いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。

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福岡県糸島市を経由して、いま、博多駅にいる。おとといの夜は福岡市在住T様(どちらもこの日が初対面)のご自宅に、昨夜は糸島市在住M様のご自宅に宿泊をさせていただいた。今夜21時55分小倉港発のフェリーに乗り、愛媛県松山市に向かう。ちょうどいま、福岡市内在住の男性から「会えませんか」という連絡が届いた。今日は何も予定がないので、その方とお会いしたのちに私は小倉に向かうだろう(そして、名物とされている焼うどんを食べるのだと思う)。

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・初日の夜、印象的な出来事があった。

寝床を提供してくれたT様は現在31歳の男性で、T様が18歳の時に父親は亡くなり、病院で働く母親と2人で暮らしている。小柄で可愛らしいお母様を前にした時、ああ、自分の母親と似ているなあと思った。お母様は「主人も、生前はひとを家に連れてくることが大好きなひとだったから、いま、こうしてまたひとと話せることが嬉しいです」ということを話してくれた。その日、お母様があまりにも楽しそうにこれまでの人生のことをあれこれ話してくれるものだから、私はひたすら話に耳を傾けた。一通り話し終えた後、お母様は「今日は私ばかり話してしまいましたね。明日も仕事なので私は先に寝ますが、どうぞゆっくりとお寛ぎください」と言って寝室に消えた。

 

2・次の日の朝。

目覚めると同時にその家を出ることにしている私は「お世話になりました。おかげさまで最高の時間を過ごすことができました」と御礼を伝えると、お母様は「こちらこそ、是非また遊びに来てください。久しぶりにひとと話せて嬉しかったです」という言葉をくれた。この言葉、この『久しぶりにひとと話せて嬉しかったです』という言葉が、いまでも強く印象に残っている。

 

3・人間よりも機械に近い。

いま、私は博多駅にあるドトールの店内にいる。誤解を恐れずに言えば、チェーン店の店員さんはマニュアルに忠実で、人間であるというよりも機械に近い印象を受ける。ドトールの店員さんは、多分、毎日いろいろなひとに会っている。自分【坂爪圭吾】なんかよりもずっと、毎日大量のひとびとと出会っているはずだ。これは病院で働くお母様も同じだと思う。毎日たくさんの患者さんと接しているはずのお母様が、別れ際、久しぶりにひとと話せて嬉しかったですという言葉をくれたことを「面白いなあ」と思った。

 

4・これだけのひとが暮らしているのに、なぜ、孤独という気持ちは発生するのか。

日本には現在1億人を超える人々が暮らしているとされていて、生きている限り、仕事をしている限り、大量のひとびとと出会う。それなのに、なぜ、孤独という気持ちは発生するのだろうか。そういうことを思うことがある。いまいる場所を見渡してみても思う。隣の席にはサラリーマンのおじさんが座っていて、奥の席にはスマホをいじっているお姉さんが座っている。すぐそばに人間はいるが、私とあなたの間にある接点は皆無で、ひととひととの結びつきのようなものはない。孤独は、多分、当たり前のことだけれど満員電車に乗ることでは解決できない。ひとがいるということと、孤独ではないということは同義ではない。

 

5・ほんとうのことを話しているか。

ひとと話をするときに、みんな、どれだけ『自分の本音』を口にしているのだろうか。生きている限り、普通の生活を続けている限り、会話は大量に発生をする。誤解を恐れずに言えば、自分を含めた多くの人々は、表面的な会話のやり取りに終始をしていて、ひとと話をしていても「ほんとうに話したいこと」は何も話されていないと感じることは多い。別に、誰にでも自分の本音を話す必要はないと思う。が、いざという時(このひとには自分の本音を伝えたいと思った時)に、自分の思いを口にすることに慣れていない場合、重要ななにかを伝えるということができなくなる。

 

6・真実は、多分、短い言葉で語ることができる。 

私は「話の長いひと」や「声が大きいひと」があまり得意ではない。どれだけいいことを言っていたとしても、話が長いと緊張感が薄れ(多分、話しすぎることで大事な部分が薄まっていくのだと思う)、眠くなる。同じように、声が大きい人も「うるさいなあ」という思いが先に立ち、会話の内容が頭にはいってこなくなる。私は思う。真実と呼ばれているものは、多分、叫ばれるものではなく「短い言葉でささやかれるもの」だと思う。話が長くなるほど・声が大きくなるほど真理【本音】からは遠ざかる。正義を主張するひとに対する違和感も、これと同じことだと思う。自分は正しいのだということを声高に主張をしているひとを見るほど、誰かの間違いを必死になって糾弾しているひとを見るほど、私は「つらそうだなあ」ということを思う。

 

7・主語を取り戻す。

自分の本音がわからないと話すひとは多い。自分自身も例外ではなく、俺はなにがやりたかったのだろうかとか、俺はなにが言いたかったのだろうとか、日々悶々とすることは多い。我が身を振り返ると、自分が悶々とする時は「主語が自分以外になっている時」が多いのだと思った。あのひとにわかってもらいたい【認められたい】とか、あのひとは楽しんでいるだろうか【喜ばせたい】とか、どうすればあのひとを幸せにすることができるだろうか【幸せにしたい】とか、自分以外の人間が主語になっていることを考えている時間は、なにかこう、軸を見失いがちでブレる。誰かのことを考える時間を、決して、無駄だとは思わない。ひとがひとを思う気持ちほど、この世の中に尊いものはないとさえ思う。が、そのことで「自分を見失う」結果になることが多いのも事実で、この辺の精度を高めたいと思う。

 

8・誰かを救おうとしないこと。

SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】や文章を綴る営みを続けていると、稀に「あなたのおかげで救われました」的なことを言っていただけることがある。このように言ってもらえることはとても嬉しい。とても嬉しいことだけれど、でも、あくまでも「他者の喜びは副産物である」ということを忘れたくない。私は、自分の中で決めたルールがひとつだけある。それは「誰かを救おうとしないこと」というもので、それがどれだけ素晴らしい考え方だとしても、他者に押し付けた瞬間に暴力になると思っている。が、気をつけていないと、情にもろい私はすぐに「自分でも力になれることがうれしい!誰かのために◯◯をやろう!」みたいな感じで、問題解決型の人間になる方向に舵を取りがちになることがある。

 

9・問題解決型ではなく、いつの間にか「問題が問題ではなくなっていた型」の方が自分には合っている。

私には「問題解決型」の生き方は合わない。最初は「よし、やるぞ!」みたいな感じで意気込むものの、その勢いも翌朝には消えている。多分、誰かのために生きるという考え方は『美しいけれど疲れる』ものだと思う。自分に正直になって考えて見ると、意外と、自分は自分勝手な生き物でそれほど他人のことを思うことはできていないということを知る。それならば、もう、自分は徹底的に自分を生きることなのだなと毎回思う。目の前にある問題を解決するためになにかをやるというよりも、とにかく自分のやりたいことをやっていたら勝手に元気になったり勝手に救われたり勝手に勇気をもらうひとたちが続出をして、いつの間にか「問題とされていたことが問題ではなくなっていた」みたいな状態になることを理想としている。家のない生活をしていた頃も、同じようなことを思っていた。家のない生活を「問題だ!」と思ってしまうとかわいそうな自分の完成だけれど、家のない生活を面白がって続けてみたら、結果的に訳がわからない生活に突入をしている(この生活を、自分自身トータルで気に入っている)。

 

10・その日の朝には想像していない夜を。

「趣味は自爆です」と言える位には自爆を続けている今世だけれど、小生、大事なことは「誰かの期待に応えることよりも、己の期待に応えること」なのだなあということを頻繁に思う。誰かのためになることは素晴らしい。誰かの役に立てるということの中には「生まれてきてよかった」とさえ思える嬉しさがある。が、そればかりがメインになると、俺はなにがやりたかのだろう的な意味で自分自身を見失う(端的に「疲れる」)。私がブログを書く理由、私が諸々の営みを続ける最大の理由は「それをしていなければ絶対に出会うことのなかったヒト・モノ・コトがあるから」なのだと思う。その日の朝には想像もしていなかった夜がある。だからこそ、自爆を続けながらも「もっと生きたい!」などと思ったりもするのだと思う。

 

 

 

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誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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