いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

過酷で楽しい托鉢生活。

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タイ最終日は非常に印象的な1日になり、この日は、バンコク在住の日本人女性のご自宅(非常に豪華!ちなみにこの日が初対面)にお招きいただき、お集まりいただいた方々とタイ料理を囲んだ。参加メンバーのみなさまの個性が半端なく、ひとりの女性は「数年前までレバノンの難民キャンプで生活をしていて、隣で銃撃戦が行われている中でこどもを出産した」経歴の持ち主だった。
 
もうひとりの女性は、数年前までネパールの山奥で風呂もなにもない生活をしていて(1年半前位にバンコクに移住をした)、こどもが3人いるのだけれど「こどもたちは学校には行かないで、ホームスクール(先生役はお母さん&WORLD)という形でやっています」と話してくれた。日本の常識は世界の非常識などと言いますけれど、なんかもう、みなさまの生き方がカラフル過ぎて「俺の出る幕はないな」と悟った私は、ひたすらごはんを口に運び続けた。
 

過酷で楽しい托鉢生活。

11月11日の朝8時に成田空港に到着をして、昼の12時からは下北沢で「坂爪圭吾を囲む会的なサムシング」が開催された。主催の方のご自宅で開催されたのだけれど、下北沢という好立地にも関わらずご自宅が豪華過ぎて「ご自宅が豪華過ぎる!」と思った。平日の昼間の開催であったにも関わらず、たくさんの方々が駆けつけてくれて「(徹夜明けみたいな頭の状態はちょっとしんどいけれど)やっぱりひとと実際に会って話すのはいいなあ」と思った。
 
私のように、ブログなどを通じて(リアル社会よりも先に)バーチャルな世界から先に名前ばかりが知られるようになると、どうしても「伝言ゲームのように、根も葉もないデマや噂が飛び交う」ことに悩まされることは多い。自分程度の知名度でもこれだけの情報が流れているのだから、国民的な有名人の風評被害(?)というものは、半端ないのだろうなあと想像する。しかし、有名無名を問わず「同じ人間であることに変わりはない」のだから、面と向かった会話を交わせることの中にはリアルな繋がりを覚える醍醐味がある。
 
そして、改めて「自分が大切にしたいのは、まだあったこともないひとからの目線や批判や好感度ではなく、実際にお会いした方々とのリアルな繋がりなのだ」ということを思った。こうして文章を綴っている私の中には血が流れていて、こうしてこの文章を読んでいるあなたの中にも血は流れている。人間関係に上も下もない、ただ、この「同じ血が流れている【同じ時代を共に生きている】」というある感覚こそ、自分が大切にしたい感覚なのだと思った。
 

「生きているぜ!」という感覚の共有。

15時から、下北沢駅前のファミレスで雑誌の取材を受けた。インタビュアーの方も、副編集長の方も、非常に素晴らしい人柄の方々で「このひとたちと出会えただけで今日は幸せ!」と舞い上がった私は、非常に上機嫌(?)な状態でインタビューにお答えさせていただくことができた。私は、多分、性別を問わず『穏やかで品のあるひと』が好きなのだと思う。親しき中にも礼儀ありという言葉が好きなのだけれど、初対面から「いえーい!」などとタメ口を話す方々とは「星が違うなあ」という感想を抱く。
 
インタビューを受ける際、記者の方が「さかつめさんの言葉はメッセージ性が高い」というようなことを言ってくださり、私は、個人的にはメッセージを発信しているつもりはない(ただ、自分に言い聞かせていることを言語化しているだけ的な感覚です)という返答をした。私は、ただ、言葉という容れ物の中に自分の生命を流し込みたいと思っている。内容がどうのこうのというよりは、言葉の躍動を通じて「俺も、あなたも、生きているぜ!」的な感覚を(結果的に)共有することができたのならば嬉しいと思っている。
 
いまの社会が悪いとか、いまの日本人は悪いとか、自分以外の誰かを悪いと言えるほど、自分は善い生き方をできているとは思えない。ただ、できることならば「善い生き方」をしたいと思う気持ちはある。だからなのだろうか、私は、自分以外の誰かにメッセージや助言をできるような立場にあるとは思えない。私は、ただ、自分が体験したことの中から「自分が感じたこと」を言葉にしているだけに過ぎない。その言葉が、結果的に誰かに前向きな力を与えることになっていたとしたら、それは非常に幸運なことだとは思う。非常に幸運なことだとは思うけれど、誰かを幸せにするために言葉を書いている訳ではない。
 

「粋」な女性の登場。

昨日、小田急線沿線在住の女性から「さかつめさんに、どうしてもお渡ししなけれないけないものがあります」という連絡が届いた。私は「え!なんだろう!」とドキドキしながら、15時に下北沢駅前で女性と落ち合う(結果的に雑誌の取材とダブルブッキングになってしまった!)と、その女性は出会い頭に「はい」と謎の紙袋を手渡してくださるやいなや、そのまま、颯爽と下北沢の街の中へと消えていった。
 
紙袋を開けると、あろうことか(前回のブログ記事で紹介させていただいた)身体を洗う為の高級タワシと、手拭いと、手紙と、東京都内で使える銭湯の無料券が複数枚同封されていた。私は「なんて粋なことをする女性なんだろう!」と嬉しくなってしまって、ああ、世界は優しさに溢れているなあと感慨に浸った。私は、いま、多くの方々からの施しを受けながら生きている。文章だけではなかなか伝わりづらい現象だと思う(お前は宗教家か!とディスられることもある)けれど、この現象は、実際に目撃したことのある方にならわかる感覚だけれど、実際に目撃しなけれな絶対にわからない類の現象なのだと思う。
 
 
そこで、私は「せめてもの恩返し【恩送り】として、みなさまにおはなをあげるイベントをやろう!」と思い立ち、昨夜、誠に突然ではありますが『おはなをあげる@渋谷』というイベントを立ち上げた。内容は、単純に「さかつめと、さかつめの友人のあべさんと一緒に、私たちは渋谷のファミレスでお茶をしています。おはなを五輪ほどご用意しておりますので、早い者勝ちになってしまいますが、もしもおはなが欲しいという方がいらっしゃいましたらデニーズまでお越しください(ご希望される方には、珈琲をご馳走します!)」というものになる。
 

おはなをあげる@渋谷の展開。

開始直前の告知になったために「ひとりくらいでも来てくれたらいいね」と話していたら、結果的に8名程度の方々がデニーズに駆けつけてくれた。ここでも奇跡的な展開は複数個起こり、青森県から届いたりんご8個を届けるためだけにデニーズに来てくれた方(3分程度でお帰りになられた)や、隣の席で食事をしていた男性が「突然申し訳ありませんが、あの、さかつめさんですか?実は、私が来た時にはお座席がすでに満杯で隣で食事をしていたのですが、これ、みなさまの食事代に使っていただけたら嬉しいです」と、非常に格好いい形でテーブルの上に封筒を置き、そのまま、颯爽とお店を出て行かれた。
 
こんなことを書くと「だからお前は宗教家なんだ!」と即座にディスられてしまいそうだけれど、違う、多分、それは違うのだと思う。あの場を共有してくださった方々ならわかってくださると思うのだけれど、昨夜、私はデニーズの店内でひたすら自身の顔面をタワシでこすり続けていた。決して「生きるとは…」みたいな話を神妙な面持ちでみなさまと語ったりしていた訳ではなく、阿呆みたいな顔をして「お肌がテュルッテュル!お肌がテュルッテュルだよ!」などと叫んでいた時に、突然りんごを貰ったり、突然お布施を貰ったりしていたのだ。
 
誤解されると困るが、私は「私は宗教家ではない!」という必死の弁解をしたい訳ではなく、自分はこれほど面白い目に遭えているのだという自慢をしたい訳ではない(のだと思う)。ただ、巷では「都心の人間は冷たい」とか「多くの日本人には余裕がない」とか「世間は物騒である」みたいな話が跋扈しているけれど、実際のところは「いいひとばかりじゃないかもしれないけど、でも、悪いひとばかりでもないぜ!」ということを、誰かに伝えたいと思っている(のかもしれない)。
 

オン・ザ・ロード

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ジャック・ケルアック著作オン・ザ・ロード』です。ノーベル文学賞でお馴染みのボブ・ディランに「この本は僕の人生をかえてしまった」と言わせちゃう程度には世界的にも有名な一冊で、先日、東京都内の本屋さんで購買をしたのですがなかなか読み切る時間に恵まれておりません。故の、放出でございます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※
 
若い作家サルとその親友ディーンは、自由を求めて広大なアメリカ大陸を疾駆する。順応の50年代から叛逆の60年代へ、カウンターカルチャー花開く時代の幕開けを告げ、後のあらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書。バロウズギンズバーグ等実在モデルでも話題を呼び、ボブ・ディランに「ぼくの人生を変えた本」と言わしめた青春のバイブル『路上』が半世紀ぶりの新訳で蘇る。ー ジャック・ケルアックオン・ザ・ロード』【河出書房】(表紙裏帯より引用)
 
 

ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。

ラジオ番組の収録に読んでいただき、14日から数日間北海道に向かいます(16日は札幌で終日暇をしているので、何かあればお気軽にお声かけください!)。なかなか熱海の家でゆっくりすることができていないのだけれど、昨夜、数日振りに帰宅をすると、全国各地から様々な贈り物が届いていた。北海道産のじゃがいも、にんじん、玄米、乾き物、お手紙、お手紙、お手紙と一緒に同封されていたクオカード(そこには「必要な誰かに使ってもらえたら嬉しいです」と書かれていました)など、大量の施しをいただいた。
 
【補足】逢初庵をご利用予定の方々は、台所の食材も自由にお使いください!
 
施しなんていう宗教的な言葉を使うから誤解を招いていることはわかっているのだけれど、でも、それでも尚「施し」と呼ばざるを得ない(そのように呼びたくなる)現象の連続に、ああ、自分は生きているのではなく生かされているのだなあという思いを禁じ得ない。郵送された荷物を開封しながら天上を仰ぎ、神様的なサムシングに「ありがとうございます」と囁きながら土下座をしたくなった(実際にした)。現在、18日は佐賀県武雄市、21日は山口県光市、23日は広島県尾道市に足を運びます。もしも実際にお会いできる方がいらっしゃいましたら、どなたでもお気軽に遊びにいらしてください!!
 
 
 
 
海外に行くと「日本は、子育てをするには不適切な場所【こどもや母親に冷たい環境】」という声を頻繁に耳にするが、しかし、そんなことはないんじゃないのかなと思う自分がいる。本当は、多くの人たちは「誰かに何かをしてあげたい」と思っていて、ただ、迷惑になるかもしれないという遠慮や気遣いが働いて、声をかけたいけれどかけられずにいるだけ【ある種の『許可』さえおりれば、気軽にひとと助け合えるもの】なのだと私は思う。
 

 
ひとのこころを開くもの、善性の花を咲かせるものは、きっと「正しさよりも『楽しさ』」のある環境だと思う。単純に、すれ違うひとと軽い挨拶を交わせただけでも、心地の良い風は吹き、身体が軽くなるような嬉しさを覚える。私は、ある種の許可がある限り、ひとはいくらでも優しくなり得る生き物なのだと思う。この『許可』とは何か、何がひとのこころを開き、何がひとを菩薩的なものに変えるのかということに関心があり、難しい場合もあるけれど、お互いの【阿修羅スイッチではなく】菩薩スイッチを押し合える関係性を築きたいのだと、そういうことを思っている。
 

 
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人生は続く。
 
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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