天才とは、システムのエラーである。
人間が死ななくなる。
完全没入型のヴァーチャルリアリティ。
「わたし」とは誰なのか。
いろいろなことがわからなくなる。
『シンギュラリティは近い』
天才とは、システムのエラーである。
⚪︎⚪︎すべきとか、⚪︎⚪︎しなければいけないという言い方や考え方は、できることなら控えていきたい。誰かが決めた模範的な優等生の姿よりも、「⚪︎⚪︎したくなる」とか「⚪︎⚪︎してしまっていた」という姿の中に、その人だけに宿る自然や、その人だけに宿る魅力はあるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
恐れなければ、心を閉ざしてしまわなければ、人生は素晴らしいものになるんだ。 pic.twitter.com/rEsaeOzUwg
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月23日
何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時間は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月22日
もっと遊べ。もっと狂え。
日本を逃げる。
イベント情報
『インド人の頭ん中』
インド人の入浴は朝なので、朝シャワーをした後にプージャ(神様に捧げる儀式)をすることが多い。また、プージャのときにホラ貝を吹く人も多く、住宅地では、どこからともなく、ホラ貝の音が聞こえてくるのが、朝の情景だ。毎日、ホラ貝を吹くのは、肺にもいいそうである。忙しい現代人の中には、通勤の車の中でマントラなどをCDやテープで聞く人も非常に多い。タクシーでも、朝一番に乗ると、そういったテープをかけている場合が多いのだが、テープにとどまらず、車の中でお香までたいてしまうところが、さすがインド。灰が車内に落ちても、へーちゃらなので、客はすごい煙に巻かれ、マントラを聞きながら、朝もやの中を移動することになる。しかし、いざ日本に帰ると、懐かしく思い出すのは、インドのそんな朝の情景なのである。冬野花「インド人の頭ん中(中経の文庫)」
もっと遊べ。もっと狂え。
こんなことをしてしまったら自分はダメになってしまうんじゃないだろうかと思うことの先に、多分、新しい自分はいる。自分の純度を高める為には、蛇が脱皮を繰り返すように、古い自分を脱ぎ捨てる必要がある。大切なことは、繊細さと、大胆さだ。大袈裟に言えば「もっと狂え」ということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月21日
自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人に嫌われる方がずっといい。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月3日
自由でありたいと思うならば、自分を批判してくるひとの「批判する自由」も認めないといけない。批判に屈するでもなく、認めた上で、話は聞くけど言うことは聞かない。ごめん、やっぱり俺はこうだわという感じで(悲壮感を漂わせることなく明朗に)自分の道を歩けばいいのだと思いました。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月19日
自然のままの姿が、多分、一番美しい。
ローズマリー軟膏
圭吾さんへこんにちは。今日はいつもより多めに軟膏を送りたいと思います。見た目がフラットになっていないものは、私が知人に差し上げる物用として冷蔵庫内でとっておいたものをスパチュラで入れたものです。気温も高めなので、やわらかくなりやすいですが、手荒れで困っている方々にプレゼントして下さい。圭吾さんからもらうことで、きっともらった方はさらに嬉しいと思います。軟膏を使って下さる方々へお伝えください。夏場は涼しい場所に置いて下さい。とてもやわらかくなりますので。それから、何か不足しているものはありますか。消耗品でも何でも、気がついたものがあれば言って下さいね。⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎
『夏の森』
幸福な人っていうのはどんな状況の中でもどんな景色の中にもどこかいいところを見つけられる人そしてどんなにすばらしい景色の中にもある影をうとまない人
『わたしは樹だ』
そうして いつか……、わたしにも たおれる ひが くるだろう。生きて 生きて、そして そのときが きたら、わたしは ゆっくりと たおれよう。そして、つぎに やってくる タネたちの ねどこに なろう。わたしの いのちは、つぎの樹へと、森へと、つながっていくのだろう。
『老子入門』
得道の聖人は自身にためこまない。何もかも他人の為にしながら、自身はさらに心豊かになっている。何もかも人に与えながら、自身はさらに所有(徳)がふえている。
自然のままの姿が、多分、一番美しい。
自分の心を軽く扱う人達を相手にするほど、自分も他人の心を軽く扱うようになる。同じように、自分を大切に扱ってくれる人達と同じ時間を過ごすほど、自分も他人を大切に扱えるようになる。大切なものは大切な人達との時間であり、自分の心を軽く扱う人達を相手にしてはいけないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月8日
自分は自分のままで咲き誇り、自分は自分のままで散り誇る。路傍の草花に魅了されるのは、其処に「有終の美」を見るからなのだと思う。誰が見るでもなく、誰に認められるでもなく、与えられた命を無心に生き抜くその姿に、心は共鳴するのだと思う。 pic.twitter.com/y1bTpVfbmZ
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月9日
自由とは、常にやりたいことができる状態のことだと思っていたけれど、最近は【自分が消えた状態が自由なのだ】と思うようになった。自分が自然と同一化して消えた時、楽しさも寂しさも悲しみも喜びもない、ある種の『無』だけが残る。自分が透明になるほどに、多分、すべてが自分になる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月10日
いつも空を見上げているような気持ちでいたい心の解放が必要だ人には時々そして帰るところも銀色夏生『夏の森(角川文庫)』
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。
花と月を友にして。
自分の中にいる小さなこどもが、外に、外に、飛び出したがっている。ここから出してくれと、時折、小さな暴動を起こしている。大人になるということは、こどものままではいられないということだと思っていたけれど、違った。自分の中の小さなこどもに、広い、広い世界を見せてあげることだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月14日
人間の価値は、誰かに褒められたからと言って増えるものでもなければ、誰かに貶されたからと言って減るものでもない、常に一定でそこに在る【不増不減】のものだと思う。大切なことは、多分、過剰に調子に乗らないことと、過剰に自分を責めないことだ。自分を責めても、誰も幸せにならない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月15日
『良寛』
独りで生まれ、独りで死に、独りで坐り、独りで思う。そもそもの始まり、それは知られぬ。いよいよの終り、それも知られぬ。この今とは何か。それもまた知られぬもの。展転するものすべて空である。空の流れの中にしばらく我れがいるのだ。だから、是もなければ、非もないはず、そんなふうにわしは悟って、こころゆったりと、時のすぎるにまかせておる。
静かな窓の下で、衣をととのえて坐禅を組んでいる。臍と鼻の穴をまっすぐにおくと、耳が肩までたれてくるではないか。窓が白くなった。月が出たのだ。しずくがひとつひとつ落ちる音がする。雨もやんだ。このひとときの、このこころもち、ああ、たださびしさがあるだけだ。ほかのものは何もありはしない。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。
ひとりで生きる強さの裏側には、誰かといられない弱さがある。弱い自分は、苦手だなと感じるひとと同じ空間にいるだけで、露骨に胃腸が痛くなる。自分で自分を護ることが難しくなる。ひとりの時間を好むことは、孤独に耐える強さではなく、そうでもしなければ生きていけない自分の弱さだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月8日
お願いだから、負けないでくれ。
尾道! pic.twitter.com/RtNJmhA9gv
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月12日
言葉に支えられて、生きる。
いやだなあと思うものを受け入れることは、いやだなあと思うものに自分も加担をしていることになる。自分の心が「美しくない」と思うものには、明確な拒否を示すこと。いやだなあと思うことを続けていると、美しくないと思うものを受け入れてしまうと、自分の存在まで醜いものに成り下がる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月9日
『モーターサイクルダイアリーズ』
落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ。
お願いだから、負けないでくれ。
瀬戸内海は、もう夏だ。 pic.twitter.com/GFMPwxuPg6
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月11日
星は誰のものでもないからこそ、みんなのものになり得るのだと思う。 pic.twitter.com/6d5ExuGlWX
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月12日
学校に行きたくないとか、仕事に行きたくないとか、これらは我儘でも弱さではなく、心の底には「正当な理由」が必ずあると思う。必要なのは、それを押し殺す為の努力ではなく、それを言語化する為の努力だと思う。嫌だなあと思うことを受け入れ続ける日々を過ごすと、最悪の場合、魂が腐る。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月13日
「泡になる」その想いは泡になる泡になって消えてしまうだから気にしなくていいこの想いも泡になる泡になって消えてしまう消えてしまうだろう
「抜け殻」二人の関係がよかった頃の言葉を思い出し つないでもそんなものには意味がない二人の関係がよかった頃の言葉は二人の関係がよかった時にだけ正しく機能する二人の関係が変わってしまった今ではそんな言葉などもうとっくに死に果てている見てみろただの抜け殻だおまえが抱いているものは抜け殻ではないか力をこめればすぐに壊れてしまうだろう聞きたくないかできないと泣くのか俺が壊してやるがどうだ愛というもののなれの果てを俺が教えてやるが どうだ愛しき君よ抜け殻など捨てて現実の二人を見てみろそこに希望があるのが見えないか
「白い空」羽ばたく鳥の遠い後ろにひろがる空白い空散りぢりになる葉っぱ風の音憧れたあの人憧れが消えていった消えてしまった今日白い空に羽ばたく鳥の広い背中にひろがる空
「希望」俺達はいっせいにおどろき あこがれたこの空の青さ 広さ見たこともない狭い路地の上に広がる青さ まぶしさいまなにか聞こえた?なにか胸が躍るようなものじゃなかった?
「すみわたる夜空のような」何かがだんだんあいまいに死んでいくようなつきあいよりすみわたる夜空のような孤独を
「君へ」君は好きなことを、好きなふうにやるべきだ。そのことが他人から見て、どんなに変でも、損でも、バカだと言われても、気にするな。だって彼等は、君の願いを知らない。君が何をめざし、何に向かっているのかを知らない。君は彼等とは違うものを見てるのだから。あの、強い思いだけを、繰り返し思い出して。そのことを忘れないで。他人の説教やからかいなど気にせずに、どんどんやりなさい。けして周りを見たらダメだ。仲間はいないんだ。すくなくとも途中には。君はやりたいように、どんどんやりなさい。やりたいことを。好きなやり方で。その行為が同時に君を救うだろう。その行為は同時に人をも救うだろう。そのことを忘れないで。銀色夏生「すみわたる夜空のような」(角川文庫)
さみしいなあ、さみしいなあとぼやきながら、また、ひとりになるんだろう。
諦観の先に得たもの。
『禅とはなにか』
人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。たとえば、もし友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ煩わしいいざこざから逃れられるし、発言するのを少しだけ減らせば、その分だけ過失がなくなる。また、思案するのを少しだけ減らせば、その分だけ精神は消耗しないし、利口ぶるのを少しだけ減らせばその分だけ本性を全うすることができるのである。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を、自分から手かせ足かせで束縛しているようなものである。
孤独や無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘ること。
さみしいなあ、さみしいなあとぼやきながら、また、ひとりになるんだろう。 pic.twitter.com/Yvk62K1xWl
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月10日
自分は自分のままで咲き誇り、自分は自分のままで散り誇る。路傍の草花に魅了されるのは、其処に「有終の美」を見るからなのだと思う。誰が見るでもなく、誰に認められるでもなく、与えられた命を無心に生き抜くその姿に、心は共鳴するのだと思う。 pic.twitter.com/y1bTpVfbmZ
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月9日
つらく厳しい瞬間が訪れたとしても、自暴自棄にはならないこと。これは、この二年間の生活の中で、自分が自分に設けたルールのひとつになる。嬉しさや楽しさだけではない、悲しみの中にも、苦しみの中にもよろこびはある。孤独や自分の無力さのど真ん中を、よろこびに届くまで深く掘ること。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月9日
「告別」おまえのバスの三連音がどんなぐあいに鳴っていたかをおそらくおまえはわかっていまいその純朴さ希みに充ちたたのしさはほとんどおれを草葉のようにふるわせたもしもおまえがそれらの音の特性や立派な無数の順列をはっきり知って自由にいつでも使えるならばおまえは辛くてそしてかがやく天の仕事もするだろうけれどもいまごろちょうどおまえの年ごろでおまえの素質と力をもっているものは町と村の一万人のなかにならおそらく五人はあるだろう泰西著名の楽人たちが幼齢 弦や鍵器をとってすでに一家をなしたがようにおまえはそのころこの国にある皮革の鼓器と竹でつくった管とをとったそれらのどの人もまたどの人も五年のあいだにそれを大抵無くすのだ生活のためにけづられたり自分でそれをなくすのだすべての才や力や材というものはひとにとどまるものでない(ひとさえひとにとどまらぬ)云わなかったがおれは四月はもう学校にいないのだ恐らく暗くけわしいみちをあるくだろうそのあとでおまえのいまのちからがにぶりきれいな音が正しい調子とその明るさを失ってふたたび回復できないならばおれはおまえをもう見ないなぜならおれはすこしぐらいの仕事ができてそいつに腰をかけているようなそんな多数をいちばんいやにおもうのだもしもおまえがよくきいてくれひとりのやさしい娘をおもうようになるそのときおまえに無数の影と光の像があらわれるおまえはそれを音にするのだみんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときにおまえはひとりであの石原の草を刈るそのさびしさでおまえは音をつくるのだ多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌うのだもしも楽器がなかったらいいかおまえはおれの弟子なのだちからのかぎりそらいっぱいの光でできたパイプオルガンを弾くがいい
死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。
1・疲れてぶっ倒れるまで散歩をすること。
99人から賞賛を受けても、たった1人からでも罵倒を浴びれば、どうしても自分の意識は1人の人間に向かってしまう。そういう時は、99人の存在も簡単に見失ってしまう場合もあるけれど、多分、惑わされてはいけないのだと思う。何処に意識を向けるのかは、自分の意思で選択できるはずだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月27日
2・自分を使って相手を幸せにすることが愛情ならば、相手を使って自分を幸せにすることは執着になる。
仕事を変えても、パートナーを変えても、親子関係が変わらなければ何も変わらないのだと思う。親の価値観と自分の価値観は別物だから、そこはしっかりと分けて考えること、多分、分けることが許すことに繋がる【分けることができないから許せない】のだと思う。親は親。自分は自分。以上!!
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月30日
3・自分を大切に扱うということは、言葉を大切に扱うということだ。
4・死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。
死にたいのではなく『温もりに触れたい』のだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月29日
5・誰かを抱き締める時、同時に、自分も抱き締められている。
相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心を同時に傷つけている。目の前にいる人間を愛するようにつとめることは、そのまま、自分を愛することにもつながる。男と女とか、自分(自国)と他人(他国)とか、勝ち組と負け組とか、境界線に見えるもののすべては幻想で、全部、自分なんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月29日
6・何もしない優しさ。
何もしない優しさもあるのだと思う。相手に優しさを求めたり、相手にすぐに何かをしてあげたくなることは、時に「そのひと自身の中にある力」をダメにしてしまう。何もしなくても、誰の力を借りなくても、自分には既に力があるのだと信じられるようになることは、最大の優しさになると思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月25日
7・きっと、すべては流れている。
行雲流水の五月だ。 pic.twitter.com/iSwkuoTZPP
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月7日
8・天を相手にし、人を相手にするな。
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
9・毎日が出発で、毎日がゴールだ。
何度でも、何度でも、はじめるんだ。 pic.twitter.com/9yp08Cysez
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月2日
問答無用で、絶品です。
10・他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に、飛翔する翼がある。
俺はすごい人間なのだと【自分の正当性を】声高に叫んでいる間は、まだまだ、二流の人間なのだと思う。真に素晴らしい人間は、そのひと自身だけではない、一緒にいる人間にまで「自分には力があるのだ」と思い起こさせる。他者を貶めることで自身を高めるのではなく、共に飛翔する翼がある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月7日
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心と一緒に扉を開くのではなく、静かな勇気と共に開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月22日
大切なのは、出発することだ。
『ローズマリー軟膏』
『大とろ風さしみこんにゃく【feat.酢みそ】』
『長い旅の途上』
僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。
僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。
バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
偶然の一致に意味を見出すか、それとも一笑に付すか、それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。その大切な何かが、たましいというものだった。
一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい
寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。離れていることが、人と人とを近づけるんだ。
人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。
大切なのは、出発することだ。
この世に生きるすべてのものはいつか土に帰り、また旅が始まる。
大切なのは、出発することだ。
自分を殺して人に好かれるよりも、自分を出して人に嫌われる方がずっといい。不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶が思い出になる。自信や能力があるからやるのではなく、自信も能力もなくてもやる、やりたいと思ったからやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年5月3日
この一瞬のために生きていた。
風が、夏の香りを運んでくる。 pic.twitter.com/TRlYZ0O6MD
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月29日
自然を前に、自分が消える。
『若冲展@東京都美術館』
この一瞬のために生きている。
本当は何をしてもいいし、本当は何もしなくてもいいし、本当は何処に行ってもいいし、本当は何処にも行かなくてもいいのだと思う。しなければいけないことなんて本当は何ひとつなくて、ただ、自分で自分を縛っていただけなのだろう。疲れた時は眠ることだ。希望の光は、朝日と共に昇って来る。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
こんばんわ!⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。今日はお話会、ありがとうございました‼︎覚えてていただけた事、当たり前じゃないですか!のお言葉に感謝感激、ありがたき幸せです!圭吾さんのお話会ってどんなんだろう?と思い参加させていただいたのですが、色んな方がいらっしゃるんですね。皆さんすごいなぁと思いました。私はあの中で圭吾さんのお友達が言われたわたり子育てしてくれてありがとう!がとても響きました。わたり子育てについて私はよく理解出来ていなかったのですが菜々子への言葉も、圭吾さんのブログも子育てになってると聞いてすごく面白く感じ確かに、お母さんを通じて圭吾さんを知って奮闘するお子さんたちの話をブログで読んではなんだかすごく嬉しくなり、それは圭吾さんを通じて育っているという事なんだなと感じました。見方が違うとこんなにも素敵な事に気付けるんですね!楽しかった^ ^またどこかでお会いできればと思います。ありがとうございました‼︎
奈々子に。
奈々子に赤い林檎の頬をして眠っている 奈々子。お前のお母さんの頬の赤さはそっくり奈々子の頬にいってしまってひところのお母さんのつややかな頬は少し青ざめたお父さんにも ちょっと酸っぱい思いがふえた。唐突だが奈々子お父さんは お前に多くを期待しないだろう。ひとがほかからの期待に応えようとしてどんなに自分を駄目にしてしまうかお父さんは はっきり知ってしまったから。お父さんがお前にあげたいものは健康と自分を愛する心だ。ひとがひとでなくなるのは自分を愛することをやめるときだ。自分を愛することをやめるときひとは他人を愛することをやめ世界を見失ってしまう自分があるとき他人があり世界がある。お父さんにもお母さんにも酸っぱい苦労がふえた。苦労は今はお前にあげられない。お前にあげたいものは香りのよい健康とかちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心だ。
真善美の光を追い求めること。
朝日を迎え撃つために、今夜は下関で野営をします。関門トンネルを車で通過したのですが、トンネルを通るたびに「俺たちの生活は、血の滲むような先人の働きのうえに成り立っているのだなあ」と、物凄い感慨深くなります。それでは皆様、よい夢を!! pic.twitter.com/ntopJCOmcz
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月24日
世界が目覚めました。 pic.twitter.com/EvK6AZMogo
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月24日
有漏路より 無漏路に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け【一休宗純】
何もしない優しさもあるのだと思う。相手に優しさを求めたり、相手にすぐに何かをしてあげたくなることは、時に「そのひと自身の中にある力」をダメにしてしまう。何もしなくても、誰の力を借りなくても、自分には既に力があるのだと信じられるようになることは、最大の優しさになると思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月25日
真善美の光を追い求めること。
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
ロックンロールが大好きです。
1・言葉は音楽【詩】になる。
コミュニケーションは「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」の方が、多分、何億倍も大切だと思う。心のない言葉はどれだけ正論でも空疎に響くし、無様でも、心のある言葉には真実の響きが宿る。言葉はただの容れ物で、感情と合致した瞬間に『言葉は音楽になる』のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月21日
2・言葉を粗雑に扱うひとは、自分を粗雑に扱うひとだ。
私は常に心の乗った言葉を発しているだろうか。
— 村元聡美@足もみ師4/22-30名古屋 (@satomi_muramoto) 2016年4月21日
言葉を「盾」や「鎧」に使い、心を守ろうとしたことがある。でもその後には私の心が泣き、肚が怒り苦しんだ。
言葉に本当の心を乗せることは怖いけれど、その怖さを超えても、素直でいたい。 https://t.co/A5lXdsyFFn
3・被害者意識ほど醜いものはない。
他人の生き方にああだこうだと口を出す前に、徹底的に自分を真面目に生きれば、大概の問題はなくなると思う。自分の中身はカラッポなまま、ひとのことや世間のことばかりを気にして『あいつはこうだ(自分はこうだ)』と比較しなければ幸せになれないだなんて、これほど不幸なことはないよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月22日
4・はじまりの終わり【終わりのはじまり】
すべて「今」の積み重ねなのだから、いつも「これからどうするか」を選択できる。選んでみて違うと思ったら選び直せばいいし、やっぱりもう一度と戻ることも選択肢。選ぶ基準も、選んでいるのも、全部、自分なんだと思うと、人間て力強いと思う。 https://t.co/Be4UbPhtwH
— cao (@caorimy) 2016年4月19日
5・DO【何をやるか】よりBE【どのようにあるか】
答えはきっと奥の方
— 蕗 (@fuki_butterbur) 2016年4月19日
心のずっと奥の方
焦っていて周りの人に白い目で見られないようにちゃんとしようとして、引き受けて、出来なくて自己嫌悪して引きこもった。
ちゃんとしようじゃなくて
心の奥からのことをしよう
そう言われた気がした https://t.co/kapPZxXExY
6・中途半端な未練を断ち切ること。
中途半端な未練を断ち切ること。自分を停滞させているのは、自分の甘えだと認識すること。潔く、清々しく生きるためには「被害者意識」を捨てること。自分のために生きることが、誰かの力になることを信じること。不安や恐怖や猜疑心と一緒に扉を開くのではなく、静かな勇気と共に開くこと。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月22日
7・自分の人生を取り戻すこと。
お…
— 夏子。 (@natsukononatsu5) 2016年4月22日
すごいリアルタイムに刺さる…
被害者でいる限り本当になんも変わんない。 https://t.co/Zp9vtRYtW7
8・自分の好きなように生きればいいのだ。
本当は何をしてもいいし、本当は何もしなくてもいいし、本当は何処に行ってもいいし、本当は何処にも行かなくてもいいのだと思う。しなければいけないことなんて本当は何ひとつなくて、ただ、自分で自分を縛っていただけなのだろう。疲れた時は眠ることだ。希望の光は、朝日と共に昇って来る。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
9・タンポポの綿毛のようなフットワーク。
軽い気持ちで遠くに行こう。 pic.twitter.com/IPTJsZb0us
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
10・ロックンロールが大好きです。
人に嫌われるかもしれないとか、誰かに馬鹿にされるかもしれないとか、安定した生活を送れないかもしれないとか、自分の気持ちを理解してもらえないとか、自分には力がないとか、自分には金がないとか、自分には自信も技術も勇気も足りないとか、もう、そんなことはどうでもいいじゃないか。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
満足した豚に、狼の孤独は歌えない。 - いばや通信 https://t.co/WkNwKAlH6X
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月19日
坂爪圭吾さんこんにちは××の⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎です。昨日××に戻りました。その後もブログ興味深く読ませていただいています。物や人に呼ばれて、地球上を移動されている坂爪さんが動いた後が地図上に赤い線で、記録されある地点は濃密でぐちゃぐちゃとなっていて、ある地点は直線的で、という図が浮かんできて、それは私をものすごく楽しくさせます。私は坂爪さんと過ごさせていただいて、坂爪さんがつぶやきのように時折発せられる言葉のいくつかが、深く残っています。坂爪さん自身への問いであり、私や世界への投げかけのような。その中のひとつに「僕は人生もロックンロールってあるとおもうんですよね」という言葉があります。私もロックンロールは大好きで、私のする仕事はすべてロックでありたいな、と常々思っているのですが、坂爪さんをみていて思ったのは、ロックンロールとは常にぎりぎりであること、ぎりぎりの縁、端、にいること、リーディングエッジに自らを立たせるということ。目的があってそうするわけでなく、本人すらも先を予想していない。その結果、生み出されるものは常に最先端であり、前代未聞。私は坂爪さんと夜車に向かう時ふたりで並んで歩いていた時に坂爪さんからというか左側から圧倒的なyes を感じたんですよね。ものすごくすがすがしかった。すがすがしさを味あわせていただいてありがとうございました。私も⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎・⚪︎⚪︎と友達の家を転々としていて××の家は同居人が守ってくれているので坂爪さんがブログに書かれていた、家は女性(または女性生のある男性)に任せて、というのが本当にそうだな〜、って感じています。自分が何をしているのか、したいとおもっているのかが坂爪さんと過ごして少しわかりました。私もエッジに自らを立たせて前代未聞をやっていきたいとおもいます。そして縁(ふち)は縁(えん)という言葉でもあるという不思議。そんなことを今思っています。とても貴重な時間でした。ありがとうございました。心から。⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎
満足した豚に、狼の孤独は歌えない。
昨夜、配信したラジオ音声を公開しました。好きなひととは友達ではなく家族になる、次世代の『幸せ家族計画』をご覧ください!!
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月18日
前編https://t.co/J9OHhlC6Na
後編https://t.co/V6HgdIAgTK pic.twitter.com/G0vNxRXGzP
1・「生に対する執着」が消えた。
ひとりでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分はひとりではない」ということを思うようになった。死んでもいいという覚悟を決めてから、逆説的だけど「自分は生きているのだ」ということを強く実感するようになった。多分、大切なことは【自分は自分の足で立っている】ことだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年3月27日
2・居場所とは、場所ではなくて人間だ。
居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。 pic.twitter.com/Py2PBsLzWb
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
3・美しくないものは排除する。
いやだなあと思うものを受け入れることは、いやだなあと思うものに自分も加担をしていることになる。自分の心が「美しくない」と思うものには、明確な拒否を示すこと。いやだなあと思うことを続けていると、美しくないと思うものを受け入れてしまうと、自分の存在まで醜いものに成り下がる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月9日
4・根本的な人間の力に大差はない。
強い人間と弱い人間がいるのではなく、強いとされている行為に慣れている人間と、弱いとされている行為に慣れている人間がいるだけだと思う。ただ、当人としてはいちばん負担のない慣れ親しんでいる道を選んでいるだけ【発揮する力の先が違うだけ】で、多分、根本的な人間の力に大差はない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月18日
5・捨てなさい。
人は幸せになりたくて何かを求めるはずなのに、家族とか、恋人とか、家とか、金とか、仕事とか、常識とか、一般的な世間体とか、求めたものに縛られるほどに不幸になる。幸せになりたければ、求めるのではなく、捨て去ること。得るではなく、捨て去った先に残るものが幸福なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
6・自分の目で見たものを信じるひとと、自分は一緒にいたいと思う。
学校の授業よりも、職場の仕事よりも、雲や花や蟻や鳥の観察の方がずっと大切な時があるんだ。テレビや新聞の報道は信じられるのに、偉い学者や専門家の言葉は信じられるのに、誰かの噂話は信じられるのに、自分の目で見た感覚は信じることはできないだなんて、やっぱりちょっと狂ってるよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月16日
7・好きなひとに出会うことは、好きな自分に出逢うことだ。
ひとを失う悲しみとは、そのひとと再び会えなくなるさみしさだけではなく、そのひとの前でしか出てくることのなかった自分自身と、もう、二度と会えなくなってしまうことだと思う。何かを喪失する悲しみとは、多分、自分を喪失する悲しみだ。 pic.twitter.com/PazmoKOz1E
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月10日
8・生もよし、死もよし。
このひととなら幸せになれるかもしれないというつながりよりも、このひととなら別に不幸になっても構わないと思えるつながりの方が、多分、強い。幸も不幸もなんでも来い【別に不幸になっても構わない】と思っているその時に、もしかしたら、その人は幸せのど真ん中にいるのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月11日
9・大切にされたければ、絶滅しろ。
このひとでもいいかなと思うひとではなく、このひとといたいと思えるひとといること。 pic.twitter.com/vQ9AzKl5eO
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月15日
10・満足した豚に、狼の孤独は歌えない。
どのような状態に置かれたとしても、泣く道を選ぶのか笑う道を選ぶのかの選択肢は、常に自分の中に残されている。過剰な同情や自分に対する憐憫の念は悲愴感を生み、生きる力や前を向くための希望までも剥奪してしまう。大事なことは、取り戻せない過去よりも「どう生きるか」という未来だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月18日
生き方に答えはないのだから、多分、生き方に間違いもないのだ。
愛媛県今治市の家をどう使うか。
車を拾うまで帰れま10@日本編
『さよならソクラテス』
ソクラテス それなら、自分自身が誇りでない人が、どうして善く生きていることになるのかね。自分自身が善く生きていないことを知っているから、人は何かに誇りを求めるのではないのかね。善く生きている人は、何かに誇りを求めなくても、それ自体が誇りなのではないのかね。
主義者 少なくとも私は、誇りということを日本人に教えたいのです。
ソクラテス うん、そりゃ大いにけっこうだよ。だけど、善く生きることを教えるよりも先に、どうやって誇りを教えることができるのかと僕は言っているのだ。
主義者 ・・・・・。
ソクラテス 日本人であることに誇りをもてと教えれば、そりゃあもつかもしれないよ。だって、げんに日本人なんだから。そも自分に誇りをもてない人が誇りをもつ仕方としては、いちばん簡単なんだから。だけど、そもそも善く生きてはいないから誇りをもてない人々が、君の言う下劣愚劣な畜群のまんまで、いっせいに日本人であることに誇りなんかもったって、しょうがないんじゃないの。そのまんま戦争にでもなった日にゃ、どんなふうになるか、君たちはよくわかってるはずだがね。ー さよならソクラテス (P54・愛国心は誰のため)【新潮文庫】
生き方に答えはないのだから、多分、生き方に間違いもないのだ。
人は幸せになりたくて何かを求めるはずなのに、家族とか、恋人とか、家とか、金とか、仕事とか、常識とか、一般的な世間体とか、求めたものに縛られるほどに不幸になる。幸せになりたければ、求めるのではなく、捨て去ること。得るではなく、捨て去った先に残るものが幸福なのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
居場所とは、場所ではなくて人間だ。何かを愛する自分の心だ。自分のことを愛してくれる何かを求めるのではなく、自分から進んで愛していける何かを見つけること。愛される前に愛することができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になる。 pic.twitter.com/Py2PBsLzWb
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月13日
すべての美しいものは悲しみを内包している。それは「いつまでも永遠に見ていることはできない」という悲しみで、いま、この瞬間も二度とは戻らない日々の中にいるのだということを実感させる。そして、いまをしっかりと生きるんだよと語りかける。 pic.twitter.com/NMJwY8sfVP
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月5日
生き方に答えはないのだから、きっと、生き方に間違いもないのだ。 pic.twitter.com/OKZT4F0LjE
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月14日
殺してあげることが、優しさ。
人間の声には二種類ある。
ゴスロリ少女が少女になった。
『代表的日本人』
天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ。(P22・西郷隆盛)
国が飢饉を迎え、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は、治者以外にないではありませんか。その者は天民を託されているのです。民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。その職務の報酬として高禄を食(は)み、自分の家族を養い、一家の安全な暮らしがあるのであります。ところが今や、これほど歎かわしいことを天下に知りません。この時にあたり、よく救済策を講じることができればよし、もしできないばあいには、治者は天に対して自己の罪を認め、みずから進んで食を断ち、死すべきであります!ついで配下の大丈、群奉行、代官も同じく食を断って死すべきであります。その人々もまた職務を怠り、民に死と苦しみをもたらしたからであります。飢えた人々に対して、そのような犠牲のもたらす道徳的影響は、ただちに明らかになりましょう。(中略)国に飢饉がおこるのは、民の心が恐怖におおわれるからであります。これが食を求めようとする気力を奪って、死を招くのです。弾丸をこめてない銃でも、撃てば臆病な小鳥を撃落とすことがあるように、食糧不足の年には、飢饉の話だけで驚いて死ぬことがあるものです。したがって、治める者たちが、まずすすんで餓死するならば、飢餓の恐怖は人々の心から消え、満足を覚えて救われるでありましょう。群奉行や代官にいたるまでの犠牲をまたずに、よい結果が訪れると思います。このためには家老の死のみで十分であります。諸氏よ、これが、なんの手だてもないときに飢えた民を救う方法であるのです。(P103・二宮尊徳)
私どもは、クラスに分けて教えられることもなかった。魂をもつ人間をオーストラリアの牧場の羊のようにクラスに分けるようなことは、昔の学校ではみられなかった。人間は分類してまとめることのできないもの、一人一人、つまり顔と顔、魂と魂とをあわせて扱われなくてはならない、と教師は信じていたように私には思われるのだ。それだから教師は私どもを一人一人、それぞれのもつ肉体的、知的、霊的な特性にしたがって教えたのである。教師は私どもの名をそれぞれ把握していたのである。ロバと馬とが決して同じ引き具を着けられることはなかったので、ロバが叩きのめされて愚かになる恐れもなければ、馬が駆使されるあまり秀才の早死に終わる心配もなかった。現代にみられるような適者生存の原理にもとづく教育制度は、寛大で人を愛する君子(gentleman)の養成には向いていないように思われた。したがって、この点に関しては、私どもの昔の先生は、教育理論のうえではソクラテスやプラトンと同意見だった。ー 内村鑑三『代表的日本人(P113・中江藤樹)』【岩波文庫】
殺してあげることが、優しさ。
良い言葉「他人を斬る時は、返り血を浴びる事を覚悟しなければダメだ」 https://t.co/521qtEjCSc
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月9日
このひととなら幸せになれるかもしれないというつながりよりも、このひととなら別に不幸になっても構わないと思えるつながりの方が、多分、強い。幸も不幸もなんでも来い【別に不幸になっても構わない】と思っているその時に、もしかしたら、その人は幸せのど真ん中にいるのかもしれない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月11日
生もよし。死もよし。 pic.twitter.com/JDrC81SOIR
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月12日