いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。

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栃木県日光市を経由して、これから宮古島に飛ぶ。奥日光にある湯滝界隈の自然が素晴らしく、往復40分の散歩道は「歩くだけで魂が浄化される」的な感覚を覚えた。自然に還るということは「自分に還る」ということと似ているみたいで、当たり前のことだけれど「人間も自然の一部なのだ」ということを実感する。私は、多分、余分なものを持ちすぎていたのだと思う。季節は巡り、すべては流れている。いつまでも同じ季節のままでいることはできない。夏が過ぎれば秋が来て、冬の後に春が来る。そして、再び夏は訪れる。目の前にある夏は終わりを迎えるけれど、夏が来るということ【生命のサイクル】に終わりはない。季節が巡るように、多分、私達自身も巡り続けているのだと思う。生まれて来て、生きて、死ぬということを、この瞬間も繰り返して続けているのだと思う。

 

 

70卍間テレビの鎮魂的な意味合いも込めて「お骨をひろいに、いかんばなんね」という小規模な企画を立てた。多分、この世の中には『自然の摂理』とでも呼ばれているようななにかがあって、自然な流れに従っていれば物事はおさまるところにおさまり、逆に、自然な流れに抗うことで余計な問題が生まれたりするのだと思う。巷では、頻繁に「人生を変える」とか「世界を変える」みたいな言葉が使われる。しかし、人生は「変える」ものではなく「勝手に変わってしまうもの」であり、人生を変えるという言い方よりも『人生は変わる』と表現をした方が的確であるように思う。的確な言葉に触れた時、自分の内側から「ああ…」という言葉にならない感嘆の吐息が漏れる。そして、なにかがおさまる【腑に落ちる】感覚を得る。その時に感じる静けさの中に、生きて在ることの「切なさにも似た躍動」を覚える。

 

【70卍間鎮魂企画】お骨をひろいに、いかんばなんね。

 

奥日光の景観。

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絵的に素晴らしい湯滝。

 

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散歩道の木漏れ日が素晴らしかった。

 

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湧水で珈琲を淹れるのが好きで、 

 

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太陽が顔を出すと「祝福されているな」と思う。

 

「生きている」ということ。

強迫観念にも似た義務感を動機に、なにかをやりたくはないと思う。「これをしなければいけない」とか「あれをしなければいけない」というような精神状態の中で、なにか言葉を発したり、なにか行動を起こすようなことはできるだけやらないでいたいと思う。それは、多分、自然な流れに抗っているような感覚【不自然さ】を覚えるからなのだと思う。自分を変えるだとか、自分を変えたいだとか、そういうことではなく『自分は変わる』ものだと思う。季節は変わるように、世界は変わるように、この瞬間も自分自身【人生】は変わり続けているのだと思う。好むと好まざるとにかかわらず、私達は、いつまでも同じままでいることはできない。だからこそ、ほんの一瞬でもいいから「同じ気持ちになるために」言葉を発したりなにか行動を起こしたり、ひとと会いたいと思ったりするのではないだろうかと思う。

 

この文章を綴りながら「自分はなぜ、文章を綴るのだろうか」ということを考えた。私には言いたいことがあるのだろうか。私には訴えたいことがあるのだろうか。これだけはどうしても共有をしたいと思う出来事なり考え方なりがあるのだろうか。私は思う。私が文章を綴る理由はシンプルで、それは「生きていることを伝えたい」という単純な言葉で表現をすることができる。話していることの内容は、多分、実際はどうでもいいことなのだと思う。ただ、言葉を綴るという営みを通じて、いま、お互い【読み手と書き手】に同じ時代を生きているのだということを、自分は生きているのだということを、あなたは生きているのだということを、ただ、確認したいと思っているだけなのだと思う。私はあなたを見ている【あなたは私を見ている】ということに、ささやかな拠り所を見るのだと思う。そして、生きていることを確認し合う行為の総称として『コミュニケーション』という言葉はあるのだろうなということを思う。

 

小さなこどもと遊ぶ時、ああ、こいつらはおとなの視聴率さえあれば勝手にテンションがあがって勝手に満足をするんだなということを頻繁に思う。こどもたちは「見て、見て!」と自分の存在を猛烈にアピールする。なにかを言って欲しいとか、なにかをやって欲しいとか、多分、そういうことではなくて『純粋な視線(ただ、見ていてくれること)』を求める。誰かが自分のことを見てくれている、それだけのことが「生きる力」になることがある。これは多分、こどもだけに限らない【おとなも同じ】話だと思う。具体的になにか力を貸してくれるという訳ではない、ただ、誰かが自分のことを見てくれているのだと思えることが「生きる力【前に進むための力】」を生むことがある。逆に言えば、誰も自分のことなんて見てくれてはいないのだという感覚は、そのひとから生きる力を奪い、孤立する分離感を与え、冷えきった絶望感を残す。生きているということ、それは、自分のカラダの中にはあたたかな血が流れているということ。私は生きているということ。あなたは生きているのだということ。お互いの生存を確認する視線、私はここにいる【あなたはそこにいる】ということを確認する視線、それが「コミュニケーション」と呼ばれているものなのだと思う。 

 

わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。

生きているとはどういうことだろうか。私にはわからない。この「わからない」ということが、前向きな探究心や好奇心となって生きる方向に舵を取らせることもあれば、後ろ向きな猜疑心になって生きることが難しくなる方向【自分の人生や自分自身の存在を疑ってしまう方向】に舵を取らせることもある。わからないということは壮大な冒険のはじまりで、わからないということは「なんにでもなれる」という無限大の可能性がある。同時に、わからないということは心許なくて頼りなく、わからないということは地に足がついていないような感覚【うわついた不安感】を運ぶ。わからないことをわかろうとする強さだけではない、わからないことを受け入れる強さを、わからないことをわからないままにしておける強さを培っていけたらと思う。

 

 

 

わからないことをわからないままにしておける強さ、これは「何者でもなく生きる強さ」でもあるのだと思う。世間的な役割や肩書きなどを通じて自分を確認するのではなく、自分の外側に張り付いているものを通じて自分を誇示するのではなく、なにもかもを取り払った後に残る『生身の人間の部分』で生きるということ。何者でもない自分に耐えることができない時、誰かに「お前の役割はこれだ」と言ってもらうことでつかの間の安心感を覚えることはできる。しかし、小さな枠内に限定づけられた生命は「それだけじゃない!」という痛切な叫び声をあげ、自分はこれだけではないのだと、もっと生命全体として生きていきたいのだという悲痛な訴えを起こす。その訴えは肉体的な病気や精神的な疾患を通じてあらわれることもあり、限定づけられた生命は「おれをそこから出してくれ!」と嘆き悲しむ暴動を起こす。

 

 

自由とは「心の状態」だと思う。多分、自由になる道は二つある。ひとつは『壊す』ということ。「これが自由になれない原因だ」と感じるものを、自分の意思で壊し【潰し・殺し】にかかること。普段恐れていることをやることだとか、無理をしてまでなにか新しいことに挑戦をするとか、意図的になにかをはじめたりなにかを手放すということ。そして、もうひとつは『溶かす』ということ。肩の力を抜くということ、落ち着いた空間の中で、落ち着けるひとと過ごす時間の中で、いつの間にか自分の中で硬く凝り固まっていた部分が氷解をして、気持ちがほぐれ、溶け出し、流れ出し、気がついたらいつの間にかなくなってしまうということ。どちらの道がいいとか悪いとか、多分、そういうことはない。ただ、来る日も来る日も「変わらなくちゃいけない!」という形で自分を追い込み続ける日々を過ごしてしまっては、ココロやカラダはちぎれてしまう。なにかをしなくちゃいけないという思いからではない、自然と「なにかをやりたくなった」その時の感覚を、直感を、あたたかな触感を信じたいと思う。

 

 

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わからないことを、わからないままにしておける強さを。

 

人生は続く。

   

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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