いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

心配よりも信頼をしよう。

f:id:ibaya:20161027081723j:image

熱海の家がもしかしたらなくなるかもしれない(今世五度目の家なし生活)事件を抱えている身ではあるものの、昨夜、国分寺で開催されたイベントに登壇をした。参加者の皆様が猛烈に素晴らしい方々ばかりで、終了後に個別で話せた時間は最高に輝いていた。「ブログに励まされています!」なんて言われると、こちらも「いえいえ!いま、あなたの存在にウルトラ励まされていますから!!」という気持ちになる。

イベント中、参加者の女性から「所持金はいくらですか?」という、非常に真っ直ぐな質問を受けた。私は、ポケットの中にあるお金を取り出して見たら全部で332円だったので「332円です」と答えた。すると、会場全体になんだか(同情や憐憫や困惑のミックスジュース的な)非常に微妙な空気が流れてしまって、ああ、こういう時はもっとポップに自身の現状を晒す必要があるのだなあと学習をした。

いばやメンバーとの会話【概念の先に行く】

イベント終了後、三軒茶屋にある友達の家でいばやメンバー達と合流した。私はいばやの人達を愛していて、この人達と一緒にいると如実に癒される。いばやの共同代表でもあるMAYUCHAPAWONICAさんは、現在、大阪は梅田にあります家賃14万円のマンションに恋人の男性と一緒に住んでいるのですが、所持金が28円という強者でもあり、私が「今日は332円しかなかったんだよ」と言うと、MAYUCHAPAWONICAさんは「お金持ちだねえ」という言葉を与えてくれた。

私が「もしかすると、熱海の家を出ないといけなくなるかもしれないんだ」という話をすると、MAYUCHAPAWONICAさんは笑いながら「わたしもいまの家の家賃が払えなければ、あと4日で出ないとだからね!あと100時間だよ!」みたいなことを話してくれて、ああ、この人達はなんて素晴らしい愚か者達なのだろうかという気持ちになった。自分がダメな時、自分以上にダメな人達に励まされることは多い。現状を共に嘆き悲しむだけではなく、現状を共に笑い飛ばせる人達の存在は大きい。

そんなMAYUCHAPAWONICAさんが、自身のブログで超絶最先端な内容の投稿をしていた。「概念の先に行く」というのはまさにそうで、私は、いまの私の生き方にまだ名前をつけることができないでいる。私の生き方を『旅人』とか『吟遊詩人』とか『ロクデナシ』とか『托鉢僧』とか『ロックンロール』みたいな言葉で表現してくださる方々もいるけれど、多分、私は「まだ世の中に名前のない生き方をしたい」のだと思っているのだと思う。最高におすすめなこちらの記事、是非、ご覧ください。


熱海の家のこれから【終わりははじまり】

f:id:ibaya:20161027102242j:image

熱海の家の名義は、現在、坂爪圭吾ではなく購入をしてくれた方のものになります。ちょっと説明しきれない事情により、現在、私に残されている選択肢は「坂爪圭吾が名義人になってこの家を引き継ぐか、家を手放し、家なし生活を再開する」という二択になります。家を譲っていただけるということは非常にありがたい話でもあり最大限の感謝しかないのですが、家を所有するということは「どうしたって月々の固定費(月額3万円程度)が発生する」ということでもあり、なう、私はそこに躓いています。

現在の私の心境は「自分が名義人になることはないだろう。だけど、熱海の家や畑や自然は大好きだから、何かしらの面白い形で使ってくださる人がいれば一緒に何かをやれたらいいと思っている」という、非常に絶妙なポイントにあります。最終的な結論は今月中(遅くても11月中!)には出したいと思っていて、非常に乱暴にまとめると「固定費の問題さえどうにかなれば、是非、維持をしたい!」ということになります。

ここで、愛するブログ読者の皆様(あなた!目の前のあなたです!)にお願いがあります。今世の坂爪圭吾のテーマは「自分で決めない」ということで、何かこう、この家をこう使ったらいいんじゃないのかな的なサムシングが奇跡的に閃きましたら、いつでもお気軽にご連絡をいただければ幸いです。変な言い方になるのですが、決して同情や憐憫を求めている訳ではなくて、感覚としては「自分が行きたいと思う未来に一緒に行く!」ひとを求めている、というような心境です。

坂爪圭吾 keigosakatsume
keigosakatsume@gmail.com

「売る・買う」より「あげる・もらう」【自分の命を生きる】

この家の体験を通じて、改めて「自分は『売る・買う』の関係よりも『あげる・もらう』の関係が好きなんだなあ」ということを感じた。私は、昔からお金を稼ぐことが非常に苦手な人間であり、それはいまでも変わらない。たかだか月々3万円という額でさえも、まともに稼ぎ続ける自信がないのだ。もしかしたら熱海の家に住めなくなるかもしれないとなった時、私の思考は「頑張って3万円を稼ごう!」という方向ではなく、よし、いつでも托鉢に出られる精神の準備をしておこうという方向に向かった。

昨夜、国分寺で開催されたイベント終了時に、主催者の方が「私は坂爪さんを生かしたいという思いから、このイベントを企画しています。言い換えると、坂爪さんみたいなひとが生きられないような社会にはしたくないという思いがあって、だから、お越しいただいた皆様にカンパをお願いしています」という声かけをしてくれた。主催者の方は、イベント開催に関わるすべてを、完全に無償でやってくれている。月並みな言葉になるけれど、この思いに、このこころに、この結び付きに、私はいつも支えられている。

現在の私の暮らしは、完全に貰い物で成立をしている。宮城県からは干し芋の数々が届き、愛知県からは10キロの玄米が届き、実際に出会った方々からは飲み物や食事をご馳走してもらった。これだけ多くのものを貰い続ける日々の中にいると、変な言い方になるけれど「(心の底から)ちゃんと生きよう」という気持ちになる。この「ちゃんと」とは、世間一般的な意味でのちゃんとではなく、たとえ世間一般的な生き方とは異なるものだとしても「自分の命をちゃんと生きよう」という思いになる。

『生の短さについて』

f:id:ibaya:20161027102800j:plain

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、セネカ著作『生の短さについて』です。こちらの本は、国分寺のイベントを主催してくださった方が「表紙の文章が素晴らしいと思って」という言葉と共に、お譲りいただいた一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

生は浪費すれば短いが、活用すれば充分に長いと説く『生の短さについて』。心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』。快楽ではなく、徳こそが善であり、幸福のための最も重要な条件だと説く『幸福な生について』。実践を重んじるセネカ(前4頃-後65)の倫理学の特徴がよく出ている代表作3篇を収録。新訳。ー セネカ『生の短さについて』【岩波文庫


心配よりも信頼をしよう。

トークイベントの際、参加者の方が「坂爪さんのご両親はどのような人柄なのですか?」と尋ねてくれた。私は、ああ、こういう質問はとっても嬉しいなあと思いながら「私は両親のことを心の底から尊敬していて、尊敬している理由は100億個くらいあるのですが、何よりも『息子がこれだけ意味不明な生き方をしているにも関わらず、それを理解している訳でもないのに(理解をしないまま)温かく見守ってくれていること』です」というような返事をした。

私は、10代の頃から長髪の金髪で酒とタバコを嗜み原チャを乗り回して学校も全然行かない、みたいな非常に判り易い形で親とのバトルを散々に繰り返していた。親から「学校に行け!」とか「大学に行け!」とか「就職しろ!」などと言われていた時期は、私も私で「いやだ!絶対にいやだ!」と反抗を続けていたが、良い感じに私を諦めてくれた親が「あなたには何を言っても無駄ね。私は、ただ、あなたが元気で生きていてくれたらそれだけでいいわ」と思うようになり、私も、結果的に何も反抗するものがなくなったために「俺もしっかりと生きよう」と思うようになった。

心配をする人の特徴として、多分、相手のことを思いやる以上に「そのひとのことで自分が精神的・肉体的に煩わされることが非常にいやだ」という独善的な思いもあるのだと思う。私は、心配よりも信頼の力を信じる。MAYUCHAPAWONICAさんの言う通り、そのひとの生命力を信じて、ある種の放任主義の名のもとに「信頼をして、ほったらかす」ことができれば、それを受け取る側の人間も「うおおおおおおおおお!!」と勝手に発奮をして、結果的に(勝手に)真面目に生きはじめるものだと思っている。心配よりも信頼をしよう。否定的な力を投影すれば、世界はいくらでも心配の種を撒き散らしてくれる。肯定的な力を投影すれば、同じように、世界はいくらでも信頼の種を撒き散らしてくれるのだと思う。


f:id:ibaya:20161027081723j:image

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

永遠にそのままで行け。

f:id:ibaya:20161022075939j:plain

先週の水曜日から「与える喜びを与える喜びツアー」なるものを開催している。金銭的な理由により、徒歩で日本各地を移動している私【坂爪圭吾】に施しを与えるという趣旨のイベントになるのですが、先日、ムカデに両足を刺されて両足が膨れた。森で寝たのが裏目に出た。普段から「自然最高!」などと叫んでいるものの、こういうことがおこると「自然・・・(遠い目)」という気持ちになる。

10月26日(水)には、東京都国分寺市でトークイベントなるものを企画していただいた。ブログに書かれている坂爪圭吾は実体の1割程度のものなので、是非、残りの9割を目撃していただけると嬉しいです。どなたでも参加できる内容になりますので、時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください。


ひとを幸せにするものは「生き物」だ。

東京都内を徒歩で移動しながら「俺はなんでこんなことをやっているのだろう」と、何回も思った。電車に乗れば20分程度の場所まで、ボロボロの草履を履きながら2時間以上も歩いて向かっている(両足はムカデに刺されて膨れている)自分は愚の骨頂なのではないだろうかと思うこともあったけれど、しかし、何時間も歩いて良かったと心の底から実感できる場面もいくつかあった。

そのひとつは「生き物とのふれあい」であり、私の場合、どれだけ身体が疲れていても『道端の花を見た時』や『幼稚園や公園からこどもの騒ぐ声が聞こえた時』や『猫や犬とすれ違う時』には、如実に元気になる。なかでも、こどもたちから貰うエネルギー量は尋常ではなく、何かあるとすぐに大声で叫びながら走り出すこどもたちを眺めていると「こいつらは全開でいいなあ、ほんとうにいいなあ!」と、見ているこちらまで嬉しくなる。自分の無意味な行動も、大きく肯定されているような気持ちになる。

私は「生きているもの」が好きだ。生きていると感じることが大好きで、生きていると感じさせてくれるものが大好きだ。では、生きているとはどういうことだろうか。私は、まだ、死ぬということがどういうことなのかがわからない。だから、生きているとはどういうことなのかも、同じように知ることはできない。ただ、自分の場合、生きているとは「動いていること」ではないだろうかと思うことがある。言い換えると、私は「動いている時に、ああ、自分は生きているのだなあと感じる」ことが多い。

汗と涙は裏切らない。

私は、汗を流すことが好きだ。汗を流したあとにはいる風呂は、なぜ、あんなにも気持ちいいのだろうか。理想を言えば、1日に1度は汗を流す時間を持ちたいと思う。女のひとからは、泣くとスッキリするという話を頻繁に聞く。これは私が男性だからなのだろうか、いま、涙を流すことができたらどれだけ楽になれるのだろうかと思いながら孤独な夜道を彷徨うこともあるけれど、男は、涙の代わりに汗を流しているのではないだろうかと思うことがある。

昨夜、猛烈なさみしさに襲われた私は、無駄に1時間の散歩をした。最初の20分程度は、まだ、頭の中から「俺はさみしい」とか「俺は無価値だ」とか「あのひとはなにをしているだろうか」などとしみったれた声が聞こえてきたけれど、歩き始めて20分を過ぎた頃から、ひたすら続く上り坂による疲労のおかげもあり、頭の中の声が黙り始めた。私の中で「そんなことよりも一歩一歩だ!」という感じになり、俯きがちになっていた視線は前を向き、閉じがちになっていた胸元も、不思議なことに開かれていった。

道中、アスファルトを突き破って咲く花を見つけて「お前はまじですごいな!まじですごいくせに、そのすごさをひけらかさないすごさがすごいな!」ということを思った。そして、周囲に誰もひとがいなかったことをいいことに、実際に声に出して「お前はまじですごいな!お前はまじですごいな!」と、目の前の花を褒め称えた。すると、自分で言った言葉に自分で感動をしてしまった私は、あろうことか、両方の目から滲む涙を感じた。私は「いけない!いけない!」などと慌てながら、同時に、ああ、自分は素晴らしい瞬間の中にいるのだなあという思いに包まれて、そして「汗と涙は裏切らない」のだということを思った。

わたり花壇『朝顔のタネ』

f:id:ibaya:20161024183136j:plain

今回は「わたり花壇無料郵送の一粒」なるものを特別開催(?)します。私は端的に自然が好きなので、自然が豊かになることは嬉しく、自然が破壊されてしまうことはとても悲しい。少しでも多くのひとが自然に触れる機会が増えたらいいなあと思っていたら、ある方から「この花の種を『わたり花壇』に使ってください!」と、宇宙飛行士の山崎直子さんが宇宙の旅に持っていった朝顔の種の五代目(!)をお譲りくださいました。こちらの種を無料でお譲りいたしますので、ご希望される方はお気軽にご連絡ください。

※※※ こちらのタネは、静岡県にわたりました ※※※

2010年、山崎直子宇宙飛行士は宇宙の旅に朝顔の種を持参。これを広島と福島の子供たちに咲かせてもらいました。この種はその朝顔の5代目です。是非、わたり花だんへどうぞ♡

わたりチケット『ルノワール展@東京駅』

f:id:ibaya:20161024183157j:plain

今回は「わたりチケット無料郵送の一枚」なるものも特別開催(?)します。先日、東京の神田駅前でお寿司をご馳走してくださった女神様が「美術館のチケットがあるので、必要としてくださる方にお譲りください」という言葉と共に、東京駅前にある三菱一号美術館で開催中(2017年1月9日迄)の『拝啓ルノワール先生 ー 梅原龍三郎に息づく師の教え」の鑑賞チケット(!)をお譲りくださいました。こちらのチケットを無料でお譲りいたしますので、ご希望される方はどなたでもお気軽にご連絡ください。

※※※ こちらのチケットは、東京都にわたりました ※※※

わたり文庫『日本の美を求めて』

f:id:ibaya:20161024183219j:plain

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、東山魁夷著作『日本の美を求めて』です。東山魁夷さんの絵画は非常に有名ですが、こんなにも素晴らしい書き手でもあったことは知りませんでした。こころの底からおすすめできる、素晴らしい一冊です。ご希望される方は、なにかしらの方法で坂爪圭吾までご連絡をください。いただいたすべてのメールに返信をすることができず誠に申し訳ないのですが【届いたメールはすべて目を通しています!】、御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

花が永遠に咲き、私達も永遠に地上に存在しているなら、両者の巡り合いに何の感動も起こらないであろう。花は散ることによって生命の輝きを示すものである。花を美しいと思う心の底には、お互いの生命をいつくしみ、地上での短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも、感じられているに違いない。それならば、花に限らず名も知らぬ路傍の一本の草でも同じことではないだろうか。ー 東山魁夷『日本の美を求めて』【講談社学術文庫


永遠にそのままで行け。

東山魁夷さんの言葉に出逢えたことがとても嬉しく、なぜ、自分はこれほどまでに嬉しさを覚えているのだろうかと考えていたら「自分と同じものを、自分以上に好きでいてくれたひとがいてくれた」からなのだと思った。日本の自然を、清澄な風景を、素朴な人間性を、こんなにも大切にしているひとがいたということが、自分が好きなものを自分と同じように(あるいは、自分を圧倒的に凌駕する次元で)讃えているひとがいたということが、大袈裟な言葉で言えば「味方と出逢えた」ように嬉しかったのだと思う。


天然記念物のようなひとがいる。誰も味方がいないように見える中で、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けたひとがいる。ただ、そのひとがそのひとであり続けるということが、こんなにも見るひとの心を勇気づけるものなのか。こんなにも見るひとの心に肯定的な力を与えることができるものなのか。私が、投げ出しそうになることもある中で辛うじて自分のままでいることができたのは、こうした「天然記念物のようなひと」の存在によるところが非常に大きい。そして、これからも(そして、これまで以上に)自分は自分であり続けたいのだという願いを抱く。


理解者や仲間がいるから歩き出せるのではなく、多分、自分から先に歩き出したからこそ理解者や仲間と出逢うのだと思う。自分で自分を認めることができない時期は辛いが、自分のこころが感じた光を、自分のこころが感じた命を、自分だけは認めてやりたいと思う。たとえ、それが周囲のひととは大きく異なるものだったとしても、自分の感覚を丁寧に伝えることはできなくても、理解してくれるひとはいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分が「いいな」と思ったものを「いいな」と思い続けるこころを、大切に守りたいと思う。


f:id:ibaya:20161022075939j:plain

人生は続く。

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

【実践最強】どんどん痛い目に遭え、そして逞しく成長しろ。

f:id:ibaya:20161020103817j:plain

最後の食料である玄米と味噌も底をついたので、小麦粉に水を混ぜてうどんを作った。我ながらナイスアイデアだと思った(ほんとうは全粒粉を混ぜたりしてみたい)ものの、ビニール袋に詰めたうどん生地を足で踏みながら「チクショー!チクショー!」と叫び出していた私は、こころの病気なのかもしれない。

昨日から、野暮用で東京にいる。金がないときは身体を鍛えることがベストだと直感的に思い立ち、半ば強制的に身体を動かさざるを得ない状況を作り出すため、震えながらも「ええいままよ!」と下記のイベントを企画した。精神の都合で中断をする可能性もありますが、ピン!と来た方はどなたでもお気軽にご連絡ください。


「ないのに元気!」が面白い。

昨夜、自身のフェイスブックから「野暮用で東京にいるのですが、エコノミックな理由で徒歩で移動をしています。時間のある方や、ちょうど良いタイミングで食べきれない量のおむすびを持っていたという方がおりましたら、どなたでもお気軽にご連絡ください!!」という投稿をした。結果的に「新宿から神楽坂経由で大塚駅まで3時間歩き、大塚駅前にある定食屋さんで(神楽坂で合流をしたN様から)ヒレカツ定食をご馳走してもらう」という、感動的なフィナーレを迎えることができた。

道中、夜道を歩きながら話した時間が楽しかった。今世の私のテーマは「ないのに元気!」で、豊かは豊かでも「豊かな会社経営者」と「豊かな無職」の二人がいた場合、私の興味が注がれるのは後者になる。あるから元気!では、なんというか、当たり前のことになってしまう(場合によっては、嫉妬や憎しみの対象になってしまう)。ないのに元気!なひと【愚者】の存在は、大袈裟な言葉で言えばある種の希望になるのではないだろうか、などと思うことがある。

私の好きなおにぎりの具材はイクラで、こういうことはちゃんと口に出していった方がいいと瞬間的に思い立った私は、フェイスブックで投稿をする際に「好きな具材はイクラです!」と書いた。すると、新潟県村上市にご実家がある女性から「この時期になると、実家の父がアホみたいに鮭を釣り上げているので、熱海にいらっしゃるタイミングでイクラ送りますね」という神がかり的な連絡をいただき、私はよろこびに慟哭した。欲しいものはちゃんと口に出した方がいいという箴言(?)は、真実なのだと思った。

兄弟姉妹が多いひとほど死なない。

f:id:ibaya:20161020093941j:image

先日、江ノ島近くの喫茶店で音声配信の収録をした。テーマは「サードファミリー【第三の家族】」ということで、これからの家族のあり方をテーマに(ラムピリカ店主のちあきさんと共に)雑談を交わした。ちあきさんは、小学6年生の女子と小学4年生の女子のふたりのこどもがいるシングルマザーで、先月は私と一緒に約2週間の欧州旅行の旅に出た。その際、こどもたちは「みんなで子育て」ということで、一緒に旅に出るのではなく「完全放任主義で(言い換えるならば『全幅の信頼感』と共に)友達などに任せまくる」という作戦を選んだ。


結果的にこの作戦は大成功し、こどもたちは様々な大人に出会い、おとなたちも(普段はなかなか接することのない)小学生との時間に斬新なインスピレーションを獲得することができたという、非常に素晴らしい展開を迎えた。家族の問題は家族内だけで解決をしがちになってしまうものの、家族を増やす(家族の意味を拡張する)ことにより、もしかしたら解決する問題はたくさんあるのかもしれないということを思った。この時期のあれこれは、こどもたちとメインで一緒に過ごしたちーちゃんのブログ記事に詳しいので、よろしければご覧ください(ちーちゃんの文才は秀逸!!!!!)


極論、自分がもしもの状況に置かれたとしても、助けてくれるひとがいれば人間は死なない。家のない生活を2年間ほど続けて感じた最大の感想は「兄弟姉妹が多いひとほどセーフティ!」ということで、逆に言えば、自分の力でどれだけ多くのものを溜め込んだとしても、それがなくなってしまえば一気に死の淵に立たされてしまう。大切なものは『他者との関係性』であり、安定した職業につくことや、多額の貯蓄を得ること以上に「どれだけ地球上に兄弟姉妹を増やすか【どれだけ他者と深い結びつきを感じることができるか】」ということ、大袈裟な言葉で言えば『相互的な慈愛の精神』が、21世紀の肝になるのではないだろうか。

空海の思想について』

f:id:ibaya:20161020091109j:plain

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、梅原猛著作空海の思想について』です。私は、この空海さまから「熱海【自分の殻】にばっかりこもっていないで、もっと世俗にもまれてこい!悟った風な顔をするな!どんどん痛い目にあえ、そして逞しく成長しろ!」と言われているような気がして、与える喜びを与える喜びツアーの開催に踏み切ることができました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、富山県にわたりました ※※※

人里から離れ、清浄なる悟りを楽しむ仏弟子たちよ、汝は己の清浄さ、己の悟りを否定し、もう一度人間のもとに、世俗のもとに帰らねばならないのではないか。まさに龍樹らによって起された大乗仏教の思想は、このような伝統仏教の世俗否定性にたいする批判から起った。(中略)いわば、龍樹は仏教者にたいへんむつかしい実践を命じるのだ。
人間は、いつも、とらわれの世界に住んでいる。自己にとらわれ、他者にとらわれ、小さな世界にとらわれているので、自由をえない。自由をえないから、本当に楽しくない。そういうとらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体となることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる。
密教では無我を言わない。無我のかわりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。ここが、密教と他の多くの仏教宗派、たとえば禅とちがっているところである。禅では否定の契機が強いのにたいし、密教では肯定の契機が強い。人間ばかりか、一切の存在するもの、誰が、我がなく、欲がないことがあろうか。しかも、我と欲は、人間存在の根源であるとともに、あらゆる人間的闘争と妄想の根拠でもある。この我と欲を脱却せよ、禅は、そのために、無我、無欲を説く。しかし果して、人間は無我無欲になれるか。無我になれ、無欲になれとは、人間に死を命じることではないとしたら、いたずらに、人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。
密教は、何よりも、強烈な生命力を説く仏教である。それは永遠に否定の深淵に人間をおきざりにすることを好まない。もう一度人間に、生命の歓喜の歌を歌わせねばならぬ。禅も、もとより、単なる否定に立ちとどまるものではない。しかし、密教の立場からいえば、その道は、まだ、真の肯定に達していない。汝は、何故に、墨染の衣に身をつつみ、苦行者のごとき、悲しい面持をするや。
密教哲学の魅力を、著者は次のように説く。「『世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ』。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。私が真言密教に強く魅かれ、現在も魅かれているのは、そういう思想である」と。ー 梅原猛空海の思想について』【講談社学術文庫


どんどん痛い目に遭え、そして逞しく成長しろ。

このブログ記事を書き終えたら目黒駅を出発して、神田駅に向かう。こころある方から「ランチに美味しいお寿司をご一緒しましょう!」というご連絡をいただき、私は、よろこびに溢れながら神田駅までの2時間強を歩き始めることになる。空海さまの言葉を引用したあとに、こういう文章を書いていると「自分は世俗にまみれたゴミ人間だ!」みたいな気持ちにもなるけれど、お寿司が食べられることはほんとうに嬉しい。

歩けば歩くほど、不思議なことに元気になる。そして、歩きながらいろいろなことを考える。時には、何が人間を苦しめているのだろうかとか、何が人間から自由や勇気や前を向くための力を奪うのだろうかとか、そういうことを考える。私の考えでは、多分、人間を殺すものは、職を失うことでもなければ金を失うことでもなく、飢えることでもなければひとりきりになることでもない、最大の要因は、それらに対する『恐怖心』ではないだろうか、ということを思う。

恐怖心は人間の精神を萎縮させ、想像力を破壊し、分離感を築き、世界に立ち向かう勇気を剥奪する。しかし、恐怖というものは「まだ実際には起きていないことを、積極的に先回りすることで勝手に傷つき怯みまくること」でもあり、多分、ある種の幻想に過ぎないのだと思う。空海さまは「とらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体になることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる」と言い、聖書の中には「おそれるな」という意味の言葉が365回(!)出てくるのだと聞いた。恐怖心によってこの瞬間を犠牲にしてしまうことは、とても悲しい出来事だ。難しい場合もあるけれど、『こうなりたくない!』と思う不安や恐れをベースに動くのではなく、『こうしていきたい!』と思う希望やよろこびをベースに、歩き続けて行きたいのだと思う。


人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

希望の光は、朝日と共に昇ってくる。

f:id:ibaya:20161016054537j:plain

食パンにクリームチーズと納豆をのせて焼いた後に、はちみつをかけて食べると超絶美味い!と言っても、信じてもらえることは少ない。食パンに納豆をのせて焼いた後に、ケチャップやマスタードをかけて食べるとフランクフルトみたいになるから超絶美味い!と言っても、悲しそうな顔をされてしまう。

最近では、玄米と味噌を食する宮沢賢治的な日々が続いている。納豆は「贅沢品」に分類されるようになった。貧乏生活も、長く続けているとそれなりのスキルが蓄積される。洗濯用洗剤がなくなったために、新しいものを買いそうになったものの「もしかしたら洗剤は不要かもしれない」と思って色々調べてみたら、重曹(あるいは水のみ)だけでも充分に汚れは落ちるのだと知った。多分、湯シャンと同じ原理なのだと思う。生活必需品が「実は必需品ではなかった!」と気付いた瞬間の手応えは大きい。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・趣味の合うひとと一緒にいればいい。


真理と呼ばれているものはひとの数だけあって、多分、どのような考え方を「採用」しているのかがそのひとの人生を決めているのだと思う。自分の人生はつまらないと思っているひとは「自分の人生はつまらない」という考え方を採用しているのであり、(別によいも悪いもなく)そのひとがそうしていたいのなら、ただ、そうしていればいいのだと思う。私は、私が「この考え方を採用したい!」と思えるものを採集する。世間的に正しいかどうかはあまり重要ではなく、自分のこころが楽しい気持ちになれるなら、自分のこころが優しい気持ちになれるなら、それが自分にとっての「真理」だと思っている。

2・真理はひとに優しい。


私は「真理はひとに優しい」と思っている(真理はひとに優しいものだという考え方を採用している)。そのため、これをするべき!とか、あれをするべき!とか、ある種の緊張感や脅迫感を伴った言い方や考え方は、できるだけ控えていたいと思っている。人間のパフォーマンスが最大限に発揮される瞬間は、何かを強制されて行う瞬間ではなく、そのひと自身がこころの底からリラックスをしている瞬間だと思う。誰かが決めた模範的な優等生になることよりも、「○○したくなる」とか「○○してしまっていた」という姿の中に、その人に宿る自然や、その人に宿る魅力はあるのだと思う。

3・この人でいいかなではなく、この人といたいと思える人といること。


これでいいかなではなく、これがいい、これがやりたいんだと思える、この「前のめり感」を大切にしていきたいと思う。そして、難しい場合もあるけれど「何もやりたいと思うことがない時は、何かをやりたいと思う時まで、ただ、何もやらないでいることの強さ」を身につけていきたいと思う。有意義な何かをしている自分を肯定することは簡単だけれど、何もしていない自分を、ただ存在しているだけの自分を、そのままの状態で肯定することができた時、はじめて「自分を愛する」ことができるのだと思う。何かをするから価値があるのではなく、本当は、何もしていなくても価値は常にあるのだと思う。

4・生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。


私が採用している考え方のひとつに「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」というものがある。ほんとうは別に(超絶広い意味では)この瞬間に死んでしまっても問題はないのだけれど、今夜寝る場所があり、明日食うに困らないカネもあれば、何も文句を言う必要はないのではないだろうか(それだけでもう幸福じゃないか、非常にラッキーなことじゃないか!)という気持ちになる。これがあれば人間として合格!【これがなければ人間としては不合格!】みたいなものはあるはずもないのだから、時には弱気になることがあるとしても、自分が生きているということそのものにもっと胸を張ってもいいのだと思う。

5・「ない」に賭ける。


ブログを書き続けていると「どうしてブログに広告を貼らないのですか?広告を貼れば、いまよりもずっとお金を稼げるようになるのに!」的なアドバイスを頂戴することがある。自分でも、お金を稼ぎたくない断固たる理由がある訳ではないので、こういう時には返答に困る。多分、私は「広告を貼らない(お金を生まない)方が面白い」と思っているのだと思う。言い換えるならば、私は、弱いままでいたいのだと思う。自分は弱いからこそ、自分には何もないからこそ、他者を必要とすることができるのだと思う。

6・自分の代わりに自分を生きてくれるひとはいない。


自分自身を31年間程度観察してきた結果、私は、根本的に怠惰な人間なのだということがわかった。自分の代わりにそれをやってくれるひとがいるのであれば、料理も、家事も、芸術も、政治も、仕事も、すべてをほかのひとに任せていたいと思っている。私は、私の代わりにそれをやってくれるひとがいるものに対して、持続可能な情熱を抱くことができない。言い方を変えれば、誰も代わりがいないもの、自分以外にはそれをやることができないものに対して、サステナブルな熱情を覚える。私にとって、それが「言葉を書く」ということであり、大袈裟な言葉で言えば「自分を生きる」ということなのだと思う。自分の代わりに自分の心情を表現してくれるひとはいないし、自分の代わりに自分を生きてくれるひとはいない。それならば、と、私は私の心情を綴りたいと思い、私は私の生涯を生きたいと思う。

7・「人並み」であることを捨てる。


家のない生活を始めた頃から、多分、私は無意識のうちに「人並みであることを諦めた」のだと思う。ひとと同じであることを望むほどに、自分が自分であることのよろこびは遠ざかるような気がする。私が(動物占いで言うところの)ネアカの狼だからなのだろうか、それとも、私が(何かと新しいことをやりたがると言われている)牡羊座生まれだからなのだろうか、そういう感覚を覚えることがある。おかしな言い方になるけれど、私の場合、人並みであることを捨てた余白に「自分自身の花が咲いた」感覚を覚える。逆に言えば、人並みであろうとすればするほどに「自分が死ぬ」ような感覚を覚える。

8・静かな充足感を与えてくれるものは、どれもお金のかからないものだった。


賑やかな時間だけではなく、同じ静けさを共有できる時間、同じ静けさを共有できる間柄の中に、言葉にならない豊かさを覚える。

9・自由とは「自分が消える」こと。


不幸は分離感で、幸福は全体感だと思う。自由とは、やりたいことをやれることではなく「自分が消える【恐れを完全に手放している】」ことだと思う。俺が俺がとなる(自分を強く主張する)ほどに、多分、その人自身は何か大きなものから切り離されてしまう。自分の正しさを証明しようとするほど、そのひと自身は「正しさ」から離れていく。自分の自由を証明しようとするほど、そのひと自身は「自由」から離れていく。自分の明るさを証明しようとするほど、そのひと自身は「明るさ」から離れていく。

『【新訳】老子

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岬龍一郎著作『【新訳】老子』です。原文直訳ではちょっと難解な文章が続く老子という古典作品が、現代風に非常にわかりやすく訳されている(老子入門に最適な)一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、富山県にわたりました ※※※

無用の用

自転車の車輪というのは、
たくさんのスポークが輪の中心の甑に集まっている。
この輪の中心の軸は空っぽだ。
でも、真ん中が空っぽだから車輪は車輪の働きができるんだ。

粘土をこねて器を作る。
器の中は空っぽだ。
何もない。
でも、
中が空っぽだから使い道があるんだ。
家の造りだってそうさ、中が空っぽだから部屋として使えるのさ。

人は目に見えるもの、形のあるもの、
中身の詰まっているものを大事にするけれど、
じつは、本当に大事なものは、
何もない “空” が支えているんだよ。
これを “無用の用” というんだ。

『【新訳】老子』【PHP】


10・希望の光は、朝日と共に昇ってくる。


熱海の家から見える朝焼けが綺麗で、思わず「うわあ」という声が漏れる。自然と両足は駆け出していて、着の身着のまま、この「思わず駆け出してしまっている」時の自分が好きだなあということを思った。意識を超えて、先に身体が勝手に動き出してしまっていることの中に、私は「私の自然」を見る。きっと、知識ではないのだと思う。身体が感じるよろこびを、私は大切にしていきたいのだということを思う。

ブログ記事を投稿する際に、各種SNSから様々な投稿を目にする。これはただのお願いになるのだけれど、私は「インターネットを批判や暴露の道具に使うのではなく、お互いを励まし合い、勇気付けるために使って欲しい」ということを思っている。あのひとはダメだとか、あの企業はダメだとか、何かの批判や暴露を目的にインターネットや各種SNSを利用するのは、それを見るひとにまで「恐怖や怒りや悲しみなどネガティブな感情を拡散させる【見る人の精神を萎縮させる】」ことになってしまう。

最高のパフォーマンスが発揮される瞬間は、何かを強制された瞬間ではなく、こころの底からリラックスをしている瞬間だと思う。私は、これからもひとのこころをリラックスさせる考え方を採用していきたいと思うし、ひとのこころをリラックスさせる考え方を採用しているひとと、同じ時間を過ごしていきたいと思う。ガチガチに強張りがちな体も、ガチガチに強張りがちな心も、ほぐれれば必ず素晴らしいものを生み出すようにできている生き物が、人間だと思う。

f:id:ibaya:20161016054600j:plain

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

弱さは「希望」だ。

f:id:ibaya:20161011180231j:plain

藤沢から熱海までおよそ55キロを(電車賃がないからという理由で)お借りしたロードバイクで移動をした。途中、小田原から熱海にかけての山道が地獄のような厳しさで、何度か「このまま死んでしまえたら楽になるのにね」的なタナトスの甘い誘惑に敗れかけたものの、同時に「何度も何度も何度も何度も懲りることなくこの道を自転車で走り続ければ、いつの日か、自転車を降りることなくこの道を駆け抜けられる肉体を獲得できるかもしれない」という希望を獲得した。


ボロボロの状態で熱海に到着をしたものの、ボロボロの状態で飛び込んだ温泉のよろこびは格別だった。自分の肉体を酷使する瞬間の中には、多分、原始的な喜びがある。いままでも電車やバスや飛行機で移動をすることは多かったけれど、どれだけ長距離を移動したとしても、自分の体力を使わない移動だったために「疲れたー!(でも、全然疲れてねー!)」という矛盾する感覚を抱いていた。自分の肉体を酷使するからこそ、到着した時のよろこび、到着した時の手応えは、より一層のものになる。

クロスバイクの神様の降臨。

過去記事を見てくれた男性から、奇跡的なメールが届いた。

坂爪様

はじめまして。
◯◯と申します。栃木県足利市に住む
24歳男性です。

ブログ、いつも興味深く読んでおります。ありがとうございます。

前置きが不器用で恐縮ですが、
わたくし自転車がとても好きで、
本日ブログの投稿を見て、カレラの
ロードバイクという記述にひとり
喜びを感じました。

最近あまり乗っていないブリヂストン
クロスバイクがあるのですが、
もし坂爪さんがご希望なら無料で
お譲りします。サイズM、スチールフレーム、泥除け、荷台等付属です。

都内もしくは川崎あたりまでなら
お持ちできます。

ご興味ありましたら連絡ください。

遅くに失礼しました。

◯◯◯◯

iPhoneから送信


私は「なんということだろう!!!!!」と興奮をした。クロスバイクを譲ってもらえるということももちろん半端なくありがたいことだけれど、何より、このような素晴らしい器を持った男性が同じ時代を生きているのだということに感動をした。ロードバイク初心者である私でも、たった1日、藤沢から熱海にかけて自転車をかっ飛ばしただけで「自転車はこんなに面白いものなのか!」と興奮をしていたものだから、このような形で声をかけてくださる方の存在は、本当にありがたいことだと感動をした。

貰い物だらけの日々の中で。

思えば、貰い物だらけの日々の中を過ごしている。熱海の家も、食器も調理器具も冷蔵庫も洗濯機も、ソファも扇風機もコタツも布団もヨガマットも本も本棚も、電飾もバイクも自転車も日常的に使い倒している鞄も靴もiPhoneiPadWiFi環境も、すべて、こころある皆様が購買してくれたもの(あるいは、使わなくなったものを譲ってくれたもの)で構成されている。これは決して自慢をしたい訳ではないのだけれど、私は「なんて恵まれた人間なのだろう!」と思う。

何度も書いていて恐縮だけれど、私は、お金を稼ぐことが非常に苦手な人間である(「売る・買う」より「あげる・もらう」の関係性を愛している)ために、これらの品々を自分ひとりの力で購買することは、おそらく、一生をかけても出来なかったことだと思う。熱海に遊びに来てくれた方々も「どうすればそんなにものを貰えるのですか??」と尋ねてくださるけれど、私にも、何が原因でこんなにものを貰えるのかはわからない。ただ、確実に言えることは「坂爪圭吾は、生きているのではなく『生かされている』のだ」ということです。

だからといって、必ずしも365日24時間常によろこびに溢れた日々を過ごすことができている訳では決してなく、自分の生き方に自信を失くしてしまうことや、何もやりたいと思えることのない自分を責めてみたり、ちょっと先のことを考え過ぎては弱気になってしまう(自爆をする)こともある。そんな時、私は「できるだけ身体を動かす」ようにしている。それがすべてを解決してくれる訳ではないけれど、僅かでも自分のこころが感じている負担のようなものを、軽減することができるように感じている。

賛美歌「慈しみ深き」に慰められる。

生きる気力をなくした時、私は、以下の三つのことを意識するようにしている。それは「好きな歌を歌うこと」「好きな道を歩くこと」「好きな人を思うこと」の三つになるのだけれど、歌に関しては、これを歌おうと思って意識的に口ずさみ始めることよりも、いつの間にか自然と歌い始めていることが多い。何を歌い出すのかはその時々の心境によって大きく変わる(自分でも「なぜ、この曲を歌っているのだろう」と思うことが多い)が、最近は、謎に賛美歌の『いつくしみ深き』を口ずさむことが多い。


つくしみふかき ともなるイエスは
つみ とが うれいを とりはりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを

誰でも一度は聞いたことがあるであろう、この曲の歌詞の後半部分を訳すると「心の中にある嘆きの気持ちを、隠すことなく神様に伝えることによって、背負っている重荷をおろすことができる」というものになる。この言葉を、このメロディーに乗せて口にするだけで、不思議と体が軽くなる感覚を覚える。ちなみに、大切なことは「頭で思い浮かべるだけではなく、実際に声に出して歌うこと」だと思っている。

つくしみふかき ともなるイエスは
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん

この曲の二番の歌詞「われらのよわきを しりてあわれぬ」という箇所にもグッと来る。この歌詞を口ずさむと「誰にでも弱い部分ってあるよね。しかも、それを外に出せないから余計に辛くなっちゃうことってあるよね。泣けたらどれだけ楽になるのだろうかとか思いながら、行くあてもなく夜の街をひとりでぶらつく時ってあるよね」的な気持ちになる。

つくしみふかき ともなるイエスは
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん

この曲の三番の歌詞「よの とも われれを すてさるときも」という箇所にもグッと来る。自分のまわりから誰もいなくなったとしても、神様だけは見捨てることなく深い慈愛を与えてくれるという意味になるのだろうけれど、グッと来る。私は、頻繁にさみしさに包まれることがあるのだけれど、さみしい時、それは「(ひとに優しくされたいと思うだけではなく)ひとに優しくしたいと思うとき」なのではないだろうか、ということを思う。


私は、一応無宗教ということになるのだろうけれど、キリスト教徒にとっての『イエス』的なものを、自然に対して抱くことがある。元気な自分を肯定することは易しいけれど、元気のない時の自分を肯定することは難しい。だからこそ「何かをしなくちゃいけない!」という思いに苛まれてしまうこともあるけれど、そういう時こそ、自然の「ありのままでそこにある」その姿に、深いやすらぎを覚えることがある。そして「自分も自然の一部なら、自然を愛するように自分を愛していきたい」という思いに立ち戻る。

『お灸のすすめ(+せんねん灸オフ)』

f:id:ibaya:20161011184154j:plain

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、池田書店『お灸のすすめ』です。こちらの本+お灸(実物70点入り)は、熱海に遊びに来てくれた方が「これはいいですよ!」とご持参くださった、本とお灸のセットになります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

古くから親しまれてきた自然療法、「お灸」。実は、高温多湿な環境や、水分をたっぷり含む食文化を持つ、私たち日本人には相性ばつぐん。小さな刺激で体をじっくりあたため、いたわることのできるお灸を、ぜひ、体感してみてください。ー 『お灸のすすめ』【池田書店


弱さは「希望」だ。

あがったりさがったりを繰り返しながら、日々は続いている。自分にとって嫌なことがあると、その嫌なことばかりにフォーカスをしてしまって「あああ、この人生はクソだ!!」などと思ってしまうこともあるけれど、多分、チャップリンも言う通り『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ』ということなのだと思う。大事なことは、自分の人生を、自分自身を肯定していこうとする姿勢【ロングショットで眺める余裕】なのだと思う。


稀に、このような生き方しかすることのできない自分を「ダメだなあ」と思うこともある。もっと『しっかり』生きないととか、もっと『ちゃんと』しないととか、そういうことを考えてしまうこともある。こういう場合、私は、自分を「得体の知れない普通と比較をする」ことによって酷く傷つけているのだと思う。しかし、自分がこのような生き方しかすることができなかったからこそ、出逢えたよろこびや感動があることも確かであり、そういうことを思い出す時に「これはある種の因果だな」という気持ちになる。

前回の投稿を見てくださった方から、一通のメールが届いた。うまく言葉にすることができないけれど、私は「自分の弱さに支えられている」のだということを思った。自分が弱い存在だからこそ、弱さの余白に希望は舞い込み、多くの助力を得ることができる。自分が弱い存在だからこそ、自分が自分を励ますために必要とした言葉の数々が、同じような弱さを抱えるひとにとっての(酷く傲慢な言い方になるけれど)ある種の光になることができる。「それならば」と、私は思う。自分の弱さを忌み嫌うだけで終わらせるのではなく、ひととひととを結び付け得る尊いものとして、大切に扱っていきたいと思った。


こんにちは。はじめまして(*^^*)
◯◯◯◯と申します。
わたり文庫の『いつも忘れないで』読んでみたいと思い、応募します♪♪


いつもメールを読ませて頂いてます!
ここ2週間程気持が塞ぎ込んで、家に引きこもっていました。(現在妊娠4ヶ月の専業主婦です)
やりたいことも見つからず、楽しいと思えることもわからないような気持ちだったのですが、
そんな時に坂爪さんのブログを読んで、

この子のためじゃなく、
私のためにこの子(お腹の子)と生きたい!

と言う言葉が浮かんで、すごい勢いで泣きました。
私のために動く
本当はずっとそうしたくて、
そうしていいんだと坂爪さんの言葉に背中を押された気がしました!
どこかで子供のために我慢しなきゃ…って思ってたんです。それが常識なんだと。
もちろん体調を優先して無理なくですけど、
妊婦でも、出来ることがある!
そう思えました(*^^*)
今やりたいことは、会いたい人に会いに行くことです。
そして食べたいものを食べることです♪

坂爪さんのブログで元気を、気づきをもらいました!
ありがとうございます(*^^*)

メールが長くなって申し訳ありません!
応援しています!!

◯◯◯◯

f:id:ibaya:20161011180215j:plain

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

ひとに迷惑をかけてはいけないのではなく、どれだけ楽しい迷惑をかけられるかの勝負だ。

f:id:ibaya:20161006204540j:plain

新宿から吉祥寺まで徒歩で2時間、吉祥寺から国立まで徒歩で3時間かかり、国立で開催されたイベントに登壇した後に、いま、神奈川県藤沢市にあるデニーズにいる。藤沢でカレラのロードバイクをお借りすることができたので、このブログ記事を書き終え次第、藤沢から熱海の自宅まで自転車で戻ってみたいと思っている。所持金はマイナスになってきたものの、その程度の理由で自分の行動を制限されてしまうのはイヤなので、無料で移動する為の(かつ、逞しく生きる力を手に入れる)方法を探している。


新宿から国立まで歩いている道中、何度か「俺は何をやっているのだろう」という思いに囚われた。俺は馬鹿なんじゃないのだろうかと、自分に対する猜疑心のど真ん中にいた。だからなのだろうか、私のような生き方でも、誰かに何かを残せているのだと思えた瞬間の喜びは大きい。こうした瞬間に触れると「ああ、これからもいろいろなひとと話したいなあ」という気持ちが湧き上がる。10月は何も予定がないの(私は暇でさみしい人間なの)で、もしも坂爪圭吾のお話会的なサムシングをご希望してくださる方が奇跡的におりましたら、規模の大小などは関係ないのでいつでもお気軽にお声かけいただけると嬉しいです!!

坂爪圭吾の連絡先
keigosakatsume@gmail.com

家がないから死ぬのではなく「家があるから死ぬ」

国立のイベントに登壇した際に、久しぶりに人前でホームレス時代の話をした。同棲していた彼女と別れたことをきっかけに家を持たない生活をはじめた私だけれど、根本的に怠惰な自分は「家があるとYOUTUBEを見たり永遠に寝てしまう」堕落的な傾向がある。そのため、家を持たない生活というものは「怠惰な自分のケツを叩く」にはもってこいの状況であり、それが結果的に功を奏したのだと思う。

家がないと死ぬと思っていた。しかし、家のない生活を通じて「家があるから死ぬのだ」という逆説的な真理を得た。あと、当時は初対面のひとの家にお世話になることも多かったのだけれど、私の中で「連泊はしない」というルールを設定していた。多分、これも良かったのだと思う。根本的に私はビビリなので「連泊をすると迷惑だろうなあ」という遠慮や抵抗感が常にある。しかし、逆に言えば「一泊くらいなら、ある種のアトラクションとして泊めてくれるひとも楽しんでくれるだろう」と睨んでいた。

そのあたりから「ひとに迷惑をかけてはいけないのではなく、どれだけ楽しい迷惑をかけられるかの勝負だ!」的なことを思い始めた。自分のことは自分でできて一人前、誰かに頼るのは半人前のやることだという前提の生き方では、自分に何かがあった時に「誰かに助けを求める力」を養うことができない。私は、昔から誰かに甘えることが極端に苦手な人間だったのだけれど、家無し生活を通じて「敵が味方になる」という価値観の変化が起きた。

目からウロコ「敵が味方になる」

乱暴にまとめると、昔の自分には「他人とは張り合う対象である」的な認識があった。私が30歳なら、普通の30歳はこれくらいの家に住んで、これくらいの年収があって、これくらいの腕時計をしているものだ的な謎の基準が自分の中にあり、そこからはみ出さないようにはみ出さないように謎の努力をしていたように思う。言い換えるならば、自分が幸せになることよりも「他人から幸せだと思われること」に主眼を置いた生き方をしていたのだと思う。

しかし、家がなくなったらそんなことを言っている場合ではない。他人と張り合っている場合ではないのだ。「誰か泊めてください」的なことを叫び出したあたりから、自分の中にある余計な見栄やプライドが消えて、誰かに助けを求めるための練習を(無意識の内に)していたのだと思う。いままで、自分にとって他人とは「張り合う対象【敵】」だったのが、この頃から少しずつ変わってきた。大袈裟な言葉で言えば「敵が味方になる」ということを感じていた。

これがどういうことかというと、たとえば、イベントなどに登壇した際に30人くらいのお客さんがいたとすると「ここにいる人達ひとりずつに土下座をしてまわれば、ひとりくらいは自分を泊めてくれるはずだ」的な思考を持つようになった。私は、いつの間にか(敵を探すのではなく)味方探しをするようになっていたのだ。そして、不思議なことに自分が「どこかに味方はいるはずだ」的な認識で世界を眺め始めてから、やさしいひととの出会いが圧倒的に増えた。私は「ひとはやさしい」という当たり前の事実を、ようやく、自身の実感を通じて強く信じることができるようになったのだと思う。

大事なことは「ひとを信頼する」こと。

最近は「人間に対する信頼感と不信感」について考えることが多い。先日、ある方と話していた時にひとつの印象的な話題があがった。非常時に備えて、その方は貯蔵庫に水や食料や日用雑貨などを備えているのだけれど、緊急時の際はひとが暴徒と化して強奪に来るかもしれないから、いま以上に厳重な鍵を用意する必要があるし、場合によってはそういうひとを撃退するためのライフルが必要になるのかもしれない、というような話をしていた。


私は、その話を聞きながら「勇気とは武器を手にすることではなく、武器を捨てることだ」と直感的に思った。大きな話になるけれど、世界平和を望むなら「まずは自分の平和を実現すること【まずは自分から武器を捨てること】」だと思った。各種SNSなどを目にすると、たとえばラブ&ピースを唱えながら「安倍政権くたばれ!」的なことを平気で口にしている人達がいる。これはもう、戦争のはじまりだと思う。自分の中の争いを終わらせなければ、言葉や行動に説得力は宿らないのではないだろうか。


これらの経験を経て「大事なことは、ひとを信頼すること」だということを思った。いいひとと悪いひとがいるのではなく、多分、ひとりの人間の中にいい部分と悪い部分の両方があり、時と場合によって出てくる部分が変わるだけの話なのだと思う。大事なことは、人類の中に眠る「悪魔スイッチ【不安や恐怖を原動力とする的なサムシング】」を押し合うことではなく、人類の中に眠る「菩薩スイッチ【希望や喜びを原動力とする的なサムシング】」を押し合うコミュニケーションを目指すことではないだろうかと思うようになった。

『いつも忘れないで。』

f:id:ibaya:20161007113724j:plain

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、浅見帆帆子さん著作『いつも忘れないで。』です。こちらの本は、国立で開催されたイベントに千葉県から2時間かけて来てくれた女性が「自分にとって本当に大切な本なので、是非、読んでみてください!」と預けてくれた一冊になります。やさしい気持ちになれるような、まあるい気持ちになれるような、温もりにあふれた一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、長野県にわたりました ※※※

言霊の力を理解すると、ためしに言ったことが本当になってしまう経験をすると、マイナスの言葉、なにかの批判をする言葉、ねたみ、そねみ、毒々しい言葉などは、口にするのが嫌になる。きれいごとではなくて、マイナスの影響が自分に戻ってくるのがよくわかるから。聞くだけでも嫌になってくる。そんなことばっかり言っている人からは、離れたくなってくる。自分の心に入ってくるだけでもマイナスだと思うから。ー 浅見帆帆子『いつも忘れないで。』【ダイヤモンド社


みんな、揺さぶられながら生きているのだ。

2016年の秋は大きな意識改革が起きるとスピリチュアル界隈では話題だけれど、その内のひとつに「この時期は揺さぶられるような体験をするひとが多く、過去に引きずり戻されるひとと、行きたい未来に突き抜けるひとと、大きく二極化する」的なものがあるのだと聞いた。現在も絶賛揺さぶられる日々のど真ん中を生きている私は、この話を非常に興味深く聞いていた。そして、自分自身を(何度目になるのだろうか)見つめ直していた。

私は、何かあるとすぐに自分を閉じて殻に閉じこもりガチになる傾向がある。私の友達の嘉向徹の身体ありがとう君は、この現象を『閉じティブシンキング』と名付けているのだけれど、閉じティブシンキングにまみれている瞬間の私は、思い切り過去の自分に引きずり戻されているような感覚を覚える。自分が「これだ!この感覚が欲しかったんだ!」と思える瞬間を生きているという感覚よりも、何かこう、すごく後ろ向きな感覚に自分の体が支配されているような気持ちになり、自分を好きでいることが難しくなる。

東京の空は綺麗で「東京にも空はあるじゃないか」と思った。やはり、自分が大切にしたい感覚は「清々しさ」や「晴れやかさ」であり、金があろうがなかろうが、自信があろうがなかろうが、世間的な肩書きがあろうがなかろうが、いい感じの風を吹かせながら生きていきたいと願う根本的な単純さは変わらない。自分の存在意義を見失って「俺はダメだ、クズだ、ゴミ人間だ!」という思いに囚われることもあるけれど、なめくじが大量に発生しそうな生き方をするのではなく、無様でも、不器用でも、自分が「これだ!この感覚が欲しかったんだ!」と思える生き方をしていきたいのだと思っている。


f:id:ibaya:20161007112938j:image

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない。

f:id:ibaya:20161005081110j:plain

新潟から東京まで片道1800円の高速バスに乗り、朝の5時過ぎに新宿に着いた。今夜は国立市で開催されるイベントに登壇するため、いま、徒歩で移動をしている。新宿から国立まではおよそ25キロ、グーグルマップで調べると所要時間はおよそ5時間程度らしい。歩き続けたフィナーレを、銭湯で迎えたら最高だろうなと思っている。

現在は、初台のデニーズにいる。この界隈は昔住んでいたこともあり、懐かしさがこみ上げている。振り返って見ると、18歳の頃にひとり暮らしをはじめてから「南大沢→京王稲田堤→芝公園→代々木→東新宿→目白→早稲田→神楽坂→目黒→本郷三丁目上板橋高田馬場→代々木八幡→ホームをレスする→熱海」と、過去に14回ほど引越しをしていることに気がついた。移動を繰り返すのは、多分、どうしようもない性分なのだと思う。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。


上記の言葉は、自分自身を支える標語のようなものになっている。現在は31歳になり、昔より、少しだけ自分のことがわかってきた。金を稼ぐのが苦手だということ、ひとりの時間がなければ頭がおかしくなるということ、文章を書くということでどうにか精神の安定を保っているということ、根本的に愚かだということ等。時折、私は「金で支払うことができないものを、体で支払っている」という感覚を覚えることがある。

2・自分が「これだ!」と思った生き方を貫くこと。


何者でもない私は、何者でもないが故に「他人に同情を求めてしまう」ことがある。自分の生き方にまだ名前が与えられていない時、世間一般的な職業にあてはまるものが見つからない時、どうしたってある種の孤独を感じることがある。そういう時に、私は上記の「ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること」という言葉を思い出す。自分の生き方にまだ名前はなくても、自分が「これだ!」と思った生き方を貫くこと。いまの自分にあるのは、それ位しかないのだということを思う。

3・「あなたに会うため」に生きている。


今月のテーマは「歩きながら、考えよう」でもあるために、自己ベストを更新する距離を歩いてみたいと思っている。道中、誰かから「なぜ歩くのですか?」的なことを問われたら「あなたに会うためです」とドヤ顔を決めて、一緒に話しながら歩くなんてことができたら素敵だなあなどと思っている。今夜のイベントに登壇するのも、多分、同じ理由からだ。なぜイベントに出るのか、それは、言いたいことがあるからというよりも「(それをしなければ出会うことのなかった)あなたに会うため」なのだと思っている。

4・人生とはボーナスタイムである。


クリシュナムルティは「恐怖はそれがいかなるかたちのものであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」と言う。恐怖ベースの生き方では、自分の持ち味を最大限に発揮することは難しい。私自身も、容易に不安や恐怖に包まれて「生きるのが怖い!生きるのが怖い!」となりがちな人間なので、率先して自分を壊しにかかる必要がある。一度は死にかけた人生である。いま生きているのは『ボーナスタイム』みたいなものだと思えば、多分、意外とどうにかなるような気がする。


5・よし、失敗してやろう。傷ついてやろう。


現在も反抗期が続いている31歳の私は、根本的に「みんなと逆のことをやればOK!」と思っている節がある。認められることをやるのではなく「認められなくてもやる」ことの中に、才能があるからやるのではなく「才能はなくてもやる」ことの中に、成功するためではなく「失敗するためにやる」ことの中に、そういう人間の後ろ姿に、どうしようもない魅力を覚えることがある。彼らの姿には、人間には『愚行権』があるのだということを思い出させてくれる力がある。賢者と同じ程度に、私は、愚者が好きだ。

6・無邪気なわがままは最高の美徳。


上記のツイートが結構なスピードで拡散された現象を通じて「ああ、現代日本は我慢をしながら生きているひとが大量にいるんだなあ、自分だけではないのだなあ!」と、勝手に嬉しさを覚えていた。我儘という言葉を使ったけれど、ここには注意点がひとつだけあるような気がする。それは「こどものように無邪気であること」だと思う。邪気のある我儘は、うまく言葉にできないけれど、最低だと思う。

7・自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけない。


おかしいと思うものに対しては「おかしい!」と叫ぶ力をなくしてしまうと、自分の頭がおかしくなってしまう。社会不適合者という言葉もあるけれど、年間三万人の自殺者がいて、100万人を超える鬱病患者がいるとされている現代社会に適応してしまったら、おかしくならない方がおかしいと思う。必要なことは「適応」よりも「開墾」で、多分、ひとりひとりが抱える違和感の中に未来を拓くヒントはあるのだと思う。

8・自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない。


私が生まれてはじめて買ったCDは及川光博さんの「嘘とロマン」で、昨日、YOUTUBE及川光博さんのLIVE動画を見ていたらキャプションの部分に『さあおいで!イエス!レッツ自己解放♪』と書いてあり、私は「なんていい言葉なんだ!」と打ち震えた。私が、家のない生活を通じて獲得した真理のひとつは「自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない」というものであり、緊張や恐怖や不安は、自分を閉じがちなものにしてしまう。この動画を見ていると「踊りって素晴らしいなあ!」というよろこびが充満する。私も、熱海のプアリーダーとして踊りを日常に取り入れていきたいと思った。


9・中途半端な未練を断ち切ること。


落ち着けば、大概の問題はどうにかなる。

『君あり、故に我あり』

f:id:ibaya:20161005080720j:plain

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サティシュクマール著作『君あり、故に我あり』です。こちらの本は今年度の私的バイブルでもあり、是非、ひとりでも多くの皆様に手に取っていただけたら嬉しい(そして書かれている内容について語り合いたいと思える)一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、高知県にわたりました ※※※

もし我々の社会が、尊厳を保ち後ろ向きの考えを持たない、ある程度心の平和を達成している人々で溢れていれば、当然、人々はどんな『敵』も恐れないだろう。しかし、我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について我々に語りかける。それが彼らの利益にかなうのだ。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる。軍備に世界の資源の多くを費やす指導者を我々が持っているのは、不思議なことではないのだよ。精神的平和と政治的平和、内面の平和と世界の平和の関係を理解するのは容易ではないかもしれないが、これらの二つの側面は不可分であり、完全につながっている。ー サティシュクマール『君あり、故に我あり』【講談社学術文庫


10・弱いからこそ、足りない部分があるからこそ、誰かとつながることができる。



自分には何もないと感じる時期はつらいが、何もないからこそ染み渡ってくるものもある。疲労感を覚えた時に、好きな歌を口ずさむだけでも、好きな道を歩くだけでも、好きな人のことを思うだけでも、元気が湧き出してくることがある。そして、その時に「自分には何もないということはないのだ」ということを思う。歌も、自然も、好きなひとの存在も、心の中にある大切なものたちは誰にも奪うことはできないのだ。


貧しさとは何だろうか。金がないことが貧しさなのだろうか。誰もが持っているものを、自分だけは持っていない状態が貧しさなのだろうか。多分、貧しさとは「どれだけ多くのものを持っていたとしても、まだ足りない、まだ足りないと思ってしまう心理的な状態」のことだと思う。逆に言えば、豊かさとは「足りないものは何もない」と思えている心の状態であり、昔の人は、この状態を「足を知る」と呼んだのだと思う。


自分に足りないものを数え上げればキリがない。しかし、自分にあるものを数え上げれば、どれだけ自分が恵まれた環境にいるのかを実感することができる。何もかもなくしたつもりでいても、自分には歩き出すための両足があり、目や耳や鼻や口があって、好きな音楽があり、好きな自然があり、好きだと思えるひとたちがいる。完璧な人間はいないし、完璧な人間になる必要もない。弱いからこそ、足りない部分があるからこそ、誰かとつながることができるのだと思う。


人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

大事なことは、自分の人生を、自分自身を肯定していこうとする姿勢だ。

f:id:ibaya:20161004014205j:image

素晴らしい人物を紹介させてください。数年前、新潟市西蒲区(旧・巻町)で、あらゆるものを自作する鈴木さん(仮名)という男性と出会いました。今回、鈴木さんに再会するために、仲間達と一緒に西蒲区に足を運びました。私は、そのひとと同じ空間にいるだけで半端ない嬉しさがこみ上げてくるような圧倒的肯定力を携えた方々を「奇跡のひと」と名付けているのですが、鈴木さんはまぎれもない奇跡のひとだと思います。


私は「圧倒的肯定力」という言葉が好きで、圧倒的肯定力を身に纏うひとのことはもっと好きです。熱海のムラキテルミさんや、新潟のカムキヒデオさんも、存在に触れるだけで嬉しさがこみ上げてくるような圧倒的肯定力があり、私は勝手に崇拝をしています。今回は、過去記事に書ききれなかった鈴木さんのエピソードを幾つも耳にした(あるいは実際に目の当たりにした)ので、補足的にまとめます。


30万円で自作をした山小屋。


f:id:ibaya:20161002175908j:plain

こちらが、鈴木さんが30万円で自作した丸太小屋です。

f:id:ibaya:20161002175930j:plain

1年間に450回登山をしたことがあるというもはや意味不明レベルの鈴木さんは、山小屋の雰囲気を愛しています。「山小屋はね、泊まりたいひとを追い出すことはできないんだよ。だって、満杯だからってひとを外に追い出してしまったら、そのひとは寒さで死んでしまうからね。だからね、どれだけギュウギュウ詰めになってもね、来たひとみんなで布団を分け合って眠るんだよ」と鈴木さんは話します。

f:id:ibaya:20161002175947j:plain

頼まれたことはなんでもやるようにしている鈴木さんは、いつの間にか家の解体までできる腕前を手に入れました。「この家の支柱とか、植木鉢の下にある欅の木とか、花壇のしきりに使っているお風呂のタイルとか、全部、家を解体したときにもらってきたものなんだよ。ゴミは宝の山だよ。頼まれたことはなんでもやるようにしていたら、いつの間にかなんでもできるようになったんだよ。面倒なことを、よろこびながら、楽しみながらやるんだよ」と鈴木さんは話します。

本はタイトルが10割。

f:id:ibaya:20161002175718j:plain

鈴木さんは、新聞の切り抜きを壁に貼っています。鈴木さん曰く「本で一番大事なのはタイトルなんだよ。だから、中身は読まなくても何が書いてあるのかは、タイトルを見ればわかるんだ。だから、僕は本のタイトルを壁に貼っているんだよ」とのこと。本の中身は読まないそうです。それを聞いた私達は「鈴木さん、流石過ぎる!!」となり、他にも、私達が「心配事の9割は起こらない」という本の切り抜きを見ている時に、鈴木さんは話してくれました。

「僕の家は、ライフラインが全部止まっても全然へっちゃらなんだよ。発電機もあるし、畑もあるから半年分の食糧もあるし、薪ストーブで煮炊き料理もできるし、田舎だから湧き水もあるし、太陽光でお風呂も入れるんだよ。マスコミとかは、これが危ないとかいろいろなことを言うけれど、間に受けてしまったら『これをせばなんね、あれもしねばなんね(新潟弁で「これもしないと、あれもしないと」)』ってなってしまう。でも、僕の家は大丈夫だから、心配することはないんだよ」

私達は、それを聞いて「困ったら鈴木さんのところに行きます!」と叫びました。

f:id:ibaya:20161002180026j:plain

家を建てていた当時の写真も見せてもらいました。

f:id:ibaya:20161002180050j:plain

あまりにもダイナミックな木材の運び方や、

f:id:ibaya:20161002180027j:plain

鈴木さんが自作をしたクレーンの写真まで。鈴木さん曰く「これは8万円で作ったんだよ。DIYの道具をDIYしたんだよ。クレーンはね、レンタルをすると1日4万円以上かかるから、毎日借りたらとんでもない金額になってしまうよね。でも、これなら2日も使えば元がとれるんだよ。自分が使いたい時にクレーンを使うことができるし、家ができたら解体をして外に出すこともできるんだよ」とのこと。

f:id:ibaya:20161002180039j:plain

このように、クレーンは解体ができます。

f:id:ibaya:20161002175702j:plain

鈴木さんの元を訪れる、若い人々との写真。

瞳の輝いているひとを信じる。

f:id:ibaya:20161002175651j:plain

畑で採れた特大のサツマイモを披露してくださる鈴木さん。ご覧いただければわかると思うのですが、瞳の輝きが尋常ではありません。私は「瞳の輝いているひとを信じる」的な信仰の持ち主でもあるのですが、鈴木さんの瞳に神様を見ました。髪を後ろで結んでいる鈴木さんの姿も非常にキュートで、よく見ると輪ゴムでした。肌のツヤも若々しく、ああ、人間はこんな風に年をとることができるのだという希望の光を、私達は与えられました。

これは余談になるのですが、この時、一緒にいたちーちゃんという女性が「やばい!しゃっくりが止まらない!」と自身の窮状を訴えます。その後、様々な方法を試みるもののしゃっくりは止まらず「けいごさんの目力は半端ないから、けいごさんの目を見ていたら治る気がする!」となり、私とちーちゃんは20秒間ほど見つめ合いました。すると、なんということでしょう、ちーちゃんのしゃっくりは見事に止まり、私達は「目の力半端ねーー!!」ということになりました。

王様のイスと湧き水。

f:id:ibaya:20161002180646j:plain

こちらは、鈴木さんご自慢の「王様のイス(油性ペンで直書き)」です。

f:id:ibaya:20161002180118j:plain

鈴木さん曰く「これはね、動かせるように下にゴロゴロを付けたんだよ。立派な木をもらったからね、これをイスにしたら気持ちいいだろうなあって思ったんだ。それでね、名前のないイスよりは『王様のイス』って名前の方が、座った時にうれしいでしょう??イスの文字がカタカナなのはね、漢字で書くとどうなるんだっけってわからなくなって、間違えてしまったら座るひとにも申し訳ないからカタカナで書いたんだよ」とのこと。それを聞いて、私達は「鈴木さん、可愛すぎる!!」となりました。

f:id:ibaya:20161003174511j:image

最高の座り心地を誇ります。

f:id:ibaya:20161002180457j:plain

鈴木さんの案内で、近所の湧水を案内していただきました。

f:id:ibaya:20161002180604j:plain

赤とんぼが指に止まります。

f:id:ibaya:20161002180613j:plain

撮影会がはじまります。

f:id:ibaya:20161002180728j:plain

こちらが、名水百選にも選ばれた湧水です。

f:id:ibaya:20161002180701j:plain

これを聞いた時にはウルトラ驚いたのですが、こちらの湧水、実はすべてを「鈴木さんが自力で採掘をして、自力でコンクリートの井戸を整え、自力で配管システムを整えて、自力で市に水質検査を要請して見事に認定されたものである」ということが判明しました。近くの看板には、小さい文字で「水が出ていなかったら、電話してみてください。090ー○○○○ー○○○○。近くにいれば、五分位で行きます」と、鈴木さんの携帯電話の番号が書かれていました。それを見て、私達は「鈴木さん、凄すぎてやばい!!」となりました。

秘密のログハウス。

f:id:ibaya:20161003175543j:image

ブログ記事にどこまで書いていいのかわからないのですが、この、非常にいい感じの土地の近くには秘密の隠れ家があります。私達は「(近くに海も山も温泉も湧き水も鈴木さんもあり、仕事などの作業にも集中できそうな)ここに住めたら素敵過ぎる!!」となり、非常に図々しい話ではありますが、鈴木さんに「どうすればこんなにも素敵な家を使わせていただくことができるものでしょうか??」的な話をしました。

このログハウスがどのような展開を見せるのかは、これからのお楽しみということで、またの機会にご紹介をさせていただきます。鈴木さんのすべてのエピソードを紹介することができないのが残念ではありますが、個人的に、一番響いた言葉は「家の中は寝るだけでたくさん。できるだけ外にいたい」でした。同じ場所にずっといることのできない私は、ああ、わかる、わかるなあと勝手に肯定されているような気持ちになりました。

大事なことは、自分の人生を、自分自身を肯定する姿勢だ。

鈴木さんとお別れをした後に、私は、自分自身のことを振り返っていました。平均的な生き方から自分がはみ出してしまっていると感じる時、誰もが当たり前にできることが自分にはどうしてもできないと感じる時、その「精神的な味方・拠り所の少なさ」から、一時的に自信を喪失してしまう時があります。そんな時は「自分はダメだ!クズだ!ゴミ人間だ!」みたいな気持ちにもなりますが、しかし、平均的な生き方からはみ出してしまっている自分を強く励ましてくれるものは、同じように「(鈴木さんのように)平均的な生き方をはみ出していながらも、常に圧倒的肯定力を携えているひとびと」だったりもします。


自然に触れた時、素晴らしい芸術や素晴らしい人柄に触れた時、私のこころはある種の圧倒的肯定力に包まれて、大袈裟な言葉ではありますが「自分は自分でいいのだ【永遠にそのままで行け】」という気持ちになります。否定的な考え方は世界に『敵』を生み出して、肯定的な考え方は世界に『味方』を生み出すものだと思います。私は、圧倒的肯定力に包まれている瞬間のこの感覚が大好きで、大事なことは「否定的な考え方に囚われるのではなく、自分の人生を、自分自身を肯定していこうとする姿勢だ」ということを思います。


鈴木さんにお会いする前に、私達は、西蒲区にある角田山を登りました。登山道を歩きながら、私は、自分の表情が自然と笑みを浮かべていることに気がつきました。そして、ああ、自分は本当に自然が大好きなのだなあということを思いました。素晴らしい景観を前に「うわあ」と声をあげている瞬間の自分は、自由そのものであり、平和そのものでした。多分、自由なひとは自由を発散し、平和なひとは平和を発散しているのだと思います。それならば、この世で一番大切な仕事は「自分の平和を維持すること」ではないのだろうかと、否定的な思いに囚われてしまうこともあるけれど、自分の人生を、自分自身を肯定していこうとする姿勢が大切なのだということを、ひとり、夜道を歩きながら考えていました。


f:id:ibaya:20161002175129j:plain


f:id:ibaya:20161002180747j:plain

f:id:ibaya:20161002180757j:plain

f:id:ibaya:20161002180850j:plain

f:id:ibaya:20161002180901j:plain

f:id:ibaya:20161002180914j:plain

f:id:ibaya:20161003201051j:image

f:id:ibaya:20161002181007j:plain

f:id:ibaya:20161002181036j:plain

f:id:ibaya:20161003201210j:image

f:id:ibaya:20161003201233j:image

f:id:ibaya:20161003201425j:image


f:id:ibaya:20161004014205j:image

人生は続く。

photographed by Chiaki Photo

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

死なないためのユーモア。

f:id:ibaya:20160929210744j:image

10月5日(水)19時から、東京の国立市でトークイベントを開催していただく運びになりました。どなたでも参加できる内容になるので、是非、お時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください。とてもじゃないけれどブログには書けないようなあれこれを、リアルの空間をお借りしてお話させていただけたら(あと、自分が一方的に話すよりも参加者のみなさまのお話も聞きたい!)と思っています。

【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会in 国立

ブログに書ける範囲内の、最近思ったことをまとめます。

1・動物占いだけが俺を肯定してくれた。

最近は動物占いにはまっておりまして、まず、自分が「ネアカの狼」であることが判明しました。WEBなどで検索をしていただけるとわかるのですが、ネアカの狼の特徴としては「ひとりの時間や空間がないとダメになる」とか「初対面はとっつきにく」などがあります。でも、付き合ってみると以外と可愛らしい部分がたくさんあることがわかり、かつ、ハートがピュアであることもわかります。

私は、何かあるとすぐにひとりになりたがる傾向が顕著にあるのですが、そんな自分を「ダメだ!ダメだ!弱者だ!」と責めてしまうことが頻繁にあります。そんな時は腐ったトドのような顔面になることが多いのですが、動物占いだけは「大丈夫。大丈夫。そんなあなたでも、生きてていいんだよ」と言ってくれているような気がして、それ以来(といっても、数日前から)動物占いを贔屓するようになりました。

動物占いだけでも人間は12種類に分類されるので、当たり前のことですが「誰もが異なった特性をもっているのだから(【例】自分軸を持った方がいいひともいれば、自分軸とかないほうがいろいろなことがスムーズに進むひともいる等)、違いを否定するのではなく、違いを楽しむ精神的な余裕がゆとりを生むのだ」ということを思いました。


2・新潟のひとは優しくて陰湿。

昨夜、新潟市西区イロハニ堂さんで「欧州紀行の結果報告会的なサムシング」を開催しました。そこでは様々な方々と話をする機会に恵まれたのですが、新潟県のひとは「(雪国で冬はまったく晴れないからなのでしょうか)表面的には優しいけれど、内面的には陰湿で陰険なひとが多い」印象があります。

私自身も、高校を卒業するまでは新潟市内で暮らしていたのですが、基本的に「自分は友達も少なくて夢も希望も何もない、生きていてもしょうもない存在だ」みたいな風に自分のことを思いながら生きていました。多分、似たようなひとはたくさんいるのではないだろうかと睨んでいます。だからなのでしょうか、北と南ではどことなくユーモアの種類も異なるような気がしていて、北に行くほど「自虐生が高まる」ように感じています。これは余談になりますが、私は、自虐性の高いひと(自意識に苦しむひと)が好きです。


この前、ロンドンに行った時に「(非常に僭越な話ではありますが)新潟に似ている」と思いました。多分、南国の島々でUKロックを聞いても何も身体にはいってこないと思うのですが、裏日本を覆い尽くす曇天の中でレディオヘッドのハイアンドドライなどを聴いていると、五臓六腑に染み渡る(「ほっといてくれ」的な)共感を覚えることがあります。これは余談になりますが、スペインやオランダに行った時に「ここは本当に素晴らしい場所だと思うけれど、みんなが幸せそう過ぎてついていけない」などと思いました。逆に、モスクワやヘルシンキなど、ある程度の自殺者を安定して輩出している国には、親しみにも似た感情を覚えました。


3・カウンセラー殺人事件。

いきなり何を言うのだ!と思われるかもしれませんが、私には、やりたいこととか夢とか理想とか野望とか、そういうものがありません。しかし、やりたいことがないなどと言うと「お前は無気力な人間だな!死ね!」と言われているような気がして、できるだけ「夢や理想を持っている風」に生きていた時期があります。でも、そうしたふりも長くは続かず、最終的に「俺は俺だからいいのだ」と、やりたいことは何もない自分を肯定的に見れるようになってきました。

それでも、稀に「いやいやそんなことないでしょ!やりたいことは必ずあるはず。あなたは自分のこころに蓋をして生きてきた時期が長いから、でも、大丈夫。安心して。勇気を出して、自分のこころの声を聞いてあげて。さあ、あなたのやりたいことは何??ほんとうは、どうしたいと思っているの??」的なことを聞いてくるカウンセラー的なひとと出会うことがあります。

私は、最初は「はあ」とか「へえ」などと答えているのですが、あまりにもカウンセラー的なひとが「ちゃんと自分と向き合って!こころの声を聞いてあげて!さあ、あなたのやりたいことは何!」などと聞かれてしまうと、最終的に「しつこいお前を殺したい」などという非常にバイオレンスな声が自分の内部から生まれてしまうために、いまでは、カウンセラー的なひとを見かけると一目散に逃げ出すようになりました。

何が言いたいのかというと「やりたいことは必ずあるはず」という謎の前提や「やりたいことをやらなければいけない」という強迫的な雰囲気は、時に、ひとを苦しめてしまうことがあるのではないだろうかということです。上記に挙げた例はひとつの冗談に過ぎないのですが、親や周囲の人間の過干渉が原因で、それを受けたこどもとかが「お前を殺したい」という復讐の感情を抱くようになってしまったら、裏目の中の裏目になると思いました。これは余談になりますが、ネアカの狼としては「ほっといてくれる」ひとの姿に愛を見ます。

4・ヨガの先生はヨガをやった方がいい。

先日、わたしの友人が複数の人達と一緒に登山をしました。登山のメンバーには、普段、ヨガの先生をやっているひとがいて、登山中も「ヨガ的にはこうやって歩くといいんだよ」とか「こういう呼吸をするとこころのモヤが晴れるよ」的なアドバイスをしてくれたのだそうです。それを聞いていた友達は、最初は「へー!なるほど!素晴らしい知識をありがとう!」と感心をしていたのですが、徐々に様子がおかしくなってきました。

前半は、まだまだ体力的にも余裕があるために、ほがらかなムードの中でみんなで登山を楽しんでいました。しかし、後半にさしかかり、みんなの体力が尽きてくるほどに会話も減り、いよいよ『人間の本性が露わになりやすい』状態になってきました。最初にイライラしはじめたのは、ヨガの先生でした。疲れたとか、休みたいとか愚痴をこぼすようになり、付き添いのガイドのひとに「あと何分で終わりますか?」と尋ね、ガイドのひとが答えてくれた時間になっても(途中で休んだりしたために)終わらず「時間になっても終わんねえじゃん!!」と、ガイドさんに向かってブチ切れていたのだそうです。

わたしは、これを聞いて「なんて面白い話なのだろう!」と思いました。誤解されると困るのですが、わたしはヨガの先生という職種を罵倒したい訳ではありません。わたしの感想は、ヨガの先生をやっていると言う人に「表面的にはやさしそうだけど、なんだか怖い。裏がありそう!」と感じた経験が、いままでにもたくさんあったなあということです。これは完全に余計な御世話ですが、ヨガの先生はもっとヨガをやった方がいいと思いました。

5・青いスーツのおばさん。

生きていると「人生はギャグだ」と思うことがあります。多分、誰もが大なり小なり矛盾を抱えた生き方をしていたり、矛盾を抱えた発言をしているのだから、そういった時のベストな対処方は「違いを指摘して是正すること」ではなく「的確なツッコミをいれること【笑いに昇華すること】」ではないのだろうか、と思いました。論理的におかしなことを言っているひとは、漫才でいうところのボケを担当してくれているのだから、こちら側が見事なツッコミをいれることで「無事に笑いが成立する」のだと思いました。

他にもいろいろな話をしたのですが、このような場所に書いてしまうと、誰かを深く傷つけてしまいそうなので書くことができません。最後に、手前味噌ではありますが自身の体験を綴ります。わたしが、まだ、家のない生活をしていた頃(こんな風に過去の話ばかりをしている自分がすごいダサく感じることがあります)、日本のF県で開催されたトークイベントにゲストとして招待されたことがあります。

その日、わたしが壇上で軽い自己紹介を20秒程度した(家のない生活をしています的なことだけを言った)瞬間に、参加者のみなさまから「家がないとはどういうこと?ホームレスなの?なんで働かないの?親にはなんて言っているの?みんなに迷惑をかけているってこと?そんなんで生きていけると思っているの?大人を馬鹿にしているの?感謝が足りないんじゃないの?保険金は?税金は?食費は?結婚は?老後は?あなたは結局、逃げているだけでしょ???」的なことを一方的に言われ続けてボコボコにされていました。

あまりにもボコボコにされるものだから「これはコミュニケーションがとれないな」と思ったわたしは、このイベントに遊びに来てくれていた自分の友達を笑わせてみせるというところに焦点を定めました。どれだけボコボコにされても構わないから、今日、ここに来てくれている友達を笑わせてやりたい。それだけが自分のゴールであり、あとはすべておまけのようなものになりました。

すると、もうひとりのゲストでもある市議会議院のおばさんが、わたしを見て「あなたは結局、目立ちたいだけなんでしょ?」と言いました。そのおばさんは、コンデンスミルクよりも濃いメイクをしていて、かつ、U字工事よりも派手な青いスーツを着ていました。これはチャンス!と思ったわたしは、咄嗟に「でも、僕は青いスーツは着ません」と答えました。その瞬間、わたしの返答を聞いていた友達の腰が少しだけふわっと浮き、わたしは「よっしゃ!」と思いました。

青いスーツのおばさんは、それを聞いて「あなたったら、まったく・・・」と鼻息を荒くしたあとに沈黙をしました。その後、わたしはまた別のひとびとから引き続き罵倒のシャワーを浴びることになるのですが、こころは非常に清々しく、とても良い風が吹いていました。話が長くなりましたが、何を言いたいのかというと「死なないためにはユーモアが必要」ということです。

死なないためのユーモア。

f:id:ibaya:20160929210933j:image

ほんとうは、今日、今月中に提出しなければいけない各種書類の手続きがあったのですが、あまりにも空が綺麗だったので「すべてを放り出して、海に行こう!」となり、結果的に海にいった自分と(平日の昼間であるにも関わらず仕事をサボって)一緒に海に行ってくれた友達のことが大好きです。どうしてなのでしょうか、社会的にはやってはいけないことばかりをしてしまうけれど、多分、今世は仕方のないことなのだと思います。


最後にちょっとだけ真面目なことを言うと、平和とは「こころの状態」だと思います。世界平和を願うなら、まずは、自分のこころを平和な状態にしておくこと。幸福や充足感は、多分、平和な心持ちの中でだけ感じることのできる感情だと思います。自分のこころの状態が崩れるほどに、見るひとすべてが敵になり、恐怖と猜疑心に包まれて、世界は優しさと色彩を失い、殺伐としたものになってしまう。そして、何よりも悲しいことは「愛する家族や恋人(そして自分自身)のことさえも、疑いの目で見てしまう」ことだと思います。


自分のこころが平和な状態に保たれている時、きっと、それは世界から「敵が消えている」状態になるのだと思います。無敵とは「敵がいない」ことであり、決して完全無欠な個人になることではないのだと思います。個人的な憎しみや恐怖やある種の不機嫌さを抱いたままでは、ネガティブな感情にドライブをされて、利用されたり、利用をしたり、まどわされたり、まどわせてみたり、世界に『敵』を増やしてしまう。幸福や充足感とは「こころの状態」のことであり、自分を楽しませること、自分のこころを満たすこと、自分の状態をピースフルなものに保つことは決して自己満足なんかではない、多分、最優先事項なのだと思いました。


f:id:ibaya:20160929203418j:image

f:id:ibaya:20160929203343j:image

f:id:ibaya:20160929211450j:plain

f:id:ibaya:20160929203358j:image

f:id:ibaya:20160929203534j:image

f:id:ibaya:20160929204918j:image


f:id:ibaya:20160929203515j:image

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

野垂れ死にこそ、男のふるさと。

f:id:ibaya:20160926025941j:plain

アムステルダムを経由してオランダ各都市を巡り、ベルギーのブリュッセルで二泊をした後にフランスのシャルルドゴール空港に到着した。数時間前に羽田空港に到着をして、これから生まれ故郷でもある新潟県に足を運ぶ。本日、9月28日(水)18時から新潟市西区イロハニ堂で「欧州白書の結果報告会的なサムシング」を開催させていただく運びになりましたので、お時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。


合言葉は「やわな生き様じゃとても絵にはならないね」ということで、自分のケツを叩き続ける日々のど真ん中にいる。生きていると本当にさまざまなことがあるけれど、欧州最終日の昨日、ブリュッセルの駅前でタイカレーを食べながら「野垂れ死にこそ男のふるさと」という言葉が降臨してブルッと震えた。ああ、そうだ、死んだら死んだで仕方がないのだ、生きられるだけ生きたら、適当な場所で野垂れ死ぬのみ。なぜだろうか、この言葉を思うと、不思議と「生きてやるぜ」という気持ちになる。

こどもの仕事が遊ぶことならば、大人の仕事は「もっと遊ぶこと」。


フランス、イギリス、オランダ、ベルギーの四カ国を巡った今回の旅路の中で、一番ひとびとが幸福そうに見えたのがオランダだった。街全体に「ひとの幸せを中心に考えている」雰囲気が漂っていて、絞り出すような笑顔のひとは少なく、溢れ出すような笑顔のひとが多かった。隣のユトレヒトではベーシックインカムを導入していて、いよいよ「必ずしも働かなくてもいい時代」は近づいているのかもしれない。逆に、一番重苦しい雰囲気が漂っていたのはベルギーだった(多分、国旗に黒色を使っているのが原因だと思う)。

f:id:ibaya:20160926030721j:plain

こどもの仕事が遊ぶことならば、これからの大人の仕事は「もっと遊ぶこと」になるのかもしれない。もしも何かしらの天変地異が起きて自分が総理大臣になる日が来たら「ベーシックインカムを導入するので、政治家は無給でもやりたいと思うひと(ベーシックインカムの所得給与の範囲内で、充分に満ち足りた生活のできるひと)がやってください」とお願いをするだろう。働かなくても所得が給付されると人間の勤労意欲が削がれてダメになるという意見もあるけれど、多分、人間はもっと信頼に値するものだと思う。

f:id:ibaya:20160926030416j:plain

金がないから公園で食事を済ませる。これが意外と楽しかった。こどもの頃は、金もない癖に謎に楽しい日々を過ごしていた。最高のパフォーマンスやクリエイティビティは、多分、あらゆる恐怖や強制や管理から自由な状態、リラックスできる環境の中で発揮されるものだと思う。仕事から遊びの要素がなくなると、ある種の奴隷みたいなことになる。大人になろうとも、個人的には「遊びまくっていたら、結果的にそれが仕事になった【それがダメなら野垂れ死ね!】」みたいな形が理想だと思っている。


大事なことは、ゆっくり進むこと。

f:id:ibaya:20160926030303j:plain

オランダの森の中にある美術館に足を運んだ。

f:id:ibaya:20160926030319j:plain

金のない私は「ここら辺に生えている木とじっくり会話を交わしているね」ということで、美術館の外で待機をしていた。森林に吹き抜ける風は心地よく、ああ、自分は自然の寛容さが大好きなのだなあということを思った。昔は美術館が大好きだったはずなのに、最近は、入場料金を必要とする施設に対する違和感(商業主義に乗せられてたまるか!という謎の反発)が強い。ただの強がりが9割だけれど、心の底では「ほんとうに素晴らしいものは、無料か、あまりお金のかからないものがほとんどだ」と思っている。

f:id:ibaya:20160926030354j:plain

森の中を進む。

f:id:ibaya:20160926030458j:plain

無音の空間が広がる。

f:id:ibaya:20160926030515j:plain

何もないが、

f:id:ibaya:20160926030529j:plain

何もないがある。

f:id:ibaya:20160926030541j:plain

自然に融け出す感覚は、素晴らしいものだ。


時間に追われるような日々は好きになれない。それでも、無意識の内に「次はどこに行こうか」「何を食べようか」「何時にここを出ようか」「交通手段は何にしようか」「金は足りるだろうか」「宿は見つかるだろうか」などと、先のことばかりを考えてしまう瞬間がある。そんな時は、中国人の老賢者が言っていた「スローリー、オールウェイズスローリー」という言葉に支えられた。大事なことは、多分、ゆっくりと進むことだ。ゆっくりと進むことと、いま、この瞬間を丁寧に生きることは似ている。

f:id:ibaya:20160926030605j:plain

美術館近くの家。

f:id:ibaya:20160926030630j:plain

宿からの景色。

f:id:ibaya:20160926030659j:plain

「生命に乾杯!」

道端で眠ったからこそ、布団のありがたみがわかるのだ。

f:id:ibaya:20160926030747j:plain

オランダから電車を乗り継いで、ベルギーに着いた。

f:id:ibaya:20160926031008j:plain

おすすめしていただいたレストランでビーフシチューを食べる。美味しかったのだけれど、ほんとうに美味しかったのだけれど、会計を見た瞬間に「死にたい【この金があれば…この金があれば…!!】」と思ってしまった。私は、多分、どうしようもない貧乏性なのだと思う。これは余談になるけれど、家のない生活をしていた頃「家は自分(男)には不要で、女性やこどものために必要なもの【男の役割は家を作る(0を1にする)ことで、女の役割は家を整える(1を100にする)こと】」ということを思った。そして「男は、女のひとを笑わせておけたら一人前」という言葉を思い出した。

誤解を恐れずに言えば、多分、家も料理も高価な服もあらゆる贅沢品も、男のためには必要ないもの(目の前の女性やこどもを、笑顔にするために必要なもの)なのだと思う。どうしてなのだろうか、頭の中で、再び「野垂れ死にこそ、男のふるさと」という言葉が脳裏をよぎった。きっと、男は、女のひとを笑わせておく(自分に必要なものを手に入れるというよりも、大切なひとにとって必要なものを手に入れる)ために、時には野垂れ死ぬことも厭わぬ覚悟で、無駄に身体を張りたがる生き物なのだと思う。

と、ここまで書いて、何がなんだかわからなくなった。道中、何回か死にたくなることがあったのだけれど、これは「野垂れ死ね!」の合図なのだと解釈をした。私は、多分、また家のない生活のようなものを送りたいと思っているのだと思う。道端で眠ったからこそ、布団のありがたみがわかるような、自分には何もないからこそ夕日のまぶしさがより一層の輝きを持って全身に染みてくるような、そういう瞬間を送りたいと願っているのだと思う。結局、いつまでたっても自分のことばかりを考えているひとりのこどもが、自分という人間なのだと思う。

f:id:ibaya:20160926031704j:plain

結果的に、どこの国でも公園にいた。

土に還るまでが人生です。

ひとりの女性と、これだけ長い時間を一緒に行動するのははじめての体験だった。いいことも悪いことも含めて、この数日間、いろいろなことがあった。何かしらの事情で二人の間柄がぎくしゃくする度に、私は「野垂れ死にこそ、男のふるさと…」「オウム、シャーンティシャーンティシャーンティ…」「死ななきゃいいんだ、死ななきゃとりあえず…」「スローリー、オールウェイズスローリー…【女は波…男は海…女は波…男は海…】」などのマントラを繰り返した。


私は単純な人間なので、空が青ければ、大概の問題はどうでもよくなる。これは何度目のことになるのだろうか、私は、やはり「晴れやかなものが大好きだ」ということを思う。ジメジメとした間柄、互いに責任をなすりつけ合うような関係性、中途半端な未練や被害者意識などのケチ臭い考え方は、どうしても好きになることはできない。金があろうともなかろうとも、才能があろうともなかろうとも、世間的な評判や由緒正しき血縁などがあろうともなかろうとも、生きるのならば『晴れやかな生を生きたい』と思い、同時に、死ぬのならば『晴れやかな死を死にたい』と思う。


帰り際、フランスの空港で「とりあえず死なないで日本に戻れるからよかったですね」と私が言うと、ちあきさんは「家に帰るまでが遠足ですよ」と言った。負けず嫌いの私は、即座に「土に還るまでが人生ですよ」と言い返した後に今世最高のドヤ顔を決めた。自分で言ったあとに、ああ、ほんとうにそうだなあと思った。いろいろなことがあるけれど、生きている限り、日々は続く。誰もが日々の途上であり、誰もが未完成の作品の制作過程のど真ん中にあるのだ。死にたくなる時もあるけれど、何度でも「野垂れ死にこそ、男のふるさと」という言葉を思い出そう。このおまじないを口にすると、不思議と「生きてやるぜ」という気持ちになる。


f:id:ibaya:20160928064726j:plain

人生は続く。

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

奇跡は余白に舞い込む。

f:id:ibaya:20160920165056j:plain

パリを経由してロンドンに到着し、数日間、エセックスに暮らす日本人女性とイギリス人男性のご夫婦の家に滞在をさせていただいた。パリからの往復航空券を負担していただいただけでもありがたいことなのに、高級ホテルのような素晴らしい客室と、1日3食の絶品手作りのイギリス料理、プリペイドの携帯を二台とオイスターカード(日本で言うSuicaのようなもの)を二枚、そして、もしもの時のために55ポンドまで持たせてくれた。

ミカさんは、ひと言で言えば「粋なお姉様」という素晴らしい人柄の女性で、あらゆる場面で最高の心配りを与えてくださり、かつ、そこに「一切の恩着せがましさがない」ことがほんとうに凄い。終始「何かをしてあげるというよりも、自分がやりたいからやっているだけなのよ」という雰囲気があり、そのため、受け取る方もある種の負担や緊張感を覚えずに受け取ることができる。やりたいがやらなきゃ!になった瞬間から、多分、前向きな感情は徐々に濁りはじめるのだと思う。南国の風のようにカラッと晴れ渡るミカさんとの時間を通じて、私は「こんな風に誰かに何かを与えられるような人間になれたなら」と思った。


わたりBBQ in LONDON 修羅場に大小はない。

f:id:ibaya:20160920165624j:plain

ミカさんのご好意で、わたりBBQ in LONDONが開催された。直前の告知であったにも関わらず、ロンドン在住の日本人の方々が集まってくださり、静かな空間の中でゆっくりと話をする機会に恵まれた。私の小学校時代の同級生のAKIも遊びに来てくれて、現在、彼女はワーホリのような制度を使ってロンドンでヘアメイクアーティストとして活動をしている。

彼女曰く「数年前にガンみたいな症状が出て、その時にものすごい死を身近に感じた。そこで『前からずっとロンドンに住みたいと思っていたのだから、やろう』と一念発起し、いま、こうしてロンドンにいられることをとても嬉しく思う。嬉しく思うはずなのに、あれだけ死を身近に感じたはずなのに、そのことを簡単に忘れている自分に気がつく。つい最近、こうした初心のようなものを強く思い出せる出来事があって『ああ、仕事でいろいろとつらい思いをすることもあるけれど、そういうものも全部込みで、いま、自分はものすごい幸せな状態にいるんだ』ということを感じた」のだと話してくれた。

彼女の話を聞きながら、私は「人間、生きていれば誰もがこっそり修羅場を乗り越えているものなのだなあ」などと、しみじみとしてしまった。余談になるけれど、私の好きなAKIのエピソードは、ロンドン在住を決意してから「よし!これから日本で仕事を頑張って2年間で二百万円貯めるぞ!」と決意をしたものの、結果的に、2年後の出発の時には貯金を決意した2年前よりも貯金残高は減っていた(そして、そのまま実際に移住をしたけれどもどうにかなっている)というものです。人間、実際にやってしまえば意外とどうにかなるのだということを体現してくれる、素晴らしい友達のひとりです。

f:id:ibaya:20160920165732j:plain

ご自宅の庭にある、花とベンチ。

f:id:ibaya:20160920165655j:plain

特大サイズのシャンパンまで!

f:id:ibaya:20160922163417j:plain

日曜日にはサンデーローストを、

f:id:ibaya:20160922163446j:plain

チキンを切るのは、男性の役割。

f:id:ibaya:20160922195731j:plain

猫と。

f:id:ibaya:20160920165928j:plain

庭の奥にある家屋は、イギリス人の旦那さんが趣味も兼ねて自力で建設をしている。完成した暁には、ヒーリングルームとしても使用ができたらと思っているのだと話してくれた。日本に限らず、ロンドンでも忙しい日々の中で精神的なゆとりをなくしているひとはたくさんいる。ストレスが心身に与える影響はすさまじく、これらを緩和する一助になれたらと旦那さんは話してくれた。その時の旦那さんの表情が素晴らしく、ああ、ひとは自分のやりたいことをやるのに限るのだと思った。

WALKING IN THE WOODS

f:id:ibaya:20160920165145j:plain

ミカさんご夫婦のご好意により、ケント州にある森の中に連れていってもらった。

f:id:ibaya:20160920165331j:plain

ソロー「森の生活」を彷彿とさせる森で、

f:id:ibaya:20160920165349j:plain

空気が綺麗だ。

f:id:ibaya:20160920165403j:plain

ミカさんご夫婦お気に入りのスポットでもあり、

f:id:ibaya:20160920165422j:plain

すれ違うひとは誰もいない、貸切の空間になる。

f:id:ibaya:20160920164658j:plain

あたり一面に芳香を放つ花や、

f:id:ibaya:20160920164717j:plain

野生のラズベリーも群生している。

f:id:ibaya:20160920165256j:plain

森の近くに建つ家。

f:id:ibaya:20160920165316j:plain

自然と調和をしている。

f:id:ibaya:20160920165212j:plain

イギリス人は庭や森を愛していて、

f:id:ibaya:20160920165235j:plain

閑静な自然の中では、富裕層の人々が暮らしている

f:id:ibaya:20160920165552j:plain

街の雰囲気も落ち着いていて、品があり、

f:id:ibaya:20160920165604j:plain

こころなしか、人々の表情にも余裕を感じる。

f:id:ibaya:20160920165931j:plain

花の周りにはミツバチが集い、

f:id:ibaya:20160920165948j:plain

公園には、様々な動物が顔を出す。

ロンドンからアムステルダムまでの一連の流れ。

f:id:ibaya:20160921192844j:plain

1・ロンドン在住の女性T様から「もしよろしければお会いできませんか?」という連絡が届く。私は快諾をする。そのことをミカさんに報告する。すると、ミカさんから「ロンドンの街中で会うのは騒がしくなると思うから、我が家でランチとアフタヌーンティーでもやりませんか?」という素晴らしいご提案をいただく。私は、イギリスに来てから何度目のことになるのだろうか、ミカさんの提案力にまたしても脱帽をする。

2・私はT様に連絡をする。「家主のミカさんが『アフタヌーンティーをやりましょう!』と言ってくださっているので、是非、T様さえよろしければ私たちとご一緒しませんか?」という連絡をする。それを受け取ったT様は「見ず知らずの私を、ご自宅のアフタヌーンティーに招待してくださるなんて!ありがとうございます。必要なものがあればお持ちいたしますので、その際は遠慮なくおっしゃってください!」という返信をくれる。

3・私は「必要なものはありませんので、手ぶらで来てください」と言いかける。言いかけたものの、あ、なんだかいまの自分はものすごいタバコを吸いたがっているぞということに気がつく。ロンドンの秋風を感じながらエスプレッソを片手に吸うタバコは確実にうまいだろうなあという妄想をする。しかし、タバコは高級品なので自力で買うことはできない。そこで、私は決死の覚悟でT様に連絡をする。

4・「こんなことを言うのはほんとうにあれですが、もし、もし、もしもよろしければタバコを一箱購買していただけたらものすごい嬉しいです!!」

5・私は、この程度のお願いをするだけでも「嫌われてもいい」という強目の覚悟を決めなければ、ひとに何かをお願いすることができない。この時も、たとえT様に嫌われることがあっても構わないという決死の覚悟と共に、メールの返信をした。すると、T様からは「よろこんで!与える喜びをありがとうございます!」という女神的な返信をいただいた。私はホッと胸を撫で下ろし、T様に深い感謝をすると共に「与える喜びを与える喜びをありがとうございます!」ということを思った。


6・踊る。

7・ミカさんの家でT様と出会い、皆でアフタヌーンティーを楽しむ。T様は言う。「旦那の転勤でロンドンに来てからまだ半年程度ですが、日本ではスクールカウンセラーの仕事をしていました。カウンセリングの世界では馴染み深い話ではあるのですが、小さな水槽で飼われていた魚は、大きな水槽に移しても結局小さな水槽にいた時と同じ範囲しか動かないようになるらしいのです。でも、この魚たちが広い範囲を泳ぐようになることもあって、その方法は『実際に広い範囲を泳ぐ魚を見せること』だというのです」

8・T様は続ける。「さかつめさんの生き方を見ていると、まさに、固定概念を超えて広い範囲を泳ぐ姿を見せてくれているみたいで、勝手に勇気をもらっています。こどもたちにも、普通じゃない生き方をしているおとなたちの姿を見せることは、きっと、大きな力になるのだと思います。今日はそのことを伝えることができたらと思っていたので、いま、こうして実際に伝えることができてとてもうれしいです」と話してくれた。私は「こちらこそうれしいです!」という気持ちになり、こころがあたたかくなった。

9・T様に「今後の予定は決まっているのですか?」と聞かれる。私達は「21日にパリに戻る飛行機のチケットがすでにあるのですが、24日にフランスで予定がある以外は、まだ何も決めていません。パリはすでに満喫をしているので、隣国のベルギーに遊びに行くのもありなのかなと思っています」と答える。すると、ミカさんから「何なら帰りの便はキャンセルしてもいいからね!ロンドンから高速バスも出ているし、フランスを経由しないで直接行った方が早い場合は、遠慮なくキャンセルをしてください」という女神様的な助言をいただく。

10・T様のスマホで高速バスの便を調べる。ロンドンからアムステルダムまで、片道20ポンド程度からあることを知る。所用時間は12時間。結果的に、私達はその日の夜発のアムステルダム行きのバスを予約する。予約する段階で、支払いのページが出る。私達が「クレジットカードの番号を伝えますね!」というと、T様は「あ、いいんですよ」と軽やかに答える。そして、そのままT様によって決済が行われる。私達は、それを眺めながら「これは、、、いったいなにがおこっているんだ!!!!!!」ということを思う。T様からは「何かこういうことをしてみたくって。すでにたくさんのものをもらっているので、これは、わたしの気持ちです」というようなことを言葉をいただく。

結果的に、いま、私はアムステルダムにいる。

奇跡は余白に舞い込む。

f:id:ibaya:20160922162724j:image

いろいろなことがありすぎて、うまくまとめることができない自身の文章力の足りなさが歯痒い。皆様のご好意により、いま、アムステルダムからこの記事を更新することができている(高速バスの車内が激烈に冷えていたために風邪をひいてしまい、頭が朦朧としていてうまく文章が書けない)。連続する様々な出来事を通じて、まるで、いまの自分は「大玉送りの玉みたいだ!」と思った。うまく言えないのだけれど、様々な方々のお力によって、坂爪圭吾という得体の知れない奇妙な玉は様々な場所に運ばれていく。

家のない生活をはじめてから「奇跡は余白に舞い込む」ということを、自身の体験を通じて痛感するようになった。そしていま、ポヨーン、ポヨーンと運ばれて、当初は何も予期していなかったオランダに流れ着いていることの奇跡を思う。ほとんど無一文の状態でフランスに着いたのが13日、ロンドンに着いたのが16日、そして22日の今日はオランダで風邪をひきながら(マリファナではなく、ジンジャーパウダーをウェルターズオリジナルと一緒にお湯に溶かしたものをひたすら飲み続けながら)自身の幸福を噛み締めている。自身の幸福を噛み締めながら、日本の自宅で開催されている「逢初庵〜無料の宿屋〜」を利用してくださった方のブログ記事を読ませていただき、何か、不思議なつながりを覚えた。

【参考リンク】逢初庵|Aquaのブログ

スピリチュアル界隈では「2016年秋に何かが起こる」と言われているらしい。今日は秋分の日であり、私達の生きる時代はいよいよダイナミックな変遷の時期を迎えている(のかもしれない)。いままでの価値観が大きく変わるとしたら、果たして、何がどのように変わり、何がどのように残るのだろうか。これは完全に余談になるけれど、世の中が大きく変わる出来事として「戦争・天災・財政破綻」の三つがあるらしい。家のない生活をしていた頃、あるひとから「さかつめさんの生き方は、戦争や天災や財政破綻が起きた時にいちばん強い生き方ですね」と言われて、なるほどなあと思ったことがある。私には、これから何が起きるかなんていうことはわからない。ただ、自分がやりたいと思ってやっていたことが、結果として自分の身を助けてくれることがあるということは、何となくわかるような気がする。多分、我慢をするほど悪影響になるのだと思う。頭が朦朧としている。我慢は良くないことなのだと思う。自分の感情を押し殺しながらやることよりも、自分の感情を最高潮に生かしていけるほうにドライブをしていきたいと思う。


f:id:ibaya:20160921192820j:plain

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

これは俺たちの旅であって、俺たちだけの旅ではない。みんなの旅、生きとし生けるものの旅になるんだ。

f:id:ibaya:20160916211007j:plain

パリに着いた。前回の投稿で「諸事情が爆発をして、いま、貧困の海に溺れている」と書いたところ、様々な方々から心配のメールをいただき優しさに包まれていた。これはもう何度目になるのだろうか、自分は生きているのではなく「生かされているのだ」ということを強く実感する。記事の最後にボーリングボーイズの動画をご紹介させていただいたところ、それを見てくれた女性の方から一通の連絡が届いた。

圭吾さん、こんにちわ!◯◯◯です。
昨日学校帰りにボーリングボーイズの動画を爆笑して観ていたらお金を拾いました。
面白さって最強なんだな!と思いました。

そこで面白募金をしてみたいなと思い、
誠に勝手ながら圭吾さんに振り込みたいんですが振込先を教えていただけませんか?
iPhoneから送信


こんなことってあるのね!と思った。私は弱者なので、なにかあるとすぐに弱気になったり物事を深刻に考えてしまう。しかし、そんな自分の惨めな湿り気を吹き飛ばしてくれるものは、いつだって周囲のひとたちが与えてくれる温かなユーモアだった。今世のテーマは「深刻にならないこと」でもあるために、可能な限りいろいろなことを笑い飛ばしていけたらと思う。


パリの街並み。

f:id:ibaya:20160916152828j:plain

パリの街は美しく、目に映るどの風景を切り取っても絵になる。吹き抜ける風が気持ち良く、カフェのテラス席で珈琲を飲むだけでも、簡単に多幸感に包まれることができる。聞いた話によると、パリの人々は夏になっても網戸を使うことはないらしい。虫がガンガンはいってくるのに網戸を使わない最大の理由は「美しくないから」ということで、その美意識の高さには驚かされる。多分、美しくものと一緒にいれば人間は勝手に美しくなり、醜くものと一緒にいれば人間は勝手に醜くなる。自分のこころが美しいと思うものを取り入れるように、自分のこころが美しくないと思うものからは、できる限り距離を置いておきたいと思う。

f:id:ibaya:20160916211035j:plain

ルーブル美術館セーヌ川のほとりを歩く。

f:id:ibaya:20160916152747j:plain

私は「観光名所を巡ることよりも、ひとの表情や街路樹や野良猫や花や鳥たちを眺めていることが好きなのだ」ということに気付く。自分の足で歩けば歩くほどに、まるで自分自身が街の空気に溶け出しているような感覚を抱く。バスに乗るよりも、電車に乗るよりも、飛行機に乗るよりも、可能な限り自分の足で歩いたほうが、文字通り「自分たちの足跡を其処に残せる」感覚を覚えることができる。

f:id:ibaya:20160916152817j:plain

晴れの日も雨の日も、パリの街並みは綺麗だ。

f:id:ibaya:20160916152840j:plain

徹底的にパンと乳製品を食べ続けている。

f:id:ibaya:20160916221124j:plain

これで7ユーロ程度。

f:id:ibaya:20160916152853j:plain

エスプレッソを飲み続けている。

f:id:ibaya:20160916152918j:plain

街に沈む日が綺麗だ。

f:id:ibaya:20160916152949j:plain

夜の街並みも綺麗だ。

f:id:ibaya:20160916153002j:plain

朝の空も綺麗だ。

これは俺たちの旅であって、俺たちだけの旅ではない。みんなの旅、生きとし生けるものの旅になるんだ。

うまく言葉にできないのだけれど、この旅を、そしてこの人生を「自分だけのものにしたくない」という感覚を抱くことがある。自分だけの旅をするのではなく、自分だけの命を生きるのではなく、自分が旅をするということがみんなの代わりに旅をするということにつながるような、自分の命を生きるということが結果として人類全体の命を生きることにつながるような、別々の命を生きているのではなくひとつの大きな命を生きているのだということ、言い換えるならば【私はあなたの代わりに生きていて、あなたは私の代わりに生きている】のだということを実感する、そういう生き方をしていたいのだという気持ちになることがある。

恩は「次のひとにまわしていくもの」

ロンドン在住の方から「必要な食料はすべて用意するので、わたりBBQ in LONDONをやりませんか?」という連絡をいただいた。そのため、これからパリを離れてロンドンに向かう。私が生きているということ、こうしてパリやロンドンに生けるということは、とてもじゃないけれど自分ひとりの力では達成することのできないものだった。そういうことを思う時、冒頭でも書いたように「自分は自分の力で生きているのではなく、様々なものの恩恵によって生かされているのだ」という気持ちになる。

【イベント詳細】わたりBBQ in LONDON

多分、恩は返すものではなく「次のひとにまわしていくもの」だと思う。自分がいま生きているということは、両親や兄弟、友達や恋人、学校や職場、先人の知恵や技術に大きく支えられていて、このブログ記事も「インターネットやスマホを開発してくれたひとがいるから」こそ、こうして更新することができている。これらの恩恵を思うとき、とてもじゃないけれど恩は返し切れるものではないのだということを強く実感する。言い換えるならば「ひとりひとりが様々な人々の恩恵によって成立しているのならば、ひとりひとりが愛や恩恵のカタマリである」ということだ。

生きているということは「生かされている」ということであり、そのことを深く実感した時に、多分、自分の役割が見えてくる。それは「いままで自分が受け取ってきた恩恵を、次は、ほかの誰かにまわしていくこと」だ。誰かにエネルギーを貰いたいと願うのではなく、自分はすでに多大なエネルギーを受けてきたのだという実感と共に、今度は「自分の順番だ」と思う時、エネルギーを受け取るのではなくエネルギーを与える側にまわりたいのだと思う時、泉のように自分の内側から湧き出すものを感じることができる。 きっと、大切なことは「自分はすでに多大な恩恵を受けてきたことを思い出すこと」そして「この感覚のバトンを繋げていくこと」なのだと、私は思っている。


f:id:ibaya:20160916204656j:plain

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

現状を打破する道はただひとつ、自分が恐れていることをやることだ。

f:id:ibaya:20160912182618j:image

諸事情が爆発して、いま、貧困の海に溺れている。ブログには書けないようなことが連発してしまい、自分自身に「人間万事塞翁が馬!」と言い聞かせている。時を同じくして、ロンドン在住の方から「往復交通費は負担をするので、ロンドンまで来ませんか?」と声をかけていただき、16日から21日までロンドンに滞在をすることになった。絶望のどん底にいた時期に届いたメールだったので、私のハートは「死にたくなることもあるけれど、しっかりと生きていこう」と、奇跡のV字回復を果たした。


こうして実際に声をかけてくださる方々の存在はほんとうにありがたく、フランスでも「空港から市街地までは距離があるので、必要であれば車でお迎えにいきましょうか?」という善意に満ちたご連絡をいただいた。何かをしていただけることももちろんうれしいのだけれど、それ以上にメールの文面から伝わってくるそのひと自身の人柄がほんとうに素敵で、私のハートは「世界は素晴らしい!」というよろこびに打ち震えた。

私は、きっと、酷く単純な生き物なのだと思う。ちょっと嫌なことがあるだけで「もうダメだ、死のう」と思ってしまうけれど、夕日が綺麗だったり、ごはんが美味しかったり、ひとの優しさに触れた瞬間に「生きてきて本当によかった。これからも生きよう」と思い直す。一喜一憂を繰り返す自分の愚かさにあきれはてることもあるけれど、これが自分なのだから、駄目出しをする以上に愛していきたいと思う。

逢初庵【あいぞめあん】〜 無料の宿屋 〜

f:id:ibaya:20160912204711j:plain

日本を離れる間、熱海の自宅を「無料の宿屋」として開放することにした。誰でも自由に使ってくださいなどと言っておきながら、本音では「この家を大切に使ってくれるひとがいいなあ」などと思っている。表面的にはオープンなことを言っておきながら、多分、心の底では「誰にでも愛想良く対応をするというのはいまの自分には無理で、だけど、100人に会ったらひとりくらいは涙が出るほど素晴らしいひととの出会いがある。私は『このひとり』に出会いたくて、こういうことをやっているのだと思う」と思っている。


恐怖の実体とは何だろうか。

f:id:ibaya:20160912205524j:plain

貧困の海を泳ぎながら、私は『恐怖』について考えていた。お金がないことはいまにはじまったことではないけれど、いくつになっても胸のドキドキを抑えることができない。お金がないことは、要するに恐怖だ。クリシュナムルティは「恐怖はそれがいかなるかたちのものであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」と言う。自分のこころが恐怖心に覆われてしまった時、精神は緊張状態を強いられて、視野は狭くなり、場合によっては精神的な不調を生み出すこともある。

しかし、恐怖の実体とは何なのだろうか。私は、過去に四回ほど家を失うという体験をしている。家を失うまでは「家がなければ生きていけない。家がなくなるということは、イコール、死を意味する」と思っていた。しかし、実際に家を失ってみてわかったことは「快適ではないけれど、家がないくらいでは人間は死なない」ということだ。だから、いま、私にとって家を失うということは恐怖にはならない。


普通に家があった当時は、どれだけお金を稼いでいたとしても「何かしらの事情で仕事がなくなったら、お金がなくなったら、自分は路頭に迷う羽目になってしまうかもしれない」という恐怖と不安が、常に頭の片隅にあった。しかし、実際にホームをレスするという体験を通じて「恐怖が現実になってしまった」私は、その体験を通じて「意外とどうにかなる」のだということを肌で覚えた。

そしていま、私は「金がない」という事実に恐怖を覚えている。しかし、私の頭の中に住むリトルさかつめが「おいこらさかつめ、お前は家がなくてもどうにかなったというのに、金がないというだけでそんなにビビるような人間だったのか。いまのお前は、昔のお前とソックリだ。恐怖というまるで実体のないおばけと闘っているようなもので、そりゃああんた、相手は実体がないのだから勝てるはずがないよ。おばけは出てから怖がればいいのだ。もしもお前が『家を失う』恐怖を克服したように『金を失う』という恐怖を克服したいのであれば、そう、実際に金を失ってしまうことだ。そうすれば、恐怖はただの現実に変わる。現実は実体があるから、おばけと闘うよりは張り合いのあるものになるだろう」と言う。

傷つく前に傷つくな。

f:id:ibaya:20160912205537j:plain

乱暴にまとめると「やってみなければわからないことを、やってみる前にわかろうとするのは無理な話だ」ということであり、いつまでも恐怖に怯える日々を過ごしたくないのであれば、恐怖から目を背けるのではなく、恐怖をごまかすような生き方をするのでもなく、実際に恐怖のど真ん中に飛び込んでしまえばいいのだということだ。誤解をされると困るが、これらはあくまでも「私の考え方」であり、誰かに同じであることを強制するためのものではなく「自らのケツを叩くため」に言語化しているだけに過ぎない。

最高のパフォーマンスが発揮される瞬間とは、多分、人間が心の底からリラックスをしている瞬間だと思う。恐怖はリラックスの対極にあり、恐怖のあるところでは真の意味でリラックスをすることはできない。繰り返しになるけれど、クリシュナムルティは「恐怖はそれがいかなるかたちであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」と言う。私には、クリシュナムルティの言葉が強く響いた。そして、いまこそ『恐怖』に直面をする絶好の時期が自身に到来しているのだと感じている。

これだけ長文を綴っておきながら、私が感じている恐怖とは「これから愛する女性と一緒に欧州旅行に行くというのに、金がないという理由だけで辺鄙なものになってしまったら男が廃る」という程度のものであり、我ながら言葉にすると非常に小さいことで悩んでいるのだなあ、と思う。自分ひとりの問題だったら、多分、お金のことでこれほど悩むことはなかった。別に頼まれた訳でもないのに「愛する女性を大切にする」ために、私は、ある程度の金が必要であるという思い込みから自由になりたいだけなのだと思う。

昔から、自分自身に「傷つく前に傷つくな」と言い聞かせていた。傷つくことを恐れる気持ちは、実際に傷つくことよりも苦しいものだと、多分、直観的に感じていたのだと思う。自分のこころの中に住む怪獣を退治するために、ひとは、冒険に出るのだと思う。そして、その怪獣の名前は「不安」や「恐怖」なのだと思う。

遊園地の意味を考えるところからはじめます。

f:id:ibaya:20160912204748j:plain

わたしの周りには、いいことなのか悪いことなのか「まったくお金がない」ひとたちがたくさんいる。先日、嘉向徹の身体ありがとう君という名前の友達(25歳)が、小学生の女の子ふたりを車で遊びに連れて行ってあげることになった。女の子たちに行きたい場所を尋ねると、女の子たちは声を揃えて「遊園地!」と言った。それを聞いた女の子のお母さんは、嘉向徹の身体ありがとう君に「もしも遊園地に行くようであれば、入園料が必要だと思うので先にお金を渡しておきますね」と言った。

しかし、嘉向徹の身体ありがとう君は「いえ、お金は大丈夫です」と返事をした。そして「遊園地という言葉の意味を考えるところからはじめたいと思います」という言葉を残して、そのまま無一文で出発をしてしまった。あとから嘉向徹の身体ありがとう君に何をしていたのかと尋ねると、ありがとう君は「そのまま車で友達の家に直行して、そこにいた複数の大人たちにこどもの世話を頼んだ後に自分は昼寝をして、その後、夜の公園にみんなで行って相撲をとったりしていました」と話してくれた。

話だけ聞くとめちゃめちゃだけれど、遊びから帰ってきたこどもたちは「わたしが相撲で一番だったんだよ!」とか「ブランコであんなお話をしたんだよ!」とか、汚れた服のままで何やらとっても楽しそうにしていた。きっと、そういうことなのだと思う。金のあるなし(用意されたものをひたすら受け身で楽しむこと)よりも、知恵のあるなしなのだと思う。金がなければ楽しめないのではなく、多分、知恵がないから楽しめないだけなのだと思う。

私は、たとえば「お金があれば遊園地とか高級レストランとかブランド物のアクセサリーとかを買ってあげられるのになあ」などと思い悩むことがある。しかし、よくよく考えてみると、そもそもで自分は遊園地とか高級レストランとかブランド物のアクセサリーなどを好む(いわゆる普通のデートスタイルを楽しめるような)タイプの人間ではなかったことを思い出した。そういうことを楽しめる人間であれば、はじめからこのような生き方はしていなかったのだということを思い出した。


ちょっと前に、移動中の車内で嘉向徹の身体ありがとう君が率いる「ボーリングボーイズ(暇な男子たち)」というユニットに参加をさせていただいた。その時の動画がこれであり、私は、こういうことをしている時に比較的高度なよろこびを感じるタイプの人間だ。それがどのようなものであれ、たとえ他人から見れば馬鹿にされるようなことであったとしても、自分を楽しませることが大切になるのだと思う。自分を楽しませることに成功した時、不安や恐怖は姿を消して、ある種のアトラクションのようなものに変容するのだと思う。恐れることなど実はなにもないのかもしれない、きっと、この地球全体がひとつの大きなテーマパークみたいなものなのだと思う。


f:id:ibaya:20160912205418j:plain

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

命は生きたがっている。

f:id:ibaya:20160906182708j:plain

朝、目を開けたら窓の外が黄金色に染まっていた。いま、わたしが暮らしている熱海には、家のすぐ目の前に大きな海が広がっていて、毎日、毎日海面を照らしながら太陽は昇る。熱海の家で、朝焼けを見るのは久しぶりのことだった。その風景があまりにも素晴らしくて、素晴らしくて、わたしはいままでいったい何をやっていたのだろうかという気持ちになった。

世界では、自分の知らないところでこんなにも素晴らしい営みが毎日行われているのだということを、わたしは何もわかっていなかった。頭では、わかっていたつもりになっていた。世界は素晴らしいものであるということを、自然の雄大な営みは見るひとのこころを決して飽きさせることはなく、透き通る優しさを与えてくれるものだということを、わかったつもりになっていただけだった。

海面から昇る朝日を眺めながらわたしは、何かに向かって「ごめんなさい」と謝りたくなった。おかしな話に聞こえるかもしれないけれど、まるで、まだ何もわからない生まれたばかりの自分の小さなこどもを何処かに置き去りにして、そのまま二度と迎えにいくことはなかった、そのこどもがいまもこうして元気に生きている姿を目撃したような、大袈裟な表現になるけれど、そういう気持ちになった。

こどもはいまもこうして元気に生きている。そして、元気に生きているばかりか、置き去りにしてしまった自分にも明るい光を与えてくれるのだということが、その事実が、わたしの中にあった「ごめんなさい」という懺悔にも似た感覚を湧き起こした。わたしは黄金色に輝く海面に見惚れながら、同時に、その何かに対して「しっかりと見てやれなくて、ほんとうにごめん」という気持ちになっていた。

f:id:ibaya:20160906184447j:plain

いまでも、わたしは自分が弱気になった時や自分の中に濁りを感じる時、何かを信じることができなくなりそうな時や大きな何かとのつながりを感じてみたいと思った時、海や、山や、森の中に足を運ぶ。その度に、わたしは何度も助けられた。それでも、このような気持ちを覚えるのははじめてのことだった。ここ最近、日々の中で様々な変化が続いていたからなのかもしれない。あるいはただの定期的なもの、ちょっとだけ自分が弱気になってしまっただけのことなのかもしれない。

自然に触れた時、稀に、涙が流れそうになることがある。この涙は、自分の中にある純粋性を必死に守り抜くために、無意識のうちにこころの奥の方から溢れ出そうとしている力の結晶なのかもしれない。自然に触れる時、それにこころが反応する時、ああ、自分だけは自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないという気持ちになる。その思いが消し去られてしまう前に、枯れ果ててしまう前に、押し潰されてしまう前に、生きていることを証明するように外側に溢れ出そうとしている力の結晶が、涙なのかもしれない。

海面から昇る朝日を眺めながらわたしは、何かに向かって強い謝罪の気持ちを抱いた。この『何か』とは、何を指すのだろうか。これは、朝日に対してだけなのだろうか。朝日を含めた、自然の営み全体に対するものになるのだろうか。それとも、自然の営み全体という言葉さえも超えたもの、もっと大きな『何か』に対する思いなのだろうか。

f:id:ibaya:20160906222201j:plain

わたしは歩く。朝の道を、昼の道を、夜の道を、誰もいない道を、人混みに溢れた街並みを、海を、山を、森の中を、自分の力が続く限り、どこまでも、どこまでも歩く。歩くたびに、この足を進めるたびに、面倒臭がっていたはずの身体はゆっくりと生命力を取り戻していく。歩きたくなんかないとクレームを出していたのは、身体ではなく自分の頭だったのだということを、だって身体はこんなにもよろこんでいるじゃないかと、足を進めるほどに元気になる身体を見てわたしは、ひとつのことを思う。

ー 命は生きたがっている。

雲を見る。花を見る。月を見る。空を見る。猫を見る。星を見る。家を見る。道路を見る。看板を見る。商店街を見る。コンビニを見る。ごみ捨て場を見る。自動販売機を見る。すれ違うひとの表情を見る。電灯を見る。遠くのビルを見る。暮らしを見る。暮らしの奥にあるひとつひとつの命を見る。ひとつひとつの命を見るとき、もうひとつの命、自分の中にある命は感じ取っている。すべての命は、こんなにも生きようとしているのだということを感じ取っている。

わたしはひとりの人間で、これを読んでくれているひとがいるならば、ここにはふたりの人間がいる。ここにいるふたりの人間は、同じ性別かもしれないし、違う性別かもしれない。似たような年齢かもしれないし、まったく異なる年齢かもしれない。日本にいるかもしれないし、日本じゃないところにいるのかもしれない。

違うところはたくさんあるかもしれないけれど、でも、日本語が読めることには変わりない。目がふたつあることに変わりはないし、いまも心臓は動いていること、血液が身体中を流れていること、同じ時代を生きていること、夕日を見たときに切なさを覚えることもあるこの感覚は、きっと、そんなに違わないものなんじゃないのかなと思う。わたしにとって、ひとりひとりの人間はそれほど大きく異なっている存在であるとは思えない。同じようなものを綺麗だと思い、同じようなものを美味しいと思い、同じようなものを見て「生きてきてよかった」と思ったりする、似た者同士なんじゃないのかなと思う。

f:id:ibaya:20160906222247j:plain

わたしは、わたしが思うことを綴る。わたしの思いはわたしの内側から湧き出したものであり、わたし以外の誰かから湧き出したものではない。それでも、誰かの言葉が違う誰かの胸を打つことがあるということは、わたしたちは何処かでつながっているからだと言えるのではないだろうか。ひとりひとりが別々の命を生きているように見えて、実は、何処かで深く確実につながっている「ひとつの大きな命を生きている」と言えるのではないだろうか。

歩きながらわたしは、様々なことを思ったりする。わたしがわたしに思うことは果たして、わたし「だけ」に思うことなのだろうか。わたしがわたしに思うことは、わたしを通じた人間全体に対して思っていることなのだろうか。わたしがわたしを励ますことは、わたしを励ますだけのことなのだろうか。わたしがわたしを励ますとき、わたしを通じた人間全体を励ますことにつながるのだろうか。

自分の感情をうまく信じきることができない時、わたしは、わたしの身体を自然のある場所に運ぶ。自然は嘘をつくことがないから、自然は自分を良く見せようとすることはしないから、わたしも嘘をつかないでいることができる。自分を良く見せようとしないでいることができる。自然はありのままでそこにあるだけ、ありのままでそこにあるだけだからこそわたしも、できるだけそこに近づきたいのだと思うことができる。

自然の風景を眺めながら、沈む夕日の紅色に切なさを覚えながら、わたしは「自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながる」ということを思った。思ったのではなく、ただ、そのように信じただけのことなのかもしれない。自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながる。だから、自分を愛することができない時は、自然の中に足を進めるんだ。そういうことを、忘れてしまわないように自分に向けて言い聞かせていた。

f:id:ibaya:20160906184501j:plain

わたしはわたしに願っている。自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけない。その思いが消し去られてしまう前に、枯れ果ててしまう前に、押しつぶされてしまう前に、できるだけ、自然の中を歩いてほしい。毎日じゃなくてもいいから、思い出した時だけでもいいから、朝日を、夕日を、置き去りにされたままの自然を迎えにいってほしいのだと、わたしはわたしに願っている。

ー 自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながるんだ。

昨日の自分は、今日の他人だ。たとえ、どれだけ強くこころが震える日々のど真ん中を生きてきたとしても、それらは過ぎた日のよろこびであり、決して、今日のよろこびにはならないみたいだ。ひとつの答え、ひとつのよろこび、ひとつの感動の上にいつまでも腰を据えていられるほど、ひとは同じでいることはできないのだと思う。

明日には同じではいられないからこそ、今日の自分は今日で最後だからこそ、この命を、二度とは戻らない今日の命を、使い切っていきたいのだと思う。ひとが生きることができるのは「いま」というこの瞬間だけ、今日の自分に必要なもの、それは昨日の感動でもなければ明日の感動でもない、涙が出そうになるくらい「この瞬間の感動」に胸を焦がしている生き物みたいだ。

海面から昇る朝日を眺めながら、わたしは何かに向かって強い謝罪の気持ちを抱いた。この何かの正体が、少しだけわかった気がした。これは『わたし』だ。わたしは、わたし自身に向かって謝っているのだ。置き去りにされていたものは、自然ではない自分自身だった。わたしは『わたし』を置き去りにして、わたしは『わたし』を迎えに行き、わたしは『わたし』に謝罪をしながら、わたしは『わたし』に願っている。同じ過ちを繰り返してしまうことのないように、過ちを繰り返すことがあったとしても、何度でも思い出していけるように、朝日を、夕日を、置き去りにされたままの自然をいつでも迎えに行くのだと、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないのだと、こころに刺青を掘るように、わたしは『わたし』に願っている。

ー 自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないんだ。


f:id:ibaya:20160906182716j:plain

人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

よろこびを、光を、幸福をふるさとにしていきたい。

f:id:ibaya:20160904070913j:plain

9月13日から26日まで、ちあきさんという女性と一緒にパリに行きます。まだ往復分のチケットを取っただけで、期間中の予定は何も決まっていません。お金がたくさんある訳ではないので、とにかく長い距離を、目新しい街並みの中を一緒に歩けたらいいのかな、と思っています。欧州にお住いの方で、もしも私たちと話してみたいと思ってくださる方がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
MAIL keigosakatsume@gmail.com

最近思うことあれこれをまとめます。

1・幸福が好きなひともいれば、不幸が好きなひともいる。


自由でありたいと思うならば、自分を批判するひとの「批判をする自由」も認めないといけない。認めた上で、話は聞くけど言うことは聞かない。ごめん、やっぱり俺はこうだわという感じで(悲愴感を漂わせるのではなく明朗に)自分の道を歩けばいいのだと思う。ひとりの人間にできることは、完璧ではない自分にできることは、もう、それしかないのだと思う。自分の道を歩こうとするその姿勢が、結果的に見るひとのこころを勇気付けたり、励ましを与えることになったとしたら、それこそが幸運だと思う。

2・絞り出すものではなく、溢れ出すもの。


これをしなければいけないという脅迫的な感情によって、これをしていきたいと思う前向きな気持ちに蓋をしてしまったら、せっかく自分の中に芽生えた感情の命を殺してしまうことになる。きっと、純粋な幸福感などの感情は「絞り出すものではなく、溢れ出すもの」だと私は思う。人間は決してボロ雑巾のような存在ではなく、永遠に枯れ果てることのないパワーの泉を内面に携えた存在なのだと信じていたい。しなきゃ、という気持ちに負けてはいけない。そうしたいと思った、その気持ちこそを大切にしていきたいのだと思う。

3・心配よりも信頼をしよう。


不安や恐怖は、生きるエネルギーをゆっくりと剥奪する。世界に対する不信感を助長して、目に映るものすべてが、まるで自分に敵対するものとして目の前に立ちはだかっているかのような、そういう気持ちにさせてしまう。私は、きっと、世界やひとは信頼に値するのだということを、自分の生涯を通じて(知識や情報としてではなく、細胞レベルの実感を通じて)この掌の中に掴み取りたいのだと、そういうことを願っているのだと思う。

4・真実はひとを自由にする。


ひとの気持ちを沈ませる観念、ひとの気持ちを争いに向かわせるような考え方や、ひとのよろこびや自由や創造力を奪い取るような構造や独善的で分断的なものごとの捉え方など、このようなものが真理であるとは思えない。それに触れた瞬間、思わずうれしさがこみ上げてしまうような、自分もそうでありたいと思えるもの、生きていることのよろこびを肌で感じることのできるものが、私にとっての真理になる。それを表現したいと思う時に、たとえば私は文章を綴り、ひとと話をしたいと思う。

5・天に恥じない生き方をすること。


自分の中にある「愛」と呼ばれる部分に照らし合わせた時に、何もうしろめたさを感じることがないのであれば、これがいまの自分にとっての精一杯なのだと思えるのならば、何を恐れることがあるだろうか。何を躊躇うことがあるだろうか。ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が思う誠実さのど真ん中を生きること。他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になること。大事なことは、他人ではなく「自分」なのだと私は思う。


6・静かな充足感を与えてくれるものたちは、どれもお金のかからないものだった。


お金がなければ幸せになれないということは、一面の真実なのかもしれないとは思う。しかし、お金がなければ幸せになれないという考え方が、いま、目の前にある確かなよろこびの風景を濁らせてしまうこともあるのではないだろうか。多過ぎる選択肢によって、自分にとって大切な何かを見失ってしまうということも、遠くの何かを必死で追い求めるあまり、自分の目の前に転がっている美しさに、自然の雄大な営みに、いつの間にか背を向けてしまっているということもあるのではないだろうか。

7・静かな時間の中で「自分」に出会う。


刺激が多過ぎる世界の中では、反応をしているだけで1日が終わる。ブランドの広告に購買欲を刺激され、レストランの看板に食欲を刺激され、転職サイトや結婚相談所のチラシに競争心と劣等感を刺激され、多過ぎる人混みに疲労感とストレスを刺激され、街頭セールスなどの愛想笑いに不信感を刺激される。いま、必要なのは「静かになれる時間と空間」なのだと私は思う。自分にとっての大切を護るためにも、自分で自分を調律するためにも、ひとりきりになれる時間【静かになれる時間】は必要みたいだ。

8・よろこびを、光を、幸福をふるさとにしていきたい。


それが「悲しみ」や「不幸」と呼ばれるものであろうとも、慣れ親しんだものの中には居心地の良さが宿る。不幸だ、不幸だと言いながら、不幸でいることのメリットを吸い続けながら生きることだってできる。変わりたい、変わりたいと言いながら、変わらないでいることのメリットを吸い続けながら生きることだってできる。でも、と私は思う。でも、こころの深いところでは、これまでの自分とは違う何かに涙が出るほど焦がれている。不安、憎しみ、惨めさ、悲しみ、恐れ、罪悪感や被害者意識などの不幸をふるさとにしてはいけないのだと、それよりも『よろこびを、光を、幸福をふるさとにしていきたいのだ』と、焦がれているのではないだろうか。

9・よし、失敗してやろう。傷ついてやろう。


パリに行くと決める直前まで、様々な不安が頭をよぎっていた。お金がないのにヨーロッパに行くことは自殺行為になるのではないのかと、物価の高さ故に飢えや疲労で苦しむ(場合によっては野宿をする)ことになるのではないのかなど、心配や不安の種を数え上げたらキリがない。しかし、大切なことは「心配をなくすための努力より、心配を楽しむための姿勢」なのだと思い直した。常にこころに太陽を、太陽とは「行く道を照らす光」でもあると同時に「失敗を楽しむための余裕」でもあるのだと思い直した。

10・生きとし生けるものの前途を祝福する。


世界やひとは信頼に値するものだということを実感したい、悲しみや憎しみや不幸ではなく、よろこびや光や幸福をふるさとにしていきたいのだということを、このブログ記事の中で私は書いた。私は、自分の言葉に嘘をつきたくはないと思っている。自分の言葉が嘘になるような、そんな生き方をしたくない。言葉はある種の決意表明のようなものであり、それは、これまでの自分とこれからの自分を大きく
支える軸になる。

軸を強靭なものにするか、軸を脆く頼りないものにするのかは、これからの自分の生き方にかかっている。私は、もう、自分を低く見積もるような考え方や、自分を見限ってしまいそうになる瞬間からは、出来ることならば遠く離れていたいと思う。自分を見限ることは人類全体を見限ることに繋がるから、自分を信じることは人類全体を信じることに繋がるから、もう、自分を低く見積もるような考え方や、自分を見限ってしまいそうになる瞬間からは、出来ることならば遠く離れていたいと思う。

先日足を運んだ新潟県では、日本海に沈む夕日が綺麗だった。まるで、生きとし生けるものの前途を祝福するかのような、金色のメダルみたいな夕日だった。この瞬間があれば、自分はきっと何度でもやり直せる。そう思った。そして、自然に背を向けるような真似だけはしたくない、天に恥じない生き方をしていきたいのだと、そういうことを思った。他人の濁りを指摘する前に、自分自身を透明にしていきたいのだと思った。

f:id:ibaya:20160904070852j:plain

f:id:ibaya:20160904070903j:plain

f:id:ibaya:20160904070913j:plain

f:id:ibaya:20160904070927j:plain

f:id:ibaya:20160904070943j:plain

f:id:ibaya:20160904070955j:plain

f:id:ibaya:20160904071007j:plain

f:id:ibaya:20160904071016j:plain


f:id:ibaya:20160904071146j:plain

人生は続く。

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com