いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

無駄に慰め合うよりも、一回死ね。

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広島県尾道市を経由して東京に入り、昨夜は、日本橋で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。私の場合、あらかじめ話すことを用意して何かを話すというよりも「簡単な自己紹介をしたあとは、質疑応答のような形で参加者のみなさまと対話を重ねるソクラテススタイル」で呼ばれることが多いのだけれど、イベント参加者や空間の雰囲気、その日の自分の体調次第で会場の空気感はものすごい変わる。
 
尾道のイベントは非常に素晴らしいものになり、私も、まるで菩薩のような気持ちで愉悦の時を過ごすことができた。しかし、場合によっては阿修羅【鬼】のような存在になってしまうこともあり、山口県光市や、昨夜日本橋で開催されたトークイベントでは、自分のお話会であるにも関わらず「黙秘権を行使する」という結果になった。私は、多分、「楽しかったね!」で終わることだけを良しとしている訳ではないのだと思う。偽りの言葉を口にして、自分を殺して愛想笑いを浮かべながら参加者のみなさまのご機嫌を伺い、表面的で当たり障りのない会話に終始して時間を過ごす位なら、お互いに多少傷つくことがあったとしても、地獄のような沈黙を経由した後に沸き立つ「自身の生き方や在り方に伴う根本的な問い」のようなものを共有したいと思っている。
 

自分の役割を認識する「校長先生、話が長いです」

最近、自分の役割とは何だろうかと思うことがある。私の場合、多分、それは「本音を伝える」ことだと思うことがある。例えるならば、小学校などの全校集会の際に、話の長い校長先生の話に誰もがうんざりしている中で、ある種の特攻隊長のようなものになって「校長先生、話が長いです」と実際に口に出して伝えてしまうことが、自分の役割なのではないだろうかと思うことがある。
 
多くの場合、校長先生の話が長くても「ちょっと我慢すればいい」とか「適当に聞き流す」などの形で、その場をやり過ごすのが賢明なのだと思う。話が長い人に「話が長いです」なんて言ってしまったら、人間関係に角が立つ。人間関係に角が立つくらいなら、ちょっと我慢をすればいいのだと考えるのは非常に賢明な処世術だと思う。しかし、私は、どうしてなのだろうか、言いたいことを言わないでいると精神的におかしくなる。精神的におかしくなることは嫌だから、思っていることは実際に口に出して伝えてしまう。すると、空間にある種の歪みが生じる。予定調和的なサムシングが破壊されて「おっ!」と会場全体に緊張感が宿り、これは、言い方を変えるならば「つまらないと思っていた空間が、瞬時に、ある種のエンターテイメントに変わる」のではないだろうか、みたいなことも思っている。
 
誰もが思っているけれど、言わないでいること(言わないほうがいいと思っていること)を、実際に口に出して伝えること。誰もが辟易している「話の長いひとの話を聞く」拷問的な時空間に、戦闘開始のゴングが鳴り響き、その場にいた人々も「あいつ、言いやがった!」と内面密かに盛り上がる。誤解を恐れずに言うと、自分が実際に口に出すことは憚られるけれど、誰かに代弁してもらうことでスッキリするということは、往々にしてあるものだと思う。私の役割は、多分、これだ。この瞬間の『言ったった!感』が私は好きで、だからなのだろうか、ある種のサービス精神やいたずら好きの小学生にも似た精神から「本音を口にする(積極的に予定調和を乱そうとする)」傾向が、私の中には確実にある。
 

本音はエンタメ【戦闘開始のゴング】になる。

昨夜、イベントの最中にちょっとだけ話の長い女性がいた。彼女は、最近、彼女自身が抱えている悩みや苦しみについてウジウジと愚痴のようなものを吐き続けていたので、私は「話が長いです」と実際に言葉にして伝えた。続けざまに「いまのあなたの姿は、私から見ると、非常に格好悪いものに見えます。初対面の人間が言うのは変なことかもしれませんが、あなたの底力は、そんなもんじゃないような気がします。多分、もう、悩むということは充分にやり切った感があると思うので、そろそろ腹を括ってみたらいかがですか?」みたいなことを伝えた。
 
誤解をされると困るが、私は、この女性(瞳の綺麗な美しい女性だった)を責めたい訳ではない。ただ、私には「無駄に慰め合うよりも、一回殺す」みたいなコミュニケーションを好む傾向があって、いつまでも親身に寄り添い悩みや苦しみを聞いていられるほど広いこころは持ち合わせていない。もっと言えば、悩みや苦しみの大半は『甘え』であり、本当は「誰かに頼ったり甘えたりしなくても、自分の中には、既に自分の力で道を切り開く能力が備わっている」ものだと思っている。だからなのだろうか、いつまでもウジウジと悩み続けるひとを見ると「お前はそんなもんじゃないだろう!」という愛の手裏剣をかましたくなる。
 
文章だけで伝えることは非常に難しいのだけれど、私は、根底に愛が流れている限り「何をしてもいい」と思っている節のある人間で、自分を過少評価している人間を見ると「生命を見くびるような真似はするな!」と、怒りにも似た感情が湧く。同じように、上から目線で物事を話すひとをみると「お前は誰だ!」と腹が立ち、人間関係には上も下もなく、あくまでもフェア、あくまでも対等、上から目線で物事を話す人や、あまりにも卑屈になっているひとを見ると「傲慢な人間だな」と思ってしまう。
 

被害者意識を喝破して、自分を生きる。

トークイベントなどに登壇する際、最も多く受ける質問は「不安になることはないのですか」というものになる。私は「ええっと、ありません」と答えているのだけれど、多分、定職も金も社会的な肩書きも何もない私は、不安になろうと思えばいくらでも不安になり得るのだと思う。ただ、不安にフォーカスをしていない(不安や恐怖心を抱えたまま生きていけるほど強い人間ではない)だけで、生きていれば様々なことがあるけれど、とりあえず、いま、無事に生きているのだから「何か問題が起こった時は、問題が起こった時に考えればいい」と思っている。
 
次に多い質問は「親はなんて言っているのですか」というもので、この質問を多く受けることにびっくりしている。これは私の憶測に過ぎないけれど、自分に何かやりたいことがあったとしても、親や周囲の人々が反対するからできないみたいなことが、現代社会にはたくさんあるのかもしれない。私の場合、非常にのんびりとした親に育てられたために「とやかく言われることは微塵もない」のだけれど、これは、非常に恵まれていることなのかもしれない。親や周囲の人間の過干渉に悩まされているひとは意外と多いみたいで、私は、率直に「(いろいろな人間の顔色を伺わなければいけないだなんて)気苦労の絶えない人生だな!」と思う。
 
他人との比較において苦しめられることもあるかもしれないが、自分は自分であり、他人は他人である。他人の幸福が自分の幸福と重なる時もあれば、他人の幸福が自分にとっては幸福でもなんでもなく、逆に足枷にさえなることもある。大切なことは「どれだけ足掻いても自分は自分でしかないのだから、無駄な比較や競争をやめて、自分は自分を生きる」と腹を括ることではないのだろうか。自分以外の何者かになろうとするのではなく、自分を自分以上に見せようとするのでもなく、ただ、自分は自分であると腹を括って生きている人間から漂う清々しさのような空気感に、私は魅力を覚えるし、そういう人間と同じ時間を過ごしていきたいと思う。
 

『ハンパな人生論より極道に学べ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮崎学著作『ハンパな人生論より極道に学べ』です。私が二十歳そこそこの頃、就職活動に専念をしている友人が「いまはいろいろなひとと会って話を聞きたいんだ」みたいなことを話していた。しかし、彼が話を聞いていたのは「いろいろな会社に勤めるひとびと」であり、つむじまがりの私は「本当にいろいろなひとの話が聞きたいのであれば、極道とか牧師さんとか少年兵の話を聞かなきゃ!」みたいなことを思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※
 
この時代、日常性のなかで高じるばかりのストレスの捌け口を、ひそかな不倫や浮気に求めるといったことは多々ある。しかし、一方ではその発覚を恐れ、ちゃちな罪悪感にとらわれて、あらたなストレスを抱え込むという悪循環にはまていく。その挙げ句の「失楽園」じゃあ、シャレにもならない。たかが「女を抱くこと」にさえ市民はタガをはめずにはいられないのである。
アウトローの発想、思考、行動様式はわけもなく、そうした情況を突破する。いともたやすく閉塞感に風穴を穿つ。私にはむろんのこと、アウトローを賛美するつもりもないし、「極道はおいしいぜ!」という気もない。が、日々「おもしろくねぇな」「なんとかならねぇかな」という思いを引きずりながら生きている〝いま〟の突破口は、アウトロー的世界にあるとだけはいえる。まずは本書でそれを覗き、あとは読者が判断すればいい。ー 宮崎学『ハンパな人生論より極道に学べ』【青春出版社
 
 

ダメじゃない!からのハグ。

本音で生きることにはある種の清々しさが伴うが、やはり、それに伴う反動も大きいためにすべてのひとに勧めることはできない。ただ、このような生き方しかできなかったからこそ「このような生き方をしていたからこそ、出逢えた素晴らしい瞬間がある」ことも確かだと思う。昨夜、イベントに参加してくれた女性が「私は自分に自信がない」みたいなことを比較的乱暴な口調で話していたので、私は「そんなことはないと思います」と伝えた。「自分はダメだと思うことはよくないし、厳しい言い方をすれば、それは傲慢な態度だと思う。私には、あなたがダメだとは思えない。あなたはあなたであり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。ただ、絶対に、ダメではないと思います」と伝えた。
 

私が「ダメじゃないです」と伝えると、女性は「もう一回言ってください!」と言って会場全体は笑いに包まれた。私は、もう一度「ダメじゃないです!」と伝えると、女性は「ありがとうございます!なんだろう、胸にじんわりとくるものがあります。あの、帰り際にハグをしてもいいですか?」と言うものだから再び会場全体は笑いに包まれた。私達は、約束通り(?)帰り際にハグを交わし、なんだかよくわからないけれどある種の清々しさに包まれて「ああ、今日も素晴らしい一日だったなあ」みたいな感覚を覚えた。
 

尾道で出会った女性は「さかつめさんは、この前のブログで『温泉になりたい』みたいなことを言っていましたが、私には、さかつめさんは『すべてのひとの中にある温泉を、掘り出してくれる存在』なのだと思いました」という言葉を与えてくれた。私は、ああ、なんて嬉しい言葉を言ってくれるのだろうかと感動をした。私の役割は、多分「本音を言うこと」であり、それが、結果として「すべてのひとの中にある温泉を掘り出す【自分には力があるのだということを思い出す】」ことになれば、これほど嬉しいことはない。ひとびとのこころの中にある温泉を掘り出すボーリング人間として、これからも、自身の生き様と言葉を武器(?)に、ああでもない、こうでもないとわちゃわちゃ騒いで行きたいと思う。
 

 
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人生は続く。
 
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静岡県熱海市伊豆山302
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楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。

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全然風邪が治らない訳だが、いま、山口県岩国駅から広島県尾道市に向かう快速シティライナーの車内でこの記事を更新している。北海道、福岡、佐賀、島根、山口、広島と立て続けにトークイベント的なあれこれに登壇を続けているものの、自己紹介が苦手な私は「三年ほど前から家なし生活をはじめまして、結果的にその生活は2年ほど続き、最初は東京からスタートしたのですが、やがて県外からも『交通費を出すから泊まりにおいでよ』などとお声をかけていただけるようになり、非常に有り難いことに一年間の間に47都道府県を制覇する形になりまして、2年目からは海外からも声がかかるようになりましていまでは20カ国近くに足を運びました」みたいな説明からはじまる。
 
「自分でもまさかこんな展開を迎えるとは思ってもいなかったので毎日ビックリしているのですが、都度都度、思ったことなどをブログ記事などに書いておりましたら、ブログ読者の方から『さすがに家のない生活は大変でしょう。熱海でもよろしければ家をご用意いたします』と連絡をいただき、なんと、その方に築89年の小さな古民家を購買していただきまして奇跡的に熱海に拠点を構えることにはなったのですが、基本的には呼ばれる限り何処にでも足を運ぶような生活を続けております」という説明で終わる。あとは、参加者の方から何かしらの形で質問が飛び出すことが多いので、それに答える形でトークイベントは進むことが多い。
 

いばや【とにかくやばいことだけをやる】

改めて文面に起こしてみると、我ながら、漫画みたいな日々だなと思う。漫画みたいな日々を過ごしていると、非常に有り難いことに、漫画みたいな出逢いに恵まれることが多い。私は「いばや」という名前の団体を3年ほど前から主宰(?)していて、これは「とにかくやばいことだけをやる」というコンセプトと共に、単純にやばいを逆から読んでいばやという名前にして、金になるかならないかは置いておいて「とにかく自分たちがこれは新しい!とか、これは面白い!と思ったことをやろう」と思ってはじめた団体になる。
 
最初は合同会社としてやっていたのだけれど、まるで金にならないから「法人税を払うだけ無駄だね」となり、今年の一月に会社としては倒産した。だけど、みな、とても仲が良いのでいまでもみんなで集まって何かをしたりしなかったりしている。いばやには複数人の男女がいて、これがまた非常に愉快な面々で構成をされていて、今回はいばやの男性陣3名が非常に私好みのイベントを立ち上げてくれたので下記にリンクを貼り付けて置きます。
 
【イベント詳細】0th「突破者はだれ」/TPD48
 
いばやの仮説のひとつに「自分たちがやっていることが未来にとって必要なものであれば、私達を見た誰かが『こいつらを死なせてはいけない!』となって助けてくれるだろう。しかし、自分たちがやっていることが未来にとってまるで必要のないことであれば、私達は死ぬだろう」というものがある。この考えは現在でも根本的には変わっておらず、何かをする代わりに対価を得る形で生き延びようとするスタイルではなく、損を承知で火中に飛び込み、あとはなるように任せる身体を張った生き方が主流の団体になる。
 

「生きろ」と言われる喜び。

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そんなんで生きていける訳がないよと言われ続けて早三年、ところがどすこい、この瞬間もしぶとく生き続けているのがいばやの面々であり、自身の体験を通じて「人生は意外とどうにかなるのだ」ということを実感している。基本的には定期的な収入とは縁のない生活をしているのだけれど、じゃあ、お金はどうしているのかと問われれば「みなさまからの施しによって生きております」としか答えることができない。私達の生き方を見て「あんたらみたいなひとが生きていけなくなったら日本は終わりじゃ。これ、とっておけ」みたいな形でお布施をいただくことがあり、私達は、それによって九死に一生を得続ける日々のど真ん中を過ごしている。
 
何かを売ってお金を得るという交換的な生き方ではなく、とにかく、身体を張って自分たちが「こっちだ!」と思った方角に突き進む。それを見たひとが「あんたらみたいな生き方を待っておったんじゃ!じゃけれども、そんな生き方では金も食料もなかろうもん。これ、使いなさい」と言って、何かしらの形で私達を生かしてくれる。言葉で伝えることは難しいが、最優先事項は「生きる」ことであり、私達を生かしたいと思ってくださった方々が私達を生かしてくださるおかげで、これからどうなるのかはまるでわからないけれどいまのところは死なずに生きていることができている。
 
私達には何もない。少なくとも、私自身には何もない。金も仕事も家もなく(家は1年前から与えられた)、あるのは脈打つ鼓動と肌の温もり程度のものであり、社会的に見れば格差社会の底辺を這うような生き方を続けている。しかし、こんな人間でも「あんたみたいなひとが好きだよ」と言ってくださるひとがいることは本当に嬉しく、生きる力をもらっている。同じように、私以上に愚かな生き方を続けるいばや男性陣の面々には、常に、勇気付けられることの多い日々を過ごしている。
 

損を承知で負ける側に賭ける。

私が魅力を覚えるタイプの人間は、宮崎学氏の言葉を借りれば「損を承知で負ける側に賭けられる人間」だ。見るひとが見れば、怒りの炎に駆られかねない生き方を続ける人間に、私は、長年勇気付けられてきた。そして、彼らと同じ時を過ごせること、喜怒哀楽を共にできることに大袈裟な言葉で言えば「生きていることの醍醐味」を感じるようにできている。
 
宮崎学氏は言う。
 
丸山眞男は、『現代政治の思想と行動』という名著のなかで、法的な秩序と無関係な次元で生きる「無法者」について述べています。彼は、「無法者」を否定的にとらえているのですが、私はもちろんこれを肯定的に考えるものです。以下に「無法者」のエッセンスを列挙してみます。言うまでもなく、これは私の生き方にまったく重なるものです。
一・市民生活のルーティンに埋没しない。丸山はそれを、「一定の職業に持続的に従事する医師と能力の欠如」と規定しているが、それはとりも直さず退屈な日常生活が嫌いであるということだ。
ニ・モノへの関心より人間への関心が強い。金より、人間関係を重視する。
三・常に非日常な冒険、破天荒の「仕事」を追い求める。
四・しかもその「仕事」の目的や意味よりも、そこで引き起こされる紛争や波乱のほうに興奮と興味を覚える。
五・公的な責任意識が欠け、その代わりに私的な、あるいは特定の人的な義務感(仁義)が、以上に発達している。
六・規則的な労働により、定期的な収入をうることへの無関心もしくは軽蔑。これはつまり、賃金や報酬の奴隷にならないということである。
七・最悪事態における思考様式やモラルが、物事を判断する日常的な規準になっている。そのため、瞬間的に善悪を判断し、きっぱりとトドメを刺す。
八・性生活の放縦、好きな異性と、好きなときに寝る自由をもっている。
このような「無法者」の生き方のほうが、私にはずっと人間らしく思えます。所詮、生まれて死ぬだけの人生。その間の時間はすべて自分のもの、どんなふうに生きようと、人生は一回きりなのです。それならば、興奮できる冒険的な人生のほうが楽しいに決まっています。ただし、こういう生き方をしていると、その反動は大きい。私の五十数年の人生を振り返っても、死屍累々、それはもう無残なものであります。それでも私は、「突破者」としての自分の人生をまっとうしたい。
もし「たった一つだけ、突破者の条件を挙げてくれ」と問われれば、私はためらわずにこう答えます。それは、「損を承知で負ける側に賭けられるかどうかということや」と。もちろん、私のこんな生き方を人に強いるつもりはまったくありません。ただ、突破者として、こんな生き方を楽しんでいるのです。どちらがよい悪いというのではなく、それを選ぶのは自分自身。ですから、「無法者」だろうが「市民的人間」だろうが、自分の人生で生じたことは自分で責任をとらなければならないのです。ー 宮崎学宮崎学の兵法」【サンマーク出版
 
西郷隆盛の言葉に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)をともにして国家の大業は成し得られぬなり。」というものがある。金でも名誉でも動かない人間を動かすもの、それを共有できる人間とだけ、分かち合うことのできる素晴らしい宝物がこの世の中にはあるのだということが、感覚的にだけれど、私にはわかる。
 
 

『インド放浪』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、藤原新也著作『インド放浪』です。こちらの本は、先日、島根県津和野町でお会いした方が「さかつめさんにおすすめです!」と譲ってくださった一冊になります。ご希望される方(インドに興味のある方!など)は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※
 
この「インド放浪」は、私が二十三歳の時、はじめてその熱球の下の大陸に遊んだ時の記録である。はじめて、その土地を踏んだ一九六〇年代の終りのころ、日本はちょうど高度経済成長の最中だった。物質的な豊かさを求めて、誰もが一生けんめいに働いていた。この国の近代化と、経済の豊かさを求める過程において、失われて行くものも多かった。そして、社会は管理化されつつあった。管理化のシステムの中で人間的なる息吹は隠滅され、それに対する抵抗もあった。そういう状況の中で、私ば大学を捨て、自分の経歴のすべてを捨て去るようなかたちでインドに行った。この国は貧困であった。ただ、そこに私が見たものは、その物質的貧困と同時に、あの、我々が今現在失いつつある、熱、であった。つまり、ちょうど日本では、この熱という一つの生命の根本が、何か巨大なものによって管理されて行こうとしている最中だったから、私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生きものの命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の存り場所もはっきりと見ることができた。それは、私の二十代の一つの革命だった。ー 藤原新也『インド放浪』【朝日新聞社
 
 

楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。

西郷隆盛は「徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から得ることを損とした。いまは、まるで正反対だ。」と嘆いたと聞く。この言葉を読んだ時、結果論ではあるけれど「いばやの男性陣と同じことを言っているじゃないか!」と、私は強い感動を覚えてしまった。現代を生きる無名の人間たちの感覚的な生き方が、結果的にいにしえの聖人と被ることがあるのだという事実(あるいは単なる勘違い)を前に、私達は震えた。
 
生きる上で何を大切にしたいと思うのか。ひとによって答えは異なり、何がよいとか悪いとかはなく、多分、こういったものは「趣味の違い」程度のものでしかないのだと思う。ロック音楽を好きなひとが、ボサノバやクラシックを好きだと話すひとを罵倒するのはお門違いで、ひとにはそれぞれ心地のよいものがあり、自分と同じであることを相手に求めるよりも「自分の好きなことを個々人が勝手に楽しんでいれば、結果として同じ趣味を持つ者同士が類友的な眼科で集まって盛り上がる」ことになるのだと思う。
 
他人の生き方をああだこうだと言う前に、自分を真剣に生きること。他人を変えることにエネルギーを注ぐ位なら、自分が「これだ!」と思う道に集中すること。私は、自分と同じであることを他人に強制したいとは思わない。誰かを否定したいとも思わないし、自分の生き方を「これが正解だ!」なんて言い切ることは、とてもじゃないけれどすることはできない。ただ、分かり合おうと努力しなければ維持することのできない関係性よりも、はじめから同じ趣味を共にする者同士、楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだと思っている。
 

 
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人生は続く。
 
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いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。

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福岡を経由して佐賀県武雄市にはいり、過去に非常にお世話になった方々と夕食を共にした翌朝、電車を乗り継いで島根県の津和野町にきた。見事な紅葉である。先日は、津和野町で開催されたお話会的なサムシングに登壇(?)をしたのだけれど、参加者の女性から「さかつめさんの空気がきもちよすぎて、もっと一緒にいたかったです!」とか「お肌綺麗ですね!」とか「お顔もお顔以外も美しいですね!」みたいなことを言ってもらえて、ああ、死んでもいいと思った。
 
 
世間的な肩書きはなにもない私だけれど、これから、職業を尋ねられた時は「温泉です」と答えようかなと思った。そう、それはまるで温泉のようにその空間にいるもののこころとからだを問答無用でほぐしてしまうような存在、そういうものにわたしはなりたい。そういうものにわたしはなりたいと思っていた矢先に、昨夜、早速ある方とひと悶着を起こしてしまって、宿泊を予定していた場所を放り投げて真夜中の山口県内を3時間ほど歩き、結果的に真っ暗な山間部で野営をした。最初はルンルンで夜道を歩いていたものの、途中、もしかしたら猪が出てくるかもしれないという妄想が頭をもたげてからは恐怖心の虜となり、木の葉が落ちる度に「うわああああああああああああ!!」とか「やめろおおおおおおおおおおお!!」などと、情緒を不安定にしていた。
 

野生の勘を取り戻せ!

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結果的に体調は悪化して、微熱と咳は止まらず、意識は朦朧としていて、下腹部には謎の蕁麻疹が出てきたり(風邪薬を投入したからなのかもしれない。薬との健全なお付き合いを見極めていきたい)、割りと散々な目にあっていたけれど元気だ。これは、多分、神からの「初心を思い出せ!」という合図なのだと思う。家のない生活をしていた頃、あの頃は、いいこともあったけれど悪いこともそれなりにあった。ただ、悪いことがあったからこそよいことがより一層際立って見えるものであり、文明の力、金の利便性、布団や風呂の有り難みなど、当たり前がいかに当たり前でないのかということを全身で痛感した。
 
移動を続ける生活、ひとに会うことの多い生活を続けていると、それなりに「人間の本性を読み取る能力【動物的な勘】」のようなものが鍛えられているような感覚を覚える。そのひと自身の一挙手一投足、言葉の使い方、声の抑揚、姿勢、瞳の輝き、服装、表情の均整や歪み、そういったものから「ああ、このひとは自分を自分以上に見せたいんだな」とか「ああ、このひとは自分のことが嫌いなくせにプライドだけは異様に高いんだな」とか「ああ、多分、このひとはひとをすぐに裏切るぞ」とか「ああ、このひとになら騙されても構わない」とか「ああ、このひとは自分で自分に超絶OK!を出せているからこんなにも魅力的なんだな」みたいなことが、少しずつわかるようになってきたように感じる。
 
私は、多分、そのひとが話している内容そのものではなく「どのような温度で話しているか」を聞いているのだと思う。表面的には「YES」と言っているようなことでも、そこにそのひと自身の血が通っていなければ、私には「NO」を言っているように聞こえる。何を言っているのかではなく「どのような気持ちで言っているのか」に重点を置いて聞いているのだけれど、その嗅覚というか、その違いを見極める力が(少なくとも数年前よりは)身についてきたので、それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、嘘を感じる空間にいると「無性に居心地が悪くなる」病気のようなものになってしまった。
 

「修行」と「遊び」のハイブリッド。

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私は大袈裟な人間だから、聞きたくない話を聞いていると「耳が腐る」と思ってしまうし、見たくないものを見ていると「目が腐る」と思ってしまうし、自分の気持ちをごまかしていると「心が腐る」と思ってしまう。だからなのだろうか、自分や他人を欺いているひとと同じ空間にいることができず、逆に言えば「自分の状態がよかろうが悪かろうが、それを素直に認めて、それを率直に言葉にできる」ひとと出会うと嬉しくなる。人間としての純度とでも呼べばいいのだろうか、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けたひと、私は、そういう人たちのことを敬意を込めて「天然記念物」と呼びたいと思う。
 

 
移動を続ける生活は、私にとっては「修行と遊びのハイブリッド」のようなものであり、この生活に鍛えられている部分も大量にあり、この生活によって得られた恩恵も大量にある。その、最も素晴らしい恩恵のひとつが「天然記念物との出会い」であり、現在では絶滅危惧種になっている『自分純度が死ぬほど高い人々』との遭遇の中には、いままでの日々を大きく肯定してくれる力がある。自分がどれほど体調を崩して寝込んでしまっているような時でさえも、こういう人々と電話などで話をすると「あらゆる出来事を前に人間が選択できる道は泣くか笑うかの二者択一であり、泣くのはダサい、何かのせいにすることもダサい、俺は、ただ、こういう人達と一緒に笑っていたかったのだ」ということを思い出して、もりもりっと元気になる。
 

 
生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
 

男は女に許されて生きている。

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前回のブログ記事で「おはなをあげる@福岡」を開催する旨を告げた。驚いたことに、開催二時間前の告知であったにも関わらず10名以上の方々が足を運んでくださり、別れ際に「これを受け取ってください!」と、手紙と一緒に飴玉をくれた女性もいた。手紙をあけると、そこには非常に可愛らしい文字で「いつもありがとうございます。」と書かれていて、ありがとうございますはこちらこそです!と、泣けた。
 
 
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佐賀県武雄市では、小学四年生の女の子と同じ布団で寝た。寝る前にラジコンで遊び、眠り、目覚めてすぐにバトミントンとボール遊びをした。帰り際、女の子が「これ」と言って手紙をくれた。そこには「さかなのかんづめへ(多分、坂爪ということなのだと思う)。どこに行ってもがんばれ!」と書かれていて泣けた。手紙の裏には「じゃあね」と書かれていて、なんというかもう、自分はこういう類の優しさに弱いのだと改めて痛感をして、腹が温かくなるような感覚に包まれて、少しばかり泣けた。
 
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津和野町の翌日は、山口市阿東町「地球食堂」でお話会が開催された。
 
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店主のMさんの笑顔がお世辞抜きに可愛くて、一緒にいるだけで多幸感に満ち溢れてしまった。私は(初対面のひとの前では)決して口数の多いタイプの人間ではないけれど、でも、それなりにそのひとが持つ「隠された優しさのようなもの」を敏感に察知するようにできているみたいで、Mさんの底知れぬ大海のような愛の器に、なんというかもう、山口県に来て本当に良かったという気持ちになった。
 
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店内に掲げられていた看板には「愛がとう。」と書かれていて笑った。Mさん曰く「愛がとうと言われて、嫌になるひとはおらんじゃろ」ということで、おっしゃる通りだと思った。私は、これら一連の流れの中(及びいままでの人生全般を振り返ってみた中)で、ああ、男は女に許されて生きているのだなということを思った。うまく言葉にすることはできないけれど、女は、男のダメなところを受け入れ許して支えてくれる。その支えによって、いま、男【少なくとも自分自身】は好きなことができているのではないだろうかということを感じた。
 

マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』です。私は、この生活の中で、多分、何人もの「日本のマザーテレサ」と出会ってきたのだと思う。何か大きなことをやるだけではない、小さなことにこころを込めてやることの大切さを教えてくれたのは、彼女たちの存在だった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、山口県にわたりました ※※※
 
人々は時に、食べ物以外のもので飢えていることがあるものです。私たちの子どもたち、夫、妻は食物、衣服、住む所に飢えてはいないでしょう。でも、彼らが一人っきりで淋しく、見捨てられ、無視されている結果、愛情に飢えていないとは断言できないのです。こういう貧しさも存在しているのです。
私たちは忙しすぎます。だからお互いを見つめ合う時間も、互いにほほえみ合う時間も持ち合わせていないのではないでしょうか。
政治家たちは、謙虚にひざまずく時間をもっともっと、ふやさないといけません。そうしたら、きっと彼らはより良い政治家になると、私は信じています。
私が喜びという時、それは、大声で笑うこと、馬鹿騒ぎをする状態を意味していません。それらは真の幸せな状態とは異なります。人は、笑いとか馬鹿騒ぎで何かをごまかそうとすることがあるものです。
きわめて安楽な生活、ぜいたくな生活のできる人々がいます。それは彼らが努力した結果手に入れた特権と言えるでしょう。私が怒りを覚えるのは、無駄遣いです。まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。
私は、一対一のパーソナルな触れ合いが大切だと信じています。
私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。
何度でも飽くことなく繰り返して言います。貧しい人々が最も求めているのは、憐れみではなく愛なのです。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、他の人間のそれと全く同じ質と量の尊厳なのです。ー 渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』【PHP
 
 

いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。

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高知県在住のSさんは私の姉御的な存在で、Sさんは、私とたいして年齢は変わらないくせに私のことを「孫」と呼ぶ。そして、自分のことを「祖母」と呼び、愛に満ち溢れている自分の能力を「祖母力」と呼んでいる。私はSさんのことが大好きで、時折LINEなどで会話をするのだけれど、私の祖母は日々に何かしらの出来事が生じた時や、新しい刺青を入れた時などは私に連絡をしてくださり、私は、その美しさを前に「かっこいいですねーー!!」などと感嘆の声をあげたりしている。
 
最近、祖母にはとてもいいことがあったみたいで、孫としてもとても嬉しい。祖母にまつわるエピソードは108個位あるためにとてもじゃないけれどすべてを紹介することができないのだけれど、彼女は、私達が暮らしている地球のことを「この世ランド」と名付けている。俺たちはこの世ランドにパスポートを持って遊びに来ているお客さんのようなもので、何をするのも自由、この世ランドにはいろいろな不思議が隠されていて「感情を先取りしたら、すべての現実が追いつくのがこの世ランドの仕組み」であることを教えてもらった。
 
目で恋に落とし
耳に愛をささやき
頭から離れさせず
心を奪い
胸で抱きしめて
尻で敷く

女の六段活用じゃ
覚えとけ 試験に出るぞ

by 祖母
 
祖母からはいろいろなことを教わる。最近、素晴らしい出会いに恵まれたらしい愛する祖母は「いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ」という名言を残した。私は、端的に、なんてかっこいい女なのだろうかと思った。そして、私は、思う。どのような生き方でもいいから、胸を張って、ただ、どーんと構えていればいいのだ。人間の生き方に正解はないのだから、多分、人間の生き方に間違いもないのだ。どのような生き方でもいいから、自分が自分であることに胸を張り、正々堂々、ただ、どーんと構えていること。それだけのことで、以外と、いろいろなことはスムーズにまわりはじめるような気がしている。
 

 
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人生は続く。
 
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。

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北海道を経由して福岡にはいり、今夜は「おはなをあげる@福岡」というイベントを勝手に開催する。初対面の方々に自己紹介をする際、社会的な肩書きのない私は「二年間程度、家のない生活をしていました」とか「みなさまの施しで生きております」とか「何もしていません」とか言うのだけれど、大概の場合は怪訝な顔をされて終わる。しかし、昔、洞窟に住んでいた時期があるという話をすると若い男の子たちにはウケることがわかった。
 
【イベント詳細】おはなをあげる@福岡
 
昔から、どうやって稼ぐかということよりも「どうすれば稼ぎが少なくても生きられるか」ということに興味があり、その第一弾(?)としての『家なし生活』だった訳だけれど、これからも根本的な部分は変わらないのだと思う。多分、起業家【独立した人間】には二種類いる。あらゆることを器用にこなせる優等生タイプの起業家と、あらゆることをやってみたものの何もかもが全然ダメで、結果として「自分でやらざるを得なかった」ゆえに起業家になった【奇跡的にオリジナルな生き方を発掘した】人間の二種類で、私は(起業家ではないけれど)完全に後者だ。いろいろなことをやってみたけれど全然まともに生きていける気配がせず、他人の言うことを聞けず、マニュアルが大の苦手で、集団行動がとれず、愛想笑いをすると死にたくなり、自分を殺して生きるくらいなら自分を出し尽くして死にたいと願うような人間で、だからなのだろうか、現在は、自分でもあまりよくわからない生き方をしている。
 

「何が起こるかわからない」を愉しむ。

トークイベントなどに登壇をすると「夢は目標はありますか?」と尋ねられる。私には、夢も目標もないために「夢も目標もありません」と答えると、質問者にびっくりされることが多い。でも、やりたいことも特にないので「やりたいことも特にありません」などと答えたりすると、じゃあ、なんでそんなに元気なのですかというようなことを聞かれる。自分でも自分のことがあまりよくわかっていないから「なんでなんだろう。なんでだと思いますか???」と逆に尋ねたりするのだけれど、そんなことを聞かれても困ると思うので、改めて自分自身の嗜癖と言うか傾向を振り返って見た。
 
多分、私は「何が起こるかわからない」という、想定の範囲外の出来事に触れることが好きなのだと思う。家のない生活も、いまのように「あらゆる個人情報を晒して生きるスタイル」なども、家がある時よりも(自分をクローズドな状態にしている時よりも)面白い目に会える可能性が高まるから、多分、このような生活をしているのだと思う。言い換えるならば「面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置く」ことには興味があるけれど、そこで何が起こるかということに対する期待やコントロールは何もない。期待やコントロールを超えた出来事に遭遇できた時、私は、ああ、このような生き方をしていた良かったと心の底から思うことができる。
 
「面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置く」という言葉は、我ながらほんとうにそうだなあと思っていて、熱海の家を開放しているのも「その方が面白いことが起こりそうだから」という理由に尽きる。決して社会的に良いことがしたいとか誰かを救いたいとかそういう思いがある訳ではなく、どこまでも、自分自身のためにやっている部分が強い。ただ、自分自身のためにやっていることが結果として誰かの力にもなることがあるのだとすれば、それは本当に素敵なことだとは思う。素敵なことだとは思うけれど、それを目的にしてしまうと何かがズレてしまう気がするので、あくまでも最優先事項は「自分が面白いと思ったことをやる」にしていたいとは思っている。
 

ラッキー!【誰かの幸福は副産物】

自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしないこと」というものがある。過剰な使命感や正義感は「価値観の押し付け」的な暴力を生みやすいし、私は、自分と同じであることを誰かに強要したいとは思えない。ただ、自分のために生きることが、結果として、誰かのためにもなることがあるとすれば「ラッキーパンチだ!ありがとう!」と思うし、もちろんそのことに対する強い嬉しさや喜びもあるのだけれど、あくまでもそれは副産物である【数ある『面白い目』のひとつに過ぎない】のだと思う。
 

このような生活をしていると、普段は出会うことのない様々なタイプのひとたちと出会う。そんな方々から「いままでは自分の境遇を嘆いたり自分で自分に同情してしまうことも頻繁にあったのですが、さかつめさんみたいに家も金も仕事もなにもない癖に元気に生きている(失礼!)ひとがいるんだって思うと、自分も人生を愉しみたいって思うようになりました」なんて言われてしまうと、おお、友よ!(お互いにイロイロなものがないけれど、まあ、明るく楽しく生きていこうじゃないか!)という気持ちになる。この時に感じる感覚はとても清々しく、非常に爽やかな風が吹き抜けるために「ああ、このような生き方をしていてよかった」という気持ちになる。
 

「鉄砲玉48」というアイデア

前回のブログ記事でも書いたように、熱海の家がなくなるかもしれない問題はなにも解決していないのだけれど、前に、天然記念物的レベルでどうしようもないひとたち(失礼!)を集めて『鉄砲玉48(仮)』みたいなグループを結成したらどうなるのだろうかと考えたことがある。とりあえず住む場所と食べるものはあるのだから、みんなで簡素な生活を続けながら「人手が足りないからちょっと手伝ってよ!」みたいな声がかかれば、世界中どこでも実際に足を運んで無給で働く(ここ大事!無給は大事!まずは自分の身を粉にすることからはじまる)御用聞きみたいなことをやれば、新しい人間関係も生まれ、経験の幅も広がり、謎の技術も徐々に身につくなど、それなりに楽しく生きていけるのではないだろうかと思った。
 
 
しかし、私には管理能力がないので「誰か、女中さん的なひとが(複数人の交代制ででも)熱海の家を取り仕切ってくれたらいいのになあ」などと甘い妄想を抱きながら、このアイデアは未だに眠り続けている。最近では「ひとりでは難しく感じることでも、みんなでやればどうにかなる(どうにかなるばかりか、想像を超えて楽しくなる)」ということを感じていて、学校教育とか、子育てとか、老人ホームとか、孤児院とか、介護施設とか、限定的で閉ざされたコミュニティ内で(ある種隔離をしながら)抱え込むことよりも『社会全体で共有してしまう』ことの中には、なにかしらの突破口が隠されているような気がしている。
 
ジブリ映画『風立ちぬ』に登場するカプローニは「センスは時代を駆け抜ける。技術はその後について来るんだ」と言っている。大事なことは、多分、センスだ。いまはまだ名前のつけられていない、名前がつけられていたとしても社会的に低く見積もられてしまうようなことでさえも、そこにセンス【新しい組み合わせ】を上乗せすれば、きっと、世の中をひっくり返しちゃうような(別に世の中をひっくり返したい訳ではないけれど)何かを生み出してしまうことはあるのだと思う。自分を変えたいと思う訳ではないけれど、自分が変わっていく姿を見ることの中には楽しさがある。自分を大きく変えちゃいそうなこと、自分を面白い目に遭わせてくれそうなこと、面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置くこと、多分、私の興味はそこにあるのだと思う。
 

『突破者の母』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮崎学著作『突破者の母』です。前述したように、このような生活を続ける中で、時には「極道の親元で育ちました」とか「自分は昔はヤクザでした」と話すひとたちと稀に出会う。私が出会ったひとたちに限る話になるけれど、彼らは、一様に『非常に魅力的な人柄の持ち主』だった。その理由が、この本の中で見事に言語化されているような気がしました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※
 
極道の世界は「男の花道」がどうの「男ぶり」がどうのと、ことあるごとに「男」を云々する男臭い世界であるが、実は母性原理に貫かれた母系社会的な要素がきわめて強い。男たちは「人は一代、名は末代」などと勝手なことをいいながらおのれの面子や名分にこだわって游俠の限りをつくす。そして、喧嘩沙汰で命を落としたり放蕩の果てに窮死したりで、多くが若死にする。その男たちの精神的な拠り所となっているのは「母的なもの」である。
この社会には必ずグレートマザー的な女性がいる。その大いなる母が死んでいった男たちの死を癒し、男たちの勲を語って伝説化・神話化していく。男の馬鹿さ加減に半ばうんざりしながらの営為であるのだが、その母性に支えらえて男たちはひたすら跳ねていくわけである。典型的な男尊女卑の世界のように見えながら、女の存在は物心両面にわたって実に大なるものがあるのである。
生きることを媒体としていた昔のヤクザの女は、男が生きてゆくために一つの重要な役割を確実に果たしていた。それは、何かにつけてはヤクザな男たちの武勇伝に尾ヒレを付け、ついには伝説にまで仕上げてしまうことだ。それは、体を張って生きている者にとっては勲章をもらったようなもので震えがくるほど嬉しいことなのである。
だいたいにおいて、アウトローというのは失敗に失敗を重ねながら生きているのであって実はそんなに立派な生き方をしているわけではない。それを周りの女たちが褒め讃え美化してくれるおかげで、アウトロー的モラルのタガがはめられて共同体の成員としての自覚が培われて行くのである。つまり、その美談が本人の耳に入り女たちが美化したような人間になろうと努力する。そういうふうにしてアウトローとして徐々に純化してゆくわけである。
「馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て」ー 宮崎学『突破者の母』【徳間文庫】
 
 

馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。

昔から、既存の生き方にうまく馴染めなかった私は、結果的に「自分なりの生き方を自分で築き上げる」ことになった。言葉にすれば格好良いものに響くかもしれないけれど、道中は(現在も)それはそれは悲惨な出来事の繰り返しで、何度も「ああ、俺はクズだ、死んだほうがきっといいんだ!」と思わされることの連続だった。しかし、そんな時でも、自分と同じようにどうしようもない生き方をしてくれているひとの存在(失礼!)は、大きな慰めとなり、大袈裟な言葉で言えば『生きる力』になっていた。
 
現在も、諸事情で色々と滞納をしている諸々のアレは大量にあるが、そのような中で「おはなをあげる」とかやっている自分はいったい何がやりたいのだろうかと自分を疑ってしまうこともあるけれど、そのような時ほど「他人の借金を返すために自分が借金をしてお金をあげた」女性の存在や、「三ヶ月電気代を滞納していて家が暗くて、臨時収入で8000円貰ったけれどそれじゃ全然足りないと思って中目黒に行ったらパチンコ屋が数店あって『私は前のめりに生きたいから、一番前の店にはいる』と決めてパチンコをしたら、四万円近く勝ったから電気代を払えました!」みたいな話を聞くと、なんだろう、物凄い元気になる。
 
多分、世間的に言えばこういう生き方は「おそろしく間違っている」ことなのだと思う。しかし、私は「間違っていることは百も承知で、でも、そういう風にしか生きれなかった」ひとたちの存在が本当に好きだ。多くのひとから見て正解とされるような生き方はできなかったとしても、そのひと自身が思う『正解』を生きることができているひとに、私は、最大限の敬意を込めて拍手を贈りたいと思う。自分で自分を許せない時期はつらいが、自分の心が軽く扱われてしまう時期はつらいが、あまりにも味方が少なすぎる故に自分を信じることが難しい時期はつらいが、それでも、泣く道ではなく『笑う道』を選んだひとの姿に、私は、いまもまだ全然治らない鼻風邪に悩まされつつも強く勇気付けられている。
 

 
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人生は続く。
 
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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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ひとにはそれぞれの役割がある。

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北海道で、素晴らしい出会いを果たしている。いま、私は、熱海にひとつの拠点を構えている。家のない生活を2年間程度続け、それと並行してこのブログ【いばや通信】を書きはじめたのがいまからおよそ3年前、このブログを見てくださった方から「さすがに家のない生活は大変でしょう」と、完全なる御厚意で熱海に家を用意していただいたのが、いまからちょうど一年前、2015年の12月になる。

私は、完全なる御厚意で与えられたこの家を「自分のためだけに使うのは何かが違う気がする」と思い、泊まりたいひとがいれば泊まっていただき、何かを食べたいと思うひとがいれば(家に食料がある限り)自由に好き勝手に食べてもらい、イベントスペースなどで使いたいひとがいれば使っていただき、各種無料のイベントを企画したり、わたり文庫やわたり食堂に代表される「大袈裟な言葉で言えば『循環型』の試み」を実験的に行うになった。

熱海とニュージーランドの架け橋。

この家が、いま、もしかしたらなくなるかもしれないという状況に置かれたのが先月の出来事で、私は「自分の力だけで解決をしようとするのは違う気がする」と思い、家がなくなるかもしれないのだけれど何かいいアイデアはあるだろうか、というようなことをブログ記事として投稿した。すると、その記事を読んでくれたニュージーランド在住の40代女性【K様】から一通のメールが届き、私はそのメールの内容に強くこころを動かされた。


「最近、子宮頸癌の手術をしたためにガン保険が200万円ほどおりました。そのお金を使って世界一周をしてきたのですが、まだ少しだけ手元にお金が余っているので、これをさかつめさんの家に使ってもらえたらいいのかな、と思いご連絡をさせていただきました。私は子宮を摘出したためにもう自分のこどもをつくることはできないのですが、熱海の家が『みんなで子育て』をできるような場所になればいいなあと思い、また、いつでも泊まれる、いつでも食べるものがある、何かあってもそこにいけばどうにかなるという場所が世界中にもっとできたなら、それだけで安心できるひとはたくさんいると思うんです。熱海の家も、まだ、実際には足を運んだことのないひとでも『熱海にはあの家がある』と思えるだけで、気持ちが楽になると思うんです」

私は、うまく言葉にすることができないのだけれど、K様の文章に触れて「美しい思いだ」と思った。こうした思いこそ引き継いでいきたいと思うし、こうした思いこそ世界に広がっていったらいいなあと、そういうことを感じて音速でメールに返信をした。その後、私たちはスカイプで30分程度の会話をし、K様が日本に戻られた際に、実際に熱海の家を見てもらうという約束を交わして終了をした。

支援は「私怨」【逆もまた然り】

札幌のスタジオで収録されるラジオ番組に出演するために、いま、私は札幌にいる。K様の地元も同じ札幌で、ちょうどK様も札幌に帰郷していらっしゃるタイミングだったので「蕎麦でも食べましょう」ということになり、昨日、志の家という蕎麦屋で食事をしながら会話をした。実際にお会いしたK様は笑顔が大きく、温和な人柄で「この方のことを好きになるひとは、たくさんいるんだろうなあ」という気持ちになった。

まだ、実際にK様の援助のもとに熱海を維持していくことに決まった訳ではない。今月末、K様は実際に熱海に来てくれることになったので、実際に家を見た時に感じたことをベースに、お互い無理のない決断(?)をしていけたらいいのだろうなあと思っている。K様は、昔から、自分でも孤児院を開設してみたいという思いがあるのだと話してくれた。いまはニュージーランドに拠点を構えているけれど、北海道のニセコの近くに素敵な物件を見つけたということで、明日、一緒に車でニセコ界隈まで足を運ぶことになった。K様とは「それぞれの場所でやっていることは別々でも、ニュージーランドニセコと熱海が、何かしらの形で繋がったら面白いですね!【単純に繋ぎ遊びたい!】」という話もした。

誤解を恐れずにいうと、私は「支援活動【慈善活動】」とか「弱者救済のボランティア」みたいなものになかなか興味をもつことができない。多分、その理由は「弱者を弱者と呼んでいる呼び手側の、その独善的な傲慢さ(上から目線)が苦手だから」なのだと思う。なんというか、問題解決型のアプローチは「自分たちはこんなに重要な問題に取り組んでいるというのに、周囲の人たちはまったく理解してくれないからムカつく!」という私怨【憎しみ】を生みやすい。私は、あらゆる物事において『フェアでありたい』という思いがある。もっと言えば、弱者だろうがなんだろうが「一緒に遊びたいと思うひととは弱者だろうが遊ぶし、一緒に遊びたいと思えないひととは強者だろうが遊ばない」という思いがある。

ひとにはそれぞれの役割がある。

先日、ある方から「手元に玄米が30キロあるので、さかつめさんが熱海にいる時に車で届けにいってもいいですか?」というご連絡をいただいた。私は、なんてありがたいお言葉なのだろうかと感動をしてしまって、今月末にその方と熱海でお会いする約束を交わした。熱海の家には、様々な方々から譲り受けた、様々な食材が溢れている。決して豪華な暮らしができるという訳ではないけれど、基本的な調味料や調理器具や大量の玄米など、最悪の場合でも「これさえあれば死なない」程度の食材ならば、非常にありがたいことに常にストックされている。

多分、私は「ひとからものを貰うこと」が得意(?)な人間であるのだと思う。同じように、私の役割は「文章を書くこと」であったり「世界各地を飛び回ること」であったり「様々なひとと実際にあって対話を重ねること」であり、それが自分のポジションのようなものであると感じている。逆に言えば、私はひとつの場所にずっといることができない。今月も、熱海には3日程度しかいないことになる。私が安心をして熱海を離れることができるのは『熱海を守ってくれるひとがいるから』であり、多分、ひとにはそれぞれの役割があり、それが見事に合致した瞬間に最高のパフォーマンスは発揮されるのだと思う。

傲慢な言い方になるのかもしれないけれど、私は、私のためには家はいらないと思っている。しかし、私達のためには家が必要であると思っている。私は、多分、家があってもそこに長期滞在をすることは(自分のこどもでも生まれない限り)まだないのだと思う。私は、また次の新しい家や何かを探して外に出て、仮に新しい何かを獲得することができた暁には、熱海の家と、新しい何かを繋ぐような架け橋的なアイデアを模索し、編み出し、試行錯誤を繰り返しながら、また更に(その場所の管理は他の方に任せて)別の場所に足を進めるのだと思う。私は、誰かのために生きるということが酷く苦手な性格であるために、自分のために生きることが結果として誰かの役にも立ったというような、頗るラッキーパンチ的な生き方をしていきたいと思っているのかもしれない。

多拠点生活【新しい家族】

札幌市内は自然も豊かで料理も美味しく、ここのひとつの拠点が持てたらどれだけ素晴らしいだろうかということを思った。17日には新千歳空港から福岡空港に飛ぶ(この日は午後から何も予定がないので、福岡界隈で時間のある方はお気軽にご連絡ください)のだけれど、札幌も、福岡も、格安航空券などの普及で気軽にアクセスできるようになっている。いままでは「ひとつの場所を見つけて、そこに根を張るような暮らしをすること」が大多数の日本人にとってのスタンダートだったけれど、戦争や天災や財政破綻など、何が起こるかわからない時代には「複数の拠点を持つことが、結果的にセフティネットの拡張になる」こともあるのだと思う。

複数の拠点を持つための動きが、私には、複数の家族を持つための動きに見えることがある。私は、家のない生活をしていたころ、様々な方々の家に泊めていただいた。彼らは一様に「困った時はまたいつでも遊びにおいで」と言ってくれた。私は、大袈裟な言葉で言えば、新しい方々の家に泊まる度に『新しい家族が増えている』ような感覚を覚えていた。家がなくなることを通じて、日本中に、世界中に、家が増えているような感覚を覚えた。少なくとも「家がなくならなければ絶対に出会うことのなかったひとたち」との出会いは、私の人生観を大きくエクスパンドしてくれた。家がないことは非常にリスキーな生き方であるはずなのに、不思議と、家のない生活を続ける(ひとに泊めてもらう日々を過ごす)ほどに、自分が生きていくことに対する不安は薄れ、世界に対する信頼感や安心感は増しているように感じていた。

私は思う。ひとにはそれぞれの役割があり、得手不得手があるのだから、なんでも自分ひとりの力でやろうとすることには無理がある(たとえ実現できたとしても、タカが知れている)のだと思う。K様は、熱海の家を『みんなで子育て』ができる場所になればいいと話してくれた。私は、この感覚に強い共感を覚えた。有り体の言葉になるけれど、みんなでやればどうにかなるということが、この世の中にはたくさんあるのだと私は思う。問題なのは、ひとりひとりの個のパフォーマンスが落ちていることではなく、ひとりひとりの結びつきが強まり、なんでも自分ひとりの力でやらなければいけないという風潮が強まっていることにあるのだと感じている。

助ける側にも、助けられる側にもよろこびはある。

私はいま、このブログ記事を、札幌にあるホテルの部屋から更新をしている。風邪気味で頭が朦朧としてしまっているものの、温泉もあり、朝食バイキングも豪華(もとから朝食は食べない派だけれど、貧乏性なのでヨーグルトと輪切りのキウイフルーツを50枚くらい食べた)で、とてもじゃないけれど私には贅沢過ぎる環境にビビっている。私は、このホテルをとってくれたS様に「こんなにも素敵な場所をありがとうございます!」と言わずにはおれず、何度も、くどかったかもしれないけれど何度も何度も何度も繰り返し感謝の気持ちを伝えてしまった。


私にできること、多分、それは「こころを込める」ということなのだと思う。トークイベントなどに呼ばれて登壇をする時も、誰かと実際にあって話をする時も、こうして自分の思いを言葉に綴る時も、私にできることは「こころを込める」という、ただ、それだけのことなのだと思う。私には何もない。何の専門性もなければ、社会的な信頼も肩書きもなく、定職もなければ、所持金も少ない。それでも、なぜ、自分のような人間でも生きてこられたのかというと、K様やS様のようなひとの優しさによるところが非常に大きく、私は、ひとの優しさに触れる度に「自分をしっかりと生きよう」という気持ちになる。


ひとにはそれぞれの役割がある。なんでも自分ひとりの力で成し遂げようとするのではなく、重要なことは「自分の役割を知る【自分の持ち場を守る】」ことなのだと思う。私の場合、2年間の家のない生活はそれを知るために大いに役に立った。私の役割は「言葉を綴ること」「外に出ること」「ひとに会うこと」などに代表されることであり、大切なことは『こころを込めること【自分の純度を高めること】』なのだと感じている。きっと、自分ひとりの力では難しいことでも、みんなでやればどうにかなることはたくさんある。現在の私に提供できるものは「自分の存在」と「熱海の家」程度でしかない。この程度しかないけれど、自分にあること、自分にできることを最大限に生かしていきたいと思う。


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人生は続く。

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過酷で楽しい托鉢生活。

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タイ最終日は非常に印象的な1日になり、この日は、バンコク在住の日本人女性のご自宅(非常に豪華!ちなみにこの日が初対面)にお招きいただき、お集まりいただいた方々とタイ料理を囲んだ。参加メンバーのみなさまの個性が半端なく、ひとりの女性は「数年前までレバノンの難民キャンプで生活をしていて、隣で銃撃戦が行われている中でこどもを出産した」経歴の持ち主だった。
 
もうひとりの女性は、数年前までネパールの山奥で風呂もなにもない生活をしていて(1年半前位にバンコクに移住をした)、こどもが3人いるのだけれど「こどもたちは学校には行かないで、ホームスクール(先生役はお母さん&WORLD)という形でやっています」と話してくれた。日本の常識は世界の非常識などと言いますけれど、なんかもう、みなさまの生き方がカラフル過ぎて「俺の出る幕はないな」と悟った私は、ひたすらごはんを口に運び続けた。
 

過酷で楽しい托鉢生活。

11月11日の朝8時に成田空港に到着をして、昼の12時からは下北沢で「坂爪圭吾を囲む会的なサムシング」が開催された。主催の方のご自宅で開催されたのだけれど、下北沢という好立地にも関わらずご自宅が豪華過ぎて「ご自宅が豪華過ぎる!」と思った。平日の昼間の開催であったにも関わらず、たくさんの方々が駆けつけてくれて「(徹夜明けみたいな頭の状態はちょっとしんどいけれど)やっぱりひとと実際に会って話すのはいいなあ」と思った。
 
私のように、ブログなどを通じて(リアル社会よりも先に)バーチャルな世界から先に名前ばかりが知られるようになると、どうしても「伝言ゲームのように、根も葉もないデマや噂が飛び交う」ことに悩まされることは多い。自分程度の知名度でもこれだけの情報が流れているのだから、国民的な有名人の風評被害(?)というものは、半端ないのだろうなあと想像する。しかし、有名無名を問わず「同じ人間であることに変わりはない」のだから、面と向かった会話を交わせることの中にはリアルな繋がりを覚える醍醐味がある。
 
そして、改めて「自分が大切にしたいのは、まだあったこともないひとからの目線や批判や好感度ではなく、実際にお会いした方々とのリアルな繋がりなのだ」ということを思った。こうして文章を綴っている私の中には血が流れていて、こうしてこの文章を読んでいるあなたの中にも血は流れている。人間関係に上も下もない、ただ、この「同じ血が流れている【同じ時代を共に生きている】」というある感覚こそ、自分が大切にしたい感覚なのだと思った。
 

「生きているぜ!」という感覚の共有。

15時から、下北沢駅前のファミレスで雑誌の取材を受けた。インタビュアーの方も、副編集長の方も、非常に素晴らしい人柄の方々で「このひとたちと出会えただけで今日は幸せ!」と舞い上がった私は、非常に上機嫌(?)な状態でインタビューにお答えさせていただくことができた。私は、多分、性別を問わず『穏やかで品のあるひと』が好きなのだと思う。親しき中にも礼儀ありという言葉が好きなのだけれど、初対面から「いえーい!」などとタメ口を話す方々とは「星が違うなあ」という感想を抱く。
 
インタビューを受ける際、記者の方が「さかつめさんの言葉はメッセージ性が高い」というようなことを言ってくださり、私は、個人的にはメッセージを発信しているつもりはない(ただ、自分に言い聞かせていることを言語化しているだけ的な感覚です)という返答をした。私は、ただ、言葉という容れ物の中に自分の生命を流し込みたいと思っている。内容がどうのこうのというよりは、言葉の躍動を通じて「俺も、あなたも、生きているぜ!」的な感覚を(結果的に)共有することができたのならば嬉しいと思っている。
 
いまの社会が悪いとか、いまの日本人は悪いとか、自分以外の誰かを悪いと言えるほど、自分は善い生き方をできているとは思えない。ただ、できることならば「善い生き方」をしたいと思う気持ちはある。だからなのだろうか、私は、自分以外の誰かにメッセージや助言をできるような立場にあるとは思えない。私は、ただ、自分が体験したことの中から「自分が感じたこと」を言葉にしているだけに過ぎない。その言葉が、結果的に誰かに前向きな力を与えることになっていたとしたら、それは非常に幸運なことだとは思う。非常に幸運なことだとは思うけれど、誰かを幸せにするために言葉を書いている訳ではない。
 

「粋」な女性の登場。

昨日、小田急線沿線在住の女性から「さかつめさんに、どうしてもお渡ししなけれないけないものがあります」という連絡が届いた。私は「え!なんだろう!」とドキドキしながら、15時に下北沢駅前で女性と落ち合う(結果的に雑誌の取材とダブルブッキングになってしまった!)と、その女性は出会い頭に「はい」と謎の紙袋を手渡してくださるやいなや、そのまま、颯爽と下北沢の街の中へと消えていった。
 
紙袋を開けると、あろうことか(前回のブログ記事で紹介させていただいた)身体を洗う為の高級タワシと、手拭いと、手紙と、東京都内で使える銭湯の無料券が複数枚同封されていた。私は「なんて粋なことをする女性なんだろう!」と嬉しくなってしまって、ああ、世界は優しさに溢れているなあと感慨に浸った。私は、いま、多くの方々からの施しを受けながら生きている。文章だけではなかなか伝わりづらい現象だと思う(お前は宗教家か!とディスられることもある)けれど、この現象は、実際に目撃したことのある方にならわかる感覚だけれど、実際に目撃しなけれな絶対にわからない類の現象なのだと思う。
 
 
そこで、私は「せめてもの恩返し【恩送り】として、みなさまにおはなをあげるイベントをやろう!」と思い立ち、昨夜、誠に突然ではありますが『おはなをあげる@渋谷』というイベントを立ち上げた。内容は、単純に「さかつめと、さかつめの友人のあべさんと一緒に、私たちは渋谷のファミレスでお茶をしています。おはなを五輪ほどご用意しておりますので、早い者勝ちになってしまいますが、もしもおはなが欲しいという方がいらっしゃいましたらデニーズまでお越しください(ご希望される方には、珈琲をご馳走します!)」というものになる。
 

おはなをあげる@渋谷の展開。

開始直前の告知になったために「ひとりくらいでも来てくれたらいいね」と話していたら、結果的に8名程度の方々がデニーズに駆けつけてくれた。ここでも奇跡的な展開は複数個起こり、青森県から届いたりんご8個を届けるためだけにデニーズに来てくれた方(3分程度でお帰りになられた)や、隣の席で食事をしていた男性が「突然申し訳ありませんが、あの、さかつめさんですか?実は、私が来た時にはお座席がすでに満杯で隣で食事をしていたのですが、これ、みなさまの食事代に使っていただけたら嬉しいです」と、非常に格好いい形でテーブルの上に封筒を置き、そのまま、颯爽とお店を出て行かれた。
 
こんなことを書くと「だからお前は宗教家なんだ!」と即座にディスられてしまいそうだけれど、違う、多分、それは違うのだと思う。あの場を共有してくださった方々ならわかってくださると思うのだけれど、昨夜、私はデニーズの店内でひたすら自身の顔面をタワシでこすり続けていた。決して「生きるとは…」みたいな話を神妙な面持ちでみなさまと語ったりしていた訳ではなく、阿呆みたいな顔をして「お肌がテュルッテュル!お肌がテュルッテュルだよ!」などと叫んでいた時に、突然りんごを貰ったり、突然お布施を貰ったりしていたのだ。
 
誤解されると困るが、私は「私は宗教家ではない!」という必死の弁解をしたい訳ではなく、自分はこれほど面白い目に遭えているのだという自慢をしたい訳ではない(のだと思う)。ただ、巷では「都心の人間は冷たい」とか「多くの日本人には余裕がない」とか「世間は物騒である」みたいな話が跋扈しているけれど、実際のところは「いいひとばかりじゃないかもしれないけど、でも、悪いひとばかりでもないぜ!」ということを、誰かに伝えたいと思っている(のかもしれない)。
 

オン・ザ・ロード

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ジャック・ケルアック著作オン・ザ・ロード』です。ノーベル文学賞でお馴染みのボブ・ディランに「この本は僕の人生をかえてしまった」と言わせちゃう程度には世界的にも有名な一冊で、先日、東京都内の本屋さんで購買をしたのですがなかなか読み切る時間に恵まれておりません。故の、放出でございます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※
 
若い作家サルとその親友ディーンは、自由を求めて広大なアメリカ大陸を疾駆する。順応の50年代から叛逆の60年代へ、カウンターカルチャー花開く時代の幕開けを告げ、後のあらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書。バロウズギンズバーグ等実在モデルでも話題を呼び、ボブ・ディランに「ぼくの人生を変えた本」と言わしめた青春のバイブル『路上』が半世紀ぶりの新訳で蘇る。ー ジャック・ケルアックオン・ザ・ロード』【河出書房】(表紙裏帯より引用)
 
 

ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。

ラジオ番組の収録に読んでいただき、14日から数日間北海道に向かいます(16日は札幌で終日暇をしているので、何かあればお気軽にお声かけください!)。なかなか熱海の家でゆっくりすることができていないのだけれど、昨夜、数日振りに帰宅をすると、全国各地から様々な贈り物が届いていた。北海道産のじゃがいも、にんじん、玄米、乾き物、お手紙、お手紙、お手紙と一緒に同封されていたクオカード(そこには「必要な誰かに使ってもらえたら嬉しいです」と書かれていました)など、大量の施しをいただいた。
 
【補足】逢初庵をご利用予定の方々は、台所の食材も自由にお使いください!
 
施しなんていう宗教的な言葉を使うから誤解を招いていることはわかっているのだけれど、でも、それでも尚「施し」と呼ばざるを得ない(そのように呼びたくなる)現象の連続に、ああ、自分は生きているのではなく生かされているのだなあという思いを禁じ得ない。郵送された荷物を開封しながら天上を仰ぎ、神様的なサムシングに「ありがとうございます」と囁きながら土下座をしたくなった(実際にした)。現在、18日は佐賀県武雄市、21日は山口県光市、23日は広島県尾道市に足を運びます。もしも実際にお会いできる方がいらっしゃいましたら、どなたでもお気軽に遊びにいらしてください!!
 
 
 
 
海外に行くと「日本は、子育てをするには不適切な場所【こどもや母親に冷たい環境】」という声を頻繁に耳にするが、しかし、そんなことはないんじゃないのかなと思う自分がいる。本当は、多くの人たちは「誰かに何かをしてあげたい」と思っていて、ただ、迷惑になるかもしれないという遠慮や気遣いが働いて、声をかけたいけれどかけられずにいるだけ【ある種の『許可』さえおりれば、気軽にひとと助け合えるもの】なのだと私は思う。
 

 
ひとのこころを開くもの、善性の花を咲かせるものは、きっと「正しさよりも『楽しさ』」のある環境だと思う。単純に、すれ違うひとと軽い挨拶を交わせただけでも、心地の良い風は吹き、身体が軽くなるような嬉しさを覚える。私は、ある種の許可がある限り、ひとはいくらでも優しくなり得る生き物なのだと思う。この『許可』とは何か、何がひとのこころを開き、何がひとを菩薩的なものに変えるのかということに関心があり、難しい場合もあるけれど、お互いの【阿修羅スイッチではなく】菩薩スイッチを押し合える関係性を築きたいのだと、そういうことを思っている。
 

 
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人生は続く。
 
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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健康のためなら死ねる。

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タオ島を南下してパンガン島、サムイ島、スラータニーを経由して再びバンコクに来ました。日本は初冬を迎えている頃にも関わらず、タイは連日30度を超える真夏日が続き、こころも毛穴もフルオープンです。来たる11月11日(金)お昼頃から、非常にありがたいことに下北沢でお話会的なサムシングを開催していただける運びになりましたので、お時間のある方はお会いできますことを楽しみにしております!!

【イベント詳細】坂爪圭吾を囲む会|下北沢NOWHERE ☆☆☆Speak from your heart☆☆☆ 

最近思うことあれこれを「健康」をテーマにまとめます。

 

1・歯磨きよりも「歯茎磨き」

かつては1分程度でササっと済ませていた歯磨きも、様々な方々から「歯よりも歯茎を磨くイメージが大事よ!」的なアドバイスをいただきまして、時間がある時は10〜30分程度は磨くようになりました。感覚的な話になりますが、これ、なんだかとってもいいことのような気がします。歯茎をマッサージしてあげる感覚でゆっくりと時間をかけて優しくほぐしてあげますと、過去に歯医者さんで使った薬品的なサムシングが歯茎から漏れ出る(!)ひともいるらしく、一説によると「よだれを出しまくると小顔効果がある!!」とか、ないとか!!
 

2・五つの「浴」

自然治癒力と言うのでしょうか、身体の免疫力を高めるには「五つの『浴』が大事よ!」という話を聞きました。それは「日光浴」「月光浴」「森林浴」「海水浴」「温泉浴」の五つでありまして、あろうことか、私の自宅があります熱海ではこれらすべてを網羅できる(海あり!山あり!温泉あり!)ということに、今更ながら気が付きました。科学的な根拠は謎ですが、経験則的に「そんな気がする!【過去、一ヶ月の間に150回は海に入っていた時期は猛烈に体調が良かった!】」と思わされる話題だったので、この場をお借りして皆様とシェアをさせていただきます(ました)。
 
こちらは余談になりますが、私が不在の間、熱海の家は全開放ということで「使いたいひとがいれば自由に使ってもらう(大事に使ってくださる方、優遇!)」スタンスでやらせていただいております。現在も、新潟と、栃木から来てくれた方々が利用をしているのですが、実際に熱海の家を使ってみたいという方がいらっしゃいましたら、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。先着順になります(返信が大幅に遅れる場合がございます)が、徒歩5分の場所にある「走り湯」や「伊豆山神社」のみならず、海から昇る日の出【月の出】の瞬間は最高です!!
 

3・タワシで身体を洗う。

今回一番おすすめしたいのはこれで、先日、ある方の熱烈なリコメンドにより「タワシで身体を洗う」という体験をしたのですが、これが非常に気持ちよく、全身の血行を促進するばかりか便秘や肩こりや汗疹などの症状にも(もちろん美容にも!)効果的、私自身もここ数日間の体験により「なんだか身体全体が生まれ変わろうとしている!」的な感動を覚えております。タワシで全身を洗い、風呂上がりには水のシャワーで締める(あるいは水風呂にはいる)コンビネーションは最強で、風呂が大好きになりました。
 
現在はドイツ製の馬の毛のタワシを借りて使っているのですが、数日間の使用により「これは是非とも自分自身で購買をしたい!」と思い立ちまして、移動が続く日々もタワシは常にカバンにいれておく生活に突入したいと思っております。通常であれば「最初は柔らかいもので徐々に慣らし、ゆっくりと硬いタワシに移行をする」のがベストらしいのですが、まどろっこしいので、最初から一番硬いタワシ(なんなら普通に食器洗いで使用をする例のやつ)を購買しよう!と、密かに胸を躍らせております。タワシでカラダをゴシゴシ洗う…騙されたと思って、是非!!
 

4・ターメリック玄米。

非常に栄養価の高い食物を「スーパーフード」などと呼んだりしますが、チアシードやカカオやスピルリナのみならず、アーモンド、アボカド、ドラゴンフルーツ、生姜、ターメリック(ウコン)などもスーパーフードの仲間であることを小耳に挟んでからというもの、玄米を愛する私としては「玄米でターメリックライスを作ったらどうなるのだろう」という新しい興味が湧き出しております。また、オール全粒粉のうどん作りを研究したい熱も出ておりまして、日本に戻るのが楽しみになっております。
 

5・ヨガマットで寝る。

布団は柔らかいよりも硬い方がいい!などと言いますが、今年の春からヨガマットで就寝をするようになってからというもの、どこでも寝られる屈強なボディを手に入れられたような気がしています。これは決して自慢をしたい訳ではなくて、最初は少し慣れなくて身体が痛くなったりもするのですが、徐々に慣れてくると「柔らかい布団で寝るよりも睡眠の質が高く、短時間睡眠でも寝起きは爽やか、いつもより眠りも深い気がする!」ことを実感できるのではないでしょうか、と思っております。
 
一説によると「木の板の上にバスタオル一枚敷いたくらいで充分!」らしいのですが、これは、個人差もあると思うので実際に試しながら自分に合った硬さを見つけるのが良いのだと思います。私自身、睡眠の質はまだまだ向上の余地がある(木の枕で寝るとか、寝起きになんでもいいから思ったことをノート三枚分書きまくるとか)ような気がしているので、遊び感覚で様々なトライアルを積み重ねている最中であります。
 

6・病気の原因は「身体の冷え」と「血液の汚れ」

携帯用のおろしがねを持参して、海外でも現地の生姜をすりおろして飲みまくっている程度には生姜を愛しているのですが、病気の原因は「身体の冷え」と「血液の汚れ」に依るところが多いとのことで、これはもしかしたら精神的にも同じことがいえるのではないだろうかと睨んでいます。無機質な情報ばかりを頭に詰め込むよりも「一回のハグ」や「一輪の花束」がこころを温めることもあるということは、前回のブログ記事で考察済み(?)です。何はともあれ、自分のこころが歓ぶ生き方をしましょう!!

 

7・家だけベジタリアン

油ものの料理は片付けが面倒くさいので、自宅では玄米と簡単なおかず程度で済ませるようになり、いつの間にか「家ではベジタリアン」な日々を1年近く過ごしています。肉や魚や油を使わなければ、洗剤も不要で水でサッと洗い流すだけで食器洗いも終わるので、怠惰な自分はこれをとても気に入っています。未だに肉も魚もあればあるだけ食べるのですが、食後の「重さ」が気になるようになり、南国ではひたすらフルーツばかりを食べ続ける日々を過ごしております。

家だけベジタリアン、これ、おすすめです!!
 

8・光熱費0円ハウス。

熱海の家がなくなるかもしれない問題を抱えている我が身ではありますが、光熱費などが問題であるならば「光熱費0円ハウスを目指せばいいじゃないか!」という、非常に安易な発想を持つようになりました。いますぐには無理でも、家の裏にある川から水を引き、コンポストトイレ的なサムシングを設置して、太陽光などを駆使して、キャンプ道具をメインに生活をする日々も乙なのではないだろうか、という発想に男の子的なワクワクを感じています。

簡素な生活は端的に身体に良いような気がしていて、皮膚を鍛えれば「真冬も半袖短パンで行ける!」と言う新潟の猛者もおりますので、何事も「人生は人体実験である」のマインドを大切に、遊びながら様々なスキルを習得できたらいいなあなどと思っています。ドライヤーを使わずに髪を乾かす方法や、冷蔵庫を使わずに食材を維持する方法など、研究のしがいのあるテーマは無数に転がっています!!

 

9・歩きまくる【踊りまくる】。

最近では、散歩に行くことを「ちょっとドライブに行ってくるね」と表現するようになったのですが、車や自転車を動かしてあげることと同じくらい、自分の体を乗り物と捉えて「たまには長距離ドライヴを楽しむ!」ことも、非常に有意義で健康にも良く、個人的な体感としては「徒歩30分を超えたあたりから瞑想モードに突入する」ように感じています。馬鹿にされることも多いのですが、歩くこと、最高です!!

また、歩くことと同じくらい「踊ること」も非常に最高だと思っておりまして、最近では、及川光博さんの動画を参考に踊りのスキルに磨きをかけている昨今であります。この前、小学四年生の女の子と一緒に踊ったのですが、なんていうかもう最高でした。こちらの動画、見ているだけでも幸せになるので、是非、振り付けを覚えた方から一緒に「死んでもいい!」を共に踊り狂いましょう!!

 【毎朝一回は必ず視聴している動画】及川光博 - レッツ・ダンス~死んでもいい'98 - YouTube
 

10・好きなひとに好きだと言う。

様々な能書きを垂れてきた私ではありますが、これに勝る健康法はないのではないだろうかと思っています。なぜ生きるのか?と問われたら、音速で「好きなひとに好きだと言うためです!」と即答できるほどには成長できた私ですが、やはり、自分のことばかりを考えていてはなかなか幸せにはなれない生き物が人間なのではないだろうか、ということをひしひしと感じております。

最近は、旅先の風景と共に「あいらぶゆー!」と突拍子もないメッセージを友達に送りまくることが日常的になっていて、これがまたとても素晴らしい手応えを与えてくれます。愛されることもうれしいことですが、自分から誰かを愛していけるということも、同じように素晴らしいことなのだと感じております。愛する三森さんが「生きる意味、それは、人を幸せにするということ」とおっしゃっておりましたが、さすが!!三森先輩!!といった気持ちであります。

と、これだけ心身の健康についてアツく語っておきながら、先程「南国の雰囲気にはやっぱりこれだよな〜!」と、タバコを一箱購買してしまいました。数年前に軽度のアルコール中毒に陥ってから、お酒はほとんど飲まなくなったのですが、タバコだけは時折吸いたくなってしまう自分がおります。はい、まだまだですね!!けれども、この、まだまだである自分を受け入れることを通じて「人間は矛盾を抱えた生き物である」ことを認め、許容して、愛する。自分を使った人体実験【時には周囲のひとたちも巻き込んだ集団人体実験】は、これからも、まだまだ続きそうです。

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人生は続く。

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怒りは人生を駄目にする。

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新潟、群馬、神奈川、成田、ドンムアン、バンコク、チュムポーン駅を経由して、爆揺れするフェリーにしがみつきながらタイの南部にあります雨季ど真ん中のタオ島に到着しました。私、坂爪圭吾は基本的に呼ばれた場所なら何処にでも行くスタンスで生きておりまして、11月9日はバンコク、12-13日は関東圏、16日は北海道、17日は福岡、21-22日は山口県及び広島県、24日は東京、30日は新潟で暇を持てあましております。

 

【11月18日(金)は佐賀県に行くことになりました!】あいつが武雄に帰ってくる! ホームをレスしてヒットした!!! 坂爪圭吾を囲む会

 

様々な方々と出会う日々を過ごしながら、ひとりの時間と同じ位、人とリアルに対面してお話をする時間も大切なのだということを感じています。もしも、上記の日程で「時間もあるから坂爪圭吾を囲む会的なサムシングを企画してもいーよ!」という方が奇跡的にいらっしゃいましたら、気軽にご連絡をいただけると幸いです。規模の大小などは問いませんので、ピン!と来た方はお気軽にご連絡ください!!

 

連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

 

おはなをあげる。

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先日、11月3日は国民の祝日ということもあり、私も「国民の皆様の生命を祝福したい!」と思い立ち、その時はたまたま神奈川県藤沢市にいたので「関東圏でお会いできる方々にリアルで対面をして、おはなをあげる」という企画を敢行しました。私は花を愛していて、また、花を愛するこころの余裕を愛しているので、誠に勝手ながら「是非とも、皆様とこの喜びをシェアしたい!」と思い立ちまして、このような企画を突然(その日の昼過ぎから当日限定で)開催させていただきました。

 

誰かひとりからでも連絡が来ればいいなあ程度に構えていたのですが、結果的に五組もの方々に実際に対面しておはなをあげることができまして、あろうことか「男性からお花をもらうなんて何年振りかしら!」と、涙を流して喜んでくださる方もいらっしゃり、こちらとしても「そんなに受け取ってもらえるなんて、こっちが幸せ!」と、貰い泣きをしてしまいそうになりました。ただ、おはなをあげてさようなら!程度に終わるものかと思いきや、皆様、ご自宅にあげてくださりお茶やお菓子を振舞ってくださるものだから、こちらとしても「新しい家族が増えた!」的な喜びを強く噛み締めることができた、とても素晴らしい時間になりました。

 

他にも感動的なシーンは108個位あったのですが、ひとつだけ言えることは「男性はもっと女性に花をあげたほうがいい!」ということです。切り花であればそれほど高価なものではないですし、多分、野花でも構わないのだと思います。大事なものは気持ちであり、今回の裏テーマは「アドバイスではなくおはなをあげよう!【WANDS風に言えば『愛を語るより口づけを交わそう』】」だったのですが、一輪の花が、言葉を超えた力を(受ける側にも与える側にも)授けることも確実にあるのだなということを強く実感した1日になりました。

 

世界をぼくらの遊び場に。

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いまはタイのタオ島にいるのですが、とりわけ特別なことをするでもなく、海辺にあるカフェのテラス席で寄せては返す波の音を聞きながらこのブログ記事を更新しています。私の好きな言葉に「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」というものがあるのですが、本当は書きたいと思っていたことが108億個位あったはずなのに、良くも悪くも「いまが幸せならそれでいいよね」的な気持ちになってしまって、小難しいことを書くことができません。

 

最近思うことは、遊ぶということが人生にとってどれだけ大切なのかということで、誤解を恐れずに言えば「人間には二種類いる。遊んでいる人間と、遊んでいない人間だ」みたいに感じることがあります。これは、巷で頻繁に耳にする「遊びと仕事の境目をなくす」みたいなことを言いたいのではなく、ただ、何かに夢中になって遊んでいるひとたちを見ると、見ているこちらまで楽しさが伝染してきていい感じになってしまう、最高に遊べる瞬間を見つけてそれを実行しているひとの姿は、本人的にも無意識のうちに周囲を「善の循環」に巻き込んでいるのではないだろうか、小さなこどもとかまさにそんな感じだよな、という風に感じています。

 

生産的であるとか、効率的であるとか、数値化できる損得勘定は一旦脇に置いておいて「なんだか知らないけど、これがやりたい!」と思うことを実際にやってしまっているひとの姿からは、いい風が吹いているなあと感じることの多い昨今です。自分のこころがピースフルであれば勝手にひとにも優しくしたいと思うものであり、自分をピースフルな状態に保つことは単なる自己満足ではなく、巡り巡って世界平和に貢献するのではないだろうか、それならば「まずは自分のご機嫌を死守する!【遊ぶ!】」ということは、とても大切なことではないのだろうかと感じています。 

 

怒りは人生を駄目にする。

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病気は身体のサインと言いますが、現代社会においては「言いたいことが言えないあまりに、身体が先に病気になる」ということが、とてもたくさんあるのだと思います。怒りや悲しみなどのネガティヴな感情を自身の内側に溜め込み過ぎると、自分でも気がつかないうちに腐敗をはじめてしまって、病気や体調不良という形を通じて「腐ってますよー!あなた、いま、腐敗してますよー!」というサインを放つ、みたいなイメージがあります。

 

また、言葉だけではない「肉体を通じたスキンシップ」も死ぬほど大切だと思っていて、どれだけ頭で考えてもどうにもならなかったことが一回のセックスで霧消した、みたいなことは往々にしてあるのだと思います。自分が抱えている問題の多くは表面的なものに過ぎず、実は「(いつも怒ってるひとはいいセックスをしていないだけで)ただ、温もりに触れたかっただけなのだ【あるいは、単なる睡眠不足か運動不足】」ということは、意外とあるあるなんじゃなかろうか、などと思うことがそれなりにあります。

 

怒りは人生を駄目にする。これは、最近のわたしの課題でもあり、いかに怒らずに日々を穏やかに過ごせるのかが当面の目標でもあり、自分を使った実験でもあります。昨日、タオ島のオフロードをバイクで滑走していたら見事に横転をして膝小僧が悲鳴をあげているのですが、これは神からの「お前、あんまり調子に乗るなよ」というポップな戒めと受け取り、傲慢になりそうな自分の萌芽を発見しては摘み取り、摘み取り、罪を取り、より一層のイノセントな日々に磨きをかけて行きたいと思いました。

 

 

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人生は続く。

 

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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

あなたは素晴らしい存在だ。

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新潟市西区の愛するカフェ「イロハニ堂」が10月31日で閉店することになり、これは絶対に駆けつけなければならない(from熱海)ということでWEB上に公開しているスケジュールに『新潟』と記載したものの、エコノミックな理由で「最悪の場合はヒッチハイクだな!」と思っていた。ら、奇跡的に新潟在住の方から「ちょうどその日に出張で東京にいるのですが、もしよろしければ、交通費は負担するので新幹線で一緒に帰りませんか?」というご連絡をいただいた。

 

非常にありがたいことに11月23日(水・祝日)には広島県尾道市でイベントを開催していただけることになり、こんなことを偉そうに書くことは気が引けてしまうけれど、家や金がなくなってから、圧倒的にひとの優しさに触れる機会が増えた。「なんでそこまでしてくれるんですか!」と思わされることが、ほぼ、毎日のようにある。これは決して自慢をしたい訳ではなく、ただ、世界や人間は「信頼に値する」のだということを強く実感する。渡る世間に鬼はなし、自分を閉ざせば世界も閉じるが、自分を開けば世界も開く、多分、人の心の中には「お互いに助け合いたいと思う素晴らしい部分がある」のだということを、身をもって実感する。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークライブ@尾道

 

私も、出世したなあ。

お言葉に溺れて新幹線に同乗させていただき、この日、東京駅で待ち合わせをすることになった。この日が初対面の男性(以降、K様)だったのだけれど、その方は新潟市内でフリースクールをやっていらっしゃる方で、新幹線の中で「今度、是非、お話会をやってくださいよ」という風に言ってくたさった。私は、新幹線に乗せていただいた御恩があるばかりではなく、何よりもその方の瞳があまりにも綺麗なものだったから「もちろんです!」と答えた。

 

すると、K様は「ありがとうございます!では、明後日なんていかがでしょう?」と満面の笑顔でおっしゃり、私は「明後日!早っ!やりましょう!この速度好きです!」ということになった。K様は「では、いまからイベント告知のメールマガジンを書きますね」と言いながら、新幹線の車内でマックを開き、カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ!!と音速でキーボードを打ち始めた。新幹線の車内で仕事をするK様を横目に「ああ、なんだか、いま、それっぽいことをしている!」という気持ちになった。

 

新潟駅に着いて新幹線を降りると、あろうことかK様がお寿司をご馳走してくれた。私は「新幹線にお寿司とか、VIP過ぎる!(新宿駅から東京駅までは歩いて移動をしたのに、落差が激し過ぎる!)」と恐縮に震え、さすがにそこまでしていただくのは非常に申し訳ないという旨を伝えると、K様は「いやいや、いつも坂爪さんのブログには力をもらっているので、これはせめてものお礼です」みたいなことを言ってくださり、私は、何か大きなものに感謝をしたくなった。帰り際、私も出世をしたなあなどと思いながらK様に全身全霊の御礼を伝えた後に、実家のある小針駅まで歩いて帰った。

  

調子に乗ると即死する。

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こちらは、イロハニ堂の店主サカノヒロミさん(通称・ヒロミ1000000ボルト)との写真です。この日、私は大学院生の男の子【かずし】に珈琲&ケーキをご馳走していただきました。数年前だったら「いい大人が、大学生に奢られるなんて!逆だろ!」みたいに思う自分もいましたが、いまでは、そういうことをあまり思わなくなりました(人間関係に上も下もない、あるのは「ひとりの人間」と「ひとりの人間」だけである、的な思考になりました)。

 

帰り際、今日は来てくれて本当にありがとうございましたと告げるサカノさんの瞳からじわっと涙が溢れて来そうになるのを目撃してしまって「やばい!これはもらい泣きをするパターンだ!」と思った私は、挨拶もそこそこに店を退出してしまった。素晴らしい瞬間だと思ったし、うまく言葉にできないけれど、美しい瞬間だと思った。やはり、実際に足を運んでリアルに顔を合わせることに勝るコミュニケーションはないなあと思いながら、実家のある小針駅まで歩いて帰った。

 

三人兄弟の末っ子として生まれ、自営業を営む両親からは基本的にほったらかされて育った私は、何かあるとすぐに調子に乗ってしまう悪い癖がある。いまの自分があるのは、自分が凄いからではなく「自分を生かしてくれるひとたちが凄いからだ」ということを忘れてしまった瞬間から、自分の中に濁りが発生して、純度は下がり、傲慢になり、結果的に痛い目を見るようにできているのだと思う。いまあるものに最大限の感謝を示しながら、同時に、絶対に調子に乗らないこと。いまあるものを当たり前だ【何かをしてもらって当然だ】と思った瞬間から、多分、自分の中にある純度は簡単に濁るのだと思う。

 

やばさぎっしり、新潟。

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新潟在住の女性で、写真が好きだという方と出会った。今回、このブログ記事で使用している風景写真のすべては、その女性(以降、H様)が撮影したものになります。私は、普段、カメラ機材などは持っていないので自分のiPhone5sで撮影した写真をブログ内で使っている。H様が撮影しているこれらの写真も、すべて携帯で撮影したものになります。

 

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H様の写真を見ていたら「ああ、新潟にはこんなに素晴らしいものたちがあったのか!」と、嬉しさがこみ上げた。それは、既に紅葉がはじまっている越後の山々に対して抱いただけのものではなく、こうした美しい風景を美しいと思うH様のこころに対しても、また、同じようにK様のこころに対しても、かずしのこころに対しても、サカノさんのこころに対しても、私は、同じような感覚を抱いたのだと思う。

 

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何かを「素晴らしい」と思えるということは、既に、自分の中にその素晴らしさが備わっているからなのだと思う。自分が愛するものに出会えた瞬間のよろこびは、自分が素晴らしいと思える場面に立ち会えた瞬間のよろこびは、その対象だけではなく、その対象を通じて「自分自身を含めた世界全体を賛美している」のだと思う。自分と世界は切り離されたものではなく、実は、境目のない同質のものであるという感覚。だからなのだろうか、私は、私が好きだと思えるものに出会えるほどに、大袈裟な言葉で言えば「生きる力」をもらっているような、そういう気持ちになることがある。

 

旅をする木

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作旅をする木』です。星野道夫さんの著作には名作が多いですが、この本は、その中でもとりわけ大好きな一冊になります。下記に、私の好きな星野道夫さんの言葉をのべつまくなし列挙します。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。
僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。
バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
偶然の一致に意味を見出すか、
それとも一笑に付すか、
それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。
その大切な何かが、
たましいというものだった。
一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。
もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい
寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。
離れていることが、人と人とを近づけるんだ。
人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。
大切なのは、出発することだ。
この世に生きるすべてのものは
いつか土に帰り、また旅が始まる。
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・ その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

あなたは素晴らしい存在だ。

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新潟で開催されたイベントには、様々な年代の方々が足を運んでくれた。実際にリアルに対面して話せることのよろこびは大きい。参加者の方々の中には「私も、いばやの嘉向徹君や保科亮太君と友達なんですよ」という方もたくさんいて、そのひとたちの話を聞いていることがとても楽しかった。私は、いばやの人達を愛している。だからなのだろうか、いばやの人達の話を聞けることがとても嬉しい。

 

参加者の女性S様が、こんな話をしてくれた。「ある日、嘉向徹君と保科亮太君が、私の事務所まで遊びに来てくれたんです。あの人たちはまったくお金を持っていないのに、自分たちの生活だけでも精一杯だと思う(坂爪註・破綻をしています)のに、その日はかすみ草の花束も持ってきてくれて、ああ、この子たちはなんていい子達なんだろうって思ったんです。」と。私は、この話を聞いて、やっぱりこの人達は最高だなあと嬉しくなった。

 

自分が素晴らしいと思うもの、同じように素晴らしいと思ってくれるひとの存在は、大きな力になる。時に、自分自身も信じることが難しくなる場面もあるけれど、ひとに優しくすることと同じくらい、自分にも優しくすることが大切な場面があるのだと思う。自分が自分に優しくすることができない時、周囲のひとの声が、周囲のひとの行動が、パッと輝く前向きな力を与えてくれることがある。「あなたは素晴らしい存在だ」と、実際に言葉にして伝えること、相手に対して、自分に対して、お前はお前で最高に素晴らしいと言えるやり取りがより多く交わされるようになったら、世界は簡単に平和になるのではないだろうかと、そんなことを考えていた。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

 

心配よりも信頼をしよう。

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熱海の家がもしかしたらなくなるかもしれない(今世五度目の家なし生活)事件を抱えている身ではあるものの、昨夜、国分寺で開催されたイベントに登壇をした。参加者の皆様が猛烈に素晴らしい方々ばかりで、終了後に個別で話せた時間は最高に輝いていた。「ブログに励まされています!」なんて言われると、こちらも「いえいえ!いま、あなたの存在にウルトラ励まされていますから!!」という気持ちになる。

イベント中、参加者の女性から「所持金はいくらですか?」という、非常に真っ直ぐな質問を受けた。私は、ポケットの中にあるお金を取り出して見たら全部で332円だったので「332円です」と答えた。すると、会場全体になんだか(同情や憐憫や困惑のミックスジュース的な)非常に微妙な空気が流れてしまって、ああ、こういう時はもっとポップに自身の現状を晒す必要があるのだなあと学習をした。

いばやメンバーとの会話【概念の先に行く】

イベント終了後、三軒茶屋にある友達の家でいばやメンバー達と合流した。私はいばやの人達を愛していて、この人達と一緒にいると如実に癒される。いばやの共同代表でもあるMAYUCHAPAWONICAさんは、現在、大阪は梅田にあります家賃14万円のマンションに恋人の男性と一緒に住んでいるのですが、所持金が28円という強者でもあり、私が「今日は332円しかなかったんだよ」と言うと、MAYUCHAPAWONICAさんは「お金持ちだねえ」という言葉を与えてくれた。

私が「もしかすると、熱海の家を出ないといけなくなるかもしれないんだ」という話をすると、MAYUCHAPAWONICAさんは笑いながら「わたしもいまの家の家賃が払えなければ、あと4日で出ないとだからね!あと100時間だよ!」みたいなことを話してくれて、ああ、この人達はなんて素晴らしい愚か者達なのだろうかという気持ちになった。自分がダメな時、自分以上にダメな人達に励まされることは多い。現状を共に嘆き悲しむだけではなく、現状を共に笑い飛ばせる人達の存在は大きい。

そんなMAYUCHAPAWONICAさんが、自身のブログで超絶最先端な内容の投稿をしていた。「概念の先に行く」というのはまさにそうで、私は、いまの私の生き方にまだ名前をつけることができないでいる。私の生き方を『旅人』とか『吟遊詩人』とか『ロクデナシ』とか『托鉢僧』とか『ロックンロール』みたいな言葉で表現してくださる方々もいるけれど、多分、私は「まだ世の中に名前のない生き方をしたい」のだと思っているのだと思う。最高におすすめなこちらの記事、是非、ご覧ください。


熱海の家のこれから【終わりははじまり】

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熱海の家の名義は、現在、坂爪圭吾ではなく購入をしてくれた方のものになります。ちょっと説明しきれない事情により、現在、私に残されている選択肢は「坂爪圭吾が名義人になってこの家を引き継ぐか、家を手放し、家なし生活を再開する」という二択になります。家を譲っていただけるということは非常にありがたい話でもあり最大限の感謝しかないのですが、家を所有するということは「どうしたって月々の固定費(月額3万円程度)が発生する」ということでもあり、なう、私はそこに躓いています。

現在の私の心境は「自分が名義人になることはないだろう。だけど、熱海の家や畑や自然は大好きだから、何かしらの面白い形で使ってくださる人がいれば一緒に何かをやれたらいいと思っている」という、非常に絶妙なポイントにあります。最終的な結論は今月中(遅くても11月中!)には出したいと思っていて、非常に乱暴にまとめると「固定費の問題さえどうにかなれば、是非、維持をしたい!」ということになります。

ここで、愛するブログ読者の皆様(あなた!目の前のあなたです!)にお願いがあります。今世の坂爪圭吾のテーマは「自分で決めない」ということで、何かこう、この家をこう使ったらいいんじゃないのかな的なサムシングが奇跡的に閃きましたら、いつでもお気軽にご連絡をいただければ幸いです。変な言い方になるのですが、決して同情や憐憫を求めている訳ではなくて、感覚としては「自分が行きたいと思う未来に一緒に行く!」ひとを求めている、というような心境です。

坂爪圭吾 keigosakatsume
keigosakatsume@gmail.com

「売る・買う」より「あげる・もらう」【自分の命を生きる】

この家の体験を通じて、改めて「自分は『売る・買う』の関係よりも『あげる・もらう』の関係が好きなんだなあ」ということを感じた。私は、昔からお金を稼ぐことが非常に苦手な人間であり、それはいまでも変わらない。たかだか月々3万円という額でさえも、まともに稼ぎ続ける自信がないのだ。もしかしたら熱海の家に住めなくなるかもしれないとなった時、私の思考は「頑張って3万円を稼ごう!」という方向ではなく、よし、いつでも托鉢に出られる精神の準備をしておこうという方向に向かった。

昨夜、国分寺で開催されたイベント終了時に、主催者の方が「私は坂爪さんを生かしたいという思いから、このイベントを企画しています。言い換えると、坂爪さんみたいなひとが生きられないような社会にはしたくないという思いがあって、だから、お越しいただいた皆様にカンパをお願いしています」という声かけをしてくれた。主催者の方は、イベント開催に関わるすべてを、完全に無償でやってくれている。月並みな言葉になるけれど、この思いに、このこころに、この結び付きに、私はいつも支えられている。

現在の私の暮らしは、完全に貰い物で成立をしている。宮城県からは干し芋の数々が届き、愛知県からは10キロの玄米が届き、実際に出会った方々からは飲み物や食事をご馳走してもらった。これだけ多くのものを貰い続ける日々の中にいると、変な言い方になるけれど「(心の底から)ちゃんと生きよう」という気持ちになる。この「ちゃんと」とは、世間一般的な意味でのちゃんとではなく、たとえ世間一般的な生き方とは異なるものだとしても「自分の命をちゃんと生きよう」という思いになる。

『生の短さについて』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、セネカ著作『生の短さについて』です。こちらの本は、国分寺のイベントを主催してくださった方が「表紙の文章が素晴らしいと思って」という言葉と共に、お譲りいただいた一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

生は浪費すれば短いが、活用すれば充分に長いと説く『生の短さについて』。心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』。快楽ではなく、徳こそが善であり、幸福のための最も重要な条件だと説く『幸福な生について』。実践を重んじるセネカ(前4頃-後65)の倫理学の特徴がよく出ている代表作3篇を収録。新訳。ー セネカ『生の短さについて』【岩波文庫


心配よりも信頼をしよう。

トークイベントの際、参加者の方が「坂爪さんのご両親はどのような人柄なのですか?」と尋ねてくれた。私は、ああ、こういう質問はとっても嬉しいなあと思いながら「私は両親のことを心の底から尊敬していて、尊敬している理由は100億個くらいあるのですが、何よりも『息子がこれだけ意味不明な生き方をしているにも関わらず、それを理解している訳でもないのに(理解をしないまま)温かく見守ってくれていること』です」というような返事をした。

私は、10代の頃から長髪の金髪で酒とタバコを嗜み原チャを乗り回して学校も全然行かない、みたいな非常に判り易い形で親とのバトルを散々に繰り返していた。親から「学校に行け!」とか「大学に行け!」とか「就職しろ!」などと言われていた時期は、私も私で「いやだ!絶対にいやだ!」と反抗を続けていたが、良い感じに私を諦めてくれた親が「あなたには何を言っても無駄ね。私は、ただ、あなたが元気で生きていてくれたらそれだけでいいわ」と思うようになり、私も、結果的に何も反抗するものがなくなったために「俺もしっかりと生きよう」と思うようになった。

心配をする人の特徴として、多分、相手のことを思いやる以上に「そのひとのことで自分が精神的・肉体的に煩わされることが非常にいやだ」という独善的な思いもあるのだと思う。私は、心配よりも信頼の力を信じる。MAYUCHAPAWONICAさんの言う通り、そのひとの生命力を信じて、ある種の放任主義の名のもとに「信頼をして、ほったらかす」ことができれば、それを受け取る側の人間も「うおおおおおおおおお!!」と勝手に発奮をして、結果的に(勝手に)真面目に生きはじめるものだと思っている。心配よりも信頼をしよう。否定的な力を投影すれば、世界はいくらでも心配の種を撒き散らしてくれる。肯定的な力を投影すれば、同じように、世界はいくらでも信頼の種を撒き散らしてくれるのだと思う。


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人生は続く。

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永遠にそのままで行け。

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先週の水曜日から「与える喜びを与える喜びツアー」なるものを開催している。金銭的な理由により、徒歩で日本各地を移動している私【坂爪圭吾】に施しを与えるという趣旨のイベントになるのですが、先日、ムカデに両足を刺されて両足が膨れた。森で寝たのが裏目に出た。普段から「自然最高!」などと叫んでいるものの、こういうことがおこると「自然・・・(遠い目)」という気持ちになる。

10月26日(水)には、東京都国分寺市でトークイベントなるものを企画していただいた。ブログに書かれている坂爪圭吾は実体の1割程度のものなので、是非、残りの9割を目撃していただけると嬉しいです。どなたでも参加できる内容になりますので、時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください。


ひとを幸せにするものは「生き物」だ。

東京都内を徒歩で移動しながら「俺はなんでこんなことをやっているのだろう」と、何回も思った。電車に乗れば20分程度の場所まで、ボロボロの草履を履きながら2時間以上も歩いて向かっている(両足はムカデに刺されて膨れている)自分は愚の骨頂なのではないだろうかと思うこともあったけれど、しかし、何時間も歩いて良かったと心の底から実感できる場面もいくつかあった。

そのひとつは「生き物とのふれあい」であり、私の場合、どれだけ身体が疲れていても『道端の花を見た時』や『幼稚園や公園からこどもの騒ぐ声が聞こえた時』や『猫や犬とすれ違う時』には、如実に元気になる。なかでも、こどもたちから貰うエネルギー量は尋常ではなく、何かあるとすぐに大声で叫びながら走り出すこどもたちを眺めていると「こいつらは全開でいいなあ、ほんとうにいいなあ!」と、見ているこちらまで嬉しくなる。自分の無意味な行動も、大きく肯定されているような気持ちになる。

私は「生きているもの」が好きだ。生きていると感じることが大好きで、生きていると感じさせてくれるものが大好きだ。では、生きているとはどういうことだろうか。私は、まだ、死ぬということがどういうことなのかがわからない。だから、生きているとはどういうことなのかも、同じように知ることはできない。ただ、自分の場合、生きているとは「動いていること」ではないだろうかと思うことがある。言い換えると、私は「動いている時に、ああ、自分は生きているのだなあと感じる」ことが多い。

汗と涙は裏切らない。

私は、汗を流すことが好きだ。汗を流したあとにはいる風呂は、なぜ、あんなにも気持ちいいのだろうか。理想を言えば、1日に1度は汗を流す時間を持ちたいと思う。女のひとからは、泣くとスッキリするという話を頻繁に聞く。これは私が男性だからなのだろうか、いま、涙を流すことができたらどれだけ楽になれるのだろうかと思いながら孤独な夜道を彷徨うこともあるけれど、男は、涙の代わりに汗を流しているのではないだろうかと思うことがある。

昨夜、猛烈なさみしさに襲われた私は、無駄に1時間の散歩をした。最初の20分程度は、まだ、頭の中から「俺はさみしい」とか「俺は無価値だ」とか「あのひとはなにをしているだろうか」などとしみったれた声が聞こえてきたけれど、歩き始めて20分を過ぎた頃から、ひたすら続く上り坂による疲労のおかげもあり、頭の中の声が黙り始めた。私の中で「そんなことよりも一歩一歩だ!」という感じになり、俯きがちになっていた視線は前を向き、閉じがちになっていた胸元も、不思議なことに開かれていった。

道中、アスファルトを突き破って咲く花を見つけて「お前はまじですごいな!まじですごいくせに、そのすごさをひけらかさないすごさがすごいな!」ということを思った。そして、周囲に誰もひとがいなかったことをいいことに、実際に声に出して「お前はまじですごいな!お前はまじですごいな!」と、目の前の花を褒め称えた。すると、自分で言った言葉に自分で感動をしてしまった私は、あろうことか、両方の目から滲む涙を感じた。私は「いけない!いけない!」などと慌てながら、同時に、ああ、自分は素晴らしい瞬間の中にいるのだなあという思いに包まれて、そして「汗と涙は裏切らない」のだということを思った。

わたり花壇『朝顔のタネ』

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今回は「わたり花壇無料郵送の一粒」なるものを特別開催(?)します。私は端的に自然が好きなので、自然が豊かになることは嬉しく、自然が破壊されてしまうことはとても悲しい。少しでも多くのひとが自然に触れる機会が増えたらいいなあと思っていたら、ある方から「この花の種を『わたり花壇』に使ってください!」と、宇宙飛行士の山崎直子さんが宇宙の旅に持っていった朝顔の種の五代目(!)をお譲りくださいました。こちらの種を無料でお譲りいたしますので、ご希望される方はお気軽にご連絡ください。

※※※ こちらのタネは、静岡県にわたりました ※※※

2010年、山崎直子宇宙飛行士は宇宙の旅に朝顔の種を持参。これを広島と福島の子供たちに咲かせてもらいました。この種はその朝顔の5代目です。是非、わたり花だんへどうぞ♡

わたりチケット『ルノワール展@東京駅』

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今回は「わたりチケット無料郵送の一枚」なるものも特別開催(?)します。先日、東京の神田駅前でお寿司をご馳走してくださった女神様が「美術館のチケットがあるので、必要としてくださる方にお譲りください」という言葉と共に、東京駅前にある三菱一号美術館で開催中(2017年1月9日迄)の『拝啓ルノワール先生 ー 梅原龍三郎に息づく師の教え」の鑑賞チケット(!)をお譲りくださいました。こちらのチケットを無料でお譲りいたしますので、ご希望される方はどなたでもお気軽にご連絡ください。

※※※ こちらのチケットは、東京都にわたりました ※※※

わたり文庫『日本の美を求めて』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、東山魁夷著作『日本の美を求めて』です。東山魁夷さんの絵画は非常に有名ですが、こんなにも素晴らしい書き手でもあったことは知りませんでした。こころの底からおすすめできる、素晴らしい一冊です。ご希望される方は、なにかしらの方法で坂爪圭吾までご連絡をください。いただいたすべてのメールに返信をすることができず誠に申し訳ないのですが【届いたメールはすべて目を通しています!】、御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

花が永遠に咲き、私達も永遠に地上に存在しているなら、両者の巡り合いに何の感動も起こらないであろう。花は散ることによって生命の輝きを示すものである。花を美しいと思う心の底には、お互いの生命をいつくしみ、地上での短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも、感じられているに違いない。それならば、花に限らず名も知らぬ路傍の一本の草でも同じことではないだろうか。ー 東山魁夷『日本の美を求めて』【講談社学術文庫


永遠にそのままで行け。

東山魁夷さんの言葉に出逢えたことがとても嬉しく、なぜ、自分はこれほどまでに嬉しさを覚えているのだろうかと考えていたら「自分と同じものを、自分以上に好きでいてくれたひとがいてくれた」からなのだと思った。日本の自然を、清澄な風景を、素朴な人間性を、こんなにも大切にしているひとがいたということが、自分が好きなものを自分と同じように(あるいは、自分を圧倒的に凌駕する次元で)讃えているひとがいたということが、大袈裟な言葉で言えば「味方と出逢えた」ように嬉しかったのだと思う。


天然記念物のようなひとがいる。誰も味方がいないように見える中で、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けたひとがいる。ただ、そのひとがそのひとであり続けるということが、こんなにも見るひとの心を勇気づけるものなのか。こんなにも見るひとの心に肯定的な力を与えることができるものなのか。私が、投げ出しそうになることもある中で辛うじて自分のままでいることができたのは、こうした「天然記念物のようなひと」の存在によるところが非常に大きい。そして、これからも(そして、これまで以上に)自分は自分であり続けたいのだという願いを抱く。


理解者や仲間がいるから歩き出せるのではなく、多分、自分から先に歩き出したからこそ理解者や仲間と出逢うのだと思う。自分で自分を認めることができない時期は辛いが、自分のこころが感じた光を、自分のこころが感じた命を、自分だけは認めてやりたいと思う。たとえ、それが周囲のひととは大きく異なるものだったとしても、自分の感覚を丁寧に伝えることはできなくても、理解してくれるひとはいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分が「いいな」と思ったものを「いいな」と思い続けるこころを、大切に守りたいと思う。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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【実践最強】どんどん痛い目に遭え、そして逞しく成長しろ。

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最後の食料である玄米と味噌も底をついたので、小麦粉に水を混ぜてうどんを作った。我ながらナイスアイデアだと思った(ほんとうは全粒粉を混ぜたりしてみたい)ものの、ビニール袋に詰めたうどん生地を足で踏みながら「チクショー!チクショー!」と叫び出していた私は、こころの病気なのかもしれない。

昨日から、野暮用で東京にいる。金がないときは身体を鍛えることがベストだと直感的に思い立ち、半ば強制的に身体を動かさざるを得ない状況を作り出すため、震えながらも「ええいままよ!」と下記のイベントを企画した。精神の都合で中断をする可能性もありますが、ピン!と来た方はどなたでもお気軽にご連絡ください。


「ないのに元気!」が面白い。

昨夜、自身のフェイスブックから「野暮用で東京にいるのですが、エコノミックな理由で徒歩で移動をしています。時間のある方や、ちょうど良いタイミングで食べきれない量のおむすびを持っていたという方がおりましたら、どなたでもお気軽にご連絡ください!!」という投稿をした。結果的に「新宿から神楽坂経由で大塚駅まで3時間歩き、大塚駅前にある定食屋さんで(神楽坂で合流をしたN様から)ヒレカツ定食をご馳走してもらう」という、感動的なフィナーレを迎えることができた。

道中、夜道を歩きながら話した時間が楽しかった。今世の私のテーマは「ないのに元気!」で、豊かは豊かでも「豊かな会社経営者」と「豊かな無職」の二人がいた場合、私の興味が注がれるのは後者になる。あるから元気!では、なんというか、当たり前のことになってしまう(場合によっては、嫉妬や憎しみの対象になってしまう)。ないのに元気!なひと【愚者】の存在は、大袈裟な言葉で言えばある種の希望になるのではないだろうか、などと思うことがある。

私の好きなおにぎりの具材はイクラで、こういうことはちゃんと口に出していった方がいいと瞬間的に思い立った私は、フェイスブックで投稿をする際に「好きな具材はイクラです!」と書いた。すると、新潟県村上市にご実家がある女性から「この時期になると、実家の父がアホみたいに鮭を釣り上げているので、熱海にいらっしゃるタイミングでイクラ送りますね」という神がかり的な連絡をいただき、私はよろこびに慟哭した。欲しいものはちゃんと口に出した方がいいという箴言(?)は、真実なのだと思った。

兄弟姉妹が多いひとほど死なない。

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先日、江ノ島近くの喫茶店で音声配信の収録をした。テーマは「サードファミリー【第三の家族】」ということで、これからの家族のあり方をテーマに(ラムピリカ店主のちあきさんと共に)雑談を交わした。ちあきさんは、小学6年生の女子と小学4年生の女子のふたりのこどもがいるシングルマザーで、先月は私と一緒に約2週間の欧州旅行の旅に出た。その際、こどもたちは「みんなで子育て」ということで、一緒に旅に出るのではなく「完全放任主義で(言い換えるならば『全幅の信頼感』と共に)友達などに任せまくる」という作戦を選んだ。


結果的にこの作戦は大成功し、こどもたちは様々な大人に出会い、おとなたちも(普段はなかなか接することのない)小学生との時間に斬新なインスピレーションを獲得することができたという、非常に素晴らしい展開を迎えた。家族の問題は家族内だけで解決をしがちになってしまうものの、家族を増やす(家族の意味を拡張する)ことにより、もしかしたら解決する問題はたくさんあるのかもしれないということを思った。この時期のあれこれは、こどもたちとメインで一緒に過ごしたちーちゃんのブログ記事に詳しいので、よろしければご覧ください(ちーちゃんの文才は秀逸!!!!!)


極論、自分がもしもの状況に置かれたとしても、助けてくれるひとがいれば人間は死なない。家のない生活を2年間ほど続けて感じた最大の感想は「兄弟姉妹が多いひとほどセーフティ!」ということで、逆に言えば、自分の力でどれだけ多くのものを溜め込んだとしても、それがなくなってしまえば一気に死の淵に立たされてしまう。大切なものは『他者との関係性』であり、安定した職業につくことや、多額の貯蓄を得ること以上に「どれだけ地球上に兄弟姉妹を増やすか【どれだけ他者と深い結びつきを感じることができるか】」ということ、大袈裟な言葉で言えば『相互的な慈愛の精神』が、21世紀の肝になるのではないだろうか。

空海の思想について』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、梅原猛著作空海の思想について』です。私は、この空海さまから「熱海【自分の殻】にばっかりこもっていないで、もっと世俗にもまれてこい!悟った風な顔をするな!どんどん痛い目にあえ、そして逞しく成長しろ!」と言われているような気がして、与える喜びを与える喜びツアーの開催に踏み切ることができました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、富山県にわたりました ※※※

人里から離れ、清浄なる悟りを楽しむ仏弟子たちよ、汝は己の清浄さ、己の悟りを否定し、もう一度人間のもとに、世俗のもとに帰らねばならないのではないか。まさに龍樹らによって起された大乗仏教の思想は、このような伝統仏教の世俗否定性にたいする批判から起った。(中略)いわば、龍樹は仏教者にたいへんむつかしい実践を命じるのだ。
人間は、いつも、とらわれの世界に住んでいる。自己にとらわれ、他者にとらわれ、小さな世界にとらわれているので、自由をえない。自由をえないから、本当に楽しくない。そういうとらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体となることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる。
密教では無我を言わない。無我のかわりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。ここが、密教と他の多くの仏教宗派、たとえば禅とちがっているところである。禅では否定の契機が強いのにたいし、密教では肯定の契機が強い。人間ばかりか、一切の存在するもの、誰が、我がなく、欲がないことがあろうか。しかも、我と欲は、人間存在の根源であるとともに、あらゆる人間的闘争と妄想の根拠でもある。この我と欲を脱却せよ、禅は、そのために、無我、無欲を説く。しかし果して、人間は無我無欲になれるか。無我になれ、無欲になれとは、人間に死を命じることではないとしたら、いたずらに、人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。
密教は、何よりも、強烈な生命力を説く仏教である。それは永遠に否定の深淵に人間をおきざりにすることを好まない。もう一度人間に、生命の歓喜の歌を歌わせねばならぬ。禅も、もとより、単なる否定に立ちとどまるものではない。しかし、密教の立場からいえば、その道は、まだ、真の肯定に達していない。汝は、何故に、墨染の衣に身をつつみ、苦行者のごとき、悲しい面持をするや。
密教哲学の魅力を、著者は次のように説く。「『世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ』。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。私が真言密教に強く魅かれ、現在も魅かれているのは、そういう思想である」と。ー 梅原猛空海の思想について』【講談社学術文庫


どんどん痛い目に遭え、そして逞しく成長しろ。

このブログ記事を書き終えたら目黒駅を出発して、神田駅に向かう。こころある方から「ランチに美味しいお寿司をご一緒しましょう!」というご連絡をいただき、私は、よろこびに溢れながら神田駅までの2時間強を歩き始めることになる。空海さまの言葉を引用したあとに、こういう文章を書いていると「自分は世俗にまみれたゴミ人間だ!」みたいな気持ちにもなるけれど、お寿司が食べられることはほんとうに嬉しい。

歩けば歩くほど、不思議なことに元気になる。そして、歩きながらいろいろなことを考える。時には、何が人間を苦しめているのだろうかとか、何が人間から自由や勇気や前を向くための力を奪うのだろうかとか、そういうことを考える。私の考えでは、多分、人間を殺すものは、職を失うことでもなければ金を失うことでもなく、飢えることでもなければひとりきりになることでもない、最大の要因は、それらに対する『恐怖心』ではないだろうか、ということを思う。

恐怖心は人間の精神を萎縮させ、想像力を破壊し、分離感を築き、世界に立ち向かう勇気を剥奪する。しかし、恐怖というものは「まだ実際には起きていないことを、積極的に先回りすることで勝手に傷つき怯みまくること」でもあり、多分、ある種の幻想に過ぎないのだと思う。空海さまは「とらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体になることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる」と言い、聖書の中には「おそれるな」という意味の言葉が365回(!)出てくるのだと聞いた。恐怖心によってこの瞬間を犠牲にしてしまうことは、とても悲しい出来事だ。難しい場合もあるけれど、『こうなりたくない!』と思う不安や恐れをベースに動くのではなく、『こうしていきたい!』と思う希望やよろこびをベースに、歩き続けて行きたいのだと思う。


人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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希望の光は、朝日と共に昇ってくる。

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食パンにクリームチーズと納豆をのせて焼いた後に、はちみつをかけて食べると超絶美味い!と言っても、信じてもらえることは少ない。食パンに納豆をのせて焼いた後に、ケチャップやマスタードをかけて食べるとフランクフルトみたいになるから超絶美味い!と言っても、悲しそうな顔をされてしまう。

最近では、玄米と味噌を食する宮沢賢治的な日々が続いている。納豆は「贅沢品」に分類されるようになった。貧乏生活も、長く続けているとそれなりのスキルが蓄積される。洗濯用洗剤がなくなったために、新しいものを買いそうになったものの「もしかしたら洗剤は不要かもしれない」と思って色々調べてみたら、重曹(あるいは水のみ)だけでも充分に汚れは落ちるのだと知った。多分、湯シャンと同じ原理なのだと思う。生活必需品が「実は必需品ではなかった!」と気付いた瞬間の手応えは大きい。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・趣味の合うひとと一緒にいればいい。


真理と呼ばれているものはひとの数だけあって、多分、どのような考え方を「採用」しているのかがそのひとの人生を決めているのだと思う。自分の人生はつまらないと思っているひとは「自分の人生はつまらない」という考え方を採用しているのであり、(別によいも悪いもなく)そのひとがそうしていたいのなら、ただ、そうしていればいいのだと思う。私は、私が「この考え方を採用したい!」と思えるものを採集する。世間的に正しいかどうかはあまり重要ではなく、自分のこころが楽しい気持ちになれるなら、自分のこころが優しい気持ちになれるなら、それが自分にとっての「真理」だと思っている。

2・真理はひとに優しい。


私は「真理はひとに優しい」と思っている(真理はひとに優しいものだという考え方を採用している)。そのため、これをするべき!とか、あれをするべき!とか、ある種の緊張感や脅迫感を伴った言い方や考え方は、できるだけ控えていたいと思っている。人間のパフォーマンスが最大限に発揮される瞬間は、何かを強制されて行う瞬間ではなく、そのひと自身がこころの底からリラックスをしている瞬間だと思う。誰かが決めた模範的な優等生になることよりも、「○○したくなる」とか「○○してしまっていた」という姿の中に、その人に宿る自然や、その人に宿る魅力はあるのだと思う。

3・この人でいいかなではなく、この人といたいと思える人といること。


これでいいかなではなく、これがいい、これがやりたいんだと思える、この「前のめり感」を大切にしていきたいと思う。そして、難しい場合もあるけれど「何もやりたいと思うことがない時は、何かをやりたいと思う時まで、ただ、何もやらないでいることの強さ」を身につけていきたいと思う。有意義な何かをしている自分を肯定することは簡単だけれど、何もしていない自分を、ただ存在しているだけの自分を、そのままの状態で肯定することができた時、はじめて「自分を愛する」ことができるのだと思う。何かをするから価値があるのではなく、本当は、何もしていなくても価値は常にあるのだと思う。

4・生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。


私が採用している考え方のひとつに「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」というものがある。ほんとうは別に(超絶広い意味では)この瞬間に死んでしまっても問題はないのだけれど、今夜寝る場所があり、明日食うに困らないカネもあれば、何も文句を言う必要はないのではないだろうか(それだけでもう幸福じゃないか、非常にラッキーなことじゃないか!)という気持ちになる。これがあれば人間として合格!【これがなければ人間としては不合格!】みたいなものはあるはずもないのだから、時には弱気になることがあるとしても、自分が生きているということそのものにもっと胸を張ってもいいのだと思う。

5・「ない」に賭ける。


ブログを書き続けていると「どうしてブログに広告を貼らないのですか?広告を貼れば、いまよりもずっとお金を稼げるようになるのに!」的なアドバイスを頂戴することがある。自分でも、お金を稼ぎたくない断固たる理由がある訳ではないので、こういう時には返答に困る。多分、私は「広告を貼らない(お金を生まない)方が面白い」と思っているのだと思う。言い換えるならば、私は、弱いままでいたいのだと思う。自分は弱いからこそ、自分には何もないからこそ、他者を必要とすることができるのだと思う。

6・自分の代わりに自分を生きてくれるひとはいない。


自分自身を31年間程度観察してきた結果、私は、根本的に怠惰な人間なのだということがわかった。自分の代わりにそれをやってくれるひとがいるのであれば、料理も、家事も、芸術も、政治も、仕事も、すべてをほかのひとに任せていたいと思っている。私は、私の代わりにそれをやってくれるひとがいるものに対して、持続可能な情熱を抱くことができない。言い方を変えれば、誰も代わりがいないもの、自分以外にはそれをやることができないものに対して、サステナブルな熱情を覚える。私にとって、それが「言葉を書く」ということであり、大袈裟な言葉で言えば「自分を生きる」ということなのだと思う。自分の代わりに自分の心情を表現してくれるひとはいないし、自分の代わりに自分を生きてくれるひとはいない。それならば、と、私は私の心情を綴りたいと思い、私は私の生涯を生きたいと思う。

7・「人並み」であることを捨てる。


家のない生活を始めた頃から、多分、私は無意識のうちに「人並みであることを諦めた」のだと思う。ひとと同じであることを望むほどに、自分が自分であることのよろこびは遠ざかるような気がする。私が(動物占いで言うところの)ネアカの狼だからなのだろうか、それとも、私が(何かと新しいことをやりたがると言われている)牡羊座生まれだからなのだろうか、そういう感覚を覚えることがある。おかしな言い方になるけれど、私の場合、人並みであることを捨てた余白に「自分自身の花が咲いた」感覚を覚える。逆に言えば、人並みであろうとすればするほどに「自分が死ぬ」ような感覚を覚える。

8・静かな充足感を与えてくれるものは、どれもお金のかからないものだった。


賑やかな時間だけではなく、同じ静けさを共有できる時間、同じ静けさを共有できる間柄の中に、言葉にならない豊かさを覚える。

9・自由とは「自分が消える」こと。


不幸は分離感で、幸福は全体感だと思う。自由とは、やりたいことをやれることではなく「自分が消える【恐れを完全に手放している】」ことだと思う。俺が俺がとなる(自分を強く主張する)ほどに、多分、その人自身は何か大きなものから切り離されてしまう。自分の正しさを証明しようとするほど、そのひと自身は「正しさ」から離れていく。自分の自由を証明しようとするほど、そのひと自身は「自由」から離れていく。自分の明るさを証明しようとするほど、そのひと自身は「明るさ」から離れていく。

『【新訳】老子

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岬龍一郎著作『【新訳】老子』です。原文直訳ではちょっと難解な文章が続く老子という古典作品が、現代風に非常にわかりやすく訳されている(老子入門に最適な)一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、富山県にわたりました ※※※

無用の用

自転車の車輪というのは、
たくさんのスポークが輪の中心の甑に集まっている。
この輪の中心の軸は空っぽだ。
でも、真ん中が空っぽだから車輪は車輪の働きができるんだ。

粘土をこねて器を作る。
器の中は空っぽだ。
何もない。
でも、
中が空っぽだから使い道があるんだ。
家の造りだってそうさ、中が空っぽだから部屋として使えるのさ。

人は目に見えるもの、形のあるもの、
中身の詰まっているものを大事にするけれど、
じつは、本当に大事なものは、
何もない “空” が支えているんだよ。
これを “無用の用” というんだ。

『【新訳】老子』【PHP】


10・希望の光は、朝日と共に昇ってくる。


熱海の家から見える朝焼けが綺麗で、思わず「うわあ」という声が漏れる。自然と両足は駆け出していて、着の身着のまま、この「思わず駆け出してしまっている」時の自分が好きだなあということを思った。意識を超えて、先に身体が勝手に動き出してしまっていることの中に、私は「私の自然」を見る。きっと、知識ではないのだと思う。身体が感じるよろこびを、私は大切にしていきたいのだということを思う。

ブログ記事を投稿する際に、各種SNSから様々な投稿を目にする。これはただのお願いになるのだけれど、私は「インターネットを批判や暴露の道具に使うのではなく、お互いを励まし合い、勇気付けるために使って欲しい」ということを思っている。あのひとはダメだとか、あの企業はダメだとか、何かの批判や暴露を目的にインターネットや各種SNSを利用するのは、それを見るひとにまで「恐怖や怒りや悲しみなどネガティブな感情を拡散させる【見る人の精神を萎縮させる】」ことになってしまう。

最高のパフォーマンスが発揮される瞬間は、何かを強制された瞬間ではなく、こころの底からリラックスをしている瞬間だと思う。私は、これからもひとのこころをリラックスさせる考え方を採用していきたいと思うし、ひとのこころをリラックスさせる考え方を採用しているひとと、同じ時間を過ごしていきたいと思う。ガチガチに強張りがちな体も、ガチガチに強張りがちな心も、ほぐれれば必ず素晴らしいものを生み出すようにできている生き物が、人間だと思う。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

弱さは「希望」だ。

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藤沢から熱海までおよそ55キロを(電車賃がないからという理由で)お借りしたロードバイクで移動をした。途中、小田原から熱海にかけての山道が地獄のような厳しさで、何度か「このまま死んでしまえたら楽になるのにね」的なタナトスの甘い誘惑に敗れかけたものの、同時に「何度も何度も何度も何度も懲りることなくこの道を自転車で走り続ければ、いつの日か、自転車を降りることなくこの道を駆け抜けられる肉体を獲得できるかもしれない」という希望を獲得した。


ボロボロの状態で熱海に到着をしたものの、ボロボロの状態で飛び込んだ温泉のよろこびは格別だった。自分の肉体を酷使する瞬間の中には、多分、原始的な喜びがある。いままでも電車やバスや飛行機で移動をすることは多かったけれど、どれだけ長距離を移動したとしても、自分の体力を使わない移動だったために「疲れたー!(でも、全然疲れてねー!)」という矛盾する感覚を抱いていた。自分の肉体を酷使するからこそ、到着した時のよろこび、到着した時の手応えは、より一層のものになる。

クロスバイクの神様の降臨。

過去記事を見てくれた男性から、奇跡的なメールが届いた。

坂爪様

はじめまして。
◯◯と申します。栃木県足利市に住む
24歳男性です。

ブログ、いつも興味深く読んでおります。ありがとうございます。

前置きが不器用で恐縮ですが、
わたくし自転車がとても好きで、
本日ブログの投稿を見て、カレラの
ロードバイクという記述にひとり
喜びを感じました。

最近あまり乗っていないブリヂストン
クロスバイクがあるのですが、
もし坂爪さんがご希望なら無料で
お譲りします。サイズM、スチールフレーム、泥除け、荷台等付属です。

都内もしくは川崎あたりまでなら
お持ちできます。

ご興味ありましたら連絡ください。

遅くに失礼しました。

◯◯◯◯

iPhoneから送信


私は「なんということだろう!!!!!」と興奮をした。クロスバイクを譲ってもらえるということももちろん半端なくありがたいことだけれど、何より、このような素晴らしい器を持った男性が同じ時代を生きているのだということに感動をした。ロードバイク初心者である私でも、たった1日、藤沢から熱海にかけて自転車をかっ飛ばしただけで「自転車はこんなに面白いものなのか!」と興奮をしていたものだから、このような形で声をかけてくださる方の存在は、本当にありがたいことだと感動をした。

貰い物だらけの日々の中で。

思えば、貰い物だらけの日々の中を過ごしている。熱海の家も、食器も調理器具も冷蔵庫も洗濯機も、ソファも扇風機もコタツも布団もヨガマットも本も本棚も、電飾もバイクも自転車も日常的に使い倒している鞄も靴もiPhoneiPadWiFi環境も、すべて、こころある皆様が購買してくれたもの(あるいは、使わなくなったものを譲ってくれたもの)で構成されている。これは決して自慢をしたい訳ではないのだけれど、私は「なんて恵まれた人間なのだろう!」と思う。

何度も書いていて恐縮だけれど、私は、お金を稼ぐことが非常に苦手な人間である(「売る・買う」より「あげる・もらう」の関係性を愛している)ために、これらの品々を自分ひとりの力で購買することは、おそらく、一生をかけても出来なかったことだと思う。熱海に遊びに来てくれた方々も「どうすればそんなにものを貰えるのですか??」と尋ねてくださるけれど、私にも、何が原因でこんなにものを貰えるのかはわからない。ただ、確実に言えることは「坂爪圭吾は、生きているのではなく『生かされている』のだ」ということです。

だからといって、必ずしも365日24時間常によろこびに溢れた日々を過ごすことができている訳では決してなく、自分の生き方に自信を失くしてしまうことや、何もやりたいと思えることのない自分を責めてみたり、ちょっと先のことを考え過ぎては弱気になってしまう(自爆をする)こともある。そんな時、私は「できるだけ身体を動かす」ようにしている。それがすべてを解決してくれる訳ではないけれど、僅かでも自分のこころが感じている負担のようなものを、軽減することができるように感じている。

賛美歌「慈しみ深き」に慰められる。

生きる気力をなくした時、私は、以下の三つのことを意識するようにしている。それは「好きな歌を歌うこと」「好きな道を歩くこと」「好きな人を思うこと」の三つになるのだけれど、歌に関しては、これを歌おうと思って意識的に口ずさみ始めることよりも、いつの間にか自然と歌い始めていることが多い。何を歌い出すのかはその時々の心境によって大きく変わる(自分でも「なぜ、この曲を歌っているのだろう」と思うことが多い)が、最近は、謎に賛美歌の『いつくしみ深き』を口ずさむことが多い。


つくしみふかき ともなるイエスは
つみ とが うれいを とりはりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを

誰でも一度は聞いたことがあるであろう、この曲の歌詞の後半部分を訳すると「心の中にある嘆きの気持ちを、隠すことなく神様に伝えることによって、背負っている重荷をおろすことができる」というものになる。この言葉を、このメロディーに乗せて口にするだけで、不思議と体が軽くなる感覚を覚える。ちなみに、大切なことは「頭で思い浮かべるだけではなく、実際に声に出して歌うこと」だと思っている。

つくしみふかき ともなるイエスは
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん

この曲の二番の歌詞「われらのよわきを しりてあわれぬ」という箇所にもグッと来る。この歌詞を口ずさむと「誰にでも弱い部分ってあるよね。しかも、それを外に出せないから余計に辛くなっちゃうことってあるよね。泣けたらどれだけ楽になるのだろうかとか思いながら、行くあてもなく夜の街をひとりでぶらつく時ってあるよね」的な気持ちになる。

つくしみふかき ともなるイエスは
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん

この曲の三番の歌詞「よの とも われれを すてさるときも」という箇所にもグッと来る。自分のまわりから誰もいなくなったとしても、神様だけは見捨てることなく深い慈愛を与えてくれるという意味になるのだろうけれど、グッと来る。私は、頻繁にさみしさに包まれることがあるのだけれど、さみしい時、それは「(ひとに優しくされたいと思うだけではなく)ひとに優しくしたいと思うとき」なのではないだろうか、ということを思う。


私は、一応無宗教ということになるのだろうけれど、キリスト教徒にとっての『イエス』的なものを、自然に対して抱くことがある。元気な自分を肯定することは易しいけれど、元気のない時の自分を肯定することは難しい。だからこそ「何かをしなくちゃいけない!」という思いに苛まれてしまうこともあるけれど、そういう時こそ、自然の「ありのままでそこにある」その姿に、深いやすらぎを覚えることがある。そして「自分も自然の一部なら、自然を愛するように自分を愛していきたい」という思いに立ち戻る。

『お灸のすすめ(+せんねん灸オフ)』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、池田書店『お灸のすすめ』です。こちらの本+お灸(実物70点入り)は、熱海に遊びに来てくれた方が「これはいいですよ!」とご持参くださった、本とお灸のセットになります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

古くから親しまれてきた自然療法、「お灸」。実は、高温多湿な環境や、水分をたっぷり含む食文化を持つ、私たち日本人には相性ばつぐん。小さな刺激で体をじっくりあたため、いたわることのできるお灸を、ぜひ、体感してみてください。ー 『お灸のすすめ』【池田書店


弱さは「希望」だ。

あがったりさがったりを繰り返しながら、日々は続いている。自分にとって嫌なことがあると、その嫌なことばかりにフォーカスをしてしまって「あああ、この人生はクソだ!!」などと思ってしまうこともあるけれど、多分、チャップリンも言う通り『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ』ということなのだと思う。大事なことは、自分の人生を、自分自身を肯定していこうとする姿勢【ロングショットで眺める余裕】なのだと思う。


稀に、このような生き方しかすることのできない自分を「ダメだなあ」と思うこともある。もっと『しっかり』生きないととか、もっと『ちゃんと』しないととか、そういうことを考えてしまうこともある。こういう場合、私は、自分を「得体の知れない普通と比較をする」ことによって酷く傷つけているのだと思う。しかし、自分がこのような生き方しかすることができなかったからこそ、出逢えたよろこびや感動があることも確かであり、そういうことを思い出す時に「これはある種の因果だな」という気持ちになる。

前回の投稿を見てくださった方から、一通のメールが届いた。うまく言葉にすることができないけれど、私は「自分の弱さに支えられている」のだということを思った。自分が弱い存在だからこそ、弱さの余白に希望は舞い込み、多くの助力を得ることができる。自分が弱い存在だからこそ、自分が自分を励ますために必要とした言葉の数々が、同じような弱さを抱えるひとにとっての(酷く傲慢な言い方になるけれど)ある種の光になることができる。「それならば」と、私は思う。自分の弱さを忌み嫌うだけで終わらせるのではなく、ひととひととを結び付け得る尊いものとして、大切に扱っていきたいと思った。


こんにちは。はじめまして(*^^*)
◯◯◯◯と申します。
わたり文庫の『いつも忘れないで』読んでみたいと思い、応募します♪♪


いつもメールを読ませて頂いてます!
ここ2週間程気持が塞ぎ込んで、家に引きこもっていました。(現在妊娠4ヶ月の専業主婦です)
やりたいことも見つからず、楽しいと思えることもわからないような気持ちだったのですが、
そんな時に坂爪さんのブログを読んで、

この子のためじゃなく、
私のためにこの子(お腹の子)と生きたい!

と言う言葉が浮かんで、すごい勢いで泣きました。
私のために動く
本当はずっとそうしたくて、
そうしていいんだと坂爪さんの言葉に背中を押された気がしました!
どこかで子供のために我慢しなきゃ…って思ってたんです。それが常識なんだと。
もちろん体調を優先して無理なくですけど、
妊婦でも、出来ることがある!
そう思えました(*^^*)
今やりたいことは、会いたい人に会いに行くことです。
そして食べたいものを食べることです♪

坂爪さんのブログで元気を、気づきをもらいました!
ありがとうございます(*^^*)

メールが長くなって申し訳ありません!
応援しています!!

◯◯◯◯

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

ひとに迷惑をかけてはいけないのではなく、どれだけ楽しい迷惑をかけられるかの勝負だ。

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新宿から吉祥寺まで徒歩で2時間、吉祥寺から国立まで徒歩で3時間かかり、国立で開催されたイベントに登壇した後に、いま、神奈川県藤沢市にあるデニーズにいる。藤沢でカレラのロードバイクをお借りすることができたので、このブログ記事を書き終え次第、藤沢から熱海の自宅まで自転車で戻ってみたいと思っている。所持金はマイナスになってきたものの、その程度の理由で自分の行動を制限されてしまうのはイヤなので、無料で移動する為の(かつ、逞しく生きる力を手に入れる)方法を探している。


新宿から国立まで歩いている道中、何度か「俺は何をやっているのだろう」という思いに囚われた。俺は馬鹿なんじゃないのだろうかと、自分に対する猜疑心のど真ん中にいた。だからなのだろうか、私のような生き方でも、誰かに何かを残せているのだと思えた瞬間の喜びは大きい。こうした瞬間に触れると「ああ、これからもいろいろなひとと話したいなあ」という気持ちが湧き上がる。10月は何も予定がないの(私は暇でさみしい人間なの)で、もしも坂爪圭吾のお話会的なサムシングをご希望してくださる方が奇跡的におりましたら、規模の大小などは関係ないのでいつでもお気軽にお声かけいただけると嬉しいです!!

坂爪圭吾の連絡先
keigosakatsume@gmail.com

家がないから死ぬのではなく「家があるから死ぬ」

国立のイベントに登壇した際に、久しぶりに人前でホームレス時代の話をした。同棲していた彼女と別れたことをきっかけに家を持たない生活をはじめた私だけれど、根本的に怠惰な自分は「家があるとYOUTUBEを見たり永遠に寝てしまう」堕落的な傾向がある。そのため、家を持たない生活というものは「怠惰な自分のケツを叩く」にはもってこいの状況であり、それが結果的に功を奏したのだと思う。

家がないと死ぬと思っていた。しかし、家のない生活を通じて「家があるから死ぬのだ」という逆説的な真理を得た。あと、当時は初対面のひとの家にお世話になることも多かったのだけれど、私の中で「連泊はしない」というルールを設定していた。多分、これも良かったのだと思う。根本的に私はビビリなので「連泊をすると迷惑だろうなあ」という遠慮や抵抗感が常にある。しかし、逆に言えば「一泊くらいなら、ある種のアトラクションとして泊めてくれるひとも楽しんでくれるだろう」と睨んでいた。

そのあたりから「ひとに迷惑をかけてはいけないのではなく、どれだけ楽しい迷惑をかけられるかの勝負だ!」的なことを思い始めた。自分のことは自分でできて一人前、誰かに頼るのは半人前のやることだという前提の生き方では、自分に何かがあった時に「誰かに助けを求める力」を養うことができない。私は、昔から誰かに甘えることが極端に苦手な人間だったのだけれど、家無し生活を通じて「敵が味方になる」という価値観の変化が起きた。

目からウロコ「敵が味方になる」

乱暴にまとめると、昔の自分には「他人とは張り合う対象である」的な認識があった。私が30歳なら、普通の30歳はこれくらいの家に住んで、これくらいの年収があって、これくらいの腕時計をしているものだ的な謎の基準が自分の中にあり、そこからはみ出さないようにはみ出さないように謎の努力をしていたように思う。言い換えるならば、自分が幸せになることよりも「他人から幸せだと思われること」に主眼を置いた生き方をしていたのだと思う。

しかし、家がなくなったらそんなことを言っている場合ではない。他人と張り合っている場合ではないのだ。「誰か泊めてください」的なことを叫び出したあたりから、自分の中にある余計な見栄やプライドが消えて、誰かに助けを求めるための練習を(無意識の内に)していたのだと思う。いままで、自分にとって他人とは「張り合う対象【敵】」だったのが、この頃から少しずつ変わってきた。大袈裟な言葉で言えば「敵が味方になる」ということを感じていた。

これがどういうことかというと、たとえば、イベントなどに登壇した際に30人くらいのお客さんがいたとすると「ここにいる人達ひとりずつに土下座をしてまわれば、ひとりくらいは自分を泊めてくれるはずだ」的な思考を持つようになった。私は、いつの間にか(敵を探すのではなく)味方探しをするようになっていたのだ。そして、不思議なことに自分が「どこかに味方はいるはずだ」的な認識で世界を眺め始めてから、やさしいひととの出会いが圧倒的に増えた。私は「ひとはやさしい」という当たり前の事実を、ようやく、自身の実感を通じて強く信じることができるようになったのだと思う。

大事なことは「ひとを信頼する」こと。

最近は「人間に対する信頼感と不信感」について考えることが多い。先日、ある方と話していた時にひとつの印象的な話題があがった。非常時に備えて、その方は貯蔵庫に水や食料や日用雑貨などを備えているのだけれど、緊急時の際はひとが暴徒と化して強奪に来るかもしれないから、いま以上に厳重な鍵を用意する必要があるし、場合によってはそういうひとを撃退するためのライフルが必要になるのかもしれない、というような話をしていた。


私は、その話を聞きながら「勇気とは武器を手にすることではなく、武器を捨てることだ」と直感的に思った。大きな話になるけれど、世界平和を望むなら「まずは自分の平和を実現すること【まずは自分から武器を捨てること】」だと思った。各種SNSなどを目にすると、たとえばラブ&ピースを唱えながら「安倍政権くたばれ!」的なことを平気で口にしている人達がいる。これはもう、戦争のはじまりだと思う。自分の中の争いを終わらせなければ、言葉や行動に説得力は宿らないのではないだろうか。


これらの経験を経て「大事なことは、ひとを信頼すること」だということを思った。いいひとと悪いひとがいるのではなく、多分、ひとりの人間の中にいい部分と悪い部分の両方があり、時と場合によって出てくる部分が変わるだけの話なのだと思う。大事なことは、人類の中に眠る「悪魔スイッチ【不安や恐怖を原動力とする的なサムシング】」を押し合うことではなく、人類の中に眠る「菩薩スイッチ【希望や喜びを原動力とする的なサムシング】」を押し合うコミュニケーションを目指すことではないだろうかと思うようになった。

『いつも忘れないで。』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、浅見帆帆子さん著作『いつも忘れないで。』です。こちらの本は、国立で開催されたイベントに千葉県から2時間かけて来てくれた女性が「自分にとって本当に大切な本なので、是非、読んでみてください!」と預けてくれた一冊になります。やさしい気持ちになれるような、まあるい気持ちになれるような、温もりにあふれた一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、長野県にわたりました ※※※

言霊の力を理解すると、ためしに言ったことが本当になってしまう経験をすると、マイナスの言葉、なにかの批判をする言葉、ねたみ、そねみ、毒々しい言葉などは、口にするのが嫌になる。きれいごとではなくて、マイナスの影響が自分に戻ってくるのがよくわかるから。聞くだけでも嫌になってくる。そんなことばっかり言っている人からは、離れたくなってくる。自分の心に入ってくるだけでもマイナスだと思うから。ー 浅見帆帆子『いつも忘れないで。』【ダイヤモンド社


みんな、揺さぶられながら生きているのだ。

2016年の秋は大きな意識改革が起きるとスピリチュアル界隈では話題だけれど、その内のひとつに「この時期は揺さぶられるような体験をするひとが多く、過去に引きずり戻されるひとと、行きたい未来に突き抜けるひとと、大きく二極化する」的なものがあるのだと聞いた。現在も絶賛揺さぶられる日々のど真ん中を生きている私は、この話を非常に興味深く聞いていた。そして、自分自身を(何度目になるのだろうか)見つめ直していた。

私は、何かあるとすぐに自分を閉じて殻に閉じこもりガチになる傾向がある。私の友達の嘉向徹の身体ありがとう君は、この現象を『閉じティブシンキング』と名付けているのだけれど、閉じティブシンキングにまみれている瞬間の私は、思い切り過去の自分に引きずり戻されているような感覚を覚える。自分が「これだ!この感覚が欲しかったんだ!」と思える瞬間を生きているという感覚よりも、何かこう、すごく後ろ向きな感覚に自分の体が支配されているような気持ちになり、自分を好きでいることが難しくなる。

東京の空は綺麗で「東京にも空はあるじゃないか」と思った。やはり、自分が大切にしたい感覚は「清々しさ」や「晴れやかさ」であり、金があろうがなかろうが、自信があろうがなかろうが、世間的な肩書きがあろうがなかろうが、いい感じの風を吹かせながら生きていきたいと願う根本的な単純さは変わらない。自分の存在意義を見失って「俺はダメだ、クズだ、ゴミ人間だ!」という思いに囚われることもあるけれど、なめくじが大量に発生しそうな生き方をするのではなく、無様でも、不器用でも、自分が「これだ!この感覚が欲しかったんだ!」と思える生き方をしていきたいのだと思っている。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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