大分県でピックアップした車をかっ飛ばして、いま、兵庫県の神戸界隈にいる。福岡空港から大分市内までの道のりは、福岡在住の女性二人組が(レンタカーを借りてまで!高速料金を負担してまで!)送り届けてくれた。初日の夜は2000円で購買したキャンプに寝袋を敷いて、美しい朝日が望めそうなポイントで野営をした。翌日の夜は、広島県尾道市在住の女性のご自宅に泊めていただき、帰り際には「下道は大変だと思うので、高速代に使ってください」と、お布施まで頂戴をしてしまった私は慟哭した。
朝日を迎え撃つために、今夜は下関で野営をします。関門トンネルを車で通過したのですが、トンネルを通るたびに「俺たちの生活は、血の滲むような先人の働きのうえに成り立っているのだなあ」と、物凄い感慨深くなります。それでは皆様、よい夢を!! pic.twitter.com/ntopJCOmcz
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月24日
昔、家のない生活を送っていた(家賃を払う経済的な余裕がなかった)頃、洞窟にテントを張って暮らしていたことがある。通常は屋内でするようなことを、ただ、屋外でやるだけでも楽しさや発見が増幅するから不思議だ。金もなければ仕事もない、何もない惨めな自分を憐れみかけていた時期もあるが、波の音を子守唄に、鳥のさえずりをモーニングコールにする生活にはそれなりの新鮮な潤いがあり、この時期、私は生まれてはじめて「朝日はこれほどまでに美しいものなのか!」ということを知った。
世界が目覚めました。 pic.twitter.com/EvK6AZMogo
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月24日
それ以来、私は、適当な場所を見つけては勝手に野営を営むことが趣味になった。スタバで飲む珈琲も美味いし、ヒルトンホテルのラウンジで飲む珈琲も美味い。しかし、海岸沿いのテントの中で淹れた珈琲を飲むのも、これはこれで、相当に美味い。誰もひとがいないことは、多分、最高の贅沢になる。「贅沢な珈琲を飲む」ではなく「珈琲を贅沢に飲む」ことが、私のような『貧民でも人生をフルスロットルで楽しむための、生きた知恵になるのではないだろうか』みたいなことを思っている。
有漏路より 無漏路に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け【一休宗純】
数日前、野営をするために静岡県熱海市の初島に行った。周囲4キロの初島は、徒歩で一周できる手頃な広さで、島の中には珍しい南国の植物が群生している。最近は、花とこどもに癒される日々を過ごしていた。花は、自分を主張することなくただ咲き誇り、こどもは無償で、無目的に、何の見返りも求めずにいまという瞬間に最大限のエネルギーを投入する。その姿を見ていると「俺も、まだまだだなあ」という気持ちになる。
花の王様「キング・プロテア」
島猫が登場した。
花と猫。
最終的に異様になついた猫に「お前もひとりなのか」と語りかける、私。猫も植物も小さなこどもも、多分、人間の言葉を理解しているのではないだろうかと思うことがある。かわいいねえと話しかければ、それに応えるかのように猫も植物もこどももすくすくと育ち、無視をしたり、無機質な扱いをすれば、それに応えるかのように猫も植物もこどもも無機質で乾いたものになる。
何もしない優しさもあるのだと思う。相手に優しさを求めたり、相手にすぐに何かをしてあげたくなることは、時に「そのひと自身の中にある力」をダメにしてしまう。何もしなくても、誰の力を借りなくても、自分には既に力があるのだと信じられるようになることは、最大の優しさになると思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月25日
自然が優しいのは、多分、何もしないからだ。
真善美の光を追い求めること。
車を走らせながら、珈琲を飲みながら、テントの中から星を眺めながら、なんのために人間は生きているのだろうかということを考えていた。いままで生きてきて30年余り、とてもじゃないけれど「誰かのお手本になるような生き方」なんて出来なかった。普通に働いていた時期もあったが、葛藤の苦しみは常につきまとい、何をしていても「生活のために生きるのは虚しい」という思いを拭い去ることはできなかった。
昔は素敵だと思っていたひとも、いまでは「お前も金か!」とツッコミをいれたくなる場面が増えている。生活のためとか、家族のためとか、将来のためとか、これらのすべては「金のため」を言い換えているだけにしか見えなかった。金銭の価値を否定したい訳ではなく、本来はただの手段であるはずの金が、いつの間にか最優先の目的になっているひとの姿を見ることが悲しかった。限りのあるこの命を、たった一度きりのこの命を、金のためだけに終わらせてしまうことが、私には「本当の生き方」だとは思えなかった。
それでは、本当の生き方とは何だろうか。究極のところ、金のためでもなく、世間的な評価のためでもなく、ただ、そのひとが見た『真善美の光を追い求めること』ではないだろうか。自分にとっての真実を、自分が善いと思うことを、自分の心が美しいと思える瞬間を、命のある限り追い求めようとしているその姿に、私は、憧れにも似た強い共感を覚えている。生活のためではなく、生命のために生きてこその人生だ。金も名誉も世間的な評価も二の次で、ただ、この世にひとつだけの小さな命を「これでもか!これでもか!」と燃やし尽くそうとしているその姿に、私は、強い感動を覚えているのだと思う。
ひとに理解を求めるよりも、天に恥じない覚悟を決めれば、自然と心は落ち着くはずだ。周囲の人々は散々なことを言うけれど、言い返すでもなく、見返してやるでもなく、自分は自分が思う誠実さのど真ん中を生き続けること。最悪を受け入れる覚悟を決めれば、多分、大概の問題はどうにかなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年4月23日
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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