いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

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小倉港から松山港にはいり、いま、道後温泉駅前の喫茶店にいる。来週の18日以降は再び福岡に戻り、対談形式のトークイベントに出演をさせていただくことになった。稀に、出会う方々から「坂爪さんは講演活動で飯を食べているのですか?」と尋ねられることもあるけれど、講演と呼ばれるようなものは過去に一度もしたことはない。一方的に話すことがあまり好きではないので、教える・教えられるという関係性よりも「互いに引き出し合う」的な、あくまでもフェアな状態で「講演というよりは会話」をしたいと思っている。

 

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最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・「家のない生活」のはじまり。

2013年のバレンタインデー、東京で記録的な豪雪を記録した日に私は能動的にホームをレスした(当時、同棲をしていた彼女と別れたことがきっかけ)。あの頃は、林修先生の「いつやるの?いまでしょ!」という言葉が流行っていて、別れることが決まった私たちは「一緒に住むのも変だよね」ということになり、荷物の少ない私が家を出ることになった。当時の彼女は、私に「いつ出るの?」と尋ねた。私は、ああ、これはなんか聞いたことがある流れだなと思って「いまでしょ!」と答えた。別れても一緒に暮らすというのは個人的になんかこういろいろとアレだなと思ったので、一時間程度で荷物をまとめて「元気でね」と言って家を出た。

 

これが、わたしの「家のない生活」のはじまりになる。

 

2・家のない生活は「おいしい生活」だと勘違いをする。

ホームをレスした私は、まず、最寄りの喫茶店にはいって彼女と過ごした日々を思い出しながら感傷に浸っていた。が、20分くらい感傷に浸ったのちに「そんなことよりも今夜の家はどうするのだろうか」という現実的な問題にぶち当たった。私は、私の数少ない友達A君に連絡をした。事情を伝えると、友達は「それは大変だったな。今夜はうちに泊まるといい。肉でも食うか?」ということになって、焼肉をご馳走してくれた。翌日、さすがに連泊をするのも迷惑だと思い「まじでありがとう。すごい助かったよ」と感謝を伝えて家を出た。私は、もうひとりの数少ない友達B君に連絡をした。すると、B君は「それは大変だったな。今夜はうちに泊まるといい。肉でも食うか?」ということを言ってくれて、私は二日連続で焼肉を食べた。

 

この時、愚かな私の頭の中で「家がないと焼肉が食える!」という方程式が成立をした。

 

3・家がなくなると、家がある時よりもいいものが食える。

基本的に貧乏生活が長かった私は、ひとりでご飯を食べる時は納豆ご飯(山盛り)とかで済ませることが多い。家を失った当時、私を哀れんでくれる様々な方々から様々な物資を受けた。心根が腐っている私は「これはいろいろなものが食えるから美味しい!」みたいなことを思うようになり、よし、ここはいっちょ家のない生活がどこまで通用するのかを自分を使って試してみようと思うようになった。もともと、東京の家賃は高すぎるとも思っていた(家賃のために働く必要があるなんてちょっと自分にはかなりしんどいぞ、的なことを感じていた)ので「仮に家がなくても生きていけるようであれば、生きるハードルも下がるからハッピー!」みたいな軽めのノリで、ダメならダメでダメになった時に考えればいい、あとは野となれ山となれであれ的な感覚で「家のない生活」をはじめた。

 

結果的に、この生活は2年間続くことになる。

 

4・坂爪圭吾を泊めるための予約待ち状態が発生をする。

もともと友達が少ない私は「友達の家を渡り歩くにも限界がある。さて、どうしよう」ということを考えた後に「徹底的に自分を出せ」という言葉【神のお告げ】が脳裏をよぎるのを感じた。自分を出せば絶対にうまくいくとは限らない、でも、自分を出したらもしかしたらうまくいくかもしれないという非常に抽象的な予感を感じて、よし、それならば自分の置かれている現状なり己の人間性や所持金や各種連絡先などもすべてオープンにして「これが私です。こんな私を面白がってくれる人はお気軽に連絡をください」的なことをした。ら、非常に驚いたことに(多分、私は猛烈に幸運な星のもとに生まれているのだと思う)まだ出会ったこともない様々な方々から「渋谷に来たらラーメンをおごるよ」とか「川崎に家があるから自由に使っていいよ」などといった連絡が届いた。

 

そして、いつの間にか「坂爪圭吾を泊めるための予約待ち状態」が発生をすることになる。

 

5・バイトリーダーがシフトを組む。

私は「なんだこれは!」と思った。己の電話番号なども公開をしていたので、いろいろな人から連絡が来る。あるひとは「もしもし、坂爪さんですか?おうちがないんですよね?今夜、うちに泊まりますか?」と電話をくれる。私は「非常に申し訳ないことに今夜は他の方の家に泊まる予定になっているのです。が、明後日の22時以降ならお伺いできるのですがご都合はいかがでしょうか??」みたいな感じで、さながら『バイトリーダーがシフトを組む』的な感覚で己の宿泊先が埋まっていった。私は、家がなければ人間は生きていけないものだと思っていた。が、家がなくなると「家が増える(いつでも泊まりに来てくださいと言ってくれる人が増える)」という謎の逆転現象に、生きていることの奥深さを見た。

 

「この生活には、なにかヒントがありそうだ」と思って、私はこの生活を続けた。

 

 6・人間はいつも成長している。

家なし生活の醍醐味は「普段は出会わないひとに出会いまくる」ことにあると思う。私の敬愛するブルース・リー氏も「人間はいつも成長している。しかし、人間はパターン化された思考や行動によって行動を制限されると、成長を止めるものだ」的なことを言う。型にはまると、小さな世界でしか物事を考えられないようになり、生命全体の広がりを感じることがなかなかどうして難しくなる。家がないということは非常に心もとないことでもあるけれど、自分の人生から「帰宅をする」という動詞が消え失せるために、普通の人が帰る分だけ「前に進む」ことができる。これがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、当時、28歳の若造だった私には「その日の朝には想像もしていない夜を過ごす」ことができているという事実に、何かこう静かな興奮を覚えていた。

 

やがて、全国各地からも声がかかるようになる。

 

7・人生は何が起こるかわからない。

「君の生き方は面白いね。よかったら、交通費を出すから○○までおいでよ」的な連絡が届くようになる。最初に呼ばれたのは佐賀県武雄市で、以来、結果的に家のない生活をはじめてから日本全国47都道府県全てに足を運ぶことになり、2年目にいたっては海外からも声がかかるようになって20カ国近くに足を運んだ。誤解をされると困るが、私は「どうだ!俺の生き方はすごいだろう!わっはっは!」みたいなことが言いたい訳ではない。自慢をしたい訳ではなくて、自分の身に起きている謎の現象をみなさまと一緒に考えることができたら嬉しいと思っている。これがなければ生きていけないと思っていたものを手放した先に、それがあった時にはとてもじゃないけれど想像もすることができなかった世界が展開されることが(人生には時折)ある。

 

ー 生きるために必要なものは、多分、それほど多くはない

 

8・増やすな。捨てろ。

「最近思うことあれこれ」とか言っておきながら、過去の話ばかりをしてしまった。結局何が言いたかったのかというと「増やすな。捨てろ。」ということを最近は強く感じているということで、自分の生き方なり日々の生活の中に閉塞感や停滞感を覚える時は、何かを得ること【増やすこと】よりも『捨てること』とか『手放すこと』とか『終わりにすること』に焦点を絞った方が結果的にうまくいくことは多いのではないだろうか、と、そういうことを思っている。それは「執着を捨てる」ということで、多分、最大の執着とは「己の命に対する執着」なのだと思っている。

 

ー 軽い荷物で、遠くに行こう。 

 

9・柔らかに、たおやかに、自分自身であれ。

何か新しいことに挑戦をしようと思う時、新しい世界に飛び込みたいと思う時、希望や期待と同じくらい「恐れ」にも似た感覚を抱くことがある。自分が変わってしまうのではないだろうかという恐れ、もとには戻ることができないのだという恐れ、ひとからおかしく思われてしまうのではないだろうかという恐れや、自分が壊れてしまうのではないだろうかという恐れなど、恐れには様々なものがある。しかし、私は思う。命は、多分、壊れてしまうようには作られていない。命はもっと柔らかく、命はもっとたおやかで、それは「固定されること」や「限定づけられること」を好まない。

 

ー 命は雲のように、命は水のように、命は風のように流れている。

 

10・それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

先日、18日&19日に博多で開催されるイベント主催者の方から「なにぶんはじめたばかりの活動で、集客力などといった面でも力になれることがあまりないので、坂爪さんからも告知をしてもらえたら助かります」という連絡をもらった。両日ともに残席はあるとのことなので、興味のある方はお気軽に遊びにいらしていただければ幸いです。主催者側からすると「ちゃんと人は来てくれるだろうか」とか「みんなに楽しんでもらえるだろうか」などといったことを考える気持ちはわかる。でも、一番大切なことは「主催者自身がその日が来ることを楽しみにできているか」だと思う。多分、楽しさは伝染する。しっかりとやろうとすること以上に、誰よりも自分が一番楽しんでやるんだくらいの気持ちがあれば、たとえ人が集まることはなくても「いい時間になる」のだと思う。

 

 

その営みの素晴らしさは、どれだけ沢山の人が集まったかとか、どれだけ多くのお金を動かしたかとか、どれだけ社会的に認知される活動になったかとか、多分、そういう相対的なもので決まるものではないと思う。規模が膨らむほどに、人間を人間として見ることができなくなっている環境や活動を、過去にたくさん見た。大事なことは「人間が人間として扱われること」だと私は思うし、社会システムの犠牲になって「自分が自分を人間として扱うことができなくなる」なんてことになってしまったら、それこそ生きていることが苦しいことになってしまう。

 

 

常に自分自身であるということ。ひとに合わせようとするばかりに、自分を殺すような真似だけはしないこと。たとえ嫌われるようなことがあったとしても、笑われても、馬鹿にされても、周囲と同じでいることができない自分を駄目だと思うことがあったとしても、それでも「自分は自分である」ことの品格と尊厳を護ること。自分は自分でしかないのだから、自分は自分でいいのだと、自分はこれで生きるのだと、完璧な人間になることのできない自分を責めることよりも、完璧な自分であることを願うように。何者かになりたいとは思わない。ただ、自分でありたいと思う。

 

 

 

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それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。

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福岡県糸島市を経由して、いま、博多駅にいる。おとといの夜は福岡市在住T様(どちらもこの日が初対面)のご自宅に、昨夜は糸島市在住M様のご自宅に宿泊をさせていただいた。今夜21時55分小倉港発のフェリーに乗り、愛媛県松山市に向かう。ちょうどいま、福岡市内在住の男性から「会えませんか」という連絡が届いた。今日は何も予定がないので、その方とお会いしたのちに私は小倉に向かうだろう(そして、名物とされている焼うどんを食べるのだと思う)。

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・初日の夜、印象的な出来事があった。

寝床を提供してくれたT様は現在31歳の男性で、T様が18歳の時に父親は亡くなり、病院で働く母親と2人で暮らしている。小柄で可愛らしいお母様を前にした時、ああ、自分の母親と似ているなあと思った。お母様は「主人も、生前はひとを家に連れてくることが大好きなひとだったから、いま、こうしてまたひとと話せることが嬉しいです」ということを話してくれた。その日、お母様があまりにも楽しそうにこれまでの人生のことをあれこれ話してくれるものだから、私はひたすら話に耳を傾けた。一通り話し終えた後、お母様は「今日は私ばかり話してしまいましたね。明日も仕事なので私は先に寝ますが、どうぞゆっくりとお寛ぎください」と言って寝室に消えた。

 

2・次の日の朝。

目覚めると同時にその家を出ることにしている私は「お世話になりました。おかげさまで最高の時間を過ごすことができました」と御礼を伝えると、お母様は「こちらこそ、是非また遊びに来てください。久しぶりにひとと話せて嬉しかったです」という言葉をくれた。この言葉、この『久しぶりにひとと話せて嬉しかったです』という言葉が、いまでも強く印象に残っている。

 

3・人間よりも機械に近い。

いま、私は博多駅にあるドトールの店内にいる。誤解を恐れずに言えば、チェーン店の店員さんはマニュアルに忠実で、人間であるというよりも機械に近い印象を受ける。ドトールの店員さんは、多分、毎日いろいろなひとに会っている。自分【坂爪圭吾】なんかよりもずっと、毎日大量のひとびとと出会っているはずだ。これは病院で働くお母様も同じだと思う。毎日たくさんの患者さんと接しているはずのお母様が、別れ際、久しぶりにひとと話せて嬉しかったですという言葉をくれたことを「面白いなあ」と思った。

 

4・これだけのひとが暮らしているのに、なぜ、孤独という気持ちは発生するのか。

日本には現在1億人を超える人々が暮らしているとされていて、生きている限り、仕事をしている限り、大量のひとびとと出会う。それなのに、なぜ、孤独という気持ちは発生するのだろうか。そういうことを思うことがある。いまいる場所を見渡してみても思う。隣の席にはサラリーマンのおじさんが座っていて、奥の席にはスマホをいじっているお姉さんが座っている。すぐそばに人間はいるが、私とあなたの間にある接点は皆無で、ひととひととの結びつきのようなものはない。孤独は、多分、当たり前のことだけれど満員電車に乗ることでは解決できない。ひとがいるということと、孤独ではないということは同義ではない。

 

5・ほんとうのことを話しているか。

ひとと話をするときに、みんな、どれだけ『自分の本音』を口にしているのだろうか。生きている限り、普通の生活を続けている限り、会話は大量に発生をする。誤解を恐れずに言えば、自分を含めた多くの人々は、表面的な会話のやり取りに終始をしていて、ひとと話をしていても「ほんとうに話したいこと」は何も話されていないと感じることは多い。別に、誰にでも自分の本音を話す必要はないと思う。が、いざという時(このひとには自分の本音を伝えたいと思った時)に、自分の思いを口にすることに慣れていない場合、重要ななにかを伝えるということができなくなる。

 

6・真実は、多分、短い言葉で語ることができる。 

私は「話の長いひと」や「声が大きいひと」があまり得意ではない。どれだけいいことを言っていたとしても、話が長いと緊張感が薄れ(多分、話しすぎることで大事な部分が薄まっていくのだと思う)、眠くなる。同じように、声が大きい人も「うるさいなあ」という思いが先に立ち、会話の内容が頭にはいってこなくなる。私は思う。真実と呼ばれているものは、多分、叫ばれるものではなく「短い言葉でささやかれるもの」だと思う。話が長くなるほど・声が大きくなるほど真理【本音】からは遠ざかる。正義を主張するひとに対する違和感も、これと同じことだと思う。自分は正しいのだということを声高に主張をしているひとを見るほど、誰かの間違いを必死になって糾弾しているひとを見るほど、私は「つらそうだなあ」ということを思う。

 

7・主語を取り戻す。

自分の本音がわからないと話すひとは多い。自分自身も例外ではなく、俺はなにがやりたかったのだろうかとか、俺はなにが言いたかったのだろうとか、日々悶々とすることは多い。我が身を振り返ると、自分が悶々とする時は「主語が自分以外になっている時」が多いのだと思った。あのひとにわかってもらいたい【認められたい】とか、あのひとは楽しんでいるだろうか【喜ばせたい】とか、どうすればあのひとを幸せにすることができるだろうか【幸せにしたい】とか、自分以外の人間が主語になっていることを考えている時間は、なにかこう、軸を見失いがちでブレる。誰かのことを考える時間を、決して、無駄だとは思わない。ひとがひとを思う気持ちほど、この世の中に尊いものはないとさえ思う。が、そのことで「自分を見失う」結果になることが多いのも事実で、この辺の精度を高めたいと思う。

 

8・誰かを救おうとしないこと。

SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】や文章を綴る営みを続けていると、稀に「あなたのおかげで救われました」的なことを言っていただけることがある。このように言ってもらえることはとても嬉しい。とても嬉しいことだけれど、でも、あくまでも「他者の喜びは副産物である」ということを忘れたくない。私は、自分の中で決めたルールがひとつだけある。それは「誰かを救おうとしないこと」というもので、それがどれだけ素晴らしい考え方だとしても、他者に押し付けた瞬間に暴力になると思っている。が、気をつけていないと、情にもろい私はすぐに「自分でも力になれることがうれしい!誰かのために◯◯をやろう!」みたいな感じで、問題解決型の人間になる方向に舵を取りがちになることがある。

 

9・問題解決型ではなく、いつの間にか「問題が問題ではなくなっていた型」の方が自分には合っている。

私には「問題解決型」の生き方は合わない。最初は「よし、やるぞ!」みたいな感じで意気込むものの、その勢いも翌朝には消えている。多分、誰かのために生きるという考え方は『美しいけれど疲れる』ものだと思う。自分に正直になって考えて見ると、意外と、自分は自分勝手な生き物でそれほど他人のことを思うことはできていないということを知る。それならば、もう、自分は徹底的に自分を生きることなのだなと毎回思う。目の前にある問題を解決するためになにかをやるというよりも、とにかく自分のやりたいことをやっていたら勝手に元気になったり勝手に救われたり勝手に勇気をもらうひとたちが続出をして、いつの間にか「問題とされていたことが問題ではなくなっていた」みたいな状態になることを理想としている。家のない生活をしていた頃も、同じようなことを思っていた。家のない生活を「問題だ!」と思ってしまうとかわいそうな自分の完成だけれど、家のない生活を面白がって続けてみたら、結果的に訳がわからない生活に突入をしている(この生活を、自分自身トータルで気に入っている)。

 

10・その日の朝には想像していない夜を。

「趣味は自爆です」と言える位には自爆を続けている今世だけれど、小生、大事なことは「誰かの期待に応えることよりも、己の期待に応えること」なのだなあということを頻繁に思う。誰かのためになることは素晴らしい。誰かの役に立てるということの中には「生まれてきてよかった」とさえ思える嬉しさがある。が、そればかりがメインになると、俺はなにがやりたかのだろう的な意味で自分自身を見失う(端的に「疲れる」)。私がブログを書く理由、私が諸々の営みを続ける最大の理由は「それをしていなければ絶対に出会うことのなかったヒト・モノ・コトがあるから」なのだと思う。その日の朝には想像もしていなかった夜がある。だからこそ、自爆を続けながらも「もっと生きたい!」などと思ったりもするのだと思う。

 

 

 

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誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。

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爆発しがちな諸事情が爆発して、これから13時30分成田空港発の便で福岡空港に飛ぶ。が、福岡で予定がある訳でもなく、単純に、同じ場所に長いこといることができないという己【坂爪圭吾】のカルマに依るところが大きい。定期的に訪れる「ここではない何処かに…(行きたい!)」願望にまかせて横浜の家を飛び出したものの、行き先で予定も何もある訳でもないから「福岡界隈【九州全域】の方で暇な方がいたら声をかけてもらえたら(交通手段さえどうにかなれば何処でも行けるから)嬉しいなあ…」などと思っている。基本的に移動は徒歩になるために、取り急ぎ福岡空港から筥崎宮まで(腑抜けた自分に鞭打つために)歩きたいと思う。

 

 

SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に関する悩みも無限にある。責任者(?)であるわたしが多動症であるために管理能力は皆無で、誰か、適格な方に(たとえば一週間とか期日を決めて交代制で)管理人的なことをやってもらえたら半端なく助かる。いま、菊名の家にはそれなりの食材があるのだけれど、すべてを放置したまま家を出てきてしまった。多分、ある程度のひとの出入りが生まれれば、管理人など設けなくても(自然の摂理的なアレで)どうにかなるのだろうとは思うのだけれど、さて、どうしたものかと思っている。おととい、小さなこどもを連れたお母さんが菊名の家に遊びに来た。子育て中のおかあさんは、どうしたってこどもと(密室の中で)一対一の激烈ロングタイムを過ごすことになるから、多分、必要なことは「他者がいる中にこどもをぶん投げて、ひとりの時間を死守すること」だと思った。時間のあるひとが菊名の家に遊びに来て、子育て中のおかあさんはその中に愛しい我が子をぶん投げる。単なるジャストアイデアに過ぎないけれど、子育てに行き詰っているお母さんがいたら「試しにごちゃまぜの家で一週間程度暮らしてみる」的なスタイルは面白いのかもしれないと思いました(興味のある方はお気軽にご連絡ください!)。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

生命は、それ自体が欠落を抱えている。

昨夜、長文をフェイスブックに投稿した。

 

【最近思うことあれこれ】

 

1・先日、札幌でお会いした方が「自分はこどもをひとりで育てている、生活のため、嫌なことでも仕事はやらなくちゃいけない。職場で違和感を覚えることもあるけれど、自分の力でなにかを変えられるとも思えないし、やることが多くて常に疲れている。やりたいことを探さなくちゃいけないとも思うけれど、目の前のことをこなすことだけで精一杯で、考える気力も奪われている。毎月安定した収入がはいってくることに安堵感もあるけれど、時折、なんのために生きているのだろうかと思うこともある」と話してくれました。

 

2・このように感じているひとは、もしかしたらものすごい多いのかもしれない。そのひとの身になって考える、なんて言葉にするとウルトラ安っぽいし嘘臭いしそんなことは不可能なことだとも思うけれど、話を聞きながら「それはものすごい大変だろうなあ…(自分も同じ状態になったら、多分、そうなるだろうなあ…)」と思いました。

 

3・こんな時に、果たして自分になにができるのだろうか。なにを言えるのだろうか。そんなことを考えながら、ただ、そのひとの話を聞いていました。一通り話を聞いたあと、そのひとは「どうすればいいんでしょうね」と泣き顔にも似た笑顔を浮かべながら尋ねました。私は「なにも言えねえな。こういう時に言葉はまじで無力だな」的なことを思いまして、こういう時は言葉よりも温度感だということに相成りまして「ハグをしましょう!(照)」となってハグ(照)をしました。

 

4・ハグという言葉はあっちこっちで使われているけれど、正直、この言葉を使うのは非常に小っ恥ずかしい気持ちになるから本当はあんまり使いたくない。かと言って、抱き締めるとかなんとか言っちゃうと言葉が重過ぎるから、ほかになにか適当な言葉はないだろうかなあと考えた結果「ダグ」という言葉を開発しました。

 

5・思うに、現代社会の問題点は「深刻なダグ不足(!)」にあるのではないだろうかと睨みました。言葉も確かに大切だけれど、言葉はコミュニケーションの一手段に過ぎなくて、多分、言葉だけじゃない(頭だけではない身体的な)やりとりというのはこの世の中に無限にあるのだと思います。これだけ文明が発達しているというのに、なぜ、戦死者以上の自殺者を毎年輩出しているのだろうか、ということを稀に考えることがあります。

 

6・原因は108個くらいあると思うけど、そのひとつに「なんでも自分ひとりの力でやらなくちゃいけない病」みたいなものが蔓延していて、こどもを育てるのもお母さんがひとりでやらなくちゃいけない、自分の悩みは自分ひとりの力で解決しなくちゃいけない、自分ひとりの力で生きていけるようになって一人前(誰かの力を借りるのは半人前)みたいな厳し目のルールが大前提にあるから、多分、それができなくなった時に(誰にも頼ることができなくなって)ウルトラしんどくなる、ということを思いました。

 

7・生命は、多分、それ自体が「欠落」と呼ばれるようなものを抱えていて、自分ひとりで生きられるようには作られていないのだろうなあと思うことがあります。男だけ(女だけ)ではこどもを産めないし、動植物がなければ人間は食べるものさえ確保できないし、人間だけではない、花粉を運ぶ虫や風がなければ花だって子孫を残すことはできない。各々が各々に欠落を抱えていて、その欠落を補い合うように、世界はまわっているのだとでも言いましょうかそんなことを思います。

 

8・欠落という言葉にはネガティブな雰囲気があるから「完璧にならなくちゃいけない!」みたいなことになって、完璧になれない自分を責める。完璧になれるようになんて作られていないのに、各々が各々で完璧になれるように努めてしまうから、結果的に(不可能すぎることに挑戦させられているから)余裕を失い、孤立感や分離感が生まれ、全体的になんかこうギスギスした世の中になる。

 

9・SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】という活動をやっていて思うのは、自分ひとりで完璧になろうとするのではなく「他者に頼る力」とか「他者に委ねる力」とか「他者に甘える力」を養う、そういう機会としてこの場所が機能をすればいいなあということです。なんだろう、全然うまく言えないけれど「よろこびとは、補い合うことである」ということを最近は感じていて、まじで人間はひとりで生きられるようにはできていない。のに、いまの世の中は「ひとりで生きろ!」と言われている風に感じることがあって、それが割と無理目に感じることが多いということです。

 

10・もちろん、自分ひとりの力でやらなくちゃいけないこともある。他者に委ねちゃいけない自分自身の聖域みたいな部分も確実にあるとは思うけれど、でも、単純に思うのは「抱き締めあった時のよろこびは、絶対に、自分ひとりでは感じることのできないものである」ということです。当たり前のことだけれど、抱き締めるという行為は、自分ひとりでは絶対にすることはできない。

 

繰り返しになるけれど、最近は「生命は、それ自体が欠落を抱えている」ということを強く感じていて、完璧になることなんてできない(そもそもでなる必要がない)はずなのに、完璧であることを要求する(自分自身に強制してしまう)から苦しくなるのではないだろうか、ということを感じています。なんのために他者はいるのか、それは「お互いに足りない部分を補い合う」ためなんじゃないのだろうかと、別に綺麗事を言いたい訳じゃなくて、ただ、そっちの方が自然である【理に適っている】のではないだろうかと思いました。

 

写真はとある森の中の風景です。巷では「あなたを幸せにできるのはあなただけ。あなたを不幸にできるのもあなただけ」みたいな言葉を耳にすることもありますが、否、意外と「誰かがいなければ絶対に感じることのできない幸福もあるんじゃないだろうか」などと思います。だからこそ、ひととひとが出逢うということの中には、これまでの自分を別人に変えてしまう力【人生を大きく動かす力】があるのだろうなあと思いました。

 

その後、コメント欄にこのように書いた。

 

自分が自分であるということの品格や尊厳を保ちながら、他者【世界】を信頼する勇気を持つ。堅苦しい表現になるけれど、そういうことなのかなと思いました。

 

私は言葉が下手くそだから、細かいニュアンスを適切に伝えることができない。毎度、文章を書いた後は「ええいままよ…全然言いたいことが言えていないじゃない…が、あとは読み手の受け取り能力に委ねる!頼む、届け!(わかってくれとは言わないけれど、わかってもらえたら物凄いうれしい)」みたいな気持ちになる。行間を読むという言葉もあるけれど、言葉とは、言葉にされていることそのものではなく「言葉にされていない部分を浮き彫りにする」ために、語られているのではないだろうかとさえ思う。自然が表現者として優れているのは、多分、語らずして語るという極上レベルの表現を為し得ているからだと思う。大事なことは、語られていることよりも「語られていない部分」なんじゃないだろうか、と、暇なわたしは(たとえばこういうことを歩きながら&ひとと話しながら&ロングタイムの移動を繰り返しながら)考えたりしている。

 

【過去記事】星に願いを、花に祈りを。 - いばや通信

 

お前、前のめりに愛せるか?

最近のテーマは「前のめりに愛せるか?」ということで、多分、自分が好きなことと自分が得意なことは違う。わたしは、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】のような空間をつくることは得意だし好きだけれど、そこに長居をすることは苦手だ。ひとと話をすることは好きだけれどうるさい環境や表面的なコミュニケーションや人混みは嫌いで、愛想笑いをすると死にたくなる。何が言いたいのかというと「いま、お前がやろうとしていることに、お前は前のめりになって愛せているか?」ということを自分に対して物凄い思っているということです。言葉を変えるなら「このひとでいいや」と思うひとと付き合うのではなく、「このひとがいい」と思うひとと付き合うということ。なにかを誤魔化すために誰かといる時間を選ぶくらいなら、ひとりの時間を選びたいということです(とか言いながら、声がかかる限り誰にでも会うようにしている生活を続けている自分が不思議だ)。

 

 

「ひとと会う」ことの重要性を思う。自分の輪郭をはっきりさせるためにも、他者の存在は必要不可欠になる。ただ会うということだけでは、多分、足りない。難しい場合もあるけれど、できる限り「自分の本音を伝えること」だと思う。自分の話に価値はないだとか、相手の時間を奪ってしまうのは申し訳ないだとか、そういう余計な思いを排除して、瞬間瞬間における自分の思いを(勇気を出して)言葉にすること。自分の本音はダイヤモンドの原石みたいなもので、他者の本音とぶつかることで磨き上げられてより一層の輝きを放つ。本音から遠く離れた会話を続けている(ひとに合わせて生きている)と、自分自身を見失う。この世の中に、自分を見失うこと以上の悲劇はあるだろうか。本音を話すことで自分を取り戻し、本音を話すことで自分のコアを精製する。

 

 

誰かになにかをしてもらいたい【可哀想な自分!】とか、誰かになにかをしてもらえない【ダメな自分!】とか、そんな思いばかりを溜め込んでいると、あっという間に被害者意識の出来上がりになる。慣れ親しんだ『不幸な自分』に酔うことは、さぞかし居心地の良いものなのだろう。が、そんなことよりもきっともっとずっと気持ちの良いことが、この世の中には無限にあるのだと思う。だからこそ、大切なことは「動き出すこと」だと私は思う。動き出すことで、自分の想像を遥かに凌駕する出来事を世界は展開してくれる(ものだと思う)。自分の中にある限られた知識や経験の範囲を超えた世界、そこに触れたいと思うからこそ、懲りずに移動を繰り返しているのだと思う(という言い訳を用意して、これから成田空港に急ぎます!!)。

 

 

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もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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星に願いを、花に祈りを。

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明日土曜日の11時新千歳空港発の便で羽田に飛ぶ。現在は定山渓にいて、午後には札幌市内に戻るけれども何も予定はない。もしも「どうせなら会いましょう!」という方がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。札幌での日々が素晴らし過ぎて、これはもう是非とも札幌に(最初はどれだけ小さくても構わないから)拠点を構えたい気持ちになっている。もしも「空いている部屋なり庭なりスペースがあるよ!」的な方がいらっしゃいましたら、こちらもお気軽にご連絡をいただけましたら飛び跳ねて喜びます。私は現在、神奈川県横浜市でSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】なる活動(?)をやっている。小規模でもいいから、札幌市内でも同じようなことをはじめることができたら「いい感じの人生だなあ…!」と思う。

 

 

昨日、札幌市内でお会いした方が「ごちゃまぜの家を札幌でもやることになったら、その時は、手伝わせて欲しい。その理由はたくさんあるけれど、坂爪さんの文章を読んでいると『本当のことが書かれている』ような気がして、年齢を重ねるにつれて(自分も含めて)誰も本当のことを言ってくれなくなり、自分自身も『話したいことを話せている』感覚を覚えることは難しくなっている。そういう日々を過ごしていると、胸の奥底になにかが詰まっていくような感覚になる。この『胸の詰まり』を話す【離す】ことができるような場所があったら、どれだけ励みになるのだろうかと思う」というようなことを話してくれた。わたしは「ああ、わかるような気がするなあ」と思った。昨日の夜、定山渓の宿からひとりきりでツイキャス音声配信を行なった。その中で「話すという行為は『離す』という効果があり、言えるという行為は『癒える』という効果があるのではないか」といった内容の話を(ちょろっとだけ)した。

 

【音声配信】不幸でいる暇はNIGHT - TwitCasting

 

話すは『離す』、言えるは『癒える』

音声配信の中では「これまでのやり方が通用しなくなる」とか「世界はあなたの表面しか見ない。世界はあなたの内側を見ることはない。しかし、あなたが世界の内側を見ることはできる」とか「欲望の根源は、ただ、さみしかっただけ」など、そういう類の話をした。『さみしさ』は私自身も感じる部分が多大にあり、強い関心の対象になる。これを読んでいるひとは、さみしい時、その『さみしさ』とどのように向き合っているのだろうか。寝て忘れるのだろうか。食べて忘れるのだろうか。買い物をして忘れるのだろうか。それとも、(それがどういう意味なのかはわからないけれど)さみしさを味わうのだろうか。過去に「さみしさは、同じさみしさに出会う時、温もりを生む」という内容のツイートをしたことがある。問題なのは『さみしさ』などの感情を覚えることではなく、それを分かち合うひとが近くにいないということではないのだろうか、ということを思っていた。

 

 

下手くそでも構わないから自分の思いを言葉にする【話す】ということは、その感情を「自分自身から離す」効果がある。逆に言えば、思考がまとまってから話そうとか、こういう思いを感じること自体を恥ずかしいことだと思って感情を打ち消そうとすると、その感情は自分の内部に蓄積をされて(最悪の場合は)腐敗臭を放つ。自分の思いを正直に『言える』ことの中には、多分、自分自身の思いが『癒える』効果がある。自分の本音を口にする機会が少なくなるほど、自分自身が表面的な存在になり、自分の本音を見失い、ひとと会う度に鈍い疲労感を覚え、誰とも『本当の会話』ができないような感覚に陥り、振り返ってみた時に『自分はなんのために生きていたのだろうか』的な最悪の感情を覚えることがある。

 

 

できることならば『本当の会話』を交わしたいと思う。からっぽで薄っぺらい言葉のやり取りではない、時に血【涙】を流すことになったとしても、温度感のある人間的な言葉のやり取りを交わしたいと思う。ここまで書きながら「勇気とはなんだろうか」ということを思った。多分、この世の中には様々な勇気があるのだと思う。いま、私が大事にしたいと思う勇気は『恥ずかしさを克服する勇気』なのだと思う。言葉にすれば幼稚な思いだ。幼稚で拙い思いだが、でも、かなりの効果がある言葉だと思う。自分のこころが「こんなことは恥ずかしいからできない!(BUT、本当はすごいやってみたい)」と思うことを、勇気を出してやってみる。恥ずかしいという理由でやめそうになったことを、実際に言う【実際にやる】ことの中には、多分、『胸の詰まり』を少なからず霧消する浄化作用があるのだと思う。

 

【過去記事】ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。 - いばや通信

 

神のおぼし(あふれ)飯。 

毎度唐突の告知になってしまうのですが、明日9日(土)の午後から『神のおぼしめし』 なる無料炊き出し系の企画をSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で開催します。乱暴にまとめると「SCRAMBLE HOUSE TOKYOでは365日炊き出しが行われているような状態になれば楽しそうだなあと思っていて、料理を作りたいひとと料理を食べたいひとが適当に集まればいい感じのバランスが生まれて勝手にいい感じになるだろうし、営利活動としてやっている訳でもないのだから誰も来なければ誰も来なかったで何も問題はないのだからやろう」的な思いで開催をしています。詳細はリンク先のページをご覧いただけたら幸いなのですが、昨日、下記のような素晴らしいメールをいただいた(ことが開催の決定打になりました!!)。 

 

【梨🍐を贈りたいです!】


坂爪さん、こんにちは!


ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか?


坂爪さんの予定を見たところ、明後日に「おぼし飯」なるイベントをやられるんですか?


どういうものかわかりませんが、このタイミングでうちの梨🍐をお送りしたいと思いまして!(本当は自分が行くのが一番良いんですが、都合が合わずで💦)


前に写真で送った梨の花たちが見事に実ってるんです今♪


ぜひ食べていただきたいので、宜しければ住所を教えていただきたいです(*^o^*)

 

世界は優しさにあふれている・・・ということで、梨を食べたい方(あるいは「時間もあるし手料理でもつくっちゃおうっかな!」と思われた神様)は、いつでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです(夜にはアコースティックあふれライブが開催される予定なので、遅目の参加も問題ありません)。家にあるものはなんでも使っていいということになっています。いつ来ていつ帰ってもいいし、言うまでもないことだけれど横になるのに誰の許可も要りません。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいいのだと思います。ひとが来すぎるとやばいという理由からまだ住所を公開できないでいるのですが、近日中には、住所も公開できちゃったらいいなあと思っています。

 

【EVENT詳細】【神のおぼしめし −GOD WILLING-】

 

今月は11日から九州、15日から四国、18日から再び九州、23日から東北界隈に足を運びます。近隣【半径5億キロメートル圏内】にお住いの方で「さかつめが来るなら何かをやるか」的な感覚になってくれた方は、いつでもお気軽にご連絡をください。月末の岩手県ではトークイベントに登壇(?)をすることになっているので、これを機会に「東北に行ってみるか!」と思われた方は、是非、来てください。そして「〇〇から来ました!」と当日話しかけてくれたら、小生、とても嬉しいです。軽やかな気持ちで、身軽な荷物で、長距離をふわっと移動をすると「爽やかな風が吹く」ように思います。

 

【EVENT詳細】 ごちゃまぜ茶会

 

星に願いを、花に祈りを。

長ったらしいこのブログ記事をここまで読んでくださったあなたのことが大好きです。わたしの趣味【カルマ】のひとつに「おはなをあげる」というものがあり、昨日も札幌市内で隙を見てはおはなを配った。おはなをあげると、自分で言うのもなんだけれど、こんなにもよろこんでもらえるのですね!とこちらの方がびっくりをすることは多い。みさなまにも、是非、おはなを配るということを日常的な習慣に取り入れてもらえたらこれ幸いと思う。おはなをあげるのに理由はいらない。出会い頭に「はい」と言って、ただ、真っ直ぐに差し出せばいいのだと思う。理由を聞かれた時も「おはなをあげたくなったから」と答えるだけで充分だと思う。多分、たったそれだけのことで空間全体が『いい感じ』になる。余裕がある時はメッセージカードのひとつでも添えて、是非、今日でも明日でも(騙されたと思って)おはなを配ってみてください。あわよくば、おはなを渡すという体験だけではなく「おはなを買う」という体験も、同時に味わって見てもらえたら幸いです。

 

昨日、札幌市内のドトールで待ち合わせた女性E様に一輪のはなをあげた。なんだかその方が想像以上に「おはな」の存在をよろこんでくれて、その日の夜に、E様からLINEでメッセージが届いた。そこには「お花をいただいて、生まれて初めて生まれてきたことを祝福されたと感じました」と書かれていた。この言葉を読んだ時に、ああ、俺は(最近は自分で自分のことをクソだとか俺がいない方が世の中はいい感じにまとまるのかもしれないなどと思う日々の連続だったりもしたけれど)意外といい仕事ができているのかもしれない、などと思った。最近は感情の激動の日々を過ごしていて、自分みたいな人間はいない方がみんな【周囲の人々】も幸福に生きれるのではないだろうかと、自分はただただ周囲を引っ掻き回しているだけなのではないだろうか、などと思うモードのど真ん中にいた。が、どれだけダメな自分でも「ひとの幸せを祈ることはできる」という思いに立ち返ることで、心の均衡を保っていた(節がある)。

 

おはなをあげるということは、祈りを形にした行為なのかもしれない。あなたが生きていることが嬉しいのだということを、目に見えない言葉だけではなく、目に見える形にして相手の目の前に差し出すということが、なにかこう『いい感じ』を生み出しているのかもしれない(と思った)。これまで出版社の方から「本を出しませんか」というオファーをいただいてもピンと来なくて依頼を受けることはなかったのだけれど、ふと、本を書きたいなあと思った。インターネット上の文字は、紙媒体とは違って「触れることができない」からこそちょっとアレだなと思っていた。本という形に乗せて自分の祈りを具現化しようと思う時、わたしは、そこにどのような祈りを込めるのだろうか。自分自身、自分が生む出すものに興味がある。わたしはパソコンを持っていない(手元にはスマホしかない)ために、さすがにスマホで長文を綴ることはできないからすぐに何かを書き始めることはできないけれど、何かしらの流れで「MacBookの薄くて軽い持ち運びもできる最新型のパソコン!」を入手することができた暁には、それは「書け」という合図【神のおぼしめし】だと思い、移動先のあちこちで一冊の本にまとめることができたらいいなあと思う。わたしにあるものは、多分、わたしはわたしであるということの一点に尽きるのだと思う。自分という個人の体験を『人類全体の体験として共有をする』域まで昇華できるように、家のない生活に突入をしてから(2年間各地を転々とした後に)家をもらうまでの流れ【ホームレスからホームモアまでの経緯】を、一冊の本にまとめてみたいと思う。

 

 

こんばんは!

 

お花をいただいた嬉しさをお伝えしたくて、LINEしました。

 

私は、お花をいただいて、生まれて初めて生まれてきたことを祝福されたと感じました。

 

なにもなくても、そこにいていい。
なにもなくても、生きていていい。

 

どこがどうだからじゃなく。
私まるごと、そこにいてよくて、生きていてよくて。

 

突然、くす玉が割れて、全世界から、祝福されている気分なのです。


今、世界が「いかったねー」って、私に微笑んでいます。

 

今、猛烈に、生きたい、生きていたい。生きててよかった。生きていることを楽しみたいと思うのです。


そして、また坂爪さんと、同じ空を見上げ、同じ空気を吸いたいと思うのです。

 

今日、お会いできて、ほんとによかったです。

 

おやすみなさい🌙

 

https://www.instagram.com/p/BYw19rhjsLd/

平和の滝。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

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西表島から淡路島を経由して、関西空港から新千歳空港に向かう。各種SNSから「新千歳空港に行きます」という投稿をしたところ、札幌在住の男性から「空港まで迎えに行きますよ」というご連絡をいただき、お言葉に甘えて車に乗せていただく。北海道神宮前にあるスープカレー屋さん『SAMA』でスープカレーをご馳走になり、男性の友達を含めて総勢6人で話をする。札幌での予定は、宿も何も決まっていなかった。関西在住の方から「札幌で定宿にしているホテルがあるので、もしよろしかったら私がとりますよ」というご連絡をいただき、いま、そのホテルにあるWiFiを拾いながらこの記事を書いている。11時には車で迎えに来てくださる方がいるので、残り時間30分程度でこの記事を書けたら最高だなあと思う。本当に、いろいろな人の世話になりながら『運ばれている』日々のど真ん中を過ごしている。

 

恩返しという言葉がある。わたしによくしてくださる方々に対して、なにか少しでも恩返しをできたらと思う。でも、冷静になると「いままで受けた恩をすべて返すことなんてできない」ということを知る。自分にできることは、かつて、様々な人々がわたしによくしてくださったように、自分も「目の前にいるひとにできることがあれば、その都度、ささやかでもそれを実際にやっていくこと」なのかなと思う。そして、全然関係ないようにも見えるけれど「自分が自分の命をまっとうしようとすること。自分を生きるということ。生きようとする姿を示すこと。最後の瞬間まで自分を生かし尽くそうとすること」が、巡り巡って恩返しにつながることもあるのではないだろうかと、そういうことを考えている。

 

 

この数日間、感情が激動する日々を過ごしていた。多分、これは自分だけではないんじゃないのかなと思う。これが自分だと思っていた自分自身や自分の信念のようなものがグラつき、これまでの日々を疑ってしまうようなことや、自分や他人に対する自信のようなものを疑ってしまったり、虚しさにも似た感情を覚えて自暴自棄になりかけてみたり、忙しない日々を過ごしていた。生きているといろいろな感情になるのだなあと、どこか、遠くから自分を観察しては笑っているような自分の存在も感じる。このブログを読んでくださっているみなさまは、果たして、どのような日々を過ごしているのだろうか。調子は良いだろうか。それとも、激動の日々を過ごしているのだろうか。誰もがみな、表面的にはそれなりにうまく日々をやりくりしているように見えながら、でも、その内実は「いろいろな気持ちになりながら、誰もがこの瞬間をどうにかこうにか生きているのだ」と思えば、同じ人間なんだなあという親しみを覚える。

 

生きていることが嬉しい。

わたしは、自分の好きなひとに対して「生きているだけで嬉しい」という気持ちを抱く。もちろん、一緒の時間を過ごしているときはそれだけではない、この時間を有意義なものにしなくちゃとか、楽しいものにしなくちゃとか、いい感じのものにしなくちゃとか、頼まれてもいないのに勝手に肩肘を張って、そして、勝手に自爆をする(気を使いすぎて自滅をする)ことがある。でも、ひとりの時間を持ち、落ち着きを取り戻した時には「ああ、このひとと一緒にいられるということが、それだけで最高に素晴らしいことなんだな」という位置に立ち戻る。なにをするからではない、ただ、そのひとが生きているということが嬉しいのだと、瞬間に、空間に、温かな眼差しを向けることができる。優しい気持ちになる。一緒にいるこちらまで「生きていることが嬉しいのだ」と、そんな風に感じることができる。 

 

ひとと出会うことの醍醐味は、まだ、自分自身でも知ることのなかった自分自身に出会うということだと思う。淡路島での日々は、自分の中でも革命的な瞬間の連続で、これまで「自分はこういう人間だ」と思っていたいくつものことが柔らかに崩壊をした。ブログ記事にできること、言葉にして説明をできることは本当に僅かなものになるけれど、自分という存在は「もしかしたらもっと柔らかいものなのかもしれない」ということを思った。最近は、溶かすとか解れる【ほぐれる】とか、そういう感覚について考えたり実感をする機会が多かった。感覚的な話になるけれど、自分のこころが好きだと思うひとと過ごす時間は、自分のこころもほぐれ、穏やかな気持ちになり、大袈裟な言葉になるけれど「世界と融解をする」ような感覚になる。この感覚は『全体性』という言葉で言い換えることができるのかもしれない。

 

稀に、ひとの身体に触れながらマッサージのようなことをする時がある。その時、相手のことを思えば思うほど【相手の身体に没入(?)するほど】、わたしは「命をあげる」という気持ちになる。この感覚を説明することはとても難しいけれど、俺の命をあなたの身体に注ぎますと、俺の命なんてどうなってもいいのだから、それによってあなたの命が開くのであればこんなに嬉しいことはないのだと、そんなことを思う(ことがある)。これは、多分、自己犠牲的な意味でのそれとは大きく異なる。「命をあげる」という感覚になっている時、わたしは、不思議な話になるけれど「最高の命を使い方をできているなあ」という風に思う。自分なんてどうなってもいいのだから、この身体を、この命を、これのために使いたいのだと思わせてくれる対象との出会い。死ぬほど大袈裟な話になるけれど、あなたのためならば死んでしまっても構わない、むしろ本望であると思えるひととの出会いは、人生観を大きく変える。自分のために使っていた命を、自分以外の他のものに使いたいと思う時、この命は「自分だけのもの」ではなくなるのだと思う。

 

【過去記事】光の記憶 - Love is always with you - - いばや通信

 

足りないものはなにもない。

弱気になる時、それは様々なことが原因ではあると思うけれど、そのひとつに「自分にないものばかりを数え上げてしまっている」というものがあると思う。巷では、よく、やりたいことがわからないとかそういう話を耳にすることは多い。事実、自分自身も「俺はなにがやりたいのだろうか」と思い悩むことはそれなりにある。しかし、毎度のことながら、やりたいことを考えても思い浮かぶことは少なく、夢も目標も理想も特にないままに生きてきた(そして、これからも生きていくのだと思う)。昨日、ふと思った。やりたいことがわからないのは、欲しいものがわからないのは、それは「すでに自分のなかに備わっているものが大量にあるから」なのだと思った。自分の中にあらゆるものがすでに備わっているからこそ、自分の外側に「自分にないもの」を探したところで、見つかることは少ない。なぜなら、自分が欲しいと思っていたものは、すでに、自分のなかにはじめから存在していたから。外側に探しても見つけることができないものは、多分、それがすでに自分の内側にあるからなのだということを思った。

 

 

ー 迷い、悩む時、それは「自分にあるものを適切に使えていない合図」なのかもしれない。

 

 

大事なことは「探す」とか「見つける」とか「発見をする」とかそういうことではなくて、自分の内側にある【自分にすでに備わっている】ものを活かすことなのだと思った。そこで、わたしは紙とペンを用意して、自分にあるものを箇条書きでひたすら書いた。自分にあるもの、それは『自然』『花』『珈琲』『音楽』『海』『空』『森』『本』『友達』『落ち着き』『五感』『声』『切り替える力』『家』『勇気』『ユーモア』などなど。そして、最後に『言葉』と書いた。紙に書かれた言葉の羅列を眺めながら、ああ、俺は「自分にあるもの」ではなくて「自分の好きなもの(自分の中にある好きな部分)」を書いているなあと思った。そして、自分にあるものと自分が好きなものは、もしかしたら同義なのかもしれないと思った。これは大事なことだと思ったので、何度でも書きたい。自分にあるものと自分の好きなものは、もしかしたら、同義なのかもしれないということ。海とか空とか森とか、とてもじゃないけれど俺の中にあるもの【自分のもの】とは言えない。ただ、自分がそれを好きだと思っている間だけは、それは自分の内側でたしかに息吹き、自分の体の一部となって、自分を支える【自分を活かす】ものになるのかもしれない。 

 

 

ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

自分はこんなものだとか、自分のことをわかってくれるひとはいないだとか、そんな感覚に捕まってしまうことがある。多分、これはスネてしまっている【スネちゃまになってしまっている】だけなのだと思う。でも、本当はわかっているのだと思う。こころの奥底で望んでいることは、決して卑屈なままで生涯を終えることではない。スネている時間はないのだということを、本当は「自分を生かし尽くして死にたい」のだと、こころの奥底では望んでいるのことをわかっている。自分のことをダメだと思う感覚に捕まりそうになることはある。でも、いつまでもそこにいてはいけないのだと思う。そのままでは、自分の命に対して申し訳ない気持ちになる。この命は、自分の命であるように見えて「自分だけの命ではない」のだと思う。生かされることを待っている命、自分に役割があるとすれば、それは「こんなにも生きたがっている生命をしっかりと生かしてやること」なのではないだろうかと、そういうことを思うことがある。

 

スネている時間はない。自分にないものを数え上げているうちは、永遠に幸せになることはできない。必要なものはすでに備わっているということ。いまあるもので充分に幸せになることはできるのだということを、もっと、私達は信じていけるような気がする。いろいろなひとがいろいろなことを言うからこそ、迷い、恐れ、不安などの感情が生まれる。でも、静けさを取り戻すことができればきっとわかる。自分の内側のずっと奥の方にある声は、決して「お前はダメだ」みたいなことは言わない。心臓のビートは『生きろ』と刻み、全身に温かな血液を送り続けている。身体は生きる【生き尽くす】ように作られていて、アスファルトを突き破る雑草のように、ひとつひとつの障害を突き破るために命を燃やしている。

 

この数日間の日々の中で「自分というものは、もしかしたらもっと柔らかいものなのかもしれない」ということを思った。そして、淡路島にある森の中を歩きながら「ひとりひとりの中に神様はいて、それは『大丈夫だよ』と言っている」ということを思った。現在は9月7日木曜日の10時40分。あと20分でホテルの前に迎えの車が来る。わたしはまだ服も着替えていなければ荷物の整理もできていないままだ。ここまで書いたブログ記事を投稿して、今日という一日がはじまる。終わることのない時の重なりの中で、わたしは、何度もあなたのことを思うのだろう。自分と『あなた』の間にある境界線を、できることならば取り払ってみたいなどと思うのだろう。北海道の9月は嘘のように涼しく、今年もまた、ひとつの季節が通り過ぎていったのだということを感じさせる。

 

 

https://www.instagram.com/p/BYuFOCnjEYF/

ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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光の記憶 - Love is always with you -

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宮古島を経由して石垣島にはいり、これから西表島に向かいます。昨日、Facebookから「これから石垣島に向かいます。所持金も枯れてきたので、ひたすら歩くかひたすら自転車に乗りながら野営をするつもりです」という投稿をしたところ、様々な方々から「ここに行くといいよ!」というご連絡をいただき、数年前、関東圏でお会いした方が現在は石垣島に住んでいることが発覚をして「よかったら泊まりに来ませんか」というご連絡もいただいた。昨夜は、関西在住の神様が「石垣島はわたしも頻繁に行くのですが、ご紹介できるホテルがあるのでそちらに泊まりませんか?宿泊代金は負担をいたします」という慈愛にあふれたご連絡をいただき、お言葉に甘え、自分にとっては豪華すぎるホテルの高速Wi-Fiを拾いながらこの記事を更新しています。

 

 

愛する三森正道さん(みっつ)がいいことを言っていました。自分を変えるということは「自分の好きなように世界を覗いてもいい」と気付くことだと、三森さんは指摘をする。素晴らしい指摘だなと思う。昨夜行ったツイキャス音声配信の中でも話したのですが、これまで、私は「自分ひとりの力で生きていけるようになるのが一人前。誰かに頼るのは半人前のやることだ」という前提で世界を生きて来たように思います。が、家のない生活をはじめてから、誰かに頼らざるを得ない状態に我が身は置かれ、結果的に様々な人々の力を借りながら「自分ひとりの力ではとてもじゃないけれど到達することのできなかった地点に立つ」ことができています。

 

【音声配信】迷惑かけて、ありがとう。 - TwitCasting

 

毒を抜く。

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宮古島では空港から市街地まで歩き、来間島から空港まで歩き、徹底的に歩いてみました。炎天下徒歩はしんどいかなと思っていたのですが、結論から言うと「猛烈に優しかった」ことが大発見で、カラダを動かすのはいいなあと思いました。ある程度の距離を歩いていると、自分の中にある毒が徐々に抜けて行く感覚を覚えます。毒の名前は「恐れ」とか「迷い」とか、きっと、そんな感じの感情になるのだと思います。

 

歩き出す前は「大変だなあ」とか「面倒臭いなあ」という気持ちになります。が、実際に歩き始めることを経て湧き出すエネルギーのようなものがあって、歩き出したことを後悔したことはほとんどありません。来間島から宮古空港に向かう道中で、来間大橋という長い橋を渡ります。そこから見える雲の白と海の青が素晴らしく、ああ、という声をあげながらしばらくの間見惚れてしまいました。美しさに感動を覚える時、わたしは、同時にある種のさみしさや悲しさを覚えているように思います。すべての美しいものは悲しみを内包しているということを思うのですが、それは「永遠にはそれを見ていることはできない」という悲しみなのかな、と思います。今日の自分はもう、明日には取り戻すことができない【二度と同じ場所に戻ることはできない】ということを無意識に理解しているからこそ、悲しみという感情が湧き上がるのだと思います。そして、昔のひとは『美しみ』と書いてかなしみと読み、『愛しみ』と書いてさえかなしみと読んだことを思い出していました。

 

歩き続けることで、自分の中にある毒が抜け、勘違いかもしれないけれど「自分が透明になる」ような感覚を覚えます。なにも歩き続けることに限らず、ものをつくることで毒を抜くひともいれば、ものを育てることで毒を抜くひとも、カラダを動かすこと、歌を歌うこと、踊りを踊ることで毒を抜くひともいれば、ひとと話すことで毒を抜くひともいる。毒の抜き方はたくさんあるけれど、その共通点は「自然に触れる」このとなのかもしれないと思いました。自然とは、なにも緑豊かな場所に足を運ぶと言うことではなくて『自分の中にある自然』を思い出すような、そんな感覚に近いのかなと思いました。

 

光の記憶。

すべてが移ろいゆくこの世の中に、確かなものなどあるのだろうか。あるのはこの瞬間だけ、否、この瞬間さえもないのかもしれない。ただ、生き続けるものは「光の記憶」なのかもしれないと、そういうことを考えていました。多かれ少なかれ、誰にでも「あの瞬間は最高だった。あの瞬間はほんとうに素晴らしかった」と思えた瞬間があると思います。そのとき、その瞬間、そのひとは確かに「光を見た」のだと思います。365日24時間、常に『光』を身近に感じることはとても難しいことかもしれないけれど、でも、それでもなお「生きていればまた、同じ光を見ることができるかもしれない」と思うことが、生きたいと思う希望を生むだということを考えていました。

 

https://www.instagram.com/p/BYaWMjCj0Nw/

光にあふれている。

 

現代社会にはあらゆるものが整っているからこそ、生きること【生き延びること】は、多分、それほど難しいことではないのだと思います。贅沢を言わなければ、仕事は無限にあるし、住居も無限、衣類も無限、暇潰しになる娯楽も無限、食糧品店に足を運べば試食品も大量にあり、飲み水に困ることはほとんどない。ただ、問題なのは生きることではなくて「生きたいと思うこと」なのだと感じていました。どれだけ多くのものが出揃っていたとしても、生きたいと思う純粋な熱情が内側から湧き出すことがなければ、とてもじゃないけれど『生きている』とは思えない。なかなか周囲にうまく馴染むことのできなかったわたしは、昔、そんなんじゃ生きていけないよ的なことを言われることが頻繁にありました。その度に、わたしは「自分を殺さなければ生きていけないなら、そんな世の中を生きていきたいとは思えないよ」と感じていました。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。この思いを護り抜くことは、簡単なように見えて、とても難しいことでもあり、この瞬間も揺れ動く日々のど真ん中にわたしはいます。

 

【過去記事】わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。 - いばや通信

 

Let's keep it simple.

今回の遠征にはギタレレと呼ばれている小さなギターを携えています。自分の好きな道を歩くこと、自分の好きな自然に触れることと同じように、自分の好きな歌を歌うことは自由を与え、凝り固まっていた心身を優しくほぐす力を感じます。数日前、カーペンターズのI Need to Be in Love【青春の輝き】という曲を弾いていました。その歌詞の中に〝Let's keep it simple〟という箇所があり、ああ、なんだかいいフレーズだなあと思いました。Let's keep it simple ー 生きている間に、最初から本当はシンプルだったはずのものを、複雑に考え過ぎてしまう瞬間があります。ごちゃごちゃにこんがらがりかけていた自分の思考を、Let's keep it simple【シンプルなままにしておこう】という言葉に、静かな落ち着きと共に思考をまとめあげてくれる響きを感じました。

 

It's not difficult.

人生を難しく考え過ぎてはいけない。目の前の物事を複雑にし過ぎてはいけない。きっと、もっと、生きるということはシンプルなことなのだと思う。自分は自分であり続けるということ。どこでも言われているようなこのシンプルな営みが、時に、とても難しく感じることがあります。それでも自分であり続けたいと願うのは、自分が自分であることでしか出会えなかったよろこびがあったからこそ、自分が自分であったからこそ触れることのできた光があったからこそなのだと、そういうことを思います。難しく考え過ぎてはいけない。人生を複雑にし過ぎてはいけない。三森さんが言う通り「自分を変えるということは、自分の好きなような世界を覗いてもいいのだと気付くこと」なのだと、自分で自分を許すことなのだと、忘れるたびに何度でも自分に言い聞かせるように、思い出しては言葉に残し、言葉に残す作業を通じて、自分の細胞にきざみつけているのだと思います。

 

Love is always with you.

紙とペンを用意して、思い浮かぶままに言葉を綴る。Let's keep it simpleと書き、It's not difficultと書き、その後に〝Love is always with you〟と書いた。書こうと思って書いたものではなく、いつの間にか(まるで何かに書かされていたかのように)書いた言葉に、自分自身が励まされることがあります。Love is always with youという言葉に触れて、愛と呼ばれる感情は自分から遠く離れた場所にあるものではなく、常に自分と共にあるものだということを感じました。さみしさと呼ばれているもの、悲しみと呼ばれているものの中にさえ、愛と呼ばれているものは確実に内包をされている。Love is always with youという言葉は、ひとつのおまじないみたいなものだと思います。この言葉を唱えることで、自分の外側にあるものを求めてしまう気持ちから、自分の内側にあるものを最大限に生かしてやりたいのだと思う気持ちに、それは【自分で自分を慈しむ】ような気持ちになります。そして、自分で自分を慈しむということが、時を超えて、自分以外の誰か【同じ人間】を慈しむことにも繋がればいいのだという『祈り』になることを感じています。

 

 

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ー Love is always with you.

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。

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栃木県日光市を経由して、これから宮古島に飛ぶ。奥日光にある湯滝界隈の自然が素晴らしく、往復40分の散歩道は「歩くだけで魂が浄化される」的な感覚を覚えた。自然に還るということは「自分に還る」ということと似ているみたいで、当たり前のことだけれど「人間も自然の一部なのだ」ということを実感する。私は、多分、余分なものを持ちすぎていたのだと思う。季節は巡り、すべては流れている。いつまでも同じ季節のままでいることはできない。夏が過ぎれば秋が来て、冬の後に春が来る。そして、再び夏は訪れる。目の前にある夏は終わりを迎えるけれど、夏が来るということ【生命のサイクル】に終わりはない。季節が巡るように、多分、私達自身も巡り続けているのだと思う。生まれて来て、生きて、死ぬということを、この瞬間も繰り返して続けているのだと思う。

 

 

70卍間テレビの鎮魂的な意味合いも込めて「お骨をひろいに、いかんばなんね」という小規模な企画を立てた。多分、この世の中には『自然の摂理』とでも呼ばれているようななにかがあって、自然な流れに従っていれば物事はおさまるところにおさまり、逆に、自然な流れに抗うことで余計な問題が生まれたりするのだと思う。巷では、頻繁に「人生を変える」とか「世界を変える」みたいな言葉が使われる。しかし、人生は「変える」ものではなく「勝手に変わってしまうもの」であり、人生を変えるという言い方よりも『人生は変わる』と表現をした方が的確であるように思う。的確な言葉に触れた時、自分の内側から「ああ…」という言葉にならない感嘆の吐息が漏れる。そして、なにかがおさまる【腑に落ちる】感覚を得る。その時に感じる静けさの中に、生きて在ることの「切なさにも似た躍動」を覚える。

 

【70卍間鎮魂企画】お骨をひろいに、いかんばなんね。

 

奥日光の景観。

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散歩道の木漏れ日が素晴らしかった。

 

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湧水で珈琲を淹れるのが好きで、 

 

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太陽が顔を出すと「祝福されているな」と思う。

 

「生きている」ということ。

強迫観念にも似た義務感を動機に、なにかをやりたくはないと思う。「これをしなければいけない」とか「あれをしなければいけない」というような精神状態の中で、なにか言葉を発したり、なにか行動を起こすようなことはできるだけやらないでいたいと思う。それは、多分、自然な流れに抗っているような感覚【不自然さ】を覚えるからなのだと思う。自分を変えるだとか、自分を変えたいだとか、そういうことではなく『自分は変わる』ものだと思う。季節は変わるように、世界は変わるように、この瞬間も自分自身【人生】は変わり続けているのだと思う。好むと好まざるとにかかわらず、私達は、いつまでも同じままでいることはできない。だからこそ、ほんの一瞬でもいいから「同じ気持ちになるために」言葉を発したりなにか行動を起こしたり、ひとと会いたいと思ったりするのではないだろうかと思う。

 

この文章を綴りながら「自分はなぜ、文章を綴るのだろうか」ということを考えた。私には言いたいことがあるのだろうか。私には訴えたいことがあるのだろうか。これだけはどうしても共有をしたいと思う出来事なり考え方なりがあるのだろうか。私は思う。私が文章を綴る理由はシンプルで、それは「生きていることを伝えたい」という単純な言葉で表現をすることができる。話していることの内容は、多分、実際はどうでもいいことなのだと思う。ただ、言葉を綴るという営みを通じて、いま、お互い【読み手と書き手】に同じ時代を生きているのだということを、自分は生きているのだということを、あなたは生きているのだということを、ただ、確認したいと思っているだけなのだと思う。私はあなたを見ている【あなたは私を見ている】ということに、ささやかな拠り所を見るのだと思う。そして、生きていることを確認し合う行為の総称として『コミュニケーション』という言葉はあるのだろうなということを思う。

 

小さなこどもと遊ぶ時、ああ、こいつらはおとなの視聴率さえあれば勝手にテンションがあがって勝手に満足をするんだなということを頻繁に思う。こどもたちは「見て、見て!」と自分の存在を猛烈にアピールする。なにかを言って欲しいとか、なにかをやって欲しいとか、多分、そういうことではなくて『純粋な視線(ただ、見ていてくれること)』を求める。誰かが自分のことを見てくれている、それだけのことが「生きる力」になることがある。これは多分、こどもだけに限らない【おとなも同じ】話だと思う。具体的になにか力を貸してくれるという訳ではない、ただ、誰かが自分のことを見てくれているのだと思えることが「生きる力【前に進むための力】」を生むことがある。逆に言えば、誰も自分のことなんて見てくれてはいないのだという感覚は、そのひとから生きる力を奪い、孤立する分離感を与え、冷えきった絶望感を残す。生きているということ、それは、自分のカラダの中にはあたたかな血が流れているということ。私は生きているということ。あなたは生きているのだということ。お互いの生存を確認する視線、私はここにいる【あなたはそこにいる】ということを確認する視線、それが「コミュニケーション」と呼ばれているものなのだと思う。 

 

わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。

生きているとはどういうことだろうか。私にはわからない。この「わからない」ということが、前向きな探究心や好奇心となって生きる方向に舵を取らせることもあれば、後ろ向きな猜疑心になって生きることが難しくなる方向【自分の人生や自分自身の存在を疑ってしまう方向】に舵を取らせることもある。わからないということは壮大な冒険のはじまりで、わからないということは「なんにでもなれる」という無限大の可能性がある。同時に、わからないということは心許なくて頼りなく、わからないということは地に足がついていないような感覚【うわついた不安感】を運ぶ。わからないことをわかろうとする強さだけではない、わからないことを受け入れる強さを、わからないことをわからないままにしておける強さを培っていけたらと思う。

 

 

 

わからないことをわからないままにしておける強さ、これは「何者でもなく生きる強さ」でもあるのだと思う。世間的な役割や肩書きなどを通じて自分を確認するのではなく、自分の外側に張り付いているものを通じて自分を誇示するのではなく、なにもかもを取り払った後に残る『生身の人間の部分』で生きるということ。何者でもない自分に耐えることができない時、誰かに「お前の役割はこれだ」と言ってもらうことでつかの間の安心感を覚えることはできる。しかし、小さな枠内に限定づけられた生命は「それだけじゃない!」という痛切な叫び声をあげ、自分はこれだけではないのだと、もっと生命全体として生きていきたいのだという悲痛な訴えを起こす。その訴えは肉体的な病気や精神的な疾患を通じてあらわれることもあり、限定づけられた生命は「おれをそこから出してくれ!」と嘆き悲しむ暴動を起こす。

 

 

自由とは「心の状態」だと思う。多分、自由になる道は二つある。ひとつは『壊す』ということ。「これが自由になれない原因だ」と感じるものを、自分の意思で壊し【潰し・殺し】にかかること。普段恐れていることをやることだとか、無理をしてまでなにか新しいことに挑戦をするとか、意図的になにかをはじめたりなにかを手放すということ。そして、もうひとつは『溶かす』ということ。肩の力を抜くということ、落ち着いた空間の中で、落ち着けるひとと過ごす時間の中で、いつの間にか自分の中で硬く凝り固まっていた部分が氷解をして、気持ちがほぐれ、溶け出し、流れ出し、気がついたらいつの間にかなくなってしまうということ。どちらの道がいいとか悪いとか、多分、そういうことはない。ただ、来る日も来る日も「変わらなくちゃいけない!」という形で自分を追い込み続ける日々を過ごしてしまっては、ココロやカラダはちぎれてしまう。なにかをしなくちゃいけないという思いからではない、自然と「なにかをやりたくなった」その時の感覚を、直感を、あたたかな触感を信じたいと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BYZmqOxjADo/

わからないことを、わからないままにしておける強さを。

 

人生は続く。

   

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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GOOD MORNING BABIES 〜自分を救え〜

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昔、躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで半年間寝たきりの生活を送っていた時期がある。あの時期は地獄だった。が、あの時期があったからこそいまの自分があるのだと割と心のそこから思う。そう思うと「一回死にそうな状態になる」ことも決して悪いことではないのだろうなと思う。半年間の寝たきり生活で体重は20キロ増え、金も家も友達も何もかも失ったつもりでいたつもりは「どのような方法で死のうか」ということばかりを考えていた。が、坂爪圭吾という人間は生まれながらに『奇跡のJ字回復』をするように作られているみたいで(神様ありがとう!)、現在はすこぶる元気に生きている。その辺の詳細は過去記事に詳しいのだけれど、昨日、数年前から行なっていた『GOOD MORNING BABIES』の活動について思いを巡らせていた。

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

GOOD MORNING BABIESの誕生。

精神的に病みすぎて(ヘルニアで体も動かないし)わたしは寝たきりの生活をしていた。が、時は流れまずは最初にヘルニアが治った。当時、わたしは新潟市内にある実家で療養をしていたのだけれど、自分の存在が誰かにとってのお邪魔虫になっているのだというほど辛い実感はない。そのしんどさを拭うために、ささやかすぎるけれど食器洗いなどをすることで軽い贖罪をしたつもりになっていた(けれど実際は全然しんどいままだった)。食器洗いをするうちに、ああ、これだけでは全然足りないなあと思って簡単な味噌汁などの料理も引き受けるようになった。多分、これがものすごいよかった。精神的に病んでいる時は、ほおっておくとマイナスなことばかりを考えてしまう。が、料理をしている間だけは無心になることができた。寝ているばかりの日々に達成感は皆無なので、せめて、今日はこの料理を作ることができたというささやかすぎる達成感が、自分のちっぽけな人生にわずかながらの「充実感」を与えてくれていた(ように思う)。

 

わたしはパンが好きなので、よし、時間もあるし自分でパンを焼いてみようということを思った。が、当時、わたしは愛するジャムパンの過剰摂取で一ヶ月に20キロも太るという醜態をさらしていた。パンは食べたい。が、パンは小麦粉を多用するためにめちゃんこ太る。さて、どうしたものだろうかと考えあぐねていた時に奇跡のパンと出会う。そのパンの名前は「お豆腐ベーグル」というもので、小麦粉の代わりに豆腐を使うことでウルトラヘルシー!まさに自分のためのパンだ!とわたしは興奮をして、WEB上にある適当なレシピを参考にしながら豆腐ベーグルを作った。ら、出来た。料理の素晴らしいところは「レシピ通りにやれば一応できる」ということで、わたしは「おお、こんな自分にも豆腐ベーグルを焼くことができた!」ということがあまりにも嬉しすぎてしばらくの間自分が精神的に病んでいるということを忘れた。

 

料理は素晴らしい。料理というか「なにかをつくること」「新しいことに挑戦をすること」は素晴らしいことなのだと感動をしたわたしは、よし、これは自分1人だけではなくみんなでつくったらきっと楽しいだろうなと思って『豆腐ベーグルをつくる会』的なものを企画した。非常にありがたいことに友達が友達を呼んでくれて開催日には20名近い男女が集まった。会は非常に和やかに進み、わたしはご満悦だった。別にこれを定期的なものにするつもりは皆無だったけれど、参加者のひとりが「すごい楽しかったです!次はなにをやりますか?」なんてことを尋ねてくれるものだから、わたしは「え!次なんてあるの!」と驚愕をした。次のことなんて考えてなかった。でも、みんなでなにかをやるのは楽しいなあと思って、以後、料理教室のようなものは定期的に開催されるようになり(ここら辺が自分はウルトラ幸福者だなあと思うのだけれど)呼んでもいないのに大量の参加者がぞろぞろ集まるようになり、やがて県外や国外からも謎のオファーが来るようになって『料理教室』はわたしの生業のひとつみたいなことになっていった。

 

GOOD MORNING BABIESの終焉。

これまでの日々で料理なんてまったくやったこともない人間が「料理教室のようなもの」をやることになる流れは愉快だなあと思った。が、わたしは別に料理が好きな訳ではなくて「普段はやらないことをやること」に対して強い興味があるだけだったので、料理教室の名前は『GOOD MORNING BABIES』という料理教室らしからぬ名前にした。精神的に病んでいたわたしは「ああ、俺は死んだんだな」と思っていた。鬱病のしんどいところは「普段は感動できるあらゆるものに対して自分の心がまるで反応をしなくなる」ことだと思うけれど、何をしてもつまらない、何をしても新鮮な感動を覚えることがない状態になっていたわたしは生きていても何もいいことはないだろうなと思っていた。が、料理をしている時間だけは「ああ、楽しいなあ」なんて思っていた。自分の中にまだ死んでいない部分があるということがものすごく嬉しくて、静かな感動を覚えていた。そこで名前は『GOOD MORNING BABIES』とした。バカっぽくていいなあと思うし、自分の中にある「まだ死んでなんかいなかったこどもの部分が目覚めるような時間や空間になればいい」という思いを乗せた。

 

結果的にGOOD MORNING BABIESの活動は3年程度続けた後に、わたしの自意識の暴走により解散をする。最大の理由は「いつの間にか、自分が楽しいからやっていたはずの活動が『お客さんは楽しんでいるだろうか??』なんてつまらないことを気にするようになってしまい、お客様満足が最優先されるようになってしまったから」というものになる。わたしが楽しませたい人間は他の誰でもない『自分自身』であったはずなのに、元来、まじめ気質が強めのわたしは「お客様が楽しんでくれてはじめて自分も楽しめる」なんて状態になってしまっていた。多分、楽しみには二種類ある。ひとつは「まずは自分が率先して楽しみ、その楽しさが周囲の人間にも伝染する」タイプの楽しさで、もうひとつは「まずは一緒にいるひとが楽しんでくれることを優先して、周囲のひとが楽しそうな姿を見てはじめて自分も楽しむことができる」というタイプの楽しさ。わたしは完全に後者に成り下がっていたが、これは楽しさというよりも『安心』に過ぎないことを悟った。安心の裏には「(お客様は楽しんでくれるだろうかという)不安」が常につきまとう。こんな生き方は嫌だと思った。ひとの顔色を伺い続ける自分を死ぬほどダサいと思ったので、GOOD MORNING BABIESの活動を一旦やめて(まずは自分を徹底的に楽しませるという意味合いを込めて「とにかくやばいことだけをやる」というコンセプトで)いばやという活動をはじめたのが今から四年ほど前のことになる(その後、わたしは家を失い『家のない生活』に突入をする)。

 

GOOD MORNING BABIESの復活。 

いま、再び「GOOD MORNING BABIESの活動を再開したい」ということを思う(もしかしたら、単純にGOOD MORNING BABIESと言いたいだけなのかもしれない)。BABIES【自分のなかにあるこどもの部分】がGOOD MORNINGをする【目覚める】ような時間や空間を創出したい。堅苦しい表現を抜きにすれば、いわゆる『童心』を再び取り戻して、社会的にどのような立場にいるとか一回全部取っ払って「一緒に遊ぶ」ことができたら嬉しいと思っている。多分、誰のなかにもこどもの部分は眠っている。どれだけ年齢を重ねたとしても、こころの中には小さなこどもが潜伏をしていて、それは外に飛び出せる瞬間を待っている。私達【おとな】の仕事は、自分のなかにいるこどもを楽しませること。綺麗な景色を見せてやること。広い世界を見せてやること。新しいことに挑戦をさせること。泣きそうなときはしっかりと抱き締めてやること。生きる希望を与えること。世界は生きるに値する場所なのだということを、柔らかに示すことなのだと思う。

 

GOOD MORNING BABIESの活動はなにも料理教室に限らない。そもそもで「(普段やらないことをやるのは好きだけど)俺は料理がそれほど好きではない」という非常に根本的な事実に(3年もかかって!)気がついて料理教室的な習慣を辞めた自分からすると、GOOD MORNING BABIESの活動内容はなんでもいい、ただ「その営みを通じて童心を目覚めさせること」さえできたら、それがゴールなのだと思う。前回の記事で『あふれちゃん』について軽く触れた。すると、ブログ読者の方から素晴らしすぎるご連絡が届いて驚愕をした。何気なく発した一言が、誰かの人生を大きく変えることがある(まったく変えないこともある)。それが人生の面白さであり、あの頃、半年間の寝たきり生活を経なければGOOD MORNING BABIESも何もなかったのだなと思うと、なにがどのように転んでどのような果実を実らせるものなのかわからないものだなあなんて不思議な気持ちになる(そして少しだけ『自由』を感じる)。

 

【過去記事】大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS! - いばや通信

 

自分を大事にするから弱くなる。最近はそういうことを思う。これが自分だ、なんて思う自分が固まってきたら、そんな自分を蹴飛ばしてやる。ひとの目が気になると思う時、それは「自分の目」を気にしているだけなのだろう。自分自身が凝り固まってきた時は、何度でも自分を打ち壊して、何度でも自分を更新する。多分、半年間の寝たきり生活の中で「自分は一回死んだ」のだと思う。一度死んだものだと思えば、恐れるものなどなにもない、残りの日々は神様から与えられた「おまけ(ボーナスタイム)」みたいなものなのだろう。昨日、静岡市内にある温泉にはいった。鏡に映る自分の裸と対峙をした時に「俺はこれで生きていくんだな」ということを思った。そして、嬉しさにも似た静かな感覚がこみ上げてきて「望むところだ」ということを思った。多分、幸福になるヒントは「付け足すことより、削ぎ落とすこと」の中にある。余計な見栄もプライドもかなぐり捨てた時、最後に残るものに自分の生涯を賭けていきたい【駆け抜けていきたい】のだと思った。

 

 

坂爪圭吾さま

 

単なるブログ読者の七海といいます。

 

あふれちゃんに関してあふれちゃんになったので
メールしています。

 

圭吾さんはラインのほうが楽とか前に書かれていたけれど
自分はラインをやってないし
お返事を期待して書いているわけじゃなく
あふれちゃんなのでその勢いで書いています。

 

わたしは「あふれちゃん」をずっと押さえて生きてきてしまいました。

 

ものすごーく強いあふれちゃんが自分のなかに沢山いたのに
いろんな状況・人・自分の役割などまわりのことを優先して
ずっとずっとあふれちゃんを抑え込んできてしまいました。

 

さっき、自分に謝りました、ごめんね、ごめんね、って。
ものすごく泣きました。

 

自分は乳がんが骨→肝臓へと転移してしまったのだけれど
あふれちゃんを大事にしてこなかったことも
その原因のひとつだと自分は分かりました。

 

3歳の息子が日々あふれちゃんで
そのお手本をずっとずっと見せていてくれてたのに
それに気づけませんでした。

 

でも、圭吾さんの記事を読んで気づけた。
今朝、すごく分かった。
今、打ちながらも涙を流しています。

 

あふれちゃんを教えてくれてありがとうございます。

 

あふれちゃんを教えてくれた圭吾さんに
わたしが感動・感謝した
何千倍ものハッピーが降りそそぐと信じています。

 

お体、お大事に!

 

あふれちゃんをキーワードに生きていくぞーい!!!
の○○○○より

 

https://www.instagram.com/p/BRZMqPyDFOH/

GOOD MORNING BABIES

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS!

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完治一週間と見込んでいた怪我がまるで治っていなかったみたいで、ボロボロの状態で帰宅をしてから数日間寝込んだ。前回の記事で「おはなを配ります!」と豪語したものの、結果的に言うほど配れていない。カラダは資本である。人生を楽しむためには体力が必要だ、体力がなければ楽しめるはずの場面でも楽しめないばかりか、思考が内省的になり過ぎて自分に殺されてしまう(ことがある)。やっとこさ普通に動けるようになったことが半端なくうれしい。ゴリラみたいな顔をしながら自転車をこぎ続けていると、野生的な何かがオープンになるからなのだろうか、「俺はまだ闘える」という気持ちになる。鬱病自律神経失調症などの精神的な疾患は「運動不足か睡眠不足が原因の9割」だと聞いたことがある。多分、その通りなのだろうなと思う(写真はドローンの練習をしている)。

 

https://twitter.com/noname9kokotomo/status/898247124759920640

 

前回の記事で「ポップな棺桶で寝泊まりしたい!」的な投稿をした。ら、あろうことかこの記事を見てくださった方が「勤務先に大量の廃材があるのですが使いますか?捨てるのにもお金がかかるものですから…」というご連絡をいただき、廃材の下見をした。言葉で説明をするのは非常に難しいのだけれど、長さ2メートル強の杉の柱(?)が無限にあり、敷き詰めれば(重量はあるけれど)床にもなるし壁にもなるし屋根にもなる。タイヤをつければモバイルハウスにもなるということで、これは是非何かに使わせていただきたい!と思ったものの普通の乗用車ではこのサイズを運ぶことができない。もしも「自分も廃材に興味があるからトラックを出すよ!」的な神様がいらっしゃいましいたら、是非、一緒に廃材を受け取りにいきませんか??そして一緒に何かを作りましょう!!(あと、今週日曜日にはわたり食堂【0円食堂】があります!)

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

紙とペンを用意する。

その日の出来事で一番印象に残ったことを絵に描いて、その時に思ったことを書く『絵日記』をつけると超いいよ!と聞いたので、早速真似た。わたしは絵がどヘタクソで絵を敬遠していた節があるのだけれど、描いてみたら超絶楽しく、何枚も何枚も描き続けてしまった。テーマは「自分の信条を絵に描いてみよう!」ということで、ひたすら描いていたら描いていた内容を誰かに話したくなったのでここに書きます。

 

【過去記事】毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。 - いばや通信

 

木。

わたしたちひとりひとりは「別々の命」を生きているようで、実は、ひとつの大きな命を生きているのではないだろうか(と思うことがある)。そういう気持ちになれている時は、個人的に「いま、自分は非常にいい状態ですある」という風に思う。逆に、俺は、俺は、となっている時ほど「別々の命を生きてしまっている」感が増幅をしてしまい、結果的に満ち足りない気持ちになる。たとえるなら「木にある葉っぱ」みたいなもので、わたしたちひとりひとりは一枚一枚の葉っぱみたいなもので、多分、根本はみんな繋がっている。

 

稀に、トークイベントなどに出演をした際に「どうしたら坂爪さんみたいになれますか」と問われることがあり、わたしは困る。正直に言うと、わたしみたいになる必要は微塵もないと思うし、ならない方が絶対にいいと思う(色々あるから)。マヤ語の挨拶に「インラケチ」というものがあり、この言葉には『あなたはもうひとりの私です(私はもうひとりのあなたです)』という意味がある。わたしは、この意味が好きだ。言い換えるならば「あなたは私の代わりに生きている(私はあなたの代わりに生きている)」とも言えるような気がする。私は私の命を生きる。あなたはあなたの命を生きる。それは最高に素晴らしいことだと思うし、誰かになろうとする必要はないのだと思う(それは自殺行為だとさえ思う。

 

ベクトル。

私はツイッターをやっている。が、稀に自分が投稿したやつを(気に入らなくなって)すぐに消す時がある。思うに、私が消したくなるものは「矢印が外に向いている」場合が多い。矢印が外に向いているというのは、たとえば誰かの悪口が含まれていたり、他人の生き方にああだこうだと言ってみたり、誰かしらの何かしらの発言やアクションに刺激をされて言葉を発した時など、うまく言葉にできないけれど「内発的ではないもの」は、あとから消したくなることが多い。

 

逆に言えば、自分の内側から溢れ出すもの、誰かに対する返事や意見のやりとりではない、ただ、純粋に「自分はこう思った」という矢印が内側に向いている時の投稿は、なにかこう、自分の話をしているだけなのに「人類全体に通じるようなサムシング」に触れた的な手応えを覚えることがある。自分を徹底的に掘ることで、多分、人類全体に通じる何かを得る(ことができる場合がある)。ベクトルはあくまでも内側に。他人の生き方をああだこうだと言いたくなった時は、まず、自分は自分を真面目に生きることができているのかを確認すること。ひとのことをああだこうだと言うよりも、自分の精度を高めた方が諸々早い。

 

あふれちゃん。

最近「あふれちゃん」という言葉が好きで、あふれちゃんというキャラクターを作りたい気持ちがあふれている。喜びも、感謝も、幸福全般も、絞り出すものではなく『あふれだす』ものだと私は思う。だからこそ、感謝をしなくちゃみたいな気持ちから生まれる感謝には、どこかしら『無理がある』ように思う。プレゼントも同じだ。絞り出すようにプレゼントをするひとと、あふれだすようにプレゼントをするひとと、贈り物にも二種類ある。絞り出された贈り物は受け取りづらいが、あふれだした贈り物は喜びと共に受け取ることができる。人間はボロ雑巾ではないのだから、無理をしてまで(自分を絞り出してまで)誰かになにかをしてあげる必要はないと思う。ただ、自分がそれをしたくてたまらない!的な気持ちがあふれだした時にだけ、それをすればいいのだと思う。

 

大事なことだから何回も言いたい。幸せも、よろこびも、感謝も、誰かに強制をされてやることではなく「あふれだすもの」だと思う。あれをしなくちゃとか、これをしなくちゃとか、あのひとに感謝をしなくちゃとか、生きていることの幸せをちゃんと噛み締めなきゃとか、このような態度は(肩に力がはいりまくっているから)あまり自然ではないと思う。自然とは「気がついたらそうなっている」ことと同義で、自分の意思で「やる!」と決めてなにかをやることも素晴らしいことかもしれないけれど、自分を面白い場所に運んでくれるものは「やる」よりも「やっちゃっていること(自分でも無意識のうちにやってしまっていたこと)」だと思う。人生は、多分、自分でコントロールできるほど生易しいものではなく、だからこそ(想定外の場所に行くことができる)面白さを含んでいるものだと思う。

 

財布。

わたしの好きな言葉に「地球に財布はひとつ」というものがある(わたしの造語です)。わたしは数年前に「今世はお金に困ることはないから大丈夫!」だと勝手に決めた。いままでの人生もどうにかなってきたように、多分、これからもどうにかなっていくからお金のことで悩むことは今世はやめよう。なるようになるだろうから委ねよう、的なふうに思いながら日々を生きている。だから、お金に対する哲学とか考え方とか付き合い方とか、誰かに尋ねられても「あまり深く考えていません」としか答えることができない。わたしは、地球に財布はひとつだと思っている。自分が持っているとき、それは「たまたま自分の手元にお金があるだけ」的な感覚でいる。あまり「自分のもの!」とは思わないようにしている(その方が精神衛生上自分には良い)。

 

お金がない時も、あまり不安に思わなくなった。不謹慎な話かもしれないけれど「俺がなくても、誰かが持っている」という風に思っている。必ずしも常に自分が持っている必要はなくて、別に、困ったときは持っている誰かに頼めば大概の問題はどうにかなると思っている。この考え方は甘いかもしれない。しかし、苦いよりは甘い方がスイートな人生を送ることができる(ような気がする)。実際、あまりお金に困ることはない。地球に財布はひとつ。この考え方は是非みなさまにも勧めたいと思っている(本当はどっちでもいいと思っている)。同じように、多分、地球に命はひとつなのだと思う。わたしたちは別々の命を生きているように見えて、実は「ひとつの大きな命を生きている」のだと思う。担当が違うだけで、根本は同じなのだと思っている(詳細は『木』で書いたようなあの感じです)。

 

わたり文庫『山小舎を造ろうヨ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、西丸震哉著作『山小舎を造ろうヨ』です。西丸さんの口調は結構頻繁に毒舌で、読んでいると「ひでーな!」と楽しくなるます。詳細な山小屋の作り方やサイズなども紹介されているので、極論、あとはもう「やるかやらないか」だけなのだと思う。全然関係ないけれど、昨日神奈川県伊勢原市にある大山という山に行きました。標高が高いからなのか夜は涼しく「長野みたいだな!こんな場所に山小屋建てられたら別荘だな!」とアガりました。これはもう、是非、一緒に廃材をゲットして共にモバイル家屋的なサムシングの製作に携わってくださる有志のみなさまを募集いたします。どなた様か自由に使えるトラックをお持ちではないでしょうか・・・廃材(といっても二級品!)で家を建てられるなんてエコ!こちらの書籍をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

庶民の夢は一生のうちに家を一軒建てることだそうだが、一生かかってようやく家を建てて、ヤレヤレと安心して、その家をジックリ味わうひまもなくお迎えがきて連れていかれるなんて、そんな割のわるいつまらないことはない。

 

家が不動産なんかであるものか、火事や地震や空襲でアトカタもなくなる泡みたいなものだ。土地だって流れ去ったり、海没したりする。

 

不変、不動のものなんか大宇宙の中にはもともとないものだ。

 

泡みたいなものにこだわって、せっかくほんの一時期、この世に存在したことが確かであるらしい自分の一生を、やりたいこともろくにやらずに終らせ、後悔をすることにも気づかなきでガタガタ騒いだだけではつまらない。それではいやだということに気が付いた人は、気が付いたその瞬間から、自分の残る時間をどう有効に活用するか、まず計画を練るという楽しみ、そしてその計画を実行に移していう喜びを、出来るだけたくさん味わうように努力しないではいられない。

 

この本に出会った、その気になれる人は、束の間の人生を楽しい内容で充たすことが出来、夢を限りなく追いかけ、現実のものにしていくことになるはずだ。

 

西丸震哉『山小舎を造ろうヨ』【中公文庫】 

 

大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS!

なぜか大急ぎでこの記事を書いているのだけれど、いま、書き始めてから30分が過ぎた。何も考えずに思い浮かぶものをオラオラとキーボードを鬼連打しているとこれくらいの分量は稼げるのだということがわかった(内容の質は不問!)。交通事故の怪我で自宅療養をしていた時期は結構つらく、関東圏は謎の低気圧に包まれて気持ち的にもあがることが少ない日々を過ごした。が、いま、横浜界隈は快晴に恵まれている。やっと夏らしくなってきたことがとても嬉しい。一度「当たり前」をロストすると、普通に歩けることだとか、腕や足が痛まないことだとか、空が晴れていることだとか、当たり前のことがものすごく輝いて見える。動けるようになったことが本当に嬉しい。同じ場所にずっといると何かが停滞をしているような感覚になる。自分の日々に風を吹かせよう。カラダを動かし、機会を見つけては遠出をしよう(軽い装備で)。

 

 

観念的になり過ぎると「脳みそにカラダが乗っ突れる」感覚を覚える。考え過ぎは良くない。己の小規模な思考に囚われて精神的な自由をロストする。逆に言えば、どれだけ気分が乗らなくてもゴリラみたいな顔をしながら全力で自転車をこげば「カラダに脳みそが乗っ取られる」逆転現象が起こる。やる気が出たからやるのではなく、やったからやる気が出るのである(のだと思う)。なんでもいいからやっちゃえばいいのだと思う。カラダが壊れている時は「やりたいけどやれない」苦しさに悶えていた。が、なう、これだけ自由に動けるカラダを再び取り戻すことができてとても嬉しい。カラダにありがとうと言いたい。思えば、よく頑張ってくれているカラダだと思う。臓器も筋肉も視力も聴力も24時間フル稼働で働いている。坂爪圭吾のカラダありがとうという気持ちになる。そして「これからもよろしく」的な気持ちになる。

 

 

猛烈に雑な文章になってしまったけれど、更新が滞るよりも「下手でも出す!とにかく出す!」ことが今回のゴールだったのでなう非常に晴れやかな気持ちになっている。先日、菊名の家に遊びにきてくださったお母様から非常にありがたいメールが届いた。正直に言えば、わたしはあまりひとと話すのが得意ではないというか好きではない(ひとりが好きだし静かな環境が好き)であるにも関わらず、なぜ、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】のような活動をやっているのか自分でもわからなくなる時がある(結構頻繁にある)。が、最終的には「ああ、これをやっていなければ絶対に合うことができなかった面白い目にあうために、俺はこれをやっていたのだな」というところに着地をする。目的も、手段も、いろいろなものはごちゃまぜでいいのだと思う。その過程の中で「それをやっていなければ絶対に合うことができなかった面白い目」に合うことができていれば、それこそが『最高な人生を送れている最大の証明』になるのだと思う。

 

 

圭吾さんこんにちは!

 

いつもごちゃまぜの家へ遊びに行かせていただいてありがとうございます!

 

かなり前になってしまったのですが、○○さん達とのタコパーの楽しい時間に思ったのですが、ごちゃまぜの家って独身とか主婦とかママとか肩書き一切関係なく、一生命体として関われるから良いなぁって思ったんです。

 

もう猫や虫すら会話に入れるんじゃないかってくらい。

 

普段、ママサークルだとか、婚活だとか、共通の肩書きや目的が無ければ集まりってない気がするのですが、ごちゃまぜはそういう括りがないのが良いですよね☆

 

でも肩書き関係無く集まれるのも、圭吾さんが肩書き無くいてくれるからですよね♡

 

みんなその肩書きの人を求めて来ているわけじゃないから。。

 

それってすごい事だなぁ。と思って改めて感謝しています!

 

鉄砲玉もいっぱい増えて、個性溢れるメンバーでますます楽しいですね♪

 

本当にありがとうございます!!

 

お返事は大丈夫ですので、お怪我が早く良くなりますように。。

 

○○○○

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。

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70万時間テレビの一環として「おはなをあげに、いかんばなんね」という己の財力が続く限りおはなをばら撒き続ける贖罪風味の企画を敢行しています。これまで32年間生きてきて「ああ、この習慣は死ぬまで続けたいなあ」と思える習慣が108個位あるのですが、そのうちのひとつが「おはなをあげる」というもので、植物のある空間はやっぱりそれだけでいい感じになるなあということを感じています。今日(※ と書いた時点で力尽き果て、実際は昨日になります)は、これから板橋経由で東京&秋葉原&吉祥寺&国領&仙川&新宿&渋谷界隈に向かう流れで、隙さえあらば各地を回遊している坂爪圭吾をひっ捕まえて「おはなをプリーズ!」とご連絡をいただけましたら(タイミングさえ合えば!)おはなを届けにあがります。当選倍率(?)はおよそ10倍ほどと言った感じになるのですが、そしてメールの返信がすごい苦手で結果的に無視をする形になってしまう可能性もおおいにあるのですが「それでも構わないよ!全然いいよ!」という器広めの方はお気軽にご連絡ください。

 

 

この企画を見てくれた女性N様から「12年間仲が悪かった兄に(仲直りの意味も込めて)おはなを届けてほしい」という依頼が届いた。なんだかいい話風の話にも思えたけれど、丹田にグッと力を込めて「それはあなたが直接やった方がいいと思います!」とお答えした。70万時間テレビの醍醐味は『積極的に死にに行く』ことにある(と思う)。毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさいという地上最強のアドバイスがこの世の中にはあるのだけれど、ほんとうに重要なことは(たとえめちゃめちゃ怖いことだとしても)第三者を介することなく自分自身の全身を賭するに限る。わたしはN様を応援する。応援するということは「成功することを祈る」とは少し違う。応援するということは「成功をしても失敗をしても大丈夫!【生きても死んでも大丈夫!】」だと、ひとつの人生を包括的に見届けることだと思っている(そして、自分も自分の人生を生き切ることだと思っている)。

 

【EVENT詳細】【70万時間テレビ特別企画】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

喪中委員長喪主が「あなたの人生を弔う」。

70万時間テレビ開催にあたり、関係者各位に「企画内容をひとことで説明することはとても難しいのですが、ひとり1企画以上を勝手に立ち上げ、勝手に開催をして、勝手に死にに行く【有終の美を飾る】ような流れになればいいなあと思っています。そして、それを見た面々も『あいつ、逝ったな…(自分も負けてられないな…)』的な善循環が起こることを期待します」的な旨を伝えた。70万時間を年月に変換すると80年となり、これは、およそ平均的な人間の寿命と同じになる。70万時間テレビの趣旨のひとつは「いまなら死ねる!と思える瞬間に立ち会うこと」であり、やりたいと思っていたけれど諸々の事情でなかなかやれなかったことなど、そういうことを実行するための機会になればいいなあ(そして、それを見たひとも刺激を受けて触発をされていくような機会になればいい)ということを思う。

 

普通、生きているとどうしても「うまくやるためにはどうすればいいか」的な思考の罠に陥る。が、70万時間テレビを通して「生きても死んでも別に構わないのだ」的な気持ちを自分の掌に取り戻し、過去も未来も一旦全部放り出して、この瞬間に生命を注ぐ。自信があるからやるのではなく「自信はないけどやる」感覚、成功するためではなく「失敗をするためにやる」感覚、傷つかないためにやるのではなく「よし、傷ついてやろう」と突撃をする時のようなあの感覚、私は、そのようなものにある種の清々しさ【凛とした美しさ】を見る。どんなにささやかなことでも構わないから、自分史上「これをやるのはちょっと怖いなあ!でも、やりたいなあ!」と思うことをやる。頭意識でごちゃごちゃ考えるのではなく、カラダで突破する。先日、長野県でお会いした地域振興関連の方が「アイデアは要らない。必要なのは、やる奴だ」的なことを言っていて、その通りだなあと思った。やったひとの話【己の体験談】は面白いけれど、やりたいと思っているひとの話【噂話】はつまらない(と思うことがある)。

 

おはなをあげる水面下で『(子宮委員長はるちゃんに対抗をしない形で)喪中委員長喪主』なる動きも進めている。喪中委員長喪主とは「あなたの人生を弔う」ための活動(?)で、ああ、このひとは慰めるよりも励ますよりも勇気付けることよりも話を聞くことよりも「一回弔う」ことのほうが有効だなあと感じた時に、わたしの中で芽生える人格のひとつという設定で、まったくうまく言葉にできないけれど「敵を弔い、己を弔えば、70万時間危うからず」的な営みになる。昨今のスピリチュアル界隈やカウンセリング界隈や自己啓発系の流行で「癒され過ぎて腐っている」ひとは多い(ような印象を受ける)。喪中委員長喪主は別ベクトルから攻める。古い自分を一回殺して、新しい自分になって生まれ変わる。慰められることも気持ちいいし、励まされることも気持ちいいけれど、同じように「一回スパッと斬られる」ことの中にも清々しさはあると思う。自分で書いていても何が言いたいのかわからないけれど、根本的に「喪中委員長喪主って言いたかっただけ」なのだと思う。

 

【過去記事】まずは自分を救え。 - いばや通信

 

わたり文庫『ゴサインタン

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、篠田節子ゴサインタン』です。こちらの本は、2年ほど前に熱海の家に遊びに来てくれた女性から「素晴らしい小説なので是非!」とお譲りいただいた最高の一冊です。内容を超絶乱暴にまとめると「捨てな祭(さい)」ということで、宗教家的な女性はあらゆる悩み相談に対して一言「捨てなさい」とだけ答えます。あらゆる問題を解決する万能のアンサーだなあと思うのですが、道に迷った時は『捨てる』こと、職場や学校や人間関係に疲れた時は『捨てる』こと、捨てることで逆に開く命があるのだということを示唆してくれる、素敵な素敵な一冊になります(説明が雑でごめんなさい!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

豪農の跡取り、柚木輝和はネパール人のカルバナと結婚したが、両親が相次いで死に、妻の奇異な行動で全財産を失う。怒り、悲しみ、恐れ、絶望…揺れ動き、さまよいながら、失踪した妻を探して辿り着いた場所は神の山ゴサインタンの麓だった。現代人の根源にある、魂の再生を力強く描く第10回山本周五郎賞受賞作。

 

篠田節子ゴサインタン』【文春文庫】

 

毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。

家のない生活をしていた頃、なによりも辛かったことは「横になれない」ことだった。疲れ過ぎている時は「棺桶でもいいから横になりたい」と思うことが頻繁にあり、逆に言えば「男にとっては家なんて横になれれば充分で、もしかしたら棺桶サイズでも充分なのかもしれない」とも思っていた。棺桶で眠るというのはなんだかとっても示唆的で、寝る度に死に、目覚める度に生まれ変わる的な雰囲気を醸し出すことができそうな気がする。そういう話を、昨日、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で行ったツイキャス配信でRちゃん(17歳の家出中男子)と話をした。家賃にお金をかけすぎると自由度は下がる(嫌な仕事もやめることができなくなる)。が、適当な家【寝床】を自作してそこに暮らせば、生きるために必要な金額は格段に下がる。仮に、17歳のRちゃんが折り畳み式のモバイル棺桶を自作して各地を遍歴し、出会った人々の風呂やトイレを使わせていただく日々を過ごした暁には、なにかこう「(普通だったら生まれない人間関係などを通じて)絵的に面白いものが撮れそうな気がする」ということを思った。

 

【音声配信】Recoded Radio まずは自分を救え。 - いばや #396081085 - TwitCasting

 

2017年の常識としては、まだ、親元を離れることはイコール「アパートを借りてひとり暮らしをする」とか「親戚の家にお世話になる」とか「就労先に住み込みで働く」などの手段が一般的になるのだと思う。が、これからは「親元を離れると同時にモバイルハウスを自作し、各地を遍歴しながら暮らし始める」的な若者は増えるような気がする。ひとり暮らしをするには親の仕送りを充てにする必要も出てくるが、そうなると「家族間の癒着を断ち切り難くなる」的な面倒臭さもある。そういう話をツイキャスでしたら、視聴者の方が「資材の面で協力できるかもしれません」という神様過ぎるコメントをくれた。これを聞いた我々は「貰い物だけで家を建てることはできないだろうか」と思い立ち、徐々に出来上がるモバイルハウス【モバイル棺桶?】の試作に取り組むことになった(もしも貰い物だけでそれなりにポップな家が作れるということがわかれば、Rちゃん的家出志願系男女も気軽に家出をしやすくなるような気がする)。

 

70万時間テレビの総合プロデューサー☆Pさんが、先日、70万時間テレビのオープニングソングなるものを作成した。歌詞を見た瞬間に「あほだなー!」とものすごい嬉しくなって、総合的に「全部ギャグなんだな」ということを思った。わたしは、多分、生きているということはコントみたいなものだと思っている(節がある)。家があるとかないとか、金があるとかないとか、仕事があるとかないとか、家族がいるとかいないとか、責任があるとかないだとか、そういうことは「実際はどうでもいい」ことなのだと思う。ただ、それらを(おままごと的な)おもちゃにして、笑ってみたりだとか、泣いてみたりだとか、怒ってみたりだとか、悲しんでみたりだとかをすることが好きな生き物が『人間』なのだと思う。社会的な役割なんていうものは実はただの幻想で、実際は「一匹の動物」に過ぎない我々ヒューマン。生きることで蓄積された執着やしがらみの薄皮を一枚一枚剥ぎ取るように、多分、今日も「恐れていることをやりなさい」という言葉を糧にするのだと思う。

 

 

 ◯70万時間テレビ2017オープニングソング

【TPD48 1st Albam / 700000HELP!!!!!!!】

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
ひまわり笑顔で君に会いたい!

どこからともなくはじまった
ぼくの70万時間が進んでる
残りの時間で何をしよう?

 

“誰かのために”と頑張りすぎて
うまくいかない時は誰かのせいにしてた

 

やる気が出たからやるんじゃなくて
やってみるからやる気が出るんだと
海のお兄さんが言っていた

 

あれもやりたい これもやりたい?
イデアばかり出すのはもうやめて
頭だけの自分には飽き飽きしてたね
そうだ 靴選びなんていいから
走りだすことからはじめよう

 

だから

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
ぼくの一番のファンになろう!

勝手に地球(ここ)からはじまった
きみの70万時間が進んでる
残りの時間をどう過ごす?

 

ホントは嫌なことだと思っていて
それを受ける自分すら嫌になってきてる

 

止まってもいいんだよ
だって心臓だけは動いてるから
何もしていないなんて嘘なんだ

 

ネガティブ好きな大人の噂
他人の失敗 蜜より甘い?
ポジティブ好きな若者増えた
永遠の幸せ それ造られた願い?
やっぱり波がある人生が楽しいよね

 

溺れたら

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
魂使い切って死にたいね!

 

逝ってみよう

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!

 

自分を助けたら
誰かも一緒に助かった!

 

※TPD48の皆さんは辛くなったときなどにこの歌詞でThe Beatles の名曲「HELP!」ふうに歌ってみてください & 引き続きどこかでご奉仕させていただいた様子を下のコメント欄に写真や動画などを貼って70万回目指してください(今こそメンバー全員の力を合わせるとき!!!!!)

 

こどもに喰われたおとなたち。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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まずは自分を救え。

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70万時間テレビとは、本家「24時間テレビ〜愛は地球を救う〜」に対抗をしない形で、いばや界隈の面々が停滞しがちな生命を発露する系の企画になる。根本に流れるテーマは「(愛は地球を救うとか言っている場合ではない!)まずは自分を救え」というものになる。この企画は、基本的に「まずは自分を救え」と言いたかっただけの内容になるので、この時点で既にゴールをしている【大きめの手応えを感じている】感はある。が、今年のテーマは「人類みな SCRAMBLE」ということになったので、俄然気合がはいっている。わたしは思う。固定されるからつまらない。限定されるからつまらない。コミュニティ【枠組み】なんてものを描こうとするからつまらない。もっとごちゃごちゃになればいいのだと思う。秩序を重んじるあまりに精神的な自由が奪われるくらいなら、多少破茶滅茶になっても構わないから、もっとめちゃめちゃに撹拌をしてしまえばいいのだと思う(ことがある)。

 

【EVENT詳細】70万時間テレビ 2017 〜まずは自分を救え〜

 

新陳代謝【古い自分を一回殺す】

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実は、この記事を書き上げて「よし、投稿!」という段階で全部消えた。20秒程度意気消沈をしたのちに、なう、音速で(要所だけかいつまみながら)書き直している。先日、長野県東御市に足を運んだ。10月に開催される天空の芸術祭の打ち合わせ(?)だ。我々いばやは「ごちゃまぜのアトリエ(仮)」的な作品を展示する予定になっているものの、人生はなにが起こるかわからないからもしかしたら全部おじゃんになる可能性もある。長野の夏はものすごく涼しく、蚊も少ないために最高だ。小諸のプルーンは絶品で、自然も美しく、道の駅などに売られている野菜も破格の値段(蕎麦屋ではナスが無料で配布されていた)で、ここで暮らしたいとさえ思った。

 

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森が綺麗で「宿っている…」と思った。地域おこしの一環として芸術祭が利用されることがある。いばや的な観点からものを言うと「(地域おこしとか言っている場合ではない!)まずは自分をおこせ」ということになる。私の中には「地域を元気に!」とか「日本を元気に!」という思いがほとんどない。そんなことよりも、端的に自分を楽しませ続けることさえできていれば、結果的に「自分がいる周辺のひとびとや地域全体は勝手に盛り上がる」と思っている。千葉県を盛り上げるためにディズニーランドにいくひとはいない(と思う)。ディズニーランドがたまたま千葉県にあったから足を運ぶだけで、けとして千葉県も潤う。そういうことなのだと思う(先日の怪我から鈍い痛みが続いていて、集中力が持続をしない。言葉をしっかりとまとめることができなくてごめんなさい!)。

 

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私とMAYUCHAPAWONICAの地元は新潟県で、過去に、東京えちごまつりという企画を一緒に開催していた。新潟をおもちゃにみんなで遊べたらいいなと思ってはじめたものの、参加者や関係者が増えまくった結果「なんだか真面目にやらなくちゃいけないアトモスフィア」が醸成されて、これはやばい方向に向かっているなあと思った。関係者のみなさまに「俺はあんまり新潟を盛り上げたいとか思っていなくて、ただ、自分が面白いと思うことをやりたいと思っている」的なことを伝えたら、見事に伝わらなくて「そんなことは無理だよ」とか「自分は公務員だから、そういう趣旨なら一緒にやることはできない」ということになって最終的にみんないなくなった、が、MAYUCHAPAWONICAさんだけは「いいじゃん、やろう!」という風に賛同をしてくれて、自分たちがやばいと思うことをやろうと思って『(やばいを逆から読んだだけの)いばや』という活動(?)をはじめることになった。開始当初はお前らはバカだとかクソだとか散々言われたけれど、なう、それでも元気に生きている。時代が追いついてきてくれたからなのか、いまでは理解してくれるひとも増えているけれど「自分たちが自分たちに最初に飽きる自分たちでいたいね」ということで、新陳代謝を繰り返している。

 

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多分、いばやの強み(というか醍醐味)は「死にに行くこと」にあるのだと思う。普通、町おこしでもなんでも「自分たちが滅びないために、どうすれば生き残ることができるか」的な思考をする。しかし、我々は『延命措置に未来はない』ということを思う。生き延びようとするよりも、死にに行く(自分を一回殺して、新しく生まれ変わる)方向に次世代の萌芽の可能性を見る。というか、端的にそっちの方が『面白い』と感じる。普通、生きている限り「死にたくない」と思う。が、一回死ぬことで未練タラタラだった何かが吹っ飛んで、結果として「清々しさ」を覚えることは多い。誰かを救うためとか、何かを元気にするための活動にはあまり興味を持つことはない。そんなことよりも「どうすればこの状態を遊べるか【笑えるか】」ということに、多分、私達の関心はあるのだと思う。

 

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ヤマトタケル感を意識した髪型。

 

わたり文庫『木を植えた男』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ジャン・ジオノ著作『木を植えた男』です。こちらの本は、愛するムラキテルミさんから数年前に譲り受けた最高の一冊になります。静けさを持つ、極上の一作になります。内容とは関係ないけれど、著者のジオノさんは十歳頃の時に父親から「これでできるだけ遠くまで旅をしてきなさい」と5フラン(当時としては大金)を渡された。このお金を使って、ジオノ青年は遠くまで旅をして結果最高の体験をすることになるのだけれど、このような子育ての方針は素晴らしいなと思いました。自分もこどもを持つ日がきたら、こういう形で(愛と共に)野に放ちたいと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。 

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

かれ(ジャン・ジオノ)は晩年、あるインタビューに応えて、語っている。小説家の条件とは、「第一に歴史(イストワール)を語る人間であること、第二に創られた物語(イストワール)を語る人間であること、第三に創られた物語を語るときに崇高な人間であること」と。つまり、かれにとって、事実を敷き写しにすることは、真の作家の仕事ではなかった。

 

しかし、さらにかれはこうも語っている。「わたしはすべてを創作するように心がけた。しかし、実在した何らかのものを語ることによってである。なぜなら、無から創造するなど神さまにしかできないことなのだから」と。かれは現実のすぐ隣りに身を置き、時を隔てて見つめなおしたものを描いたのである。

 

ジャン・ジオノ『木を植えた男』【あすなろ書房】訳者あとがきより引用

 

まずは自分を救え。 

いま、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で「交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)」という企画を敢行している。先ほど、これからカレーを20人前つくりにいきますという連絡が届いた。現在、菊名の家には大量の食材と岡山県から届いた(最高にうまい)大量の桃などの果物が転がっている。とてもじゃないけれど、自分ひとりでは食べきることはできない。この場所は足を運ぶのに普段は使わない勇気を必要とする場所だとは思うけれど、飛び込んでみたら飛び込んでみたで意外とどうにかなるのが坂爪圭吾という人間だと思う。時間のある方は、お気軽に遊びにいらしてください(連絡先はブログ末尾に記載をしてあります)。

 

【過去記事】変わらないために、変わり続けよう。 - いばや通信

 

 

療養中なのに、まるで療養できていない。ある程度の人の出入りがあり、いま、隣の部屋ではたこ焼きパーティーが行われている。が、いろいろな目に遭えることはうれしいことだなあと思う。SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】は70万時間テレビの事務局も兼ねる。今後は動画配信なども(遊びにきてくれたひとを道連れにしながら)やりたいと思う。SCRAMBLE HOUSE TOKYOにはルールがある。それは「無理をしない」ということだ。この場所は、何をしてもいいし、何もしなくてもいい場所になる。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいいし、何かを食べたければ何かを食べればいいし、横になりたければ(当たり前のことだけれど家主の許可を取ることなんて必要ないから)横になればいい。これまでの32年間生きてきて、自分をご機嫌に保つことの重要性を痛感している。わたしの役割は「自分をご機嫌に保つこと」であり、誰かをもてなすために自分のご機嫌を押し潰すようなことはしない。あなたが自由であるように、わたしも自由であるのだ(こうして一々言葉にしていないとすぐに忘れてしまう)と思っている。

 

 

何をしてもいいし、何もしなくてもいい。ただ、我慢だけはするなよと思う。そして「欲しいものは獲りに行け」とも思う。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。許可がなければ動けない人間にはならないこと。最初からすべては許されているのだということ。やめてほしいのならばやめてほしいのだとしっかり伝えることができる関係性であること。そのなかで「自分が(やらなきゃ!ではなく)やりたいとも思ったことをまっすぐに敢行できる場所」として、これから作り出す空間が機能をすればいいと思う。今日も人の出入りは多い。隣の部屋では謎に盛り上がっている声が聞こえる。わたしは隣室の個室にこもる。みんなで盛り上がりたい人はみんなで盛り上がるだろうし、坂爪と話したいと思っているひとは(ちょっと勇気がいるかもしれないけれど)個室の扉をノックしてくれることだろう。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。欲しいものは自分で獲りにいくこと。誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、その副産物として、勝手に周囲の人も照らす光を帯びるようになるのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BXsGJ83DTtO/

残暑お見舞い申し上げます。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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変わらないために、変わり続けよう。

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日の出前に目覚めて顔を洗い、濃いめの珈琲を軽く飲み終えた後に自転車に乗るかジョギングをする。昇る朝日を眺めながら1時間ほど体を動かして家に戻り、水のシャワーを浴びて「うおー!」と叫ぶ。塩分補給にマグマ塩を舐めるか、庭に実っているきゅうりやトマトを丸かじりする。午前中は文章などの創作の時間に充て、午後はひとと会ったり街に出かけたりする。暗くなると同時に眠る準備にはいり、読書をしたり(焚き火ができるときは焚き火をしたり)ロウソクの灯りを眺めたりする。こんな感じで一日が終わる(なんて最高だなあとは思っているのですが、実際の達成率は20%程度です!)。今日、これから車で長野県東御市に向かう。まだ確定した訳ではないけれど、10月に開催される天空の芸術祭に我々いばやが「アーティスト集団」として召喚をされることになるかもしれない(ならないかもしれない)。

 

 

と、ここまで書いたところで交通事故に遭った。自転車に乗っていた最中、諸事情が爆発をして30メートル近く吹き飛ぶ出来事があって、全身打撲で歩くこともままらない(が、ブログを更新できる程度には元気です!)。全身が痛いと生きることが辛い。生きることが辛いと後ろ向きになりかねないために、これはもうネタにするしかないと開き直って「交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)」という平凡な企画を立ち上げた。昨日も早速複数名が遊びに来てくれて(貴重な差し入れを提供していただいて)九死に一生を得た。吹き飛んだ先に対向車が来ていたら確実に死んでいたような気がするので、生きていてよかったなあとこころから思う。死を強烈に意識すると、生が輝く。身体は痛いけれど生きていること(「まだまだ生きていられるのか!」と思えること)はとっても嬉しい。お盆のこの時期、親戚の人たちと会うのはちょっと面倒臭いし気がひけちゃうなあという貴殿のご参加(?)をお待ちしております!!

 

【EVENT詳細】交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)。

 

TPD48【鉄砲玉48】のいま。 

TPD48の活動も粛々と続いている。TPD48【鉄砲玉48】とは「あらゆる依頼に基本無償でお応えする捨て駒の集合体」のことで、金はないけど時間とエネルギーはあります!的な若者たちを集めて6月から実験的にはじめている試み(ある種のエンターテイメント的活動)になります。わたしは元々たけし軍団が好きで、自分の周辺にもこんな集団(?)があったら楽しくなるだろうなあと思っていたので、あとはやりながら考えよう!【見切り発車で死のう!】ということで出発した。最初はどうなることかと思っていたものの、意外とどうにかなっているみたいで「やるじゃん!」と思う。人生の醍醐味はなにが起こるかわからないことにあると思うのだけれど、あろうことか鉄砲玉のひろきさんは最近ツーシートのベンツ(オープンカー!)を乗り回していた。鉄砲玉の分際でベンツに乗るとは何事か!と、軽く嫉妬をした(こういう展開は見ていて楽しいので、ああ、いいなあという気持ちになります)。

 

 【BLOG】ふじわらひろき - ソンス(センスのある損)をしよう。 - Powered by LINE

 

鉄砲玉の核弾頭たくちゃんは、神奈川県で譲り受けた青春18切符を片手に現在は遠路はるばる熊本県にいる(らしい)。鈍行でよくやっているなあと思う。馬鹿みたいに移動を続けているひとを見ると、なんだかこっちまで移動をしているような風が吹く。実際にやっているひとを見ると「やってるねえ!」と思う。普段やらないことをやると、普段出会わないひとに出会う。ひととの出会いは「個人的なセフティネット」を織り成す網の目になり、最悪の場合はここに行けばなんとかなるという安心感を生む(ことがある)。自分がやりたいと思っていたことをやるのではなく「誰かがやって欲しいと思っていること」に応える形になるために、鉄砲玉のみなさまは『自分では発想をすることもなかった』作業をすることもある。結果、広範囲に渡るスキルを獲得する。自分の役割を限定付けないことで、結果、自分という存在の可能性が広がったりすることがある(まったく広がらないこともある)。

 

【BLOG】鉄砲玉依頼でスナックのカウンターの中に入って接客🍷: 2017.8.5 - 私は鉄砲玉。

 

極論、笑えたらいいのだと思う。どれだけ無駄、どれだけ非合理、どれだけ非生産的なことであっても「振り返った時に笑えたら」それでOKだと思う。鉄砲玉のメンバーは随時募集をしている。先日、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に「鉄砲玉にはいりたいです!」と話す若者が来た。これは素晴らしい心意気だと思ったので、わたしは「鉄砲玉のことはわたしよりもたくちゃんやひろきさんが詳しいので、彼らを呼び出すなり実際に会いに行くなりして、詳しいことは彼らに聞いてみてください(そして「いけるな!」と思った場合は、あとは勝手にはじめてください)」とお願いをした。あと、全然関係ないけれど菊名の家は「365日炊き出しが行われている」ことを理想としているために、手始めにまずは週一回からでも「炊き出し系イベント【無料でメシが食える機会】」を創出していきたいと思っている。が、わたしは料理があまり得意ではない。どなた様か「料理が好きだけど食べてくれるひとがいないから普段あんまりできていないのだけど、食べてくれるひとがいるならこれはもう是非是非料理をしたいです!」的な方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡いただけましたら幸いです。

 

【連絡先】LINE「ibaya」

 

わたり文庫『森と氷河と鯨』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』です。こちらの本は、SCRAMBLE HOUSE TOKYOに遊びに来てくれた方が「素晴らしい本なので、是非!」ということで贈呈してくださった一冊になります。星野道夫さんの文章に触れていると、なにか大きな自然につつまれているような感覚、自分の内面にある静けさ【自然】に還ることができるような感覚を覚えます。この感覚は素晴らしい。掲載されている写真も素晴らしく、焚き火を眺めているインディアン・ボブさんの表情にはやられてしまいました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、青森県にわたりました ※※※

 

ぼくは、深い森と氷河に覆われた太古の昔と何も変わらぬこの世界を、神話の時代に生きた人々と同じ視線で旅してみたい ー アラスカに伝わる“ワタリガラスの神話”に惹かれて始まった旅は、1人のインディアンとの出会いで思いもよらぬ方向へ導かれる。目に見えないものの価値を追い続けた著者による魂の記録。解説・池澤夏樹

 

星野道夫『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』【文春文庫】

 

変わらないために、変わり続けよう。

星野道夫さんの親友でもあるシリア・ハンターさんの言う通り「Life is what happen to you while you are making other plan.(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)」なのかもしれない。自分という人間は、自分の人生に対してあまり計画的になることができない。瞬間瞬間において、場当たり的、行き当たりばったり的な生き方を続けてきた。金も家も仕事もなくなった時は「それでも生きていけるか試してみよう!」と閃き、結構いろいろなひとに罵倒をされながらも『家のない生活』をはじめ、結果的に現在は熱海と菊名に二軒の家がある(テントも含めると三軒ある)。別に狙ってやった訳ではなく、ただただ、自分のこころが「こっちの方が面白そうだな」と思う道を選んで来ただけに過ぎない。この数年間の日々で学んだことは『人生とは、自分の意図でコントロールできるほど生易しいものではない』ということで、逆に言えば『自然な流れに抵抗することなく、身を委ねて生きればそれなりの出来事に遭遇できる』ものだと思った。

 

現在のわたし【坂爪圭吾】に肩書きはない。坂爪圭吾という人物を見たひとから、例えば「あなたはアーティストですね!」とか「あなたは吟遊詩人ですね!」とか「あなたの生き方はロックですね!」とか「あなたはダメ人間ですね!」とか「あなたは宗教家ですね!」とか、様々な言葉で形容をしていただける。わたしは、この状態をとても気に入っている。わたしの生き方には名前がない。名前がないということは、固定をされないことになる。わたしは何者でもないからこそ、わたしは何者にでもなることができる。自分が存在をしている場所、自分が置かれている状態【一緒にいるひと】によって肩書きが変わるような在り方、毎日職業が変わるような生き方は面白いなと思う。自分で自分を限定づけないこと、多分、何者でもないからこそ『何者にでもなることができる』のだと思う。

 

決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分はこういう人間だとか、あのひとはこういう人間だとか、限定的な職業や役割や関係性などの小さな枠にはめてしまうのではなく、人間全体として生きるということ、生命全体として生きるということ、固定的な枠組みを超えて『流動的な存在である』ということ。生きるということは、多分、動いているということだ。動いているということは、多分、流れているということだ。わたしたちの身体は『水』でできている。淀まないように、濁らないように、ひとりひとりの身体の中を血液の川が流れている。星々の流れと同じように、歳月の流れと同じように、変わらないことがあるとすれば、それは「変わり続けていく」ということになるのだと思う。変わり続けていくのだというこの一点に支えられて、今日も、この星は回り続けているのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BXlxUGfDnY6/

変わり続けよう。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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明日死ぬとしたら、なにを語るだろう。

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ハンモックで生きる練習をしている。わたしは恐ろしくチキンなため、不測の事態に備えたサバイバル能力を高める系の生き方【遊び方】を好む傾向がある。なにかしらの事情で家や金(いまもない)や仕事(いまもない)や社会的信用(いまもない。なにもないじゃないか!)を失った時に、できるだけ冷静で在りたいと思う。ハンモックテント【筆者は『ヘネシーハンモックのバックパッカー』を使用】の素晴らしいところは、なによりもまず『揺れる』ことだと思う。幼少期の揺籠体験が思い出されるからなのだろうか、ゆらゆら揺られていると(たとえ眠気はなくとも)数十分で眠りに落ちる。あとは「適当な二本の木があればどこでも寝床になる」という点で、適当な木が見つからない場合も、雨よけのタープを器用に張ればツェルト風のシェルターになる。地肌がゴツゴツしている場合の寝心地は快適とは言えないけれど、これも「どこでも寝れるようになるための修行【遊び】の一種」だと思えば楽しむことができる(まったく楽しめないこともある)。

 

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数日前の深夜2時頃、横浜界隈が地震で揺れた。たまたま目が覚めていたわたしは、あ、地震だと思って精神的に身構えた(身体は横になったままだった)。揺れはすぐに収まったものの、ああ、当たり前のことだけれど人間死ぬときは死ぬんだよなということを思った。常日頃から「いつ死んでもいい」などと大言壮語を吐いておきながら、やはり、震災に見舞われた場合などは「死にたくない。生きていたい」などと全然思っている自分を見る。死を強烈に意識することは、時に、最高のスパイスになる。明日死ぬとしたら、今日、わたしはなにを語るだろうか。これから語ろうとしていることは、遺言に足る言葉になり得るだろうか。なり得るかどうかはわからない、ただ、あらゆる言葉は「これが最後の言葉になるのかもしれない」と思いながら使いたい。死にたくないと思うのは、多分、伝えきれていないなにかがあるからだ。それは「さよなら」という言葉であり、あなたに会えてよかったとか、愛しているとかいないとか、あなたのおかげで最高な人生になったとか、多分、生きていたいと思うのは「伝えていきたい」と願うからなのだと思う。

 

【過去記事】楽になる道が正解だよ。 - いばや通信

 

誰もが内面に静けさを抱えている。

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SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】にカブトムシが来た。横浜のど真ん中にこんな生き物が生息していたとは露知らず、小一時間ばかり戯れていた。ひとりきりの時間も、昔より孤独を覚えなくなった。人間の孤独を慰めるものは、なにも人間に限らないのだということを思う。自分の中で、自然を見る目を変えるささやかなルールを設けた。まるで『虹が飛んでいる』みたいに色彩豊かな蝶を目た時は、なにか良いことが起こる前兆だと思うようにした。幸福のシンボルとしてお馴染みのとかげを見た時は「よっしゃー」と思うし、小鳥がちゅんちゅんやってきた時は「肩の力を抜きなさい」とメッセージを伝書しているのだと認識するようにしている。雨の音や風の音に耳をすませる。もしも、雨や風がなにかを語っているのだとしたら、なにを語っているのだろうか。そういうことを考えている時間は、多分、ひとりではない。雨も風も花も鳥も、言葉としてはなにも語らない。なにも語らないからこそ、時に「なによりも雄弁である」と感じる(こともある)。

 

誰もが内面に静けさを抱えている。居場所と呼ばれるものは、場所ではなくて人間のことだと思う。他の誰かではない『自分自身のこころ』のことだと思う。騒がしい頭意識の裏側には、みな、静寂で美しい世界がある。居場所【ホーム】とは、自分の外側に求めるものではなく、多分、自分の内側に発見するものだと思う。だからこそ、いま、必要なのは「静かになれる場所」だと思う。ひとりきりになれる場所、沈黙を共有できる場所、誰かといるときは「まるで世界にふたりきりになれる」ような気持ちになる場所、沈黙を共有できる場所、そういう場所が(とりわけ都心部には)必要なのだと思う。英語に「インナーモスト」という言葉がある。『最も深い部分』を意味するこの言葉に、わたしはコミュニケーション全般の醍醐味を感じる。誰もが内面に静けさを抱えている。その静けさに触れることができた時、わたしは、言葉にならないうれしさを覚える(ことがある)。

 

最近、ロウソクにはまっている。夜、明かりを消してロウソクを灯す。ロウソクの灯りはまるで生きているみたいで、静かな安堵感を覚える。古民家で灯せば山小屋のような雰囲気になり、夜に電気はいらないんじゃないだろうかという気持ちになる。過剰な照明のもとで交わされる会話には、過剰ななにかが混入する(ような気がする)。落ち着いた雰囲気の中で話をすれば、会話の内容も自然とインナーモストなもの【自分の内面から湧き上がるもの。自分の内面を掘り下げるもの】になる。ひとがたくさんいる時も、少数で食卓を囲む時も、ひとりきりでいる時も、内面にある静けさにアクセスすることができるような、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】がそのような空間になればいいと思う。

 

わたり花瓶『MoMA

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菊名の家はTPD48の拠点【フルマラソンのエイドステーション的存在】としても使われている。最近、TPDの私物が家に増えてきたので「明日までにある私物は全部処理をします」という旨をメンバーに伝え、強制断捨離を敢行した。不要物は捨てたりご希望される方にあげたりして、おかげさまで家は非常にすっきりとした。が、まだ少しだけ残りの財宝が眠っています。まずは『MoMA』のビニール製フラワーベース×2。光の屈折が美しく、ビニール製なので割れることもなくお子様のいる家庭でも安心。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの花瓶は、新潟県にわたりました ※※※

 

わたり下駄『桐』

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続いては「女性用の桐下駄(23〜24.5センチ)」です。なぜか下駄箱に箱入りで眠っていたので、必要とされる方に無料でリリースをいたします。ご希望される方は、非常にお手間ではありますが坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの下駄は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたり革靴『PRADA

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続いては『PRADAの革靴』です。一足も靴を持っていなかった数年前のわたしを見かねた神様が「これを持って生きなさい!オフィシャルな場面とかもあるでしょ!」とお譲りいただいたものになるのですが、この数年間一回も履くことはなかったので「今世は、オフィシャルとは無縁の人生になるのだろう」ということで必要とされる方に無料でお譲りします。靴のサイズは26センチ(自分には小さかった!)です。非常に良好な状態で、なんというかこの品物をくださった方が最高に素晴らしい方なのでそういった意味でのご利益(?)も期待できるかと思います。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

※※※ こちらの革靴は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたりアンティーク『椅子』

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最後は、群馬県在住の美容師の方から譲り受けた「アンティークの椅子(昔、床屋で使われていたもの)」です。ずっしりとした重量感が半端なく、昔風の家具を愛するひとには最高の逸品になると思います。座る部分が若干壊れているというか凸凹になっている(座る分には問題なし!)のですが、それも愛嬌のひとつだと思える方に無料でお譲りいたします。ご希望される方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください(無料で郵送をいたします。が、実施に取りに来ていただける方を優先します!)。

 

※※※ こちらの椅子は、神奈川県にわたりました ※※※

 

わたり文庫『ロングトレイルという冒険』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、加藤則芳著作『ロングトレイルという冒険』です。著者はアメリカにあるアパラチアン・トレイルという全長3500キロ(!)もある道のりを歩いた経験の持ち主で、世界には半端ないひとやものやことが大量にあるのだなあと嬉しくなりました。他にも、日本には(知名度が低すぎて誰にも重要視をされていないものの)世界的に有名な国立公園が何箇所もあるそうです。日本中の国立公園(公園とはいうものの、なんというか「日本を象徴する最高の自然」という意味で使われている言葉です)を遊歩するのも楽しそうだなあ、などと夢想をします。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

何日も何十日も、大自然の懐でそのような生活を続ければ、人はだれでも謙虚になれる。日々、最小限の水と燃料と健康でいられるだけの最小適切な食料とをバックパックに詰めて歩けば、すべてのものがいとおしいものとして、心の壁に染みわたってくる。朝と晩の2回、450ccのコッヘルにそれぞれ一杯だけお湯を沸かす。それでフリーズドライを食べ、スープを飲み、コーヒーを飲み、歯を磨き、コッヘルは拭くだけ。歩きながらの水分補給は別とすれば、たった2杯の水で毎日を生きてゆく。食べ残しは絶対に出さない。残り滓を地面に捨てることもしない。むろん、歯磨き粉も洗剤も使わない。可能な限り自然に負荷をかけないで生きていくテクニックを、歩くという生き方のなかから学び、それを街の生活にも生かし、実践していく。 

 

加藤則芳『ロングトレイルという冒険』【技術評論社

 

明日死ぬとしたら、なにを語るだろう。 

先日、菊名の家で「家族」をテーマにトークイベントを開催した。広い意味での『家族会議』的な意味合いも含まれていて、登壇者だけが話すのではなく参加者の方々の話こそ聞きたいと思っていた。前回の記事にも書いたように「天涯孤独になってもいい」という覚悟で性転換をされた方の話もあり、大袈裟な言葉になるけれど「たまたま同じ場所に居合わせたひととでも、自分の中心にある話ができる限り『だれもが家族になる』のではないだろうか」と思った。この日、富山からひとりの女性S様がはるばる足を運んでくれた。S様には両親がいない。唯一の血縁であるお祖母様は現在危篤の状態にあり、それこそ「天涯孤独になりそうです」ということを事前に話していた。彼女との出会いは数ヶ月前、全国の何処でもおはなを配りにあがりますという企画をやっている時に、S様から「もしよかったら富山県に来てください。おはなが欲しいです」と連絡をもらったことがきっかけになる。 

 

 

後日、S様から連絡が届いた。そこには「家族の話を聴けたり、念願のみっつと話せて良かった」ということや「夜中の1時半に祖母が旅立ってしまって、ごちゃまぜの頭でメールの乱文すみません」ということ、そして「祖母が重篤な状態にも関わらず菊名へ行くという勇気をこれからも大事にしたいなぁと思います」ということが書かれていた。わたしが言葉にすると陳腐なものになるために、S様に了承をいただいてその全文を最後に引用させていただきます。ひとにはそれぞれの事情があるのだな、と思う。そして、誰もが事情を抱えながら、それでも生きていこうとする姿の中に「美しさ」のようなものを覚える。トークイベントの最中も、参加者の方々の話を聞きながら「素晴らしいな。人間って素晴らしいな」と思うことが何回もあった。なにが正しいとか、なにが間違いだとか、そういうことではなく「無様でも、不器用でも、精一杯に生きようとしている姿は、どのようなものであれ生命に輝きを与えるのだな」ということを思った。

 

 

明日死ぬかもしれないのだから、やりたいことをやろう、この瞬間を大切に生きよう、愛するひとには愛していると伝えよう。そのように語る言説は無数にある。同時に、いまを生きるということは、時に「刹那主義」だと悪い意味で使われることもある。わたしは「自分のこころを込める限り、刹那的にはならない」ということを思う。こころを込めるということは『種を撒く』ことに似ている。これから自分がやろうとしていることに、自分なりに精一杯のこころを込めることができた時、その営みのひとつひとつは『種』になる。その種のすべてが芽を出すとは限らないけれど、いつの日か、それをしていなければ絶対に遭遇することのできなかった果実を目にする瞬間が、必ずある。自分でも忘れていた頃に花を開く奇跡を目にする瞬間が、必ずあるのだと思う。こころを込める限り、刹那的にはならない。自分がこれからやることのひとつひとつが、そのまま自分の遺言になり得るような、そういう生き方をしたいと思う。

 

 

 

こんにちは。


この前はありがとうございました。

 

坂爪さんのブログを読みはじめてから、わたり文庫を送って頂いたり、富山に来て頂いたり、私が菊名へ行けたり、生きてるって本当に素晴らしいなぁ。何が起こるかわからないから楽しい。

 

本当にありがとうございます。


家族の話を聴けたり、念願のみっつと話せて良かったです。


みっつといろいろ話せて良かった。また話したいなぁ。ありがとう。

 

ゆっくりと振り返りたかったのですが、夜中の1時半に祖母が旅立ってしまって、ごちゃまぜの頭でメールの乱文すみません。

 

祖母が重篤な状態にも関わらず菊名へ行くという勇気をこれからも大事にしたいなぁと思います。

 

映画のモアナで、おばあちゃんとモアナの別れのシーンがあるのですが、おばあちゃんは「おゆき」って言うんです。でもモアナは躊躇する。

 

おばあちゃんはまたこう言うんです。「どんなに離れてても、おばあちゃんはいつもそばにいるよ」

 

そしてモアナは勇気を出して、おばあちゃんから離れて自分の道を走り出す。

 

それがシンクロして、菊名へ行くことができました。おばあちゃんありがとう。無事に行けたし待っててくれたんだね。

 

別れは悲しいけれど、そばにきっといて見守ってくれている。

 

両親を見送る時は罪悪感というか、悲しみだったけれど祖母は感謝というか、生きていてくれてありがとう。育ててくれてありがとう。家族でいてくれてありがとう。孫でいさせてくれてありがとう。様々な出会いの中で恐れから感謝になれて本当に良かったと思います。


この前の話で天涯孤独という言葉が出ていて、私は自分は少し前までそうだったし、恐れていました、ばぁちゃんがいなくなったらどうしよう。置いて行かないで。さみしいよ。でも、その気持ちを感じきって向き合って、さらに菊名まで行ったら、なんだか私は全然孤独じゃないなぁって。

 

みんな何かしら抱えているし、血の繋がりを超えた人と一緒にいれば孤独じゃない。

 

そう私が思えたから、ばぁちゃんは安心して旅立てたのかなぁと思います。


この前はお花ありがとうございました。

 

祖母にお花をあげれて嬉しかったし、家の玄関にずっと飾ってたんです。

 

そしたらお花は大往生し、実は綿毛になり種を残していきました。祖母も花のように大往生し私に勇気の種を残していったと思います。


ブログ読んでリフレッシュできました。
ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 


◯◯◯◯

 

https://www.instagram.com/p/BXSelAWDLA9/

何もなくても大丈夫。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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楽になる道が正解だよ。

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自分の連絡先や家や住所や財布の中身(?)を公開していると「変なひとは来ないのですか?」と5億回ほど尋ねられる。これに対する回答は20種類くらいあって、都度都度「来るなら来いと思っています」とか「人間に対する信頼の問題だと思います」とか「そんなに来ないですよ」とか「丹田に力を込めることで乗り越えています」とか「結界を張っているので大丈夫です」などと答えている。今回は、この『結界【結界の張り方】』について思うことを書きたい。いま、神奈川県横浜市港北区にある菊名という場所でSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】の活動(?)をしている。これまでは管理人としてえりか姫やひとみさんに常駐をしてもらっていたけれど、これからはわたし【坂爪圭吾】が管理人になる。なぜか。最大の理由は「結界を張るため【結界を張り直すため】」というものになる。 

 

 

そのため、熱海や菊名の家の利用をご希望される方は、誠にお手間ではありますが(8月いっぱいは)事前に坂爪圭吾まで直接ご連絡をいただけると助かります。もちろん、連絡はウルトラ直前(家に来る1時間前とか)でも構いません。LINEからご連絡をいただけると返信が早いです。基本的に「家を見てみたい」とか「坂爪に会えるものなら会ってみたい」程度のご要望であればタイミングさえあえばいつでもご対応できるのですが、宿泊希望者が重なると布団の数の限界で眠れないひとが出る(この前は、夜遅くに家に来たらみんなが寝静まっていて気が引けてしまったので、玄関で寝たという20代女子がいたそうです!可哀想な20代女子!)可能性があります。これは非常に良いタイミングだということで、一回『交通整備』的な意味合いも込めて結界を張り直します。それでは「結界を張る」とはどういうことなのか。わたしは、それを『(そこはかとない)神社感を醸し出す』ことだと思っております。

 

※※※ 坂爪圭吾のLINE連絡先 ※※※

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神社感とは何か。

熱海の家を見ていただいた方には察していただけると思うのだけれど、築90年のこの家に来たひとは「まるで神社みたいですね」的な感想を述べる方がべらぼうに多い。 ひとによってはなんだか居心地が悪い場所なのかもしれないけれど、ひとによっては「まるで神社仏閣に足を運んだ時のようなこころの安らぎを覚えることができる」という点において、わたしは熱海の家を愛している。個人的に、18ヶ月ほど暮らした熱海の家は「すでに結界を張り終えている」という手応えを覚えている。それでは、ここで言う『結界』とは何か。わたしは、結界を張るとは『神社感を醸し出すこと』だと思っている。神社には、空間全体の雰囲気から「ああ、ここは静かに過ごす場所だな」とか「大きな声を出して騒ぐ場所ではないんだな」ということが伝わってくる(ものだと思う)。決して『騒ぐな!』とか『静かにしろ!』と言われたから静かにするのではなく、その場所の空気感を通じて「ああ、ここは静かに過ごす場所だな」ということを感じ取ることができる場所。わたしは、このような神社感を醸し出す空間を目指す行為を『結界を張る』という風に呼んでいる。

 

大前提として、わたしはルールを設けたいと思わない。静かにしろとか言いたくないし、部屋や棚や洗面台の整理整頓をしろとかも言いたくない。しかし、静かにして欲しいとは思っているし、家を大切に使って欲しい【次に使うひとのために使って欲しい】とは思っている。究極的な問題は「強制されて何かをやるのではなく、自ずから『そうしたくなる』ような空間を目指すこと」だと思っているものの、なう、菊名の家は非常にとっ散らかっている。神社感はない。ただの「古い家」になってしまっている。これではいけない。これでは悪霊が取り憑いてしまう(大袈裟!)。取っ散らかると結界の効果は薄れてしまう【家に不要なものが溜まり始めたり、怪しいひとが来たり、生けた花が音速で枯れるようになる】ために、よし、ここは一度大々的な大掃除をしよう!ということになった(こんな説明で伝わるのだろうか…こんな説明でも「わかるよ!わかるよその感覚!」と思ってくださる方を坂爪圭吾は敬慕いたします)。

 

家を整えることは大変である。ここ数日(というか数ヶ月)、掃除ばかりをしている。草抜きをしたり、壊れた用具を修繕したり廃棄したり、屋外の作業では蚊に刺されまくっている。ものを持つことは恐ろしいことですねと話すスナフキン先輩の至言が脳裏をよぎるが、同時に、ある程度の神社感を醸し出すことに成功した時の達成感は大きい。これからも頑張りたいと思う。これからも頑張りたいとは思っているものの、元来末っ子気質のわたしはすぐに投げ出したくなる(誰かにやってもらいたがる)傾向がある。ここは正念場である。こうして文章化をしながら自分のケツを叩いている。もちろん、大掃除中もSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】は誰でも大歓迎な状態を続けたいと思っている(理想的には一対一で話すことが自分は好きなんだな、と最近は思う)ので、何かあればお気軽にご連絡をください。大掃除とは言ってもそんなにやることが大量にある訳でもないので、遠方に呼ばれた際には軽めのフットワークで何処にでも行きます(最近はトークイベント出演に強目の関心があります。なにかありましたらいつでもお気軽にお声掛けください!!!)。

 

【過去記事】家族の問題をクリアすると、人生はボーナスタイムに突入する。 - いばや通信

 

わたり文庫『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、高村友也著作『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』です。まだ読み始めたばかりなのですが、高村さんの文章は非常にすんなりと入って来て非常に心地が良いです(好きです!)。高村さんは、神奈川の河川敷の土地(それなりに市街地で便利)を11万円の破格で購買して暮らしたりしている方なのですが、風変わりなライフスタイルと冷静な知性がとっても素敵です。我々SCRAMBLE HOUSEも、ごちゃまぜの家ならぬ『ごちゃまぜの土地』的なサムシングを世界の何処かで使わせていただけないものだろうか、なんてことを妄想します。自由に使える土地があったら楽しそうだなあ…ノルディスクのテントを張りたいなあ…河川敷なら『モバイル水力発電』とか発明できないだろうか…焚き火語りもしたいなあ…などなど。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、富山県にわたりました ※※※

 

僕が初めて河川敷に来たとき、堤防にはペットボトルやらビニール袋やら釣り道具やらが散乱していた。僕は「自分の家の周りが汚いのは嫌だ」というまったく自分本位の理由から、定期的にゴミ拾いをするようになった。

 

あるとき、トングとゴミ袋を持ってうろうろしていると、よく堤防に散歩に来ているおばさんとすれ違った。おばさんはそれまで、僕のテントが気になって仕方がないが見て見ぬ振りをしているという雰囲気だったが、僕がゴミ拾いをしているのを見て初めて警戒心が解けたのか、「住んでるの?」から始まり、二言三言話しかけてくださった。

 

身の周りをきれいにしようとする姿勢を見せるのは「害のある人間ではない」ということをアピールするためにいくらか有効らしい。ー 高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』【同文館出版】 

 

楽になる道が正解だよ。

昨日、熱海の家で開催されたわたり食堂【0円食堂】には、全国各地から様々な方々が足を運んでくれた。宮崎県から車の屋根にテントを装着して小さなこども三人と一緒に遊びに来てくれたお母さん(非常に可愛らしい外見なのに内面はファンキー!楽しそう!前日は高速のSAで夜を明かしたそうです)や、東京駅から菊名駅まで8時間かけて歩いて来た20代女性(猛者過ぎる!)や、福岡の実感を飛び出してヒッチハイクで熱海まで来た17歳の美少年Rちゃん(ピアノの腕前が達者すぎてやばい!鉄砲玉に誘ったところ、ふたつ返事で『やります!』とのこと。これからが非常に楽しみであります)や、旅する大工と称して呼ばれた場所に足を運びまくっている精悍な男性など、バラエティ豊かなラインナップが楽しかった。これは余談になるけれど、開催中、わたしは(眠くなりすぎて)寝た。ちゃんと寝た自分を褒めたいと思った。主催者が寝たことで「この場所は寝てもいいのか!」という自由度高めの許可がおりた(ように見えたのだと、参加者の方から言っていただいたことも良かった)。多分、自分の好きなようにやるのが一番なのだと思う。誰もが好きなようにやりながら、それでいて調和が成立するための『結界』なのだと思っている。

 

 

家族をテーマに開催されたトークイベント@SCRAMBLE HOUSE TOKYOにも、様々な方々が遊びに来てくれた。40歳になって性転換をされた男性(いまは女性)の体験談からはじまり、その方が「当時は親の目線や友達の目線がこわかったけど、でも、どうしてもそれをやりたいと思ったので『これによってすべての繋がりが断ち切れてもいい。天涯孤独になってもいい』という気持ちで、崖から飛び降りる気持ちで性転換をすることにした。そうしたら、友達は離れるばかりか前よりも近くようになった」と話してくれた。その話を受けて、参加者の女性が「実はわたしの息子も最近性転換をしたのだけれど、親としては、こどもが元気でいてくれることがなによりも嬉しい」と話す。諸々、様々な事情を抱えてはいるのだろうけれども総じて『人間って素晴らしいな』という感想を、わたしとMAYUCHAPAWONICA姫は強く抱いた。「天涯孤独になってもいい」という言葉は、素晴らしいなと思った。ひとりでもいいと肚を括る覚悟が、逆に、自分はひとりではないのだという思いを強めることがある。死んでもいいと肚を括る覚悟が、逆に、生きているのだという思いを高めることがある(のだと経験則的に思う)。

 


社会的にマイノリティであるということだけで「可哀想なひと」だと思われてしまうことは頻繁にある。しかし、究極的な意味では「不幸な人間なんてひとりもいない」のだと思う。自分が置かれている現状の中で、どのように生きるか、どのように楽しむか、どのように愛するものを見つけていくのか、同じ時代に生きるわたしたちひとりひとりは『共通の問い』を抱えている。同じ答えを共有することはできなくても、同じ問いを共有することはできる。その点に置いて、わたしたちは圧倒的にフェアなのだと思う。自分に同情をするのも自由。自分に同情することに飽きて何かをはじめることも自由。いろいろなものの制約を受けているようで、その内実は「誰もが自分のやりたいようにやっている【自分の慣れ親しんだ考え方を採用している】」だけなのではないだろうか。自分のこころが「いいな」と思うものに触れた時、こころがふわっと軽くなることがある。あの感覚、あの瞬間を大切にしたいのだと思う。 自分の考え方は、多分、自分で選ぶことができる。わたしは「自分のこころが軽くなる」道を選びたいと思う。

 

 

 

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楽になる道が正解だよ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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家族の問題をクリアすると、人生はボーナスタイムに突入する。

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答えよりも問いになりたいということでこの世に生まれた我々いばや。合言葉は「世界を変えるのではなく、世界を増やす!」ということで、こうでなければいけないという枠組みを積極的&確信犯的にはみ出しながら、「こういうものがあってもいいじゃないか」的なネオ・サムシングを立証(?)することに今日も命を燃やしています。最近、己の体験を人前で話すこと【ユーモアのセンスと真理をポップに突く精度】に絶大な関心があり、おかげさまで満席を迎えた前回開催から中3日、早くも第2回開催を本日13時から(急!)音速敢行いたします。直前の告知にも関わらず、本日は新潟県富山県やはたまた宮崎県(!)からお越しいただける方もいらっしゃり、タンポポの綿毛のようなフットワークに「これはやばい!」と刺激を受けております。奇跡的に滑り込み参加ができるという方は、是非、ご自身の潜在能力を思う存分発揮していただけましたら幸いです!!

 

【イベント情報】【満席御礼!】Scramble Speaking【三森正道×MAYUCHAPAWONICA×坂爪圭吾】

 

明日日曜日は、熱海でわたり食堂【0円食堂】を開催する。昨日、岩手県でお寺の住職をやっていらっしゃる方から「ごちゃまぜの寺というものをやりたいと思っている(これが本来の寺の在り方だと思っている)ので、是非、東北まで来てください!」という激烈に嬉しいお誘いをいただいた。SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】の活動をはじめて早二ヶ月、なにも家に限らず『ごちゃまぜの寺』でも『ごちゃまぜの船』でも『ごちゃまぜの竪穴式住居』でも、そこに人間の出入り(ある程度の風通し)がある限りいくらでも面白くなるのかもしれない。極論、ある程度の土地の真ん中に共有のシャワーとトイレさえあれば、あとは適当にタイニーハウスを自作したりテントを張ったり車中泊をしながら共同生活を送ることはできる。映画館で映画を見るより、自然のど真ん中にモバイルプロジェクターを持ち出して焚き火を囲みながら映画を見た方が、なんとなく、自由度は高い気がする。多分、これからは「固定よりも流動」「屋内よりも屋外」「移住よりも移動」が主流のライフスタイルになる(ような気がする)。

 

【イベント情報】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

船で暮らすのは楽しそうだ。

いま、横浜の白楽【東横線沿線】という駅前にあるドトールを飛び交う無料Wi-Fiを拾いながらこの記事を書いている。なう、わたしはテントで暮らしている。最近、自分が使っている電子機器類の確認をしたところ「冷蔵庫も洗濯機も究極なくても全然どうにかなる。いまのところ(自分的に快適な生活を送るために)必要なのはスマホの充電と電灯に使っているエネループの充電程度だ」と思ったので、あらゆる電力をモバイルバッテリーで補うことに挑戦をしている。iPhoneを5回〜6回程度充電できる大容量のバッテリーに、ソーラーチャージャーを通じて蓄電をする。エネループの充電はUSBからもできることが判明をしたので、基本的に家庭用コンセントは不要になる。夏は暑いが、USBタイプの扇風機で意外とどうにかなる(夜は寒いくらい)ことが判明した。暑すぎる時は避暑地(適当なカフェや屋内施設など)に逃げる。家にエアコンはなくても、街中には無限にある。どれだけボロいアパートで暮らしていたとしても、街は進化し、カフェはおしゃれになり、Wi-Fiは様々な場所に完備されていく。街はどんどん豊かになるのだから、その分、家は最低限のものだけあればいいのだと思う(ようになった)。

 

もちろん、誰かの家にお邪魔をしている時はコンセントを「貸してください!」と懇願して借りる。なければないでどうにかなるし、あったらあったで大感謝をしながら最大限に生かす。昔、家のない生活をしていた頃、オーストラリアのゴールドコーストに招待をしていただいたことがある。現地では、クルーザーに乗って島巡りをされる方々が一定数いて、ホテルの代わりにクルーザーが民泊として使われることも珍しくないのだと聞いた。確かに、ホテルに泊まるよりも船で寝た方が満足度は高いというか「なんか新しいことをしている感!」は高い。当時、家のなかったわたしに対して、わたしを招待してくれたS様は『家がない生活は大変でしょう。最悪の場合は、使っていないクルーザーがあるからそこで島巡りでもしながら暮らせばいいよ』的なことを言ってくれて、わたしは軽いパルプンテ状態に陥った。最悪の場合はクルーザーで暮らす。さあ、これの一体どこが最悪なのだろうかと訳がわからなくなって愉快になった。人生は何が起こるかわからない。そして『どこかしらになにかしらは余っているものだ。余っている場所を活用しまくれば、必ずしも家【固定費】は必要ないばかりか謎のライフスタイルを開墾することができる』的なことを思うようになったのは、多分、その頃からなのだと思う。

 

いかだとか、竪穴式住居とか、自作のタイニーハウスとか、車の中とか、森の中とか湧水の傍とか、いろいろな場所で暮らしてみたい。「旅するように暮らしたい」的なキャッチフレーズもあるけれど、わたしは「遊びながら暮らしたい」と思う。多分、すべては遊びなのだと思う。家のない生活も遊びだし、テント暮らしオフグリッド生活も遊びだし、ライフスタイルになりかけている『おはなをあげる』という営みもSCRAMBLE HOUSE TOKYOの試みも、多分、全部遊びだ。家も船も寺も金も諸々の道具類も、自分だけのものにしたいとは思わない。端的に、みんなで使った方が(予測不可能な使われ方も開発されるから)面白みは五億倍増す気がする。家【出入り自由な空間】をあちらこちらにつくり、全体で共有をする。いま、そういうことに興味がある(あとは人前で話すことに絶大な関心があるので、もしもイベント的なサムシングかあれば気軽に呼び出してください!8月は猛烈に暇です!)。

 

【過去記事】最高をシェアしよう。 - いばや通信

 

わたり文庫『自作の小屋で暮らそう』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、高村友也著作『自作の小屋で暮らそう』です。格安で購買した土地に自作の小屋を10万円で建てて、そこで暮らす著者の豊富な体験記に溢れるエッセイ集(?)。人間、どこでも生きていけるのだなという元気をもらいます。多分、人間が幸福を覚える要素のひとつに「工夫をしている瞬間」があるのだと思う。先日、裏庭に落ちている竹を拾い集めて棚的なものを作った。ど下手くそだけど、作っている時間(ああでもないこうでもないと思考を錯誤をしている時間)は最高に楽しかった。工夫こそJOY。逆に言えば、決められたことを決められた範囲内でしかできない(工夫されることが歓迎されない)環境の中で、人間性を維持することは非常に難しいことになるのだと思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

誰にも文句を言われず好きなだけ寝ていられる。時間を気にせず好きなことができる。10万円で小屋を作ってベーシックに暮らす(Bライフ)までの試行錯誤。雑木林に土地を買い、手工具で小屋を建て、水や電気、トイレ等の生活設備を整える。地元の人の反応や野生動物との出会いも。文庫化にあたり薪ストーブの楽しみについても追記。小屋ブームの一端を担った本。

 

高村友也『自作の小屋で暮らそう』【ちくま文庫

 

愛と勇気とイマジネイチョン。

記事のタイトルに「家族の問題をクリアすると、人生はボーナスタイムに突入する」と書いているのに全然家族の話ができていない。家族という言葉にはあたたか〜な雰囲気が漂っていてタブーっぽい雰囲気はまるでなさそうに見えて「実際はめっちゃラスボス感が溢れている!」と睨む我々いばや。タブーと言えばお金だとか死だとかセックスだとか、そういうものが思い浮かぶけれど、実際問題『その裏側には家庭環境のあれこれが根深くある』のではないだろうか、と。合言葉は「(非常に抽象的になるけれど)平面よりも多面体」にあるような気がしていて、閉じられた密室的な関係性の中でガチンコに向き合うというよりも、家族を拡張する【拡張するというよりも溶かす】ことにヒントがありそうな気がしています(ナイーブな問題に触れる時は、なによりもまず「落ち着くこと・冷静であること」が大事だと思う)。

 

家族をテーマにイベントをやると告知をしてから、複数名の方から「めっちゃ参加したいけど、めっちゃ参加したくない(向き合いたくない)テーマでもあります!」というご連絡をいただきました。前回の記事でも書いたけれど、最近は『スクランブル(良くも悪くも引っかき回す)』という行為に関心があって、ざわつくということは素晴らしいことだなあと感じています。AirPods【最近購買をしたワイヤレスのイヤホン】で電話をしていると、周囲から(独り言を言っているみたいだから)変な目で見られることが多い。多分、未来的なものは最初は変な目で見られるのだと思います。でも、あとからそれが普通になる。多分、家族の在り方もそんな感じで進化をするんじゃないのかなと、誰からも行為的に迎えられるということは(現代の常識が前提になっているからその時点で古く)未来的ではないということで、周囲の人から変な目で見られるようなこと、見る人が見たらざわつきまくる関係性の中に、ヒントはあるのだと思います。

 

全然関係性ないけど(関係あるかもしれない)、最近は「愛と勇気とイマジネイチョン」という三拍子が大好きで脳内で多用をしています。昔は、日本人がキリスト教徒になるだけで「お前はタブーに触れている!」などと折檻をされちゃう(時には殺されてしまう)ことが普通だった。いまはタブーとされていることも、未来から見たら「なんでそんなことで騒ぐの!?」となることは多い(のだと思う)。いまの常識が未来の常識であるとは限らない。新しいことをやろうとするとそれを潰そうとする力が必ず起こる。それに負けてしまってはもったいないのだと思う。モリー先生の言葉を借りるなら『われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない』ということになる。それならば、ひとと比べてどうのこうのというよりも、自分のハート【絶対性】が「どうしたいと思っているのか」に愚直に従うこと。多分、真理はひとを自由にする。ひとを動かすものは正しさよりも「楽しさ」だ。遊ぼう。正しさで自分自身をがんじがらめにしてしまう前に、楽しさでこころを解き放っていこう。ひとから馬鹿にされることがあったとしても、自分の踊りを踊り続けること【精神的に余裕がある時は、正反対の人柄のひとと「どうすれば一緒に遊べるか」を考えること】。合言葉は「愛と勇気とイマジネイチョン」である。好きな言葉だ。口にするだけで元気になる。合言葉は「愛と勇気とイマジネイチョン」である。それさえあれば、多分、いろいろなことはきっとどうにかなるのだと思う。

 

 

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雲の白さと俺の青さ。。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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