いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

死ぬ気でやれよ。死ぬから。

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菊名駅前のコロラドにいる。作曲と読書とちあきなおみにあけくれている。喝采。振り付けを練習する。歌詞がすごい。昭和の曲はやばい。彼女は女優。わたしは蒙昧な豚。子供の頃のように、1日があっという間に過ぎる。このままあっという間に死ぬかもしれない。ただ、自分から生まれた音楽を聞くと「おれは確かに生きていたのだな」と思う。音楽を作ることは、この星に生きた記憶を残すことに似ている。

 

 

おおまかなスケジュール


3月8日 美味い果物を食べたい@横浜
3月9日~15日 FREE!【日本】
3月16日 朝・カイロ【エジプト】
3月16日 昼・ミラノ【イタリア】
3月17日以降 FREE!【欧州界隈】

🌐🌐🌐呼ばれたら何処でも行きます🌐🌐🌐

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

ibaya.hatenablog.com

 

海女になる。

イタリアのミユさんと保科亮太さんとバンドを結成した。先月の話だ。以来、音楽活動に突入して初心者なりに作詞作曲をはじめた。実はバンド名も決まっている。みんな練習を頑張っている。そのスタイルは様々で、ただ、共通していることは「おのおのが苦悶している」ことだけだ。苦楽を共にした関係は強い。逆に「楽は歓迎だけど苦しみは嫌!」みたいな関係は、破綻も早い。病める時も、健やかなる時も、という結婚の時の誓いは良い。健やかな時に人を愛することは簡単だ。が、病める時も愛せたら、その愛は強い。他者に対しても、自分に対しても、同じだ。

 

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作詞が難しいから周辺の人々をとっつかまえて「この曲に歌詞を与えよ」と指令を出す。歌詞は短い。無駄を省き、要点を集約させる必要がある。頭に浮かぶイメージはあるが、それを最短の言葉でまとめる必要があるのだ。東京でジビエ料理をご馳走してくださったK様がこんなことを話した。源氏物語があるでしょ?わたし、最初はあれのどこが良いのかわからなかったけど、解説を読んだら「ああ、そういうことなのか!」って思ったの。昔の人は、たとえば夜這いとかが普通におこなわれていて、ふすま越しに歌を詠み交わしたりするでしょう。で、ふたつとかみっつとか歌を詠み交わして、おっけーだったら顔も見ないまま相手を受け入れる。ダメだったら帰ってもらう。これ、現代人にはなかなか共感できない感覚だと思うの。

 

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普通、セックスするなら相手の容姿とか気になると思うじゃない。でもね、源氏物語の解説を読んだら「現代人は視覚に頼りすぎている。声。言葉選び。間。十二単の配色。部屋に焚きつけたお香の匂い。など、感じるべきポイントは無限にある。容姿なんて、ただの一端に過ぎない」みたいなことが書いてあって、なるほどー!って思ったの。と。ああ、めちゃめちゃわかるなあ、と思った。自分が曲を弾いて「これに歌詞を与えて」などとみんなに頼んでああだこうだとやっていた時、まるで、平安貴族の遊びをしているような感覚を覚えた。連歌や俳句も似ているのだろう。自分の心情を歌にする。言葉の海を潜り、的確な言葉を取り出す海女になる。

 

 

死ぬ気でやれよ。死ぬから。

こどもの自分が、いまの自分を見たらなんと言うだろう。たまに考える。小さな自分は、周囲のおとなを「ダサい」と思っていた。こんなおとなにはなりたくない!と感じるおとながたくさんいた(主に学校の先生など)。時は流れ、いま、自分は「昔の自分に笑われない生き方をしているだろうか」と思うことがある。なあ、どうだろう。昔の自分に問いかける。俺の生き方はお前のおめめにかなうだろうか。友達なんて全然いなかったけれど、音楽を聞いている時間だけは自由になることができた。生きててもいいよって言われた気がした。そして「自分が感動を与えられたように、自分も感動を与えることができる人間になりたい」と思っていた昔の自分は、いま、おとなになった自分を見たとき、どのようなことを感じるだろうか。

 

新潟に生まれた。海は家から五分だった。日本海は夕日が沈む。わたしは夕日が好きだ。『好き』だけじゃない。その瞬間、湧き上がる色々な感情を全部ひっくるめて『好き』だと言っている。前に、夕日を見ながら「終わっちまう」と思ったら涙が出そうになったことがある。終わっちまう。楽しい時間も、悲しい時間も、永遠に続くことはない。なにもかもが終わっちまうことを知っているから、いま、この瞬間が輝くのだろう。巷では「死ぬ気でやれよ。死なないから」みたいな言葉を耳にする。わたしは天邪鬼だから、その逆を言いたい。死ぬ気でやれよ。死ぬから。いつかは終わっちまうから。そのことを思いながら、いまを生きるんだよ。と。

 

死ぬとはどういうことだろう。肉体が滅びることだろうか。違う。死ぬことは「忘れられる」ことだ。わたしが死んでも、わたしの記憶が誰かの中にある限り、わたしは永遠に生きる。誰かの頭の中で思い出された瞬間に、わたしは何度でも蘇る。わたしを殺すことは簡単だ。包丁を取り出す必要もないし、ダイナマイトを仕掛ける必要もない。ただ、わたしのことを忘れたらいい。わたしの存在を認めなければいい。わたしなんて最初からいなかったもののように振る舞えばいい。わたしは、いま、生きている。わたしはわたしのことを忘れたくないと思い、存在を認めたいと思い、いつまでも一緒にいる大切なものとして扱いたいと思う。創作をしていると感じることがある。いま、ここにある生命は「私を忘れないで」と囁いている。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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