変わらないために、変わり続けよう。
日の出前に目覚めて顔を洗い、濃いめの珈琲を軽く飲み終えた後に自転車に乗るかジョギングをする。昇る朝日を眺めながら1時間ほど体を動かして家に戻り、水のシャワーを浴びて「うおー!」と叫ぶ。塩分補給にマグマ塩を舐めるか、庭に実っているきゅうりやトマトを丸かじりする。午前中は文章などの創作の時間に充て、午後はひとと会ったり街に出かけたりする。暗くなると同時に眠る準備にはいり、読書をしたり(焚き火ができるときは焚き火をしたり)ロウソクの灯りを眺めたりする。こんな感じで一日が終わる(なんて最高だなあとは思っているのですが、実際の達成率は20%程度です!)。今日、これから車で長野県東御市に向かう。まだ確定した訳ではないけれど、10月に開催される天空の芸術祭に我々いばやが「アーティスト集団」として召喚をされることになるかもしれない(ならないかもしれない)。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
と、ここまで書いたところで交通事故に遭った。自転車に乗っていた最中、諸事情が爆発をして30メートル近く吹き飛ぶ出来事があって、全身打撲で歩くこともままらない(が、ブログを更新できる程度には元気です!)。全身が痛いと生きることが辛い。生きることが辛いと後ろ向きになりかねないために、これはもうネタにするしかないと開き直って「交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)」という平凡な企画を立ち上げた。昨日も早速複数名が遊びに来てくれて(貴重な差し入れを提供していただいて)九死に一生を得た。吹き飛んだ先に対向車が来ていたら確実に死んでいたような気がするので、生きていてよかったなあとこころから思う。死を強烈に意識すると、生が輝く。身体は痛いけれど生きていること(「まだまだ生きていられるのか!」と思えること)はとっても嬉しい。お盆のこの時期、親戚の人たちと会うのはちょっと面倒臭いし気がひけちゃうなあという貴殿のご参加(?)をお待ちしております!!
【EVENT詳細】交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)。
TPD48【鉄砲玉48】のいま。
TPD48の活動も粛々と続いている。TPD48【鉄砲玉48】とは「あらゆる依頼に基本無償でお応えする捨て駒の集合体」のことで、金はないけど時間とエネルギーはあります!的な若者たちを集めて6月から実験的にはじめている試み(ある種のエンターテイメント的活動)になります。わたしは元々たけし軍団が好きで、自分の周辺にもこんな集団(?)があったら楽しくなるだろうなあと思っていたので、あとはやりながら考えよう!【見切り発車で死のう!】ということで出発した。最初はどうなることかと思っていたものの、意外とどうにかなっているみたいで「やるじゃん!」と思う。人生の醍醐味はなにが起こるかわからないことにあると思うのだけれど、あろうことか鉄砲玉のひろきさんは最近ツーシートのベンツ(オープンカー!)を乗り回していた。鉄砲玉の分際でベンツに乗るとは何事か!と、軽く嫉妬をした(こういう展開は見ていて楽しいので、ああ、いいなあという気持ちになります)。
【BLOG】ふじわらひろき - ソンス(センスのある損)をしよう。 - Powered by LINE
鉄砲玉の核弾頭たくちゃんは、神奈川県で譲り受けた青春18切符を片手に現在は遠路はるばる熊本県にいる(らしい)。鈍行でよくやっているなあと思う。馬鹿みたいに移動を続けているひとを見ると、なんだかこっちまで移動をしているような風が吹く。実際にやっているひとを見ると「やってるねえ!」と思う。普段やらないことをやると、普段出会わないひとに出会う。ひととの出会いは「個人的なセフティネット」を織り成す網の目になり、最悪の場合はここに行けばなんとかなるという安心感を生む(ことがある)。自分がやりたいと思っていたことをやるのではなく「誰かがやって欲しいと思っていること」に応える形になるために、鉄砲玉のみなさまは『自分では発想をすることもなかった』作業をすることもある。結果、広範囲に渡るスキルを獲得する。自分の役割を限定付けないことで、結果、自分という存在の可能性が広がったりすることがある(まったく広がらないこともある)。
【BLOG】鉄砲玉依頼でスナックのカウンターの中に入って接客🍷: 2017.8.5 - 私は鉄砲玉。
極論、笑えたらいいのだと思う。どれだけ無駄、どれだけ非合理、どれだけ非生産的なことであっても「振り返った時に笑えたら」それでOKだと思う。鉄砲玉のメンバーは随時募集をしている。先日、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に「鉄砲玉にはいりたいです!」と話す若者が来た。これは素晴らしい心意気だと思ったので、わたしは「鉄砲玉のことはわたしよりもたくちゃんやひろきさんが詳しいので、彼らを呼び出すなり実際に会いに行くなりして、詳しいことは彼らに聞いてみてください(そして「いけるな!」と思った場合は、あとは勝手にはじめてください)」とお願いをした。あと、全然関係ないけれど菊名の家は「365日炊き出しが行われている」ことを理想としているために、手始めにまずは週一回からでも「炊き出し系イベント【無料でメシが食える機会】」を創出していきたいと思っている。が、わたしは料理があまり得意ではない。どなた様か「料理が好きだけど食べてくれるひとがいないから普段あんまりできていないのだけど、食べてくれるひとがいるならこれはもう是非是非料理をしたいです!」的な方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡いただけましたら幸いです。
【連絡先】LINE「ibaya」
わたり文庫『森と氷河と鯨』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』です。こちらの本は、SCRAMBLE HOUSE TOKYOに遊びに来てくれた方が「素晴らしい本なので、是非!」ということで贈呈してくださった一冊になります。星野道夫さんの文章に触れていると、なにか大きな自然につつまれているような感覚、自分の内面にある静けさ【自然】に還ることができるような感覚を覚えます。この感覚は素晴らしい。掲載されている写真も素晴らしく、焚き火を眺めているインディアン・ボブさんの表情にはやられてしまいました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
※※※ こちらの本は、青森県にわたりました ※※※
ぼくは、深い森と氷河に覆われた太古の昔と何も変わらぬこの世界を、神話の時代に生きた人々と同じ視線で旅してみたい ー アラスカに伝わる“ワタリガラスの神話”に惹かれて始まった旅は、1人のインディアンとの出会いで思いもよらぬ方向へ導かれる。目に見えないものの価値を追い続けた著者による魂の記録。解説・池澤夏樹
変わらないために、変わり続けよう。
星野道夫さんの親友でもあるシリア・ハンターさんの言う通り「Life is what happen to you while you are making other plan.(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)」なのかもしれない。自分という人間は、自分の人生に対してあまり計画的になることができない。瞬間瞬間において、場当たり的、行き当たりばったり的な生き方を続けてきた。金も家も仕事もなくなった時は「それでも生きていけるか試してみよう!」と閃き、結構いろいろなひとに罵倒をされながらも『家のない生活』をはじめ、結果的に現在は熱海と菊名に二軒の家がある(テントも含めると三軒ある)。別に狙ってやった訳ではなく、ただただ、自分のこころが「こっちの方が面白そうだな」と思う道を選んで来ただけに過ぎない。この数年間の日々で学んだことは『人生とは、自分の意図でコントロールできるほど生易しいものではない』ということで、逆に言えば『自然な流れに抵抗することなく、身を委ねて生きればそれなりの出来事に遭遇できる』ものだと思った。
現在のわたし【坂爪圭吾】に肩書きはない。坂爪圭吾という人物を見たひとから、例えば「あなたはアーティストですね!」とか「あなたは吟遊詩人ですね!」とか「あなたの生き方はロックですね!」とか「あなたはダメ人間ですね!」とか「あなたは宗教家ですね!」とか、様々な言葉で形容をしていただける。わたしは、この状態をとても気に入っている。わたしの生き方には名前がない。名前がないということは、固定をされないことになる。わたしは何者でもないからこそ、わたしは何者にでもなることができる。自分が存在をしている場所、自分が置かれている状態【一緒にいるひと】によって肩書きが変わるような在り方、毎日職業が変わるような生き方は面白いなと思う。自分で自分を限定づけないこと、多分、何者でもないからこそ『何者にでもなることができる』のだと思う。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分はこういう人間だとか、あのひとはこういう人間だとか、限定的な職業や役割や関係性などの小さな枠にはめてしまうのではなく、人間全体として生きるということ、生命全体として生きるということ、固定的な枠組みを超えて『流動的な存在である』ということ。生きるということは、多分、動いているということだ。動いているということは、多分、流れているということだ。わたしたちの身体は『水』でできている。淀まないように、濁らないように、ひとりひとりの身体の中を血液の川が流れている。星々の流れと同じように、歳月の流れと同じように、変わらないことがあるとすれば、それは「変わり続けていく」ということになるのだと思う。変わり続けていくのだというこの一点に支えられて、今日も、この星は回り続けているのだと思う。
決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分は大丈夫だとか、自分はダメだとか、あのひとに好かれたとか、あのひとに嫌われたとか、人の気持ちはいつまでも同じ場所にいることはできない。すべては流れていく。あらゆることは「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月6日
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu