いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

これがわたしの内臓です。

f:id:ibaya:20190318135158j:plain

 

ミラノを経由してヴェネツィアにいる。ミユさんと合流する。安心感が半端ないのか、毎日すやすや眠れる。昨日は18時間寝た。ミユさんと初対面を果たしたのは今年の1月。まだ二ヶ月も経っていない。一番最初、ミユさんは、わたしに「圭吾さんには欠乏感を感じる。そこに、すごい男を感じる」と言ってくれた。普通、そこまでの欠乏感を感じたまま、生きることはできない。ごまかしたり、見て見ないふりをするのが普通だと思うけど、圭吾さんはそのまま生きているからすごい、と。

 

 

おおまかなスケジュール


3月20日 移動(ヴェネツィア〜ロンドン)
3月21日~25日 FREE!@ロンドン
3月26日 「音楽×トーク」企画@ロンドン

3月27日~4月2日 FREE!@ロンドン
3月31日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能)
4月7日 🎁🎉✨🎂💝坂爪圭吾34歳の誕生日💝🎂✨🎉🎁

4月11日 関西空港到着以降、引き続き音楽武者修行【日本】
4月14日「音楽×トーク」企画@大阪【詳細決まり次第更新】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

欠落。

音楽をつくっていると、昔の記憶が蘇る。そういえば、俺は、昔から「俺はここにいちゃいけない」「俺は生きていちゃいけない」という感覚があったな。そう思った。できることならば、俺は、ここにいたい。しかし、それが許されることはない。時折、ここにいてもいいよと言ってくれる人物や、そう言ってくれる空間と出会えた時に、特別に「ここにいてもいい」という許可がおりる。わたしの存在は、常に「他者の許可が必要なもの」であり、許可があればそこにいることが許されるが、許可がない限り「自分はここにいちゃいけない」「自分は生きていちゃいけない」という感覚に支配をされて、その場所を離れる。結果、常に、ひとりになる。

 

note.mu

 

ミユさんとはじめてあった時、俺たちは一緒に生きた方がいいと思った。一緒に生きれば、お互いの良い部分を引き出し会える最高の関係になれる、と、そう思った。しかし、思っただけでなにも行動に移さなかった。「行動に移す」という発想がなかったのだ。それくらい、無意識のうちに「俺はひとりで生きる」ということが前提条件になっていた。その時、一緒にいた保科さんが「それならまたすぐに会いに行きましょう!来週とか!」と、提案をした。わたしは、驚愕した。大げさに聞こえるかもしれないが、会いたいなら、また、会いに行ってもいいのだ。「生きていればまた会えるさ」などと遠い日の再会を夢みるのではなく、もし、本当に相手が真に重要な存在ならば、自分から「会いたい」と伝えて、そして、実際に会いに行ってしまってもいいのだ。と、そんな、当たり前のことに今更気づいたのだ。

 

note.mu

 

今まで、誰かに「会いたい」なんて言ったことはなかった。会いたい気持ちは常にあった。しかし、そう言うことを自分に禁じていた。常に受け身だった。誰かから「会いたい」と言われて、はじめて動き出すのが自分だった。我々三人はヴェネツィアで再会を果たし、そして、ミユさんの提案で『バンドを結成する』ことになった。音楽をやるということさえも、私は、ミユさんの存在に助けられた。自分が一番やりたいことは、いつの間にか奥の方に引っ込めていた自分を見た。が、ミユさんが「音楽をやりましょう!」と提案をしてくれたことで、はじめて、自分に音楽をやる権利が与えられた。そして、いま、わたしは1日1曲音楽を作る日々を過ごしている。からっぽだった人間に、生きる意味が与えられた充実感を覚えている。

 

「snows」「ワンダーランド」「Before Ash」

www.youtube.com

 

note.mu



www.youtube.com

 

note.mu



www.youtube.com

 

note.mu

 

これがわたしの内臓です。

f:id:ibaya:20190228070646j:plain

 

音楽を通じて、差し出したいものは「真珠」なのか「内臓」なのか。普通、きらきらひかる真珠の方が、多くの人々に愛されるだろうし、万人ウケをするのだろう。しかし、わたしは、音楽を通じて「これがわたしの内臓です」と言いたい気持ちがある。生命の塊をボン!とその場において、あとは、好きに判断してください、というような感覚。決して綺麗なだけじゃない、決して居心地のよいだけじゃない、が、その生々しさを通じて「頭の中から離れなくなる」「生きることの根源を問う」「しばらく立ち上がれなくなる」ような、そういう音楽をつくりたいと思う。

 

内臓を差し出す瞬間は恐怖だ。真珠の方がいいに決まっている。しかし、真珠なんか差し出してたまるか、そんなものは偽物だ、などと思う自分がいる。見た目は完全に真珠風でも、どこかに「内臓」の香りがするものを作りたい。真珠なだけなら、自分がやる意味はない。なぜ、こう感じるのだろう。なぜ、内臓を差し出したいなどと思うのだろう。いま、この瞬間も、体内の臓器は「生きていることを訴えている」ように活動を続けている。心臓の鼓動は肉体を叩き、おい、おい、おい、おい、と、生命を主張する。生々しいものをつくりたいと思う、一番の動機。それは、自分自身が『生々しいものである』からだ。人間は、真珠より、内臓に近い。

 

我々は、人間であり、自然である。火山がある。火山は時折噴火をする。自然の一番怖いところは、人間の理屈を超えるところだ。東日本大震災を思い出せばわかる。自然災害は無慈悲にあらゆるものを奪い去る。しかし、それでも、人間は自然を愛することをやめない。あれだけ噴火の危機が叫ばれている富士山の山麓でも、暮らしを続ける人々はたくさんいる。たとえ、近日中に富士山が噴火する危険性を伝えられても、彼らは「そこで死ぬ」ことを選ぶだろう。そして、自分が死ぬまでの間、(ともすると自分の命を奪うものになるかもしれない)富士山を愛し、慈しみながら、富士山と共に生きるのだろう。わたしは、ここに、自然の大きさを見る。我々ひとりひとりが自然ならば、自分の中に火山もあるし、自分の中に津波も起きる。自分が自分であることを、まるごとひっくるめて許していきたいと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190318135204j:image

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190308101743p:plain

LINE ID ibaya

死ぬなよ。しかし、死を恐れるな。

f:id:ibaya:20190316214242j:image

 

エジプトのカイロ国際空港にいる。エジプト人とインド人には類似性を感じる。ゆるさに悪気がない。14時間のフライトは快適極まりなかった。横になって眠るため、三列ガラ空きの空席を見つけて誰よりも迅速にそこに移動する。さすれば横になって眠れる。気分は水滸伝の戴宗である。ファーストクラス並みに快適だから、勝手に『ファストクラス』と名付けている。寝たり機内食を食べたり水滸伝を読む間に、14時間はあっという間に過ぎた。音楽をやり始めてから一番の変化は、暇をしなくなったこと。これまで、わたしは暇の塊だった。しかし、今は、違う。わたしは、再び、世界と恋に落ちたのだ。

 

 

おおまかなスケジュール


3月17日~25日 FREE!【欧州界隈】
3月26日 「音楽×トーク」企画@ロンドン【イギリス】

3月27日~4月10日 FREE!【欧州界隈】
3月31日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能)
4月7日 🎁🎉✨🎂💝坂爪圭吾34歳の誕生日💝🎂✨🎉🎁

4月11日 関西空港到着以降、引き続き音楽武者修行【日本】
4月14日「音楽×トーク」企画@大阪【詳細決まり次第更新】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

生きるとは何か。

前回の記事にも書いたが、K様と話した時間が面白かった。K様は言う。よく、神様がいるかいないか議論ってあるじゃない。そんなもの、あたしに言わせたらいるに決まってるのよ。だって、いま、あたしがここにいるんだから。たとえばさ、ドラえもんでもなんでもいいんだけど、漫画の登場人物は漫画家を認識することができないのよ。ドラえもん藤子不二雄を認識できないように、孫悟空鳥山明を認識できないように、ね。でも、ドラえもんがいるってことは、藤子・F・不二雄、要するに神様【創造主】がいるってことでしょ。だから、認識できるかできないかは置いておいて、神様なんているに決まってるのよ。

 

note.mu

 

神様がいないとか言う人は、要するに欲が深いのよ。神様とか宇宙とか量子力学とか高尚な議論をしているつもりなのかもしれないけど、単に、自分の欲が深すぎるだけ。欲が強すぎる自分の願望を満たしてくれる存在がいなくって、ただ、拗ねているだけなのよ。神様に期待し過ぎなのよ。と。これを聞いた時は「なんて痛快なんだ!」とわたしは惚れた。格好いいとはこういうことだと、名画『紅の豚』のキャッチコピーを思い出した。神様はいる。理由は「現に、自分がここにいるから」。ブラボー。自分の頭で考えてきた人と話す時間は楽しい。人間と話していると思える。本を読み過ぎたり、誰かの言葉や、一般論ばかりを話す人といると、まるで「壁と話している」みたいな感覚を覚える。壁と話すくらいなら水滸伝を読みたい。水滸伝には人間がいる。が、K様と話す時間は水滸伝を越える。理由は「リアル」だからだ。

 

note.mu

 

リアルなやり取りを交わしたい。スピリチュアルにはまる人間の気持ちもわかる。自殺するよりは、スピリチュアルに溺れたり高額な自己啓発セミナーやマクロビにはまる方がましなのかもしれない。ただ、癒されてどうなる。健康になってどうなる。美人になってどうなる。金持ちになってどうなる。肝心なのは、それから、どう生きるかの部分ではないのか。自分が生き延びること以上に、たとえ、死ぬことになったとしても「俺はこれをやりたいんだ」と思えるものがなければ、人生はからっぽなままではないのだろうか。どう生きるか。あるいは「生きるとは何か」。切実だが、本質的な問いだ。答えなんてないのかもしれない。だからこそ、わたしは、この問いを放棄した人間より、この問いと共に生きる人間を愛する。

 

🇬🇧🇬🇧🇬🇧3月26日EVENT@ロンドン詳細はこちらです🇬🇧🇬🇧🇬🇧

uk.mixb.net

 

1日1曲継続中!聞いてね!

 

note.mu

 

 

note.mu

 

死ぬなよ。しかし、死を恐れるな。

f:id:ibaya:20190316214300j:plain

 

音楽活動をはじめてから全否定される機会が増えた。賛否両論集まる。賛だけではなく、否が集まることは健全なことなのだと思う。一番しんどいことは「反応がまったくない」ことだ。反応できない人間は死んでいる。死体は、反応することができない。ボロクソに言われていることをnoteに書いたら、これは大人のイジメだから気にしないで!と言われた。なるほど。一理ある。しかし、ふと、思った。イジメる側の人間も、罵倒を通じて「実はSOSサインを出している」のではないか。普通、幸せな人間は他人を批判しない。そんなことより自分の幸せに集中する。ならば、彼らは、誹謗中傷することを通じて「自分は不幸な人間である」ことを主張していることになる。怒りに怒りで返してもいいが、ファンもアンチもひっくるめて、みんなを楽しませる音楽を作る。そっちの方が「俺は燃えるな」と思った。

 

しかし、基本的に「甘えを自覚していない」人間のことは好きではないから、わかり合おうと努力しなくてもわかり合えるひとと同じ時を過ごしたいと思う。友達ごっこをしている時間はないし、自分が「この人は!」と思ったひとと出逢った際に、恥ずかしくない自分でありたい。精進である。あなたは知名度があるからいいですね、と、ある人間から言われた。わたしは、ふざけるな、と思った。わたしの知名度は単なるまぐれ当たりかもしれない。しかし、自分なりにバットは振り続けてきたつもりだ。当たるも八卦。当たらぬも八卦。だが、バットを一回も振ったこともない人間から、あなたはいいですねなどと言われても「バカヤロー!」と思う。振らずに打てるホームランがあるものか。申し訳ないけど、そういうことを言う人間には「お前はなんにもやんねえよ」と思う。自分はなんにもやらないまま、生きて、他人を羨んで、不満を募らせて、周囲に当たり散らして、不機嫌をばらまいて、言い訳を重ねて、全部を環境の問題にして、そのまま死ねばいいのだと思う。

 

そう言う生き方を「ダサい」と感じる人間と、わたしは生きたいと思う。なんのために生きるか。それは、自分の『好き』に殉じるためだろう。死なないために生きているわけではない。これのためなら死ねる、と、自分を投げ出せる対象を見つけること。それが人生の醍醐味だと思う。見つかることが尊いのではなく、探すこと、求めること、手を伸ばし続けること、そこに辿り着きたいと願うこと、が、尊いのだ。水滸伝の登場人物が全員格好良くて本当に痺れる。敵に囲まれ、全身を槍で貫かれながら、大切なものを護り抜き、死んだ漢がいる。漢は、死ぬ間際、空を見上げながら「愉しかったな」と呟いた。たまらない死に方だな、と、思う。

 

 

f:id:ibaya:20190316214319j:image

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190308101743p:plain

LINE ID ibaya

言葉は音楽になる。

f:id:ibaya:20190115210737j:plain


菊名駅前のコロラドにいる。バカと連呼する曲を作った。曲の最後は「バーカバーカベロベロベー」で終わる。電車の中、イヤホンをつけながら聞いていた。ふとしたきっかけでイヤホンが耳から落ち、スマホから直接音楽が流れた。車内に音楽がこだまする。俺のスマホから「バーカバーカベロベロベー」と声が流れる。車内の人々が俺を見る。慌てて音楽を止める。俺も慌てたが、周囲の人々も慌てていた。

 

 

おおまかなスケジュール


3月15日 夜・成田空港出発【日本】
3月16日 朝・カイロ【エジプト】(現地在住の人ご連絡ください!)
3月16日 昼・ミラノ【イタリア】
3月17日~25日 FREE!【欧州界隈】
3月26日 「音楽×トーク」企画@ロンドン【イギリス】

3月27日~4月10日 FREE!【欧州界隈】
3月31日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能)
4月7日 🎁🎉✨🎂💝坂爪圭吾34歳の誕生日💝🎂✨🎉🎁

4月11日 関西空港到着以降、引き続き音楽武者修行【日本】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 


まずは一年。一年でどこまで行けるか。だ。

2019年2月14日にバンドを結成したから今日で一ヶ月。1日1曲の創作活動は続く。結構な数の人々から「量より質だよ。真面目にやりなよ」と言われた。正直、うるせえと思った。まずは量なんだよ。量を経ての質なんだよ。お前の言うことなんか聞いてたまるか、と、悪態を突き返した。多分、また嫌われたと思う。こういうことを言うと「あなたの言葉に傷つきました」などと言われる。ちょっと待て、と思う。俺だってお前の言葉に傷ついたのだ。喧嘩両成敗。なに、自分だけ傷ついたみたいな言い方をしているのだ、この不届きものの甘ったれ小僧が、と思う。

 

note.mu

 

なにかをはじめると(自称先駆者の方々から)怒涛のアドバイスがなだれ込む。この人のアドバイスは聞くけど、この人のアドバイスは無視する。見極めが重要だ。わたしは、基本、楽しそうに生きている人の意見だけ聞く。だって、つまらなそうに生きている人の話を聞いたら「自分までつまらない人間になる」からだ。自分が解決できていない問題を、他者を通じて解決しようとする人間は多い。有害なアドバイスを貰ったほうはたまったもんじゃない。お前の問題を俺に押し付けるな、と思う。真理には、必ず、清々しさがある。発言者を離れて、言葉だけが胸にスッと入ってくる。清々しさがない言葉は、全部スルーでおっけー。人間、誰もが『傷ついても揺るがない芯』をもっている。有害なアドバイスは、自尊心まで破壊する。

 

note.mu

 

まずは一年。一年でどこまで行けるか。だ。来年の2月14日には、現時点では想像もできない境地にたどり着きたい。自分が自分に期待するし、この記事を読んでいる人々にも「面白いことになる予感だけはあるから、よかったら見ててね(はあと)」と思う。明日発の便で欧州に飛ぶ。わたしは、環境からめちゃめちゃ影響を受ける人間だから、ごちゃまぜの家にいたらごちゃまぜの家の音楽が、日本にいたら日本の音楽が、欧州にいたら欧州の音楽が、自分の中から飛び出す(と思う)。わたしのなかに、まだ、音楽に出していない部分がある。性質で言えば、それは『火』だ。小生の太陽星座は牡羊座だが、小生の月星座は蠍座である。この『影』の部分を、音楽に出したいと思う(のだけれど技術が全然追いついていない)。

 

 

人生の真理をお聞きください。

 

note.mu

 

言葉は音楽になる。

結局たいしたお金もないまま、欧州武者修行に飛ぶ。生きて帰れないかもしれない。しかし、わたしが死んでも音楽は残る。素晴らしい話だ。これまで、自分は「死んでもいい」と思って生きていた。逆説的な話だが、死んでもいいと思ってからの方が『生きている』実感は強くなり、ひとりでもいいと思ってからの方が『自分はひとりではない』実感は強くなった。だから、ひとりで生きる覚悟、死んでもいいと思う覚悟が重要なのだと思っていた。この段階も、次のステージに入る。いま、わたしは「生きていたい」と思う。今日がこれほどまでに楽しいならば、明日もきっと楽しくなる。だからこそ、明日も生きていたい。できることならずっと、遊び続けていたいと思う。無理なことだとわかっているが、永遠に生きていたい。永遠に遊び続けていたい。そう感じる自分の心境の変化に、自分が驚いている。

 

昨日、K様に銀座で「俺の焼肉」をご馳走になった。死ぬほど美味かった。K様は言った。よく、音楽が時代を動かしているとか言うじゃない。ビートルズの音楽が世界を変えた、とか。でも、あれ、違うと思うのよね。おかしな言い方になるけど『時代が人間に音楽をおくっている』のだと思うの。その役割を、たまたまビートルズが担っただけ、っていう感じ。わかるかな。音楽とか、表現の世界って『頑張ればなんとかなる甘い世界じゃない』でしょう???モーツァルトサリエリみたいな感じで、どれだけ敬虔に神様にお祈りしても、どれだけ敬虔なクリスチャンとして毎日を生きても、サリエリモーツァルトみたいな音楽をつくれなかった。『受信機』になるってことなんじゃないのかな。純度の高い受信機であるために、たとえば、モーツァルトは奇行とも呼ばれる行動を重ねたような気がするのよ。

 

わたしは漢字の成り立ちの話をした。『言』と『音』の言葉の違い。どちらもほとんど似た象形文字をしていて、違いと言えば『(漢字の下の部分が)口』になると言になり、『(漢字の下の部分が)日』になると音になることだ。口とは、顔にある口からきている漢字ではないらしい。口の象形文字は「入れ物があって、それになにかが入っている状態」を意味している。これは祝詞であり、神様に捧げるものである。この入れ物に対して、神様がなにかしらのレスポンスをくれたときに(入れ物のなかにあった祝詞に)波が起こる。人間にできることは『言』まで。そこに、神様がレスポンスをくれたときに『言葉は音楽になる』のだと思う。わたしは、昔から「どうして闇という漢字の中には『音』がはいっているのだろう」と疑問に思っていた。自分なりに考えて、わかった。乱暴にまとめると「神は夜に来る」ということだ。闇とか、影とか、表面的にはネガティブな意味合いが強い。しかし、それがあるからこそ「神様の到来を感じることができる」ものだと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190119045147j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190124044853p:plain

LINE ID ibaya

道を選ぶということは、安全な道を選ぶことではない。

f:id:ibaya:20190312090518j:plain

菊名駅前のコロラドにいる。写真はヴェネツィア滞在時の小生(坂爪圭吾)とミユさん。我々のバンド名は『hill(ヒル)』という。英語で「丘」とか「坂道」の意味がある。端的に、私の名前が坂爪で、ミユさんの名前が美智恵なので、これはサカミチだねということで『hill』と名付けた。保科さんを置いてけぼりにしてしまったので、申し訳程度に歌詞の中に「目に見える星 登る坂道」とか入れたりしている。

 

 

おおまかなスケジュール


3月12日~15日 FREE!【日本】
3月16日 朝・カイロ【エジプト】
3月16日 昼・ミラノ【イタリア】
3月17日~25日 FREE!【欧州界隈】
3月26日 「音楽×トーク」企画@ロンドン【イギリス】

3月27日~4月10日 FREE!【欧州界隈】
3月31日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能)
4月7日 🎁🎉✨🎂💝坂爪圭吾34歳の誕生日💝🎂✨🎉🎁

4月11日 関西空港到着以降、引き続き音楽武者修行【日本】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

年齢の可動域を増やす。

f:id:ibaya:20190216032342j:plain

 

取り急ぎ各自できることからやっている。坂爪は1日1曲を、保科さんはベースの訓練をゼロベースから、ミユさんは美しい孤独を。我々3人のライングループがある。昨夜、ミユさんが「わたしはGacktみたいになります」宣言をしたために戦慄が走った。やばい。俺の暴走でおかしなことになっている。愚かな曲ばかりを連発している。大変だ。俺だってできればL'Arc〜en〜Cielみたいになりたかった。乾いた風をからませたりしたかった。のに、自分から出てきた楽曲はこの程度のものだった。非常に無様である。が、精進である。いつか行くぜあの世。本腰で行くぜ。

 

note.mu

 

自分はダメな人間で、すぐにふざける。しかしながら、愚かな曲を作ることは自分なりの精神安定剤で「音楽ってそもそもで楽しいものだよね!」という気持ちを取り戻すために必要不可欠なものだ。が、これだけだとこれだけの人間になる。いかん。わたしにとって、大人になるということは「年齢の可動域を増やす」ことだと思っている。たとえば、現在のわたしは33歳だが「いつでも3歳の頃に戻れる」とか「33歳なりの悲哀を歌うことができる」とか、そういうことが年齢を重ねる魅力だと思う。しかし、現状、わたしは三歳児の歌ばかりを連発している。あかん。早くおとなにならなければならない。アダルティな色気をまとわなければならない。

 

note.mu

 

中二病どころか三歳児にまで遡るとは。わたしは牡羊座だ。星座的に「赤ちゃん」らしい。だから致し方ないのかもしれない。が、わたしにはわたしなりに「大人の色気」があると信じたい。黄色い声援を浴びたい。ちやほやされたい。オートロックの家に暮らさないとファンの大軍に囲まれて大変!マスクとサングラスは必需品よ!みたいな生活を送りたい。それなのにこのザマはなんだ。わたしの歌を聞くと小さなこどもたちが喜ぶ。騒ぐ。暴れ出す。小さなこどもたちが喜ぶのは嬉しい。わたしはこどもが大好きだ。大富豪になったら保育園の園長になりたい。保育園の名前は決めている。梁山泊。108人のこどもたちを『替天行道』で育てるのだ。

 

三歳児の音楽をお楽しみください。

 

 

ごちゃまぜ人形劇がはじまりました。

www.youtube.com

 

gochamaze.hatenablog.com

 

道を選ぶということは、安全な道を選ぶことではない。

f:id:ibaya:20190216032336j:plain

 

バンドを組みました。そういう話をすると「パートはなんですか?ギターですか?ボーカルですか?」と問われる。わたしは、そういうことじゃないんだよ、と思う。強いて言うなれば、我々のパートは全員一律で『愛され役』である。誰が歌うかは謎だ。誰がボーカルなのか、誰がギターなのか、誰がベースなのか、ミユさんはピアノも弾けるけれどピアノを弾くのか、などということは瑣末な問題に過ぎない。何をやるにせよ、何を演奏するにせよ、我々の役割は『愛され役に徹する』ことである。この点は揺るがない。我々は愛されるために音楽をやるのだ。誰かを愛するよろこびを世界に振りまくために、我々はこの惑星(ほし)に生まれたのだ。

 

わたしは「真・善・美」を愛している。わたしにとって、真理とは『人間をスカッとさせるもの』である。痛みを伴う場合もある。苦痛を伴うこともある。が、同時に、必ずある種の浄化を伴う。真理は人間を自由にする。しかし、この世界には罠が多い。真理を装った「真理風の偽物」は多い。たとえば、良い学校に行って、良い企業に入る。これは、一般的には正論なのかもしれないけれど『スカッと感』がまったくない。わたしは、もう、スカッと感のないものを自分の人生に採用しない。決めたのだ。スカッと感のないものを採用すると、途端に人生が窮屈になる。真理には、必ず『スカッと感』がある。毎日は選択の連続だ。中途半端な選択、無難な選択を続ける日々に『スカッと感』は少ない。が、ああ、これは完全に良い金の使い方をしたな、とか、ああ、これは完全に正しい選択を自分はしたな、と思える瞬間には、必ず『スカッと感』『パアッと感』『ジュンジゥュワア感』がある。

 

君は勘違いしてるんだ。道を選ぶということは、必ずしも歩きやすい安全な道を選ぶってことじゃないんだぞ。みたいなことをドラえもんが言っていた気がする。わかる。わかる気がするよドラえもん水滸伝を読んでいると喧嘩のやり方を学ぶ。乱暴にまとめると、喧嘩に負けるときは大概『思い切りが足りないとき』なのだ。次の一歩を考える。この、考えた瞬間に『迷い』が生まれ、踏み込む一歩の威力を奪う。結果、中途半端な結果を生む。守りにはいった瞬間に、敗北がはじまる。基本的に『攻め』の姿勢を失った瞬間に、人間は老いるのだろう。消極的な意味での『死』を、自分の懐に招き入れてしまうのだろう。これから先、影響を受けたアーティストは誰かと問われまくるのだろう。答えは用意してある。バッハ。G線上のアリアを聞くと、わたしは「生も死もねえな」という気持ちになる。死にたいは、生きたいだ。生きたいは、死にたいだ。遺書ではない。遺言を残したいと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190216032347j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190308101743p:plain

LINE ID ibaya

悲しむひとがいる限り、俺の仕事は終わらない。

f:id:ibaya:20190310081912j:image

 

菊名駅前のコロラドにいる。諸事情が爆発をして所持金が二万円を切った。3月16日から一ヶ月弱欧州で武者修行をする。予算は一万円強。宿を一晩確保したら消える額だ。無事に乗り切れるのだろうか。俺はどうするつもりなのだろうか。自作の音楽をSNSに投稿する度にフォロワーが減る。尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が脳内を流れる。悲しい。でも仕方がない。生きることはかくも悲しいことなのだ。

 

 

おおまかなスケジュール


3月10日 お金がないから仕事に行かなきゃ@東京
3月11日~15日 FREE!【日本】
3月16日 朝・カイロ【エジプト】
3月16日 昼・ミラノ【イタリア】
3月17日~25日 FREE!【欧州界隈】
3月26日 音楽発表会@ロンドン某所【イギリス】

3月27日~4月10日 FREE!【欧州界隈】

4月11日 関西空港到着以降、FREE!【日本】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

涙の数より、恥の数。

ロンドン在住のS様から「はじめたのですね音楽!それならロンドンでイベントやりましょう!」とご連絡をいただいた。素人なりに音楽活動をはじめて数週間、爆裂どヘタクソながら「まずは量だろ!質とか言っている場合じゃないだろ!」ということで1日1曲(!)を目安に創作を続けている。岡本真夜は涙の数だけ強くなれると歌った。が、正確には『恥をかいた数だけ強くなれる』だと思う。いきなりロンドンで発表会だ。音楽の本場だ。照れるぜ。誰も来なかったらどうしよう。というか航空券を買えるのだろうか。ミラノから歩いてロンドンに向かうのだろうか。

 

note.mu

 

出発まで五日しかない。お仕事を募集しなくちゃいけない。誰かわたし(坂爪圭吾)にお仕事を与えてください。欧州在住の方は発表の機会を与えてくださるととても嬉しいです。帰国後の関西(あるいは日本全国)での発表の機会も求めています。いまはまだ数曲しかないけど(1日1曲の単純計算で行くと)月末には20曲程度持ち曲が増える。素晴らしい。人前に出るときは「もうちょっとうまくなったら」とか考えてしまうが、違う。未熟なら未熟なりに「いまの私を見てください!」と差し出す方がいいと思った。数年後、いまよりはましになった自分が現在の自分を振り返ったとき、ああ、俺はこんなだったなあと懐かしさを覚えるのだと思う。

 

note.mu

 

他人の幸福をうらやんではならない。なぜならあなたは、彼の密かな悲しみを知らないのだから。そんな感じの箴言がある。33歳から音楽をはじめるというのは無謀なのかもしれない。社会的な自分が「いい歳こいて…」と自分に突っ込む。しかし、同時に「無謀とはなんだろう。普通とはなんだろう」みたいなことも思う。『普通は』若い時からやるものだ、とか、『普通は』この年齢でやることではない、とか。普通って、得体の知れない誰かとの比較でしかない。普通の人なんて、多分、一人もいない。そんな幻想に惑わされちゃいけない。誰かから「あなたは変わっているね」と言われても、それが自分にとっての自然ならば、それが『自分にとっての普通』なのだ。わたしにとって、音楽をやることは、普通のことである。

 

青春三部作を作りました。

 

 

 

 

 

 

悲しむひとがいる限り、俺の仕事は終わらない。

音楽を作る。SNSに投稿する。それを見てくれるひとがいる。反応が届く。反応が届くと「めっちゃうれしい!」と思う。反応が皆無だと「俺は死んだ方がいいのかもしれない」と思う。反応があることのうれしさを、長い間忘れていた。このブログをはじめたのがいまから五年前。いつの間にか大勢の人々に読んでいただけるようになり、諸々の奇跡に恵まれた。が、同時に『反応があることの日常』に慣れてしまっていた。音楽をはじめる。まったくの初心者であり、小者だ。こんな小者に反応をくれる人がいる。反応があるとはこんなにうれしいことなのか。昔を思い出す。ブログ開設当初も、反応がうれしくて書き続ける力を得た。五年も続いたのは、反応があったからだ。『書く私』だけではなく『読むあなた』がいたからだ。

 

音楽はもちつきに似ている。世界に飛び散る粒子を集めて、バラバラなものをひとつにする。もちつきは『つくひと』と『返すひと』が必要だ。そして、当たり前のことだけどもちを織りなす材料が必要だ。料理は奇跡だ。人類の魔法だ。なぜ、あの組み合わせでこんなものが生まれるのだろうかと感動する。人間と動物の違いは『料理をするか』だ。動物は料理をしない。人間は料理をする。直接的な料理もあれば、音楽とか絵画とか建築とかも『料理』だと思う。自分のためだけに作る料理はやる気が起きない。たまごかけご飯で済ませてしまう。しかし、食べてくれる誰かがいるときは「よし、今日は腕を振るっちゃうよ!」みたいな感じで奮迅する。結果、引き出しが増える。質素な料理も、愛するひとと食べればご馳走になる。

 

俺は贈り物を残したいのだろうなと思う。人間が死んだあとに残るものは、集めた物ではなく与えた物だ。そんな感じの箴言がある。その通りだと思う。創作をやっていると『自分の欲望とか、自分の願望とか、そういうものがどうでもよくなる』瞬間がある。ただ、自分が死ぬ前に、どれだけの贈り物を残すことができるのか。そういう気持ちで作るとき、自分が消えて、透明ななにかだけが残る。この、透明な『なにか』に触れたくて、それを残したくて、音楽をやりたいと思うのだろう。悲しむひとがいる限り、俺の仕事は終わらない。生きるっていいな。人間っていいな。生きててよかったな。と、思わせてやりたいと思う。自分にも。他人にも。

 

 

f:id:ibaya:20190310081940j:image

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

  

f:id:ibaya:20190308101743p:plain

LINE ID ibaya

死ぬ気でやれよ。死ぬから。

f:id:ibaya:20190308101137j:image

 

菊名駅前のコロラドにいる。作曲と読書とちあきなおみにあけくれている。喝采。振り付けを練習する。歌詞がすごい。昭和の曲はやばい。彼女は女優。わたしは蒙昧な豚。子供の頃のように、1日があっという間に過ぎる。このままあっという間に死ぬかもしれない。ただ、自分から生まれた音楽を聞くと「おれは確かに生きていたのだな」と思う。音楽を作ることは、この星に生きた記憶を残すことに似ている。

 

 

おおまかなスケジュール


3月8日 美味い果物を食べたい@横浜
3月9日~15日 FREE!【日本】
3月16日 朝・カイロ【エジプト】
3月16日 昼・ミラノ【イタリア】
3月17日以降 FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

海女になる。

イタリアのミユさんと保科亮太さんとバンドを結成した。先月の話だ。以来、音楽活動に突入して初心者なりに作詞作曲をはじめた。実はバンド名も決まっている。みんな練習を頑張っている。そのスタイルは様々で、ただ、共通していることは「おのおのが苦悶している」ことだけだ。苦楽を共にした関係は強い。逆に「楽は歓迎だけど苦しみは嫌!」みたいな関係は、破綻も早い。病める時も、健やかなる時も、という結婚の時の誓いは良い。健やかな時に人を愛することは簡単だ。が、病める時も愛せたら、その愛は強い。他者に対しても、自分に対しても、同じだ。

 

note.mu

 

作詞が難しいから周辺の人々をとっつかまえて「この曲に歌詞を与えよ」と指令を出す。歌詞は短い。無駄を省き、要点を集約させる必要がある。頭に浮かぶイメージはあるが、それを最短の言葉でまとめる必要があるのだ。東京でジビエ料理をご馳走してくださったK様がこんなことを話した。源氏物語があるでしょ?わたし、最初はあれのどこが良いのかわからなかったけど、解説を読んだら「ああ、そういうことなのか!」って思ったの。昔の人は、たとえば夜這いとかが普通におこなわれていて、ふすま越しに歌を詠み交わしたりするでしょう。で、ふたつとかみっつとか歌を詠み交わして、おっけーだったら顔も見ないまま相手を受け入れる。ダメだったら帰ってもらう。これ、現代人にはなかなか共感できない感覚だと思うの。

 

note.mu

 

普通、セックスするなら相手の容姿とか気になると思うじゃない。でもね、源氏物語の解説を読んだら「現代人は視覚に頼りすぎている。声。言葉選び。間。十二単の配色。部屋に焚きつけたお香の匂い。など、感じるべきポイントは無限にある。容姿なんて、ただの一端に過ぎない」みたいなことが書いてあって、なるほどー!って思ったの。と。ああ、めちゃめちゃわかるなあ、と思った。自分が曲を弾いて「これに歌詞を与えて」などとみんなに頼んでああだこうだとやっていた時、まるで、平安貴族の遊びをしているような感覚を覚えた。連歌や俳句も似ているのだろう。自分の心情を歌にする。言葉の海を潜り、的確な言葉を取り出す海女になる。

 

 

死ぬ気でやれよ。死ぬから。

こどもの自分が、いまの自分を見たらなんと言うだろう。たまに考える。小さな自分は、周囲のおとなを「ダサい」と思っていた。こんなおとなにはなりたくない!と感じるおとながたくさんいた(主に学校の先生など)。時は流れ、いま、自分は「昔の自分に笑われない生き方をしているだろうか」と思うことがある。なあ、どうだろう。昔の自分に問いかける。俺の生き方はお前のおめめにかなうだろうか。友達なんて全然いなかったけれど、音楽を聞いている時間だけは自由になることができた。生きててもいいよって言われた気がした。そして「自分が感動を与えられたように、自分も感動を与えることができる人間になりたい」と思っていた昔の自分は、いま、おとなになった自分を見たとき、どのようなことを感じるだろうか。

 

新潟に生まれた。海は家から五分だった。日本海は夕日が沈む。わたしは夕日が好きだ。『好き』だけじゃない。その瞬間、湧き上がる色々な感情を全部ひっくるめて『好き』だと言っている。前に、夕日を見ながら「終わっちまう」と思ったら涙が出そうになったことがある。終わっちまう。楽しい時間も、悲しい時間も、永遠に続くことはない。なにもかもが終わっちまうことを知っているから、いま、この瞬間が輝くのだろう。巷では「死ぬ気でやれよ。死なないから」みたいな言葉を耳にする。わたしは天邪鬼だから、その逆を言いたい。死ぬ気でやれよ。死ぬから。いつかは終わっちまうから。そのことを思いながら、いまを生きるんだよ。と。

 

死ぬとはどういうことだろう。肉体が滅びることだろうか。違う。死ぬことは「忘れられる」ことだ。わたしが死んでも、わたしの記憶が誰かの中にある限り、わたしは永遠に生きる。誰かの頭の中で思い出された瞬間に、わたしは何度でも蘇る。わたしを殺すことは簡単だ。包丁を取り出す必要もないし、ダイナマイトを仕掛ける必要もない。ただ、わたしのことを忘れたらいい。わたしの存在を認めなければいい。わたしなんて最初からいなかったもののように振る舞えばいい。わたしは、いま、生きている。わたしはわたしのことを忘れたくないと思い、存在を認めたいと思い、いつまでも一緒にいる大切なものとして扱いたいと思う。創作をしていると感じることがある。いま、ここにある生命は「私を忘れないで」と囁いている。

 

 

f:id:ibaya:20190308101137j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190308101743p:plain

LINE ID ibaya

涙が出そうになるくらい生きろ。

f:id:ibaya:20190306112209j:image

 

菊名駅前のコロラドにいる。三日徹夜。夜型になった。生活力は皆無。食事もジャンキーなものを取りたい。昨夜はあきとが焼きそばを作ってくれた。作詞に集中。たった一言を生み出すために13時間くらいかかって「これじゃ確実に破滅する」と思った。寝食を忘れて頬がこけた。ごちゃまぜの家にいてよかった。誰かが作った食事を分け与えてもらうことで、あ、そういえば何も食べていなかったことを思い出して正気を取り戻す。自分に深く潜る作業は、自分ひとりでやると確実に死ぬ。 

 

 

おおまかなスケジュール


3月6日 凪のつけ麺を食べたい@渋谷
3月7日~15日 FREE!【日本】
3月16日 朝・カイロ【エジプト】
3月16日 昼・ミラノ【イタリア】
3月17日以降 FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

音楽は物質を通過する。

下品なおばさんの話し声が店内に蠢いている。慌ててイヤホンを耳に差し込む。下品な声の人間が苦手だ。声を聞くだけで内臓がねじれる苦痛を覚える。声と音楽は似ている。似ていると言うか同じだ。東京を歩くときは強めの音楽を好む。ロックとか。だが、熱海の家にいるときにわたしはロックをまったく聴かない。多分、聞く必要がないのだと思う。音楽は防御だ。満員電車でイヤホンをさしこむのは、自分を守る抵抗だと思う。人間は楽器だ。音楽は物質を通過する。祭りや舞踊で太鼓を打ち鳴らすのは、音を通じて「なにかを振り落とす」効果があるからだ。不協和音は内臓をゆがめ、シンプルで美しく芯のあるものは心身のバランスを整える。

 

note.mu

 

東京でジビエ料理をご馳走してくれたK様と様々な話をした。印象的だったのは「時間は流れない。流れているのは自分たちの方だ」というもの。音楽は時間に乗っている。絵や本は、読み手のペースで読み進めることができる。絵の場合、一枚の作品を二秒で通過する人もいれば、一時間以上も立ち止まって眺める人もいる。しかし、音楽の場合は「(それが三分間の作品ならば)誰にも等しく三分間」だ。音楽は時間に乗っている。が、実は時間という概念は幻想で流れているものは自分たちなら、音楽は『人間に乗っている』ものになる。時間は『ここ』にしかない。K様は言う。これをひとに話すのは初めてだが、私は、特定の建築物に行くと音楽を感じる。空間が溶けると音楽になる。音楽は、時間や空間の制約を受けない。

 

note.mu


仮に、少女が描かれた絵があるとする。絵の中で『少女は永遠に少女』だ。劣化するものは紙や額だけであり、少女が年老いることはない。肉体は劣化する。しかし、時間が劣化することはない。劣化するのは紙だけ。時間は流れない。こういう類の話をわたしはとても面白いと感じる。K様は言った。私は美しいものや面白いものを見たり触れたりすることが好きだ。坂爪さんには『ひとつ手前の世界』を感じる。私は、それが表現されていないものに感動や興奮を覚えることができない。

 

わたり文庫『窓際のトットちゃん』

f:id:ibaya:20190306112215j:image

 

今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、黒柳徹子著作『窓際のトットちゃん』です。黒柳徹子さんは言いました。老人とは、気分が動かなくなった人のことを言う。次々と何かをしたいという気持ちでいられる人は、いくつになっても、たとえ体が動かなくても「老人」と呼ばなくていいですよね。と。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

リトミックの種類は、まだたくさんあったけど、とにかく、校長先生は、子供たちの、生まれつきもっている素質を、どう、周りの大人達が、損なわないで、大きくしてやれるか、ということを、いつも考えていた。

「文字と教育に頼り過ぎた現代の教育は、子供達に、自然を心で見、神の囁きを聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させたのではなかろうか?

古池や 蛙とびこむ 水の音…池の中に蛙がとびこむ現象を見た者は、芭蕉のみでは、なかったろうに、湯気たぎる鉄瓶を見た者、林檎の落ちるのを見た者は、古今東西に於て、ワット一人、ニュートン一人というわけでは、あるまいに。

世に恐るべきは、目あれど美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、感激せざれば、燃えもせず…の類である」

などと嘆いていた校長先生が、きっと、いい結果を生むに違いないと授業に入れたものだった。そして、トットちゃんは、イサドラ・ダンカン風に、はだしで走りまわり、とびまわって、それが、授業だなんて、すごくうれしいと思っていた。

黒柳徹子『窓際のトットちゃん』【講談社文庫】

 

涙が出そうになるくらい生きろ。

音楽が生まれる。わたしはそこに言葉を与える。音楽は言葉を求めている。そして、言葉は音楽を求めている。私の仕事は、音楽が求めている言葉を(音楽の素質を損なうことなく)的確に忠実に与えることだ。その逆もある。この作業はおそろしくしんどい。が、しんどいという小さな円の外側に『よろこび』というどでかい大きな円がある。しんどささえも、よろこびであると感じる。周辺にいる人間をとっつかまえて、わたしは(わたしから生まれた)音楽を聴かせる。半ば強制的に。そして「この音楽からあなたが感じた印象を教えて欲しい」と尋ねる。聴かされた人間はその印象を答える。場合によっては、歌詞を考えさせられることもある。

 

昨夜、よしえさんと作詞活動をした。音楽を聴かせ、浮かんでくるイメージを聞き取り、過去の記憶を遡りながら音楽に言葉を与えていた。その途中、よしえさんは涙を流した。音楽のイメージは「いちばん大事なものがなんだかわかって、これからすべてが変わること、そのよろこびと、もう戻れないさみしさ」という感じだった。偶然出会ったものが、自分をまったく別の人間に変えてしまうこと。昔の自分には戻れないこと。なくてもいいと思っていたけれど、あったらこんなにもうれしいものがあるということ。人類共通の記憶がある。そこにリーチをしたいと思う。

 

涙はどこから来るのだろうか。涙の源泉はどこにあるのだろうか。わからない。鳥の声を美しいと感じるその理由はわからないが、わからないまま「鳥の声を美しいと思う」ことはできる。それは、テレビのリモコンがどのような構造で働いているのかはわからないまま、リモコンを「使いこなすことができる」わたしたちの日常と同じだ。なにかを見たとき、なにかに触れたとき、たまらない気持ちになって涙が流れそうになることがある。涙はどこから来るのだろうか。わからない。なにもわからないわたしは、今日も、わからないものと戯れている。その時間が、たまらなく面白いこと、たまらなく愛しいこと、たまらなく物悲しいことだけはわかる。 

 

 

f:id:ibaya:20190223060258j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190223011818p:plain

LINE ID ibaya

夢を見るから、人生は輝く。

f:id:ibaya:20190304134352j:image

 

菊名駅前のコロラドにいる。最近一番びっくりしたことは「キウイは皮ごと食べられる」こと。ごちゃまぜの家は、激烈にありがたいことに全国各地から食材が届く。おかげで無事に生きることができている。お金がない。だけどどうにかなっている。数日前に回転寿司に行った。500円分の株主優待券を貰ったからだ。死ぬほど集中して100円の皿を五枚選んだ。ぶりが好きだ。昨夜はかなさんが作ってくれた煮物とみそ汁で内臓が張り裂けた。今夜は東京でジビエ料理をご馳走になる。

 

 

おおまかなスケジュール


3月4日 ジビエ料理@東京
3月5日~15日 FREE!【日本】
3月16日 朝・カイロ【エジプト】
3月16日 昼・ミラノ【イタリア】
3月17日以降 FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

一人で生きるな。

前回の記事で「経済難にあえぐ中島(29歳・男性)に生きろと叫んだ」旨を書いた。中島さんは家がない。お金もないし、なんなら借金がある。そんな中島さんに「まずは生活の基盤を整えて、馬車馬のように働き、借金を返すところからだね」という話をした。その時、ふと、就職活動と同時進行で「ブログ読者の方々に、中島さんを雇ってくれるひとがいないか聞いてみよう!」という話になった。中島さんは借金の返済に追われている。が、月額20万円程度の稼ぎがあればどうにか返済を続けながら生きていける。現在はコンビニの派遣バイトを続けながら路上生活をしている。一人で生きた時間が長く頼れる友達もいない。家のない日々に突入したのは五ヶ月前。以来、コンビニのイートインコーナーなどで夜を乗り越えている。

 

中島允丈さんは福岡県北九州市生まれの29歳。男性。A型。射手座。富山大学大学院卒業。元プログラマー。身長158㎝。体重51Kg。借金300万円。奨学金が200万円。プロミスとのプロミスが100万円。借金の理由は「拭い去れない劣等感が強く、自己啓発セミナーにはまったから」。五体満足。健康状態は頗る良好。筋力はないが根性はある。勤労意欲はバリバリにあるが、常に支払いに追われている生活が「心理的にしんどい」「これからのことを冷静に考えることができない」ことが現在の悩みだ。余談だが、中島さんはカラオケが大好き。好きな音楽はT-BOLAN。しかし、このままでは中島さんが(社会的な意味で)ばいふぉーなうしてしまう。

 

私も借金の日々を過ごしたことがあるから気持ちがわかる。頭の中では常に銭の勘定ばかりを続けてしまって、とてもじゃないけれどまともなままじゃいられない。追い立てられる日々はしんどい。私は思う。多分、中島さんみたいなひとは結構な数いる。月額20万の稼ぎで済むならまだマシな方だ。さきほど、中島さんに「これが漢の家訓です」と言って北方謙三水滸伝(1)を授けた。全巻20冊を読み終える頃には、中島さんも真の漢に変貌を遂げることだろう。頑張っていただきたい。

 

連絡先・中島 允丈(なかしま みつひろ)
TEL:07043787883
Mail:mthrnksm@gmail.com

 

gochamaze.hatenablog.com

 

わたり文庫『一切なりゆき』

f:id:ibaya:20190304134358j:image

 

今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、樹木希林著作『一切なりゆき』です。こちらの本は、宮城県在住のN様から「わたり文庫に是非」と郵送をしていただきました。樹木希林さんの娘さんである也哉子さんが、喪主代表の挨拶で「おごらず、他人と比べず、面白がって、平気に生きればいい」という言葉を紹介されたことは記憶に新しいと思います。どのような状態に置かれても『泣くか、笑うか』は自分で決めることができる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

生きるというのは、いろんなところをくぐり抜けて、どう墓穴に入るかという道。どうやったって結果はついてくるから、そのときどきで納得するやり方をするしかないですよ。その途上で結婚でも別れでも仕事でも、しっかり傷ついたりヘコんだりすれば、自分の足しや幅になる。私は出会った人を傷つけて、昔だったら消しゴムかホワイトで消したい人生だったのに、この年齢になると、深く傷つけた人たちがとっても、懐かしいのよね……。口をぬぐって、“ない”ことにしなくてよかった。

 

樹木希林『一切なりゆき 樹木希林のことば』【文春新書】

 

夢を見るから、人生は輝く。

音楽活動が苦しくて楽しい。昨日は徹夜をした。創作の素晴らしさと難儀さを知る。まさか自分からこんなメロディーが出てくるとは!という驚きと、歌詞を編み出すことの難しさ!という挫折。自分から陳腐なものしか出てこない時は悲しい。猪木さんは「元気があればなんでもできる」と言う。私は元気だ。しかし何もできない。猪木さんに悪態をつきたい。元気よりも才能が欲しい。しかし、才能がどうのこうの言っている俺はあまちゃんで、人間、できないことができるようになる瞬間が最高なのだ。この辺、神様はよく考えて人間を作ってくれたものだと感心する。最初からなんでもできてしまったら『できる喜び』が失われる。忍耐である。

 

音楽をはじめてから(まだ数日程度だが)世界観が変わった。創作をしている時間は、自由になる。徹夜をするほどのめりこめるものがあることは幸せだ。これまで「なんて素晴らしい音楽だろう!」とひたすら聞き手側で感動していただけのものも、いまなら「これも人間の作ったものなんだよな」と眺めることができる。同じ荒野を眺めている。借り物の歌で満足ができない。自分は自分の歌を歌うしかない。日々、苦悶や挫折の連続だが、根底にどでかい安心感がある。夢中。熱中。集中。ああ、これが夢中になるということか。人生は夢だ。夢を見るから人生は輝く。夢の中で、自分は、苦しみも悲しみもまるごとひっくるめて生きているのだ。

 

誰もが二度とは戻らない時の中を生きていて、音楽を作ること、なにかを形にするということは、永遠に手を伸ばす行為なのだと思う。無常。永遠と刹那。もののあはれ。いつまでも生きていることができないからこそ、私たちは、忘れたくないものを胸に刻んだり形に残したり誰かに伝えていこうとする。忘れてしまうことを知っていて、それでもなお『忘れたくない』と思うなにかを、胸に刻み、形に残し、誰かに伝えていこうとする。すべての美しいものは悲しみを内包している。それは『永遠には見ていることはできない』悲しみだと思う。生きとし生けるものが、等しく悲しみを背負っているものだとしたら、人間は素晴らしい生き物だなと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190219184030j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190223011818p:plain

LINE ID ibaya

強さを持ちたい。

f:id:ibaya:20190302070756j:image

 

菊名駅前のコロラドにいる。横浜のごちゃまぜの家に戻ると、内海さんが姿を消していた。事情は深く分からないが、神奈川県内の自立支援施設に入所したらしい。これまで、様々な方々から内海さん宛に小包が届いた。が、もう、ごちゃまぜの家に郵送をしてもらっても、内海さん本人はいない。我々も、彼に荷物を届けることはできない。他の誰かが、当事者の心情を代弁することはできない。そのため、彼をサポートしてくれた方は、直接本人と連絡を取り合ってもらえたら助かります。

 

 

おおまかなスケジュール


3月1日~15日 FREE【日本】
3月16日 昼・カイロ【エジプト】
3月16日 夜・ミラノ【イタリア】
3月17日以降 FREE【欧州界隈】

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

責任。

内海さんが暮らし始めたのは昨年の12月。仕事も金も失い、隅田川でホームレスをする直前の状態で、彼はごちゃまぜの家に来た。その時に二点、彼と確認した。一つは「内海さんは何も隠すことがない。だから、自分のすべてを晒す」ということ。一つは「自分みたいな人間でも生きていける活路を、生き様を通じて見せる」ことだった。この点がある限り、私は、彼と一緒にいることができると思い、彼を受け入れた。しかし、結果的に彼は家を離れ、自立支援施設に向かった。私は、この件を通じて『約束』と『責任』と言う言葉、これらの意味を考える機会を得た。

 

「約束しろ。どんなことでも、俺の言うことを聞くと。約束を破るのがどういうことか、いずれおまえも学ぶ」
「死ぬのか?」
「いや、自分を恥じるのだ。それは、死ぬことより苦しい、と俺は思っている」

北方謙三水滸伝(1)』(集英社文庫)より引用

 

欧州での移動中、ずっと水滸伝を読んでいた。内海さんを責めたい気持ちはない。ただ、同じ言葉を使っていても、そこに込められた意味合いは使う人によって変化するという、当たり前のことを思うだけだ。思いを伝えること・共有することの難しさ。私は、言葉を重要視する。自分に嘘をつきたくないと思う。それは、自分が立派だからではなく、ただ、自分を偽ることが問題の根源を生むと考えるからだ。約束とは、自分の言葉に責任を持つことだと思う。責任とは、約束を通じて『自分が変わっていく(自分が変わろうとしていく)』ことだと思う。今回の件は、そこの甘さが露呈した。私の考えは、ただの押し付けになっていたのかもしれない。あるいは、確認したつもりになっていただけだったのか、それはもうわからない。

 

「俺はあんたに、詳しいことを言う気はないんだが、客人。あの坊主と、北京大名府の盧俊義だけは、信用している。こんな世の中で、信用できる人間がいるということは、幸せだと俺は思ってるがね」

北方謙三水滸伝(1)』(集英社文庫)より引用

 

各種メディアでは『責任を取って』会社を辞める役員の報道が絶えない。責任を取るということは、謝罪をする、辞める、離れるということなのだろうか。違う。責任を通じて『自分が変わっていくこと』だと思う。謝罪や離職はあくまでもスタートで、生き様で示すことがゴールだ。責任を生き様に宿らせることだ。今回の件は、要するに、自分に信用が足りなかったということだ。他者から見て、自分の言葉が「それを守るに値する」と感じられるものではなかった、ということだ。それならば、自分が選ぶべき道はひとつ。自分の言葉に責任を持つこと。自分の生き様に責任を宿らせること。他者から見て、信用に足る人間になること。それだけだ。

 

わたり文庫『水滸伝(1)』

f:id:ibaya:20190302080908j:image

 

今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、北方謙三著作『水滸伝(1)』です。全20巻。続編も含めると50巻を超える超大作ですが、読む者に後悔をさせることのない傑作だと思う。たとえ、ある一年をこれを読むだけために費やしたとしても、必ず『生』の肥やしになる。そういう本に出会えた自分を幸運だと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

 

「闘って、死ぬ。勝てぬまでも、華々しく闘って死ぬ。数年前まで、私はそう思っていた。そうやって闘うことで、この国の民の心の中に、なにかを植えつけることができると。それでいいし、それだけしかできないだろう、とも思っていた。いまは違う。私は生きたい。闘って、生きて、そして勝ちたい」

 

北方謙三水滸伝(1)』【集英社文庫

 

強さを持ちたい。

これまでは自分の連絡先を公開し、呼ばれる限りどこにでも行く(誰にでも会う)日々を過ごしていた。こういう生き方も、今月限りで終わりにする。自分をオープンにすることで、多大なる恩恵を受けた。様々な人々と会うことで着想を得たり、様々な場所に足を運ぶことで視野が広がったりすることは多い。しかし、いまは「自分をオープンにするよりも大事なこと」があるように思う。それは、自分を掘り下げることであり、大事なものを『これまで以上に大事にする』ということだ。集中したい。人も。ものも。会うべき人に会い、やるべきことをやりたいと思う。

 

ある境地に達したものだけに宿る『自然さ』がある。真に偉大な人間は、自分が偉大であることを見せびらかせたり、周囲にひけらかしたりはしない。基本的に自然体でありながら、揺るぎない威厳をもつ。なにが彼(彼女)をそこまで高めるのか。それは、古臭い言葉だが『志』だと思う。志とは、こうありたいと思えるような理想像、そのことを考えるだけで、そのことを仰ぎ見るだけで『自分もそうなりたい』と思える前向きな意思を与えるもの。自分には力があるのだと思わせるもの。自分には生きている意味があるのだと思わせるもの。いまはまだひとりきりだとしても、それを通じて『仲間』の存在を予感させるもの。いまはまだ未熟でも、それを通じて『成熟』の達成を予感させるもの。自分を高みへと引き上げるもの。それが志だ。志を失った瞬間に、人間は、簡単に堕ちていける生き物だと思う。

 

昨日、中島という29歳の男性が家に来た。彼は現在の窮状を語り、支援を求めた。私は、様々な言葉で『約束』や『責任』について話した。どれだけ伝わったのかはわからない。ただ、話しながら、常に心にあったのは「一緒に強くなっていこう」という思いだった。自分がすでに強い人間で、その強さをお前に伝授する、というようなことではない。お前が弱い人間であるように、自分も弱い人間だ。しかし、強くなりたいという思いはある。お前も同じように『強さ』を持ちたいと願うなら、一緒に生きていこう。一緒に強くなっていこう。だから、中島。苦しいこともあるだろうが、生きることを投げ出してしまってはいけない。自分が生きていることに意味を見出すんだ。どのような経験も、糧になる。俺もいま、お前と同じ闘いを続けている。それは、功績をひけらかすための闘いではなく、自分が自分を信用するに値するだけの、たったひとりの『誇り』のために、強さを持ちたいと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190302070756j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190223011818p:plain

LINE ID ibaya

気持ちのいい生き方をしよう。

f:id:ibaya:20190228070509j:plain

 

ボローニャを経由してミラノにいる。ヴェネツィアで念願のギターを購買した。人生を楽しむコツはシンプルだ。毎日楽しいことをひとつやる。そして、寝る前に「俺、最高だな」って自分を褒める。きっとそれだけだ。最悪なのは、誰かに楽しませてもらおうと思うこと。誰かに褒めてもらいたいと思うこと。他の誰かの『いいね』を求めることだ。そんなことより、自分が感じる『いいね』のど真ん中を生きたいと思う。そして、そこで得た成果物を「これどう思う?(俺は最高だと思うんだけど)」と差し出す。周囲と分かち合う。そういう生き方が、私は好きだ。

 

 

おおまかなスケジュール


2月28日 ミラノ【イタリア】
3月1日 成田空港到着以降、FREE!【日本】
3月16日 昼・カイロ【エジプト】
3月16日 夜・ミラノ【イタリア】
3月17日以降、FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

人間は不完全だが、世界は完璧だ。

f:id:ibaya:20190228070517j:plain

Bologna

 

日本に戻り次第ごちゃまぜの家に向かう。また、問題が勃発している。誰でも自由に使える家でおなじみのこの家も、トラブルは絶えない。この家で起こる諸々を目の当たりにする度に「完璧を求めるな」と思う。ごちゃまぜの家が完璧な世界、まるで楽園であるかのように思われても困る。そんな場所はない。あったとしても、退屈だ。大概、問題を引き起こす人間は『甘え』を抱いている。怒りには二種類ある。社会的な義憤と、個人的で幼稚な怒りだ。後者は、要するに「自分の思う通りにならない」ことに対する怒りであり、わたしは、これを甘えと呼ぶ。甘えを悪いとは思わない。ただ、永遠に被害者ヅラをしている人間を『ダサい』とは思う。

 

ごちゃまぜの家に必要なのは母親だ。昔の言葉で言えば御母堂【ごぼどう】だ。両親から充分に愛されなかったり、まともな恋愛をできずに年齢を重ねた男子は、強烈なプライドと甘えを抱いている。最初は「あなたの言うことならなんでも聞きます。この家になることであればなんでもやります」という風にこの家を訪れるが、最終的に「自分はうまいように使われた」という怒りを抱き、悪態をついて、この家を出る。おそらく、周囲の男性陣から強く言われたことで、反感を抱いたのだろう。男は、男に強く言われると、反発をする。しかし、これが『御母堂』から言われた言葉なら、響き方も変わる。ダメな男を人間にするのは、御母堂だ。御母堂は、躾や作法(人間の基本)を厳しく教える。服装。姿勢。言葉。乱れた時は、手が出ることもある。しかし、根底に愛がある。明治時代の母親というイメージだ。

 

毎日とは言わない。可能な日だけでも御母堂を担ってくださる女性を探す日々がはじまる。繰り返しになるが、ごちゃまぜの家に完璧を求められても困る。おそらく、その期待は裏切られる。天国が先にあり、ただ、自分はそこに『ゲスト』として足を運べばいいなんてことはあり得ない。私は、天国を作りたいと思っている。しかし、この天国は、永遠に未完成だ。未完成だからこそ、そこに居合わせた人々が『天国のピース(天国の一員)』になる。誰もが共犯者みたいなものだ。以下は単なるわたしの好みだが、自分は『不機嫌を振りまく人間ではなく、ご機嫌を振りまく人間』と生きていきたいと思う。ご機嫌を振りまく人間には、共通項がある。それは、品があって、チャーミングであることだ。不機嫌を振りまく人間には、共通項がある。それは、品がなく、チャーミングさのかけらもないということだ。

 

 

気持ちのいい生き方をしよう。

f:id:ibaya:20190228070521j:plain

Centrale

 

幸せになろう。それがひとりひとりの責任だと思う。ミラノのピザ屋で食べたマリナーラが最高だった。美味いものを食べると、他の誰かに教えたくなる。自分が感じた喜びを、自分が大事だと思うひとと分かち合いたいと思う。マリナーラのある惑星に生きていられることを幸福に思う。自分のことを誰かにわかってもらうことや、自分を好きになってもらうことはコントロールの範囲外だ。しかし、自分からなにかを好きになることはできる。自分から何かを好きになるとき、誰かになにかをしてもらうことを待つのではなく、自分から先に愛そうとする姿勢を見せるとき、まるで世界はそれに呼応をするかのように、素晴らしい側面を見せてくれる。

 

これからエジプトのカイロ経由で日本に戻る。ミラノは快晴。イタリアは快晴の日々が続いている。ルパンが愛したイタリアだ。映画『カリオストロの城』の中で、クラリスを助け出したルパンは、仲間と共にその場を立ち去る。その後、銭形警部がルパンを追いかけ、クラリスの前を過ぎ去っていく。その様子を、クラリスと共に見送っていた庭師のおじいさんが、ルパン達を眺めながらこんなセリフを言う。なんと気持ちのいい連中だろう。と。これだけ多くの人々に愛されているルパンの秘密が、この言葉に集約されているように思う。ルパンは、ルパンの生き方は、要するに『気持ちいい』のだ。それに触れた人間を『気持ちよくさせる』力がある。自由に生きる人間は、それに触れた人間の心まで、自由にする力がある。

 

それはあなただからできることであって、自分には無理だ。自分にはできない。そう言う言葉を五億回は言われた。わたしは確信する。自由とは、ある人にはあって、ない人にはない能力ではない。その考え方自体が、この瞬間も『被害者ヅラ』を継続させている。無力だと思うことは、居心地の良い牢獄みたいなものだ。その牢獄にいる限り、無駄に傷つくこともない。無駄に悲しむこともないし、無駄に苦しむこともない。その代わり、生きる喜びを感じることもない。ある種の取引みたいなものだ。どちらを選ぶかは、各人の自由だ。わたしは、ただ、前者の人間といたいと思うだけだ。不機嫌を振りまく人間ではなく、ご機嫌を振りまく人間といたいと思うだけだ。無力感を武器にする人間ではなく、可能性を武器にする人間といたいと思うだけだ。誰かに楽園を用意してもらうのを待つのではなく、自分から楽園を築き上げようとする、前向きな意思を持つものと共に歩みたいと思うだけだ。

 

 

f:id:ibaya:20190228070646j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190223011818p:plain

LINE ID ibaya

俺を愛して欲しいとは思わない。ただ、世界を愛して欲しいとは思う。

f:id:ibaya:20190224213300j:plain

 

リトアニアの首都ヴィリニュスにいる。というのは昔の話で、ヴェネツィアに到着した。巷では「人生は短い」とか「人生は一回きり」などと言われるが、どうしても、わたしの一部が「そんなこと、わかんないじゃん!」と言っている。死んだら終わりと言われても、まだ、誰も死んだことがないのだから「わかんないじゃん!」と思う。わかることと言えば、まだ、わからないことがあることだ。知っていることは少ないけれど、知らないことが世界を豊かにすることだけは、わかる。

 

twitcasting.tv

 

 

おおまかなスケジュール


2月24日 ヴィリニュス【リトアニア
2月25日 ヴェネツィア【イタリア】
2月26日以降、FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

男は女に操られ、女は神に操られる。

f:id:ibaya:20190224213305j:plain

Vilnius

 

誤解を恐れながら言うと、男は女に操られている方がちょうどいいと思う。私は男だ。男は、基本的にからっぽで「白か黒か」とか「勝ちか負けか」とか、貧相な精神世界ですったもんだを繰り返している。女性の世界観はカラフルで、妄想力も逞しい。だから、私は『女性は理想を語り、男性を理想を形にする』というタッグが最強だと思う。では、女性は、男性を操っているだけなのかというと、そこがまた違う。男は女に操られ、女は神に操られる。女性が(神様的なサムシングから受け取った)啓示的なものを伝え、男性が現実世界で形にする。この組み合わせが最強だと思うのだが、いま、世界はそんな風に動いてはいない。

 

極論、男は「女のために生きたい(死にたい)」と思っている節があると思う。少なくとも、私は、そうだ。だから、自分が「このひとは真の女性だ!」と思われる人から、あなたはこれのために生きなさいと言われた日には、喜んで身を捧げる。自分ひとりではやりたいと思うことなんかない。しかし、真の女性から「あなたの役割はこれです」と言われると、途端にスイッチが入り、生気が漲り、肌艶は蘇り、俯きがちだった視線は上方を向き、生きる目的が生まれる。先週、わたしは、ミユさんという女性から「音楽をやりましょう」とお告げを受けた。これは個人的に大事件で、それ以来「わたしは音楽に身を捧げることにしました」的な人生をあゆむことになった。私と、ミユさんと、保科亮太さんの、三位一体で音楽をやる。

 

これは勝手なお願いだが、世の中の女性に「あなたの直感を引っ込めないでください!」と思う。女は理想を語り、男は理想を形にする。これが理想のタッグだ。そのためには、女性がインスピレーションを男性に与える必要がある。しかし、せっかく得たインスピレーション(神様からのお告げ的なもの)を「こんなことを言ったら頭がおかしいと思われるかもしれない」などと考えて、引っ込めてしまったら世界は止まる。私は勝手に推測をする。実は、多くの女性が、日常的に神様からインスピレーションを受けているのだと思う。しかし、いまの世の中が男性社会だから、その思いを引っ込めてしまったり、あるいは「こんなことを考えても何にもならないから、皿洗いでもしよう」みたいになって、インスピレーションは誰にも伝わらないまま、途絶える。だから、せめて、俺にだけは「あなたの直感を教えてちょんまげ!」と思う。女性の理想が、男性に『生まれてきた意味』を与える。男単体では、からっぽなままだ。ミユさんと音楽をやれるよろこびは、ここにある。男だけでは絶対に生まれなかろう、なにかしらの『余波』をビンビンに感じている。 

 

twitcasting.tv

 

俺を愛して欲しいとは思わない。ただ、世界を愛して欲しいとは思う。

f:id:ibaya:20190224213318j:plain

Old town

 

巷では「ありのままでいい」とか「頑張らなくていい」とか、言われる。言いたいことはわかる。しかし、そんな人生は面白いだろうか。頑張らない人生の、一体どこでガッツポーズをできるのだろうか。私は思う。人間の一番奥底にある気持ちは、ゆっくりしたい、とか、なにもしたくない、とか、このままでいたい、ではないと思う。その奥には『生きたい』があると思う。本当は自分の本気を見てみたい。生きている実感が欲しい。少なくとも、自分はそうだ。代わり映えのない日々は、退屈で、生きた気がしない。本当は、夢中になりたい。頑張りたい。本気を見たい。いい仕事をしたい。達成感を味わいたい。この生涯において、少なくとも「俺はこれをやった」と言えるものを残したい。そっちの方が本心ではないのか。

 

好きなことをやればストレスはない。というのは嘘だと思う。好きなことにもストレスはあるし、好きなことのなかにも『地獄』はある。これは、よろこぶべき地獄だ。地獄がなければ、達成感も味わいようがない。なんでも自分の思う通りにいったら、ガッツポーズなんて絶対できない。だから、なにかを始めるときは「いよいよ地獄がはじまるな」くらいに思っている方がちょうどいい気がする。地獄上等。そう思える人間は無敵だ。だって、地獄も天国も楽しめるのだから。やって見て、嫌になったら、途中でやめてもいいとひとは言う。でもね、石に齧りついてでもなにかをやり遂げる時期が、人生にひとつくらいあってもいいじゃないか。昔、三ヶ月で15キロ痩せたことがある。あの時期は人生で一番充実していた。毎日数字で体重の変化がわかり、自分は、自分の体重を落とすことに『集中』していた。人生が、いかに痩せるかだけになっていた。暇があれば歩き、毎日半身浴をして汗を流し、キャベツとキムチで食事を終え、そこに物足りなさはなかった。なにもしない日々では、絶対に味わえない充実感がそこにはあった。充実感とは、達成感だ。

 

映画Bohemian Rhapsodyを見た時に強く思った。最後のライブ場面では、数万人の観客がQueenの音楽に熱狂をする。その場面を見て、私は「なんだ、みんな生きたいんじゃん!」と思った。これは、安心感にも似た感動だった。数万人の観衆は、それぞれ様々なバックグラウンドを抱えている。その中には「生きることが嫌になっているひと」もいたと思う。それでもなお、その場にいた全員が、Queenの音楽に歓声をあげ、胸を震わせ、拳を掲げ、喝采を送り、涙を流す観客もいた。この場面を見て、わたしは、人間の『生きたい』と思う気持ちは変わらないのだと、そういうことを思った。生きたいと思っているのは、自分だけではない。それならばもう、大丈夫だ。生きようとする姿を示すこと。生きようとする意思を示すこと。ただ、それだけのことが周囲の人間の力になる。自分に、自分の言葉に触れた人々が、それを通じて「生きてやるぜ!」って思ってくれたら、万々歳だと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190224213313j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190223011818p:plain

LINE ID ibaya

生きていると言うことは、大丈夫だと言うことだ。

f:id:ibaya:20190224023131j:plain

 

ラトビアの首都リガにいる。旅と人生は似ている。笑って生きるコツは「ハプニングを楽しむこと」だと思う。出先では色々なことが起こる。ハプニングを一緒に楽しめる人物との日々は楽しいが、逆の場合はストレスが爆発する。成田離婚みたいな話になる。だからこそ、誰かの本質を知りたければ一緒に旅をするのが良いと思う。深刻にならず、笑いに転じること。不機嫌にならず、ご機嫌に転じること。どのような状態に置かれても、泣くか、笑うか、それは自分で決めることができる。

 

 

おおまかなスケジュール


2月23日 リガ【ラトビア
2月24日 昼・ビルニュス【リトアニア
2月24日 夜・ヴェネツィア【イタリア】

2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能
2月25日以降、FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

大半の会話は、はじまらないまま終わっている。

f:id:ibaya:20190224023146j:plain

Old town


前回の記事で「やり残したことをやろう」という内容を書いた。これをやらずには死ねないと思うことを、死ぬ前にやろう。端的に言えばそういう話だが、書きながら「これは自分が自分に許可を出すことと似ている」と思った。絵を描くとか、音楽をやるとか、親と話すとか、共通することは「自分を許す」ということだ。自分の人生は自分で切り拓いていける。何者も止めることはできない。他者ができることは、邪魔か、応援か、どちらかだ。やりたいことをやるということは、自分が、自分に『許可』を出すということだ。誰も禁止なんかしてない。もし、誰かに禁じられていると感じるなら、禁止をしている人物は『自分』以外の何者でもない。

 

世の中の大半の会話は、はじまらないまま終わっている。社交辞令とか、愛想笑いとか、ここにいないひとの話とか、どうでもいい話をしているだけでは何もはじまらない。言いたいことを言うことは、ゴールではなくてスタートだ。巷では「自分を生きる」とか「本音を生きる」とか、そう言う言葉がまるでゴールのように語られる。あほかと思う。それは大前提であって、ゴールではなくスタートだ。では、なぜ、これほど多くの人々が自分を生きれないのか、本音を話せないのか、そういうことを考えたときに「それは、誰かに許可を求めているからだ」と思った。言いたいことを言うことを、やりたいことをやることを、まるで「誰かに許可を出してもらうことで、はじめてそれをやることができる」という風に思っているからだ。

 

初対面のひとと話している時に思う。質問を連続して浴びると「なぜ、そんなに質問ばかりする!」と無性に苛立つ。インタビューみたいになる。嫌だ。わたしは、会話がしたくて一緒にいるのに、なぜ、言葉のサンドバックみたいにならねばならん。そう言う時、わたしは「あなたの話を聞かせてください」と言う。すると、大概、多くの人は「自分の話をするのは苦手だから、質問をしてください」とか言う。そりゃないよ、と思う。質問されないと答えられないなんて、許可がなければ話せないことと同じじゃないか。質問する。答える。質問する。答える。質問する。答える。これじゃ、機械と同じだ。わたしは、人間と話がしたい。質問があるから語られるものではなく、そのひと自身から『湧き上がる』ものに触れたいと思う。湧き上がるものを抑えるもの。それは、自分に対する『無価値感』だと思う。

生きていると言うことは、大丈夫だと言うことだ。

f:id:ibaya:20190224061539j:plain

Riga

 

私は雇われ労働が苦手で、昔、アルバイトをしていた時期も「死ぬまでこれをやるのはつらいな」と思っていた。家賃のため、生活のために死ぬまで続けなければならないのだとしたら、こんな人生はしんどいと思った。だから、自分にとって『これなら死ぬまでやっていられる』と思えるものを、見つける必要があった。そうでなければ、自分は、やりたくもないことを延々とやり続けなければいけない。そして、どうにかこうにか着地をしたのがいまの生き方だ。私は、言葉を綴ることならば、死ぬまでやっていられると思う。私は、歌を歌うことならば、死ぬまでやっていられると思う。私は、人間と話すことならば、死ぬまでやっていられると思う。

 

イベントに登壇すると「坂爪さんは、言っていることとやっていることが一致していてすごいですね」と言われる。多分、褒め言葉だと思う。しかし、わたしは「一致していることは普通で、一致していないことが異常だ」と思う。言っていることとやっていることが一致していない時、苦しくはないのだろうか。私は、すごいから一致しているのではなく、一致をしていないと苦しいから、一致をさせているだけだ。ただ、楽になりたいだけなのだ。自分を使い分ける生き方はしんどい。よく、やりたいことがあるけど家族がいるからできないと話す男性がいる。そんなことを言わないで、「家族を守りたい」と言えばいいと思う。それならば一致をするじゃないか。人間、言っていることとやっていることが一致をすれば、スッキリだ。「やりたいからやってる」と言えるのならば、どんな生き方でもスッキリだ。

 

私は、自分が「本当にそうだなあ」と感じたものを、採用して生きたい。たとえ、それが世間的におかしいと言われることであっても、自分が「これは本当だ」と思うことならば、それを採用する。あとのことは知らないし、ひとのことも知らない。将来のこと。結婚のこと。老後のこと。不安はないのかと聞かれる。不安なんてない。そんなもの、未来か過去から引っ張ってこない限り、この瞬間には存在しない。金がある訳でもない。多分、ない方だと思う(イギリスでは8ポンドしかなかった)。それでも、いま、この瞬間だけを切り取れば、俺は生きていて、五体満足で、Macがあり、ネット環境があり、着る服があり、そこそこの人望があり、屋根のあるところで眠り、明日食う金に困ることもなく、健やかな時を生きている。お前は刹那的だと揶揄されたときは、こんな風に言ってやる。東日本大震災を思い出せ。何が起こるかわからないのは、俺も、お前も、同じことだ。明日には、全部、津波で流されるかもしれないぜ。そんなんで生きていけると思うなよと罵倒されたときは、こんな風に言ってやる。うるせー。俺はなあ、こんなんで33年間生きちまっているんだよ。お前が言う『そんなん』で、実際に生きている人間がいるんだよ。と。あとはもう、どれだけ本当の日々を生きていけるかの勝負だと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190224023244j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190223011818p:plain

LINE ID ibaya

恥を恐れてやらない自分が、一番の恥だ。

f:id:ibaya:20190222211830j:image

 

エストニアのタリンにいる。これからの自分は音楽に生きる。おそらく、今後、出会う方々から「音楽の調子はどうですか?」などと五億回は聞かれるのだろう。そして、わたしは、聞かれる度に「うるせー」と思うのだろう。こっちは血を吐きながらやっているんだよ。調子がどうとかじゃないんだよ。選択肢なんかないんだよ。と、一々ピクッと反応するのだろう。が、しかし、相手もまた(自分にとっての音楽がそれであるように)なにかしらの山を登っている人間だとしたら、私は、その人に対して「おお、同志よ!共に頑張ろう!」という気持ちになるのだろう。

 

twitcasting.tv

 

 

おおまかなスケジュール


2月22日 タリン【エストニア
2月23日 リガ【ラトビア
2月24日 ビルニュス【リトアニア

2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能
2月25日以降、FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

「やり残してきたこと」を、やろう。

f:id:ibaya:20190222211848j:plain

Tallin

 

ロンドンでイベントに登壇した。わたしは、参加者の方々に「この場を、我々の話を聞いただけで終わりにしないでほしい。自分が、これまでの人生で『やり残してきたこと』を、いま、この瞬間からはじめるような、そんな生き方をしてほしい。自分にとって、それは音楽だ。わたしはずっと音楽から逃げてきた。音楽をやることは恐怖で、でも、音楽をやらないで終わることはもっと恐怖だ。だから、もう、選択肢はないのだ。だから、みなさんも、ずっとやりたかったこと、だけど、やることがめちゃめちゃ怖くてやれなかったことを、やってほしい。ある人にとっては『絵』かもしれない。ある人にとっては『お店』かもしれない。ある人にとっては『親と話す』ことかもしれない。それは超絶怖いことだと思う。全身が震えたり眠れなくなったりもすると思う。しかし、まさに『それ』を真っ向勝負で生きてほしい。そうすれば、俺たちは同志になる。恐怖心という感覚を抱きながら、それでもなお、勇猛果敢に生きる人間を『同志』と呼びたいと思う」という話をした。 

 

そして、次のようなことを(まるで自分に言い聞かせるように)話した。何かをやるとき、邪魔になるものが二つある。ひとつは「こんなことをやったらどう思われるだろう?」と考える恐怖心だ。そして、もうひとつは「うまくやらなければいけない」という強迫観念にも似た思い込みだ。我々は、いつの間にか「恥をかいてはいけない」という前提の世界を生きてしまっている。だが、冷静に考えて欲しい。恥をかかないように生きるより、恥をかける人間の方がよっぽど格好いいとは思わないだろうか。振られることを恐れて告白もできない男と、たとえ、振られるとわかっていても告白をする男と、どちらが『男』として魅力的だろうか。わたしは、自分から進んで恥をかける人間を尊敬する。そういう人間に触れたとき、ああ、自分はなんてちっぽけな人間だったのかという『恥』を思う。恥をかかないことが格好いいのではなく、恥をかける奴が格好いいのだ。優等生になんてならなくていい。優等生なんてつまらないじゃないか。だから、前提を変えることだ。恥をかかないためにどうすればいいのかなどと考えるのではなく、いっそのこと「恥をかく」ことを目標に設定してしまうくらい、恥を取りにいってもいいのだと思う。

 

俺たちはいつから『恥』を恐れるようになったのだろう。これをやるのは恥だとか、世間から笑われたら恥であるとか、それは本当に恥ずかしいことだろうか。恥を恐れて自分の思いを引っ込める、それが一番の『恥』ではないだろうか。怖いけどやる。それでこそ同志である。怖くないなら、それは手グセで生きているだけだ。自分に突っ込む。おい、俺よ。手グセで生きてんじゃねえよ。失うことをこわがってんじゃねえよ。失うものなんてはじめから何もないじゃないか。誇れるものも。失うものも。何もないよ。だから、もたざるものが何を恐れる。恥にまみれて帰ってこいよ。自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということだ。恥をかかないように生きるより、ストレートに自分の恥を晒せる人の方が、よほど、清々しい。恥をかくより、恥をかかないように生きる方が、よほど、恥だ。なあ、そうじゃないか。それならば『GO(行こう)』だ。

 

ameblo.jp

 

恥を恐れてやらない自分が、一番の恥だ。

f:id:ibaya:20190222211843j:plain

Old town

 

一刻も早くギターに触りたい。が、エストニアでは(物価の事情で)ゲットできなかったの明日からバルト三国を順番に南下する(南下するほど物価は下がる)。日本に戻ればギターはあるのだが、片道切符で来たために帰国の目処は立っていない。それにしても、音楽をやると決めてから世界の見え方が目に見えて変わった。まず、音楽の聞き方が変わった。自分は、消費者から生産者になったのだなと思う。人生もシンプルになった。音楽のためになることがあればやりたいと思うし、ためにならないことであれば(昔以上に)潔く断つようになった。誰かの暇つぶしや気晴らしに付き合っている余裕がなくなり、端的に「時間がない」と感じる。人生は短い。いよいよ、やりたくないことをやっている場合ではなくなったのだ。

 

もうひとつ、とても大きな変化を感じる。それは、もう、自分は音楽を「自分の穴を埋めるため」のものとして見ていないということだ。暗黒時代を過ごしていた高校時代の私は、基本的に死にたい死にたいとばかり考えていたが、音楽を聞いている時間だけは「もう少しだけ生きててもいいな」と思うことができた。やがて、自分も「音楽に感動を与えられたように、音楽を通じて自分も感動を与えることができる人間になりたい」と思うようになった。しかし、当時の私には、承認欲求と呼ばれるものが非常に強くあったために、音楽を使って『自分の穴を埋めようとしていた』傾向が猛烈にあった。だから、音楽をやることは非常に苦しいことだった。歌を歌うということが、そのまま「自分を認めてくれ」と文字通り声をあげる作業と、イコールになっていた。認めてくれと叫ぶ自分を、自分が認めていなかった。

 

しかし、いまは違うなと思う。すでにゴールをしている感覚がある。音楽を通じて達成したい『なにか』があるのではなく、自分は、ただただ音楽をやりたいのだ。音楽をやることがゴールであり、その先はなにもないのだ。手段と目的が一致をしているのだ。昔は、承認欲求などの枯渇感から音楽を求めていた。しかし、いまは『幸福の余剰』として、音楽と付き合っていきたいと思っている。わたしは、音楽をやりたいから、音楽をやりたいと思う。音楽をやりたいという思いが、あふれている。いまなら、枯渇感からではなく、あふれでるものとして音楽をやれる。否、そういうものとして、音楽と付き合っていきたいと思っている。わたしには、もう、穴はない。あったとしても、その穴を、どうのこうのしようという思いがない。わたしは、もう、『自分』というものに対するこだわりがない。自分の歌を歌いたいとは思わない。自分を通じて引き出される、人間の歌を歌いたいと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190223060258j:image

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190223011818p:plain

LINE ID ibaya

逆をやるのは、ど真ん中を射抜きたいから。

f:id:ibaya:20190219231127j:image


ヴェネツィアを経由してロンドンにいる。昔から、自分は『逆をやること』にどうしようもない魅力を覚えている。一般常識と違うことではなく、一般常識と『逆』のこと。右なら左。増やすなら減らす。着飾るなら脱ぎ去る。など。それは、ただの天邪鬼だというだけではない。逆をやるのは、両極を見たいと思うから。両極を見たいと思うのは、ど真ん中を射抜きたいと思うから。ど真ん中を射抜きたいと思うのは、裏表のない、対義語のない『絶対的ななにか』を見つけたいからだ。と。

 

 

おおまかなスケジュール

 
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 タリン【エストニア
2月23日 ベルリン(仮)【ドイツ】
2月23日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

両極を見る。

f:id:ibaya:20190219184030j:plain

Purley

 

先月、パリで非常にいい人に出会った。しかし、いい人だと思った直後に「全然いい人じゃねえ」と思った。その人は、いい人ではなく『いい人だと思われたい人』だと思った。表面的には、華やかな見てくれをしている。が、その華やかさは「内面から滲み出ているもの」ではない。ただ、上っ面だけを整えたところでバレるものはバレる。この人は、褒められたい、認められたい、誰かに「あなたはすごいひとね」と言われたい承認欲求のおばけだ。わたしは、反骨心だけは豊満にあるから、そういうひとを見ると「俺だけは絶対にお前を褒めない」みたいな気持ちになる。気分は、カツアゲをするチンピラである。おい。出せよ。持ってるんだろ。わかってんだよ。その、隠しているものを出してみろよ。みたいな気持ちになる。

 

世の中に蔓延する「いつも明るく元気でいなければいけない」「キラキラしていなければいけない」「ワクワクすることをやらなければいけない」「常にポジティブでいなければいけない」という風説にはうんざりするが、それ以上に、それを盲信して実際にやっ(ちまっ)ている人を見ると、どうしてなのだろうか、腹部を思い切り殴りたくなる。腹部を殴ったら、そのひとのどす黒い部分がエクトプラズマみたいに口から「おげえ」と飛び出して、一瞬で気分爽快になるんじゃないかと思う。わたしは思う。なぜ、半分しか見ない。なぜ、良い(とされている)部分しか出さない。暗い部分があってこその明るさであり、悪い部分があってこその自分である。それなのに片方しか出さない人間を見ると、俺は簡単には納得しないぜ、ほら、もう片方を出してみろよ、ほら、ほら、ほらぁ…!みたいな気持ちになる。

 

生きるとは、葛藤による摩擦熱である。葛藤があってこその人間であり、すました顔で「何も問題なんてありませ〜ん♬」とか「すべては宇宙のタイミングぅ〜♬」みたいなことを言う人は、ただのバカだと思う。誤解されると困るが、わたしは、バカが好きだ。しかし、こういうバカは嫌いだ。あれ。違う。これではただの悪口になってしまう。わたしは「酸いも甘いも全部こい。それでこその人生じゃないか」と言いたいのだ。なぜ、片方だけを歓迎する。なぜ、良い(とされている)部分だけしか見せようとしない。漫画の主人公が世界中から共感を集めるのは、彼らが完全無欠のスーパーヒーローだからではなく、数々の葛藤を抱えながら「それでもなお」と生きる方向に舵を取るからだ。葛藤を引き受けて立つ。その姿に胸は震えるのだ。格好いい姿だけではない。無様な姿も晒して生きる。その姿が見る者の心を打つんじゃないのかと。それなのにお前は一体なにをやっているのだと。それ(半分だけ)では逆効果じゃないかと、小一時間問い詰めたい気持ちになるのだ。

 

twitcasting.tv

 

逆をやるのは、ど真ん中を射抜きたいから。

f:id:ibaya:20190220061019j:plain

London Bridge


生きることは『全部』だ。何も避けなくていい。全部引き受けていい。ダメでもいいし、悪くてもいいし、バツでもマルになる。ダメでもいいとか、悪くてもいいとか、バツでもマルとか、論理的にはめちゃめちゃだ。論理的に破綻をしている。しかし、論理的には『NG』であり『なし』なことでも、人生的には『OK』であり『あり』になる。人間は矛盾を抱えた生き物だ。よくなりたいと思う反面、ダメになりたい。堕ちるところまで堕ちてみたい。そういうことを思う。生きたいと思う反面、死にたいと思う。終わりにしたいと思う。ある極から、まったく正反対の極に移動すること。そして、そのことを『いい』と思うこと。両極を横断すること。論理的に破綻をすること。論理を超えること。それが、生きているということだ。

 

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。過去の自分は、こういう言葉が好きだった。だから、できる限り崇高な道を選ぶように生きていきたいと思っていた。しかし、最近の自分は「必要なものは与えられる」とだけ思っている。別に、崇高である必要はない。崇高であろうと、崇高でなかろうと、必要なものは与えられる。崇高であることが条件みたいになるのであれば、そんなものは要らない。余計な前置きを取っ払う。崇高であろうが、崇高ではなかろうが、必要なものは与えられる。もっと言えば「必要なものは、与えられても、与えられなくても、どちらでもいい」と思うようになった。与えられることが人生ならば、与えられないことも人生だ。そこに価値の差はない。どちらにも共通してあるものは、ただ、人生が帯びる「味わい」だけである。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもない。すべての生き方に味わいはある。だからこそ、いま、ここにある人生を噛み締めていきたい。ここにある人生を噛みしめるために、自分を、時には真逆の位置に置いて「どうなるのかを観察する」ということをする。これは料理に似ている。自分と、どのような食材を組み合わせたら、自分という食材は生きるのか。次の食材が『音楽』だ。音楽を通じて引き出される自分を、自分の旨味を、自分の振れ幅を、自分の可能性を、自分の聖性を、自分の穢性を、期待している自分がいる。

 

葛藤。それは「極と極」のぶつかり合い。やることを恐る自分と、やらないままで終わることを恐る自分の、生存を賭けたぶつかり合い。ぶつかり合いによって生じる摩擦熱が、自分を、世界を、温める。ワクワクよりも、好きとか楽しいとかいう感情よりも、強いものは「恐怖」だと思う。これをやったら自分は一体どうなってしまうのか、もしかしたら、自分はダメになってしまうのではないか。ワクワクよりも『ゾクゾク』すること。自分をゾクゾクさせるもののなかに、自分を引き上げる突破口を感じる。天国は、いつも、地獄の先にある。地獄を経る(ヘル…地獄なだけに!)ことで、天国を見る。逆をやるのは、ど真ん中を射抜きたいから。ただ、そうとしか言えないもの。裏のないもの。反対のないもの。対義語のないもの。昔の人は、それを真実と言ったのかもしれない。たとえるなら、それは海に沈む夕日。言葉を失うもの。見るものから、言葉を奪い去るもの。ああ、としか言えないもの。ただ、そうとしか言えないもの。裏のないもの。反対のないもの。対義語のないもの。そんな『絶対的ななにか』に触れたいから、生きるのだと思う。

 

 

f:id:ibaya:20190219231127j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190124044853p:plain

LINE ID ibaya

挑戦しないで、なにが人生だ。

f:id:ibaya:20190216032336j:plain

 

花束を抱えてヴェネツィア行きの鉄道に乗る。隣の席のイタリア人女性が、誰かから貰ったのか、ピンク色のバラの花束を抱えている。目が合い、彼女は微笑む。わたしも微笑む。花があり、花屋に並び、それを買い、鉄道に乗り、待ち合わせをして、花を届ける。花は、ある地点から、ある地点まで、旅をする。わたしは、なにかを届けるために、ある地点から、ある地点まで、なにかを運ぶ。ある地点から、ある地点まで、なにかを運ぶ。届ける。伝える。誰もが、いま、その途上にいる。

 

 

おおまかなスケジュール

2月16日 ヴェネツィア【イタリア】
2月17日以降、FREE!【欧州界隈】
2月20日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 タリン【エストニア
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

伝える。伝えようとする。

f:id:ibaya:20190216032342j:plain

Venice


メストレ駅でミユさんと合流をする。花を渡す。車に乗り、カフェに行く。イタリアのビールを注文する。テラス席に座る。先月、フィレンツェでミユさんにお会いした際、僭越ながら「俺たちは定期的にあったほうがいい気がする」という感覚を覚えた。みなさまには、そういう経験はあるだろうか。初めて会った誰かに対して、まるで、初めて会ったとは思えないなにかを見出す感覚。一緒の時間を過ごすことで「お互いの良い部分を引き出し合う」ことができると思える感覚。大袈裟な言葉で言えば、お互いの中に眠っていたなにかを『覚醒』しあえる誰かとの邂逅。

 

f:id:ibaya:20190216032355j:plain

Flower and Ornament

 

ミユさんは言う。なにか、一緒にできることがあればいいですね。たとえば、音楽など。と。わたしは『音楽』という言葉を聞いた瞬間に緊張した。音楽。それは、自分にとって『ずっと逃げ続けていたもの』になる。わたしは音楽を愛していて、高校時代、生きていてもなにもいいことはないと暗く塞いでいた時期を過ごしていた間も、音楽を聞いている間だけは自由を感じることができた。音楽がある世界を「もう少しだけ生きていきたい」と思っていた。音楽は人間を自由にする。当時、強い感動を覚えた自分は、同じように、自分も誰かを『自由』にさせることができるなにかをできたらと、そういうことを思った。できることならば、それは、他の何物でもない『音楽』そのものを通じて、実現することができればと思っていた。

 

f:id:ibaya:20190216032359j:plain

Exposed to the afternoon sun

 

その思いをミユさんに話した。自分はこれまで音楽から逃げてきた。そして、逃げる限り『永遠に追われる』という感覚がある。自分はロックンロールが大好きで、ロックンロールとはなにも音楽のジャンルだけの話ではなく、生き方にも通用する話だと思っていた。だから、わたしは、ロックの精神を生き方に宿らせるような、そういう日々を送ってきたつもりだ。が、それを『音楽を通じて』やっていないという点において、後ろめたさがある。これまでの人生、自分なりに色々な出来事を体験し、色々な世界を見て、痛い目にも、最高だと思える目にもたくさん遭遇した。しかし、このまま、音楽をやらないまま人生を終えたら、もうひとりの自分が死に際の自分にこんな言葉をささやく気がする。それは『結局、お前はなにもやらなかったな』という言葉だ。もうひとりの自分から、結局、お前はなにもやらなかったなと言われてしまう生涯を過ごすことは恐怖だ。だから、わたしは、音楽という言葉を聞いた瞬間、どうしようもない緊張を覚えた。音楽をやることも、音楽をやらないことも、自分にとっては『恐ろしいこと』なのだ。と。すると、ミユさんは、驚いたことにこのような言葉を返した。わたしも、まったく同じです。と。

 

🇬🇧🇬🇧🇬🇧ロンドンのイベント情報はこちらです🇬🇧🇬🇧🇬🇧

uk.mixb.net

 

挑戦しないで、なにが人生だ。

60歳でヨボヨボになるとして、いま、自分の年齢は33歳。ヨボヨボになるまで、残り27回しか『春』はない。このことを冷静に考えてみよう。これは結構やばいことだ。ありあまるように見える時間も、実は、結構ない。それならば、こんなことをしたら恥ずかしいとか、どんな風に思われるだろうとか、そんなことを気にしている場合ではない。自分は自分のままでいいとか、生温い言葉で自分を慰めている場合ではない。音楽をやるということは、自分の『一番恥ずかしい部分を出す』ということだ。自己受容より自己破壊。残り27回の春の中で、どれだけ「自分を追い込む」「自分を破壊する」「自分を生まれ変わらせていく」ことができるのだろう。

 

www.facebook.com

 

屋上に登り空を眺める。ミユさんは、朝日を眺める度に「今日もこの惑星に生きていられることの幸福を思う」と話す。自分が宇宙人だとして、いま、短い時間だけ人間をやることが許されているのだとしたら、どのような瞬間もたまらなく嬉しいものであり、涙が出る、そして、生きられるだけ生きてやりたいと思うのだと、そういうことを話した。生きていると、どうしても『無難であること』を優先してしまう瞬間がある。が、無難であることを冷静に考えてみる。なにも問題の起こらない日々。なにも障害のあらわれない人生。そういう日々のなかの、いったい、どの瞬間に「うおー!」とか「よっしゃー!」とか、思わず天に拳を掲げてしまうような、よろこびに声をあげて泣いてしまうような、そんな瞬間を見出せばいいのか。

 

スポーツを見ながら、わたしは「だからなんなん」と思う。160キロの球を投げる。それを打ち返す。バックスクリーンに運ぶ。42キロを走る。ゴールテープを切る。誰よりも早く走る。ボールを蹴る。パスを回す。ゴールに運ぶ。鉄球を投げる。叫び声をあげる。誰よりも遠くまで飛ばす。スキーで飛ぶ。猛烈な助走をつける。誰よりも遠くまで運ぶ。160キロを投げたからなんだというのだろう。42キロを2時間で走ったからなんだというのだろう。誰よりも遠くまで運んだからなんだというのだろう。と。同時に、猛烈に感動をしている自分もいる。意味じゃないんだ。スポーツに意味を求めたら、存在そのものを否定することになる。意味はなくても、熱狂はある。それに触れるものたちの狂熱がある。ある地点から、ある地点まで、なにかを運ぶ。なにかを運ぼうとする。そのことが尊いのだ。伝える。伝えようとする。伝えるために心を尽くす。伝えるために気持ちを尽くす。生きることとは運動で、運動とは「動き、運ぶ」ことだ。自分を、自分の思いを、ある地点から、ある地点まで、運ぶこと。運ぼうとすること。そのことが尊いのだと思う。

 

f:id:ibaya:20190216032347j:plain

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

f:id:ibaya:20190124044853p:plain

LINE ID ibaya