いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

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西表島から淡路島を経由して、関西空港から新千歳空港に向かう。各種SNSから「新千歳空港に行きます」という投稿をしたところ、札幌在住の男性から「空港まで迎えに行きますよ」というご連絡をいただき、お言葉に甘えて車に乗せていただく。北海道神宮前にあるスープカレー屋さん『SAMA』でスープカレーをご馳走になり、男性の友達を含めて総勢6人で話をする。札幌での予定は、宿も何も決まっていなかった。関西在住の方から「札幌で定宿にしているホテルがあるので、もしよろしかったら私がとりますよ」というご連絡をいただき、いま、そのホテルにあるWiFiを拾いながらこの記事を書いている。11時には車で迎えに来てくださる方がいるので、残り時間30分程度でこの記事を書けたら最高だなあと思う。本当に、いろいろな人の世話になりながら『運ばれている』日々のど真ん中を過ごしている。

 

恩返しという言葉がある。わたしによくしてくださる方々に対して、なにか少しでも恩返しをできたらと思う。でも、冷静になると「いままで受けた恩をすべて返すことなんてできない」ということを知る。自分にできることは、かつて、様々な人々がわたしによくしてくださったように、自分も「目の前にいるひとにできることがあれば、その都度、ささやかでもそれを実際にやっていくこと」なのかなと思う。そして、全然関係ないようにも見えるけれど「自分が自分の命をまっとうしようとすること。自分を生きるということ。生きようとする姿を示すこと。最後の瞬間まで自分を生かし尽くそうとすること」が、巡り巡って恩返しにつながることもあるのではないだろうかと、そういうことを考えている。

 

 

この数日間、感情が激動する日々を過ごしていた。多分、これは自分だけではないんじゃないのかなと思う。これが自分だと思っていた自分自身や自分の信念のようなものがグラつき、これまでの日々を疑ってしまうようなことや、自分や他人に対する自信のようなものを疑ってしまったり、虚しさにも似た感情を覚えて自暴自棄になりかけてみたり、忙しない日々を過ごしていた。生きているといろいろな感情になるのだなあと、どこか、遠くから自分を観察しては笑っているような自分の存在も感じる。このブログを読んでくださっているみなさまは、果たして、どのような日々を過ごしているのだろうか。調子は良いだろうか。それとも、激動の日々を過ごしているのだろうか。誰もがみな、表面的にはそれなりにうまく日々をやりくりしているように見えながら、でも、その内実は「いろいろな気持ちになりながら、誰もがこの瞬間をどうにかこうにか生きているのだ」と思えば、同じ人間なんだなあという親しみを覚える。

 

生きていることが嬉しい。

わたしは、自分の好きなひとに対して「生きているだけで嬉しい」という気持ちを抱く。もちろん、一緒の時間を過ごしているときはそれだけではない、この時間を有意義なものにしなくちゃとか、楽しいものにしなくちゃとか、いい感じのものにしなくちゃとか、頼まれてもいないのに勝手に肩肘を張って、そして、勝手に自爆をする(気を使いすぎて自滅をする)ことがある。でも、ひとりの時間を持ち、落ち着きを取り戻した時には「ああ、このひとと一緒にいられるということが、それだけで最高に素晴らしいことなんだな」という位置に立ち戻る。なにをするからではない、ただ、そのひとが生きているということが嬉しいのだと、瞬間に、空間に、温かな眼差しを向けることができる。優しい気持ちになる。一緒にいるこちらまで「生きていることが嬉しいのだ」と、そんな風に感じることができる。 

 

ひとと出会うことの醍醐味は、まだ、自分自身でも知ることのなかった自分自身に出会うということだと思う。淡路島での日々は、自分の中でも革命的な瞬間の連続で、これまで「自分はこういう人間だ」と思っていたいくつものことが柔らかに崩壊をした。ブログ記事にできること、言葉にして説明をできることは本当に僅かなものになるけれど、自分という存在は「もしかしたらもっと柔らかいものなのかもしれない」ということを思った。最近は、溶かすとか解れる【ほぐれる】とか、そういう感覚について考えたり実感をする機会が多かった。感覚的な話になるけれど、自分のこころが好きだと思うひとと過ごす時間は、自分のこころもほぐれ、穏やかな気持ちになり、大袈裟な言葉になるけれど「世界と融解をする」ような感覚になる。この感覚は『全体性』という言葉で言い換えることができるのかもしれない。

 

稀に、ひとの身体に触れながらマッサージのようなことをする時がある。その時、相手のことを思えば思うほど【相手の身体に没入(?)するほど】、わたしは「命をあげる」という気持ちになる。この感覚を説明することはとても難しいけれど、俺の命をあなたの身体に注ぎますと、俺の命なんてどうなってもいいのだから、それによってあなたの命が開くのであればこんなに嬉しいことはないのだと、そんなことを思う(ことがある)。これは、多分、自己犠牲的な意味でのそれとは大きく異なる。「命をあげる」という感覚になっている時、わたしは、不思議な話になるけれど「最高の命を使い方をできているなあ」という風に思う。自分なんてどうなってもいいのだから、この身体を、この命を、これのために使いたいのだと思わせてくれる対象との出会い。死ぬほど大袈裟な話になるけれど、あなたのためならば死んでしまっても構わない、むしろ本望であると思えるひととの出会いは、人生観を大きく変える。自分のために使っていた命を、自分以外の他のものに使いたいと思う時、この命は「自分だけのもの」ではなくなるのだと思う。

 

【過去記事】光の記憶 - Love is always with you - - いばや通信

 

足りないものはなにもない。

弱気になる時、それは様々なことが原因ではあると思うけれど、そのひとつに「自分にないものばかりを数え上げてしまっている」というものがあると思う。巷では、よく、やりたいことがわからないとかそういう話を耳にすることは多い。事実、自分自身も「俺はなにがやりたいのだろうか」と思い悩むことはそれなりにある。しかし、毎度のことながら、やりたいことを考えても思い浮かぶことは少なく、夢も目標も理想も特にないままに生きてきた(そして、これからも生きていくのだと思う)。昨日、ふと思った。やりたいことがわからないのは、欲しいものがわからないのは、それは「すでに自分のなかに備わっているものが大量にあるから」なのだと思った。自分の中にあらゆるものがすでに備わっているからこそ、自分の外側に「自分にないもの」を探したところで、見つかることは少ない。なぜなら、自分が欲しいと思っていたものは、すでに、自分のなかにはじめから存在していたから。外側に探しても見つけることができないものは、多分、それがすでに自分の内側にあるからなのだということを思った。

 

 

ー 迷い、悩む時、それは「自分にあるものを適切に使えていない合図」なのかもしれない。

 

 

大事なことは「探す」とか「見つける」とか「発見をする」とかそういうことではなくて、自分の内側にある【自分にすでに備わっている】ものを活かすことなのだと思った。そこで、わたしは紙とペンを用意して、自分にあるものを箇条書きでひたすら書いた。自分にあるもの、それは『自然』『花』『珈琲』『音楽』『海』『空』『森』『本』『友達』『落ち着き』『五感』『声』『切り替える力』『家』『勇気』『ユーモア』などなど。そして、最後に『言葉』と書いた。紙に書かれた言葉の羅列を眺めながら、ああ、俺は「自分にあるもの」ではなくて「自分の好きなもの(自分の中にある好きな部分)」を書いているなあと思った。そして、自分にあるものと自分が好きなものは、もしかしたら同義なのかもしれないと思った。これは大事なことだと思ったので、何度でも書きたい。自分にあるものと自分の好きなものは、もしかしたら、同義なのかもしれないということ。海とか空とか森とか、とてもじゃないけれど俺の中にあるもの【自分のもの】とは言えない。ただ、自分がそれを好きだと思っている間だけは、それは自分の内側でたしかに息吹き、自分の体の一部となって、自分を支える【自分を活かす】ものになるのかもしれない。 

 

 

ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

自分はこんなものだとか、自分のことをわかってくれるひとはいないだとか、そんな感覚に捕まってしまうことがある。多分、これはスネてしまっている【スネちゃまになってしまっている】だけなのだと思う。でも、本当はわかっているのだと思う。こころの奥底で望んでいることは、決して卑屈なままで生涯を終えることではない。スネている時間はないのだということを、本当は「自分を生かし尽くして死にたい」のだと、こころの奥底では望んでいるのことをわかっている。自分のことをダメだと思う感覚に捕まりそうになることはある。でも、いつまでもそこにいてはいけないのだと思う。そのままでは、自分の命に対して申し訳ない気持ちになる。この命は、自分の命であるように見えて「自分だけの命ではない」のだと思う。生かされることを待っている命、自分に役割があるとすれば、それは「こんなにも生きたがっている生命をしっかりと生かしてやること」なのではないだろうかと、そういうことを思うことがある。

 

スネている時間はない。自分にないものを数え上げているうちは、永遠に幸せになることはできない。必要なものはすでに備わっているということ。いまあるもので充分に幸せになることはできるのだということを、もっと、私達は信じていけるような気がする。いろいろなひとがいろいろなことを言うからこそ、迷い、恐れ、不安などの感情が生まれる。でも、静けさを取り戻すことができればきっとわかる。自分の内側のずっと奥の方にある声は、決して「お前はダメだ」みたいなことは言わない。心臓のビートは『生きろ』と刻み、全身に温かな血液を送り続けている。身体は生きる【生き尽くす】ように作られていて、アスファルトを突き破る雑草のように、ひとつひとつの障害を突き破るために命を燃やしている。

 

この数日間の日々の中で「自分というものは、もしかしたらもっと柔らかいものなのかもしれない」ということを思った。そして、淡路島にある森の中を歩きながら「ひとりひとりの中に神様はいて、それは『大丈夫だよ』と言っている」ということを思った。現在は9月7日木曜日の10時40分。あと20分でホテルの前に迎えの車が来る。わたしはまだ服も着替えていなければ荷物の整理もできていないままだ。ここまで書いたブログ記事を投稿して、今日という一日がはじまる。終わることのない時の重なりの中で、わたしは、何度もあなたのことを思うのだろう。自分と『あなた』の間にある境界線を、できることならば取り払ってみたいなどと思うのだろう。北海道の9月は嘘のように涼しく、今年もまた、ひとつの季節が通り過ぎていったのだということを感じさせる。

 

 

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ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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