いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

命は生きたがっている。

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朝、目を開けたら窓の外が黄金色に染まっていた。いま、わたしが暮らしている熱海には、家のすぐ目の前に大きな海が広がっていて、毎日、毎日海面を照らしながら太陽は昇る。熱海の家で、朝焼けを見るのは久しぶりのことだった。その風景があまりにも素晴らしくて、素晴らしくて、わたしはいままでいったい何をやっていたのだろうかという気持ちになった。

世界では、自分の知らないところでこんなにも素晴らしい営みが毎日行われているのだということを、わたしは何もわかっていなかった。頭では、わかっていたつもりになっていた。世界は素晴らしいものであるということを、自然の雄大な営みは見るひとのこころを決して飽きさせることはなく、透き通る優しさを与えてくれるものだということを、わかったつもりになっていただけだった。

海面から昇る朝日を眺めながらわたしは、何かに向かって「ごめんなさい」と謝りたくなった。おかしな話に聞こえるかもしれないけれど、まるで、まだ何もわからない生まれたばかりの自分の小さなこどもを何処かに置き去りにして、そのまま二度と迎えにいくことはなかった、そのこどもがいまもこうして元気に生きている姿を目撃したような、大袈裟な表現になるけれど、そういう気持ちになった。

こどもはいまもこうして元気に生きている。そして、元気に生きているばかりか、置き去りにしてしまった自分にも明るい光を与えてくれるのだということが、その事実が、わたしの中にあった「ごめんなさい」という懺悔にも似た感覚を湧き起こした。わたしは黄金色に輝く海面に見惚れながら、同時に、その何かに対して「しっかりと見てやれなくて、ほんとうにごめん」という気持ちになっていた。

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いまでも、わたしは自分が弱気になった時や自分の中に濁りを感じる時、何かを信じることができなくなりそうな時や大きな何かとのつながりを感じてみたいと思った時、海や、山や、森の中に足を運ぶ。その度に、わたしは何度も助けられた。それでも、このような気持ちを覚えるのははじめてのことだった。ここ最近、日々の中で様々な変化が続いていたからなのかもしれない。あるいはただの定期的なもの、ちょっとだけ自分が弱気になってしまっただけのことなのかもしれない。

自然に触れた時、稀に、涙が流れそうになることがある。この涙は、自分の中にある純粋性を必死に守り抜くために、無意識のうちにこころの奥の方から溢れ出そうとしている力の結晶なのかもしれない。自然に触れる時、それにこころが反応する時、ああ、自分だけは自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないという気持ちになる。その思いが消し去られてしまう前に、枯れ果ててしまう前に、押し潰されてしまう前に、生きていることを証明するように外側に溢れ出そうとしている力の結晶が、涙なのかもしれない。

海面から昇る朝日を眺めながらわたしは、何かに向かって強い謝罪の気持ちを抱いた。この『何か』とは、何を指すのだろうか。これは、朝日に対してだけなのだろうか。朝日を含めた、自然の営み全体に対するものになるのだろうか。それとも、自然の営み全体という言葉さえも超えたもの、もっと大きな『何か』に対する思いなのだろうか。

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わたしは歩く。朝の道を、昼の道を、夜の道を、誰もいない道を、人混みに溢れた街並みを、海を、山を、森の中を、自分の力が続く限り、どこまでも、どこまでも歩く。歩くたびに、この足を進めるたびに、面倒臭がっていたはずの身体はゆっくりと生命力を取り戻していく。歩きたくなんかないとクレームを出していたのは、身体ではなく自分の頭だったのだということを、だって身体はこんなにもよろこんでいるじゃないかと、足を進めるほどに元気になる身体を見てわたしは、ひとつのことを思う。

ー 命は生きたがっている。

雲を見る。花を見る。月を見る。空を見る。猫を見る。星を見る。家を見る。道路を見る。看板を見る。商店街を見る。コンビニを見る。ごみ捨て場を見る。自動販売機を見る。すれ違うひとの表情を見る。電灯を見る。遠くのビルを見る。暮らしを見る。暮らしの奥にあるひとつひとつの命を見る。ひとつひとつの命を見るとき、もうひとつの命、自分の中にある命は感じ取っている。すべての命は、こんなにも生きようとしているのだということを感じ取っている。

わたしはひとりの人間で、これを読んでくれているひとがいるならば、ここにはふたりの人間がいる。ここにいるふたりの人間は、同じ性別かもしれないし、違う性別かもしれない。似たような年齢かもしれないし、まったく異なる年齢かもしれない。日本にいるかもしれないし、日本じゃないところにいるのかもしれない。

違うところはたくさんあるかもしれないけれど、でも、日本語が読めることには変わりない。目がふたつあることに変わりはないし、いまも心臓は動いていること、血液が身体中を流れていること、同じ時代を生きていること、夕日を見たときに切なさを覚えることもあるこの感覚は、きっと、そんなに違わないものなんじゃないのかなと思う。わたしにとって、ひとりひとりの人間はそれほど大きく異なっている存在であるとは思えない。同じようなものを綺麗だと思い、同じようなものを美味しいと思い、同じようなものを見て「生きてきてよかった」と思ったりする、似た者同士なんじゃないのかなと思う。

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わたしは、わたしが思うことを綴る。わたしの思いはわたしの内側から湧き出したものであり、わたし以外の誰かから湧き出したものではない。それでも、誰かの言葉が違う誰かの胸を打つことがあるということは、わたしたちは何処かでつながっているからだと言えるのではないだろうか。ひとりひとりが別々の命を生きているように見えて、実は、何処かで深く確実につながっている「ひとつの大きな命を生きている」と言えるのではないだろうか。

歩きながらわたしは、様々なことを思ったりする。わたしがわたしに思うことは果たして、わたし「だけ」に思うことなのだろうか。わたしがわたしに思うことは、わたしを通じた人間全体に対して思っていることなのだろうか。わたしがわたしを励ますことは、わたしを励ますだけのことなのだろうか。わたしがわたしを励ますとき、わたしを通じた人間全体を励ますことにつながるのだろうか。

自分の感情をうまく信じきることができない時、わたしは、わたしの身体を自然のある場所に運ぶ。自然は嘘をつくことがないから、自然は自分を良く見せようとすることはしないから、わたしも嘘をつかないでいることができる。自分を良く見せようとしないでいることができる。自然はありのままでそこにあるだけ、ありのままでそこにあるだけだからこそわたしも、できるだけそこに近づきたいのだと思うことができる。

自然の風景を眺めながら、沈む夕日の紅色に切なさを覚えながら、わたしは「自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながる」ということを思った。思ったのではなく、ただ、そのように信じただけのことなのかもしれない。自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながる。だから、自分を愛することができない時は、自然の中に足を進めるんだ。そういうことを、忘れてしまわないように自分に向けて言い聞かせていた。

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わたしはわたしに願っている。自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけない。その思いが消し去られてしまう前に、枯れ果ててしまう前に、押しつぶされてしまう前に、できるだけ、自然の中を歩いてほしい。毎日じゃなくてもいいから、思い出した時だけでもいいから、朝日を、夕日を、置き去りにされたままの自然を迎えにいってほしいのだと、わたしはわたしに願っている。

ー 自然を愛することは、必ず、自分を愛することにつながるんだ。

昨日の自分は、今日の他人だ。たとえ、どれだけ強くこころが震える日々のど真ん中を生きてきたとしても、それらは過ぎた日のよろこびであり、決して、今日のよろこびにはならないみたいだ。ひとつの答え、ひとつのよろこび、ひとつの感動の上にいつまでも腰を据えていられるほど、ひとは同じでいることはできないのだと思う。

明日には同じではいられないからこそ、今日の自分は今日で最後だからこそ、この命を、二度とは戻らない今日の命を、使い切っていきたいのだと思う。ひとが生きることができるのは「いま」というこの瞬間だけ、今日の自分に必要なもの、それは昨日の感動でもなければ明日の感動でもない、涙が出そうになるくらい「この瞬間の感動」に胸を焦がしている生き物みたいだ。

海面から昇る朝日を眺めながら、わたしは何かに向かって強い謝罪の気持ちを抱いた。この何かの正体が、少しだけわかった気がした。これは『わたし』だ。わたしは、わたし自身に向かって謝っているのだ。置き去りにされていたものは、自然ではない自分自身だった。わたしは『わたし』を置き去りにして、わたしは『わたし』を迎えに行き、わたしは『わたし』に謝罪をしながら、わたしは『わたし』に願っている。同じ過ちを繰り返してしまうことのないように、過ちを繰り返すことがあったとしても、何度でも思い出していけるように、朝日を、夕日を、置き去りにされたままの自然をいつでも迎えに行くのだと、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないのだと、こころに刺青を掘るように、わたしは『わたし』に願っている。

ー 自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけないんだ。


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人生は続く。

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