いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。

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北海道を経由して福岡にはいり、今夜は「おはなをあげる@福岡」というイベントを勝手に開催する。初対面の方々に自己紹介をする際、社会的な肩書きのない私は「二年間程度、家のない生活をしていました」とか「みなさまの施しで生きております」とか「何もしていません」とか言うのだけれど、大概の場合は怪訝な顔をされて終わる。しかし、昔、洞窟に住んでいた時期があるという話をすると若い男の子たちにはウケることがわかった。
 
【イベント詳細】おはなをあげる@福岡
 
昔から、どうやって稼ぐかということよりも「どうすれば稼ぎが少なくても生きられるか」ということに興味があり、その第一弾(?)としての『家なし生活』だった訳だけれど、これからも根本的な部分は変わらないのだと思う。多分、起業家【独立した人間】には二種類いる。あらゆることを器用にこなせる優等生タイプの起業家と、あらゆることをやってみたものの何もかもが全然ダメで、結果として「自分でやらざるを得なかった」ゆえに起業家になった【奇跡的にオリジナルな生き方を発掘した】人間の二種類で、私は(起業家ではないけれど)完全に後者だ。いろいろなことをやってみたけれど全然まともに生きていける気配がせず、他人の言うことを聞けず、マニュアルが大の苦手で、集団行動がとれず、愛想笑いをすると死にたくなり、自分を殺して生きるくらいなら自分を出し尽くして死にたいと願うような人間で、だからなのだろうか、現在は、自分でもあまりよくわからない生き方をしている。
 

「何が起こるかわからない」を愉しむ。

トークイベントなどに登壇をすると「夢は目標はありますか?」と尋ねられる。私には、夢も目標もないために「夢も目標もありません」と答えると、質問者にびっくりされることが多い。でも、やりたいことも特にないので「やりたいことも特にありません」などと答えたりすると、じゃあ、なんでそんなに元気なのですかというようなことを聞かれる。自分でも自分のことがあまりよくわかっていないから「なんでなんだろう。なんでだと思いますか???」と逆に尋ねたりするのだけれど、そんなことを聞かれても困ると思うので、改めて自分自身の嗜癖と言うか傾向を振り返って見た。
 
多分、私は「何が起こるかわからない」という、想定の範囲外の出来事に触れることが好きなのだと思う。家のない生活も、いまのように「あらゆる個人情報を晒して生きるスタイル」なども、家がある時よりも(自分をクローズドな状態にしている時よりも)面白い目に会える可能性が高まるから、多分、このような生活をしているのだと思う。言い換えるならば「面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置く」ことには興味があるけれど、そこで何が起こるかということに対する期待やコントロールは何もない。期待やコントロールを超えた出来事に遭遇できた時、私は、ああ、このような生き方をしていた良かったと心の底から思うことができる。
 
「面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置く」という言葉は、我ながらほんとうにそうだなあと思っていて、熱海の家を開放しているのも「その方が面白いことが起こりそうだから」という理由に尽きる。決して社会的に良いことがしたいとか誰かを救いたいとかそういう思いがある訳ではなく、どこまでも、自分自身のためにやっている部分が強い。ただ、自分自身のためにやっていることが結果として誰かの力にもなることがあるのだとすれば、それは本当に素敵なことだとは思う。素敵なことだとは思うけれど、それを目的にしてしまうと何かがズレてしまう気がするので、あくまでも最優先事項は「自分が面白いと思ったことをやる」にしていたいとは思っている。
 

ラッキー!【誰かの幸福は副産物】

自分の中で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしないこと」というものがある。過剰な使命感や正義感は「価値観の押し付け」的な暴力を生みやすいし、私は、自分と同じであることを誰かに強要したいとは思えない。ただ、自分のために生きることが、結果として、誰かのためにもなることがあるとすれば「ラッキーパンチだ!ありがとう!」と思うし、もちろんそのことに対する強い嬉しさや喜びもあるのだけれど、あくまでもそれは副産物である【数ある『面白い目』のひとつに過ぎない】のだと思う。
 

このような生活をしていると、普段は出会うことのない様々なタイプのひとたちと出会う。そんな方々から「いままでは自分の境遇を嘆いたり自分で自分に同情してしまうことも頻繁にあったのですが、さかつめさんみたいに家も金も仕事もなにもない癖に元気に生きている(失礼!)ひとがいるんだって思うと、自分も人生を愉しみたいって思うようになりました」なんて言われてしまうと、おお、友よ!(お互いにイロイロなものがないけれど、まあ、明るく楽しく生きていこうじゃないか!)という気持ちになる。この時に感じる感覚はとても清々しく、非常に爽やかな風が吹き抜けるために「ああ、このような生き方をしていてよかった」という気持ちになる。
 

「鉄砲玉48」というアイデア

前回のブログ記事でも書いたように、熱海の家がなくなるかもしれない問題はなにも解決していないのだけれど、前に、天然記念物的レベルでどうしようもないひとたち(失礼!)を集めて『鉄砲玉48(仮)』みたいなグループを結成したらどうなるのだろうかと考えたことがある。とりあえず住む場所と食べるものはあるのだから、みんなで簡素な生活を続けながら「人手が足りないからちょっと手伝ってよ!」みたいな声がかかれば、世界中どこでも実際に足を運んで無給で働く(ここ大事!無給は大事!まずは自分の身を粉にすることからはじまる)御用聞きみたいなことをやれば、新しい人間関係も生まれ、経験の幅も広がり、謎の技術も徐々に身につくなど、それなりに楽しく生きていけるのではないだろうかと思った。
 
 
しかし、私には管理能力がないので「誰か、女中さん的なひとが(複数人の交代制ででも)熱海の家を取り仕切ってくれたらいいのになあ」などと甘い妄想を抱きながら、このアイデアは未だに眠り続けている。最近では「ひとりでは難しく感じることでも、みんなでやればどうにかなる(どうにかなるばかりか、想像を超えて楽しくなる)」ということを感じていて、学校教育とか、子育てとか、老人ホームとか、孤児院とか、介護施設とか、限定的で閉ざされたコミュニティ内で(ある種隔離をしながら)抱え込むことよりも『社会全体で共有してしまう』ことの中には、なにかしらの突破口が隠されているような気がしている。
 
ジブリ映画『風立ちぬ』に登場するカプローニは「センスは時代を駆け抜ける。技術はその後について来るんだ」と言っている。大事なことは、多分、センスだ。いまはまだ名前のつけられていない、名前がつけられていたとしても社会的に低く見積もられてしまうようなことでさえも、そこにセンス【新しい組み合わせ】を上乗せすれば、きっと、世の中をひっくり返しちゃうような(別に世の中をひっくり返したい訳ではないけれど)何かを生み出してしまうことはあるのだと思う。自分を変えたいと思う訳ではないけれど、自分が変わっていく姿を見ることの中には楽しさがある。自分を大きく変えちゃいそうなこと、自分を面白い目に遭わせてくれそうなこと、面白そうなことが起こりそうな場所に自分を置くこと、多分、私の興味はそこにあるのだと思う。
 

『突破者の母』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮崎学著作『突破者の母』です。前述したように、このような生活を続ける中で、時には「極道の親元で育ちました」とか「自分は昔はヤクザでした」と話すひとたちと稀に出会う。私が出会ったひとたちに限る話になるけれど、彼らは、一様に『非常に魅力的な人柄の持ち主』だった。その理由が、この本の中で見事に言語化されているような気がしました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※
 
極道の世界は「男の花道」がどうの「男ぶり」がどうのと、ことあるごとに「男」を云々する男臭い世界であるが、実は母性原理に貫かれた母系社会的な要素がきわめて強い。男たちは「人は一代、名は末代」などと勝手なことをいいながらおのれの面子や名分にこだわって游俠の限りをつくす。そして、喧嘩沙汰で命を落としたり放蕩の果てに窮死したりで、多くが若死にする。その男たちの精神的な拠り所となっているのは「母的なもの」である。
この社会には必ずグレートマザー的な女性がいる。その大いなる母が死んでいった男たちの死を癒し、男たちの勲を語って伝説化・神話化していく。男の馬鹿さ加減に半ばうんざりしながらの営為であるのだが、その母性に支えらえて男たちはひたすら跳ねていくわけである。典型的な男尊女卑の世界のように見えながら、女の存在は物心両面にわたって実に大なるものがあるのである。
生きることを媒体としていた昔のヤクザの女は、男が生きてゆくために一つの重要な役割を確実に果たしていた。それは、何かにつけてはヤクザな男たちの武勇伝に尾ヒレを付け、ついには伝説にまで仕上げてしまうことだ。それは、体を張って生きている者にとっては勲章をもらったようなもので震えがくるほど嬉しいことなのである。
だいたいにおいて、アウトローというのは失敗に失敗を重ねながら生きているのであって実はそんなに立派な生き方をしているわけではない。それを周りの女たちが褒め讃え美化してくれるおかげで、アウトロー的モラルのタガがはめられて共同体の成員としての自覚が培われて行くのである。つまり、その美談が本人の耳に入り女たちが美化したような人間になろうと努力する。そういうふうにしてアウトローとして徐々に純化してゆくわけである。
「馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て」ー 宮崎学『突破者の母』【徳間文庫】
 
 

馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。

昔から、既存の生き方にうまく馴染めなかった私は、結果的に「自分なりの生き方を自分で築き上げる」ことになった。言葉にすれば格好良いものに響くかもしれないけれど、道中は(現在も)それはそれは悲惨な出来事の繰り返しで、何度も「ああ、俺はクズだ、死んだほうがきっといいんだ!」と思わされることの連続だった。しかし、そんな時でも、自分と同じようにどうしようもない生き方をしてくれているひとの存在(失礼!)は、大きな慰めとなり、大袈裟な言葉で言えば『生きる力』になっていた。
 
現在も、諸事情で色々と滞納をしている諸々のアレは大量にあるが、そのような中で「おはなをあげる」とかやっている自分はいったい何がやりたいのだろうかと自分を疑ってしまうこともあるけれど、そのような時ほど「他人の借金を返すために自分が借金をしてお金をあげた」女性の存在や、「三ヶ月電気代を滞納していて家が暗くて、臨時収入で8000円貰ったけれどそれじゃ全然足りないと思って中目黒に行ったらパチンコ屋が数店あって『私は前のめりに生きたいから、一番前の店にはいる』と決めてパチンコをしたら、四万円近く勝ったから電気代を払えました!」みたいな話を聞くと、なんだろう、物凄い元気になる。
 
多分、世間的に言えばこういう生き方は「おそろしく間違っている」ことなのだと思う。しかし、私は「間違っていることは百も承知で、でも、そういう風にしか生きれなかった」ひとたちの存在が本当に好きだ。多くのひとから見て正解とされるような生き方はできなかったとしても、そのひと自身が思う『正解』を生きることができているひとに、私は、最大限の敬意を込めて拍手を贈りたいと思う。自分で自分を許せない時期はつらいが、自分の心が軽く扱われてしまう時期はつらいが、あまりにも味方が少なすぎる故に自分を信じることが難しい時期はつらいが、それでも、泣く道ではなく『笑う道』を選んだひとの姿に、私は、いまもまだ全然治らない鼻風邪に悩まされつつも強く勇気付けられている。
 

 
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人生は続く。
 
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