いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

逆をやるのは、ど真ん中を射抜きたいから。

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ヴェネツィアを経由してロンドンにいる。昔から、自分は『逆をやること』にどうしようもない魅力を覚えている。一般常識と違うことではなく、一般常識と『逆』のこと。右なら左。増やすなら減らす。着飾るなら脱ぎ去る。など。それは、ただの天邪鬼だというだけではない。逆をやるのは、両極を見たいと思うから。両極を見たいと思うのは、ど真ん中を射抜きたいと思うから。ど真ん中を射抜きたいと思うのは、裏表のない、対義語のない『絶対的ななにか』を見つけたいからだ。と。

 

 

おおまかなスケジュール

 
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 タリン【エストニア
2月23日 ベルリン(仮)【ドイツ】
2月23日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

両極を見る。

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Purley

 

先月、パリで非常にいい人に出会った。しかし、いい人だと思った直後に「全然いい人じゃねえ」と思った。その人は、いい人ではなく『いい人だと思われたい人』だと思った。表面的には、華やかな見てくれをしている。が、その華やかさは「内面から滲み出ているもの」ではない。ただ、上っ面だけを整えたところでバレるものはバレる。この人は、褒められたい、認められたい、誰かに「あなたはすごいひとね」と言われたい承認欲求のおばけだ。わたしは、反骨心だけは豊満にあるから、そういうひとを見ると「俺だけは絶対にお前を褒めない」みたいな気持ちになる。気分は、カツアゲをするチンピラである。おい。出せよ。持ってるんだろ。わかってんだよ。その、隠しているものを出してみろよ。みたいな気持ちになる。

 

世の中に蔓延する「いつも明るく元気でいなければいけない」「キラキラしていなければいけない」「ワクワクすることをやらなければいけない」「常にポジティブでいなければいけない」という風説にはうんざりするが、それ以上に、それを盲信して実際にやっ(ちまっ)ている人を見ると、どうしてなのだろうか、腹部を思い切り殴りたくなる。腹部を殴ったら、そのひとのどす黒い部分がエクトプラズマみたいに口から「おげえ」と飛び出して、一瞬で気分爽快になるんじゃないかと思う。わたしは思う。なぜ、半分しか見ない。なぜ、良い(とされている)部分しか出さない。暗い部分があってこその明るさであり、悪い部分があってこその自分である。それなのに片方しか出さない人間を見ると、俺は簡単には納得しないぜ、ほら、もう片方を出してみろよ、ほら、ほら、ほらぁ…!みたいな気持ちになる。

 

生きるとは、葛藤による摩擦熱である。葛藤があってこその人間であり、すました顔で「何も問題なんてありませ〜ん♬」とか「すべては宇宙のタイミングぅ〜♬」みたいなことを言う人は、ただのバカだと思う。誤解されると困るが、わたしは、バカが好きだ。しかし、こういうバカは嫌いだ。あれ。違う。これではただの悪口になってしまう。わたしは「酸いも甘いも全部こい。それでこその人生じゃないか」と言いたいのだ。なぜ、片方だけを歓迎する。なぜ、良い(とされている)部分だけしか見せようとしない。漫画の主人公が世界中から共感を集めるのは、彼らが完全無欠のスーパーヒーローだからではなく、数々の葛藤を抱えながら「それでもなお」と生きる方向に舵を取るからだ。葛藤を引き受けて立つ。その姿に胸は震えるのだ。格好いい姿だけではない。無様な姿も晒して生きる。その姿が見る者の心を打つんじゃないのかと。それなのにお前は一体なにをやっているのだと。それ(半分だけ)では逆効果じゃないかと、小一時間問い詰めたい気持ちになるのだ。

 

twitcasting.tv

 

逆をやるのは、ど真ん中を射抜きたいから。

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London Bridge


生きることは『全部』だ。何も避けなくていい。全部引き受けていい。ダメでもいいし、悪くてもいいし、バツでもマルになる。ダメでもいいとか、悪くてもいいとか、バツでもマルとか、論理的にはめちゃめちゃだ。論理的に破綻をしている。しかし、論理的には『NG』であり『なし』なことでも、人生的には『OK』であり『あり』になる。人間は矛盾を抱えた生き物だ。よくなりたいと思う反面、ダメになりたい。堕ちるところまで堕ちてみたい。そういうことを思う。生きたいと思う反面、死にたいと思う。終わりにしたいと思う。ある極から、まったく正反対の極に移動すること。そして、そのことを『いい』と思うこと。両極を横断すること。論理的に破綻をすること。論理を超えること。それが、生きているということだ。

 

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。過去の自分は、こういう言葉が好きだった。だから、できる限り崇高な道を選ぶように生きていきたいと思っていた。しかし、最近の自分は「必要なものは与えられる」とだけ思っている。別に、崇高である必要はない。崇高であろうと、崇高でなかろうと、必要なものは与えられる。崇高であることが条件みたいになるのであれば、そんなものは要らない。余計な前置きを取っ払う。崇高であろうが、崇高ではなかろうが、必要なものは与えられる。もっと言えば「必要なものは、与えられても、与えられなくても、どちらでもいい」と思うようになった。与えられることが人生ならば、与えられないことも人生だ。そこに価値の差はない。どちらにも共通してあるものは、ただ、人生が帯びる「味わい」だけである。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもない。すべての生き方に味わいはある。だからこそ、いま、ここにある人生を噛み締めていきたい。ここにある人生を噛みしめるために、自分を、時には真逆の位置に置いて「どうなるのかを観察する」ということをする。これは料理に似ている。自分と、どのような食材を組み合わせたら、自分という食材は生きるのか。次の食材が『音楽』だ。音楽を通じて引き出される自分を、自分の旨味を、自分の振れ幅を、自分の可能性を、自分の聖性を、自分の穢性を、期待している自分がいる。

 

葛藤。それは「極と極」のぶつかり合い。やることを恐る自分と、やらないままで終わることを恐る自分の、生存を賭けたぶつかり合い。ぶつかり合いによって生じる摩擦熱が、自分を、世界を、温める。ワクワクよりも、好きとか楽しいとかいう感情よりも、強いものは「恐怖」だと思う。これをやったら自分は一体どうなってしまうのか、もしかしたら、自分はダメになってしまうのではないか。ワクワクよりも『ゾクゾク』すること。自分をゾクゾクさせるもののなかに、自分を引き上げる突破口を感じる。天国は、いつも、地獄の先にある。地獄を経る(ヘル…地獄なだけに!)ことで、天国を見る。逆をやるのは、ど真ん中を射抜きたいから。ただ、そうとしか言えないもの。裏のないもの。反対のないもの。対義語のないもの。昔の人は、それを真実と言ったのかもしれない。たとえるなら、それは海に沈む夕日。言葉を失うもの。見るものから、言葉を奪い去るもの。ああ、としか言えないもの。ただ、そうとしか言えないもの。裏のないもの。反対のないもの。対義語のないもの。そんな『絶対的ななにか』に触れたいから、生きるのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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