いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにする。

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パリを経由してイタリアのミラノにいる。今朝、両親がただ仲良く過ごしている、それだけの夢を見て泣きながら目覚めた。不思議だ。別に、自分に何をしてくれた訳でもない。ただ、自分にとって大切な人には、不完全だとしても構わないから、幸せそうに生きていて欲しいと願う。そして、自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにするのだと思った。

 

 

おおまかなスケジュール

2月14日 ヴェネツィア【イタリア】
2月15日 ブタペスト【ハンガリー
2月16日以降、FREE!【欧州界隈】
2月20日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 タリン【エストニア
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

生かされている責任。

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Paris

 

13日早朝にパリに到着をする。パリ在住の日本人女性から「お昼をご一緒しましょう」とご連絡をいただく。到着ゲートでチュニジア人の男性が「Mr.Keigo Sakatsume」と書かれた紙を掲げている。黒塗りのワーゲンに乗り込む。全席が革張りで、走りの安定感が凄い。女性のご自宅に到着し、大量の果物をいただき、浴槽に浸からせていただいた後に「長時間フライトでお疲れでしょう」と布団をご用意していただいた。数時間眠り、昼前に目覚め、北アフリカ料理を提供するレストランに足を運び、タジン料理やクスクスをいただく。食後に「消化を助ける作用があるのですよ」と甘いミントティーをご馳走になった。幸せな時間が流れていた。

 

神谷美恵子の作品に「生きがいについて」という書籍がある。その本のなかに『生かされている責任』という言葉が出てくる。わたしは、現在、家も仕事も特定の肩書きも持たないまま、呼ばれた場所に呼ばれるまま移動を続ける生活をしている。いま、自分が生きているのは「自分を生かしてくれている」人々がいるからだ。このような生き方をしていると、出会う人々から「あなたには夢や目標はあるのですか」と頻繁に問われる。しかし、わたしには、夢や目標などがない。ただ、瞬間瞬間における「こうしたい」と思った声に従って生きているだけで、目指している境地、こうなりたいと思う人間像、ストックされている夢や目標みたいなものはない。しかし、時折、自分は「大きな何かにつながる道を歩いている」と感じることがある。これは、自分の意思を超えたものだ。歩いているというよりも『歩かされている』ような、書いているというよりも『書かされている』ような、自覚している夢や目標はないけれど、まだ、自覚をしていない夢や目標の存在を感じている。

 

パリでお会いした女性は、わたしの生き様を見て「こんなにも清く、こんなにも美しいものはない」と仰った。彼女は長年演劇を生業として生きている。あらゆる作品は、見る人がいてはじめて完成する。だから、誰の前でやるか、何処の国でやるか、など、それを見る人が変わるだけで(同じ作品を公演しているにも関わらず)完成度は大きく変わるのだと言った。作品の価値は、固定的なものではなく流動的なものなのだ。あらゆる作品が『見る人がいてはじめて完成する』ものならば、多分、人間も同じだと思う。その作品の価値、その作品の意味、それを決めるのは作り手だけではない。作り手は、それを世の中に放った瞬間に「その解釈は聞き手に委ねている」のだと思う。わたしという人間が生きる意味。それは、わたしだけでは織りなすことのできないものだ。それを見てくれているひとがいて、はじめて、自分という人間の『意味』であったり『価値』であったりが、織りなされるのだと思う。だから、わたしは、呼ばれるままに移動を続けて、書きたいと思うことを、時折「書かされている」などと思いながら、こうして書き続けているのだと思う。

 

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自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにする。

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Aéroport de Paris-Charles-de-Gaulle

 

今朝、両親の夢を見た。わたしの両親は新潟で床屋を営んでいて、土日祝日も仕事があったためにわたしはほったらかされて育った。家族旅行の記憶もないし、基本、ひとりで遊びを見つけてはそれを実行する日々を過ごしていた。彼らは、勉強をしろとかそういうことを一切言わなかった。警察のお世話だけにはなるなよ、と、親から言われたことはその程度だった。高校に(禁止されている)原チャで通っても何も言わなかったし、教師から怒られても「それはあんたの問題だからね」と、わたしが怒られる責任(怒られる自由)をわたしに残したままにしてくれた。

 

わたしは鈍感な人間だから、普通、夫婦というものは仲の良いものだと思っていた。しかし、小学校高学年くらいの時に「あれ、もしかしたら自分の両親はあまり仲良くないのかもしれない」ということを、突然思った。きっかけは忘れた。ただ、この時の衝撃は結構なものがあった。仲が良いと思っていたはずの両親は、実は『情』でつながっているだけなのだと、そういうことを兄や姉から聞いたときは「まじか!」と驚きを禁じ得なかった。悲しみを覚えた。こどもたちのために別れたいけど別れないでいるとか、嫌な仕事も嫌々やっているのだとか、もし、そういうことであれば「俺のことは気にしないでくれ」と思った。自分の存在が重荷になっているとか、自分の存在が身近な人間の自由を奪っているのだとか、そういう風に感じることはしんどかった。だから、俺のことは気にしないでいいから、自分が楽になる道を選んでほしいと思った。しかし、まだ、わたしは無力で、言葉を選べずに、帰り道の匂いだけ優しかった(cocco「Raining」参照)頃のわたしは気持ちを伝える言葉をもてず、やさぐれるという非常にわかりやすい形で不良になった。

 

こどもと親が思っていることは、多分、一致をしている。それは「不完全でも構わないから、幸せそうに生きていてほしい」という思いであり、生きていることを楽しんでほしいという願いだと思う。 母親(父親)が不幸そうに生きている姿を見せることは、それだけで虐待にあたる。そういう言葉を前に聞いた。人間を傷つけるものは、必ずしも悪意だけではない。良かれと思ってやっていること、善意を通じてでも人間は人間を傷つけることができる。あなたのためにやっていることが「あなた」のためにならないこともあるし、自分のために生きることが、結果的に「あなた」のためになることもある。だから、わたしは思う。わたしは、わたしの幸せに責任がある。自分が幸せでいることが、身近な人間を幸せにするのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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