星に願いを、花に祈りを。
明日土曜日の11時新千歳空港発の便で羽田に飛ぶ。現在は定山渓にいて、午後には札幌市内に戻るけれども何も予定はない。もしも「どうせなら会いましょう!」という方がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。札幌での日々が素晴らし過ぎて、これはもう是非とも札幌に(最初はどれだけ小さくても構わないから)拠点を構えたい気持ちになっている。もしも「空いている部屋なり庭なりスペースがあるよ!」的な方がいらっしゃいましたら、こちらもお気軽にご連絡をいただけましたら飛び跳ねて喜びます。私は現在、神奈川県横浜市でSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】なる活動(?)をやっている。小規模でもいいから、札幌市内でも同じようなことをはじめることができたら「いい感じの人生だなあ…!」と思う。
【クラウドファンディングを公開しました!】
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年4月3日
昔から「家族とはなんぞ??」という思いがありました。多分、私は『ごちゃまぜの家族』をつくりたいのだと思います。
ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://t.co/Syybr2HkPA
昨日、札幌市内でお会いした方が「ごちゃまぜの家を札幌でもやることになったら、その時は、手伝わせて欲しい。その理由はたくさんあるけれど、坂爪さんの文章を読んでいると『本当のことが書かれている』ような気がして、年齢を重ねるにつれて(自分も含めて)誰も本当のことを言ってくれなくなり、自分自身も『話したいことを話せている』感覚を覚えることは難しくなっている。そういう日々を過ごしていると、胸の奥底になにかが詰まっていくような感覚になる。この『胸の詰まり』を話す【離す】ことができるような場所があったら、どれだけ励みになるのだろうかと思う」というようなことを話してくれた。わたしは「ああ、わかるような気がするなあ」と思った。昨日の夜、定山渓の宿からひとりきりでツイキャス音声配信を行なった。その中で「話すという行為は『離す』という効果があり、言えるという行為は『癒える』という効果があるのではないか」といった内容の話を(ちょろっとだけ)した。
【音声配信】不幸でいる暇はNIGHT - TwitCasting
話すは『離す』、言えるは『癒える』
音声配信の中では「これまでのやり方が通用しなくなる」とか「世界はあなたの表面しか見ない。世界はあなたの内側を見ることはない。しかし、あなたが世界の内側を見ることはできる」とか「欲望の根源は、ただ、さみしかっただけ」など、そういう類の話をした。『さみしさ』は私自身も感じる部分が多大にあり、強い関心の対象になる。これを読んでいるひとは、さみしい時、その『さみしさ』とどのように向き合っているのだろうか。寝て忘れるのだろうか。食べて忘れるのだろうか。買い物をして忘れるのだろうか。それとも、(それがどういう意味なのかはわからないけれど)さみしさを味わうのだろうか。過去に「さみしさは、同じさみしさに出会う時、温もりを生む」という内容のツイートをしたことがある。問題なのは『さみしさ』などの感情を覚えることではなく、それを分かち合うひとが近くにいないということではないのだろうか、ということを思っていた。
夕焼けが沁みる季節だ。さみしさは、同じさみしさに出会う時、温もりを生む。さみしくなることは問題じゃない、多分、さみしさを分かち合えないことが問題なんだ。お互いを分かり合うことはできなくても、同じ感情を分かち合うことはできる。ひととひととの間にあるもの、それが人間を結ぶのだと思う。 pic.twitter.com/CY4xxCzYKc
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年8月26日
下手くそでも構わないから自分の思いを言葉にする【話す】ということは、その感情を「自分自身から離す」効果がある。逆に言えば、思考がまとまってから話そうとか、こういう思いを感じること自体を恥ずかしいことだと思って感情を打ち消そうとすると、その感情は自分の内部に蓄積をされて(最悪の場合は)腐敗臭を放つ。自分の思いを正直に『言える』ことの中には、多分、自分自身の思いが『癒える』効果がある。自分の本音を口にする機会が少なくなるほど、自分自身が表面的な存在になり、自分の本音を見失い、ひとと会う度に鈍い疲労感を覚え、誰とも『本当の会話』ができないような感覚に陥り、振り返ってみた時に『自分はなんのために生きていたのだろうか』的な最悪の感情を覚えることがある。
執着とは「失うことを恐る気持ち」だと思う。失うことを恐るあまりに、好きでもない人に好かれようとしたり、やりたくないことまでやってしまうのだと思う。失わない為にはどうすればいいかではなく、失っても構わないのだと思える覚悟【嫌なことには嫌だと言う勇気】が、閉塞感を打開するのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年6月20日
できることならば『本当の会話』を交わしたいと思う。からっぽで薄っぺらい言葉のやり取りではない、時に血【涙】を流すことになったとしても、温度感のある人間的な言葉のやり取りを交わしたいと思う。ここまで書きながら「勇気とはなんだろうか」ということを思った。多分、この世の中には様々な勇気があるのだと思う。いま、私が大事にしたいと思う勇気は『恥ずかしさを克服する勇気』なのだと思う。言葉にすれば幼稚な思いだ。幼稚で拙い思いだが、でも、かなりの効果がある言葉だと思う。自分のこころが「こんなことは恥ずかしいからできない!(BUT、本当はすごいやってみたい)」と思うことを、勇気を出してやってみる。恥ずかしいという理由でやめそうになったことを、実際に言う【実際にやる】ことの中には、多分、『胸の詰まり』を少なからず霧消する浄化作用があるのだと思う。
【過去記事】ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。 - いばや通信
神のおぼし(あふれ)飯。
毎度唐突の告知になってしまうのですが、明日9日(土)の午後から『神のおぼしめし』 なる無料炊き出し系の企画をSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で開催します。乱暴にまとめると「SCRAMBLE HOUSE TOKYOでは365日炊き出しが行われているような状態になれば楽しそうだなあと思っていて、料理を作りたいひとと料理を食べたいひとが適当に集まればいい感じのバランスが生まれて勝手にいい感じになるだろうし、営利活動としてやっている訳でもないのだから誰も来なければ誰も来なかったで何も問題はないのだからやろう」的な思いで開催をしています。詳細はリンク先のページをご覧いただけたら幸いなのですが、昨日、下記のような素晴らしいメールをいただいた(ことが開催の決定打になりました!!)。
【梨🍐を贈りたいです!】
坂爪さん、こんにちは!
ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか?
坂爪さんの予定を見たところ、明後日に「おぼし飯」なるイベントをやられるんですか?
どういうものかわかりませんが、このタイミングでうちの梨🍐をお送りしたいと思いまして!(本当は自分が行くのが一番良いんですが、都合が合わずで💦)
前に写真で送った梨の花たちが見事に実ってるんです今♪
ぜひ食べていただきたいので、宜しければ住所を教えていただきたいです(*^o^*)
世界は優しさにあふれている・・・ということで、梨を食べたい方(あるいは「時間もあるし手料理でもつくっちゃおうっかな!」と思われた神様)は、いつでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです(夜にはアコースティックあふれライブが開催される予定なので、遅目の参加も問題ありません)。家にあるものはなんでも使っていいということになっています。いつ来ていつ帰ってもいいし、言うまでもないことだけれど横になるのに誰の許可も要りません。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいいのだと思います。ひとが来すぎるとやばいという理由からまだ住所を公開できないでいるのですが、近日中には、住所も公開できちゃったらいいなあと思っています。
【EVENT詳細】【神のおぼしめし −GOD WILLING-】
今月は11日から九州、15日から四国、18日から再び九州、23日から東北界隈に足を運びます。近隣【半径5億キロメートル圏内】にお住いの方で「さかつめが来るなら何かをやるか」的な感覚になってくれた方は、いつでもお気軽にご連絡をください。月末の岩手県ではトークイベントに登壇(?)をすることになっているので、これを機会に「東北に行ってみるか!」と思われた方は、是非、来てください。そして「〇〇から来ました!」と当日話しかけてくれたら、小生、とても嬉しいです。軽やかな気持ちで、身軽な荷物で、長距離をふわっと移動をすると「爽やかな風が吹く」ように思います。
【EVENT詳細】 ごちゃまぜ茶会
星に願いを、花に祈りを。
長ったらしいこのブログ記事をここまで読んでくださったあなたのことが大好きです。わたしの趣味【カルマ】のひとつに「おはなをあげる」というものがあり、昨日も札幌市内で隙を見てはおはなを配った。おはなをあげると、自分で言うのもなんだけれど、こんなにもよろこんでもらえるのですね!とこちらの方がびっくりをすることは多い。みさなまにも、是非、おはなを配るということを日常的な習慣に取り入れてもらえたらこれ幸いと思う。おはなをあげるのに理由はいらない。出会い頭に「はい」と言って、ただ、真っ直ぐに差し出せばいいのだと思う。理由を聞かれた時も「おはなをあげたくなったから」と答えるだけで充分だと思う。多分、たったそれだけのことで空間全体が『いい感じ』になる。余裕がある時はメッセージカードのひとつでも添えて、是非、今日でも明日でも(騙されたと思って)おはなを配ってみてください。あわよくば、おはなを渡すという体験だけではなく「おはなを買う」という体験も、同時に味わって見てもらえたら幸いです。
昨日、札幌市内のドトールで待ち合わせた女性E様に一輪のはなをあげた。なんだかその方が想像以上に「おはな」の存在をよろこんでくれて、その日の夜に、E様からLINEでメッセージが届いた。そこには「お花をいただいて、生まれて初めて生まれてきたことを祝福されたと感じました」と書かれていた。この言葉を読んだ時に、ああ、俺は(最近は自分で自分のことをクソだとか俺がいない方が世の中はいい感じにまとまるのかもしれないなどと思う日々の連続だったりもしたけれど)意外といい仕事ができているのかもしれない、などと思った。最近は感情の激動の日々を過ごしていて、自分みたいな人間はいない方がみんな【周囲の人々】も幸福に生きれるのではないだろうかと、自分はただただ周囲を引っ掻き回しているだけなのではないだろうか、などと思うモードのど真ん中にいた。が、どれだけダメな自分でも「ひとの幸せを祈ることはできる」という思いに立ち返ることで、心の均衡を保っていた(節がある)。
おはなをあげるということは、祈りを形にした行為なのかもしれない。あなたが生きていることが嬉しいのだということを、目に見えない言葉だけではなく、目に見える形にして相手の目の前に差し出すということが、なにかこう『いい感じ』を生み出しているのかもしれない(と思った)。これまで出版社の方から「本を出しませんか」というオファーをいただいてもピンと来なくて依頼を受けることはなかったのだけれど、ふと、本を書きたいなあと思った。インターネット上の文字は、紙媒体とは違って「触れることができない」からこそちょっとアレだなと思っていた。本という形に乗せて自分の祈りを具現化しようと思う時、わたしは、そこにどのような祈りを込めるのだろうか。自分自身、自分が生む出すものに興味がある。わたしはパソコンを持っていない(手元にはスマホしかない)ために、さすがにスマホで長文を綴ることはできないからすぐに何かを書き始めることはできないけれど、何かしらの流れで「MacBookの薄くて軽い持ち運びもできる最新型のパソコン!」を入手することができた暁には、それは「書け」という合図【神のおぼしめし】だと思い、移動先のあちこちで一冊の本にまとめることができたらいいなあと思う。わたしにあるものは、多分、わたしはわたしであるということの一点に尽きるのだと思う。自分という個人の体験を『人類全体の体験として共有をする』域まで昇華できるように、家のない生活に突入をしてから(2年間各地を転々とした後に)家をもらうまでの流れ【ホームレスからホームモアまでの経緯】を、一冊の本にまとめてみたいと思う。
他人に対してできることがあるとすれば、それは「自分を生きる」姿を示すことではないだろうか。そのひとがそのひとであり続けようとすることの純然な輝きが、それに触れたひとの心情を熱く湧き立たせることがある。ただ生きる、自分を生きようとする方向に舵を取ることが、誰かの力になることがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2017年9月3日
こんばんは!
お花をいただいた嬉しさをお伝えしたくて、LINEしました。
私は、お花をいただいて、生まれて初めて生まれてきたことを祝福されたと感じました。
なにもなくても、そこにいていい。
なにもなくても、生きていていい。
どこがどうだからじゃなく。
私まるごと、そこにいてよくて、生きていてよくて。
突然、くす玉が割れて、全世界から、祝福されている気分なのです。
今、世界が「いかったねー」って、私に微笑んでいます。
今、猛烈に、生きたい、生きていたい。生きててよかった。生きていることを楽しみたいと思うのです。
そして、また坂爪さんと、同じ空を見上げ、同じ空気を吸いたいと思うのです。
今日、お会いできて、ほんとによかったです。
おやすみなさい🌙
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu