自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない。
1・ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。
ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が思う誠実さのど真ん中を生きること。他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になること。変化を求める【口先を変える】のではなく、自分自身が変化になる【行動を変える】こと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月19日
2・自分が「これだ!」と思った生き方を貫くこと。
いまの私に肩書きはない。私の生き方を見て、作家とか旅人とか芸術家とか哲学者とかロックとか建築家とかダメ人間とか社会不適合者とか落伍者とか、様々なひとが様々な言葉を与えてくれる。私は、答えよりも問いになりたいと思う。答えがあるから生きるのではなく、問いがあるから生きるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月2日
3・「あなたに会うため」に生きている。
なぜ生きるのかという問いに対して、きっと、答えはひとの数だけあるのだと思う。私は、大袈裟だけれど「あなたに会うため」だと思うことがある。なぜ生きるのか、なぜ働くのか、なぜ書くのか、なぜ歩くのか、なぜ考えるのか、それは「あなたに会うため」だと思う時、自分はひとりではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月2日
4・人生とはボーナスタイムである。
昔から、自分自身に「傷つく前に傷つくな」と言い聞かせていた。傷つくことを恐れる気持ちは、実際に傷つくことよりも苦しいものだと、多分、直観的に感じていたのだと思う。自分のこころの中に住む怪獣を退治するために、ひとは、冒険に出るのだと思う。怪獣の名前は「不安」や「恐怖」なのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月3日
5・よし、失敗してやろう。傷ついてやろう。
うまくやろうとか考えてしまうから行動が鈍る。成功するためではなく「よし、失敗してやろう。傷ついてやろう」と思って突撃すれば、意外と清々しい結果になることが多い。大切なのは「うまくやること」なんかではなく、「俺はやった」という自分自身に対する絶対的な手応えなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月4日
6・無邪気なわがままは最高の美徳。
好きなように生きても周囲に迷惑をかけることは意外と少なく、逆に、自分の感覚を押し殺してまで自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。帰りたい時は帰る、嫌なものは嫌だと言う、自分の欲求は勇気を出してはっきりと口にするなど、潔い我儘は最高の美徳だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月21日
7・自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけない。
自分だけは、自分の中にある純粋性を守らなくちゃいけない。職場や学校に行きたくないと思う時、それは我儘でも弱さでもなく、真っ当な精神の防衛反応だと思う。必要なのは精神を押し殺す努力ではなく、的確に言語化する努力だ。嫌だなあと思うことを受容し続ける日々を送ると、最悪の場合、魂が腐る。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月8日
8・自分をオープンなものにしている限り、人間は死なない。
自分の力で「どうにかしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものだと思う。日々を信頼して身を委ねていけば、きっと、世界は幾つもの輝きに溢れた瞬間を見せてくれる。 pic.twitter.com/FIXy3OAUc3
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月7日
9・中途半端な未練を断ち切ること。
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心と一緒に扉を開くのではなく、静かな勇気と共に開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月22日
『君あり、故に我あり』
もし我々の社会が、尊厳を保ち後ろ向きの考えを持たない、ある程度心の平和を達成している人々で溢れていれば、当然、人々はどんな『敵』も恐れないだろう。しかし、我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について我々に語りかける。それが彼らの利益にかなうのだ。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる。軍備に世界の資源の多くを費やす指導者を我々が持っているのは、不思議なことではないのだよ。精神的平和と政治的平和、内面の平和と世界の平和の関係を理解するのは容易ではないかもしれないが、これらの二つの側面は不可分であり、完全につながっている。ー サティシュクマール『君あり、故に我あり』【講談社学術文庫】
10・弱いからこそ、足りない部分があるからこそ、誰かとつながることができる。
生きる気力をなくした時は、
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月10日
・好きな歌を歌う
・好きな道を歩く
・好きな人を思う
この三つが効果的でした。 pic.twitter.com/G6tLwA0ELL
みっともなさばかりが溢れる夜は、感謝できることを探そう。今夜寝る場所があり、明日食うに困らないカネもある。家族は元気で、友達もいる。好きな音楽がある。好きな自然がある。両足があって、指先がある。愛を語る口があり、愛を語る言葉がある。俺はまだ生きていて、何かを伝えたがる熱量がある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月3日
自分を責めてはいけないのだと思う。生きているだけで、充分、頑張っている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月3日
夕陽を眺めながら「弱点を克服する必要はないのだ」ということを思った。弱さを克服することが強さなら、弱さを認めることも、弱さを曝け出すことも、同じように強さだと思う。弱いからこそ誰かを必要とし、弱いからこそ誰かと繋がり得るのだと思う。 pic.twitter.com/EQdpIQdnEo
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月4日