恥を恐れてやらない自分が、一番の恥だ。
エストニアのタリンにいる。これからの自分は音楽に生きる。おそらく、今後、出会う方々から「音楽の調子はどうですか?」などと五億回は聞かれるのだろう。そして、わたしは、聞かれる度に「うるせー」と思うのだろう。こっちは血を吐きながらやっているんだよ。調子がどうとかじゃないんだよ。選択肢なんかないんだよ。と、一々ピクッと反応するのだろう。が、しかし、相手もまた(自分にとっての音楽がそれであるように)なにかしらの山を登っている人間だとしたら、私は、その人に対して「おお、同志よ!共に頑張ろう!」という気持ちになるのだろう。
言葉が尽きる時、音楽は生まれる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2019年2月20日
心を殺したらダメだよ。おかしいことはおかしいと言わなくちゃダメだよ。自分の嫌いをごまかすと、自分の好きまで見失う。不幸をしっかり苦しむことで、幸福の輪郭は明確になる。
逆をやるのは、ど真ん中を射抜きたいから。 - いばや通信 https://t.co/ght9n0EnWv
おおまかなスケジュール
2月22日 タリン【エストニア】
2月23日 リガ【ラトビア】
2月24日 ビルニュス【リトアニア】2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国不可能)
2月25日以降、FREE!【欧州界隈】
🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
「やり残してきたこと」を、やろう。
ロンドンでイベントに登壇した。わたしは、参加者の方々に「この場を、我々の話を聞いただけで終わりにしないでほしい。自分が、これまでの人生で『やり残してきたこと』を、いま、この瞬間からはじめるような、そんな生き方をしてほしい。自分にとって、それは音楽だ。わたしはずっと音楽から逃げてきた。音楽をやることは恐怖で、でも、音楽をやらないで終わることはもっと恐怖だ。だから、もう、選択肢はないのだ。だから、みなさんも、ずっとやりたかったこと、だけど、やることがめちゃめちゃ怖くてやれなかったことを、やってほしい。ある人にとっては『絵』かもしれない。ある人にとっては『お店』かもしれない。ある人にとっては『親と話す』ことかもしれない。それは超絶怖いことだと思う。全身が震えたり眠れなくなったりもすると思う。しかし、まさに『それ』を真っ向勝負で生きてほしい。そうすれば、俺たちは同志になる。恐怖心という感覚を抱きながら、それでもなお、勇猛果敢に生きる人間を『同志』と呼びたいと思う」という話をした。
そして、次のようなことを(まるで自分に言い聞かせるように)話した。何かをやるとき、邪魔になるものが二つある。ひとつは「こんなことをやったらどう思われるだろう?」と考える恐怖心だ。そして、もうひとつは「うまくやらなければいけない」という強迫観念にも似た思い込みだ。我々は、いつの間にか「恥をかいてはいけない」という前提の世界を生きてしまっている。だが、冷静に考えて欲しい。恥をかかないように生きるより、恥をかける人間の方がよっぽど格好いいとは思わないだろうか。振られることを恐れて告白もできない男と、たとえ、振られるとわかっていても告白をする男と、どちらが『男』として魅力的だろうか。わたしは、自分から進んで恥をかける人間を尊敬する。そういう人間に触れたとき、ああ、自分はなんてちっぽけな人間だったのかという『恥』を思う。恥をかかないことが格好いいのではなく、恥をかける奴が格好いいのだ。優等生になんてならなくていい。優等生なんてつまらないじゃないか。だから、前提を変えることだ。恥をかかないためにどうすればいいのかなどと考えるのではなく、いっそのこと「恥をかく」ことを目標に設定してしまうくらい、恥を取りにいってもいいのだと思う。
俺たちはいつから『恥』を恐れるようになったのだろう。これをやるのは恥だとか、世間から笑われたら恥であるとか、それは本当に恥ずかしいことだろうか。恥を恐れて自分の思いを引っ込める、それが一番の『恥』ではないだろうか。怖いけどやる。それでこそ同志である。怖くないなら、それは手グセで生きているだけだ。自分に突っ込む。おい、俺よ。手グセで生きてんじゃねえよ。失うことをこわがってんじゃねえよ。失うものなんてはじめから何もないじゃないか。誇れるものも。失うものも。何もないよ。だから、もたざるものが何を恐れる。恥にまみれて帰ってこいよ。自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということだ。恥をかかないように生きるより、ストレートに自分の恥を晒せる人の方が、よほど、清々しい。恥をかくより、恥をかかないように生きる方が、よほど、恥だ。なあ、そうじゃないか。それならば『GO(行こう)』だ。
恥を恐れてやらない自分が、一番の恥だ。
一刻も早くギターに触りたい。が、エストニアでは(物価の事情で)ゲットできなかったの明日からバルト三国を順番に南下する(南下するほど物価は下がる)。日本に戻ればギターはあるのだが、片道切符で来たために帰国の目処は立っていない。それにしても、音楽をやると決めてから世界の見え方が目に見えて変わった。まず、音楽の聞き方が変わった。自分は、消費者から生産者になったのだなと思う。人生もシンプルになった。音楽のためになることがあればやりたいと思うし、ためにならないことであれば(昔以上に)潔く断つようになった。誰かの暇つぶしや気晴らしに付き合っている余裕がなくなり、端的に「時間がない」と感じる。人生は短い。いよいよ、やりたくないことをやっている場合ではなくなったのだ。
もうひとつ、とても大きな変化を感じる。それは、もう、自分は音楽を「自分の穴を埋めるため」のものとして見ていないということだ。暗黒時代を過ごしていた高校時代の私は、基本的に死にたい死にたいとばかり考えていたが、音楽を聞いている時間だけは「もう少しだけ生きててもいいな」と思うことができた。やがて、自分も「音楽に感動を与えられたように、音楽を通じて自分も感動を与えることができる人間になりたい」と思うようになった。しかし、当時の私には、承認欲求と呼ばれるものが非常に強くあったために、音楽を使って『自分の穴を埋めようとしていた』傾向が猛烈にあった。だから、音楽をやることは非常に苦しいことだった。歌を歌うということが、そのまま「自分を認めてくれ」と文字通り声をあげる作業と、イコールになっていた。認めてくれと叫ぶ自分を、自分が認めていなかった。
しかし、いまは違うなと思う。すでにゴールをしている感覚がある。音楽を通じて達成したい『なにか』があるのではなく、自分は、ただただ音楽をやりたいのだ。音楽をやることがゴールであり、その先はなにもないのだ。手段と目的が一致をしているのだ。昔は、承認欲求などの枯渇感から音楽を求めていた。しかし、いまは『幸福の余剰』として、音楽と付き合っていきたいと思っている。わたしは、音楽をやりたいから、音楽をやりたいと思う。音楽をやりたいという思いが、あふれている。いまなら、枯渇感からではなく、あふれでるものとして音楽をやれる。否、そういうものとして、音楽と付き合っていきたいと思っている。わたしには、もう、穴はない。あったとしても、その穴を、どうのこうのしようという思いがない。わたしは、もう、『自分』というものに対するこだわりがない。自分の歌を歌いたいとは思わない。自分を通じて引き出される、人間の歌を歌いたいと思う。
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、屈辱を晴らすでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生きること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年2月19日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu