北海道で、素晴らしい出会いを果たしている。いま、私は、熱海にひとつの拠点を構えている。家のない生活を2年間程度続け、それと並行してこのブログ【いばや通信】を書きはじめたのがいまからおよそ3年前、このブログを見てくださった方から「さすがに家のない生活は大変でしょう」と、完全なる御厚意で熱海に家を用意していただいたのが、いまからちょうど一年前、2015年の12月になる。
私は、完全なる御厚意で与えられたこの家を「自分のためだけに使うのは何かが違う気がする」と思い、泊まりたいひとがいれば泊まっていただき、何かを食べたいと思うひとがいれば(家に食料がある限り)自由に好き勝手に食べてもらい、イベントスペースなどで使いたいひとがいれば使っていただき、各種無料のイベントを企画したり、わたり文庫やわたり食堂に代表される「大袈裟な言葉で言えば『循環型』の試み」を実験的に行うになった。
熱海とニュージーランドの架け橋。
この家が、いま、もしかしたらなくなるかもしれないという状況に置かれたのが先月の出来事で、私は「自分の力だけで解決をしようとするのは違う気がする」と思い、家がなくなるかもしれないのだけれど何かいいアイデアはあるだろうか、というようなことをブログ記事として投稿した。すると、その記事を読んでくれたニュージーランド在住の40代女性【K様】から一通のメールが届き、私はそのメールの内容に強くこころを動かされた。
【過去記事】心配よりも信頼をしよう。 - いばや通信
「最近、子宮頸癌の手術をしたためにガン保険が200万円ほどおりました。そのお金を使って世界一周をしてきたのですが、まだ少しだけ手元にお金が余っているので、これをさかつめさんの家に使ってもらえたらいいのかな、と思いご連絡をさせていただきました。私は子宮を摘出したためにもう自分のこどもをつくることはできないのですが、熱海の家が『みんなで子育て』をできるような場所になればいいなあと思い、また、いつでも泊まれる、いつでも食べるものがある、何かあってもそこにいけばどうにかなるという場所が世界中にもっとできたなら、それだけで安心できるひとはたくさんいると思うんです。熱海の家も、まだ、実際には足を運んだことのないひとでも『熱海にはあの家がある』と思えるだけで、気持ちが楽になると思うんです」
私は、うまく言葉にすることができないのだけれど、K様の文章に触れて「美しい思いだ」と思った。こうした思いこそ引き継いでいきたいと思うし、こうした思いこそ世界に広がっていったらいいなあと、そういうことを感じて音速でメールに返信をした。その後、私たちはスカイプで30分程度の会話をし、K様が日本に戻られた際に、実際に熱海の家を見てもらうという約束を交わして終了をした。
支援は「私怨」【逆もまた然り】
札幌のスタジオで収録されるラジオ番組に出演するために、いま、私は札幌にいる。K様の地元も同じ札幌で、ちょうどK様も札幌に帰郷していらっしゃるタイミングだったので「蕎麦でも食べましょう」ということになり、昨日、志の家という蕎麦屋で食事をしながら会話をした。実際にお会いしたK様は笑顔が大きく、温和な人柄で「この方のことを好きになるひとは、たくさんいるんだろうなあ」という気持ちになった。
まだ、実際にK様の援助のもとに熱海を維持していくことに決まった訳ではない。今月末、K様は実際に熱海に来てくれることになったので、実際に家を見た時に感じたことをベースに、お互い無理のない決断(?)をしていけたらいいのだろうなあと思っている。K様は、昔から、自分でも孤児院を開設してみたいという思いがあるのだと話してくれた。いまはニュージーランドに拠点を構えているけれど、北海道のニセコの近くに素敵な物件を見つけたということで、明日、一緒に車でニセコ界隈まで足を運ぶことになった。K様とは「それぞれの場所でやっていることは別々でも、ニュージーランドとニセコと熱海が、何かしらの形で繋がったら面白いですね!【単純に繋ぎ遊びたい!】」という話もした。
誤解を恐れずにいうと、私は「支援活動【慈善活動】」とか「弱者救済のボランティア」みたいなものになかなか興味をもつことができない。多分、その理由は「弱者を弱者と呼んでいる呼び手側の、その独善的な傲慢さ(上から目線)が苦手だから」なのだと思う。なんというか、問題解決型のアプローチは「自分たちはこんなに重要な問題に取り組んでいるというのに、周囲の人たちはまったく理解してくれないからムカつく!」という私怨【憎しみ】を生みやすい。私は、あらゆる物事において『フェアでありたい』という思いがある。もっと言えば、弱者だろうがなんだろうが「一緒に遊びたいと思うひととは弱者だろうが遊ぶし、一緒に遊びたいと思えないひととは強者だろうが遊ばない」という思いがある。
ひとにはそれぞれの役割がある。
先日、ある方から「手元に玄米が30キロあるので、さかつめさんが熱海にいる時に車で届けにいってもいいですか?」というご連絡をいただいた。私は、なんてありがたいお言葉なのだろうかと感動をしてしまって、今月末にその方と熱海でお会いする約束を交わした。熱海の家には、様々な方々から譲り受けた、様々な食材が溢れている。決して豪華な暮らしができるという訳ではないけれど、基本的な調味料や調理器具や大量の玄米など、最悪の場合でも「これさえあれば死なない」程度の食材ならば、非常にありがたいことに常にストックされている。
多分、私は「ひとからものを貰うこと」が得意(?)な人間であるのだと思う。同じように、私の役割は「文章を書くこと」であったり「世界各地を飛び回ること」であったり「様々なひとと実際にあって対話を重ねること」であり、それが自分のポジションのようなものであると感じている。逆に言えば、私はひとつの場所にずっといることができない。今月も、熱海には3日程度しかいないことになる。私が安心をして熱海を離れることができるのは『熱海を守ってくれるひとがいるから』であり、多分、ひとにはそれぞれの役割があり、それが見事に合致した瞬間に最高のパフォーマンスは発揮されるのだと思う。
傲慢な言い方になるのかもしれないけれど、私は、私のためには家はいらないと思っている。しかし、私達のためには家が必要であると思っている。私は、多分、家があってもそこに長期滞在をすることは(自分のこどもでも生まれない限り)まだないのだと思う。私は、また次の新しい家や何かを探して外に出て、仮に新しい何かを獲得することができた暁には、熱海の家と、新しい何かを繋ぐような架け橋的なアイデアを模索し、編み出し、試行錯誤を繰り返しながら、また更に(その場所の管理は他の方に任せて)別の場所に足を進めるのだと思う。私は、誰かのために生きるということが酷く苦手な性格であるために、自分のために生きることが結果として誰かの役にも立ったというような、頗るラッキーパンチ的な生き方をしていきたいと思っているのかもしれない。
多拠点生活【新しい家族】
札幌市内は自然も豊かで料理も美味しく、ここのひとつの拠点が持てたらどれだけ素晴らしいだろうかということを思った。17日には新千歳空港から福岡空港に飛ぶ(この日は午後から何も予定がないので、福岡界隈で時間のある方はお気軽にご連絡ください)のだけれど、札幌も、福岡も、格安航空券などの普及で気軽にアクセスできるようになっている。いままでは「ひとつの場所を見つけて、そこに根を張るような暮らしをすること」が大多数の日本人にとってのスタンダートだったけれど、戦争や天災や財政破綻など、何が起こるかわからない時代には「複数の拠点を持つことが、結果的にセフティネットの拡張になる」こともあるのだと思う。
複数の拠点を持つための動きが、私には、複数の家族を持つための動きに見えることがある。私は、家のない生活をしていたころ、様々な方々の家に泊めていただいた。彼らは一様に「困った時はまたいつでも遊びにおいで」と言ってくれた。私は、大袈裟な言葉で言えば、新しい方々の家に泊まる度に『新しい家族が増えている』ような感覚を覚えていた。家がなくなることを通じて、日本中に、世界中に、家が増えているような感覚を覚えた。少なくとも「家がなくならなければ絶対に出会うことのなかったひとたち」との出会いは、私の人生観を大きくエクスパンドしてくれた。家がないことは非常にリスキーな生き方であるはずなのに、不思議と、家のない生活を続ける(ひとに泊めてもらう日々を過ごす)ほどに、自分が生きていくことに対する不安は薄れ、世界に対する信頼感や安心感は増しているように感じていた。
私は思う。ひとにはそれぞれの役割があり、得手不得手があるのだから、なんでも自分ひとりの力でやろうとすることには無理がある(たとえ実現できたとしても、タカが知れている)のだと思う。K様は、熱海の家を『みんなで子育て』ができる場所になればいいと話してくれた。私は、この感覚に強い共感を覚えた。有り体の言葉になるけれど、みんなでやればどうにかなるということが、この世の中にはたくさんあるのだと私は思う。問題なのは、ひとりひとりの個のパフォーマンスが落ちていることではなく、ひとりひとりの結びつきが強まり、なんでも自分ひとりの力でやらなければいけないという風潮が強まっていることにあるのだと感じている。
助ける側にも、助けられる側にもよろこびはある。
私はいま、このブログ記事を、札幌にあるホテルの部屋から更新をしている。風邪気味で頭が朦朧としてしまっているものの、温泉もあり、朝食バイキングも豪華(もとから朝食は食べない派だけれど、貧乏性なのでヨーグルトと輪切りのキウイフルーツを50枚くらい食べた)で、とてもじゃないけれど私には贅沢過ぎる環境にビビっている。私は、このホテルをとってくれたS様に「こんなにも素敵な場所をありがとうございます!」と言わずにはおれず、何度も、くどかったかもしれないけれど何度も何度も何度も繰り返し感謝の気持ちを伝えてしまった。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月31日
私にできること、多分、それは「こころを込める」ということなのだと思う。トークイベントなどに呼ばれて登壇をする時も、誰かと実際にあって話をする時も、こうして自分の思いを言葉に綴る時も、私にできることは「こころを込める」という、ただ、それだけのことなのだと思う。私には何もない。何の専門性もなければ、社会的な信頼も肩書きもなく、定職もなければ、所持金も少ない。それでも、なぜ、自分のような人間でも生きてこられたのかというと、K様やS様のようなひとの優しさによるところが非常に大きく、私は、ひとの優しさに触れる度に「自分をしっかりと生きよう」という気持ちになる。
最近、怒りは人生を駄目にするということを実感する。怒りはある種の悲しみを内包していて、怒る度に「自分の中にある悲しみや分離感を強化する」感覚を覚える。かといって、言いたいことを言わないでいると病気になるから、最近の課題は「言いたいことは言う。その時は、心を込めて優しく言う」です。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月5日
ひとにはそれぞれの役割がある。なんでも自分ひとりの力で成し遂げようとするのではなく、重要なことは「自分の役割を知る【自分の持ち場を守る】」ことなのだと思う。私の場合、2年間の家のない生活はそれを知るために大いに役に立った。私の役割は「言葉を綴ること」「外に出ること」「ひとに会うこと」などに代表されることであり、大切なことは『こころを込めること【自分の純度を高めること】』なのだと感じている。きっと、自分ひとりの力では難しいことでも、みんなでやればどうにかなることはたくさんある。現在の私に提供できるものは「自分の存在」と「熱海の家」程度でしかない。この程度しかないけれど、自分にあること、自分にできることを最大限に生かしていきたいと思う。
大切なことは「気持ちを込める」ことなのだと思う。日常的な家事とか会話とか何気ないメールのやりとりとか、いま、目の前にあることにこの日限りの気持ちを込めるということが、多分、いまを生きるということなのだと思う。今日の命は今日でおしまい、出し惜しみをしている場合ではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月12日
人生は続く。
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