いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。

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福岡を経由して佐賀県武雄市にはいり、過去に非常にお世話になった方々と夕食を共にした翌朝、電車を乗り継いで島根県の津和野町にきた。見事な紅葉である。先日は、津和野町で開催されたお話会的なサムシングに登壇(?)をしたのだけれど、参加者の女性から「さかつめさんの空気がきもちよすぎて、もっと一緒にいたかったです!」とか「お肌綺麗ですね!」とか「お顔もお顔以外も美しいですね!」みたいなことを言ってもらえて、ああ、死んでもいいと思った。
 
 
世間的な肩書きはなにもない私だけれど、これから、職業を尋ねられた時は「温泉です」と答えようかなと思った。そう、それはまるで温泉のようにその空間にいるもののこころとからだを問答無用でほぐしてしまうような存在、そういうものにわたしはなりたい。そういうものにわたしはなりたいと思っていた矢先に、昨夜、早速ある方とひと悶着を起こしてしまって、宿泊を予定していた場所を放り投げて真夜中の山口県内を3時間ほど歩き、結果的に真っ暗な山間部で野営をした。最初はルンルンで夜道を歩いていたものの、途中、もしかしたら猪が出てくるかもしれないという妄想が頭をもたげてからは恐怖心の虜となり、木の葉が落ちる度に「うわああああああああああああ!!」とか「やめろおおおおおおおおおおお!!」などと、情緒を不安定にしていた。
 

野生の勘を取り戻せ!

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結果的に体調は悪化して、微熱と咳は止まらず、意識は朦朧としていて、下腹部には謎の蕁麻疹が出てきたり(風邪薬を投入したからなのかもしれない。薬との健全なお付き合いを見極めていきたい)、割りと散々な目にあっていたけれど元気だ。これは、多分、神からの「初心を思い出せ!」という合図なのだと思う。家のない生活をしていた頃、あの頃は、いいこともあったけれど悪いこともそれなりにあった。ただ、悪いことがあったからこそよいことがより一層際立って見えるものであり、文明の力、金の利便性、布団や風呂の有り難みなど、当たり前がいかに当たり前でないのかということを全身で痛感した。
 
移動を続ける生活、ひとに会うことの多い生活を続けていると、それなりに「人間の本性を読み取る能力【動物的な勘】」のようなものが鍛えられているような感覚を覚える。そのひと自身の一挙手一投足、言葉の使い方、声の抑揚、姿勢、瞳の輝き、服装、表情の均整や歪み、そういったものから「ああ、このひとは自分を自分以上に見せたいんだな」とか「ああ、このひとは自分のことが嫌いなくせにプライドだけは異様に高いんだな」とか「ああ、多分、このひとはひとをすぐに裏切るぞ」とか「ああ、このひとになら騙されても構わない」とか「ああ、このひとは自分で自分に超絶OK!を出せているからこんなにも魅力的なんだな」みたいなことが、少しずつわかるようになってきたように感じる。
 
私は、多分、そのひとが話している内容そのものではなく「どのような温度で話しているか」を聞いているのだと思う。表面的には「YES」と言っているようなことでも、そこにそのひと自身の血が通っていなければ、私には「NO」を言っているように聞こえる。何を言っているのかではなく「どのような気持ちで言っているのか」に重点を置いて聞いているのだけれど、その嗅覚というか、その違いを見極める力が(少なくとも数年前よりは)身についてきたので、それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、嘘を感じる空間にいると「無性に居心地が悪くなる」病気のようなものになってしまった。
 

「修行」と「遊び」のハイブリッド。

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私は大袈裟な人間だから、聞きたくない話を聞いていると「耳が腐る」と思ってしまうし、見たくないものを見ていると「目が腐る」と思ってしまうし、自分の気持ちをごまかしていると「心が腐る」と思ってしまう。だからなのだろうか、自分や他人を欺いているひとと同じ空間にいることができず、逆に言えば「自分の状態がよかろうが悪かろうが、それを素直に認めて、それを率直に言葉にできる」ひとと出会うと嬉しくなる。人間としての純度とでも呼べばいいのだろうか、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けたひと、私は、そういう人たちのことを敬意を込めて「天然記念物」と呼びたいと思う。
 

 
移動を続ける生活は、私にとっては「修行と遊びのハイブリッド」のようなものであり、この生活に鍛えられている部分も大量にあり、この生活によって得られた恩恵も大量にある。その、最も素晴らしい恩恵のひとつが「天然記念物との出会い」であり、現在では絶滅危惧種になっている『自分純度が死ぬほど高い人々』との遭遇の中には、いままでの日々を大きく肯定してくれる力がある。自分がどれほど体調を崩して寝込んでしまっているような時でさえも、こういう人々と電話などで話をすると「あらゆる出来事を前に人間が選択できる道は泣くか笑うかの二者択一であり、泣くのはダサい、何かのせいにすることもダサい、俺は、ただ、こういう人達と一緒に笑っていたかったのだ」ということを思い出して、もりもりっと元気になる。
 

 
生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
 

男は女に許されて生きている。

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前回のブログ記事で「おはなをあげる@福岡」を開催する旨を告げた。驚いたことに、開催二時間前の告知であったにも関わらず10名以上の方々が足を運んでくださり、別れ際に「これを受け取ってください!」と、手紙と一緒に飴玉をくれた女性もいた。手紙をあけると、そこには非常に可愛らしい文字で「いつもありがとうございます。」と書かれていて、ありがとうございますはこちらこそです!と、泣けた。
 
 
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佐賀県武雄市では、小学四年生の女の子と同じ布団で寝た。寝る前にラジコンで遊び、眠り、目覚めてすぐにバトミントンとボール遊びをした。帰り際、女の子が「これ」と言って手紙をくれた。そこには「さかなのかんづめへ(多分、坂爪ということなのだと思う)。どこに行ってもがんばれ!」と書かれていて泣けた。手紙の裏には「じゃあね」と書かれていて、なんというかもう、自分はこういう類の優しさに弱いのだと改めて痛感をして、腹が温かくなるような感覚に包まれて、少しばかり泣けた。
 
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津和野町の翌日は、山口市阿東町「地球食堂」でお話会が開催された。
 
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店主のMさんの笑顔がお世辞抜きに可愛くて、一緒にいるだけで多幸感に満ち溢れてしまった。私は(初対面のひとの前では)決して口数の多いタイプの人間ではないけれど、でも、それなりにそのひとが持つ「隠された優しさのようなもの」を敏感に察知するようにできているみたいで、Mさんの底知れぬ大海のような愛の器に、なんというかもう、山口県に来て本当に良かったという気持ちになった。
 
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店内に掲げられていた看板には「愛がとう。」と書かれていて笑った。Mさん曰く「愛がとうと言われて、嫌になるひとはおらんじゃろ」ということで、おっしゃる通りだと思った。私は、これら一連の流れの中(及びいままでの人生全般を振り返ってみた中)で、ああ、男は女に許されて生きているのだなということを思った。うまく言葉にすることはできないけれど、女は、男のダメなところを受け入れ許して支えてくれる。その支えによって、いま、男【少なくとも自分自身】は好きなことができているのではないだろうかということを感じた。
 

マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』です。私は、この生活の中で、多分、何人もの「日本のマザーテレサ」と出会ってきたのだと思う。何か大きなことをやるだけではない、小さなことにこころを込めてやることの大切さを教えてくれたのは、彼女たちの存在だった。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、山口県にわたりました ※※※
 
人々は時に、食べ物以外のもので飢えていることがあるものです。私たちの子どもたち、夫、妻は食物、衣服、住む所に飢えてはいないでしょう。でも、彼らが一人っきりで淋しく、見捨てられ、無視されている結果、愛情に飢えていないとは断言できないのです。こういう貧しさも存在しているのです。
私たちは忙しすぎます。だからお互いを見つめ合う時間も、互いにほほえみ合う時間も持ち合わせていないのではないでしょうか。
政治家たちは、謙虚にひざまずく時間をもっともっと、ふやさないといけません。そうしたら、きっと彼らはより良い政治家になると、私は信じています。
私が喜びという時、それは、大声で笑うこと、馬鹿騒ぎをする状態を意味していません。それらは真の幸せな状態とは異なります。人は、笑いとか馬鹿騒ぎで何かをごまかそうとすることがあるものです。
きわめて安楽な生活、ぜいたくな生活のできる人々がいます。それは彼らが努力した結果手に入れた特権と言えるでしょう。私が怒りを覚えるのは、無駄遣いです。まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。
私は、一対一のパーソナルな触れ合いが大切だと信じています。
私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。
何度でも飽くことなく繰り返して言います。貧しい人々が最も求めているのは、憐れみではなく愛なのです。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、他の人間のそれと全く同じ質と量の尊厳なのです。ー 渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』【PHP
 
 

いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。

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高知県在住のSさんは私の姉御的な存在で、Sさんは、私とたいして年齢は変わらないくせに私のことを「孫」と呼ぶ。そして、自分のことを「祖母」と呼び、愛に満ち溢れている自分の能力を「祖母力」と呼んでいる。私はSさんのことが大好きで、時折LINEなどで会話をするのだけれど、私の祖母は日々に何かしらの出来事が生じた時や、新しい刺青を入れた時などは私に連絡をしてくださり、私は、その美しさを前に「かっこいいですねーー!!」などと感嘆の声をあげたりしている。
 
最近、祖母にはとてもいいことがあったみたいで、孫としてもとても嬉しい。祖母にまつわるエピソードは108個位あるためにとてもじゃないけれどすべてを紹介することができないのだけれど、彼女は、私達が暮らしている地球のことを「この世ランド」と名付けている。俺たちはこの世ランドにパスポートを持って遊びに来ているお客さんのようなもので、何をするのも自由、この世ランドにはいろいろな不思議が隠されていて「感情を先取りしたら、すべての現実が追いつくのがこの世ランドの仕組み」であることを教えてもらった。
 
目で恋に落とし
耳に愛をささやき
頭から離れさせず
心を奪い
胸で抱きしめて
尻で敷く

女の六段活用じゃ
覚えとけ 試験に出るぞ

by 祖母
 
祖母からはいろいろなことを教わる。最近、素晴らしい出会いに恵まれたらしい愛する祖母は「いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ」という名言を残した。私は、端的に、なんてかっこいい女なのだろうかと思った。そして、私は、思う。どのような生き方でもいいから、胸を張って、ただ、どーんと構えていればいいのだ。人間の生き方に正解はないのだから、多分、人間の生き方に間違いもないのだ。どのような生き方でもいいから、自分が自分であることに胸を張り、正々堂々、ただ、どーんと構えていること。それだけのことで、以外と、いろいろなことはスムーズにまわりはじめるような気がしている。
 

 
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人生は続く。
 
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