いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。

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爆発しがちな諸事情が爆発して、これから13時30分成田空港発の便で福岡空港に飛ぶ。が、福岡で予定がある訳でもなく、単純に、同じ場所に長いこといることができないという己【坂爪圭吾】のカルマに依るところが大きい。定期的に訪れる「ここではない何処かに…(行きたい!)」願望にまかせて横浜の家を飛び出したものの、行き先で予定も何もある訳でもないから「福岡界隈【九州全域】の方で暇な方がいたら声をかけてもらえたら(交通手段さえどうにかなれば何処でも行けるから)嬉しいなあ…」などと思っている。基本的に移動は徒歩になるために、取り急ぎ福岡空港から筥崎宮まで(腑抜けた自分に鞭打つために)歩きたいと思う。

 

 

SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に関する悩みも無限にある。責任者(?)であるわたしが多動症であるために管理能力は皆無で、誰か、適格な方に(たとえば一週間とか期日を決めて交代制で)管理人的なことをやってもらえたら半端なく助かる。いま、菊名の家にはそれなりの食材があるのだけれど、すべてを放置したまま家を出てきてしまった。多分、ある程度のひとの出入りが生まれれば、管理人など設けなくても(自然の摂理的なアレで)どうにかなるのだろうとは思うのだけれど、さて、どうしたものかと思っている。おととい、小さなこどもを連れたお母さんが菊名の家に遊びに来た。子育て中のおかあさんは、どうしたってこどもと(密室の中で)一対一の激烈ロングタイムを過ごすことになるから、多分、必要なことは「他者がいる中にこどもをぶん投げて、ひとりの時間を死守すること」だと思った。時間のあるひとが菊名の家に遊びに来て、子育て中のおかあさんはその中に愛しい我が子をぶん投げる。単なるジャストアイデアに過ぎないけれど、子育てに行き詰っているお母さんがいたら「試しにごちゃまぜの家で一週間程度暮らしてみる」的なスタイルは面白いのかもしれないと思いました(興味のある方はお気軽にご連絡ください!)。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

生命は、それ自体が欠落を抱えている。

昨夜、長文をフェイスブックに投稿した。

 

【最近思うことあれこれ】

 

1・先日、札幌でお会いした方が「自分はこどもをひとりで育てている、生活のため、嫌なことでも仕事はやらなくちゃいけない。職場で違和感を覚えることもあるけれど、自分の力でなにかを変えられるとも思えないし、やることが多くて常に疲れている。やりたいことを探さなくちゃいけないとも思うけれど、目の前のことをこなすことだけで精一杯で、考える気力も奪われている。毎月安定した収入がはいってくることに安堵感もあるけれど、時折、なんのために生きているのだろうかと思うこともある」と話してくれました。

 

2・このように感じているひとは、もしかしたらものすごい多いのかもしれない。そのひとの身になって考える、なんて言葉にするとウルトラ安っぽいし嘘臭いしそんなことは不可能なことだとも思うけれど、話を聞きながら「それはものすごい大変だろうなあ…(自分も同じ状態になったら、多分、そうなるだろうなあ…)」と思いました。

 

3・こんな時に、果たして自分になにができるのだろうか。なにを言えるのだろうか。そんなことを考えながら、ただ、そのひとの話を聞いていました。一通り話を聞いたあと、そのひとは「どうすればいいんでしょうね」と泣き顔にも似た笑顔を浮かべながら尋ねました。私は「なにも言えねえな。こういう時に言葉はまじで無力だな」的なことを思いまして、こういう時は言葉よりも温度感だということに相成りまして「ハグをしましょう!(照)」となってハグ(照)をしました。

 

4・ハグという言葉はあっちこっちで使われているけれど、正直、この言葉を使うのは非常に小っ恥ずかしい気持ちになるから本当はあんまり使いたくない。かと言って、抱き締めるとかなんとか言っちゃうと言葉が重過ぎるから、ほかになにか適当な言葉はないだろうかなあと考えた結果「ダグ」という言葉を開発しました。

 

5・思うに、現代社会の問題点は「深刻なダグ不足(!)」にあるのではないだろうかと睨みました。言葉も確かに大切だけれど、言葉はコミュニケーションの一手段に過ぎなくて、多分、言葉だけじゃない(頭だけではない身体的な)やりとりというのはこの世の中に無限にあるのだと思います。これだけ文明が発達しているというのに、なぜ、戦死者以上の自殺者を毎年輩出しているのだろうか、ということを稀に考えることがあります。

 

6・原因は108個くらいあると思うけど、そのひとつに「なんでも自分ひとりの力でやらなくちゃいけない病」みたいなものが蔓延していて、こどもを育てるのもお母さんがひとりでやらなくちゃいけない、自分の悩みは自分ひとりの力で解決しなくちゃいけない、自分ひとりの力で生きていけるようになって一人前(誰かの力を借りるのは半人前)みたいな厳し目のルールが大前提にあるから、多分、それができなくなった時に(誰にも頼ることができなくなって)ウルトラしんどくなる、ということを思いました。

 

7・生命は、多分、それ自体が「欠落」と呼ばれるようなものを抱えていて、自分ひとりで生きられるようには作られていないのだろうなあと思うことがあります。男だけ(女だけ)ではこどもを産めないし、動植物がなければ人間は食べるものさえ確保できないし、人間だけではない、花粉を運ぶ虫や風がなければ花だって子孫を残すことはできない。各々が各々に欠落を抱えていて、その欠落を補い合うように、世界はまわっているのだとでも言いましょうかそんなことを思います。

 

8・欠落という言葉にはネガティブな雰囲気があるから「完璧にならなくちゃいけない!」みたいなことになって、完璧になれない自分を責める。完璧になれるようになんて作られていないのに、各々が各々で完璧になれるように努めてしまうから、結果的に(不可能すぎることに挑戦させられているから)余裕を失い、孤立感や分離感が生まれ、全体的になんかこうギスギスした世の中になる。

 

9・SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】という活動をやっていて思うのは、自分ひとりで完璧になろうとするのではなく「他者に頼る力」とか「他者に委ねる力」とか「他者に甘える力」を養う、そういう機会としてこの場所が機能をすればいいなあということです。なんだろう、全然うまく言えないけれど「よろこびとは、補い合うことである」ということを最近は感じていて、まじで人間はひとりで生きられるようにはできていない。のに、いまの世の中は「ひとりで生きろ!」と言われている風に感じることがあって、それが割と無理目に感じることが多いということです。

 

10・もちろん、自分ひとりの力でやらなくちゃいけないこともある。他者に委ねちゃいけない自分自身の聖域みたいな部分も確実にあるとは思うけれど、でも、単純に思うのは「抱き締めあった時のよろこびは、絶対に、自分ひとりでは感じることのできないものである」ということです。当たり前のことだけれど、抱き締めるという行為は、自分ひとりでは絶対にすることはできない。

 

繰り返しになるけれど、最近は「生命は、それ自体が欠落を抱えている」ということを強く感じていて、完璧になることなんてできない(そもそもでなる必要がない)はずなのに、完璧であることを要求する(自分自身に強制してしまう)から苦しくなるのではないだろうか、ということを感じています。なんのために他者はいるのか、それは「お互いに足りない部分を補い合う」ためなんじゃないのだろうかと、別に綺麗事を言いたい訳じゃなくて、ただ、そっちの方が自然である【理に適っている】のではないだろうかと思いました。

 

写真はとある森の中の風景です。巷では「あなたを幸せにできるのはあなただけ。あなたを不幸にできるのもあなただけ」みたいな言葉を耳にすることもありますが、否、意外と「誰かがいなければ絶対に感じることのできない幸福もあるんじゃないだろうか」などと思います。だからこそ、ひととひとが出逢うということの中には、これまでの自分を別人に変えてしまう力【人生を大きく動かす力】があるのだろうなあと思いました。

 

その後、コメント欄にこのように書いた。

 

自分が自分であるということの品格や尊厳を保ちながら、他者【世界】を信頼する勇気を持つ。堅苦しい表現になるけれど、そういうことなのかなと思いました。

 

私は言葉が下手くそだから、細かいニュアンスを適切に伝えることができない。毎度、文章を書いた後は「ええいままよ…全然言いたいことが言えていないじゃない…が、あとは読み手の受け取り能力に委ねる!頼む、届け!(わかってくれとは言わないけれど、わかってもらえたら物凄いうれしい)」みたいな気持ちになる。行間を読むという言葉もあるけれど、言葉とは、言葉にされていることそのものではなく「言葉にされていない部分を浮き彫りにする」ために、語られているのではないだろうかとさえ思う。自然が表現者として優れているのは、多分、語らずして語るという極上レベルの表現を為し得ているからだと思う。大事なことは、語られていることよりも「語られていない部分」なんじゃないだろうか、と、暇なわたしは(たとえばこういうことを歩きながら&ひとと話しながら&ロングタイムの移動を繰り返しながら)考えたりしている。

 

【過去記事】星に願いを、花に祈りを。 - いばや通信

 

お前、前のめりに愛せるか?

最近のテーマは「前のめりに愛せるか?」ということで、多分、自分が好きなことと自分が得意なことは違う。わたしは、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】のような空間をつくることは得意だし好きだけれど、そこに長居をすることは苦手だ。ひとと話をすることは好きだけれどうるさい環境や表面的なコミュニケーションや人混みは嫌いで、愛想笑いをすると死にたくなる。何が言いたいのかというと「いま、お前がやろうとしていることに、お前は前のめりになって愛せているか?」ということを自分に対して物凄い思っているということです。言葉を変えるなら「このひとでいいや」と思うひとと付き合うのではなく、「このひとがいい」と思うひとと付き合うということ。なにかを誤魔化すために誰かといる時間を選ぶくらいなら、ひとりの時間を選びたいということです(とか言いながら、声がかかる限り誰にでも会うようにしている生活を続けている自分が不思議だ)。

 

 

「ひとと会う」ことの重要性を思う。自分の輪郭をはっきりさせるためにも、他者の存在は必要不可欠になる。ただ会うということだけでは、多分、足りない。難しい場合もあるけれど、できる限り「自分の本音を伝えること」だと思う。自分の話に価値はないだとか、相手の時間を奪ってしまうのは申し訳ないだとか、そういう余計な思いを排除して、瞬間瞬間における自分の思いを(勇気を出して)言葉にすること。自分の本音はダイヤモンドの原石みたいなもので、他者の本音とぶつかることで磨き上げられてより一層の輝きを放つ。本音から遠く離れた会話を続けている(ひとに合わせて生きている)と、自分自身を見失う。この世の中に、自分を見失うこと以上の悲劇はあるだろうか。本音を話すことで自分を取り戻し、本音を話すことで自分のコアを精製する。

 

 

誰かになにかをしてもらいたい【可哀想な自分!】とか、誰かになにかをしてもらえない【ダメな自分!】とか、そんな思いばかりを溜め込んでいると、あっという間に被害者意識の出来上がりになる。慣れ親しんだ『不幸な自分』に酔うことは、さぞかし居心地の良いものなのだろう。が、そんなことよりもきっともっとずっと気持ちの良いことが、この世の中には無限にあるのだと思う。だからこそ、大切なことは「動き出すこと」だと私は思う。動き出すことで、自分の想像を遥かに凌駕する出来事を世界は展開してくれる(ものだと思う)。自分の中にある限られた知識や経験の範囲を超えた世界、そこに触れたいと思うからこそ、懲りずに移動を繰り返しているのだと思う(という言い訳を用意して、これから成田空港に急ぎます!!)。

 

 

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もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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