いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

挑戦しないで、なにが人生だ。

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花束を抱えてヴェネツィア行きの鉄道に乗る。隣の席のイタリア人女性が、誰かから貰ったのか、ピンク色のバラの花束を抱えている。目が合い、彼女は微笑む。わたしも微笑む。花があり、花屋に並び、それを買い、鉄道に乗り、待ち合わせをして、花を届ける。花は、ある地点から、ある地点まで、旅をする。わたしは、なにかを届けるために、ある地点から、ある地点まで、なにかを運ぶ。ある地点から、ある地点まで、なにかを運ぶ。届ける。伝える。誰もが、いま、その途上にいる。

 

 

おおまかなスケジュール

2月16日 ヴェネツィア【イタリア】
2月17日以降、FREE!【欧州界隈】
2月20日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月21日 EVENT@ロンドン【イギリス】
2月22日 タリン【エストニア
2月22日以降、FREE!【欧州界隈】
2月24日 わたり食堂【0円食堂】(帰国できるか不明)

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

伝える。伝えようとする。

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Venice


メストレ駅でミユさんと合流をする。花を渡す。車に乗り、カフェに行く。イタリアのビールを注文する。テラス席に座る。先月、フィレンツェでミユさんにお会いした際、僭越ながら「俺たちは定期的にあったほうがいい気がする」という感覚を覚えた。みなさまには、そういう経験はあるだろうか。初めて会った誰かに対して、まるで、初めて会ったとは思えないなにかを見出す感覚。一緒の時間を過ごすことで「お互いの良い部分を引き出し合う」ことができると思える感覚。大袈裟な言葉で言えば、お互いの中に眠っていたなにかを『覚醒』しあえる誰かとの邂逅。

 

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Flower and Ornament

 

ミユさんは言う。なにか、一緒にできることがあればいいですね。たとえば、音楽など。と。わたしは『音楽』という言葉を聞いた瞬間に緊張した。音楽。それは、自分にとって『ずっと逃げ続けていたもの』になる。わたしは音楽を愛していて、高校時代、生きていてもなにもいいことはないと暗く塞いでいた時期を過ごしていた間も、音楽を聞いている間だけは自由を感じることができた。音楽がある世界を「もう少しだけ生きていきたい」と思っていた。音楽は人間を自由にする。当時、強い感動を覚えた自分は、同じように、自分も誰かを『自由』にさせることができるなにかをできたらと、そういうことを思った。できることならば、それは、他の何物でもない『音楽』そのものを通じて、実現することができればと思っていた。

 

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Exposed to the afternoon sun

 

その思いをミユさんに話した。自分はこれまで音楽から逃げてきた。そして、逃げる限り『永遠に追われる』という感覚がある。自分はロックンロールが大好きで、ロックンロールとはなにも音楽のジャンルだけの話ではなく、生き方にも通用する話だと思っていた。だから、わたしは、ロックの精神を生き方に宿らせるような、そういう日々を送ってきたつもりだ。が、それを『音楽を通じて』やっていないという点において、後ろめたさがある。これまでの人生、自分なりに色々な出来事を体験し、色々な世界を見て、痛い目にも、最高だと思える目にもたくさん遭遇した。しかし、このまま、音楽をやらないまま人生を終えたら、もうひとりの自分が死に際の自分にこんな言葉をささやく気がする。それは『結局、お前はなにもやらなかったな』という言葉だ。もうひとりの自分から、結局、お前はなにもやらなかったなと言われてしまう生涯を過ごすことは恐怖だ。だから、わたしは、音楽という言葉を聞いた瞬間、どうしようもない緊張を覚えた。音楽をやることも、音楽をやらないことも、自分にとっては『恐ろしいこと』なのだ。と。すると、ミユさんは、驚いたことにこのような言葉を返した。わたしも、まったく同じです。と。

 

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挑戦しないで、なにが人生だ。

60歳でヨボヨボになるとして、いま、自分の年齢は33歳。ヨボヨボになるまで、残り27回しか『春』はない。このことを冷静に考えてみよう。これは結構やばいことだ。ありあまるように見える時間も、実は、結構ない。それならば、こんなことをしたら恥ずかしいとか、どんな風に思われるだろうとか、そんなことを気にしている場合ではない。自分は自分のままでいいとか、生温い言葉で自分を慰めている場合ではない。音楽をやるということは、自分の『一番恥ずかしい部分を出す』ということだ。自己受容より自己破壊。残り27回の春の中で、どれだけ「自分を追い込む」「自分を破壊する」「自分を生まれ変わらせていく」ことができるのだろう。

 

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屋上に登り空を眺める。ミユさんは、朝日を眺める度に「今日もこの惑星に生きていられることの幸福を思う」と話す。自分が宇宙人だとして、いま、短い時間だけ人間をやることが許されているのだとしたら、どのような瞬間もたまらなく嬉しいものであり、涙が出る、そして、生きられるだけ生きてやりたいと思うのだと、そういうことを話した。生きていると、どうしても『無難であること』を優先してしまう瞬間がある。が、無難であることを冷静に考えてみる。なにも問題の起こらない日々。なにも障害のあらわれない人生。そういう日々のなかの、いったい、どの瞬間に「うおー!」とか「よっしゃー!」とか、思わず天に拳を掲げてしまうような、よろこびに声をあげて泣いてしまうような、そんな瞬間を見出せばいいのか。

 

スポーツを見ながら、わたしは「だからなんなん」と思う。160キロの球を投げる。それを打ち返す。バックスクリーンに運ぶ。42キロを走る。ゴールテープを切る。誰よりも早く走る。ボールを蹴る。パスを回す。ゴールに運ぶ。鉄球を投げる。叫び声をあげる。誰よりも遠くまで飛ばす。スキーで飛ぶ。猛烈な助走をつける。誰よりも遠くまで運ぶ。160キロを投げたからなんだというのだろう。42キロを2時間で走ったからなんだというのだろう。誰よりも遠くまで運んだからなんだというのだろう。と。同時に、猛烈に感動をしている自分もいる。意味じゃないんだ。スポーツに意味を求めたら、存在そのものを否定することになる。意味はなくても、熱狂はある。それに触れるものたちの狂熱がある。ある地点から、ある地点まで、なにかを運ぶ。なにかを運ぼうとする。そのことが尊いのだ。伝える。伝えようとする。伝えるために心を尽くす。伝えるために気持ちを尽くす。生きることとは運動で、運動とは「動き、運ぶ」ことだ。自分を、自分の思いを、ある地点から、ある地点まで、運ぶこと。運ぼうとすること。そのことが尊いのだと思う。

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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