由に足を運べる空間があったらいいだろうなと思ってはじめたものの、よくわからない人が来ると「お前は帰れ」とか思う俺はいったいなんなのだろう。これじゃ罠を仕掛けているのと同じじゃないかと思う。表向きには「誰でも来てください!」とか行っておきながら、気に入らないひとが来ると不機嫌になる。ごちゃまぜの家とか言っておきながら、こころの何処かでは「ごちゃまぜにされてたまるか!」とか思っている自分もいる。

 

思うことはふたつある。私の役割は「本当のことを言うこと」だということ。そして「お前が自由であるように、俺も自由であることを忘れるな」ということ。この家は、あらゆるひとに対して門戸を開く。門戸は開かれているものの、この空間を甘えや依存を助長する場所にしたいとは思わないので、それなりの緊張感をもって臨んでいる。この家は、みんなの家でありながら、誰の家でもない。誰もが使える家でもあると同時に、誰もが『使わせていただいている家』でもある。なんと言えばいいのだろうか、感謝と緊張感を忘れたらアウト、(これはあくまで自分自身に対して感じているものだけれど)調子に乗ったらご臨終、傲慢になった瞬間に即死をしてしまうものだと思う。

 

お前はお前でかかって来い。

この家にいると「ああ、このひとに説教をしたいな」と思う瞬間がある。牡羊座生まれだからなのだろうか、私は、私の中に「静謐にして苛烈な炎【ファイアー】」的なものを感じることがある。なんだかだらけているだけに見えるひと、自分や他人をまったく大切に扱えていないように見受けられる人を見ると、「お前はそんなもんじゃないだろう!」みたいな感じでビシッと説教をしたくなる。多分、私は『なにかをごまかしている』と感じるものに対して過剰に鋭敏で、あれ、いま、お前はウソをついているだろうとか思ってもいないことを言っているだろうとかお前は何かを隠しているだろうと感じる時に、その点を突かずにはいられない傾向がある(のだと思う)。

 

この感覚は、多分、こどもが「王様は裸だ!」と叫ぶ時のアレと似ている。偉そうなひとを見ると「なんぼのもんじゃい!」と天狗の鼻を折りたくなるし、あまりにも長い間悲しみに浸っているひとを見ると「浸ってんじゃねえよ!」的なことを言いたくなる。いや、別に、自分といない間はいくらでも好きなようにしてもらっていて構わないのだけれど、この瞬間、坂爪圭吾と居合わせたことが運の尽き、私と言う人間といる間は「申し訳ないけれど、思ったことを言わせていただきます」ということを感じることは多い。

 

相手が誰であれ、良くも悪くもまっすぐに向き合ってしまう。瞬間瞬間に最大限のエネルギー【集中力的なサムシング】を注力してしまうし、相手が有名人であろうが無名人であろうが関係ない、『瞳』や『声』や『表情』や『仕草』や『言葉遣い』など、その人自身から(無意識のうちに放たれているであろう)情報のようなものを総動員して、さて、このひとのコア(それを抱えて生きることはとても苦しいことだからどうにかしたいとは思っているけれど、でも、それを手放すことも物凄い怖いと感じる矛盾的なもの)を織りなしているものはなんなのだろうかをできるだけ見極めて、最小限の言葉で其処を突く。9割聞いて、1割突く。それが私のやり方だ。だから、話している時に相手の涙を見ることは多い。なんて書くと「会いにくくてたまらないひと」みたいに思われちゃうかもしれないけれど、事実、その通りなのだからどうしようもない(のだと思う)。

 

わたり文庫『かもめ食堂

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は『かもめ食堂』です。映画も原作も素晴らしい最高の一冊になります。私はこの作品が大好きです。読書の秋ということで、雨の日は家でゆっくり本を読むのも素晴らしいかもしれません。この作品を読んでいたら無性にヘルシンキに行きたくなったのですが、誰か、坂爪圭吾を北欧界隈まで飛ばしてくださる神様はいらっしゃらないものでしょうか。こちらの本をご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。これは余談になりますが、ごちゃまぜの家には『わたり文庫の部屋』みたいなものがあって、そこに置いてある本は誰でも自由に持ち出しできる形になっています(返却不要!面白かったら次の誰かにまわしてください)。もしも「この本は素晴らしいから誰かに無理矢理でも読ませたい!」みたいな本をお持ちのかたは、是非、わたり文庫の部屋に勝手に置いて言っていただけましたら幸いです。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「で、これはひとこといってやらねばと思って、弟の家に行って、『あんたのおかげでくさくさするから、気晴らしに旅行に行ってくるわ。しばらく帰らないから放っておいてちょうだい』って怒鳴ったんです。ちょっとすっきりしました」

 

「それがフィンランドなんですね」

 

「父のオムツを換えているとき、テレビでフィンランドのニュースを何度も見たんですよ。『エアーギター選手権』『嫁背負い競争』『サウナ我慢大会』『携帯電話投げ競争』でしたね。いちばんすごかったのは、『嫁背負い競争』です。ふつうに考えると、おんぶすると思うでしょう。それが違うんです。奥さんの両膝を後ろから自分の両肩にひっかけて、ものすごい速さで走るんですよ」

 

「ということは奥さんは逆さ?」

 

「そうなんです。もう両腕なんかぶらぶらしちゃって。それを見て、こんなことを一生懸命にやる人たちって、いいなあって思ったんです。どこかすこーんと抜けてるっていうか。妙なしがらみなんかが全然なさそうで。人生がとても楽しそうだったんです。で、来ちゃったんですけど・・・」

 

マサコはすまなそうな顔になった。

 

群ようこかもめ食堂』【幻冬舎文庫

 

正しさよりも「楽しさ」だ。

先日、食育をやりたいと語る女性と出会った。食事がカラダに与える影響はなんとかかんとかと語る女性自身がなんだかちょっと不健康そう(生きていることが苦しそう)に見えたので、正しい食事療法が云々よりも『自分の体がよろこびを感じる食事』の方が五億倍重要だと思った。なんだろう、自分に対する自信がない時とか、弱気な時は「正しいとされているもの」にすがりつきたくなる気持ちはめちゃめちゃわかる。だがしかし、私は「そこによろこびはあるのかい?」と問いたい。私は「人生を苦行にしてはいないかい?」と問いたい。そんなことよりも「感動を大事にしろ」と言いたい。

 

うまく言える自信はないが、自分に自信がないとき(自分の価値判断に信用を置けない時)、世の中でよいとされているものを通じて自分に自信や価値を持たせようとしてしまうことがある。だがしかし、それでは「他人がよいと言っていること」を間借りしているだけで、いつまでたっても「俺はこれが素晴らしいと思う」的な自分軸を築くことはできない。ここまで書きながら「私はなにが言いたいのだろうか」とか思ってしまった。どうしよう。どこに着地をすればいいのだろう。私は「感動を大事にしろ」という感じでこの件を書き始めている。そうだ。私は「他の誰かが言っていることではない、自分のカラダが感じるよろこびを基礎に人生を築いてもいいのだ」ということを思っていたのだ。

 

私は夕日が好きだ。夕日が好きだとか言っておきながら、ほとんど夕日を見ない日々が続いていた。久しぶりに夕日を見た時、ああ、やっぱり夕日は最高だなと思った。そして、夕日を見るという行為を非日常的な行為(自分から遠く離れたもの)にする意味も義務も必要もまったくないのだと、それが本当に大好きならば「毎日見てもいいのだ」「(非日常のままにするのではなく)自分の日常にしてもいいのだ」「自分の好きなもので日々を構成してもいいのだ」ということを思った。世間的な知名度とか見栄とかプライドとか親の期待とか世間体とか他人から幸せそうだと思われることだとか、そういうことはどうでもいい。誰がなんと言おうが、自分のこころが「これは最高だ!」と思えるもので己の日々を構成し尽くした者。私は、そういう人間こそを『勝ち組』と呼びたいのだと思う。

 



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「感動を大事にしろ」と言いたい。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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