いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS!

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完治一週間と見込んでいた怪我がまるで治っていなかったみたいで、ボロボロの状態で帰宅をしてから数日間寝込んだ。前回の記事で「おはなを配ります!」と豪語したものの、結果的に言うほど配れていない。カラダは資本である。人生を楽しむためには体力が必要だ、体力がなければ楽しめるはずの場面でも楽しめないばかりか、思考が内省的になり過ぎて自分に殺されてしまう(ことがある)。やっとこさ普通に動けるようになったことが半端なくうれしい。ゴリラみたいな顔をしながら自転車をこぎ続けていると、野生的な何かがオープンになるからなのだろうか、「俺はまだ闘える」という気持ちになる。鬱病自律神経失調症などの精神的な疾患は「運動不足か睡眠不足が原因の9割」だと聞いたことがある。多分、その通りなのだろうなと思う(写真はドローンの練習をしている)。

 

https://twitter.com/noname9kokotomo/status/898247124759920640

 

前回の記事で「ポップな棺桶で寝泊まりしたい!」的な投稿をした。ら、あろうことかこの記事を見てくださった方が「勤務先に大量の廃材があるのですが使いますか?捨てるのにもお金がかかるものですから…」というご連絡をいただき、廃材の下見をした。言葉で説明をするのは非常に難しいのだけれど、長さ2メートル強の杉の柱(?)が無限にあり、敷き詰めれば(重量はあるけれど)床にもなるし壁にもなるし屋根にもなる。タイヤをつければモバイルハウスにもなるということで、これは是非何かに使わせていただきたい!と思ったものの普通の乗用車ではこのサイズを運ぶことができない。もしも「自分も廃材に興味があるからトラックを出すよ!」的な神様がいらっしゃいましいたら、是非、一緒に廃材を受け取りにいきませんか??そして一緒に何かを作りましょう!!(あと、今週日曜日にはわたり食堂【0円食堂】があります!)

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

紙とペンを用意する。

その日の出来事で一番印象に残ったことを絵に描いて、その時に思ったことを書く『絵日記』をつけると超いいよ!と聞いたので、早速真似た。わたしは絵がどヘタクソで絵を敬遠していた節があるのだけれど、描いてみたら超絶楽しく、何枚も何枚も描き続けてしまった。テーマは「自分の信条を絵に描いてみよう!」ということで、ひたすら描いていたら描いていた内容を誰かに話したくなったのでここに書きます。

 

【過去記事】毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。 - いばや通信

 

木。

わたしたちひとりひとりは「別々の命」を生きているようで、実は、ひとつの大きな命を生きているのではないだろうか(と思うことがある)。そういう気持ちになれている時は、個人的に「いま、自分は非常にいい状態ですある」という風に思う。逆に、俺は、俺は、となっている時ほど「別々の命を生きてしまっている」感が増幅をしてしまい、結果的に満ち足りない気持ちになる。たとえるなら「木にある葉っぱ」みたいなもので、わたしたちひとりひとりは一枚一枚の葉っぱみたいなもので、多分、根本はみんな繋がっている。

 

稀に、トークイベントなどに出演をした際に「どうしたら坂爪さんみたいになれますか」と問われることがあり、わたしは困る。正直に言うと、わたしみたいになる必要は微塵もないと思うし、ならない方が絶対にいいと思う(色々あるから)。マヤ語の挨拶に「インラケチ」というものがあり、この言葉には『あなたはもうひとりの私です(私はもうひとりのあなたです)』という意味がある。わたしは、この意味が好きだ。言い換えるならば「あなたは私の代わりに生きている(私はあなたの代わりに生きている)」とも言えるような気がする。私は私の命を生きる。あなたはあなたの命を生きる。それは最高に素晴らしいことだと思うし、誰かになろうとする必要はないのだと思う(それは自殺行為だとさえ思う。

 

ベクトル。

私はツイッターをやっている。が、稀に自分が投稿したやつを(気に入らなくなって)すぐに消す時がある。思うに、私が消したくなるものは「矢印が外に向いている」場合が多い。矢印が外に向いているというのは、たとえば誰かの悪口が含まれていたり、他人の生き方にああだこうだと言ってみたり、誰かしらの何かしらの発言やアクションに刺激をされて言葉を発した時など、うまく言葉にできないけれど「内発的ではないもの」は、あとから消したくなることが多い。

 

逆に言えば、自分の内側から溢れ出すもの、誰かに対する返事や意見のやりとりではない、ただ、純粋に「自分はこう思った」という矢印が内側に向いている時の投稿は、なにかこう、自分の話をしているだけなのに「人類全体に通じるようなサムシング」に触れた的な手応えを覚えることがある。自分を徹底的に掘ることで、多分、人類全体に通じる何かを得る(ことができる場合がある)。ベクトルはあくまでも内側に。他人の生き方をああだこうだと言いたくなった時は、まず、自分は自分を真面目に生きることができているのかを確認すること。ひとのことをああだこうだと言うよりも、自分の精度を高めた方が諸々早い。

 

あふれちゃん。

最近「あふれちゃん」という言葉が好きで、あふれちゃんというキャラクターを作りたい気持ちがあふれている。喜びも、感謝も、幸福全般も、絞り出すものではなく『あふれだす』ものだと私は思う。だからこそ、感謝をしなくちゃみたいな気持ちから生まれる感謝には、どこかしら『無理がある』ように思う。プレゼントも同じだ。絞り出すようにプレゼントをするひとと、あふれだすようにプレゼントをするひとと、贈り物にも二種類ある。絞り出された贈り物は受け取りづらいが、あふれだした贈り物は喜びと共に受け取ることができる。人間はボロ雑巾ではないのだから、無理をしてまで(自分を絞り出してまで)誰かになにかをしてあげる必要はないと思う。ただ、自分がそれをしたくてたまらない!的な気持ちがあふれだした時にだけ、それをすればいいのだと思う。

 

大事なことだから何回も言いたい。幸せも、よろこびも、感謝も、誰かに強制をされてやることではなく「あふれだすもの」だと思う。あれをしなくちゃとか、これをしなくちゃとか、あのひとに感謝をしなくちゃとか、生きていることの幸せをちゃんと噛み締めなきゃとか、このような態度は(肩に力がはいりまくっているから)あまり自然ではないと思う。自然とは「気がついたらそうなっている」ことと同義で、自分の意思で「やる!」と決めてなにかをやることも素晴らしいことかもしれないけれど、自分を面白い場所に運んでくれるものは「やる」よりも「やっちゃっていること(自分でも無意識のうちにやってしまっていたこと)」だと思う。人生は、多分、自分でコントロールできるほど生易しいものではなく、だからこそ(想定外の場所に行くことができる)面白さを含んでいるものだと思う。

 

財布。

わたしの好きな言葉に「地球に財布はひとつ」というものがある(わたしの造語です)。わたしは数年前に「今世はお金に困ることはないから大丈夫!」だと勝手に決めた。いままでの人生もどうにかなってきたように、多分、これからもどうにかなっていくからお金のことで悩むことは今世はやめよう。なるようになるだろうから委ねよう、的なふうに思いながら日々を生きている。だから、お金に対する哲学とか考え方とか付き合い方とか、誰かに尋ねられても「あまり深く考えていません」としか答えることができない。わたしは、地球に財布はひとつだと思っている。自分が持っているとき、それは「たまたま自分の手元にお金があるだけ」的な感覚でいる。あまり「自分のもの!」とは思わないようにしている(その方が精神衛生上自分には良い)。

 

お金がない時も、あまり不安に思わなくなった。不謹慎な話かもしれないけれど「俺がなくても、誰かが持っている」という風に思っている。必ずしも常に自分が持っている必要はなくて、別に、困ったときは持っている誰かに頼めば大概の問題はどうにかなると思っている。この考え方は甘いかもしれない。しかし、苦いよりは甘い方がスイートな人生を送ることができる(ような気がする)。実際、あまりお金に困ることはない。地球に財布はひとつ。この考え方は是非みなさまにも勧めたいと思っている(本当はどっちでもいいと思っている)。同じように、多分、地球に命はひとつなのだと思う。わたしたちは別々の命を生きているように見えて、実は「ひとつの大きな命を生きている」のだと思う。担当が違うだけで、根本は同じなのだと思っている(詳細は『木』で書いたようなあの感じです)。

 

わたり文庫『山小舎を造ろうヨ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、西丸震哉著作『山小舎を造ろうヨ』です。西丸さんの口調は結構頻繁に毒舌で、読んでいると「ひでーな!」と楽しくなるます。詳細な山小屋の作り方やサイズなども紹介されているので、極論、あとはもう「やるかやらないか」だけなのだと思う。全然関係ないけれど、昨日神奈川県伊勢原市にある大山という山に行きました。標高が高いからなのか夜は涼しく「長野みたいだな!こんな場所に山小屋建てられたら別荘だな!」とアガりました。これはもう、是非、一緒に廃材をゲットして共にモバイル家屋的なサムシングの製作に携わってくださる有志のみなさまを募集いたします。どなた様か自由に使えるトラックをお持ちではないでしょうか・・・廃材(といっても二級品!)で家を建てられるなんてエコ!こちらの書籍をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

庶民の夢は一生のうちに家を一軒建てることだそうだが、一生かかってようやく家を建てて、ヤレヤレと安心して、その家をジックリ味わうひまもなくお迎えがきて連れていかれるなんて、そんな割のわるいつまらないことはない。

 

家が不動産なんかであるものか、火事や地震や空襲でアトカタもなくなる泡みたいなものだ。土地だって流れ去ったり、海没したりする。

 

不変、不動のものなんか大宇宙の中にはもともとないものだ。

 

泡みたいなものにこだわって、せっかくほんの一時期、この世に存在したことが確かであるらしい自分の一生を、やりたいこともろくにやらずに終らせ、後悔をすることにも気づかなきでガタガタ騒いだだけではつまらない。それではいやだということに気が付いた人は、気が付いたその瞬間から、自分の残る時間をどう有効に活用するか、まず計画を練るという楽しみ、そしてその計画を実行に移していう喜びを、出来るだけたくさん味わうように努力しないではいられない。

 

この本に出会った、その気になれる人は、束の間の人生を楽しい内容で充たすことが出来、夢を限りなく追いかけ、現実のものにしていくことになるはずだ。

 

西丸震哉『山小舎を造ろうヨ』【中公文庫】 

 

大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS!

なぜか大急ぎでこの記事を書いているのだけれど、いま、書き始めてから30分が過ぎた。何も考えずに思い浮かぶものをオラオラとキーボードを鬼連打しているとこれくらいの分量は稼げるのだということがわかった(内容の質は不問!)。交通事故の怪我で自宅療養をしていた時期は結構つらく、関東圏は謎の低気圧に包まれて気持ち的にもあがることが少ない日々を過ごした。が、いま、横浜界隈は快晴に恵まれている。やっと夏らしくなってきたことがとても嬉しい。一度「当たり前」をロストすると、普通に歩けることだとか、腕や足が痛まないことだとか、空が晴れていることだとか、当たり前のことがものすごく輝いて見える。動けるようになったことが本当に嬉しい。同じ場所にずっといると何かが停滞をしているような感覚になる。自分の日々に風を吹かせよう。カラダを動かし、機会を見つけては遠出をしよう(軽い装備で)。

 

 

観念的になり過ぎると「脳みそにカラダが乗っ突れる」感覚を覚える。考え過ぎは良くない。己の小規模な思考に囚われて精神的な自由をロストする。逆に言えば、どれだけ気分が乗らなくてもゴリラみたいな顔をしながら全力で自転車をこげば「カラダに脳みそが乗っ取られる」逆転現象が起こる。やる気が出たからやるのではなく、やったからやる気が出るのである(のだと思う)。なんでもいいからやっちゃえばいいのだと思う。カラダが壊れている時は「やりたいけどやれない」苦しさに悶えていた。が、なう、これだけ自由に動けるカラダを再び取り戻すことができてとても嬉しい。カラダにありがとうと言いたい。思えば、よく頑張ってくれているカラダだと思う。臓器も筋肉も視力も聴力も24時間フル稼働で働いている。坂爪圭吾のカラダありがとうという気持ちになる。そして「これからもよろしく」的な気持ちになる。

 

 

猛烈に雑な文章になってしまったけれど、更新が滞るよりも「下手でも出す!とにかく出す!」ことが今回のゴールだったのでなう非常に晴れやかな気持ちになっている。先日、菊名の家に遊びにきてくださったお母様から非常にありがたいメールが届いた。正直に言えば、わたしはあまりひとと話すのが得意ではないというか好きではない(ひとりが好きだし静かな環境が好き)であるにも関わらず、なぜ、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】のような活動をやっているのか自分でもわからなくなる時がある(結構頻繁にある)。が、最終的には「ああ、これをやっていなければ絶対に合うことができなかった面白い目にあうために、俺はこれをやっていたのだな」というところに着地をする。目的も、手段も、いろいろなものはごちゃまぜでいいのだと思う。その過程の中で「それをやっていなければ絶対に合うことができなかった面白い目」に合うことができていれば、それこそが『最高な人生を送れている最大の証明』になるのだと思う。

 

 

圭吾さんこんにちは!

 

いつもごちゃまぜの家へ遊びに行かせていただいてありがとうございます!

 

かなり前になってしまったのですが、○○さん達とのタコパーの楽しい時間に思ったのですが、ごちゃまぜの家って独身とか主婦とかママとか肩書き一切関係なく、一生命体として関われるから良いなぁって思ったんです。

 

もう猫や虫すら会話に入れるんじゃないかってくらい。

 

普段、ママサークルだとか、婚活だとか、共通の肩書きや目的が無ければ集まりってない気がするのですが、ごちゃまぜはそういう括りがないのが良いですよね☆

 

でも肩書き関係無く集まれるのも、圭吾さんが肩書き無くいてくれるからですよね♡

 

みんなその肩書きの人を求めて来ているわけじゃないから。。

 

それってすごい事だなぁ。と思って改めて感謝しています!

 

鉄砲玉もいっぱい増えて、個性溢れるメンバーでますます楽しいですね♪

 

本当にありがとうございます!!

 

お返事は大丈夫ですので、お怪我が早く良くなりますように。。

 

○○○○

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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